吉田拓郎
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吉田 拓郎(よしだ たくろう、1946年4月5日 - )は、日本のシンガーソングライター、作詞家、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、フォーライフレコードの第2代社長である。
本名同じ。旧芸名は平仮名の「よしだたくろう」。楽曲提供者としては「入江剣[1]」の名を用いたこともある。
目次
人物
鹿児島県伊佐郡大口町(のちの大口市、現:伊佐市)生まれ、広島県広島市南区西霞町育ち。
学歴は鹿児島市立谷山小学校→広島市立皆実小学校→広島市立翠町中学校→広島県立広島皆実高等学校→広島商科大学(現:広島修道大学)。
夫人は四角佳子→浅田美代子→森下愛子。血液型A型。身長176.5cm。
竹田企画所属。レコードレーベルはエレックレコード→CBSソニー→フォーライフ・レコード→インペリアルレコード→avex trax。
日本のシンガーソングライターの草分け的存在であり[2][3]テンプレート:Sfn[4][5][6]、マイナーだったフォークとロックを日本の音楽シーンのメインストリームに引き上げた人物の一人とされる[7][8][9]。また、大規模ワンマン野外コンサート、ラジオの活性化、CMソング、コンサートツアー、プロデューサー、レコード会社設立など、多岐な活動を行うパイオニアとして、日本ポピュラーミュージック史における最重要人物の一人である[2][4][6][10][11][12][13][注釈 1]。
2000年2月号の日経エンタテインメント!の特集「J-POPの歴史をつくった100人」で、ポピュラリティーを得るために戦った“J-POPの開祖”と記される[14]。
来歴
生い立ち
1946年4月5日に、鹿児島県大口市で生まれる。両親は朝鮮羅南からの引き揚げ者で、出生地など、生い立ちの詳細は不明である[注釈 2][15]。父親は吉田家の養子で鹿児島県庁に勤務し、鹿児島の郷土史研究を仕事としていた。1955年に両親が別居し、立教大学に進学した兄と別居となり、母親は姉と拓郎を連れて広島に転居した[注釈 3][15]。幼少期から喘息持ちで体が弱かったため家にいる事が多く、母に本を買い与えられていたが、音楽に興味を持ったためウクレレを買ってもらい音楽を始めた。立教大学ジャズ研でピアニストを目指した兄が、休暇中に女性同伴で帰郷したのがきっかけで音楽に興味を持つようになった。
1962年に、皆実高校に入学し、級友と「トーン・ダイヤモンズ[注釈 4]テンプレート:Sfnというインストゥルメンタルバンドを結成、ウクレレのパートを担当した。1963年の高校2年の時、自宅に下宿していた広大生にクラシック・ギターを教えてもらい曲作りを始める。初めて作ったオリジナル曲は高校時代のマドンナのことを歌った「準ちゃん」である[16][17]。その後ビートルズの影響を強く受けてバンドはビートルズのコピー専門となる。バンド名を1964年に「プレイボーイズ」に変更した。
1965年に広島商科大学に入学し、カントリー&ウエスタン部と応援団に入部した。中学の同級生と新たに「ザ・バチュラーズ」を結成し、ドラムスを担当した。同年秋に初コンサートを開催し、ビートルズのコピーのほかオリジナル曲も演奏した。この年、メンバーと上京し渡辺プロダクションに売り込むがグループ・サウンズブームも未到来の時代であり、相手にされなかった[18][注釈 5]。ちなみに、この時チャーリー石黒が応対し、デビュー前の森進一がお茶を出した。
アマチュア期
- カレッジフォークブームを受け、バンド活動と平行してソロでフォークスタイルの活動を始めた。アコースティック・ギターの方が、作詞作曲がやりやすいと聞いたことがきっかけでもある。
- ソロでコロムビア洋楽部主催のフォークコンテストに出場[19]。中国大会2位であったが、7月24日に湘南・逗子海岸であった決勝大会に進出し[20]、自作曲『土地に柵する馬鹿がいる』を、針金を曲げて作った手製のハーモニカホルダーと改造した12弦ギターで歌うが、3位となりプロデビューはできなかった[20][19]。
- コロムビアの大阪営業所や洋楽部を訪れデビューを懇願したり、コロムビアの東京本社で社長の前で歌ったり、レコード会社に売り込むが全て不合格となる[19]テンプレート:Sfn。
- 『平凡パンチ』で「和製ボブ・ディラン」と紹介され広島で知名度が上がるが[21]、広島の音楽仲間からは批判も出て居心地も悪く、単身上京した[22]テンプレート:Sfn。しかし無理な生活がたたって栄養失調に陥り、帰郷する[23]。この影響で大学は1年休学し、5年間通うこととなる。
- 4人グループの『ダウンタウンズ』[24]を結成、ギターとボーカルを担当した。バンド名はペトラ・クラークの同名楽曲(邦題:恋のダウンタウン)からとった。広島市内のカワイ楽器を練習拠点にし定期的にここでコンサートを開く。
- 広島見真講堂で開催された『第1回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』中国地区大会ロック部門で優勝。広島市内のディスコやビアガーデン、海の家などから多数の出演依頼が入り、米軍岩国基地でも曲を披露したテンプレート:Sfn[25]。しかし、ベトナム戦争の侵略基地である岩国慰問が、参加資格のない演奏と抗議が寄せられ、カワイ楽器在籍バンドでもあったことから、ヤマハの関係者から全国大会への出場を辞退してもらえないかと申し入れられ、出場辞退したテンプレート:Sfn。
- 前年に引き続き『第2回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』に出場し中国地区優勝、ヴォーカル・グループサウンズ部門で全国4位となったテンプレート:Sfn。
- この年の春、拓郎の発案で広島の3つのフォーク団体がアマチュアフォークサークル『広島フォーク村』を結成[26]テンプレート:Sfn。年寄(顧問格)として参加し実質のリーダーであった。『沖縄フォーク村』を始め、各地に出来た「〇〇フォーク村」は、拓郎らが作った「広島フォーク村」に触発されて生まれたもの[27]。レコードも出していないのに地元ラジオにリクエストが殺到したため、NHK広島に出演したり中国放送でDJを担当したりした。
- 全国で最後まで激しい学園闘争を続けた広島大学のバリケードで囲まれたステージで『イメージの詩』を歌う[28]。演奏終了後、白いヘルメット姿の学生に取り囲まれ激しいアジを浴びせられた[29]。
- カワイ楽器広島店[30]に就職内定していたがテンプレート:Sfn[31]、上智大学全共闘のメンバー[32]が自主制作(ユーゲントレーベル)で「広島フォーク村」名義のアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を制作することになり参加したテンプレート:Sfn[33]。このアルバム制作も実質のプロデューサーだったといわれる[34]。長いタイトルは、アングラ・レコードであった象徴でもあるが、全共闘の闘争資金を得るための企画でもあった[34][33][35]。
- 1969年冬レコーディング後[36]、1970年3月頃ユーゲントレーベルから『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』が発売される。自主制作のため「広島フォーク村」メンバーによる手売りで販売されたテンプレート:Sfn。レコード制作に関係たエレックレコードが、拓郎の『イメージの詩/マークII』を本人無許可でシングルカットし関東広島地域でリリースしたが、本人抗議で音源を録り直すことになった。そこでエレックレコードの浅沼勇に口説かれ、「ダウンタウンズ」を解散し上京した[37][38]。
1970年代前半:よしだたくろう期(1970年 - 1974年)
エレック所属期
- 3月、「平凡パンチ」3月30日号に「120曲のニューフォークを創った"日本のボブ・ディラン"」という記事名で4ページに渡り特集記事が掲載される[8]テンプレート:Sfn。
- 4月、インディーズレーベルのはしりとも言うべきエレックレコードに契約社員として就職する。社員は6人ほどで、アーティストとしてではなく月給制の社員契約、初任給は3万5千円だった[注釈 6][39][40]。エレックはまともな仕事は取ってこれずテンプレート:Sfn、愛川欽也が司会をしていた子供番組のオーディションに参加し「イメージの詩」を歌って審査員の子供に落とされたり、NHKのオーディションで藤山一郎に落とされたりした[41]。
- 5月20日、1stシングル『イメージの詩 / マークII』が発売。3月に録り直した本人承認の再録が、実質のソロデビューシングルとなった[42]。
- 6月、『広島フォーク村アルバム発売記念コンサート』が東京厚生年金会館[43]で開催。
- 客はほとんどいなかったがテンプレート:Sfn当時イベントの企画などを手がけていた後藤由多加はこれを見て、その後請負コンサートなどに拓郎を起用した[44][45]。後藤はこれを機に拓郎の重要なパートナーとなるテンプレート:Sfn。
- 紹介記事を書いた朝日ソノラマが"ニュー・フォークの旗手"として紹介し、7月号から9月号に歌をソノシートにして付録に付けた[46][47]。レコード制作はエレック。このことを拓郎は後年「僕はソノシートでデビューしたんだ」と語っている。ソロデビューの仕方は曖昧だったが、もちろんソノシートでデビューしたわけでは無い。
- 10月28日、『70年フォークからロックへコンサート』(東京・虎ノ門ホール)出演。六文銭、岡林信康、ソルティーシュガー、頭脳警察、南正人、ヒデとロザンナほかと共演[48]。松下電器がスポンサーになっていたことが一部のファンを刺激した[48][49]。
- 4月25日、2ndシングル『青春の詩 / とっぽい男のバラード』発売。5ヶ月間、広島時代のバンド仲間と3人組のミニバンドでコンサートを行う。
- 『第5回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』の審査員を担当する。オーディションの審査員の仕事は、テレビ等に売り込みが出来ないための苦肉の策である。
- 6月7日、自身初のライブアルバム『よしだたくろう オン・ステージ ともだち』発売。本アルバムによって拓郎の人気に火がつき、12.3万枚を売り上げる[50]。
- 7月21日、3rdシングル『今日までそして明日から / ともだち』発売。
- 8月7日〜9日、『第3回全日本フォークジャンボリー』に出演。このパフォーマンスは拓郎を神話化したと言われるテンプレート:Sfn[52][53]。暴徒化した観客を恐れて岡林信康が逃げ帰ったため、フォークファンでは、岡林沈黙・拓郎台頭という世代交代を印象付けたと言われる[54]。拓郎もその期待に応えるように、以降、積極的なメジャー展開を図り、深夜ラジオのパーソナリティ→ビジネスライクな活動を行う音楽事務所の設立→大手レコード会社移籍を経て、ヒットチャートのトップに立ち、短期間でスターダムに登りつめる[54][55][56]。
- ニッポン放送「バイタリス・フォークビレッジ」のパーソナリティも担当(拓郎が担当した期間は不明だが、この番組自体は1966年から1972年まで)[57][58]。カレッジフォーク中心の曲構成をがらりと変え、番組テーマ曲も拓郎の曲に変更し、リスナーの詞に曲を付け歌う企画やアマチュアのコンテストなども行った。
- ラジオ関東「ニュー・ミュージック・ムーブメント」パーソナリティ(開始月、終了年月不明)。
- 10月8日、それまでワンマン・リサイタル形式のマンスリーコンサートでライブ活動を行っていた拓郎を中心にエレックレコードとニッポン放送がしかけた『唄の市・旗揚げ公演』(渋谷東横劇場)が開催される[62][63]。出演は拓郎の他、加藤和彦、六文銭、ピピ&コット、泉谷しげる、万華鏡、古井戸[64]。拓郎は『ユイ音楽工房』の設立でエレックとの関係が悪くなっていたが、泉谷へのスムーズなバトンタッチをするため『唄の市』に協力した[62]。『唄の市』は人気を博しその後全国展開された[65]。
- 11月20日、ロックやR&B的ナンバーをいっそう増やした[66]2ndアルバム『人間なんて』を発表。30万枚を売上げ、前の2枚のアルバムも引きづられて30万枚を売上げ、ひと月で60万枚売れた[50]。
CBSソニー(オデッセイレーベル)所属期
- 1月 - CBSソニーに移籍し、アーティスト兼プロデューサーとして契約を結ぶテンプレート:Sfn。大手への移籍にフォーク仲間からの評判は悪かったテンプレート:Sfn。
- 1月21日 - 移籍と同時に4thシングル「結婚しようよ」を発売し、オリコンチャート3位、40万枚以上を売りあげ、“フォークのプリンス”として、女子中高生人気が高まった[68]。それまでは男子大学生の観客中心であった[68]。
- 4月20日 - 南こうせつに頼まれてプロデュースした、かぐや姫のデビューアルバム『はじめまして』が発売[69]。
- 6月 - 長野県軽井沢の「聖パウロ教会」で四角佳子と結婚式を挙げた[70]。「町の教会で結婚しようよ」など、若者の新しいライフスタイルを表現した歌は、ブライダル業界にも大きな影響を与えた[71]。
- 7月1日 - 5thシングル「旅の宿」発売。60万枚を売り上げ、初のオリコンチャート1位を記録(5週連続)[70]。なお、この「旅の宿」のヒットの最中に「テレビ出演拒否」を行った[72]。
- 7月5日 - サイケデリック・ロックバンド[73]・ザ・モップスに提供した「たどりついたらいつも雨ふり」がシングルとして発売される[74]。
- 7月21日 - 3rdアルバム『元気です。』発売[75]。40万枚以上の売上を記録し[76]、オリコンアルバムチャート14週連続(通算15週)1位を獲得した[75]。
- CBSソニーとプロデューサー契約を結び、ワンマンレーベル『Odyssey』を立ち上げた[60][77]。当時大レーベルの中に個人レーベルを持つことは画期的な事だった。
- 7月〜10月 - 若尾文子主演の連続ドラマ『おはよう』(TBS)にレギュラー出演[78]。
- 8月21日 - 拓郎がプロデュースしたフォークグループ・猫のシングル「雪」がレーベル『Odyssey』から発売[79]。
- 10月28日 - 斎藤耕一監督の松竹映画『旅の重さ』が公開される。拓郎は音楽を担当し「今日までそして明日から」が使われた[80][81]。
- 12月21日 - 6thシングル「おきざりにした悲しみは / 花酔曲」発売。
- 12月 - ライブアルバム『たくろうオン・ステージ第二集』をエレックレコードが発売。しかし本人に無許可だったため発売中止となり、以降も、CD化されていない。
- 12月 - NHKの歌謡番組『歌謡グランドショー』に出演[82][注釈 9]。
- レコード大賞歌唱賞にノミネートされたが、大衆賞に回され最終投票で橋幸夫24票、井上順21票、天地真理17票に次ぎ16票で最下位となった[83]。
- 1月 - 前年バックバンドを務めた柳田ヒロのグループを発展させ"新六文銭"を結成。メンバーは小室等(ギター)、柳田ヒロ(キーボード)、後藤次利(ベース)、チト河内(ドラムス)、拓郎(リードギター)。
- 3月 - 由紀さおりに「ルーム・ライト (室内灯)」を提供[84]。
- 4月 - 月刊明星が歌詞を公募し、拓郎が曲をつけた天地真理「さよならだけ残して」が、天地のアルバム『若葉のささやき/さよならだけ残して』に収録された[85]。明星編集部の懇意の編集者が支援していたためコラボが実現した[86]。
- 5月23日 - 4月18日の金沢公演の夜に女子大生暴行されたと訴え、逮捕される。結局、虚偽であることが判明して不起訴となり6月2日に釈放された。釈放の日、刑事たちからサインをせがまれた[87]。マスコミのバッシングにあい、ツアーのキャンセル、曲の放送禁止、他人への提供曲も放送禁止、CM(スバル・レックス(富士重工)、テクニクス(松下電器))の自粛といった処置がとられた[88]。
- 6月1日 - 独房に勾留中だったが、4thアルバム『伽草子』を発売し、前作に続きチャート1位を記録。
- 6月3日 - 釈放の翌日であったが、神田共立講堂のステージに立つ[注釈 10]。この日を境に“帰れコール”は消えた[89] テンプレート:Sfn。「明星」編集部は、不起訴後、いち早く拓郎の独占自筆手記を掲載した[90]。
- 6月21日 - 7thシングル「伽草子/こんなに抱きしめても」発売。
- ラジオレギュラー『拓郎の気ままな世界』(TBSラジオ、放送開始、終了年月日不明)『放送タレント紳士録』(自由国民社、1973年)「年間DJベスト10」で落合恵子に次ぐ2位(3位谷村新司)[91]。
- 12月5日 - 8thシングル「金曜日の朝/子供に」発売。
- 12月21日 - ライブアルバム『LIVE'73』を発売。
- 現在まで脈々と続く "日本のビートルズ(そっくりさん)・バンド" の草分け、ザ・バッド・ボーイズにデビューシングル曲「ビートルズが教えてくれた」他1曲を提供[92][93]。メンバーの一人・清水仁が後にオフコースに参加。
- 1月15日 - 楽曲提供した森進一のシングル「襟裳岬」が発売される。金沢事件以降、森進一からの依頼で[注釈 11][94]テンプレート:Sfn久しぶりの楽曲提供となった。
- 3月 - ユイ音楽工房が新宿二丁目から原宿表参道交差点に移転。
- 5月 - 広島フォーク村の後輩である「愛奴」をバックバンドに従え春と秋に全国縦断ツアーを敢行[95]。
- 7月1日 - かまやつひろしとデュエットした9thシングル「シンシア」発売。
- 8月21日 - 楽曲提供した浅田美代子のシングル「じゃあまたね」発売。
- 9月 - 吉田拓郎のオールナイトニッポンパーソナリティを務める。(- 1975年12月)
- 11月12日 - 『ミュージックフェア』(フジテレビ)で、かまやつひろし、南沙織と共演[96][97]。
- 12月1日 - 沖縄市営体育館でかぐや姫とジョイントコンサート[98]。沖縄返還後、人気者2組でのコンサートは初めてで人が会場から溢れる。翌年のつま恋は、このコンサートのイメージがあったといわれる[98]。
- 12月10日 - 5thアルバム『今はまだ人生を語らず』を発売。3作連続オリコンアルバムチャート1位を獲得。
- 12月31日 - 「襟裳岬」が第16回日本レコード大賞受賞。上下ともジーンズの普段着で登場し、平然と賞を受け取ったテンプレート:Sfn。
1970年代後半(1975年 - 1979年)
- 2月5日 - 作詞作曲を担当したかまやつひろしのシングル「我が良き友よ」がオリコン1位を記録し、70万枚の大ヒット。
- 4月 - フジテレビの幼児向けバラエティ『ひらけ!ポンキッキ』から市販された第1弾シングル・「たべちゃうぞ」の作曲を担当する。
- 5月10日 - 拓郎が1973年在籍した新六文銭が発展して結成されたロックバンド・トランザムに「あゝ青春」を提供[99]。本曲はMCA出版の加藤悠と後にゴダイゴをプロデュースするジョニー野村が「ロックをメジャーにしたい」と拓郎に楽曲提供を依頼したもので[99]、インストゥルメンタルバージョンがこの年4月2日から放送された中村雅俊・松田優作主演の刑事ドラマ『俺たちの勲章』の主題歌となった。また、拓郎の歌唱でこの年のつまコンサートのオープニングで歌われた。
- 5月 - 高額納税者番付1974年度納税分で、歌手部門にフォークシンガーとして井上陽水とともに初のランク入り(拓郎5位、陽水7位)[注釈 12][100]テンプレート:Sfn。
- 6月1日 - CBSソニーの拓郎が、ポリドールの井上陽水、エレックの泉谷しげる、ベルウッドの小室等と共に、アーティストの手になる初めてのレコード会社[59]『フォーライフ・レコードを発起した[4][101][44][102]。これを記に「吉田拓郎」と改名。
- 9月21日 - TBS単発ドラマ「なつかしき海の歌」出演[注釈 13]。
- 9月25日 - シングル「となりの町のお嬢さん」発売。フォーライフレコードから初めて出したシングル。
- 12月 - オールナイトニッポン最終回で四角佳子との離婚を発表[103][注釈 14]。
- この年森山良子に提供した「歌ってよ夕陽の歌を」は森山の新境地を切り開き、再び"フォークの女王"に戻した曲[104]。堺正章「明日の前に」は「寺内貫太郎一家2」(TBS)の挿入歌。山田パンダ「風の街」は当時、人気絶頂だったアイドルたちが、拓郎ゆかりの原宿ペニーレインなどを舞台に繰り広げるTBSの青春ドラマ『あこがれ共同隊』の主題歌で[105]、視聴率は振るわなかったが、拓郎の他、フォークシンガーが大挙劇中に出演しアイドルたちと絡むという新しい内容ではあった[106]。
- 3月25日 - シングル「明日に向って走れ/ひとり思えば」発売。
- 3月 - 久世光彦が初めて音楽番組の演出を手がけた『サンデースペシャル/セブンスターショウ』(TBS系)に出演[注釈 15]。
- 4月 - フォーライフ第1回新人オーディションでグランプリを獲得した川村ゆうこをプロデュースし、拓郎作品「風になりたい」でデビュー。本楽曲は拓郎自身「自分で作った曲で一番」と述べている[107]。
- 5月 - 6thアルバム『明日に向って走れ』発売。オリコン3週連続1位。
- 夏の全国ツアーに松任谷正隆と荒井由実が帯同し「結婚しようよ」では、拓郎のバックで松任谷正隆がアコーディオン、荒井由実がオルガンを弾いたテンプレート:Sfn。二人は同年11月に横浜で挙式。
- 9月21日 - 楽曲提供した梓みちよ「メランコリー」発売。オリコン週間11位、1977年度年間59位を記録。
- 11月 - 小室・拓郎・陽水・泉谷ら4人のスプリット・アルバム『クリスマス』発売。初回プレス30万枚、オリコンで1週のみ1位となったものの、累計が10万枚にも満たず、フォーライフの屋台骨を揺さぶる事となった。
- 12月5日 - シングル「たえこMY LOVE」発売。
- 3月1日 - 楽曲提供したキャンディーズのシングル「やさしい悪魔」(オリコン週間4位)発売。この年、キャンディーズが解散を発表。拓郎は「やさしい悪魔」「アン・ドゥ・トロワ」他を提供し、渡辺晋からの依頼といわれる“キャンディーズ大人計画”に応えた[110]。テンプレート:Main2
- 3月 - フォーライフは2年目の決算で8億円の赤字を出す。
- 4月25日 - カバーアルバム『ぷらいべえと』を発売。カバーアルバムとして史上初のオリコン1位を獲得。この年のフォーライフのアルバムの中で最大のセールスを記録するテンプレート:Sfn。
- 6月 - 小室に代わり、フォーライフ2代目社長に就任。
- 7月 - 浅田美代子と再婚。
- 9月10日 - 井上陽水が大麻所持(大麻取締法違反容疑)で逮捕。社長として記者会見で平謝りし、嘆願書を集めて東京地検に日参するなど陽水の救済に尽力した[111]。
- 9月21日 - 楽曲提供したキャンディーズのシングル「アン・ドゥ・トロワ」(オリコン週間7位)発売。
- 11月1日 - なかにし礼にアルバム製作を依頼し『マッチ箱の火事』がフォーライフから発売。
- 11月25日 - アルバム『大いなる人』発売。
- 12月10日 - シングル「カンパリソーダとフライドポテト/あの娘に逢えたら」発売。
- 収録曲「カンパリソーダとフライド・ポテト」の影響でカンパリソーダが認知された。
- また前年のフォーライフ第1回新人オーディションに応募してきた原田真二のプロデュースを手がけた。
- 4月 - 「セイ!ヤング」パーソナリティを務める(〜1980年3月)。全ラジオ在京キー局の深夜放送を制覇した唯一のパーソナリティになった[112]。
- この年5月から翌年にかけて放送されたTBSのドラマ『ムー一族』で、郷ひろみが演じた役名・宇崎拓郎は、拓郎からとったもの[113]。
- 6月10日 - シングル「舞姫/隠恋慕」発売。「隠恋慕」はテレビドラマ『たんぽぽ(第5シリーズ)』(日本テレビ系列)の主題歌。
- 10月 - 東京キッドブラザースのミュージカル『かれが殺した驢馬』の作曲を担当する。
- 11月21日 - 2枚組アルバム『ローリング30』発売。
- この年の楽曲提供のうち、清水健太郎「さらば」は1975年に萩原健一に書いたが萩原とケンカして清水にまわったといわれる[注釈 16]。
- 2月 -『たくろうオン・ステージ第二集』収録の「ポーの歌」が浜口庫之助の曲の盗作と報じられる。
- 拓郎自身は初めからオリジナル曲とは言っていなかったが『たくろうオンステージ第二集』を無許可でリリースしたエレックが吉田拓郎作詞・作曲とクレジットしてしまったというのが真相[116]テンプレート:Sfn。
- 4月? - 「セイ!ヤング」テーマソング第二弾『夜を横切る君には』(作詞:松本隆、作曲:拓郎、歌:滝ともはる)を手掛ける[117]。
- 5月5日 - シングル「流星」(TBS系ドラマ「男なら!」主題歌)発売。
- 7月26日〜27日 - 愛知県篠島にて「吉田拓郎 アイランド・コンサート in 篠島」を開催。
- 秋から全国ツアー。このツアーでアンコールが単なるお約束と化していることに異を唱え、アンコールをやらなかった。しかしこのツアー1回限りだったテンプレート:Sfn。
- 12月31日 - 日本青年館でライブ「Hello 80's Good-bye70's SUPER JAM」を開催しフジテレビで生放送された。このライブで「古い歌は一切歌わない」と宣言したが[52][118][119]、翌年春のツアー1回限りで撤回。アンコールが叫ばれたが、拓郎は70年代最後の夜のステージには二度と姿を現さなかった[120]。
1980年代
- 4月15日- 『TOUR 1980』(春のツアー)スタート(20カ所20公演、〜7月17日まで)。本ツアーでは過去の曲を一切やらず、全て新曲で通したテンプレート:Sfn。
- 5月10日- 過去との決別を宣言し、自身初めての海外録音作品である『Shangri-La(シャングリ・ラ)』を発表。
- 10月 - 二回目のオールナイトニッポンパーソナリティ(〜1982年3月まで)。
- 11月5日 - シングル『元気です/証明』、スタジオアルバム『アジアの片隅で』を発売。
- 3月13日 - オールナイトニッポンにて「吉田拓郎死亡放送事件」が発生。
- 4月5日 -資生堂のタイアップ シングル『サマーピープル/二十才のワルツ』発売。
- 8月5日 - 覆面バンド・ビートボーイズ(BEAT BOYS、1988年以降はBE∀T BOYS)が「スターズオン23 吉田拓郎」(後に「ショック!!TAKURO 23」に改題)発売。
- 浅田美代子と協議離婚。
- 6月15日 - 国立競技場で5万人の観客を集めて開催された国際青年年(IYY)記念イベント"ALL TOGETHER NOW"を小田和正とともに中心になって企画運営。当日は司会を担当。
- 7月27日〜28日 - オールナイトコンサート『ONE LAST NIGHT IN つま恋』開催。
- 同年、映画『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』に高杉晋作役で出演(映画公開は翌1986年正月)。
- 1月1日 - プライベート・オフィス、宇田川オフィス設立テンプレート:Sfn。
1990年代
- 8月16日 - 『日本をすくえ'94 〜奥尻島、島原・深江地区救済コンサート〜』(日本武道館)出演。テレビ放送される。
- 12月31日 - 『第45回NHK紅白歌合戦』に初出場。
- 10月19日 - 音楽バラエティー番組『LOVE LOVEあいしてる』(フジテレビ系列)スタート。レギュラー出演しKinKi Kidsと共に司会を担当した。
- テレビ嫌いで有名だった拓郎がテレビのレギュラー番組に出演することが注目を集めた。
- この番組では坂崎幸之助と共にKinKi Kidsにギターを指導し、彼らの音楽活動に多大な影響を与えた。
- 7月29日 - 「LOVE LOVE あいしてる」のテーマ曲であり拓郎が楽曲提供した「全部だきしめて」が収録されたKinKi Kidsのシングル『全部だきしめて/青の時代』が発売。
- オリコン4週連続1位・1998年度シングル売上10位を記録。
- 拓郎にとって初の提供作品ミリオンセラーと1975年(昭和50年)のかまやつひろし「我が良き友よ」以来となる提供作品によるオリコンチャート1位を達成した。
- 9月30日 - フォーライフレコードとの専属アーティスト契約を解消。
- 10月21日 - 『マジカルミュージックツアーCountdown2000「吉田拓郎スペシャル」』(ニッポン放送) - 2000年日本民間放送連盟賞優秀賞受賞[122]。
- 11月3日 - ベストアルバム『吉田拓郎 THE BEST PENNY LANE』発売。オリコン週間7位を記録。
- 12月31日〜翌年1月1日 - 『ワールドカウントダウンスーパースペシャル24時間まるごとライブLOVE LOVE2000〜世界中の子供たちに僕らが愛でできること』(フジテレビ系)司会者として出演。
2000年代
- 4月 - インペリアルレコードに移籍。
- 4月 - 肺ガン手術。春ツアーをキャンセル。
- 春、30年来の夢であったビッグバンド形式でのコンサートツアーを目前にして、健康診断で肺がんが見つかった。すぐに手術、コンサートツアーは延期となった。手術は無事成功し、秋には復帰コンサートで全国に元気な姿を見せた。これを機に禁煙。ビッグバンドでのコンサートツアーはこの年から2006年まで毎年行われた。
- 9月23日 - 31年ぶりにつま恋でかぐや姫とのコンサート『吉田拓郎 & かぐや姫 Concert in つま恋 2006』を開催。
- 7月20日 - フジテレビ系列「僕らの音楽」出演。KinKi Kidsと対談する[123]。
- 2月24日 - 「俺たちのオールナイトニッポン40時間スペシャル」にパーソナリティの一人として出演し、4ヶ月ぶりに仕事復帰[124]。
- 8月3日 - 母校である広島修道大学(旧広島商科大学)で在学中に作詞作曲した「今日まで そして明日から」の歌詞と1970年代の拓郎の写真が組み合わされた歌碑が完成し披露された。
- 2月10日 - avexに移籍[10][注釈 17]。
- 4月15日 - 30thアルバム『午前中に…』を発売。オリコンアルバムランキングで初登場6位を記録。
- 6月21日 - 生涯最後の全国ツアー『Have A Nice Day LIVE 2009』(10ヶ所10公演)をスタート。4公演は滞りなく行われる。
- 7月8日 - 大阪公演の約45分前に体調不良を訴え公演中止が決定した。診察の結果、慢性気管支炎の悪化で約2週間の自宅療養が必要との診断を受け、福岡、広島、神戸の3公演は中止となった。
- 7月23日 - つま恋へ移動する車中で体調の異変を訴え、その日の内に残り2公演の中止が決定。「最終となるツアーがこのような結末となり本当に無念であります」という一文で始まるコメントを発表した[125]。
2010年代
- 1月30日 - 前年のライブを収録した『吉田拓郎 LIVE 2012』(Blu-ray・DVD・CD付DVD)発売。オリコン週間DVDランキング総合6位を記録し、TOP10入り史上最年長(66歳10ヶ月)を記録した[126]。
ディスコグラフィ・楽曲提供・書籍
ライブ
シンガーソングライターとして
音楽性
- 政治性を排除
- 自身の生き方や恋愛体験などをテーマにした拓郎の歌は、従来のフォークファンからは“大衆に迎合して軟弱な歌を歌っている”“商業主義”“裏切り者”“堕落した”などと批判され、ジョイントコンサートなどの会場では激しい“帰れコール”[注釈 18]を浴びることも多かった[4][127][128][129]。
- 1972年4月22日に日本武道館で行われた「フォーク・オールスター夢の競演音搦大歌合戦[130]」なるイベントでは、岐阜の山から降りて久しぶりにステージに立った岡林信康の後に登場した拓郎に激しい“帰れコール”が浴びせられ歌が聞こえないほどであったテンプレート:Sfn[131]。またビール瓶などモノを投げつけられ本当に帰る事もあったという(慶應三田祭事件)[132]テンプレート:Sfn[133]。当時は客席から罵声が飛ぶことは珍しくなく、拓郎のステージに罵声が飛ぶのは日常茶飯事だった[134]。拓郎はフォークシンガーで初めて女性ファンが付いたスターで[7][68][135]、雑誌に「よしだたくろうのコンサートには、女学生が多くて、フォーリーブスのコンサートみたいで、とにかくムナクソ悪い」などと書かれたテンプレート:Sfn。
- 罵声が飛んでも歌い続ける姿勢が、支持者を増やしたとされる[134]。全ての若者がプロテストの臭いがするフォークを支持しているわけではない中、多数の“普通の“同世代の若者から熱狂的な支持を受けた[136]。フォークシンガーが内省的となる傾向のある中で、平凡でストレートに思いを表現する潔さがあったとされる[134]。北中正和は「1972年に連合赤軍 あさま山荘事件が起こり、彼らのリンチ殺人事件が発覚すると、学生運動に何らかの共感を抱いていた人たちの気分も引いてしまった。1960年代の余燼はどんどん消えていった。吉田拓郎の人気浮上は、そんな世相の変化を感じさせた」と論じている[55]。寺島実郎は「吉田拓郎の『結婚しようよ』と井上陽水の『傘がない』を聴いたとき、『政治の季節』が終わったことを確認した」と論じている[137]。 菊池清麿は「吉田拓郎の登場は、自作自演のスタイルはもちろんのこと、世代感をアピールする強烈なリアリティーを持つ新しい若者文化だった。これによってフォークの形態が大きく変わった」と論じている[138]。
- 南田勝也は「吉田は、上の世代に対抗する意識が非常に強く、上の世代がフォークの理念に縛られてできなかったビジネス展開を恣意的にやってみせたという側面がある。政治優先主義的な聴衆を嫌い、意図的に『音楽』から『政治』を排除しようとしていた。政治などはもう問わない、というモチーフは『私は狂っている』『ともだち』『親切』『祭りのあと』『おきざりにした悲しみは』などの初期作品で繰り返し表出している。中でも彼の姿勢を示すものとして注目されたのが『元気です。』のライナーノーツである[注釈 19]。沈黙を選んだ岡林らに比べて、吉田は『ありきたりの若者の日常や苦悩を歌っただけの青春歌』という自分に与えられたレッテルを逆に利用して、音楽に対する自身の姿勢の正当性を顕示していた。ただし、彼はフォークを否定するが、実際に否定したものは『プロテストソングとしてのフォーク』であり、『自分の思ったことを自分の言葉で歌う』という、そもそものフォークの理念は遵守しようとしていた」「CMソングを手がけて歌謡曲サイドへの楽曲提供をする一方で、我の通らなくなる恐れのあるテレビ出演や芸能界の付き合いは拒否し、自作自演のフォークのアーティストイメージを守っている。桜井哲夫は、吉田拓郎の新しさは、歌謡曲やCMソングへの楽曲提供などによって『フォーク対歌謡曲、CM音楽対レコード流行歌の区分が揺らぎ、融合してゆく』切っ掛けを作った点にあるとしているが、むしろ、そういう行為を行っても自主独立のシンガー像を守れることを証明した点に新しさがあるというべきだろう。吉田はシンガーソングライターのより純化されたイメージをクローズアップする役割を果たした。ただし、フォークのアングラ気質と政治の要素を『全否定』する役回りを伴ってである」と論じている[54]。
- 自作自演スタイルの一般化
- ダンガリーのシャツにジーパン、ギブソンのギター、ハーモニカ・ホルダーを首にかけ[139]、歌詞カードを譜面台に乗せ座って歌う[140]、うつむいてボソボソと喋り、時々客席をむいて何かを叫ぶという拓郎のスタイルを多くの若者がまねた[141][142]。
- それまで自作自演は一部のフォークだけだったが、拓郎以降、それが一般化したテンプレート:Sfn。1970年代から、少なくともフォークやロックは自作自演であることが大前提になっていくが、拓郎はそのきっかけになったテンプレート:Sfn。
- 拓郎の効果でギター、ダンガリーのシャツ、ジーパンが非常に良く売れたテンプレート:Sfn[143][注釈 20]。拓郎以前は外国人ミュージシャンのコピーが主流であったが、拓郎以降は拓郎をコピーする若者が増えたテンプレート:Sfn[144][145]。拓郎がフォークの大ヒットを出したことでブームは中学生にまで及んだ[146]。誰でも拓郎になれる、と当時の若者は信じた[147]。
- 拓郎フォロワーについて
- 前述の南田勝也は、日本に於けるボブ・ディランの役割を果たした二人の人物、岡林信康と吉田拓郎を対比させて「商業主義に反対する岡林信康と折り合いをつける吉田拓郎、もしくは、政治的なものを背負う岡林信康と非政治的にふるまう吉田拓郎。フォロワーたちは、自分が作品生産をおこなっていく日本のポピュラー音楽の空間で、岡林と拓郎のどちらかのタイプを選ぶかという問題に直面する。前の世代の苦しみを背負う必要のない世代が強みを持っていた1970年代には、当然ながら吉田拓郎が選ばれ『売れて何が悪い』という言葉の正当性は全面的に認められる。そして『政治状況に積極的な関わる』岡林の資質は全否定されるのである」「以降、コマーシャリズムやビジネス優先の問題に関しては『こだわること自体が愚かしい』ことになっていく。拓郎自身は、勝手気ままにメッセージソングや辛辣な人生ソングもレパートリーとする。しかし先述した象徴的効果によって、彼は脱政治性を肯定した代表人物として取り扱われる。数年のうちに、彼の開いた扉をくぐりぬけるようにして、ガロの『学生街の喫茶店』、チューリップの『心の旅』、かぐや姫の『神田川』、井上陽水の『夢の中へ』、ウィークエンドの『岬めぐり』などがセールス的に成功を収め、新しい潮流が形成される。その多くは情緒的な心情描写や風景描写を想起させる作風を持ち『プロテストフォーク』とは対比的に『抒情派フォーク』と呼ばれる。こうして若者文化に理解を示す大手企業の管轄下にあるフォークレーベルの設立や、新興プロダクションの参入を経て、フォークは完全にマーケットを確立するのである。貧病苦の重さを一切背負わないことを歌世界の約束事とするニューミュージックやシティミュージックが、1970年代から1980年代に渡ってポピュラー音楽のメインストリームを形成していったのである」と論じている[54]。
- シンガー・ソングライター
- シンガー・ソングライターという名称は、拓郎の登場で生まれた言葉である[5]テンプレート:Sfn[148]それまでは、あえていえば"自作自演"といういい方をしていた[149][150]。
- シンガー・ソングライターという名称は、吉田拓郎や井上陽水らの活躍で、世に広まったテンプレート:Sfn。
- シンガー・ソングライター"という言葉が日本の音楽界で注目された1972年、内田裕也が「いま、シンガー=ソングライターっていわれてる連中がやってることを見てると、昔、ロカビリーがだんだん歌謡曲になった、井上ひろしの『雨に咲く花』とかと同じような道を歩んでいる。だから、あんなの長続きしない」などと発言[151]。これを受けニューミュージック・マガジン誌が1972年6月号で、中村とうよう司会、内田と拓郎とはっぴいえんどのマネージャー・石浦信三の3人による論戦を企画。しかし内田が都合で欠席したため論戦にはならなかった事があった[152]。
- 永六輔は、作詞をやめたきっかけを「井上陽水や吉田拓郎、小室等といったフォークソングが台頭し、自分の言葉を自分で演奏して歌う彼らの方が正しいあり方だと思ってやめた」と話した[153]。
- 筒美京平は『結婚しようよ』について「生まれて初めて怖いと思った」「このままでは職業作曲家はいらなくなるのではないかと思った」と話している[154]。拓郎は「自分が好きになった曲は、作家の名前を見ると全部、筒美京平だった」と話している[155]。
- ニュー・フォーク
- YOUNG GUITARは1970年7月号で、長谷川きよし『別れのサンバ』、拓郎の『イメージの詩』、ベッツィ&クリス『白い色は恋人の色』を例に挙げて"ニュー・フォーク"を説明しているテンプレート:Sfn。ここで"ニュー・フォーク"とは、従来の現実をやたら酷く解釈し、自分の弱さの隠れ蓑を求めさせるようなものでなく、現実の社会からかけ離れることなく、身近なテーマから将来の夢を結ぶような橋にあたるドラマを設定できる歌、と説明している。拓郎のギターそれ自体は従来のフォークにリズム&ブルースのフィーリングとビートが加わっただけのもので、新しいものではないが、自分の最も得意なギター伴奏の上で、本当の心の歌を歌いあげている。素晴らしい詩人であり音楽家であり、とうとう日本にも真のフォーク・シンガーが生まれたと評しているテンプレート:Sfn。
- 新譜ジャーナルは1972年3月号で、拓郎ら新たに台頭してきたフォーク・シンガーをまとめて"ニュー・フォーク-第三の流れ"と紹介した[156]。
- この"ニュー・フォーク"という言葉は、1970年頃から使われた"ニュー・ロック"から派生した言い方と思われるが、現在はどちらも死語のようになっている。しかし当時は一般の週刊誌などでも使われ流行した[157]。
- "第三の流れ"というのは、アングラフォーク、カレッジフォークに続く流れという意味で、1970年代のフォーク、ニューミュージックは拓郎を突破口にした、このニュー・フォークの流れをくむものテンプレート:Sfn。ニュー・フォークというのは、1960年代のアングラに対して、それがメジャー系に浮上した拓郎に始まる[158]。「ニューミュージックという言葉は、もともとはニュー・フォークからきていると思われる」[158]「ニューミュージック」の発生は、拓郎の1972年の連続ヒットからという見方もあるテンプレート:Sfn[159]。菊池清麿は「ニューミュージックは、ニュー・フォークから始まった。それは吉田拓郎が、アングラに対してメジャー系に浮上したことをきっかけにしていた」「J-POPの発祥を遡及すれば、ビートルズの影響を受けた日本のフォークがポップス化し、これに8ビートのロック・リズムが融合されたことにたどり着く。1970年代のロック、フォークから連綿と流れるポップスの総称として成立した。ニューミュージックの中でも日本を感じさせない楽曲がJ-POPに発展したという見方もできる」などと論じている[160]。
- フォークの二分化と終焉
- 若い女の子のファンが多く、それまでのフォーク・ファンの層とは異なっていた。当時のフォークコンサートは複数の歌い手が出演したが、彼女達は拓郎以外の歌い手の出番ではまるで聴く様子がなく、拓郎の登場時のみ黄色い声を飛ばし、終わると会場を去っていった[161]。なぎら健壱は、「フォークは拓郎の登場を境に硬派路線とアイドル路線に分かれ、拓郎が新境地を次々と開拓して絶頂期を迎えると同時に、フォークは終焉を迎えた」と述べている[162]。
- 1960年代後半の社会的な内容を含んでいるものが目立ったフォーク・ソングは、拓郎の登場で形態が大きく変わり拓郎以降、個人の心情や風景をうたう歌や、愛の歌が増え、次の時期のニューミュージックへの架け橋にもなっていくテンプレート:Sfn[163]。
- 自由奔放
- デビュー年のソノシートに収録された沖縄の基地問題を替え歌で唄った「基地サ」の他、1971年6月に発売された2枚目のアルバム『よしだたくろう・オンステージ ともだち』には、MCで差別用語を3度も連発する「私は狂ってる」、『たくろう・オン・ステージ 第二集』には「日本人になりたい」という人種差別を扱った問題作も収録されている。拓郎の放送禁止歌というと後年の「ペニーレインでバーボン」が有名だが、デビュー時から先鋭的なシンガーでもあったテンプレート:Sfn[164]。
- こうした楽曲以外にも多くのレギュラーを持ったラジオや雑誌のインタビュー等での自由奔放な発言、言動は多くの共感を呼んだが、それは芸能界全体にも影響を及ぼした。
- 渡辺プロ
- 1970年代後半の渡辺プロの凋落については他プロダクションの台頭などが理由として挙げられるが、非常に鍛えられた渡辺プロの歌手たちが人気を失い渡辺プロが変わった理由について、渡辺プロの諸岡義明専務は『きっちり教育され、型にはめてつくられたタレントなり歌手なりが、視聴者に飽きられたからでしょう。拓郎もそうですが、型にはまらない自由で奔放なタレントや暗さがあるキャラクターが好まれるようになったのも一因だと思います』と話している[165]。
- なお拓郎は「渡辺プロが製作した『ザ・ヒットパレード』に大きな影響を受けた」と話しているが[166]、これについて荒俣宏は、「拓郎を音楽に走らせたきっかけの一つに渡辺プロの活動があったというのは、まさしくシンボリックな逸話といえる。なぜなら、その拓郎をはじめとする新しい波が、テレビとは無関係な音楽を創りだし、渡辺プロの創りだしたテレビ歌謡を変えていくことになったのだから」と論じている[167]。
影響を受けたミュージシャン
- 洋楽の原点
洋楽の原点はニール・セダカ、コニー・フランシス、リック・ネルソンやヘンリー・マンシーニなどアメリカンポップスとパーシー・フェイス「夏の日の恋」など映画音楽だったテンプレート:Sfn。アマチュア時代のダウンタウンズでのレパートリーはビートルズ、ローリング・ストーンズ、スペンサー・ディヴィス・グループ、サム&デイヴ、オーティス・レディング、サム・クック、ウィルソン・ピケットや後年、拓郎のレコーディングに参加したブッカー・T&ザ・MG'sなどだった[92][168]。
- ボブ・ディラン
FEN 岩国放送で、ビートルズやボブ・ディランもリアルタイムで聴いていた。
ディランには詩よりもメロディに影響を受けたが、ビートルズは当初はうるさ過ぎるとあまり好きになれなかったという。アマチュア時代に曲作りで最も影響を受けた曲としてパーシー・フェイス楽団の『夏の日の恋』とボブ・ディランの『風に吹かれて』を挙げている。
楽曲や生き方を含めてボブ・ディランの影響を強く受けたことはよく知られる[169]。拓郎は「ギター一本で自分の音楽を発表できることを知って人生変わった。ただし音楽スタイルやメロディが好きで、イデオロギーに憧れたのではない」と話している[170]。
"フォークロックの神様"、"『風に吹かれて』のプロテストソングのヒーロー"、"ビートルズにドラッグを教えた反逆者"といったボブ・ディランのイメージは、拓郎が深夜放送のラジオでやたらボブ・ディランの凄さを語り、曲を流したことで日本人に植えつけられたもの、と中森明夫は述べている[171]。拓郎が「ディラン、ディラン」と叫びまわったため、CBSソニーから出ていたボブ・ディランのレコードが、以前の5倍以上売れたというテンプレート:Sfn。日本に於けるボブ・ディランの最大の普及者でもある[172]。中学の時、「吉田拓郎になろう」と決めたという浦沢直樹やみうらじゅんは、拓郎を通してボブ・ディランを知ったと話している[173]。なおソニーは1973年に拓郎の選曲でボブ・ディランのベスト盤『BOB DYLAN; Gift Pack Series10』を発売している[174]。
高校時代のマドンナのことを歌った「準ちゃんが与えた今日の吉田拓郎への多大なる影響」は、ボブ・ディランの「ハッティ・キャロルの淋しい死」の替え歌である[132][注釈 21]。
山本コウタローが1975年、自著「誰も知らなかったよしだ拓郎」出版にあたり拓郎に「歌謡曲でも何でもいいから、好きな曲を3曲挙げてくれ」との質問には『デソレイション・ロウ(Desolation Row)』『ジャスト・ライク・ア・ウーマン』『アイ・ウォント・ユー』と全てボブ・ディランの曲を挙げたというテンプレート:Sfn。
- パクリとアンチテーゼ
特に初期の楽曲はボブ・ディランの影響・パクリを取り沙汰される。拓郎自身「おいしいメロディがある」[175]等、昔からインタビュー等で「盗作した」とはっきり発言をしており[176]、小室哲哉との対談でも盗作(パクリ)談義が盛り上がった勢いからか、「いっぱい盗作しましたけどね」とはっきり言ってしまっている[177]。
「『イメージの詩』については、ファンだった岡林信康の『私達の望むものは』に感動はしたが、「私達は、と言えない。俺は俺っていう歌を作りたい」という意図で作ったと話している[29]テンプレート:Sfn。
作詞法
- 字余りの作詞法
- 曲作りに多用した"字余り"という作詞法[注釈 22]テンプレート:Sfn[178]は、その元祖といわれ[179]、後のシンガー・ソングライターに多大な影響を与えたテンプレート:Sfn[180][181]。
- それまでの日本の歌謡曲やポップスは、音譜ひとつにひとつの字、とぴったりハマっており、多少の字余り、字足らずは気にしない[182]、言葉を自由にメロディに載せる、或いは日本語の歌を強引に捻じ曲げるという手法は当時は革命であり、これは拓郎によって始まったものであるテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn[183][184]。そのオリジナリティは半世紀近いキャリアを経た現在でも、全く衰えることはないテンプレート:Sfn。
- 他に"コードとリズムの上に、歌詞をのせていくような""メロディを歌うというよりも、詩を語っているような""アドリブで歌っているような"という表現もされた[185]。
- この他の作詞法として、平坦な話言葉を使い歌詞を組み立てる、起承転結の形式を解体し独特の言葉の反復でリズムをつけていく、といった方法論も斬新で画期的であったテンプレート:Sfn[186]。
- 小林亜星は、阿久悠の著書内の「歌謡曲のことば」というテーマ、作曲家から客観的に見た歌詞のルール、歌詞とメロディーの結びつき、という考察に於いて、「ニューミュージックの隆盛期以来、日本語の扱いが随分変わりました。これは日本歌謡史上の大革命だったんです。吉田拓郎や井上陽水がやった革命なんです。それまでの日本の歌は、一つのオタマジャクシに一つの日本語の発音がはめ込まれていた。日本語って随分不便な言葉だなあ、と吉田拓郎あたりが考えて、一つのオタマジャクシで「私は」と言ってしまった。こんな歌い方はそれまで日本にありませんでした。日本人の感覚にないんですね、これがニューミュージックです。ニューミュージック以後、こんなふうにして言葉の扱いが変わってきたんですね。日本語でロックやポップスを歌ってもかっこよくなりました。ですから拓郎さんなんかの努力で、歌謡曲が非常にカッコよくなりました。ニューミュージック革命以後、日本語の発音は英語風になっているんですよ」と論じている[187]。
- 拓郎の"字余り字足らずソング"については、同業者の中に批判する者もあり、赤い鳥は1974年のインタビューで「ただ言いたいことを言いたいんだったらシャベればいいんであって、音楽を使ってやっているんだったら、それは音楽に対する冒涜」[188]、成毛滋は「だいたい"字余りソング"なんていうのはリズム音痴だから平気でできるんで、リズム感のいい人だったら気持ち悪くて聞いてられない。だけど、それをお客もやる方も喜んでやってるんだから、リズム音痴に向いてる音楽じゃないかって思う」などと批判している[189]。
- です・ます調の普及者
- 作詞やラジオパーソナリティとして多く用いた「〜なのです」「〜なのだ」「〜であります」「〜でありまして」「〜でありました」などの言い回しは、です・ます調(デス・マス調)と呼ばれ、松本隆とともにその普及者といわれる[190][191]。
- こうした言葉の使い方は歌謡界、職業作家にも影響を与えた。
- です・ます調の"創始者"については『新譜ジャーナル』1977年のユーミンと松本隆の対談で以下のやりとりがある。ユーミン「松本さんの始めたデスマス体(この文献の表記)っていうのは、ゼッタイ新しかったわけでしょ。そういうのを浸透させたっていうのは、拓郎なんかも一端になっているかもしれないけど、松本さんがすごいインパクトを持っていたと思うの」(中略)松本「同時進行で僕と、遠藤賢司とか高田渡が始めていたね」と述べている[195]。ただ普及ということで言えば、拓郎の当時の影響力は松本や遠藤らとは比較にならない程大きなものであった。
作曲法
- 日本語による曲作りの定着
欧米からの輸入であるフォークやロックは、1970年代初め頃まで、そのまま英語で歌うべきか、日本語で歌うべきか、といった議論がまだされていた。"日本語ロック論争"(はっぴいえんど論争)などが有名だが「新譜ジャーナル」の編集長を務めた鈴木勝生は、「日本語でうたう運動そのものが影を薄め、日本語でうたうのが当たり前という時代を迎えたのは1972年、吉田拓郎の『結婚しようよ』『旅の宿』の二曲の大ヒット以降で、そのためか、1970年9月から東京日比谷野外音楽堂で年に二回開かれ、多くのフォークとロックのアーティストを育てた"日本語のふぉーくとろっく"のコンサートも1972年5月で終了した」と論じている[196]。
- 拓郎節とも呼ばれる個性の強いメロディライン
- 拓郎のフォロワーが多く現れた理由としては、拓郎の曲がとっつきやすいといわれるテンションが少なくシンプルなコード進行であり、にもかかわらず非常に個性の強いメロディラインで構成されていることが考えられるテンプレート:Sfn[197]。
- 近田春夫[200]は著書の中で、「無理のない曲で、シロウトにでも作れそうな、しかもプロを感じさせる作曲家こそ天才で森田公一と拓郎にそれを感じる」と述べている[201]。
- ピチカート・ファイヴの小西康陽は、好きな作曲家として"歌謡曲作家としての拓郎"を挙げている[202]。
- 喜多条忠は、拓郎を「当代一のメロディ・メーカー」と評価している[203]。
- 小林武史は、「あくまでこれは僕の見方ですけど、『吉田拓郎という作曲法』の人と言っていいんだと思う。何しろ、ものすごいオリジナリティがある。詞がウンヌンより曲作りがものすごい。それは『襟裳岬』一つ取っても分かる。拓郎さんもボブ・ディランから影響されているんだろうけど、Aメロ→Bメロ→サビじゃない構成も普通にあって、"何なんだろう、あれ?"って思う」と話している[204]。
- 福田和也は、「吉田拓郎はメロディメーカーとしても、すごい独特。『襟裳岬』は本当に"話し出す"みたいなどこにもないメロディラインで完璧にオリジナル、山田耕作のあとは吉田拓郎しかいないんじゃないか、と誰かが書いてた」などと話している[205]。
- 佐藤良明は著書の中で、日本語によく馴染み、私的コミュニケーションの雰囲気を作りだす拍どりを「しゃべり拍」と名づけ、「これを1970年代の日本のうたに浸透させたのは、この拍どりを多様した拓郎らフォークシンガーの功績」と論じている[206]。
- なお、拓郎自身は日本の作曲家として、浜口庫之助、平尾昌晃がいいと言ったことがある[207]。
歌唱法
山本コウタローは、拓郎以前のフォークシンガーは、岡林にしてもわりときれいな声で、拓郎のような怒鳴り調、太い声で歌うシンガーはあまりいなかったと述べている。さらにその声だけでなくビートの強さ、リズムの良さ、その上歌詞も素晴らしい、一方で「イメージの詩」を歌いながら「マークII」のようなポップな曲も歌える幅の広さが衝撃的だったと話している。また自分の歌、メッセージ、スタイルを人にどう伝えられるか、どう守るかといった"自己プロデュース能力"が早くから秀でていたと、今になると思うと話しているテンプレート:Sfn。
小坂忠や久保田麻琴、荒井由実などのバックでドラマーを務めた平野肇は、拓郎の『今はまだ人生を語らず』(1974年)のレコーディングに参加したが、「ペニーレインでバーボン」に於ける拓郎のボーカルスタイルに驚き、「こんなボーカルははじめてだった。ロックのセッションもずいぶんやったし、いろいろなタイプのボーカリストともやってきたけど、段違いのパワーを感じた。しかも日本語がこれほど突き刺さってくるという驚き。完璧にロックであり、ロックスピリッツに満ちた歌だった」と感想を述べている[208]。
YO-KINGは「拓郎さんの男っぽさが魅力でした。独特の拓郎節とでもいうべきメロディー。そして、あの声はやっぱり凄いですよ。説得力というか、迫力というか。きれいに歌おうと思ってない。大声でしゃべっているような感じで歌っちゃうのが、かっこいいじゃんという提示を受けた気がする」と述べている[209]。
小栗勘太郎は「自分の周りの極私的なことしか描いていないのに、時代の雰囲気が伝わってくる。拓郎の歌のリアリティは、虚飾を排したシンプルな歌詞が直裁に伝わる旋律と拓郎の声の合わせ技の妙」と解説している[75]。
こうした作詞法[注釈 24]や作曲法、テーマ設定[注釈 25]、楽曲アレンジ、歌唱法などは、その後の日本のフォークとロックに有形無形の影響を与えることとなった[注釈 26][210]。渡辺プロダクションのお抱え編曲家だった東海林修は「旅の宿」が世に出たとき、ニューミュージックのパワーより、フォークやロックを回路して滲み出てきた日本の土着性を聴き分け「豆腐と障子紙以外に、はじめて日本のオリジナルが出た」と唸ったという。ナベプロにニューミュージックのセクションが創設されたのは「旅の宿」の大ヒットがきっかけ[211]。
多様な音楽ジャンルへのアプローチ
「『ザ・ヒットパレード』がなかったら今はない」と発言している[212]。アマチュア時代は長くロックバンド(R&Bバンド)を組んでおり、フォークのみに依拠しているわけではない[55]テンプレート:Sfn[213][214]。ファースト・アルバム『青春の詩』にブルースロック調、オーケストラをフィーチャーしたサンバ、ボサノヴァ、ジャズ調とフォークでない楽曲を収録している[55][215]。多様な音楽ジャンルの楽曲制作が認められるため、元来、ポップス歌手でありフォークブームを巧みに利用したにすぎない、という論調もある[216]。篠原章は「『青春の詩』で試みた反体制イディオムと青春歌謡を直結させる手法は新鮮で、後のロッカーもこの手法を無意識に踏襲している」と論じている[217]。北中正和は「吉田拓郎の音楽の衝撃は、短音階の曲とロック的なサウンドを結びつけたこと」と論じている[55]。矢沢保は「もともと真のフォークソングとは何の関係もない歌手だが、全共闘の協力でLPを出したのを出発点に、CBSソニーという大資本に乗りかえて、自分の身体もろとも、フォークソングを売り渡し、すっかり『現代歌謡曲』にしてしまった。たくろうの場合は、かつて全学連委員長だった香山健一が学習院大学教授におさまりかえって自民党の走狗になり下っているのと、あまりにも似ているように思います」などと批判しているテンプレート:Sfn。
『青春の詩』でマックスと共にバックを務めたのがジャズ・ギタリストの沢田駿吾クィンテット。70年代の前半は"フォーク"も"ロック"も、明確な区別やジャンルがあったわけではなく(現在も明確にはないが)、"新しい日本の音楽"という沸々と滾るマグマのような流れの中で混在しつつ共存していた[218]。拓郎はその頂点、あるいは"クロスロード"的交流点に立っていた[218]。1stアルバム『青春の詩』や、拓郎自身がプロデュースを務めた3rdアルバム『人間なんて』では、ロックやR&B系のミュージシャンを多数起用し、すべてを包括しようという大胆な試みを行っている[218][219]。1970年前後に「日本語のフォーク、ロック」という論争があったが、アマチュア時代の1968年頃作った「たどりついたらいつも雨降り」の原曲「好きになったよ女の娘」は、ロックのサウンドに日本語歌詞をつけており、フォークやロックに限らない。[218][220][221][222]。1972年7月に発売された猫の「雪」は、ボサノバ・ラテン調の洋楽ポップス的サウンドであるが[223]このレコーディングに拓郎から伴奏を頼まれたというエディ藩は、凝ったフレージングをやると、「やめてくれ、もっと大衆的な弾き方でやってくれ」などと、色々注文をつけてきて、すごい商売人、さすが売れるレコードを作る男だ、と感じたと述べている[224]。牧村憲一は「拓郎さんは大きく分けるとフォークの世界の人なんですけど、彼の果たした役割というのは、サウンドの世界とフォークの世界のちょうど中間に立ってて、両方をうまく仲介できた」と述べている[225]。
1988年に拓郎の「たどりついたらいつも雨ふり」をカバーした氷室京介は、物心ついて一番最初に聴き始めた音楽は、洋楽ではビートルズ、日本では吉田拓郎であるとあかし、自身の中で拓郎はロック歌手であり、ボブ・ディランとかニール・ヤングとかと変わらない存在であると話している[226]。
ROLLYは「私にとってレッド・ツェッペリンやクイーンより吉田拓郎が音楽の原点」と述べている[227]。
高護は、「1970年のよしだたくろう登場によってフォーク・シーンは新たな展開を迎えることになった。そのサウンド・プロダクションはシンプルだったがフォークロックを基調とする点で、それまでの岡林信康や高石友也とは明らかに一線を画していた。フォークはよしだたくろうを端緒とする"シンガー・ソング・ライター"として一つの音楽的形態、および音楽レコードの一カテゴリーとして定着することになる。彼らの多くは既成の歌謡曲=芸能界との差別化を望んで、発売されるレーベルやマネージメント・システムも徐々に整備されていった」等と論じている[5]。
アルバム製作
- ロックバンドと共同でのアルバム制作
- 1stアルバム『青春の詩』の製作にあたり、エレックレコードの専務兼プロデューサー・浅沼勇は自身が審査員を務めたヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト第2回のボーカルグループサウンド部門で優勝したマックス[注釈 27]を起用した。
- スタジオ・ミュージシャンと呼ばれるプロが歌謡曲歌手の音作りを専門としていた当時では、ひとつのロックバンドがアーティストと綿密に打ち合わせをしながら音を作っていく、という画期的なレコーディングであった[228][注釈 28]。
- 浅沼はマックスを起用した理由について「拓郎のフォークの荒削りな良さを消さず、拓郎ワールドを創っていけるタイトなリズムを持つバンドが必要と考えた」と述べている。
- アルバム・セールス時代の先鞭
- 1972年7月21日にリリースしたLPレコード(アルバム)『元気です。』は、フォーク系、ニューミュージック系シンガーとして、またシンガーソングライターとしてオリコン史上初の1位獲得アルバムである。それまでの1位獲得アルバムは、演歌か女性アイドルか、洋楽に限られていて、演歌以外の男性歌手としても初の1位獲得であった。アルバムが売れない時代に[注釈 29]、1ヶ月間で40万枚を売り上げるというシングル並みのセールスを記録[229]、オリコンアルバムチャートで14週連続(通算15週)1位を独走しアルバム・セールス時代の先鞭をつけた[230]。アルバムがシングルレコードの寄せ集めではなく、アルバムとして一つの主張をもった作品として考えられるようになるのは、拓郎や小椋佳、井上陽水らフォークシンガーの良質なアルバムの制作と大ヒットからである[231]。
- 日本初の本格的ライブ・アルバム
- 1971年発売のアルバム『よしだたくろう・オンステージ ともだち』には曲の合間のMC(当時"シャベリ"などと呼ばれた)がたっぷり入っている。当時のフォーク・シンガーはこういうスタイルが多かったが、それをそのまま収めてライブ・アルバムで出すのは珍しかった。拓郎が人気者になった理由の一つに喋りの面白さが挙げられるテンプレート:Sfn。また拓郎の独持の口調「○○でアリマス」などの言い回しもよく流行った[218]テンプレート:Sfn。1973年に本格的なブラス、ストリングスを加えて行われたライブを収録したアルバム『LIVE'73』は日本のレコード史上最初の本格的なライヴアルバムともいわれる[232]。 このライブで歌われた楽曲は大半が新曲。まだステージで一度も歌ったことのない新曲をライブで披露するという試みも前例のないものであった[233]。
- カバーアルバムの先駆
- フォーライフ2年目の赤字を解消するために制作された1977年のアルバム『ぷらいべえと』は、近年増えるカバーアルバムの先駆的作品。
大規模コンサートの実施
全国ツアーの手法に新機軸
- 1973年秋、タレント売り出しに何千万もかけてテレビ中心に売り込みをかける当時の業界への反発から、日本のミュージシャンで初めてPA、照明などのスタッフを帯同しての全国ツアーを敢行する[4][234][82][149]。
- 当時、この手法は色々と困難であるという指摘を受けたという。実際、会場が取れないなどの軋轢も生んだが、やがてこのシステムが一般的となったテンプレート:Sfn。
- この事は、従来、地元の興行師が仕切って来た運営が縮小し、地方のイベンターや、ぴあに代表されるチケット事業、情報サービス事業など、新たな産業を生み出した[235]。
- 1970年代はじめから小坂忠や久保田麻琴、荒井由実などのバックでドラマーを務めた平野肇が、拓郎の『今はまだ人生を語らず』(1974年)のレコーディングに参加した後、拓郎にペニーレイン[236]で、「今度ツアーがあるんだけど、一緒にまわらないか」「俺たちのツアーは面白いぞ」と誘われ、この"ツアー"という響きに大きな魅力を感じたと述べている[237]。拓郎は、全国ツアーを始めたと同時に"ツアー"というフレーズを常用していた。
- 長渕剛は「おれは尊敬する拓郎さんのようにギター・ケースを持って全国をコンサート・ツアーでまわりたい」と拓郎の所属するユイ音楽工房に入った[238]。
- 同じ年の10月に神田共立講堂で2日、渋谷公会堂で同じく2日と4日連続で行われた公演も今では珍しくない大ホール連続公演の日本でのさきがけと言われる。最初は日本武道館で1日だけと考えていたが、拓郎自身が「雰囲気もいや。音楽やるのに向いてない」と武道館を嫌い、別の同一会場で、当初1週間連続を計画したが、会場の都合が付かずこのような形態になった[239]。
つま恋オールナイトコンサート
1975年8月2日〜3日に開催された「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋」もまた画期的なものだったテンプレート:Sfn[240][241]。 テンプレート:Main
篠島コンサート
- 1979年7月26日〜27日に行った篠島コンサートは、一つの離島を借切るというイベントで、日本のコンサートでは史上初の試みであった[注釈 30]テンプレート:Sfn。先のつま恋と合わせ、常識を覆して深夜に人を集めるという方法で成功を収めた[242]。
吉田拓郎&かぐや姫 Concert in つま恋 2006
音楽ビジネスへの影響
テレビ出演拒否
- 1972年「旅の宿」の大ヒット中に有名な「テレビ出演拒否」を行う[2]テンプレート:Sfn[12][245]。「テレビ出演拒否」という言葉も拓郎によって出来たテンプレート:Sfn[246][247]。拒否のきっかけとして布施明とのエピソードが有名であるがテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn[248]、著書では当時のテレビを最大限利用した藤圭子のような既成のプロ歌手とは逆の「自分はテレビを拒否したところにいるプロ歌手でいよう!」と考えた意地だったと述べているテンプレート:Sfn。この他、当時の音楽番組はヤクザのような連中が作っていて、汚いかっこうで現場に行くと『なんだ、そのかっこうは』とさげすまれる時代。四分の曲を二分半くらいにまとめられ、まったくそういう発想のない僕らが登場したとき、彼らは不愉快だったと思うなどとインタビューで述べている[249]。拓郎の要求は「『結婚しようよ』1曲だけの3分だけなら出ない。3曲、20分は欲しい」という内容のものであったが[250]、それは歌番組が最新ヒット曲のみで構成された1970年代では有り得ない要求であった[247][251]。
- 当時の日本の音楽界は歌謡曲・演歌が主流で、各レコード会社が抱えている職業作詞家・作曲家が書いた曲を歌手が歌うという分業体制があり、テレビに出演することでファンにアピールし、シングルレコードを売るというのが主要な音楽活動であったが[252]、拓郎はレコードがヒットしたにもかかわらず、いままでの音楽活動を崩さなかった。コンサートとラジオとアルバム制作中心の活動である。すなわちアーティストは音楽活動に専念し、芸能的なサービスはしない。この考え方の裏にはテレビにも芸能週刊誌にも世話になっていないし、芸能界と芸能界そのもののテレビの歌番組への反発、自分たちの音楽を分かっていないという自負があった[196]。自己表現のための歌であるから、シングル一枚だけで判断してほしくない。アルバムを聞いてコンサートを見てほしいというような発言を繰り返した[196]。拓郎はそれ以前の歌謡曲のノウハウを踏襲せずに、深夜のラジオ番組やライブ活動を中心にプロモーション活動を展開した。また、シングル盤が中心となっていた歌謡曲に対してアルバム志向を前面に打ち出していった[253]。徳光和夫は、テレビを拒否した拓郎について「あれ程テレビがドーンと伸びようとしている時代に、テレビに門戸を閉ざすとは、生き方に今で言うロックを感じた」と述べている[183]。坂崎幸之助は「僕たちにとっては、アレがかっこよかった」[183]、森達也は「その反骨に魅せられた」[254]と話している。世の中に迎合しない非常にかっこいい姿勢と多くの若者が共鳴した[255]。
- 芸能週刊誌の取材もギクシャクすることも重なって、フォークは鬼っ子として独特の活動と音楽領域をもつことになる[196]。
- 歌番組への出演を拒否した拓郎のために、テレビサイドは異例のコンサート中継をオンエアした。こうした対応も拓郎から始まったもの[256]。今でこそ珍しくない「SPコーナー」も拓郎から始まったものである[247]。拓郎はテレビに拒否反応を突きつけた上で、自分の要求を押し通した最初の例である。
- 出演を拒否した拓郎の要求をテレビ側が受け入れ、これはテレビ業界とフォークシンガーの力関係が逆転するきっかけとなった。現在でもテレビがJ-POPを扱う場合、ある種の配慮をアーティストにするのはこの時を始まりとしている[70][257][258]。
- 紅白歌合戦の場合も、NHKは1972年、拓郎に相当アプローチしたが最終的に拒否され以降、ニューミュージック系の歌は紅白では聴くことが出来ないという常識が定着したものだった[128][259]。
- また、それまでマイナーな音楽専門誌しかこなかった取材も、女性誌から週刊誌、月刊誌、ゴシップ誌、新聞と申し込みが殺到したテンプレート:Sfn。しかし拓郎は「自分のいいたいことが正確に伝わらない」とマスコミ取材拒否も行う[2][260]。これは主にメジャー系の雑誌に対してのものだったが、突然降って湧いた"フォーク・ブーム""拓郎ブーム"はマスコミにとっては寝耳に水で、どう対処していいのか分からず、本質とはかけ離れた酷い記事も出た。拓郎がそれを鋭く衝いたことで、その後のメジャー系の雑誌のフォーク記事が充実していった[260]。
- 「テレビ出演拒否」「マスコミ取材拒否」「人気絶頂期の結婚」など、拓郎は多くのそれまでのタブーを破り、フォークにポリシーを持たせることで、歌謡曲とは違うという鮮烈なイメージを持たせ若者の心をとらえた[260][261]。また時と場合によってはそうしたタブー破りがニュース価値を生み、宣伝効果を持つことも明らかにし[262]、レコード産業や職業音楽家の築いた"芸能界"とは別のところで"流行歌"が存在できることを証明したのである[255][263][264]。「テレビ出演拒否」は、拓郎を神格化させた大きな要素となるテンプレート:Sfn。
- テレビの出演を拒否して、ラジオとステージのみでファンを獲得し、コンサートツアーを他に先駆けて行い後続アーティストに道を拓いたテンプレート:Sfn。
- 拓郎のテレビ出演拒否を受け、フォークシンガーの多くが同様にテレビ出演を拒否した[251]テンプレート:Sfn[265]。これは各所属事務所、或いはレコード会社の戦略によるものであった。泉谷しげるは「拓郎が『商業主義に染まりたくないからテレビには出ない!』なんてかっこよくいうもんだから、俺たちも『おおっ』ってなっちゃって。気がついたら振り上げた拳を下ろせなくなってさ。『弱っちゃったな、別にテレビ、嫌いじゃないんだけど』」と述べている[266]。拓郎はテレビ出演拒否という姿勢を最初に打ち出し、拓郎のやり方はその後のニューミュージックやロックのミュージシャンのお手本になってきたテンプレート:Sfn
- 拓郎のテレビ出演拒否は後のテレビ界に大きな影響を与えた。1978年から始まった『ザ・ベストテン』は、テレビの出ないニューミュージック系歌手の曲を紹介したいというコンセプトで始まった番組であったが[267]、そのニューミュージック系歌手の出演拒否が相次ぎ反響を呼んだ[268]。『ザ・ベストテン』はこれを逆手に舞台裏の事情を逐一報道、芸能ニュース番組化することで話題を呼んだ[269]。
- 相澤秀禎は「1970年代は芸能界にとってテレビという巨大メディアが宣伝プロモーションには欠くことのできないものであることを決定付けた時代であったが、この大きなパワーを持つテレビをあえて拒否し独自の道を進んだ吉田拓郎らニューミュージック系歌手のやり方は、それを貫いたことで成功し定着した。これは多様化しはじめた宣伝作戦の方向性を指し示していたといえる」と論じている[270]。
- 1996年から音楽バラエティー番組『LOVE LOVEあいしてる』にレギュラー出演し、ジャニーズ事務所のアイドル・KinKi Kidsと共に司会を担当したことで物議を醸したが、拓郎がテレビに出てることで、他のミュージシャンの歯止めが取れたという側面もあったテンプレート:Sfn。「出てもいい」と思った大きな理由は、かつては多かった横暴な芸能ディレクターは減り、ミュージシャンに対して理解のあるディレクターが増えたという「テレビの現場の変化」を挙げているテンプレート:Sfn。
フォークの地位の向上
- 1971年10月、アーティスト主体の音楽制作を目指し、拓郎と後藤由多加が中心となってプロダクション「ユイ音楽工房」を設立した[59][60][263]。
- それまでのマイナーレーベルの仲間的雰囲気の中で商業主義を否定するようなポーズで活動していくのではなく、自分たちの歌を正面からビジネスとして確立させていこうという新しい動きであった[271]。
- エレック在籍時には社員扱いだった拓郎の作品には作詞、作曲、歌唱の印税保証はなく、後藤に聞かされ初めて歌にそういう権利がある事を知った[272]。
- これをきっかけに、自分の歌の権利を自分で守るという意識がフォーク界に浸透したテンプレート:Sfn。
- それまで限られた関係者にしか知られていなかった"権利ビジネス" "制作者の権利"をミュージシャンが知ったことは音楽ビジネスの大転換でもあった[273][注釈 31]。
- マスメディアでの拓郎の露出の増大は、日本の音楽シーンでフォークの存在感を高め、音楽誌でも従来の洋楽中心から次第に日本のアーティストのページを増やすこととなった[274]。
- 拓郎が登場する以前の三橋一夫ら、日本のフォークを評論していた人たちは、洋楽の片手間仕事に"日本のフォーク"を評論していたが、拓郎が急激に売れてさらにマスコミ拒否をやったため、まともな記事を書ける人がおらず、拓郎と岡林を聴いて東大を辞め、初の"日本のフォーク評論家"の看板を上げた富澤一誠の元に執筆依頼が殺到したという[275]。
- 「ヤング・ギター」初代編集長の山本隆士も「拓郎に出会わなかったら『ヤング・ギター』はなかったと思う」と述べているテンプレート:Sfn。「ヤング・ギター」は、拓郎の才能をいち早く認め、デビュー前から頻繁に誌面で紹介し、強力に応援した[276]。
- 小説家の盛田隆二は「いつか拓郎の本を作りたい」とぴあに入社し、拓郎が出演した映画『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』(1986年公開)と連動した『THE BOOK OF Ronin』(ぴあムック・1986年刊)を企画し編集長を務めたという。
- 『新譜ジャーナル』最後の編集長だった大越正実は、「高校時代に聴いた拓郎のアルバム『ともだち』から自身の拓郎大バカ人生が始まり、それが高じて編集長まで務めてしまった」と話しているテンプレート:Sfn[277]。
- 1999年に刊行された福島直子著「吉田拓郎サマへの道」は、「オールナイトニッポン」で拓郎が懇意にしている「月刊明星」の編集者がいることを知った著者が、拓郎に会いたいがために「明星」編集部に就職する話で、歌謡曲アイドルの専門誌だった「明星」に拓郎がしばしば登場したのはこれらの理由から[注釈 32]。
- 「サウンドストリート」(NHK-FM)のディレクターで、佐野元春を発掘しDJに抜擢した湊剛は「吉田拓郎だけが個人的にファンで、ずーと好きだった」と述べている[278]。
- いち早く拓郎に注目していた岩手放送(現・アイビーシー岩手放送)の名物ラジオディレクター北口惇夫は、拓郎を広島から岩手に呼び寄せ、地元広島を除けば地方局初のラジオ出演をさせたことがある[279]。
- 拓郎を入口に音楽の世界に導かれた人物は、このような出版、音楽関係者[220][280]、ミュージシャンなど数多いが、テレビの音楽関係者でいえばその代表的な人物がきくち伸ということになる[281]。
- 『新譜ジャーナル』や『guts』などは巻頭グラビアをフォークシンガーの写真で飾ったり、彼らのエッセイや対談、そしてゴシップ記事を掲載するようになった[282]。この1972年には講談社から、拓郎らフォークシンガーが表紙やグラビアを飾る「月刊明星」のフォーク版ともいうべき「ヤングフォーク」なども創刊された(1982年廃刊)[283]。これも拓郎がそれまでのフォークシンガーになかったアイドル的な魅力を加えたため。女の子のファンが急増しファンレターは1日500通と、アイドル並みの人気があった。1973年のツアーで青森を訪れた際には、駅から会館までの沿道を若者が埋め尽くしたといわれる[284]。拓郎はフォーク界で初めてミーハー人気を得たスターだった[68][135]。拓郎は、天地真理や麻丘めぐみ、南沙織や同時代のどんなアイドルより人気があった[285]。こうしてファン層を広げて、フォークのパイを大きくしていったテンプレート:Sfn。またこの頃から、立風書房などが、フォークシンガーやディスクジョッキーなどのエッセー集を積極的に出版するようになった[286]。北山修「戦争を知らない子供たち」、高田渡「個人的理由」、早川義夫「ラブジェネレーション」、及川恒平「歌謡詩集」など。拓郎が1972年、立風書房から刊行した「気ままな絵日記」はベストセラーとなる。若者が書いた文章はこの頃から「身近な活字」として触れやすいものとなった[286]。これらはフォークシンガーのタレント化をもたらし、"タレント本"の類が量産されるのはこの頃からである[287]。
- 日本のフォークやロックの流れは1972年に大きく変わった[220][288][289]。この年1月に発売された拓郎の「結婚しようよ」が、爆発的なヒットとなり、それまでメジャーな歌謡界や大人のメディアからは見向きもされなかったフォークソングが一転して商業的な舞台で注目されるようになった[37][290]。「結婚しようよ」はそれまでのフォークの暗いイメージを一掃し、拓郎は一種の新型アイドルとなった[288]。
- 長髪で反体制的と見られてきた、そうした音楽が若者風俗として認知されるようになった[289]。
- 拓郎が出てきて大ヒットを連発するに及んで、音楽業界でもフォークは売れるもの、十分商売になるものと考えられるようになった[注釈 33][5][132][289][291]。フォークは"アンダーグラウンド"から"オーバーグラウンド"な存在へ浮上していく[292][293]。
- 和久井光司は「テレビ神奈川の『ヤング・インパルス』が始まったのは、拓郎が『結婚しようよ』を大ヒットさせた後からでないか」と述べている[294]。
- なぎら健壱は「ここまで大きなブームにしてしまったということの一番大きな存在は、やはり吉田拓郎さんです。拓郎さんがいなきゃ、そんなブームが起きなかったから、大変な人でしたね。歌もうまい、ギターもうまい、そして深夜放送なんかでも人気ナンバーワンということで、あの方がいなければ無理でした」と述べている[7]。
- 拓郎の二曲の大ヒットにより、フォークの中心地は大阪から東京へ、URCからエレック・レコードやメジャーの各レコード会社に移っていった[196]。渡辺プロダクションにニューミュージックのセクションが創設されたのは「旅の宿」の大ヒットがきっかけ[295]。かつて岡林信康や高石友也がいくら人気を集めていても、レコードの売り上げはたかだか知れていた[296][297]。拓郎以前にも多くのフォークシンガー、シンガーソングライターはいたが、拓郎ほどの人気を獲得したアーティストはいなかった[298]。
- 吉田拓郎に続けとばかり、すぐれたオリジナル曲を有する日本各地のミュージシャンの多くが上京。マイナーレコード会社だけでなく、メジャー系レコード会社もフォークの新レーベルを設立し[5]、レコード会社もプロダクションも競ってフォークの新人たちを市場に送り込み[37][77][299]、後に続いた井上陽水、かぐや姫らの大ヒットで大きな潮流となり、1960年代後半のカレッジ・フォークブームを凌ぐ一大フォークブームを迎えることになった[158][291][300][301]。
- また演歌か歌謡曲かのくくりで燻っていた既存の歌手にも新たな道を拓くこととなった[302]。
- 吉田拓郎最大の功績は、フォークをひいてはロックをビジネスとして確立し、日本で自作自演の音楽を普及させる大きな原動力となったこと[5][132][303]。吉田拓郎に端を発すフォークのメジャー化によって、その後のニューミュージック、現在のJ-POPの基礎が築かれたといえる[注釈 34][11][52]テンプレート:Sfn[304]。
コマーシャルソング
拓郎はニューミュージック系歌手によるCMソング製作でもはしりでもある[305][306]。早くからCMソングを自作自演し、反商業主義のプロテストソングと一線を画した[307]。1960年代の異議申し立ての運動と連動していたフォークにおいては、CMソングを作り歌うなどということは、商業的で否定されるべきことだった。吉田拓郎にはそんなこだわりはなく、フォークソング対CMソングといった対立は、まったくなかった[308]。
- 僕の旅は小さな叫び
拓郎のCMソング第一号は1971年歌唱のみの「僕の旅は小さな叫び」[309]。
松下電器産業「Technics」の立体オーディオ「4チャンネルステレオ」(SC-1550N)の発売に伴い、当時松下電器の宣伝事業部の堀川靖晃が、作詞・山川啓介、作曲・編曲を渋谷毅に依頼してCMソングを製作することになった。この歌手選定に於いて、堀川は「今の若者が共感できる鬱屈した心情を歌い、それを救済するような"Technics"の声がリアスピーカーから流れる...」との構想から、渋谷との打ち合わせで「たくろう、しかいない」と結論に達し出演交渉を行う[310]。既に特異な存在感を発していたシンガーソングライターの拓郎が、他人の作品を歌ってくれるのか、当時はまだステータスの低かったCMソングを歌ってくれるか、とダメ元の覚悟で交渉すると拓郎の返答は、意外にも「OK」。本CMソングは、作詞期間だけで4週間、制作費約100万円と当時のCMソングの常識を越えた費用をかけた[309]。こうして完成した「僕の旅は小さな叫び」を、渋谷は始まりから二節以降、サビから先はアドリブ、拓郎の表現力に任せるという、前代未聞の譜面を書き上げた[311]。それはジャズ界の鬼才と称される渋谷の、歌手・吉田拓郎の個性と潜在力への大きな期待を込めての大博打であった。本意ではなかったであろう、他人の作詞・作曲の作品をも拓郎は独自の世界で歌い上げ高い評価を得た[312][313]。本作はFMラジオの長編ステレオCMと製品購入者限定サービスで付属する、4ch再生のデモンストレーション・レコード(非売品、ステレオ購入者へのおまけ)が製作された[312]。
この年は他にSEIKOとタイアップシングル「サヨナラ僕は気まぐれ」(作詞・作曲・唄。B面「青春の終わり」は作詞・作曲が拓郎で、唄がピピ&コット、三越とのタイアップシングル、非売品)を手がけた他[309]、中外製薬の『新グロンサン』のCMソングを歌い、ACC(全日本シーエム放送連盟)全日本CM フェスティバル・シンギング部門で入賞[314]。
- HAVE A NICE DAY
1972年には「旅の宿」の大ヒットに目をつけたフジ・フイルムが拓郎にCMソングの製作を依頼し、拓郎作詞・作曲・歌によるCMソング「HAVE A NICE DAY」を連日放送した(背景には1970年から国鉄の“ディスカバー・ジャパン”キャンペーンが始まっていたことがある)[306][315][316]。拓郎の日常のしゃべり言葉をそのまま生かして、拓郎の歌に合わせて若者が自由にポーズをとるという内容が、この広告をヒットさせる大きな要因となった[317]。"HAVE A NICE DAY"は流行語にもなり、拓郎の存在を広く世に知らしめた[318][313][319][320]。『Have A Nice Day』第一弾(気ままに写そう編)に続き、『Have A Nice Day』の第二弾(天然色写真編)は、全編広島弁の歌詞で歌われており、方言で歌われたCMソングとしてはこちらも先駆的なものとなる[317]。CMの作詞作曲料は85万円だったという[309]。
この後フジカラーから「拓郎さんはもう歌わないでいいから、曲だけ作って欲しい」と言われ、「沢田研二が歌う曲を作って下さい」との要請を受けて作詞作曲したのが"HAVE A NICE DAY"-2『いま、このときめきを』(1973年)[309][315]。当時沢田研二はソロになったばかりで「まださほどでもなかった」と拓郎は話している[315]。この次に手掛けたのが拓郎作詞作曲で山口百恵が歌唱したフジカラーF-II『私は小鳥』(1975年)[315]。これ以降、フジカラーから仕事の依頼は来なくなったという[315]。
1972年、松下電器のステレオのCMソングも歌唱(自作曲ではない)、前年に続きACC全日本CMフェスティバルで入賞[321]。
さらに同年、りりぃに資生堂?フェミニンのCMソングを提供し、スバル・レックス(富士重工)のCMで「僕らの旅」を自作歌唱した[78]。このスバル・レックスのCMもテレビ・ラジオで大量露出し、当初はソノシートの非売品だったが反響が大きく、後にレコード盤が製作された[309][322]。
これら全てのCMソングのソノシート、あるいはレコードは、全てステレオ購入者のオマケや、懸賞のプレゼントなどの非売品で、正規にレコード発売された物はない。当時はCMソングをレコード化して商売として売り出すという発想がまだない時代であった[309][315]。
これら大きな成功をきっかけに企業はフォーク・シンガーをこぞってCMに起用するようになった[323]。人間どうしの触れ合い、人間関係そのものをテーマにしたCMソングが増えてくるのは、1970年代前半の私小説主義的フォークと共通している[308]。広告の世界とは交流のなかったフォークやロックのアーティストがCMに関わるようになったのは「HAVE A NICE DAY」が成功してからである[318][324][注釈 35]。世相に鋭敏なCM界とフォークソングの潮流は、互いに見計らいながらも惹かれ始めていた。その先鋒としての開拓者が拓郎とそのスタッフだったといえる[312][325]。拓郎の確かな足跡は、広告界・レコード界・各メディアとフォークソング界を急速に融合させる契機となり、歌謡曲を軸とした日本のポピュラー音楽界に新たな時代をもたらした[313]。これらは1970年代半ばからの資生堂とカネボウによる「化粧品キャンペーンソング戦争・タイアップ戦争」の季節ごとのニューミュージック系の実力アーティストの連続登場でピークを迎え、CM忌避論は消滅して、CMタイアップ全盛時代に繋がっていくことになる[313][326]。
小川博司は、「吉田拓郎がこの時期手掛けたCMソングはフォークの日常感覚により活性化された。逆に、商業主義的なものとは無縁の存在で、そこに自らの存在理由を見出していたフォークは、CMの世界に一歩踏み込み、ここでも方向転換をとげた。この後フォーク対歌謡曲、広告音楽対レコード流行歌といった区分は、ますます曖昧なものとなり、CMソングがレコード化されることも頻繁になった」と論じている[327]。
桜井哲夫も、「吉田拓郎が『フォーク』と『歌謡曲』の区分をこわしたこと、CMソングに進出したこと、この二つの点こそが拓郎以後を特徴づけることになった。フォーク対歌謡曲、CM音楽対レコード流行歌といった区分は揺らぎ、融合してゆくことになった」と論じている[328]。
新旧の音楽界の交流の活性化
森進一に提供した「襟裳岬」の大ヒットをきっかけに渡辺晋は、拓郎の楽曲の実力を買って、キャンディーズなど多くの自社所属歌手への楽曲提供を拓郎に依頼した[329]。渡辺プロダクションは、これを機に布施明へ小椋佳の「シクラメンのかほり」(1975年)、三木聖子へ荒井由実(1976年)の「まちぶせ」など、他社に先駆け積極的にニューミュージック系ミュージシャンの起用を行ったテンプレート:Sfn[330]。これ以降、楽曲を媒介にして旧勢力と新勢力の両者は交流を始め、演歌界を含む歌謡界がニューミュージック系ミュージシャンの楽曲を取り上げることがブームになり定着していった[84][331][332]。これはニューミュージックという言葉をより曖昧なものとしてしまった原因のひとつでもあるが、この後阿久悠や筒美京平のように歌謡曲側の作家が、それぞれ桑名正博、Charのようなニューミュージック側の人に曲作りをするという現象も多くなった[333][334]。またCMソング作家だった小林亜星が作曲した「北の宿から」が1976年、第18回日本レコード大賞等を受賞するというようなケースも出てきたテンプレート:Sfn。「襟裳岬」の前までは演歌系歌手は演歌系作家が作る、のようなはっきりした図式があった[335]。これらはフォークが歌謡曲に取り込まれた、歌謡曲化したともいえるが、フォークがアンダーグラウンドから脱し市民権を得たともいえる[336]。「襟裳岬」が世に送り出されていなければ、今日のJ-POP自体がかなり異なったものになっていた[106]。拓郎は同年、浅田美代子に「じゃあまたね」を小柳ルミ子にも「赤い燈台」を書き下ろし、シンガーソングライターとアイドルの蜜月という架橋を同時に築く。歌謡曲の進化をもたらした異業種混合のコラボレートの歴史は拓郎の偉業から始まるテンプレート:Sfn[337][338][339][340]。この後、"日本初のアーティストによる"レコード会社フォーライフを立ち上げ、原田真二をプロデュースして、ロックのアイドル化、メジャー化にも貢献[341][342][343]。歌謡曲とフォーク/ロックの融合という難事業を、ほぼ一人でやってのけた[106]。
拓郎はいわゆる歌謡曲のアイドルの作曲家としても重要な活動を行い、一つの時代を作ったが、拓郎は「東京へ出てきてからの音楽活動で何が楽しかったかって、アイドルの作曲ほど楽しいものはなかった。『歌って、こういうふうに歌うんだよ』なんて教えるときに気持ちよさといったら、もう」などと話している[15]。
- ミュージシャン系プロデューサーの先駆
小室哲哉やつんくのプロデュース活動が活発になった頃、ミュージシャン系プロデューサーの先駆者としても紹介されたテンプレート:Sfn。拓郎がフォーライフを設立した理由もミュージシャンがプロデュース権を強く持つ、プロデューサーシステムの確立を目指してのものであったし[344]、拓郎自身、プロデューサー業を手掛け始めた1972年頃からすでにプロデューサー業に対する強いこだわりを持ち、1976年の自著『明日に向かって走れ』でも、プロデューサーとは何かとの持論が長く語られている。
拓郎以降のミュージシャン系プロデューサーが、ニューミュージックと歌謡界の科学反応を企む際の和洋折衷路線、ジャパネスク路線は、拓郎が手がけた「旅の宿」、「襟裳岬」が下敷きにされている[338]。拓郎の楽曲プロデュースは、フォーク/ロック/ニューミュージックはもとより、歌謡曲、演歌、アイドルにまで及ぶ。職業作詞家との多くのコラボレーションも拓郎が最初[52]。現在の音楽状況ではもう生まれないR&B+ 浪花節をベースとする不世出のコンポーザーである[338]。
小室哲哉は拓郎について、「フォーク、フォークといわれながらメディアに対しての姿勢とかにロックを感じた」「歌謡曲への影響力の在り方は日本にもこういうことが有り得るんだ、と目標というか光が見えた気がした」「やっぱり憧れてたし少なからず影響は受けてると思う」等と話している[345]。
つんくは2003年、ソニンに「合コン後のファミレスにて」という拓郎のパロディのようなシングル曲を書いているが、つんく自身は長渕剛を尊敬していると話している[346]。
- かまやつひろし
かまやつひろしとのコラボレーション、1974年、デュエット「シンシア」、1975年のオリコン1位「我が良き友よ」は、拓郎ファンだったかまやつが「一緒にやろう」と長年、拓郎を口説いて実現させたもの。
今でこそ異色とも何とも感じないが、当時の感覚からすれば、フォークの拓郎と元グループサウンズのかまやつとの共演は事件であった。かまやつはロック仲間から嫌味や批判を受けたと話している。こうしたロック、先の演歌やアイドル歌手を含む歌謡曲、子供番組などとのコラボレーションを含めて異種組み合わせの突破口を開いた先駆者でもあった[338]テンプレート:Sfn[347]。「シンシア」は、拓郎がファンだった南沙織へのオマージュ曲で、同時代に活躍したアイドルの名前・愛称をタイトルに付けて唄うという珍しい楽曲[96]。『ミュージックフェア』で共演もしている。
- キャンディーズ
1977年、渡辺晋から「キャンディーズを大人にしてやってくれ」という依頼を受け、キャンディーズ の「やさしい悪魔」と「アン・ドゥ・トロワ」のシングル2曲を含む4曲の作曲を手がけた。
もともと拓郎はキャンディーズファンで、キャンディーズのブレイク直前に自身の番組『吉田拓郎のオールナイトニッポン』にゲストで呼んだり(1975年3月4日、ミキちゃんは風邪で欠席)、特にスーちゃんファンで[348]、やはり『オールナイトニッポン』」にスーちゃんを単独でゲストに呼んだこともある[349]。またキャンディーズが解散宣言をした時「アン・ドゥ・トロワ」のレコーディング中、「本当に解散するの?」と聞いたら、3人口をそろえて「申し訳ありません、事務所を通して下さい」と言われたと自著に書いている。ただし拓郎のアルバム『ぷらいべえと』のジャケットの女の子の絵は、拓郎が週刊誌で見たランちゃんを書いたと言われておりテンプレート:Sfn真偽は不明。女の子は「やさしい悪魔」のジャケットのランちゃんに似ている[350]。
「やさしい悪魔」は音域の広い難曲で、歌のうまいキャンディーズもレコーディングに苦戦した。これはキャンディーズファンだった拓郎が、レコーディングでキャンディーズに歌唱指導をしたいがために、わざと難しくしたと噂が出た[351]。「やさしい悪魔」は、それまでのキャンディーズの清楚なイメージを一新、“デビルサイン”を含めた斬新な振り付け、“大人化計画”に応えた詞曲で、キャンディーズ最大のヒットになった(最終的には「微笑がえし」、「わな」に次ぐ3位)[352]。キャンディーズファン・石破茂も「音楽的に完成度が一番高い名曲」と話し[353]、キャンディーズ自身も「私たちの代表曲」と話している[354]。後期キャンディーズは、拓郎抜きに語れない[106][355]。拓郎も「やさしい悪魔」を自身のアルバム『ぷらいべえと』で、「アン・ドゥ・トロワ」は『大いなる人』でセルフカバー、後者はキャンディーズが解散宣言(1977年7月)した直後のリリースだったため、サブ・タイトルに「ばいばいキャンディーズ」と付け、歌のラストで“さよならキャンディーズ”と歌った[356][357]。
このシングル2曲の他に、「やさしい悪魔」のB面「あなたのイエスタデイ」、1977暮れに発売された5枚組アルバム『キャンディーズ1676DAYS』に収録された「銀河系まで飛んで行け![358]」(いずれも『GOLDEN☆BEST キャンディーズ』に収録)を提供。なお「銀河系まで飛んで行け!」は、事務所の先輩・梓みちよが気にいり、同曲を自身が先にシングルカットしてしまったため、キャンディーズがシングルで出せなかったとされる。
- 梓みちよ
梓みちよのレコーディングでは「アナタは歌がうまいから困るんです。僕としては、もっと下手に、そう、思い切って下手クソにやってほしいんです」と言うと、梓は『メランコリー』を目一杯下手クソに歌って一言、「これでいいわけ。フン、変なの、アンタたちの音楽」と言ったというテンプレート:Sfn。ただ、梓は拓郎はレコーディングには来なかったと話している[359]。この曲の作曲は拓郎だが「緑のインクで手紙を書けばそれはさよならの合図になる」と書かれた喜多条忠の作詞もヒットした。それまでフォークの作詞家だった喜多条に「お前に歌謡曲の作詞はムリだろ?」と言う拓郎の挑発に喜多条が奮起して作詞を手掛けたもの[360]。1976年、梓も紅白歌合戦で歌う際、この曲の短縮を要求されNHKともめたが出場した[361]。
- 原田真二
フォーライフ第1回新人オーディション(1976年)に応募してきた原田真二は選考段階では不合格であったが、興味を示した拓郎が課題を再提出させ [362]テンプレート:Sfn原田の高校卒業と上京を待って1977年10月、拓郎プロデュースにより「てぃーんずぶるーす」でデビューさせた[341][342]。デビューにあたり原田の部屋探しから、原田の曲作りのため松本隆や瀬尾一三を交えて合宿させたり[363]、もともとギターを弾いていた原田を当時は珍しいピアノの弾き語りに変えたり、拓郎自身が始めた"ニューミュージック系の人達はテレビに出ない"という風潮の時代に、原田には一転、パブリシティのためラジオ・テレビの出演や雑誌の取材を積極的に用意したテンプレート:Sfn[364][365]。
こうした戦略が功を奏し、シングル3曲が同時にオリコンベスト15位入り[注釈 36]、ファーストアルバム「Feel Happy」が史上初のオリコン初登場第1位(4週連続)を獲得する快挙を達成し[366]フォーライフの危機をも救った[367]テンプレート:Sfn[368]。また原田はヤマハ出身の世良公則&ツイストとともに、女子中高生を中心に爆発的人気を呼び、それまでの"日本のロック系ミュージシャン"には付いていなかった女性ファンを開拓し新たな潮流を生み出した[364][369]。"日本のロック"のメジャー化に多大な貢献があった[343][370][371][372]。アミューズは、渡辺プロダクションを退職した大里洋吉が、原田を売り出すために設立したもの[373]テンプレート:Sfn[374]。
- 石野真子
1978年デビューの石野真子については、阿久悠が他のアイドルとは違う売り方を考え拓郎に作曲を依頼した[375]。石野はフォークソングが好きで拓郎のファンだった[376]。「狼なんか怖くない」のレコーディングでは、唄えば唄う程上手くなると石野を徹夜で励まし、デビューに賭けたスタッフからは、レコーディングが終了すると大歓声が上がったテンプレート:Sfn[377]。曲の音程の上がり下がりが難しくレコーディングに8時間かかったと石野は話している[378]。拓郎の曲は難しいとキャンディーズも話していた。
吉田は石野真子に対して、デビューシングル「狼なんか怖くない」「ひとり娘」、2作目「わたしの首領」「いたずら」、そのほか「ぽろぽろと」、「ジーパン三銃士」(すべて作詞は阿久悠)を提供した。
- なかにし礼
1977年、なかにし礼にアルバム製作を依頼し、なかにしが全曲作詞・作曲・歌唱したアルバム『マッチ箱の火事』がフォーライフから発売された。このアルバム中の「時には娼婦のように」が翌年、シングル・カットされ、なかにし歌唱の盤と黒沢年男の盤との競作となり、いづれも大ヒットした[379][380]。歌詞が際どい内容で、黒沢も尻込みして嫌がる程であったが「賛同者は拓郎一人だけだった」となかにしは話している[380]。本曲は、すべてのテレビで放送禁止扱いになるなど物議を醸した[381]。 テンプレート:Main2
ラジオ・パーソナリティとして
- しゃべり(MC)の魅力
ソノシート制作のきっかけとなった1970年6月の広島フォーク村アルバム発売記念コンサートで拓郎を初めて見たという「ヤング・ギター」初代編集長の山本隆士は「しゃべりが面白く『歌えて、しゃべりも出来る』というスタイルは拓郎が最初じゃないかな」と述べているテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn。田家秀樹は「それまではレコード会社専属の作詞家、作曲家、歌手が音楽を手掛けるのが主流だったが、ラジオ番組がフォークシンガーたちに曲を発表する場所を提供したことで、吉田拓郎らがラジオで一時代を築いた結果、話が面白くて、曲が魅力的であれば誰でも世の中で注目を集められるようになった」と論じている[57]。竹内まりやは「拓郎の話が面白くてラジオをずっと聞いていた。それまでラジオで話が面白い人はいなかった。そこもセンセーショナルだった」などと話している[68]。
拓郎のファンになった切っ掛けとして長渕剛のようにギターやハーモニカを掻き鳴らして唄う姿に痺れたという人や、ルックスに惚れた、とにかく曲がよかったという人など色々だが、その他、コンサートでの"シャベリ"、"しゃべり"今でいう"MC"の面白さや歌唱時の声とは違う、喋るの時の低音でよく響く声の魅力を挙げる人も多い[7][382][383]。 ホリプロで井上陽水の初期のマネージメントを担当した川瀬泰雄は『拓郎らはしゃべりが上手で、コンサートの半分はしゃべりで客をわかせたりしていた。ところが陽水はぜんぜん受けず。たまにコンサートでポツリと受ける言葉をメモして陽水に渡した。ともかく客に受けることで必死だった』と話している[384]。
初期の拓郎の"しゃべり(MC)"は長く、持ち時間50分のステージでたった2曲を演奏し、残り40分がMCというようなこともあった[385]。
こうした拓郎の"しゃべり"を当時のアマチュアもよく真似た。この頃のフォークシンガーは自分の思ったこと、「バカ野郎、テメエ、この野郎」「テメエ、ブッ殺してやる」とか、あっさり平気で言っていた[386]。上京直後は、酒気を帯びてステージに上がることがあり、ステージマナーが悪いと叩かれた[387]。
拓郎は1972年5月の「guts」のインタビューで「日本のフォークの連中はレコードは最高だけどステージがおもしろくない」と話しており[245]、後年始めたコンサートツアーと共にこうしたコンサート/ライブでの演出スタイル、ステージングに於いても草分けであった[132]テンプレート:Sfn[388]。これは後、多くのレギュラーを持ったラジオのパーソナリティでさらに活かされることになる。
- ミュージシャン・パーソナリティ
1971年10月にパックインミュージックのパーソナリティに就任したのを皮切りに、担当した多くのラジオ番組と合わせ深夜放送のミュージシャン・パーソナリティのスタイルを確立したテンプレート:Sfn[389][390][391]。深夜放送のDJを"パーソナリティと"いう呼び方に変え始めたこの頃から、各局はこぞってフォークシンガーを起用[392]。これは巨大メディア化するテレビに対して、若者のパーソナル・メディアとしての存在に生き残りをかけていたラジオと、この後テレビを出演拒否する拓郎を始めとするフォークシンガー達が、ステータスを維持するための利害関係が一致した結果であった[393]テンプレート:Sfn[394]。それは商業的にも大きな可能性を秘めた市場の開拓であった[393][395]。亀渕昭信は「深夜放送ブームと並行しまして、ちょうどフォークソングも全盛期を迎えました。吉田拓郎さん、南こうせつさん、さだまさしさん、松山千春さんといった、非常にしゃべりのうまい方をラジオのパーソナリティに起用したんですね。深夜放送ブームが去ってからも彼らの力によってラジオ番組は生き延びていったと言えるでしょう」と述べている[396]。また、「中島みゆきさんにしろ、吉田拓郎さんにしろ、自分の内面や生き方を、ちゃんと番組の中で晒していたから、パーソナリティーとリスナーの距離が近くて濃密な関係を築けた。生き方を晒していたことが、曲づくりにもつながって、ファンもそれを支持していた。キャラクターが強く、人間性が出ていたから、長い間アーティストとしての影響力を保てた」などと述べている[397]。
- 楽曲のプロモーション
ラジオでレギュラー番組を持ち、ヒットを出すやり方は、その後のニューミュージック系歌手の常套手段となった[398]。また拓郎の場合は自作曲の売り込みだけでなく、フォーク、ロック普及のため、他のアーティストを広く紹介したという功績もある。先に挙げたように当時、最も影響力のある現役ミュージシャンとしてボブ・デュランを広く紹介したという功績はとてつもなく大きいが、この他、ガロの「学生街の喫茶店」やダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「スモーキン・ブギ」の大ヒットは拓郎が自身のラジオ番組でプッシュしたのが大きな理由だった[398][399]。
ラジオのパーソナリティが曲を紹介するのは当たり前だが、局アナよりも現役ミュージシャンが紹介すれば、より強い影響力を持つ。現役ミュージシャンが、まだ世に出ていないミュージシャンをメディアで紹介するという今に繋がる慣習は拓郎らの時代から。
- プロモーションの具体例
小田和正は1972年、拓郎が「パックインミュージック」でかけたチューリップのデビュー曲「魔法の黄色い靴」に大きな衝撃を受けたと話している[400]。
ECDも「パックインミュージック」で拓郎が次々と紹介する未知のフォークシンガーに大きな影響を受けたと話している[401]。
古井戸の金崎芳樹(加奈崎芳太郎)も、『拓郎が「パックインミュージック」で「花言葉」をかけてくれたときには、チャボ(仲井戸麗市)と夜中電話し合って泣いた。自分たちも担当番組(ラジオ関東・ナイト・トゥゲザー)で、他のフォークシンガーの紹介役になれればいい』と話していた[402]。
浜田省吾も拓郎が「吉田拓郎のオールナイトニッポン」で「二人の夏」を流してくれたら、夢うつつ状態の時にぱっと起きて「これが日本中に流れてる!」と感動して正座して聴いたという[403]。
この他、1972年沖縄の本土復帰直後に佐渡山豊らの「沖縄フォーク村」をラジオで紹介し大きな反響を呼んだ。
1973年頃から深夜放送はあのねのねや笑福亭鶴光等、関西お笑い系、を加えて、それまでの局アナ中心から芸能人、タレント中心のラインナップに大きく変化、メジャー化し全国ネットとなって深夜放送は黄金期を迎えた[404]。
フォーライフの設立
出演
現在の出演
- 「吉田拓郎の千夜一夜」→「吉田拓郎 YOKOSO」(NHK BSプレミアム、2013年 - )
過去の出演
テレビ
太字は冠番組、メインパーソナリティの番組
- 音楽番組
- ミュージックフェア'74(フジテレビ、1974年11月12日)南沙織と共演。
- 輝く!日本レコード大賞(TBS、1974年12月31日)
- 愉快にオンステージ(NHK総合、1989年10月23日・1990年1月29日)ホストとして出演。
- 第45回NHK紅白歌合戦(NHK総合、1994年12月31日)
- LOVE LOVE あいしてる (フジテレビ、1996年 - 2001年3月31日)KinKi Kidsと共に司会を担当。
- ワールドカウントダウンスーパースペシャル24時間まるごとライブLOVE LOVE2000〜世界中の子供たちに僕らが愛でできること(フジテレビ、1999年12月31日 - 2000年1月1日)KinKi Kids、篠原ともえと共にメインパーソナリティを担当。
- 吉田拓郎~これからも元気です(TBS、2001年2月10日)
- 吉田拓郎デラックス(NHK-BShi、2002年12月9日)
- 堂本兄弟(フジテレビ、2003年4月4日、11日)
- 拓郎・マチャミのみんな歌えるスーパーヒット(フジテレビ、2003年10月12日)
- 吉田拓郎&かぐや姫 in つま恋2006・総集編(NHK-BS2、2006年10月29日)
- 僕らの音楽(フジテレビ、2007年7月20日)
- 大いなる明日へ 〜復活!吉田拓郎〜(NHK-BS2、2009年3月22日)
他多数
- テレビドラマ
- おはよう(TBS、1972年7月5日 - 1972年10月25日) - マリの兄・吉野役
- あこがれ共同隊(TBS、1975年) - ゲスト出演
- なつかしき海の歌(TBS、1975年9月21日) - テレビ局AD・下沢役
- 男なら!(TBS、1979年9月4日) - 本人役で第22話にゲスト出演。
- しあわせ戦争(TBS、1980年10月8日) - ミュージシャン・岸本衆役として第6話にゲスト出演
- 幕末青春グラフィティ 坂本竜馬(日本テレビ、1982年11月16日) - 高杉晋作役
- マッハブイロク・Big大作戦(フジテレビ、2000年6月29日) - 本人役
- バラエティ番組
- 地球ZIG ZAG(TBS、1993年4月 - 1994年3月)隊長(司会)を担当。
- 吉田拓郎のお喋り道楽(TBS、1997年4月4日 - 9月26日)
- 第11回FNS27時間テレビ 疾風怒涛!FNSの日スーパースペシャルXI真夏の27時間ぶっ通しカーニバル 〜REBORN〜(フジテレビ、1997年7月26日 - 27日)
- T×2 SHOW (テレビ朝日、2000年10月 - 2002年9月)高見沢俊彦と共に司会を担当。
- 旅番組
- 吉田拓郎・牧瀬里穂・ラサール石井のトキメキ心の故郷三人旅故郷・鹿児島県で思い出の地を巡る(日本テレビ、1997年11月9日) - 牧瀬里穂・ラサール石井と共演。
- 吉田拓郎&中村雅俊・よみがえれ青春!シッチャカメッチャカ!広島の旅(TBS、1999年7月25日) - 中村雅俊と共演。
- 吉田拓郎&中村雅俊・欲張りワガママ四国旅(テレビ朝日、2003年9月20日、2004年7月10日) - 中村雅俊・眞鍋かをりらと共演。
- ドキュメンタリー番組
- 吉田拓郎TV特番『吉田拓郎 〜これからも元気です〜』(TBS、2001年2月10日)
- スーパーテレビ情報最前線 『吉田拓郎 「復活」への軌跡』(日本テレビ、2003年10月27日)
- プレミアム10 『今日までそして明日から〜吉田拓郎・35000人の同窓会〜』(NHK総合、2006年10月23日)
他多数
ラジオ
- パックインミュージック(TBSラジオ、1972年4月 - 9月)
- たくろうの気ままな世界(TBSラジオ、1972年10月 - 1973年5月)
- バイタリス・フォークビレッジ(ニッポン放送、1972年)
- 吉田拓郎のオールナイトニッポン(ニッポン放送、1974年4月 - 1975年12月、1980年10月 - 1982年3月)
- セイ!ヤング(文化放送、1978年4月 - 1980年3月)
- ヤングタウンTOKYO・サタデーナイトカーニバル(TBSラジオ、1980年4月 - 1981年10月)
- フォーエバー・ヤング(TOKYO FM、1985年1月 - 1988年2月)
- 吉田拓郎 CLUB25→吉田拓郎 CLUB26→吉田拓郎 CLUB26プラスワン(TOKYO FM、1995年1月 - 1996年12月)
- 吉田拓郎のオールナイトニッポンDX(ニッポン放送、1997年10月 - 1998年3月)
- 吉田拓郎 それイケ!(ニッポン放送、1998年4月 - 1999年3月)
- 吉田拓郎のSuper Music Stadium(ニッポン放送、2000年10月 - 2001年3月)
- 吉田拓郎とアスリートな彼女達(ニッポン放送、2001年10月 - 2002年3月)
- セイ!ヤング21(文化放送、2002年10月 - 2003年3月)
- 吉田拓郎 わがままベスト10(ニッポン放送、2003年10月 - 2004年3月)
- 俺たちのオールナイトニッポン40時間スペシャル(ニッポン放送、2008年2月24日)
- 吉田拓郎 残暑お見舞い申し上げます(ニッポン放送、2008年8月)
- 坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD(ニッポン放送、2009年12月 - 2013年9月)
- 元気です!吉田拓郎(ニッポン放送、2010年10月 - 2012年3月)
映画
- 女子学園ヤバイ卒業(1970年) - 本人役
- 百万人の大合唱(1972年) - 本人役
- 刑事物語 くろしおの詩(1985年) - 屋台のラーメン屋の客役
- 幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬(1986年) - 高杉晋作役
- 微熱少年(1987年) - カメラマン役
CM
NHK紅白歌合戦出場歴
NHK紅白歌合戦には1994年に初出場。バックバンドは宮川泰(キーボード)、日野皓正(トランペット)、日野元彦(ドラム)、大西順子(ピアノ)、石川鷹彦(アコースティックギター)、渡辺香津美(エレキギター)、金沢英明(ウッドベース)、吉田建(ベース)、さらにバックコーラスとして五木ひろし、森進一、前川清という豪華の顔ぶれのステージとなった。
年度/放送回 | 回 | 曲目 | 出演順 | 対戦相手 |
---|---|---|---|---|
1994年(平成6年)/第45回 | 初 | 外は白い雪の夜 | 11/25 | 松田聖子(10) |
関連人物
主な共演者・サポートミュージシャン(レコーディングを含む)
あ行 |
か行 |
さ行 |
た行 |
な行 |
は行 |
ま行 |
や・ら・わ行 |
グループ |
外国人
|
3度の結婚
- 最初の四角佳子との結婚は、拓郎が路上で4人を相手にケンカしてメチャクチャにぶちのめされたのを四角が介抱したのがきっかけ[245]。
- 二人の結婚式は1972年6月、軽井沢の教会で行われたが、婚約発表も自身のラジオ番組、パックインミュージックの中だけ、マスコミの取材・会見も一切しなかった。おめでたい結婚でマスコミを拒否するということも当時の常識では考えられないことだった。
- スターが結婚したら人気は間違いなく落ちる、というのも世の常識だったが逆に人気が上昇した。
- 拓郎の酒癖の悪さは有名で、上京当時は酔って週に1度はケンカをやったという[245]。
- 四角との間には三度の結婚歴で唯一の子供(娘・一般人)がいる[405]。
- 二人目の妻となった浅田美代子は拓郎自身もファンで、当時21歳で人気絶頂期だった浅田を自分の持ち番組にゲストで呼び、その後結婚した。
- 後に浅田が芸能界に復帰し「オシャレ30・30」等のトーク番組でその時のことを詳しく話してしまい、拓郎の行状が明らかになった。ゲスト出演して電話番号を交換すると後日(浅田の誕生日の前夜に)拓郎から電話がかかってきて「今、小室等さんと飲んでるんだけど、誕生祝いしてあげるから0時過ぎたら来なよ」と誘われた。マネージャーからは会ってはいけない、と釘をさされていたが、言われた酒場に行くと拓郎一人しかいない。「小室さんは?」と聞くと「ああ今帰ったよ」と言った。小室をダシに使ったわけである。
- 一説には男子トイレの前で拓郎が通せんぼをして「俺と結婚しろ!」と浅田に迫ったところ、浅田は恐怖と照れと喜びが混ざって頭の中が真っ白になり、思わず「ハイ」と承諾してしまった、とも言われている。
- なお拓郎からプロポーズを受けた浅田美代子の返事は 「……ハゲない?」だった[406]。
- 最初にこの二人の熱愛報道が出た時は、まだ四角との離婚は成立しておらず、この結婚には内田裕也・樹木希林夫妻の奔走があったという[407]。
- 以上、2度の結婚式の披露宴の司会は、いずれも山本コウタローと南こうせつのコンビが務めた[408]。
- その後再び同じパターンで森下愛子とも結婚した。二度目のオールナイトニッポンのゲストで呼んだ時、森下は警戒し親友の竹田かほり(現・甲斐よしひろ夫人)と一緒にやって来た。森下は当時、根岸吉太郎との結婚が噂されていたが急転、拓郎と再々婚したテンプレート:Sfn。
- 「吉田拓郎&中村雅俊・欲張りワガママ四国旅」[409]や『坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD』[410]での、拓郎と中村雅俊の話では、拓郎と森下をくっつけたのは中村。中村から拓郎に夜に電話があり「いま、森下さんと飲んでるんだけど来ませんか」と誘われ、朝8時まで3人で飲んだ。中村はTBSのドラマの撮影が朝8時から大船であったので、「拓郎さん、ホテルに行っちゃいなさい」とアドバイスしてその場を去り、2時間半遅れで大船に到着した。拓郎と森下はその後ホテルに行ったと話している。
- 「オシャレ30・30」に出演(1988年5月15日)した森下自身の話では、ラジオにゲスト出演した2、3年後に偶然?美容室で(当時、アンドレ・ザ・ジャイアントみたいな頭をしていた)拓郎に会って「今レコーディングやってるんで、見に来ませんか」と誘われて行ったのが付き合い始めた切っ掛けという[411]。
- 他に古舘の「拓郎さんみたいな人を相手にするの大変でしょう?」という質問に対して森下は「いいえ、前のお二人が角を取って下さったみたいで、今はとても扱いやすいですよ」と答えていた。これらもフォーク・ロック系ミュージシャンとアイドル、あるいは女優との結婚の先駆けであった[412][413]。
- ただ、「(ドラマ『純と愛』の)主人公のような夫がほしいなぁ」とも吐露。拓郎さんは違うのか?と問われ「まだまだ調教が必要。」と答えている[414]。
- その他
- なおこれとまったく同じことを長渕剛が石野真子との結婚の時にした[106]テンプレート:Sfn[415]。こちらをセッティングしたのは当時、オールナイトニッポンの構成作家をしていた秋元康[121]。ハワイの教会で行われた長渕と石野の結婚式の仲人を務めたのは拓郎と浅田夫妻(当時)であった[121][412]。
交友関係
ミュージシャン
- 浅川マキのファンだった拓郎は、アマチュア時代に広島から上京し、渋谷ジァン・ジァンで唄う浅川を見に来ていたという[416]。拓郎のブレイク直前には二人でジョイントコンサートも行っている[417][418]。
- 写真家・TAMJIN(田村仁)が拓郎の写真を長く撮り続ける切っ掛けとなったのは、田村が撮った浅川マキのファーストアルバム『浅川マキの世界』の写真を拓郎が気に入り撮影を依頼をしたのが始まりで、中島みゆきも同じ理由[419]。
- 浅川マキは著書『幻の男たち』の中で拓郎とのエピソードを書いている。1980年代半ばに雑誌で拓郎の「女ともだち」を拓郎自身が写真で撮るという企画があって、拓郎は田村と共に浅川の部屋を訪れ浅川を撮った。撮影後、拓郎が「前にこの部屋に来た、新宿で一緒に飲んだ帰りだった」といった。しかしこれは拓郎の記憶違いで、拓郎が来たのは拓郎の深夜放送にゲストで呼ばれた日の後、と書いている[416]。
- 1981年、オールナイトニッポンの番組企画で、拓郎のメドレー曲の製作を依頼された"墨田川高校の拓郎"こと坂崎幸之助(覆面バンド・BE∀T BOYS)は「待ってました」「俺しかできないだろ」と、遊びで製作に励み、歌も生ギターの弾き方もMCもコピーする徹底ぶり見せた。高校時代の青春・拓郎と仲良くなれた坂崎は、「僕のフォーク人生はこれで終わってもいい」と思ったという。この完成度から、1988年に形を変えて復活した際は大人気となり、レコード発売や全国ツアーを行った[420]テンプレート:Sfn。
- 高見沢俊彦が、現在のようにピンでテレビやラジオに出演するのは『T×2 Show』(テレビ朝日系、2000年10月 - 2002年9月)の司会を拓郎と担当してから。それまでは積極的にテレビには出ず、出演依頼も断り、場を仕切るなど考えもしなかったが、高見沢の面白さに目を付けた拓郎から「お前はテレビが性に合う」「将来必ず財産になるから」「俺の横にいるだけでいい」などと説得されやむなく出演した。ところが進行役は全てやらされたという。しかし、今では心の底から拓郎さんには感謝している、と述べている。また高見沢の“王子”キャラは拓郎がそう呼んだのがきっかけで始めたもの[421]。高見沢は“王子”キャラの元祖である[422]。アルフィーにとっても拓郎はキーパーソンとなる[423]。
- 拓郎と同じく歌手出身のレコード会社社長経験者という共通点もあり、懇意にしている。
- 拓郎がフォーライフレコードからインペリアルレコードに移籍したのは、飯田がテイチクエンタテインメント代表取締役社長に就任したからである。また、飯田がエイベックスの取締役に就任した後、拓郎も飯田を慕いエイベックスに移籍した[424]。
- 泉谷は、エレックレコードの後輩で、エレックを抜けた拓郎の代わりに売り出されたスターだった。世の中が泉谷の歌を下手だと言った時も「うまい、うまい」と褒めてくれたという。エレックが倒産しフォーライフを設立した時も、拓郎は泉谷を引き入れ、フォーライフが内部抗争を始めて泉谷が辞める時も懸命に引き留めた[425]。
- 1999年のかまやつひろしの還暦を祝うパーティーで、その泉谷やユーミン、井上陽水、堺正章、桃井かおり、アルフィー、今井美樹、石井竜也、NOKKOらが集まって[426]東京飯倉のキャンティで会食したおり、拓郎が酔って「お前らみんな音楽を愛していない」などと延々とまわりに絡むので、泉谷が「しつこいぞ」とブチ切れ、フォークを持ってテーブルを乗り越え拓郎に掴みかかり大乱闘となった[427]。まわりの男は、堺正章や、かまやつひろしのような小僧ばかりで(拓郎談)誰も止められず、ユーミンからは「やれ!やれ!」とケンカをけしかけられるわで引くに引けず(泉谷談)、ようやく森山良子が「外でおやんなさいよ」と一喝、ケンカをやめさせた[428][429][430]。
- この、かまやつひろしの誕生日パーティーで、拓郎が酔ってネチネチカラんで泉谷とケンカ→森山良子が一喝、という流れはフォーライフから泉谷が抜けた1970年代後半頃にもあり、最後のケンカ1999年以来、泉谷と拓郎は断絶状態になっていたが2011年7月、12年ぶりにラジオで再会し和解した[429]。
- 拓郎は、1971年7月からライブハウス・渋谷ジァン・ジァンで定期コンサートを始めたが、当時拓郎の前座をよく務めていたのが「僕の好きな先生」や「2時間35分」などをアコースティックでやっていたRCサクセションだった。忌野清志郎は当時、拓郎が嫌いで出番が終わると顔も見ないで帰っていたという[431]。とは言っても、特に確執があったわけではない。拓郎はこの頃の事を振り返り「RCとはあの頃よく同じステージに立ってたよ。弾き語りで歌も暗いイメージのフォークソングが多い中で、アコースティックでもポップでR&B的な存在は見ていて楽しかった」と語っている[432]。
- 逆に、拓郎は清志郎が好きだったようで、NHK-AM『若いこだま』 のDJ等を務め、1970年代のニューミュージック系ミュージシャンの売り出しに功績のあった吉見佑子が1970年代の後半、まったく売れていなかったRCサクセションの廃盤になっていたアルバム『シングル・マン』の再発に業界を奔走した時も、拓郎は「オレはRCが好きだ」と自身の番組「セイ!ヤング」でRCの曲をプッシュした[433]。
- 清志郎は『LOVE LOVEあいしてる』にもゲスト出演(1998年12月5日)しており、アルバム「ハワイアンラプソディ」で拓郎に「こころのボーナス」を提供した[434]。
- 清志郎がテレビで奥田民生と初共演した時には、「オマエ広島(出身)かぁ 何だ、それで吉田拓郎に顔が似てるのかぁ~」とムチャ言ったこともあった。
- 同期でもある小田は、拓郎を盟友と呼び認めている[435][436]。初めて会ったのは、コンサート会場の通路。ギターの弦が切れて予備がないため、面識のない拓郎に頼むと「あ、いいよ」と快く貰えたのがきっかけ[435]。小田が売れたのはずっと後だが、拓郎は既に大スターだった。初期の拓郎について小田は「ラジカルなイメージだけかと思えば、実はそうではなく、すごくロマンチックでナイーブな、でも強い言葉を持ってるシンガー」と評していた[435]。
- その後、拓郎のラジオ番組でゲストに呼んだ小田に初体験の話を聞き、小田ファンから大量のカミソリを送りつけられる事件があり[437]、付き合いが少々濃くなったのは、前記の1982年に小田が"日本グラミー賞"を作ろうと奔走したときから。結局この構想はミュージシャン仲間の賛同が得られず頓挫したが、これは1985年、国際青年年(IYY)記念イベント"ALL TOGETHER NOW"(6月15日、国立競技場)の下敷きとなり、亀渕昭信の音頭取りもあって、これの運営に拓郎と小田は大きく関わった。コンサートのオープニングアクトでもあった拓郎のバックバンドはオフコースが務めた。
- この後、1994年の長崎・普賢岳噴火災害救済コンサート(3月13日、長崎市公会堂)、「日本をすくえ'94」(8月16日、日本武道館)、1996年の阪神・淡路大震災救済支援コンサート(9月14、15日、神戸ワールド記念ホール)と、三度のチャリティコンサートを拓郎と小田、泉谷しげるで企画運営[注釈 37]。復興支援を目的とした「スーパーバンド」の発案は拓郎という[429]。長崎・普賢岳噴火災害救済コンサートは、ギター・泉谷、ベース・拓郎、キーボード・小田、ツインドラム・浜田省吾、大友康平が基本メンバーのスーパー・バンドを結成し、井上陽水や忌野清志郎、さだまさし、南こうせつなどのゲストミュージシャンの曲を演奏するというものだったが、即席バンドで短期間の合宿ではなかなか上達せず、どんどんコードが簡略化されて、さらに拓郎が「親しくない奴と2日以上いられない」とダダをこねたりでピンチを迎えた[438]。しかし、なんでも弾ける坂崎幸之助がこのピンチを救い、無事開催できたという。
- 同じ1994年8月16日には、日本武道館で「スーパーバンド」による「日本をすくえ'94」チャリティコンサートが行われた。このコンサートのドキュメンタリー番組「日本をすくえ'94」が、小田和正のナレーションで同年9月14日にテレビ朝日系『水曜特バン!』枠でテレビ放送された[439]。この中で拓郎の傍若無人ぶりにオロオロする泉谷と小田がテレビに映し出された。長崎でやった「スーパーバンド」のメンバーが全員揃うということで拓郎は引き受けたのだが、うち数人が参加出来ないという話になって、さらに出演が確定していないミュージシャン、出演交渉もしていないミュージシャンの名前がスポーツ新聞に出てしまい、各所属事務所から苦情の電話が掛かり出演交渉が暗礁に乗り上げ拓郎が激怒、「まわりに迷惑をかけてまでやることはない」「コンサートは中止だ」などと泉谷と小田に迫った。泉谷は「オレと拓郎、小田、伊勢正三、大友康平の5人だけでもやりたい」と「何とか開催したい」という二人の意見を却下し続け、最後に小田が「流そう(中止しよう)」と言うと、それまで散々中止すると言っていたのに拓郎は「やる。俺が決めた」と言い出した。泉谷は「拓郎は、いざ練習が始まると、この曲はイヤだ、あれは歌わないって言い出す。あまりにわがままなんで、そこまで言うならオレと小田さんで会見やって武道館は中止と発表しようと。ところが、やめると言うとイヤだと言うんだよ。あれは振り回された小田さんもショックだったんじゃないか」と当時の思い出を話した。日本武道館時の「スーパーバンド」は、この後メンバーを加えたもの。こうして拓郎と小田は苦労を共にした間柄となって、打ち上げの席で酔った拓郎が小田の膝枕で寝るということもあったというテンプレート:Sfn。それでも泉谷は拓郎を引っ張り出して、東日本大震災支援ライブのため「スーパーバンド」を蘇らせたいという。
- 2000年4月3日放映の「LOVE LOVE あいしてる」にゲスト出演した際、小田は拓郎を「コイツ、コイツ」と呼び「拓郎さんをコイツと呼べる人がいるなんて」とKinKi Kidsを驚かせた。他に1994年の対談でも小田は「拓郎の曲っていうのが、近い将来、また"くる"と思う」と話していたテンプレート:Sfn[440]。
- 山田パンダは師と仰ぐ拓郎を年上と思っていたが、年下と分かり、デビュー時に自ら一歳さばを読み、拓郎と同学年としてきた。彼をずっと同い年だと思ってきた拓郎は会うたび「おい!馬鹿野郎!」と呼び続けてきた。パンダは、30年以上たった2005年に還暦を迎えた際、年齢詐称していたことを公表した。
- まだ3人が高円寺の風呂のない部屋に3人別々に住んでた時に、拓郎はすでにスターになっていて豪華マンションに住んでいた。3人は「神田川」みたいに拓郎のマンションの前を通って風呂屋に本当に行っていたが、ある日、拓郎がベランダで長い髪なびかせて、朝ブローをしてるのを目撃し、山田パンダは「あんなマンションに住んで、朝ブローして。あれが夢だ、こうせつ」と南こうせつにプレッシャーをかけていた。
- かぐや姫の最初のアルバムに拓郎が参加したが、かぐや姫のアルバムなのに3人の写真より拓郎の写真のほうが大きく掲載されており、「吉田拓郎プロデュース」という字が大きく載っていた。
- 2000年に、かぐや姫が22年ぶりに再結成したのは、1999年の「南こうせつ サマーピクニック」で、井上陽水とゲスト出演した拓郎が、南こうせつと伊勢正三を見て「陽水も俺もいる。何でかぐや姫がいないんだ?」と、山田パンダを無理やり東京から九州まで呼びつけたのがきっかけ[441]。
- 小田和正が、1982年に"日本グラミー賞"を作ろうと奔走し、六本木で拓郎やユーミンや矢沢永吉、さだまさしらを集めて飲み会をした時、加藤が「拓郎は生意気なのは許せるけど松山千春が生意気なのは許せない」と怒って帰ったというエピソードがある[445]テンプレート:Sfn。
- 作詞家・安井かずみの自宅は「川口アパート(プール付き)」(川口松太郎が造った高級マンション)と呼ばれ加賀まりこ、野際陽子、コシノジュンコや当時のトップモデル・シャロン宮田、ナンシー村井ら多くの業界人が集った。そこは大使館のような世界で、拓郎はカルチャー・ショックを受けた[446]。誰にも紹介してもらえず、「絶対に東京に負けてはならない」との思いを更に強くした。
- 同業者だった安井には「あなたたちが来てから日本はすごくつまらなくなった」「あなたの詩って男のエゴばかり、女のことなんか何も分かってない」と言われ大ゲンカとなり泣かれて、「拓郎にいじめられた」と言い触らされたこともあったという。
- 1994年に安井が亡くなり、拓郎は「安井の言葉はとても響き、すごい大事な人を失った感じがある」と述べている[447]。
- 2009年10月、加藤和彦が亡くなった後、拓郎は「坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」で加藤を追悼し、加藤との思い出を話した。
- 出会いは1971年、拓郎がセルフプロデュースしたアルバム『人間なんて』のレコーディングに加藤が参加してから。これは木田高介の紹介だったと思うという。このレコーディングで加藤は、拓郎が知らなかったボトルネック奏法やジェームス・テイラー奏法などを披露し拓郎を驚かせた。このアルバムの制作に先立ち、拓郎がスリーフィンガーで作った「結婚しようよ」を「パックインミュージック」で弾き語りで流したところ、大きな反響があり、シングル化の予定をしていた。ところが、この「結婚しようよ」の弾き語りバージョンは「今日までそして明日から」によく似ていて、「同じだとつまらない、何か他のアレンジはないか」と考えていたため、この「結婚しようよ」や「どうしてこんなに悲しいんだろう」「自殺の詩」などの編曲(アレンジ)を加藤に頼むことにした。
- 安井かずみとは、加藤と知り合う以前から付き合いがあり、仕事を一緒にしたのは、1973年の猫の「戻ってきた恋人」の作詞を頼みに行ったのが最初[303]。拓郎は安井に気に入られ、柳田ヒロ、加賀まりこを交えた4人で毎晩、六本木のディスコに行っていたという[448]。
- 安井と加藤が結婚してからは家族ぐるみで付き合いがあり、1986年には、安井と加藤のプロデュースによりアルバム『サマルカンド・ブルー』を出した[303]。ただ、拓郎はこの二人の作品は自分のイメージと違うので、本当はやりたくなかったが、「NYでレコーディングするから」「(拓郎が好きな)ホイットニー・ヒューストンに会わせてあげるから」などと口説かれて仕方なくやったと話している。そのときは結局、シンディー・ローパーに会わされて終わった[303][449]。
- 1994年に安井が亡くなり、1年後に加藤が中丸三千繪と再婚してからは、拓郎は加藤とは疎遠となり、以後は、まったく付き合いがなかった[303][450]。これは加藤が中丸のために、安井に近かった人を意図的に遠ざけたためである。加藤と付き合いはなくなっても拓郎は、「若者たちが自分の手でつくる『日本の若者のポップシーン』の先駆けとなったのは、フォーク・クルセダーズであり加藤和彦に間違いない」と、まわりに話し続けていたという[449][451]。
- 拓郎は、「東京へ来てから女、アルコールなど軟派系の遊びは全部かまやつさん。今日の僕があるのは、かまやつさんのおかげ。身体はガタガタですけど」と言う。
- かまやつは、当時流行の最先端を行っていた業界人らと付き合い、拓郎を安井のマンション「川口アパート(プール付き)」等、そういう人達が集う場所に連れて行った[303]。
- KinKi Kidsとの出会いは音楽バラエティ「LOVE LOVE あいしてる」(1996年 - 2001年)での共演がきっかけで、度々テレビやラジオで共演し、プライベートでも交流をするほど仲良くなった。
- 「LOVE LOVEあいしてる」で、KinKi Kidsへのギター指導を企画されたときは全くその気にならなかったというが、彼らが休憩の合間の時間に階段で一生懸命練習しているのを見かけ、それ以来熱心に指導したという[452]。番組の企画を通じて二人のギター・作詞法・作曲法は数年かけながらも徐々に上達していき、2000年には堂本光一作曲・堂本剛作詞・吉田拓郎プロデュースのシングル「好きになってく 愛してく」を発売するまでに至った。
- 堂本光一は「拓郎さんとの出会いが音楽を教えてくれた」「番組で拓郎さんに、いきなり『曲を作れ!』と言われて。初めて作った曲を持っていったときに『よく作ったね』って言ってくれたのは、今も忘れない」「拓郎さんは俺たちに『あ、自分にも、曲が作れるんだ』って思わせてくれた」「今、俺が曲を作っているのも、あの当時のことがキッカケ。たぶん、あの出会いがなかったら、今まで作った曲たちも生まれていなかったと思うよ」等と話している[453]。
- 堂本剛も「自分の思ったことを歌詞にしてメッセージとして投げるという男の人生を目の当たりにして、音楽の自由を感じた[454]」「拓郎さんと出会ったことにより楽器を弾くことにも繋げて頂いた[455]」等と話している。
- 拓郎に憧れて上京し、エレック・レコードに入った[234]。ところが入った途端、拓郎はCBSソニーに移籍してしまった。
- 付き合いが始まったのは、だいぶ後の武田が映画を撮り始めてからで、1982年からの映画『刑事物語』の主題歌「唇をかみしめて」を拓郎が手掛けたり、1985年、映画『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』に拓郎は高杉晋作役で出演した。これは坂本竜馬を演じた武田が「ずっと背中を追いかけてきた拓郎に一回、こっち側を向いて勝負して欲しい」と相手役として遮二無二拓郎を説得したもの。最初は「お前、頭からアブラをかぶっているのか?頼むから近づくな!」と酷く嫌われていたという[456]。また武田は拓郎を高杉晋作役で起用した理由について、「拓郎の声はアジテーターの声であり、たった一声で千とか万の若者が後について行くような声。それは高杉晋作もそんな声だったんじゃないかと思うという持論で、俳優では出せないと思い拓郎にお願いした」と説明している[234][457]。
- 武田は拓郎を"我々団塊のトップアイドル、カツコ良かった"と表現している[458]。武田はテレビドラマへの進出について「僕は吉田拓郎さんみたいな歌手になりたかった。でも、どうあがいてもなれなかった。それで仕方なく横に流れたんですね。それはテレビに出るということだったんです」と話している[459]。
- 1980年8月10日、NHK-FMで『拓郎105分』という特番が放送された。この番組は長年(プロデビュー10周年)音楽業界に貢献してきた拓郎を讃え、他のミュージシャンが拓郎に感謝状を贈るという内容であった。この番組で、学生時代に拓郎の追っかけをしていた中島みゆきが、拓郎のことを「よた、よた」と呼んでいた[460]テンプレート:Sfn。与太者の意味か与太郎の意味か、または、「よしだたくろう」の姓と名の頭文字(「よ」と「た」)を取った呼称であるという説もあるが理由は不明。
- 拓郎は、自身のソングライティングが不調に陥った1995年、中島に直に楽曲提供を依頼。拓郎が詞曲の両方を他人に依頼したのは初めてのことで[461]、渡された曲が「永遠の嘘をついてくれ」で、拓郎からの当初のリクエストは「夢のない遺書のような曲を」であったが、全く逆の疾走感に溢れる実年ソングとなった[462]。この曲の歌詞が中島の拓郎に対する感情を思わす内容であったため、両方のファンから様々な憶測をよんだ。2006年のつま恋コンサートで、シークレットゲストとして登場した中島がこの曲で拓郎とデュエット、このコンサートの名シーンの一つとなった[463]テンプレート:Sfn。
- 中島は拓郎を尊敬しており、彼女の楽曲に数曲、拓郎調の楽曲があるといわれることもある[464]。
- 拓郎も中島を尊敬していると公言している。彼女のライブでバックミュージシャンとしてギターを弾きたいと数年前からオファーしているが実現しておらず、彼女がオールナイトGOLDにゲスト出演した際に直接オファーを試みたが、ライブの間じっと演奏してられるかなど質問返しされて結局YesともNoとも答えてもらえなかった。拓郎によると「どうしても『悪女』を歌う中島みゆきのバックでギターを弾きたい」らしい。この時のゲスト出演について、中島に「瀬尾さんが行くって言うから来た」とコメントされると「なんだよそれー!」と拗ねていたらしい模様が放送された。
- 長渕剛が本格的に音楽の道を志すきっかけになったのは、フォークコンサートでトリを務めた拓郎の歌を聴いて大きなショックを受けてからで、「拓郎はカッコ良かった。オレたちの世代にとっては、みんなの憧れだった」と話している[465][466]。長渕が最初にユイ音楽工房に所属したのは拓郎がいたからである[238][467]。
- 1979年に愛知県篠島で行われた拓郎のオールナイトコンサートに出演した長渕が、拓郎ファンから「帰れコール」を浴びながらも歌い続けたエピソードはよく知られる[466][243]。長渕は「あのステージがなかったら今はなかった」と話している[243]。
- ただ、1994年に長渕と桑田佳祐が揉めたときは[118]、拓郎は桑田の方の肩を持つ発言を行い、長渕をトーンダウンさせた[468]。
- 2012年の拓郎の3年ぶり復活ライブの最終日(NHKホール)の際には自ら拓郎の楽屋を訪ね、久々の再会を果たしている。そのことが後日、坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLDで語られた(その場には山下達郎&竹内まりや夫妻や南こうせつもいたらしい)。
- 桑田佳祐は1985年の著書『ロックの子』の中で、「フォークは大嫌いだったが唯一、拓郎が好きだったのは、拓郎の歌謡曲的な部分だった、拓郎のコマーシャルソングの音作りに共感したことが、自身が曲作りを始めるきっかけ、拓郎を聴いて『これなら曲が作れる』と思った」などと述べており[469]、1980年8月10日にNHK-FMで放送された『拓郎105分』では、一番影響を受けた拓郎の曲として「Have a Nice Day」[319](1972年富士フイルムCMソング)を挙げた。1985年のサザンオールスターズのアルバム『KAMAKURA』には、拓郎からの影響を思わせる『吉田拓郎の唄』という楽曲を収録している[470]。2003年夏に拓郎が癌治療で休業中には、『吉田拓郎の唄』の批判めいた歌詞部分を大幅に変更、拓郎をより賛美する内容にしてライブで歌唱し、遠い地から拓郎にエールを送った。拓郎は、2008年2月24日の「俺たちのオールナイトニッポン40時間スペシャル」の放送で療養中、桑田から復帰を願いギターのテレキャスターを贈ってもらったエピソードを披露した。桑田も、同年3月11日の「桑田佳祐のオールナイトニッポン」で、その経緯について触れ「ふらっと入った楽器店にあったギターを見た時、拓郎さんがバーンと浮かんだ。拓郎さんにこれを弾いてもらいたいと思った」「高校の頃、色んなフォークが流行ってたんだけど、拓郎さんだけが輝いて見えた。私が今ここにいられるのも拓郎さんが物凄く大きな切っ掛けになっている」などと話した[471]。原由子も拓郎の大ファンで、中学の時、深夜放送で拓郎の四角佳子との結婚宣言を聞き、布団で泣いたという[472]。
- 広島フォーク村時代からの先輩・後輩である浜田省吾とは、師弟関係にある。拓郎は、1970年にプロデビューして上京した後も、広島フォーク村のイベントなどに出演するため、度々帰郷。この頃は、スーパーの階段の催し場やレコードショップの横、などで歌うこともあった[473]。こうした折に付いてまわったのが浜田で、空港までの送り迎え等も浜田の仕事であった[474]。浜田らが「愛奴」を結成してCBS・ソニーのオーディションを受ける際も拓郎の自宅を訪れ相談。「愛奴」プロデビュー前の1974年、拓郎の全国ツアーのバックバンドに「愛奴」を起用し浜田はドラムを担当した[475]。「愛奴」の起用はザ・バンドに断られたため回ってきたもの。拓郎はツアーの直前にボブ・ディランとザ・バンドのコンサートをロサンゼルスまで観に行き、そこでザ・バンドを真ん中に、ディランがステージの端で歌うステージングに驚き、同じように「愛奴」を真ん中に、拓郎が端で歌うというステージングをやったが、浜田のドラムがヘタ過ぎて目立ち、同じようには出来なかったという[68]。
- 浜田は、1997年に拓郎の50歳を祝って拓郎のデビュー曲「イメージの詩」をカバーしたり(拓郎自身も、コーラスとアコースティクギターで参加している)、後のつま恋コンサートで再びドラムで参加するなど、長きに渡って交流を持ち続ける[476]。
- 職業作詞家としてデビューしたての松本隆にCBSソニーの、これまた若いディレクター/プロデューサーだった白川隆三から担当の新人歌手・太田裕美売り出しのため作詞依頼がきた。これに拓郎は「お前ら(太田+松本+白川のトリオ)は売れない」と酔って松本に毒付いた。結局このトリオ+作曲家・筒美京平での4曲目のシングルが大ヒットした「木綿のハンカチーフ」で無事拓郎を見返せた。太田は拓郎をいっぱいいじめたという[477]。
- 拓郎はその後、原田真二の売り出しに松本隆を起用した他1978年、初の二枚組アルバム『ローリング30』制作にあたり、ほぼ全曲の作詞を松本に依頼し二人で箱根の山に篭り、一人の作詞家との完全な共作がどれ程のものになるのか、という試みを行っている[478]。松本はこの時の拓郎との共同作業を通してより物語性を深め、1980年代にアイドルのヒットメーカーとして本格的に花開くことになるテンプレート:Sfn。松本にとってもマイルストーン的な作品となっている[479]。
- 森山は、まだ無名時代の拓郎を自身のラジオ番組(キョーリン・フォーク・カプセル、ラジオ関東?)に度々呼ぶなど、拓郎を可愛がったという。
- 森山は1971年から1972年にかけて結婚、長女(森山奈歩)出産のために休養した。そのブランクのために1973年はパッとせず。この時代になると拓郎らシンガーソングライターが台頭してきて当時、"歌謡曲歌手"というイメージがついていた森山は、アルバムが売れない状況になっていた。
- 1974年の賛美歌アルバムの完成と「ある日の午後」のヒットで盛り返した森山に1975年、「襟裳岬」を大ヒットさせた拓郎が前記の恩を返す形で「歌ってよ夕陽の歌を」を提供。曲もヒットしたことで森山のイメージは再び"フォークの女王"に戻った(同曲でNHK紅白歌合戦に出場)[480]。
- 山下達郎は拓郎について「僕と拓郎なんてある意味、今の音楽界で両極端、対極じゃないか」と過去に発言している[481]。山下は拓郎がプロデュースした1975年のTBSドラマ『あこがれ共同隊』の主題歌「風の街」に、山田パンダのコーラスとしてレコーディングに参加した。この時、拓郎にそのコーラスの歌唱指導をされて以来、拓郎とは一回も口を聞いたことがないと話していた[482]。
- 2012年8月13日の「坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」で、坂崎から「拓郎さん、日本ではどんな音楽が好きなんですか?」という話題が出た中で、「みんな以外なところでね、俺、山下達郎とか好きなんだよ、あいつのボーカルが好きなんだよ、達郎の声とか(彼の)奥さんの竹内まりやの声は、かなり俺(胸に)クるんだな。あそこの夫婦のファンだね。これ、このラジオで本邦初公開だけど」と告白した。
- この発言がきっかけとなり、同年10月1日の同番組で、お互いソロアーティストとしての立場で初共演を果たした[483][484]。この放送で山下は"私的吉田拓郎史"を言わせてもらえば2時間は喋れると話し、18歳の時、東長崎のレコード店でアルバイトをしていた時、ちょうど拓郎のアルバム『元気です。』(1972年)が出た頃で、その『元気です。』とカーペンターズの「ア・ソング・フォー・ユー」の2枚が飛ぶように売れて10枚問屋に注文しても1枚しか来なかったという思い出や、前述の「風の街」のレコーディングで拓郎に歌唱指導された話、その時のしこりで1975年のつま恋にもコーラスとして参加を要請されたが「絶対イヤ」と断った話などをした。
- 拓郎の方はそんな話はまったく知らず、山下を認識したのは1980年代になってから、毎年行くハワイで「LOVELAND, ISLAND」(1982年)を聴いて、こんなウェストコースト風サウンドを歌いこなせる日本人ボーカリストがいるのか、と感激したのが最初と話した[483]。ちなみに、この日の出会いがきっかけとなり、番組後には互いのメルアド交換をし、夫妻ともどもメールするほどの仲になっている[485]。
- 2013年6月24日には竹内が「坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」に単独出演し、番組内で拓郎の名曲「どうしてこんなに悲しいんだろう」を竹内本人のアレンジにより3人で演奏した。
- その他ミュージシャン
- イルカは、2007年他界した夫の神部和夫ともども、最も古くからのフォーク仲間で全国をどさまわりした間柄。当時は2人が所属したシュリークスが非常に人気があり、拓郎のほうが前座だった。神部はいい声の持ち主だったが、拓郎が出てきてから「もう自分がうたっているような歌の路線はこれからはダメだ。綺麗にうたっていくんじゃなくて自分のメッセージをガンガンうたっていく世の中に変わったな、これからは俺の時代じゃない」と話していたという[486]。イルカがソロデビューして曲作りを始めた時、拓郎は自宅の居間で親身になってアドバイスしたという[487][488]。シュリークスの持ち歌で、イルカのレパートリーでもある「クジラのスーさん空を行く」は、神部の詞、拓郎の作曲。
- 古井戸の金崎芳樹(加奈崎芳太郎)が1971年8月頃、エレック・レコードに入社が決まり、一度会社に挨拶に行こうと事務所を訪ねると、部屋の隅でダンボールの梱包をしているオジさんと、奥の机で電話している拓郎がいて、拓郎に「社長さんはどこですか?」と聞いたら梱包をしているオジさんが社長で、拓郎は電リクをしていた[489]。加奈崎も仲井戸麗市も、拓郎さんには可愛がってもらいましたと述べている[490]。
- 1971年11月6日、慶應義塾大学で行われたコンサートは、俗に"慶應三田祭事件"と呼ばれる。これは頭脳警察伝説として有名だが、はっぴいえんどの事務所と確執のあった頭脳警察が観客をアジりながら、えんえんと演奏を続けて居座り、次に出たはっぴいえんどの大滝詠一が「前のバンドが僕らのぶんもやってくれたので」と言ったため観客が反撥、石の飛ぶ中1曲だけ「はいからはくち」をやって帰ってしまったもの。その次の出番だったのが拓郎で、一人で全部を受けとめる羽目となり、ビール瓶が飛んで来て1曲も演奏出来ないまま引き下がった。この事をまったく知らなかった大滝は後で拓郎に「お前らよお、あれ、あの後も観客を静めるのに大変だったんだぜ、俺は」と散々言われたという。拓郎は頭脳警察にも憤慨していたが、その後、PANTAと話す機会を得て好意を持ちパックインミュージックで『頭脳警察セカンド』からシングルカットされた「いとこの結婚式」という拓郎のヒット曲を意識したような曲をプッシュしたり、頭脳警察をゲストで呼んだりしたがこの曲はヒットしなかったテンプレート:Sfn[491]。
- 小室等が1972年頃、グループを組もうと女性ボーカルを捜してりりィを決めかけていたが、その後りりィは長い旅に出てうやむやに。りりィはあの時、連絡がついていたら「今頃は私が拓郎と結婚してたんじゃないかな」と話している(小室と拓郎が非常に近い関係のため)[492]。
- 丸山圭子は1972年、コンテストで優勝するとCBSソニーとエレックレコードからスカウトが来た。当時ソニーは郷ひろみや天地真理らがいてばりばりアイドルの時代。普通だったらソニーを選びそうだが、エレックは拓郎がいて、まわりから(これからは)シンガーソングライターみたいに曲をつくりながら歌っていったほうがいいよと言われてエレックに入ったという[493]。しかしまもなく拓郎はソニーに引き抜かれる。
- 山本コウタローは1973年、一橋大学卒業時に「たくろう・スーパースター」という拓郎をテーマにした卒論を書いた。しかし内容に不満が残ったため、プロデビュー後、鹿児島や広島にまで足を運んで取材し、2年後に出版したのが「誰も知らなかったよしだ拓郎」という題名の本である[494]テンプレート:Sfn。"現役ミュージシャンが書いた現役ミュージシャンの伝記" という非常に珍しい本で[495]特にアマチュアだった広島時代について詳しく書かれており、拓郎について書かれた文章の多くは、かつてはこの本を参考にしていたテンプレート:Sfn。何故、吉田拓郎でなければいけなかったかについては、日本の音楽を変えていく、次の世代に大きな波及力を残していくアーティストは、吉田拓郎以外には考えられなかったと述べているテンプレート:Sfn[134]。
- 井上陽水と石川セリが出会ったのは、石川と松任谷由実がゲストで出ていたラジオの生放送(TBSラジオ、林美雄のパックインミュージック、1975年11月26日)のスタジオに、石川のファンだった陽水と拓郎が酔って乱入したのが最初[497]テンプレート:Sfn。陽水は「あの時、オレたちは赤坂でウロウロしてて、拓郎の頭の中に"今日はユーミンがラジオに出てる"というひらめきがなければ、まったく違った人生をオレは歩いていたでしょう」と話している[498]。
- NSPが高専仲間の3人組となったのは、拓郎が1971年に組んだ3人組のミニバンドの路線を狙ったのがきっかけ。NSPは当初ロック志向であったが、フォークブームでロックがまったく受けず、フォークグループに転換した。オリジナルを作り始める前のレパートリーは拓郎の曲が中心だったという[499]。NSP1973年のデビューアルバムに収録された「僕の夏休み」というオリジナル曲に"ギターを弾いてマークツーを二人で歌うはずだったのに"という歌詞が出る。きくち伸はその歌詞に出てきた「マークII」ってどんな曲なんだろう?、と本屋で調べて、よしだたくろうを知り、以降拓郎を追いかけるようになったと話している[281]。
- 岡本おさみの詞を使うことになったのは、岡本からの売り込みによるもの[500]。岡本との曲作りは手紙や電話でのやりとりで、プライベートでのつき合いはほとんどなかった[501][8]。岡本が送ってきた詞に数年後、拓郎が曲を付けて世に出ることがあったという。「襟裳岬」に関しては、拓郎にかなり歌詞を変更されたため共同作業だったと思うと岡本は述べている[502]。
- 1970年代半ばに、よくペニーレインなどで拓郎と飲んでいたガロの大野真澄は、拓郎から「一人でやれ、一人でやれ」といつも言われていたため、ガロの解散、所属レコード会社の倒産もあって1976年、フォーライフ入りした。この頃大野は、新曲より水原弘や服部メロディなど、昭和の歌謡曲のカバー・アルバムを作りたかった。ところが当時は全編カバー集を作っても売り方がわからない時代、スタッフから「そんなの作ってどうするの?」と言われ実現しなかった。ところが翌年1977年、拓郎が有名なカバー・アルバム『ぷらいべえと』を出したため大野は「別に僕のアイデアを使ったとは思わないけどね」と述べている[503]。
- 1976年、ペドロ&カプリシャスに在籍時の高橋真梨子と酒を飲み、ソロになると聞いて盛り上がり、「一緒にやろうよ」などとフォーライフに来ないかと熱心に口説いた。拓郎の自宅近くまで二人で歩き、高橋は「フォーライフに入る」と約束した。ところがその後高橋が所属した事務所が、レコード会社はビクターと決めていて「お願いしますフォーライフで」と頼んでも社長から「ダメ!」と言われ、それっきり縁がなくなった。拓郎は「それはビクターに行かれてよかったと思います。フォーライフに来てたらえらいことになってた」と話した[504]。
- 松任谷由実は、デビューしたての頃(その当時の姓は「荒井」) "女拓郎" と呼ばれたと[505][506]。このため、それまで聴いたことがなかった拓郎の曲を聴いた。感想は、「私のやったことは拓郎やかぐや姫とは違う。私のつくった曲は今までにない新しいものと思った。拓郎らの音楽とは違う、これを区別する例えとして"四畳半フォーク"って言葉を自分が考え出した」と自著で述べている[505]。
- 中村雅俊とは、1975年『俺たちの勲章』の挿入歌「いつか街で会ったなら」のレコーディング以来の付き合い[508]。『俺たちの勲章』は、中村主演の『われら青春!』と同じプロデューサーで、気心知れていたため、大ファンだった拓郎に音楽を頼めないかと、中村がプロデューサーにお願いしたもの[509][510]。中村雅俊がニューミュージック寄りのイメージがついたのは拓郎の楽曲提供が切っ掛けだった[511]。「拓郎は憧れ以上の存在だった」と中村は話している[509][512]。1999年7月25日には『吉田拓郎&中村雅俊の蘇れ青春!広島の旅!』という番組がTBSで放送された。拓郎が中村を2泊3日で広島の思い出の地を案内するという趣旨の番組で、「おろかなるひとり言」を着想したという実家近くの黄金山[16]や、大学時代にライブ活動の拠点にして、就職も決まっていたカワイ楽器広島店を訪ねた他、母校・皆実高校の教室で初恋の女性・準ちゃんと30年ぶりに対面もした。
- 矢沢永吉とはキャロル時代から付き合いがあり、矢沢はソロデビューした1970代後半に、フォーライフの社長となった拓郎にマネジメントのことを聞きに夜よく電話してきたというテンプレート:Sfn[513]。こうした関係からか、当時は拓郎以上にテレビもラジオも出なかった矢沢が拓郎のラジオ「セイ!ヤング」(1979年7月7日放送)と「オールナイトニッポン」(1981年6月6日放送)の2度ゲスト出演した。「オールナイトニッポン」では、拓郎が矢沢を"永ちゃん""永吉君""永吉""オマエ"(矢沢も拓郎を"拓郎""オマエ"(矢沢が年下))と呼んだ。「自分の曲をプライベートで聞くか」と聞かれた矢沢は「あまり聞かない」と答えたが、拓郎は「よく聞く、それも寝るとき自分の曲を聴きながら寝る」と言っていた[514]。
- 拓郎に憧れ多大なる影響を受けたと語る所ジョージ[515]は、『LOVE LOVEあいしてる』に三度ゲスト出演した。1997年11月29日に初めてゲスト出演した際、拓郎の曲の中で「恋の唄」が好きだから、もう歌わないならを自分が作詞・作曲したことにさせてほしい、その代わりに自分の曲を10曲あげる、と交換条件を申し出た[516]。「恋の唄」は、拓郎自身も一番好きな歌と公言していたが、所の申し出を承諾し、所はお返しに「精霊もどし」という、グレープの「精霊流し」をパロディにした曲を渡した。二度目のゲスト出演した際、所は、自分が作った曲のことを「拓郎さんもすごい歌を作りますね」とネタにして笑わせた[517]。後に、この曲を、所に返した[518]。所は「恋の唄」の2番を書き加えた曲を、1999年、自身のアルバム『洗濯脱水』に収録している[515]。所はJASRACに登録されている作詞者・作曲者名も書き換えようとしたが、認められなかったという。所は拓郎曲のパロディ楽曲を複数発表している(『LIVE 絶滅の危機』)。
- 元19で現3B LAB.☆Sの岡平健治の父親は、拓郎らと広島フォーク村に参加したミュージシャンであった[519]。広島フォーク村の実質の活動期間は2年程であったが、1978年に第II期広島フォーク村として再び活動を行った。この時に参加したミュージシャンには上綱克彦(元柳ジョージ&レイニーウッド)や原田真二、村下孝蔵らがおり、広島フォーク村の拓郎の一応の後輩となる[520]。
- 拓郎のフジテレビ系音楽番組「夜のヒットスタジオ」への初出演は1980年6月30日。その約8ヶ月前の1979年11月12日に出演が予定されていたが、直前になって曲目等の件でスタッフと折り合いがつかなくなりキャンセル。この時に拓郎の代役として「夜ヒット」初出演を果たしたのが、まだレコードデビューして間もなかったCHAGE and ASKAであり、この出演を機に一気に彼らの知名度が上昇し翌80年の「万里の河」大ヒットの土壌が育つこととなった。彼らも拓郎、陽水を聴いていた世代。飛鳥涼は「いまだに陽水さんに会うと緊張するし、拓郎さんに至っては話もできない」と話している[521]。
- 「テレビ出演拒否」のきっかけを作った布施明からは30年後に正式に謝罪を受けた。ただし最近も布施サイドから曲の依頼があるが「俺は絶対に書かない」と言っているという話もある[522]。また2006年、つま恋の復活コンサートの大成功で、この年の『紅白歌合戦』の目玉とも言われた拓郎が出場を辞退したのは布施が出るからとも言われた[523]。
- 松山千春は「拓郎が嫌い」とラジオや自著で発言[524]。これを聞きつけたか拓郎も「松山が嫌い」と発言する事態となりテンプレート:Sfn、犬猿の仲ということになっていた。2000年7月29日に「LOVE LOVEあいしてる」に松山がゲスト出演。並んで座ったが2人の会話はなく拓郎は終始無言、松山の独演会となった。拓郎嫌いの理由については、岡林信康が好きだったが岡林のあと[525][526]拓郎派と加川良派に分かれ、加川良のほうが好きになったため、好きの反対なら「拓郎→嫌いだろ」と説明した[527]。松山以外にも拓郎は「LOVE LOVEあいしてる」、注目の第1回放送(1996年10月5日)のオープニングで、唐突に「さだまさし嫌い」と発言した[528]。1997年9月20日放送の同番組で、さだまさしがゲスト出演したとき、拓郎はさだが嫌いな理由を「バイオリンを弾くから」と説明している。
- 高橋ジョージがもっとも影響を受けた番組は、拓郎が司会を務めていた「バイタリス・フォークビレッジ」(ニッポン放送)という。このラジオとは別に、テレビに出た拓郎がレコードとはまったく違うアレンジで「旅の宿」を弾くと頭の中が真っ白になるほどのショックを受け「こんなスゴいことができるなんて...これはギターを買わないとダメだ!」と急いで通販でギターを買ったのが本格的に音楽を始めた切っ掛けという[529]。
- 篠原ともえとは、「LOVE LOVEあいしてる」で共演する前に、番宣番組で共演しているが、篠原の濃いキャラに嫌悪感を抱いた拓郎は完全無視を決め込み、それでもめげない篠原に「なんだお前!?触るんじゃねぇ!!」と激怒し、追い払った。さらに「LOVE LOVEあいしてる」に篠原もレギュラー出演することを聞いた拓郎は、「アイツが出るなら、俺は番組を降りる!!」と断言。しかし、それを知らない篠原は、ほぼ毎日のように拓郎と接触し、何とかして仲良くなろうと思っていた。その努力が実ったのか、拓郎の口から「お前はウルサイけど、いないと寂しい。」との言葉が出て以来、仲が深まるようになった。ちなみに篠原は拓郎のことを「音楽の大先生」として尊敬しているが、初めて会ったときにブチ切れされた時、篠原は「もう芸能界で生きていけない」と思ったらしい。
- YO-KINGは拓郎ファンとしてよく知られ、私設のファンクラブにも入っていたという[209][530]。YO-KINGは「僕の世代には、拓郎さんをそんなに聞き込んだ人はいない。だから、そこがおもしろがられているんだと思います。それでデビューから20年以上もやってこられたんじゃないかと思います」などと話している[209]。YO-KINGも一番好きな曲という「流星」を2001年にカバーしている。
ミュージシャン以外
- 明石家さんまは拓郎の大ファンで、さんまが音楽番組「LOVE LOVEあいしてる」に出演した(1996年11月9日)[531]のは拓郎が司会だったから。拓郎の凄さをもうひとつ理解していないKinKi Kidsに、さんまは拓郎の素晴らしさを一生懸命説明したという[532]。この後、拓郎が『さんまのまんまスペシャル2001』(2001年12月28日)にゲスト出演したのも、さんまからの強いオファーがあったため。さんまは「"イメージの詩"を人生の教科書とし(拓郎をまねて)ハイライトを吸って生きてきた。今はマルボロですけど」と話し、自身がカラオケで歌うのは「イメージの詩」ぐらいという。ところが拓郎は「体のこと考えて軽いフロンティアに変えたんですよ」「僕の作る歌、全部ウソだから。信用してる人がおかしい」などと話し、さんまと拓郎ファンをがっかりさせた[15][533]。
- 志村けんとよく飲み、電話で呼び出せる仲良し[534]。志村の著書のあとがき・解説を拓郎が書いている[535]。
- 爆笑問題の太田光は「泣ける名曲」として拓郎の「流星」(1979年)を挙げている[536][537]。太田は拓郎に会って「この曲は僕の曲にしてください!」って頼んだら、拓郎に「そういえば武田鉄矢もおんなじようなこと言ってたな」と言われたという[537]。「流星」は「時代を越えて愛され続ける名曲」と評される[538]。歌詞は拓郎の唯一の子供である四角佳子との間にできた娘のことを歌ったものといわれている。ピースの又吉直樹はカラオケで拓郎の曲をよく歌うという[539][540]。
- 秋吉久美子は1972年高校三年生の時、将来を決めかね追い詰められた気持で夜中、ラジオで拓郎の深夜放送を聞いていると、拓郎が夏休み1ヶ月で四国に行って映画(旅の重さ)を作るのでヒロインを募集する、と言うのを聞き、"ああ、ちょうど夏休み1ヶ月間か、どっかに行っちゃいたいなあ"と思いオーディションを受けたのが芸能界入りしたきっかけだったという[541]。秋吉は"あたしは岡林信康、吉田拓郎、泉谷しげる、などで育った"と話している[542]。秋吉のデビュー作・映画『旅の重さ』は音楽を拓郎が担当した。拓郎はこの『旅の重さ』のヒロインオーディションに審査員として参加したが秋吉に最低得点を付け、高橋洋子には気づかなかったと話している。
- 仲村トオルは、将来の目標が見出せなかった大学時代の夏休みに、友人に誘われて行った拓郎の1985年のつま恋オールナイトコンサートに感銘を受け、俳優として生きていくと決意したという[543]。
- 江口寿史は「マークII」(1985年)という拓郎に心酔する高校時代の自身を描いた短編を書いているが[544]、レコード・コレクターズ増刊「日本のフォーク/ロック アルバム・ベスト100 1960-1989」で、拓郎のアルバム『元気です。』を私のベスト1に挙げ、「レコード・コレクターズでは拓郎の評価が低い。ほぼ黙殺に近い」と、同誌に対する皮肉を述べた上で、「このレコードとの出会いがなかったら今の自分はないという意味で断然1位であります」と話している[545]。
- 柴門ふみは「ある世代の人々にとっての美空ひばり、ある世代の人々にとっての石原裕次郎が特別な意味合いを持っように、私たちの世代にとってのその人は、よしだたくろうである。たくろうが衝撃だったのは、そのストレートなダミ声と、かわいい笑顔であった。それまでのフォークシンガーの貧乏臭い顔(岡林信康とか高石ともや)と比較して、まるで太陽の明るさの邪気のない笑顔であった。オカッパ頭の、人なつっこい丸顔のたくろうに、当時の女の子はみんなシビレたのだ。駄々っ子のようなたくろうのダミ声を復刻版で久しぶりに聴き直す。すると、当時私のまわりにいたボーイフレンドの誰よりもたくろうを愛していたことを確認した。徳島時代の同級生の男の子たちの誰も現在の私の作品に影響を与えていないが、たくろうの歌のいくつかは、私ののちの作品につながるものを感じさせてくれる」などと話している[546]。
- 漫画家では他に喜国雅彦が拓郎の大ファンで、拓郎のカバーバンド「マサ拓Z」としても活動している[547]。
- みうらじゅんの名前がひらがな表記なのは、吉田拓郎の初期の名義が「よしだたくろう」だったことに由来している[141][548][549]。みうらが50代半ばにしてまだロン毛にしているのも、あの頃の拓郎さんを引きずっているからという[141][549][550]。みうらは拓郎 の初エッセイ集「気ままな絵日記」がバイブルといい、自身の文体はどんな文豪より拓郎の影響を受けていると話している[141][549][551]。みうらは「昔は吉田拓郎に憧れて、髪の毛のばして、ギターを弾くってのが大概のルールだったんですけどね。それはスチャダラパーあたりでなくなっちゃった」「80年代は吉田拓郎さんの話を熱く語るのって絶対ダメだったね。何だか話しちゃマズイような雰囲気があった。やっと出来るようになったのは真心ブラザーズの倉持君からですよ」と解説している[552]。みうらもえのきどいちろうも「拓郎さんを選んでなかったら、今の仕事はしていない」と話している[553]。
- 泉麻人も、今の仕事をするキッカケを与えてくれた一冊は、拓郎の著書「気ままな絵日記」で、「こういうエッセーみたいな文章なら書ける」「こんな本だったら出してみたい」と思ったと話している[286]。
- 中学時代の中森明夫は「オールナイトニッポン」の拓郎の扇動にすっかり感化され、「つま恋オールナイトコンサート」は、その拓郎から招集をかけられたようなものだったと話している。行くか行くまいか最後まで迷ったが、18歳未満の終夜観客は不可とのお達しが出たことで断念したという。中森にとって「東京は、拓郎らフォーク歌手やアイドルが棲む街」で、つま恋の行われた1975年に初めて上京し、原宿のペニーレイン[注釈 38]テンプレート:Sfn[554]などにも行き東京を感じた。「1975年に上京していなければ、私は表現者になっていない」と話している。中森は拓郎を「かつて体制と闘った若者のカリスマが、時代を経て、今や老いた団塊の星として病と闘っている」と述べている[555]。
- 森達也も拓郎の深夜放送を夢中になって聴いたという[556]。
- 拓郎と矢沢永吉ファンという重松清は「拓郎や矢沢は、地方に住む僕たちに『上京の物語』を与えてくれた」と話している[557][558][559]。
- 任天堂の専務取締役情報開発本部長でゲームクリエイター・宮本茂は、大学時代に拓郎にハマったと話している[560]。
- 2013年、サッカー日本代表の内田篤人が「拓郎の曲を聴き込んでいる」との新聞記事を読みCDを大量にプレゼントした[561][562]。内田の一番好きな拓郎曲は「外は白い雪の夜」という。
- この他、江田憲司、高須基仁、佐々部清、逢坂誠二、森永卓郎らが、拓郎から特に大きな影響を受けたと話している[15][563]。
脚注
注釈
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出典
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参考文献
著書
解説書等
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外部リンク
テンプレート:吉田拓郎- ↑ 高校時代に考えた最初の芸名は入江順。好きだったモデル・入江美樹(小澤征爾夫人)と好きだった女の子の名前(準ちゃんと思われる)を足したもの(テンプレート:Harvnb、テンプレート:Harvnb)。
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 オリコン芸能人事典-ORICON STYLE よしだたくろう、吉田拓郎|アーティスト|株式会社フジパシフィック音楽出版、Profile | 吉田拓郎 | Museum of Modern Music 、TAKURO YOSHIDA (吉田拓郎) avex official website PROFILE
- ↑ 拓郎最後のツアー9公演3万枚が即日完売 - 朝日新聞デジタル、ナタリー - 拓郎から星野源まで、男性シンガーソングライター名盤紹介
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 nikkansports.com> 日刊スポーツ> 吉田拓郎インタビュー
- ↑ 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 5.5 【コラム】木田高介の果たした大きな役割|HMV ONLINE
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タグ; name "asahi2010124"が異なる内容で複数回定義されています - ↑ iTunes - ミュージック - 吉田拓郎「よしだたくろう 青春の詩」
吉田拓郎が日本のフォークソングに与えた偉大なる影響
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今日は一日 三昧(ざんまい)
HMV-UtaTen 2月にエイベックスへ移籍した『吉田拓郎』にインタビュー!!
吉田拓郎は青春の反抗者だったのか - 旅行人編集長のーと
「吉田拓郎 穏やかな日常に嘘なし」毎日新聞夕刊2009年4月16日
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ヤング・ギター・クロニクル, vol. 2『かぐや姫 青春という夢・恋・歌』、シンコーミュージック・エンタテイメント、2007年、p47 - ↑ 10.0 10.1 吉田拓郎 Takuro Yoshida4、吉田拓郎 Takuro Yoshida5
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- ↑ 12.0 12.1 井上陽水「能古島の片想い」に見る片想いの美学 | Bizコンパス
- ↑ 【時代のサカイ目】現代CMソング考 求められる視覚と聴覚への“瞬間刺激” - ZAKZAK、Vol.21 昭和48年 70年代フォークソングの季節(1/3)、読売新聞、2010年1月1日、UtaTen 2月にエイベックスへ移籍した『吉田拓郎』にインタビュー!!、吉田拓郎 3年ぶりの首都圏ライブ開催決定 | Musicman-NET、5月1日 ゲスト:富澤一誠さん - ドコモ団塊倶楽部、今週のスパテレ - 日本テレビ2003年10月27日 「吉田拓郎 「復活」への全軌跡」、田家秀樹・大越正実・藤井徹貫・前田祥丈・下村誠『日本のベストアルバム』シンコー・ミュージック、1992年、p172、『新譜ジャーナル』1979年11月号 自由国民社、p 55、松山千春-さすらいの青春-、富澤一誠、立風書房、1979年、p237-241
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- ↑ 34.0 34.1 引用エラー: 無効な
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タグです。 「.E8.94.AD.E5.B1.B1
」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ 読むJ-POP 1945-1999私的全史、p130-131
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蔭山敬吾ブログ Welcome to GRACELAND & Keigo Kageyama's LABEL - ↑ 引用エラー: 無効な
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タグです。 「yomuJPOP131
」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ テンプレート:Harvnb
坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、p26
エレックレコード社長のべらんめえブログ
ただし、浅沼専務に関しては一流のプロデューサーだったと評価する声が多い(ニューミュージック の危険な関係、1978年、富澤一誠、青年書館、p70-79、フォーク対談集、1974年、富澤一誠、アロー出版社、P40-58)。 - ↑ ツアーMC
本田 路津子・特別インタビュー - ↑ 平仮名表記「よしだたくろう」は、みうらじゅん、えのきどいちろう、いとうせいこうら平仮名表記のはしり(日本崖っぷち大賞、1998年、みうらじゅん、泉麻人、山田五郎、安斎肇、毎日新聞社、p175)。
- ↑ NHK BSオンライン
- ↑ 44.0 44.1 「音楽文化・産業論 2008 I」 講師:後藤由多加 「インディーズ創世記」
- ↑ 夢のあがり―ニューミュージックの仕掛人たち―1983年4月、富澤一誠著、音楽之友社、p41-42、51-52
- ↑ この時代はレコードが「報道」の意味合いをまだ持っていたため、朝日ソノラマのソノシートには拓郎の歌と水俣病のドキュメントが並列に扱われていた(ロック画報03 特集フォーク・ミュージック、2000 年、ブルース・インターアクションズ、p70)。
- ↑ ロック・クロニクル・ジャパンVol.1、1999年、音楽出版社、p29
- ↑ 48.0 48.1 『ニューミュージック白書』、エイプリル・ミュージック、1977年、p37
- ↑ 宮入恭平『ライブハウス文化論』青弓社、2008年、p116
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ナタリー - 日本初フェス「フォークジャンボリー」映画40年ぶりDVD化
あの「中津川フォークジャンボリー」38年ぶり復活へ
佐野史郎の音楽的生活 - ↑ 54.0 54.1 54.2 54.3 音楽と政治をめぐる対話--ニューポート・フォーク・フェスティバルと第三回全日本 フォークジャンボリーを比較して (総特集 ボブ・ディラン). 南田 勝也-『現代思想』2010年5月臨時増刊号(総特集 ボブ・ディラン)収録、p202-214
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- ↑ OOPS! ウープス - 伝説のコンサート〈エレック唄の市〉が35年ぶりに復活!
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- ↑ 75.0 75.1 75.2 吉田拓郎「元気です」p1 - ダイヤモンド・オンライン 引用エラー: 無効な
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タグ; name "diamond1"が異なる内容で複数回定義されています - ↑ Lapita 月刊吉田拓郎、小学館、p34
- ↑ 77.0 77.1 あがた森魚が語る「ベルウッド・レコード」と、伝える技術の話
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「フォーク対談集、1974年、富澤一誠、アロー出版社、p113
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「Have A Nice Day LIVE2009 吉田拓郎フォト&ロングインタビュー集」p42、43 - ↑ 1972年4月22日日本武道館、音楽舎主催。文献によっては「音搦大歌合(おとがらみだいうたあわせ)」とするものもある(サンデー毎日、1972年6月25日号、p43)。拓郎、岡林信康以外の出演者は、三上寛、六文銭、ガロ、はっぴいえんど、遠藤賢司、かまやつひろし、加川良、五つの赤い風船、山下洋輔トリオほか。
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- ↑ 132.0 132.1 132.2 132.3 132.4 テンプレート:Cite journal
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- ↑ 針金を曲げてハーモニカ・ホルダーを作り、首にかけるスタイルも日本では拓郎が最初といわれる(『徳光和夫のトクセンお宝映像!』帰ってきたフォークソング伝説2、BS日テレ、2012年3月14日放送)。
- ↑ ステージに譜面台を持ち出したのも、ニューミュージック界では拓郎が最初といわれる(あいつのクシャミ、1980年、富澤一誠、飛鳥新社、p49)。
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- ↑ ABOUT - HEADWAY Guitars Official Site
アサヒ芸能、徳間書店、2009年6月18日号、p32 - ↑ 7 - _... moment ...._
- ↑ 浦沢直樹 - ルーフトップギャラクシーw
あの時代の風
「佐野史郎、はっぴいえんどと音楽を語る」 PART 2 of SPECIAL INTERVIEW
時代に合った新しい映画を出していきたい - INTERNET Watch
ニューミュージックの本、富澤一誠監修、p54
日本のベストアルバム―フォーク&ロックの25年―、1992年、田家秀樹監修・シンコー・ミュージック、p230
4 - sotozen-net - ↑ 放送禁止歌手 山平和彦の生涯、p9
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- ↑ 「ニューミュージック・マガジン」1972年5月号、p58に、内田裕也が「いま、シンガー=ソングライターっていわれてる連中がやってることを見てると、昔、ロカビリーがだんだん歌謡曲になった、井上ひろしの『雨に咲く花』とかと同じような道を歩んでいる。だから、あんなの長続きしない」等の発言や、1973年の「guts」1月号(表現技術出版)に、「1972年度、日本のフォーク界の大ニュース」として、「吉田拓郎、あがた森魚などのシングル盤ヒットにより、"シンガー・ソング・ライター"が日本の音楽界にクローズ・アップされた」「"シンガー・ソング・ライター"の大衆化〜」といった記事が見られる。
- ↑ 149.0 149.1 引用エラー: 無効な
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タグです。 「earthmusiclibrary8
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- ↑ 「ニューミュージック・マガジン」1972年5月号、p58
- ↑ ニューミュージック・マガジン1972年6月号、p76-85
- ↑ 『ボクらの時代』(フジテレビ、2011年10月23日放送)ボクらの時代|フジテレビ|2011/10/23(日)07:00 | TVでた蔵
- ↑ 牧村憲一『ニッポン・ポップス・クロニクル 1969-1989』スペースシャワーブックス、2013年、p55、62
- ↑ 特集:筒美京平の時代 - 草野浩二氏に訊く、筒美京平の魅力
- ↑ テンプレート:Harvnb
この特集で拓郎を旗頭に紹介されているのは他にあがた森魚、三上寛、友部正人、小坂忠、古井戸、泉谷しげる、武蔵野タンポポ団。 - ↑ guts、表現技術出版、1973年1月、p30、31
サンデー毎日、1972年6月25日号は"ニュー・フォークが燃えている 若者の心をバッチリつかんだ四人の旗手" という見出しで拓郎、泉谷しげる、あがた森魚、友部正人の四人を特集している(p42-45)。 - ↑ 158.0 158.1 158.2 新版 日本流行歌史 下、古茂田信男、矢沢寛、島田芳文、横沢千秋、社会思想社、1995年、p63-64
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- ↑ 五つの赤い風船とフォークの時代、なぎら健壱、アイノア、2012年、p194-195
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日本のフォーク&ロック史―志はどこへ―、1982年9月・田川律著・音楽之友社、p72-73
アグネス・ラムのいた時代、長友健二+長田美穂、中央公論新社、p149、152-153
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わが青春の流行歌、1990年、池田憲一、白馬出版、p107
ザ・サクセス・ストーリー 矢沢永吉からY・M・Oまで、1981年、塩沢茂、冬樹社、p10
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- ↑ 引用エラー: 無効な
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タグです。 「enikki48
」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ club willbe(クラブ・ウィルビー):インタビュー 加藤和彦さんは ...
- ↑ 日本経済新聞、2006年4月12日夕刊、p20
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- ↑ Gauguin(ゴーギャン)、2008年4月号・東京ニュース通信社、p17
- ↑ ディランを語ろう、浦沢直樹・和久井光司、p38
Gauguin(ゴーギャン)、2008年4月号・東京ニュース通信社、p38
【みうらじゅん インタビュー5 米国音楽界の巨人 ボブ・ディラン特集
みうらじゅん インタビュー6 日経トレンディネット
みうらじゅんの「あぁ、青春ノイローゼ」な10曲|音楽|HMV ONLINE
日本崖っぷち大賞、1998年、みうらじゅん、泉麻人、山田五郎、安斎肇、毎日新聞社、p183
浦沢直樹 - ルーフトップギャラクシーw - ↑ ディランを語ろう、浦沢直樹・和久井光司、p48
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- ↑ 本当の「プロの歌」を聴きたい 演歌「復権」の背景とは : J-CAST
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- ↑ guts、表現技術出版、1972年8月、p16
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別冊宝島 音楽誌が書かないJポップ批評37〜サンボマスターと青春ロック地獄変〜、2005年6月、宝島社、p97
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メディア時代の音楽と社会、1993年、小川博司、音楽之友社、p145
Musicman'sリレー 第66回 武部聡志
阿部嘉昭ファンサイト: 再帰性と再帰性が反射する--三村京子について
「Have A Nice Day LIVE2009 吉田拓郎フォト&ロングインタビュー集」p29、30
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すばらしき仲間たち ニューミュージック′80 、立風書房、1980年、p93
桑田佳祐も自著「ロックの子」の中で、拓郎の"字余り"や"コマーシャルソング"にはまったと話している(ロックの子、1985年、桑田佳祐、講談社、p89)。 - ↑ guts、表現技術出版、1972年8月、p16
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失われた歌謡曲、1999年、金子修介、小学館、p203、206
「Have A Nice Day LIVE2009 吉田拓郎フォト&ロングインタビュー集」p26 - ↑ 『新譜ジャーナル・ベストセレクション'70s』p290-291
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筒美京平を否定する人たちがいた1980年代はじめ、近田が「筒美京平はすごい」と言ったことが筒美神話のはじまり(その意味は 考えるヒット4、2001年、近田春夫、文藝春秋、p161)。 - ↑ 定本 気分は歌謡曲、1998年、近田春夫、文藝春秋、p25
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Charは『Char meets ???? 〜TALKING GUITARS〜』での仲井戸麗市とのセッションで「JOHNNY, LOUIS & CHAR(PINK CLOUD)1979年のライブ盤『フリー・スピリット』に収録されている「籠の鳥」という曲は、拓郎がよく使ったG#sus4から作ったと話している(Char meets???? TALKING GUITARS〜Char×ギタリスト対談集〜vol.1、シンコーミュージック・エンタテイメント、2009年、p127)。 - ↑ 別冊カドカワ 井上陽水、角川グループパブリッシング、2009年12月、p98
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- ↑ 小室等対談集、1975年、小室等、財団法人ヤマハ音楽振興会、p18
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- ↑ 阿部嘉昭ファンサイト: 再帰性と再帰性が反射する--三村京子について
小野瀬雅生 インタビュー|MUSICSHELF
インタビュー:意識よりも“衝動”に忠実な全12曲を収録! andymori - ↑ 渡辺プロダクション社史「抱えきれない夢〜渡辺プログループ40年史〜」、1999年、「渡辺プロ・グループ四〇年史」編纂委員会、p345
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産経新聞、1996年9月24日夕刊、p11 - ↑ 日本ロック大系、白夜書房、〈上巻〉p194
- ↑ ミッキー・カーチス、おれと戦争と音楽と、亜紀書房、p207
- ↑ Museum of Modern Music |田家秀樹 (音楽評論家/ノンフィクション作家)インタビュー2
- ↑ 流行歌 気まぐれ50年史、1994年、矢沢寛、大月書店、p103
- ↑ J‐ROCKベスト123―1968‐1996、篠原章、講談社、1996年、p61
- ↑ 218.0 218.1 218.2 218.3 218.4 テンプレート:Harvnb
- ↑ 昭和フォーク&ロック音楽堂、中村よお、p53
- ↑ 220.0 220.1 220.2 2 - MOMM | Music Scene
- ↑ 1998/11/29 Sunday Song Book「History of Japanese Rock, Folk & Pop Part 4」
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- ↑ 「隔週刊 青春のうた ベストコレクション43」 デアゴスティーニ・ジャパン、2006年3月14日、p24
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- ↑ 70'sバイブレーション!Museum Talk | Museum of Modern Music 1960 牧村憲一(音楽プロデューサー) × 松山猛(エッセイスト)× 高橋靖子(スタイリスト)4
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- ↑ バリ島では - ROLLY DIARY
- ↑ エレックレコードの時代(2006年9月・アクセス・パブリッシング)p48
- ↑ Lapita 月刊吉田拓郎、小学館、p34
- ↑ ニッポンのうた漂流記、河出書房新社、p134
ビジュアル版・人間昭和史⑦ 大衆のアイドル、1986年、講談社、p233
アサヒ芸能、2009年7月2日号、p36、37
guts、表現技術出版、1973年1月、p31
「伝説のメロディ 甦る!日本のフォーク フォークル、岡林信康、吉田拓郎、かぐや姫...」BS朝日、2010年4月25日
ラガー音楽酒場 / 村上“ポンタ”秀一(ドラマー) | WEBマガジン e-days - ↑ 消費社会の広告と音楽、林進・小川博司・吉井篤子、有斐閣、1984年、p40、41
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豊かなる日々 〜吉田拓郎、2003年の全軌跡〜、2004年6月、田家秀樹著、ぴあ、p7 - ↑ 『70年代ノート ~時代と音楽、あの頃の僕ら~』、p142-143
- ↑ 234.0 234.1 234.2 引用エラー: 無効な
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」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ 情報には色をつけない - asahi.com(朝日新聞社):就職・転職ニュース
『ぴあ』の時代、掛尾良夫著、キネマ旬報社、2011年、p64-66
『70年代ノート ~時代と音楽、あの頃の僕ら~』、p116-117
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渡辺芸能ビジネスを創った男、新潮社、p153-160
読むJ-POP 1945-1999私的全史、田家秀樹著、徳間書店、1999年、p143-146
明日に向かって走れ、p136-137 - ↑ 70年代原宿の象徴 「ペニー・レイン」が復活 - 原宿新聞
- ↑ 『僕の音楽物語 1972-2011 名もなきミュージシャンの手帳が語る日本ポップス興亡史』、p108-112
- ↑ 238.0 238.1 青春のバイブル、富澤一誠、1993年、シンコー・ミュージック、p237
- ↑ ヤング・ギター・クロニクル, vol. 2『かぐや姫 青春という夢・恋・歌』、p76
- ↑ カルチャーエリア - 富澤一誠の55歳の決心! 234~240/ Slownet SNS
- ↑ 吉田拓郎 - おんがく日めくり | YAMAHA
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- ↑ 俺らの旅はハイウェイ、1990年2月、長渕剛、八曜社、p185-198
吉田拓郎 Island Concert in 篠島 - ↑ 245.0 245.1 245.2 245.3 guts、1972年5月号、p8-11
- ↑ J-POP時評:1989-2001、田家秀樹、2001年、ヤマハミュージックメディア、p 156
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- ↑ With t 小室哲哉音楽対論Vol.2 p188-189
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ぼくの歌・みんなの歌、森達也、講談社、p59
わが青春の流行歌、池田憲一、白馬出版、p110、148
Jポップとは何か、2005年、烏賀陽弘道、岩波書店、p70-71
ロック・クロニクル・ジャパンVol.1、1999年、音楽出版社、p48 - ↑ にほんのうた 戦後歌謡曲史、北中正和、p175-176
ザ・芸能界―おもしろタレント学―、1986年、加東康一、伊藤強、全国朝日放送株式会社(テレビ朝日)、p173 - ↑ 263.0 263.1 牧村憲一さんへのインタビュー - デジタルサウンドシンポジウム@浜松
- ↑ 昭和フォーク&ロック音楽堂、中村よお、青幻舎、2008年3月、p53
TV博物誌、1997年、荒俣宏、小学館、p189、190
フォークソング運動、2001年、辻俊一郎、新風舎、p73
戦後ポピュラー日誌、1982年、柴田勝章、八曜社、p130、131 - ↑ サンデー毎日、1974年10月6日号、「井上陽水のフォークの世界」p150-151、戦後世論のメディア社会学、佐藤卓己、柏書房、2003年、p183
- ↑ 週刊現代2013年9月7日号、「スペシャル対談 大竹しのぶ×泉谷しげる 痛快!居酒屋で人生を語ろう」
- ↑ ザ・ベストテン、山田修爾、ソニー・マガジンズ、2008年、p188-189
- ↑ 1946―1999 売れたものアルバム、2000年、Media View、p210-211
- ↑ テレビだョ!全員集合、長谷正人/太田省一、青弓社、2007年 p75、週刊朝日、1978年12月29日号、p37
- ↑ アイドル工房―夢のつむぎ方―、1995年、相澤秀禎、スコラ、p121-122
- ↑ 60年代フォークの時代 - 日本のフォーク&ロック・ヒストリー1、p203
- ↑ 夢のあがり―ニューミュージックの仕掛人たち―、p63
- ↑ 日本のフォーク&ロック・ヒストリーー(2) ニューミュージックの時代、シンコーミュージック、1993年、p28-29、32
- ↑ 日本ロック大系、月刊オンステージ編集部、白夜書房、1990年8月、〈上巻〉p193
われらフォーク世代、1975年、三橋一夫、山本コウタロー他著、荒地出版社、p177
ニューミュージック白書、1977年、エイプリル・ミュージック、p175
NEW MUSIC '81 ニューミュージック事典、学習研究社、p19
ニューミュージックの本、富澤一誠監修、p49 - ↑ カルチャーエリア - 富澤一誠の55歳の決心! 第216回
、富澤一誠の「俺が言う!」 200801、元祖フォーク評論家の立志を後押しした「今日までそして明日から」~富澤一誠 第2回、あゝ青春流れ者、富澤一誠著、1991年、ソニー・マガジンズ、p6-12
新宿ルイード物語、1988年、富澤一誠著、講談社、p30-33、60-80、読売新聞、2007年1月1日、p17 - ↑ 吉田拓郎 これが青春 |シンコーミュージック・エンタテイメント
- ↑ 日本のベストアルバム―フォーク&ロックの25年―、1992年、田家秀樹監修・シンコー・ミュージック、p232
- ↑ サウンドストリートの生みの親、湊剛さんにお会いした。All Rounders Stuff ブログ
佐野元春 'SOMEDAY' 20周年記念応援メッセージ集
サウンドストリート(NHK-FM、1980年12月3日)<NHK青春ラジカセ> - ↑ 名物ディレクターとDJ 学校のOB達|三才ブックス発行ラジオライフ別冊 岡 裕美/監修「国内放送局ハンドブック・東日本篇'81年版」
- ↑ 最強のミュージックマンが音楽を語る!!-ORICON STYLE ミュージック
365日!CDショップ店員リレーブログ | 全日本CDショップ店員組合
庄司明弘インタビュー
あの時代の風
BS-TBS「SONG TO SOUL〜永遠の一曲〜」|番組スタッフが選ぶわたしの一曲
マニア・プチ対談「吉田拓郎のギターを語る」(1) / イシバシ楽器
大人のためのフォークギター入門: 紀伊國屋書店BookWeb
磯田秀人ピンポイントフォーラム 倍音浴 - ↑ 281.0 281.1 レポート - フジテレビ、Musicman'sリレー きくち伸インタビュー、2012年11月 - きくちPの音組収録日記 - フジテレビ、LOVE LOVEあいしてる(19) - きくちPの音組収録日記 - フジテレビ
- ↑ フォークソング運動、2001年、辻俊一郎、新風舎、p77、78
- ↑ アグネス・ラムのいた時代、長友健二+長田美穂、中央公論新社、2007年、p155-160
- ↑ 『70年代ノート ~時代と音楽、あの頃の僕ら~』、p146
- ↑ 一九七〇音楽人百科、学習研究社、1994年、p53
- ↑ 286.0 286.1 286.2 週刊現代、2011年1月29日号、p132-133
- ↑ "タレント本"の類が目立って量産されるのは1974年のあのねのねの『あのねのね』のベストセラーから。また"タレント本"の類が現在のように年間ベストセラーの上位を占めるようになったのは1980年、山口百恵の『蒼い時』刊行以降で、これは電波メディアが、活字部門を大幅に侵略し始めたことを実証している(ニューミュージックの本、富澤一誠監修、p117、定本ベストセラー昭和史、2002年、塩澤実信、展望社、p234)。
フォークソング運動、2001年、辻俊一郎、新風舎、p77、78
ニューミュージックの本、富澤一誠監修、p117
1946―1999 売れたものアルバム、2000年、Media View、p164、165、171、220、221
ベストセラー考現学、1992年、植田康夫、メディア パル、p19―20 - ↑ 288.0 288.1 別冊太陽 日本のロック 50's~90's、平凡社、1993年、p114-115
- ↑ 289.0 289.1 289.2 セイ!ヤング&オールナイトニッポン70年代深夜放送伝説、文化放送&ニッポン放送&田家秀樹、扶桑社、2011年、オールナイトニッポン編p22、23、105
- ↑ ポピュラー音楽と資本主義、毛利嘉孝、2007年、せりか書房、p 54
- ↑ 291.0 291.1 関西フォーク70'sあたり、幻堂出版、p66
70's STAR・DUST、1996年、陣馬虫太郎、ヒット出版社、p109
戦後ポピュラー日誌、1982年、柴田勝章、八曜社、p130
サブカルチャー神話解体 少女・音楽・マンガ・性の30年とコミュニケーションの現在、1993年、宮台真司・石原英樹・大塚明子、PARCO出版、p66
風のようにうたが流れていた、小田和正、宝島社、p104
ポピュラー音楽と資本主義、2007年、毛利嘉孝、せりか書房、p54
新宿ルイード物語、1988年、富澤一誠、講談社、p94、95
365日!CDショップ店員リレーブログ | 全日本CDショップ店員組合
小室等対談集、1975年、小室等、財団法人ヤマハ音楽振興会、p7、8
いるべき場所、2007年、ECD、メディア総合研究所、p34
ロック・クロニクル・ジャパンVol.1、1999年、音楽出版社、p37、45 - ↑ 松山千春-さすらいの青春-、富澤一誠、立風書房、1979年、p71-74
- ↑ フォーク名曲事典300曲、富沢一誠、2007年、ヤマハミュージックメディア、p206
- ↑ FOR LIFE RECORDS -PARADISE DIGITAL-
- ↑ 渡辺プロダクション社史「抱えきれない夢〜渡辺プログループ40年史〜」、1999年、「渡辺プロ・グループ四〇年史」編纂委員会、p345
- ↑ 70's STAR・DUST、1996年、陣馬虫太郎、ヒット出版社、p109
いるべき場所、2007年、ECD、メディア総合研究所、p23
それまでの日本のフォーク&ロックのシングル盤というのは、フォークル関係など一部を除いて"売れるもの"ではなく、「アルバムは出せないが取りあえずシングル盤でその曲をリリースする」という意味合いが強いものであった。 - ↑ 「伝説のメロディ 蘇る!日本のフォーク フォークル、岡林信康、吉田拓郎、かぐや姫・・・」BS朝日2010年4月25日
- ↑ 吉田拓郎「元気です」p3 - ダイヤモンド・オンライン
- ↑ 日本のフォーク&ロック・ヒストリーー(2) ニューミュージックの時代、シンコーミュージック、1993年、p75
ニューミュージック白書、1977年、エイプリル・ミュージック、p75
戦後ポピュラー日誌、1982年、柴田勝章、八曜社、p170
青春のバイブル、富澤一誠、シンコー・ミュージック、p97
フォーク名曲事典300曲、富沢一誠、p188
はっぴいえんど伝説、1983年、萩原健太、八曜社、p81
流行歌 気まぐれ50年史、1994年、矢沢寛、大月書店、p104
週刊現代、2008年12月13日号、講談社、p76
フォーク俺たちのうた、p38、57
消費社会の広告と音楽、林進・小川博司・吉井篤子、有斐閣、1984年、p41 - ↑ 日本ロック大系、月刊オンステージ編集部、白夜書房、1990年8月、〈上巻〉p112、191-194、ニューミュージックの本、富澤一誠監修、p48、49、102
太田裕美白書、2000年、太田裕美著、PARCO出版、P139
ロック時代=ゆれる標的、相倉久人、文化放送、p216、217
風のようにうたが流れていた、小田和正、宝島社、p105-107、126、127
1946―1999 売れたものアルバム、2000年、Media View、p168、169
戦後世論のメディア社会学、2003年、佐藤卓己、柏書房、p179
流行歌 気まぐれ50年史、1994年、矢沢寛、大月書店、p151、152
ロック・クロニクル・ジャパンVol.1、1999年、音楽出版社、p37、39、45
新譜ジャーナル ベストセレクション'70s、p172、173
青二才の頃 回想の'70年代、清水義範、講談社、p103、104
2008年のインタビューで南こうせつは"大ヒットはしたけどブームが続くとは思ってなかった""3〜4年食べられたら、その後は音楽関係に関われたらいいなと思っていた""それは拓郎や陽水も同じだったんじゃないかな"などと話している。拓郎や陽水がどう思っていたかは不明だが、そうならなかったのは後続のシンガーソングライターが続いたから(週刊ポスト、2008年8月1日号、小学館、p57)。 - ↑ 音楽CD検定公式ガイドブック(下巻)、音楽出版社、2007年、p10
- ↑ 週刊現代、2008年5月24日号、講談社、p173
週刊朝日、2008年5月9日号、朝日新聞出版、p61
日本フォーク私的大全、なぎら健壱、p179
わが青春の流行歌、1990年、池田憲一、白馬出版、p113 - ↑ 303.0 303.1 303.2 303.3 303.4 303.5 島崎今日子『安井かずみがいた時代』集英社、2013年、p281-299
- ↑ 読売新聞2012年3月31日17面 「昭和時代 第2部 戦後転換期 (1965~79年) 第2回 戦争を知らない若者たち」、J-ROCKベスト123 1968-1996、1996年、講談社、p60、61
新版 日本流行歌史 下、1995年、古茂田信夫・島田芳文・矢沢寛・横沢千秋編集、社会思想社、p64
NEW MUSIC '81 ニューミュージック事典、学習研究社、p19
吉田拓郎読本、CDジャーナルムック、音楽出版社、p67
読売新聞、2007年1月1日、p17
イエスタディ '60's〜'80's ―音楽記者の取材ノートから―、1989年、永井晶子、CBS・ソニー出版、p77-78
ビートルズ、1987年、きたやまおさむ、講談社、p127
ロック・クロニクル・ジャパンVol.1、1999年、音楽出版社、p49
毎日新聞 2009年4月16日 東京夕刊
1970年代に入ると、フォークは流行歌の主流ジャンルへ伸長していく。学生運動は鎮静化し、岡林信康や高田渡は時代の動向に合わせるように表舞台から姿を消すが、フォークからプロテスト性をそいだ形で、吉田拓郎が台頭、「自分の思ったことを自分の言葉で歌う」というテーゼだけを保持し、自身の「私生活」を表現する。かぐや姫や井上陽水の「抒情派フォーク」をへたうえで、1975年に荒井由実が自己肯定とサウンド志向を特徴として「ニューミュージック」を宣言。以降、サザンオールスターズや山下達郎、松山千春やさだまさしなど、人気を得るミュージシャンは軒並みニューミュージックのカテゴリーに包摂され、流行音楽の主流を占めていく。と1970年代の日本の音楽シーンは、通例このような文脈で語られる(ロックミュージックの社会学、2001年、南田勝也、青弓社、p139)。
失われた歌謡曲、1999年、金子修介、小学館、p92
拓郎とユーミン、サザンの登場で、現在のJ-POPの基礎は築かれた"と論じる文献もある(ニッポンPOPの黄金時代、恩蔵茂、KKベストセラーズ、p240、246)。
Musicman-NET 第68回 吉田建氏.7
“拓郎・かぐや姫 イン つま恋”コンサート開催(1975) - おんがく日めくり - ↑ ニューミュージック′80 すばらしき仲間たち、立風書房、1980年、p88
- ↑ 306.0 306.1 【時代のサカイ目】現代CMソング考 求められる視覚と聴覚への“瞬間刺激” - ZAKZAK
- ↑ 音楽する社会、1988年、小川博司、勁草書房、p50
- ↑ 308.0 308.1 メディア時代の広告と音楽 変容するCMと音楽化社会、小川博司、粟谷佳司、葉口英子、小田原 敏、小泉恭子、増田聡、新曜社、2005年、p28、29
- ↑ 309.0 309.1 309.2 309.3 309.4 309.5 309.6 ヤング・ギター・クロニクル Vol.1 吉田拓郎これが青春、2007年、シンコーミュージックエンタテイメント、p216
- ↑ 「ひげまろの昭和CMソングMEMORIES (僕の旅は小さな叫び②)」、『デイリースポーツ』2012年10月17日付、19面
- ↑ 「ひげまろの昭和CMソングMEMORIES (僕の旅は小さな叫び③)」、『デイリースポーツ』2012年10月18日付、17面
- ↑ 312.0 312.1 312.2 「ひげまろの昭和CMソングMEMORIES (僕の旅は小さな叫び④)」、『デイリースポーツ』2012年10月19日付、19面
- ↑ 313.0 313.1 313.2 313.3 「ひげまろの昭和CMソングMEMORIES (僕の旅は小さな叫び⑤)」、『デイリースポーツ』2012年10月18日付、17面
- ↑ ニューミュージックの本―日本のフォーク&ロック FM fan コレクション★POPS(2)、1978年、富澤一誠監修、共同通信社、p61
- ↑ 315.0 315.1 315.2 315.3 315.4 315.5 「セイ!ヤング」1980年1月4日放送
- ↑ フォークソング運動、2001年、辻俊一郎、新風舎、p76
- ↑ 317.0 317.1 ブレーン別冊『キャッチフレーズ3000選 戦後30年のヒット広告とコピー発想法』島森路子他、マドラ・グループ編著、誠文堂新光社、1976年、p65、128
- ↑ 318.0 318.1 引用エラー: 無効な
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- ↑ 現代風俗史年表、若森繁男、河出書房新社、p244
テレビだョ!全員集合 自作自演の1970年代、長谷正人、太田省一編著、p148
タイアップの歌謡史、洋泉社、p87、136 - ↑ ニューミュージックの本、富澤一誠監修、p61-63
- ↑ Lapita 月刊吉田拓郎、2003年9月号、小学館、p38
- ↑ フォーク名曲事典300曲、富沢一誠著、p208、209
みんなCM音楽を歌っていた、田家秀樹著、徳間書店、p46
すばらしき仲間たち ニューミュージック′80 、立風書房、1980年、p88 - ↑ 『70年代ノート ~時代と音楽、あの頃の僕ら~』、p122-123
- ↑ 「ひげまろの昭和CMソングMEMORIES (僕の旅は小さな叫び①」、『デイリースポーツ』2012年10月16日付、23面
- ↑ ほぼ日刊イトイ新聞 - みんなCM音楽を歌っていた。
日本のフォーク&ロック・ヒストリーー(2) ニューミュージックの時代、シンコーミュージック、1993年、p160-161
はっぴいえんど伝説、1983年、萩原健太、八曜社、p158-159 - ↑ 消費社会の広告と音楽、林進・小川博司・吉井篤子、有斐閣、1984年、p40-44、57
- ↑ 思想としての60年代、桜井哲夫、講談社、1988年、p128
- ↑ アサヒ芸能、徳間書店、2009年6月25日号、p39、2009年7月23日号、p189
- ↑ アグネス・ラムのいた時代、長友健二+長田美穂、中央公論新社、p157-158
- ↑ 日本のフォーク&ロック・ヒストリーー(2) ニューミュージックの時代、シンコーミュージック、1993年、p27-28
- ↑ 音楽CD検定公式ガイドブック(下巻)、音楽出版社、2007年、p111
- ↑ ホットドッグ・プレス、1980年2月号、講談社、p105
- ↑ 『阿久悠 命の詩〜『月刊you』とその時代〜』、講談社、2007年、p112、113
- ↑ イエスタディ '60's - '80's ―音楽記者の取材ノートから―、1989年、CBS・ソニー出版、p94-95
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- ↑ 341.0 341.1 原田真二 アルバム『OUR SONG』 インタビュー PAGE2/音楽情報サイト: hotexpress
- ↑ 342.0 342.1 原田真二セレクトのプレイリスト(MUSICSHELFインタビュー)
- ↑ 343.0 343.1 織田哲郎ロングインタビュー第13回|織田哲郎Project2007
- ↑ 『新譜ジャーナル・ベストセレクション'70s』、自由国民社、2003年、p222-223、明日に向かって走れ、p191-198、もういらない、p94-95
- ↑ BSスペシャル スーパーライブ 吉田拓郎〜アンソロジー〜(BS2、2002年5月6日)。
- ↑ 女ノ色 男ノ術、2002年10月、つんく著、講談社、p11-38
- ↑ ムッシュ!、2002年、ムッシュかまやつ、日経BP社、p141-153
青春のバイブル、富澤一誠、シンコー・ミュージック、p142、152
「FM雑誌と僕らの80年代 『FMステーション』青春記」、恩蔵茂、河出書房新社、2009年、p41、42
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- ↑ 小室等の音楽夜話、FM東京、1977年8月12日
拓郎はランちゃんが苦戦したのは、その日が生理だったからとマネージャーに言われたと記しているテンプレート:Harv。 - ↑ 1977年発行 キャンディーズ ファンクラブ会報 No.9
- ↑ 毎日新聞、2008年4月3日夕刊2面
- ↑ 小室等の音楽夜話、FM東京、1977年8月12日
- ↑ 自動改札のアイドルPOP考 VOL.2 - プレイリストから新たな音楽を発見
- ↑ 地球音楽ライブラリー吉田拓郎、TOKYO FM出版、p158、159、209、210
- ↑ GO!GO!キャンディーズ― キャンディーズ革命、1977年、文化放送編、ペップ出版、p254
失われた歌謡曲、1999年、金子修介、小学館、p203 - ↑ 失われた歌謡曲、1999年、金子修介、小学館、p90
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- ↑ WEEK-END Party 〜forever young〜、NACK5、2007年4月20日
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プロの作曲家というものが、いかに綿密な計算をしたうえで楽曲を創作しているかを説明するため筒美京平を盛んに聴かせたりテンプレート:Harv - ↑ 364.0 364.1 第62回 ニューミュージックもテレビをメインに新戦略
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- ↑ 『Jロック&ポップスCD名盤ガイド』立風書房 p61
- ↑ 引用エラー: 無効な
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」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ アサヒ芸能、2009年7月9日号、p39、40
- ↑ 1970音楽人大百科 日本のフォーク/ニューミュージック/ロック、学習研究社、p165
どうにもとまらない歌謡曲 −七〇年代のジェンダー、舌津智之、2002年、晶文社、p145
日本ロック大系〈下巻〉、1990年、月刊オンステージ編集部、白夜書房、p415
別冊太陽 日本のロック 50's〜90's、1993年、平凡社、p105、106
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SISTER JETのそれ行け!カバーボーイ 第四回 [Page.2] - プレイリスト
近年のコンサート/ライブでは、こうしたMCも重要な構成要素とされるが、小室等は1980年に出した著書の中で、歌と直接関係を持たない、お客さん用のおしゃべりのような、くだらないことを拓郎にやらせた、覚えさせたのはファンに半分責任があると、MCに対する問題提起をしている(出会いは旅のなかで、小室等著、晶文社、1980年2月、p146)
ほぼ同じ内容の記述(新譜ジャーナル ベストセレクション'70s、2003年、自由国民社、p66) - ↑ オールナイトニッポンドリームウィーク
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- ↑ この話は少し前があって、二人が付き合っている頃、拓郎の実家に行ったら、拓郎の祖父ら先祖の写真が飾られてあって、その人たちがみなハゲていたため、こういう返事になったとのことである(トーク番組での浅田の発言)
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歌謡曲という快楽 雑誌『よい子の歌謡曲』とその時代 、2002年、宝泉薫+ファッシネイション、彩流社、p19 - ↑ 416.0 416.1 浅川マキ、幻の男たち、講談社、1985年、p151-158
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- ↑ 吉田拓郎、かぐや姫、井上陽水、山崎ハコ、ガロ、ケメ、イルカ、リリー
- ↑ TAKURO YOSHIDA ARTIST GALLERY. TAKURONICLE 1970-Just nowパンフレット、p14、15
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地球音楽ライブラリー アルフィー、2004年、TOKYO FM出版、p336-339
別冊宝島1637 音楽誌が書かないJポップ批評60 THE ALFEE、p34 - ↑ 【ビジョン】THE ALFEE、高見沢俊彦の本音「今さら路線変更できない
実は「王子」に抵抗があった : タカミー王子の秘密 : 生き方!
【エンタがビタミン♪】「ロックには見た目も大事」。高見沢俊彦、堂々宣言。還暦になっても王子を貫く!
高見沢俊彦 | ロングインタビュー | R25.jp - ↑ 別冊カドカワ 総力特集 高見沢俊彦、2007年、角川ザテレビジョン、p12、13、31
あきらめない夢は終わらない、2004年、高見沢俊彦、幻冬舎、p181-183、201-203 - ↑ 別冊宝島1637 音楽誌が書かないJポップ批評60 THE ALFEE、p18、34
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泉谷しげるの治外法権、1994年、泉谷しげる著、徳間書店、p61-63
坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、p27 - ↑ ま、いいか、1999年、森山良子、毎日新聞社、p234、235
- ↑ ニッポン放送「三宅裕司のサンデーハッピーパラダイス」2008年8月31日放送
- ↑ 泉谷しげると吉田拓郎の喧嘩にも遭遇…ムッシュかまやつ『ARTiST』で秘話明かす
- ↑ 429.0 429.1 429.2 兎猫豚(うびょうとん)のみらい日記 2011年07月12日 スーパーバンド!
- ↑ 吉田拓郎と泉谷しげるが12年ぶりに和解 ラジオで大げんか懐かしむ ORICON STYLE
犬猿の2人ついに…泉谷しげると吉田拓郎が12年ぶり和解 - ↑ 小室哲哉音楽対論 Vol.2、p313-314<TKMC ARCHIVES NON EDIT TALK>
- ↑ オールナイトニッポンGOLD 2012年10月8日放送分
- ↑ 芸能界でコーヒー・ブレイク、吉見佑子、八曜社、1980年、p98-105
- ↑ きくち伸インタビュー
Musicman'sリレー 第68回 吉田建氏
JP MUSIC - CD詳細・試聴 - ↑ 435.0 435.1 435.2 YES-NO 小田和正ヒストリー、小貫信昭、角川書店、2000年、p86-87
- ↑ 吉田拓郎、小田和正と30年ぶりラジオ! - 芸能 - SANSPO.COM
- ↑ 『ザ・ビッグヒットトゥモロー』エフエム東京、1984年10月13日放送
- ↑ Archive(アーカイブ)普賢岳チャリティライブ | Echofield
- ↑ アーティスト ファイル UNION MUSIC OFFICE ユニオン音楽事務所
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YES-NO 小田和正ヒストリー、2000年、小貫信昭、角川書店、p85-86、132、148-152、240、262
Complete Shogo Hamada―浜田省吾事典、TOKYO FM出版、p205
LOVE LOVE あいしてる
吉田拓郎・お喋り道楽、p90-91
風のようにうたが流れていた、小田和正、宝島社、p122-123、126、127
坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、p74
シンプジャーナル ベストセレクション'80s、p160-163、166、167 - ↑ 坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、p142-145、149
- ↑ 気ままな絵日記、p120-121
- ↑ このギターから石川鷹彦の演奏で知られる「リンゴ」等、多くの楽曲が生み出された(アサヒ芸能、2009年7月2日号、p36-38、マニア・プチ対談「吉田拓郎のギターを語る」)。
- ↑ 日本ロック学入門、1986年、相倉久人、新潮社、p88
- ↑ TIME CANT' WAIT、1990年、小田和正、朝日新聞社、p67-69
YES-NO 小田和正ヒストリー、2000年、小貫信昭、角川書店、p148-151 - ↑ 晴れときどき拓郎 Younger than yesterday、2003年7月、小学館、p280-282
- ↑ 吉田拓郎・お喋り道楽、1997年10月、徳間書店、p80-88
晴れときどき拓郎 Younger than yesterday、p292 - ↑ 文藝別冊 追悼特集加藤和彦、河出書房新社、2010年、p196
- ↑ 449.0 449.1 「坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」2009年10月20日
- ↑ 文藝別冊 追悼特集加藤和彦、p177
- ↑ 地球音楽ライブラリー吉田拓郎、p24、25、66、67
- ↑ ラブ ラブ KinKi Kids、スタッフKinKi、1997年、太陽出版、p12-24
- ↑ 『ポポロ』2009年4月号、麻布台出版社、p124
- ↑ 2011年11月12日NHK-FM「今さらですが突然KinKi Kids生放送」
- ↑ TBSテレビ『カミスン!』2011年11月7日放送
- ↑ アサヒ芸能、2009年7月30日号、p187
- ↑ 吉田拓郎・お喋り道楽、p159-176
- ↑ ニッポン放送「テリーとたい平のってけラジオ」2009年4月17日放送
- ↑ プレイボーイの人生相談 1966-2006』、週刊プレイボーイ編集部、集英社、2006年、p123頁
- ↑ 中島みゆきデータブック、1995年、 落合真司、青弓社、p20
魔女伝説―中島みゆき、1982年、こすぎじゅんいち、CBS・ソニー出版、p80
中島みゆき・言葉の向こう側、1998年、落合真司、青弓社、p92 - ↑ 地球音楽ライブラリー 吉田拓郎、p83、212
産経新聞、1996年9月25日夕刊、p8
最初は詞だけの依頼だったが、拓郎に今さら頭が上がらず、色々注文を付けられ詞も曲も書くことになったと中島は話している(満月みゆき御殿 『GB』中島みゆきファイル from 1980、1999年、萩原健太他著・ソニー・マガジンズ、p287) - ↑ 中島みゆき読本、音楽出版社、2009年、p128
- ↑ 地球音楽ライブラリー 中島みゆき、2006年、財団法人ヤマハ音楽振興会監修・TOKYO FM出版、p194、217、218
- ↑ 中島みゆき読本、p132、133
- ↑ 俺らの旅はハイウェイ、1990年2月、長渕剛、八曜社、p8、9、75-85
NEXT、1984年1月、富澤一誠、潮出版社、p106-108]
長渕剛インタビュー
堂本兄弟、2004年2月29日 - ↑ 466.0 466.1 吉田拓郎 Island Concert in 篠島
- ↑ 第90回 新田 和長 氏 4. 歴史の瞬間と渦の中で〜「目利き」であることの重要性| Musicman-NET
- ↑ 長渕剛vs桑田佳祐、矢吹光、1995年3月、三一書房、p154
- ↑ ロックの子、1985年、桑田佳祐、講談社、p89
- ↑ 「”エリー”って誰?」意外と知らないサザントリビア10( トリビア ... - 女性自身)
- ↑ 2008年3月11日「桑田佳祐のオールナイトニッポン」
- ↑ 原由子『娘心にブルースを』1998年、ソニーマガジンズ、p171
- ↑ Complete Shogo Hamada―浜田省吾事典、1996年、TOKYO FM出版、p379
- ↑ あいつのクシャミ、1980年、富澤一誠、飛鳥新社、p24、25
- ↑ Complete Shogo Hamada―浜田省吾事典、p26、27
「Have A Nice Day LIVE2009 吉田拓郎フォト&ロングインタビュー集」p48、49 - ↑ 坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、p70-71
- ↑ 松本隆対談集 KAZEMACHI CAFE、ぴあ、p70
アサヒ芸能、2009年7月23日号、p189 - ↑ 地球音楽ライブラリー 吉田拓郎、p41
コンサートMC - ↑ 地球音楽ライブラリー、p43
- ↑ 青春のバイブル、富澤一誠、シンコー・ミュージック、p160
和田誠インタビュー その三、1989年、和田誠、話の特集、p122-142 - ↑ どーもとドーモ、2000年、KinKi Kids、新潮社、p177
- ↑ 山下達郎のJACCS CARDサンデーソングブック2002/5/26
- ↑ 483.0 483.1 ナタリー - 山下達郎、本日ANNで吉田拓郎とメディア初共演
- ↑ 今夜よる10時からの『坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD』に山下達郎初登場!何と吉田拓郎さんとメディア初共演が実現!
- ↑ 吉田拓郎×竹内まりや、ラジオで初共演!
- ↑ 坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、p102
- ↑ ここは私の学校、2003年11月、祥伝社、p66
- ↑ とんがらし、1975年9月、八曜社
- ↑ 音楽的日乗 スローハンドVol.1、2006年、自由国民社、p103-104
- ↑ フォーク対談集、1974年、富澤一誠、アロー出版社、P178
坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、p118 - ↑ 頭脳警察(2004年8月・須田諭一著・河出書房新社)p164-166
定本 はっぴいえんど、1986年、白夜書房、p60、139、140、193
吉田拓郎・お喋り道楽、p219-220
関西フォーク70'sあたり、2003年、中村よお、幻堂出版、p78
ロックミュージックの社会学、南田勝也、青弓社、p122
ロック・クロニクル・ジャパンVol.1、1999年、音楽出版社、p89
ナタリー - ドキュメンタリー頭脳警察公開記念イベントで貴重発言続々
haruomi hosono 1971 - ↑ 小室等対談集、1975年、小室等、財団法人ヤマハ音楽振興会、p122
- ↑ _... m o m e n t ...._丸山圭子ロングインタビュー
- ↑ ゆるふわ愛され音楽ニュースサイト - ナタリー 山本コウタローの名著「誰も知らなかった吉田拓郎」文庫化
- ↑ われらフォーク世代、1975年、三橋一夫、山本コウタロー他著、荒地出版、p35-36
- ↑ 加川1974年のアルバム『アウト・オブ・マインド』に収録
- ↑ 石川セリ公式サイト Seri Ishikawa Official
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- ↑ 音楽的日乗 スローハンドVol.2、2006年、自由国民社、p29
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- ↑ Musicman-NET 第87回 松任谷正隆氏.3、1951年11月19日 日本をリードする音楽プロデューサー松任谷正隆が生まれた日
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- ↑ 509.0 509.1 俳優、音楽、人生...尽きぬ話が語り明かされる!明日4日(水)BSプレミアムで放送『吉田拓郎YOKOSO "中村雅俊"』
- ↑ ニッポン放送『坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD』2013年4月15日放送、中村雅俊、坂口良子さんとの思い出語る - 芸能社会 - SANSPO.COM 、テレビ東京『L4 YOU!』2013年4月10日放送、「L4YOU!」- ゲストトーク〜中村雅俊〜
- ↑ 青春のバイブル、富澤一誠、シンコー・ミュージック、p161
- ↑ 垣花正のあなたとハッピー!、ニッポン放送、2010年8月24日
- ↑ アサヒ芸能、2009年7月2日号、p38-39
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[4] - ↑ 515.0 515.1 LOVE LOVE あいしてる:1999/06/19
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坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、p100 - ↑ LOVE LOVE あいしてる:1998/09/26
- ↑ 坂崎幸之助のJ-Friends1、p100
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AERA in FOLK あれは、ロックな春だった!、朝日新聞社、p82
広島フォーク村 - ↑ 小室哲哉音楽対論 Vol.1、p105
- ↑ FLASH臨時増刊 Extime、p30
- ↑ 週刊新潮、2006年12月14日、p44
- ↑ 「らいぶ」、学習研究社、1996年6月、p29
- ↑ 岡林は、はっぴいえんどとロックをやり始めたため、怒ったフォークファンが怖くなり対人恐怖症になって歌を辞めると宣言し渡米、帰国後も京都の寒村に穏棲したりし表舞台に立たなくなった(バンザイなこっちゃ!、2005年・岡林信康著・ゴマブックス、p227、278、ニューミュージックの本、富澤一誠監修、p127)。
- ↑ ニューミュージックの本、富澤一誠監修、p127
- ↑ 【LOVE LOVE あいしてる:トーク】
- ↑ トーク 特別編集版 - 【LOVE LOVE あいしてる:トーク】
- ↑ 東北ロックンロール物語、2008年、高橋ジョージ、ワニブックス、p61-62
- ↑ 真心ブラザーズ4週連続企画 『YOUNGER THAN YESTERDAY』 - 第3週目、ラジオ「PLATOn」出演記 - C-faculty - 中央大学、エコレゾトーク - エコレゾ ウェブ
- ↑ 【LOVE LOVE あいしてる:トーク】
- ↑ 「LOVE LOVEあいしてる」完全読本、1999年、キンキ・オールスターズ、飛天出版、p84、85
- ↑ || KTV || 関西テレビ放送 [ 番組 さんまのまんま : バックナンバー
- ↑ 吉田拓郎LIVE〜夏と君と冷したぬき〜
有名人同士の意外な交友関係(2011/05/04) | コブス横丁 | COBSキャリア - ↑ 変なおじさん、新潮社、2002年、38頁
- ↑ 決定!これが日本のベスト
- ↑ 537.0 537.1 テレビ朝日|ストライクTV 2011年11月7日放送
- ↑ フォーライフレコード設立35周年記念!井上陽水・吉田拓郎・小室等ら、70年代後半の名曲をコンパイルした高音質コンピ盤発売!、新企業CMに俳優の向井理さんを起用 / ニュースリリース | リコー
- ↑ 痛快!明石家電視台、2011年2月14日放送
- ↑ ピース『憧れの人・ダウンタウンへの想いや、青春時代のベストソングを語る!!』-ORICON STYLE
- ↑ [地球は私の仕事です] 女の仕事、朝日新聞社、1997年9月、p230-231
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- ↑ 青春とはなんだかんだ、柴門ふみの'70s青春記、柴門ふみ、小学館、1994年、p813
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- ↑ みうらじゅん インタビュー5 米国音楽界の巨人 ボブ・ディラン特集、みうらじゅん インタビュー6 日経トレンディネット
- ↑ 549.0 549.1 549.2 ほぼ日刊イトイ新聞- じゅんの恩返し12
- ↑ 第三回 : アレ?ここウチの地元? テーマ曲 「伽草子」 吉田拓郎
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みうらじゅんの「サブカルジェッター」
日本崖っぷち大賞、1998年、みうらじゅん、泉麻人、山田五郎、安斎肇、毎日新聞社、p174、183 - ↑ みうらじゅん対談集 正論。、みうらじゅん、コアマガジン、2009年、p231、234
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- ↑ 70年代原宿の象徴 「ペニー・レイン」が復活 - 原宿新聞
- ↑ 週刊現代、2011年8月13日号、p126
- ↑ 放送禁止歌手 山平和彦の生涯、p247
- ↑ 茅ヶ崎ロータリークラブ 創立50周年記念講演 直木賞作家・重松清『命を語ることば』
- ↑ 重松清さん×糸井重里さんの対談|作家による読書の楽しさを伝える対談
- ↑ 週刊現代 講談社 2009年10月17日号71頁
- ↑ 社長が訊く『Wii Music』 - 任天堂
- ↑ サッカー・内田篤人選手、吉田拓郎さんの曲でコンフェデ杯へ闘志 - FNN
- ↑ 内田、吉田拓郎ソングで士気アップ!プレゼントCD持参
- ↑ 「月刊ミュージックスター」にインタビュー記事掲載 - 江田けんじNET
吉田拓郎・・・我が青春|江田 けんじオフィシャルブログ Powered by Ameba
内外タイムス - 高須基仁のメディア国士無双
ほぼ日刊イトイ新聞 - あのひとの本棚。
週刊現代 2009年10月17日号、p71
en-taxi 第21号、p96-99
『ライオンのごきげんよう』(2012年6月15日放送分)より。価格.com - 「ライオンのごきげんよう」2012年6月15日(金)放送内容、森永卓郎の俺が震えた1曲、吉田拓郎「人間なんて」 | アサ芸プラス
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