あさま山荘事件

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テンプレート:Infobox 事件・事故 あさま山荘事件または浅間山荘事件テンプレート:Refnest(あさまさんそうじけん)は、1972年2月19日から2月28日にかけて、長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器保養所「浅間山荘」テンプレート:Refnestにおいて連合赤軍人質をとって立てこもった事件である。

概要

日本の新左翼組織連合赤軍のメンバー5人(坂口弘坂東國男吉野雅邦加藤倫教加藤元久)が、浅間山荘の管理人の(当時31歳)を人質に立てこもった。山荘を包囲した警視庁機動隊及び長野県警察機動隊が人質救出作戦を行うが難航し、死者3名(うち機動隊員2名、民間人1名)、重軽傷者27名(うち機動隊員26名、報道関係者1名)を出した。10日目の2月28日に部隊が強行突入し、人質を無事救出、犯人5名は全員逮捕された。人質は219時間監禁されており、警察が包囲する中での人質事件としては日本最長記録である。

酷寒の環境における警察と犯人との攻防、血まみれで搬送される隊員、鉄球での山荘破壊など衝撃的な経過がテレビ生中継され、注目を集めた。2月28日の総世帯視聴率は調査開始以来最高の数値を記録し、18時26分(JST)には民放日本放送協会(NHK)を合わせて視聴率89.7%(ビデオリサーチ関東地区調べ)に達したテンプレート:Sfn。同日のNHKの報道特別番組(9時40分から10時間40分に渡って放送)は、平均50.8%の視聴率(ビデオリサーチ・関東地区調べ)を記録したテンプレート:Sfn。これは事件から40年以上が経過した現在でも、報道特別番組の視聴率日本記録である。

事件の発端

当時、連合赤軍の前身である京浜安保共闘および赤軍派の両派は、銀行に対する連続強盗事件や、真岡銃砲店襲撃事件で猟銃店を襲って銃と弾薬を手に入れるなど、特異かつ凶暴な犯行を繰り返しながら逃走を続けていたため、警察は都市部で徹底した職務質問やアパートの居住者に対するローラー作戦を行い、警察の総力を挙げて行方を追っていた。

警察に追われていた両派のメンバーは、群馬県の山岳地帯に警察の目を逃れるための拠点として「山岳ベース」を構え、連合赤軍を旗揚げした。潜伏して逃避行を続けていたが、程なくして警察の山狩りが開始され、また、外部からの援助等も絶たれ組織の疲弊が進んでいた。1971年の年末から、山岳ベースにおいて仲間内で相手の人格にまで踏み込んだ猛烈な思想点検・討論を行うようになり、その末に思想改造と革命家になるための「総括」と称しリンチ殺人事件(山岳ベース事件)を起こすなどして内部崩壊がすすんでいた。

警察の山狩りによって、榛名山や迦葉山のベースを発見されたことをラジオニュースで知ると、群馬県警察の包囲網が迫っていることを感じ、群馬県を出て隣接する長野県に逃げ込むことにした。長野県ではまだ警察が動員されていないと思われていたためである。

彼らは長野県の佐久市方面に出ることを意図していたが、装備の貧弱さと厳冬期という気象条件が重なって山中で道に迷い、軽井沢へ偶然出てしまった(浅間山は群馬県と長野県の県境にあり、軽井沢町と佐久市はその山裾にある)。軽井沢レイクニュータウンは当時新しい別荘地で、連合赤軍の持っていた地図にはまだ記載されていなかった。そのため、彼らはそこが軽井沢であるとは知らずに行動せざるを得なかった。立てこもり先として浅間山荘が選ばれたのは偶然であった。

2月19日の正午ごろ、連合赤軍のメンバーは軽井沢レイクニュータウンにあった無人の「さつき山荘」に侵入。台所などにあった食料を食べて休息していたが、捜索中の長野県警察機動隊一個分隊がパトカーに乗って近づいてきたことを察知し、パトカーに発砲した。即座に機動隊側もコルト・ガバメントとニューナンブを連射してこれに応戦。発砲した後、『連合赤軍 少年A』によれば、加藤倫教坂口弘に対し、警察官を包囲しパトカーを奪って逃走することを提案したが、坂口は何も答えなかったという。15時20分ごろ、連合赤軍のメンバーは銃を乱射しながら包囲を突破し、さつき山荘を脱出。さつき山荘の近所にあった浅間山荘に逃げ込み、管理人の妻を人質として立てこもった。当初、坂口は管理人の妻を人質として、警察に連合赤軍最高幹部の森恒夫永田洋子の釈放と、浅間山荘のメンバーの逃走を保障させようと計画していた。しかし、吉野はそれに反対し、この計画は断念された。車を奪って逃げることを提案したがテンプレート:誰、車のキーは出掛けている人質の夫が持っているため断念(なお連合赤軍5人の中に、車の運転ができる者はいなかった)。こうして浅間山荘での籠城が決まっていった。

当初は人質を縛りつけ、口にはハンカチを押し込み声が出ないようにしたが、その後、人質の緊縛姿が山岳ベース事件で縛られながらリンチ死した同志と重なったため解いている。また、警察の突入に備え、山荘内に畳などを持ち込んでバリケードを築いた。

連合赤軍は山荘内の食糧を集め、犯人グループは1か月は持つと考えていた。警察は、管理人から山荘には20日の食糧備蓄があり、さらに6人分の宿泊客のために食糧を買い込んでいることを聞き、兵糧攻めは無理と判断し、説得工作を開始した。

2月21日、犯人5人は盗聴や人質に身元が割れないようにコードネームを決めた。コードネームは、坂口は「浅間」、坂東は「立山」、吉野は「富士山」、加藤(倫教)は「赤城」、加藤(元久)は「霧島」であった。連合赤軍はアジ演説も行わず電話にも出ず警察に何も要求せず、ただ山荘に立てこもって発砲を繰り返した。途中、人質を解放する案や夜中に山荘を脱出する案も浮上したが、「人質を国家権力の手から保護する」という倒錯した理屈が提唱され、結局最後まで人質を取って籠城する方針は変わらなかった。

警察の対応

初期対応

全国を股にかけ逃走を続けた連合赤軍に対し、警察庁では警備局刑事局・全国の各管区警察局などが陣頭指揮を執り都道府県警察と総合調整を図って捜査していた。

そして、連合赤軍一派と遭遇し、銃撃戦に応戦した長野県機一個分隊の至急報を受けた長野県警察本部では、全県下の警察署に対し重大事案発生の報と共に動員をかけ、軽井沢への応援派遣指令を出した。まず、山荘周辺の道路封鎖と強行突破を防ぐための警備部隊の配置、連合赤軍残派の検索を行うため山狩りと主要幹線道路の一斉検問実施、国鉄及び私鉄各線のでの検索など、県警として考えうる限りの対応を実施した。

また、長野県軽井沢にて連合赤軍発見の急報を無線傍受していた警察庁では、直ちに後藤田正晴警察庁長官の指示により、人質の無事救出(警備の最高目的)・犯人全員の生け捕り逮捕・身代わり人質交換の拒否・火器使用は警察庁許可(「犯人に向けて発砲しない」を大前提とした)などの条件が提示され、長野県警察の応援として警察庁・警視庁を中心とする指揮幕僚団の派遣を決定する。

警察庁からは、長野県警察本部長・野中庸(いさお)警視監と同格の丸山昂(こう)警視監(警備局参事官)を団長として、警備実施及び広報担当幕僚長に佐々淳行警視正(警備局付兼警務局監察官)、警備局調査課の菊岡平八郎警視正(理事官・広報担当)、情報通信局の東野英夫専門官(通信設備及び支援担当)、また、関東管区警察局からも樋口公安部長など数人が派遣されている。

警視庁からは、機動隊の統括指揮を行うため石川三郎警視正警視庁警備部付(警備部のトップ3の役職であり、第一次安保闘争時の警視庁第一機動隊長を務めるなど数々の修羅場をくぐった歴戦の指揮官であって、第二機動隊長の内田尚孝警視とはかつて同じ機動隊で上司と部下の関係だった)、國松孝次広報課長、梅澤参事官(健康管理本部・医学博士)など他にも多数の応援が向かった。

後日、佐々幕僚長の要請で警視庁警備部の宇田川信一警視(警備第一課主席管理官・警備実施担当)が現場情報担当幕僚として派遣される。また、宇田川警視もコンバットチームと呼ばれる警視庁警備部の現場情報班を軽井沢に招集する。

機動隊関係では、事件発生当日の警視庁の当番隊であった第九機動隊(隊長・大久保伊勢男警視)が急遽軽井沢へ緊急派遣された。しかし、東京の環境での装備しかないため、冬期の軽井沢では寒さの対策に苦慮した。そこで追加派遣に二機が選ばれ、先に現着している九機の現地での状況も考慮し、寒冷地対策を徹底して軽井沢に向かった。

第二機動隊が追加派遣された理由については諸説あるが、当番隊として先着していた第九機動隊は当時まだ新設されたばかりであり、石川と内田は元上司と部下の関係で互いに気心が知れており、しかも、警視庁予備隊時代から基幹機動隊として歴戦の隊であるため派遣要請されたのではという説もある。九機も現着した二機と一旦交代し、一度東京へ戻り寒冷地対策をして再び軽井沢に向かった。さらに警視庁からは、防弾対策・放水攻撃実施などの支援のため特科車両隊(隊長・小林茂之警視。東大安田講堂事件時は、佐々警視正や宇田川警視とともに警視庁警備部警備第一課に属しており、機動隊との連絡担当官を務めた)、人質の救助、及び現場での受傷者の救助の任務のため第七機動隊レンジャー部隊(副隊長・西田時男警部指揮)も追加派遣されている。

警察は、当初は犯人の人数もわからず、また人質の安否もわからないまま、対応にあたることになった。後藤田長官の方針としては、当地の長野県警察本部を立てて、幕僚団と応援派遣の機動隊は支援役的な立場とされていた。しかし、現地の長野県警察本部では、大学封鎖解除警備などの大規模な警備事案の警備実施経験がなく、装備・人員等も不足しており、当初から長野県警察本部での単独警備は困難であるとの見解を警察庁は有していた。だが、どうしても地元縄張り意識が強く、戦術・方針・警備実施担当機動隊の選定などで長野県警察本部と派遣幕僚団との間で軋轢が生じ、無線装置の電波系統の切り替えや山荘への偵察実施の方法など、作戦の指揮系統についても議論が紛糾した。

結果的には、長野県警察本部の鑑識課員などが幹部に報告せずに、被疑者特定のための顔写真撮影を目的とした強行偵察を行おうとした際、機動隊員2名が狙撃され、1名が重傷を負ったこと、包囲を突破した民間人が山荘に侵入しようとして犯人から拳銃で撃たれ(2月24日)、死亡(3月1日)したこと、さらに無線系統の不備や、強行偵察時の写真撮影の不手際など長野県警察側の不備が露呈し始めたことから、作戦の指揮は警視庁側を主体に行われていった。

制圧作戦

包囲のなか、警察側は山荘への送電の停止騒音放水催涙ガス弾を使用した犯人側の疲労を狙った作戦のほか、特型警備車を用いた強行偵察を頻繁に行った。また、立て籠もっていると思われた連合赤軍メンバーの親族(坂口弘の母、坂東國男の母、吉野雅邦の両親、寺岡恒一の両親)を現場近くに呼び、拡声器を使って数度にわたり説得を行ったテンプレート:Refnest。犯人の親は説得において、事件の最中の2月21日にニクソンアメリカ合衆国大統領中華人民共和国を訪問しており、国際社会が変わっていることをあげた。説得を聞いていた機動隊員らは涙を流したといわれる。しかし、犯人は警察が親の情を利用したとして逆上し、親が乗っていた警察の装甲車に向けて発砲した。

長時間の検討の結果、クレーン車に吊ったモンケン(クレーン車に取り付けた鉄球)で山荘の屋根を破壊し、正面と上から突入して制圧する作戦が立案された。建物の設計図などの情報が提供されて、作戦実施が決定された。警察は情報分析の結果、3階に犯人グループ、2階に人質が監禁されていると判断し作戦を立案した。そこで破壊目標は山荘3階と2階を結ぶ階段とし、3階の犯人達が人質のいる2階(実際は人質も3階にいた)へ降りられなくするために、まず階段のみを限定的に破壊した。鉄球の威力が強すぎると、山荘自体が破壊されの下へ転落する恐れがあったため、緻密に計算された攻撃であった[1]。なお、強行突入を前に山荘内のラジオなどで情報漏洩を防止するため、報道機関と報道協定を締結している。

次に3階正面の各銃眼を鉄球で破壊し、さらに屋根を破壊してからクレーンの先を鉄球から鉄の爪に付け替え屋根を引き剥がし、特製の梯子を正面道路から屋根へ渡して上から二機の決死隊を突入させる手筈だった。また、下からは1階を警視庁九機、人質がいると思われる2階を長野県機の特別に選抜された各決死隊の担当で、予め山荘下の入口から突入させて人質救出・犯人検索を実施という手筈だった。しかし、実際には人質は3階で犯人と共におり、また、山荘破壊途中にクレーンの鉄球も停止して再始動不能になってしまい、作戦の変更を余儀なくされた。鉄球作戦の効果は2階と3階の行き来を不可能にさせたことと、壁の銃口を壁ごと破壊するに留まった。

鉄球が停止した理由は、公式には「クレーン車のエンジンが水をかぶったため」とされているが、これは、現場警察官の「咄嗟の言い訳」であり、「狭い操作室に乗り込んだ特科車両隊の隊長が、バッテリー・ターミナルを蹴飛ばしたため」である[2]。本来、屋外で使用されるクレーン車であり、多少の水がかかった程度では問題は起きない。

この故障説[3]については、作戦に関わった土木会社の証言から、故障ではなくて車両そのものが問題だった事が明らかになっている。このクレーン車は警察車両ではなく、米軍の払い下げ品を民間会社が使用していたものを、急遽操縦席に鉄板を取り付けるなど、防弾のための改造を施したものだった。また、モンケンにしても専用の車両ではなく、単なるクレーンのケーブルに鉄球を取り付けた代物だったため、鉄球が止まったのは故障ではなく、もともと単発の使用でありあわせのものだった事を、鉄球作戦に車両を提供した関係者が模型雑誌で明かしている。

当時の警視庁第九機動隊長であった大久保伊勢男は、鉄球作戦は失敗であったと回想している[4]。佐々も作戦中にクレーンが故障したため十分な効果を得られなかったとしている。

事件の収束

2月28日午前10時に警視庁第二機動隊(以下「二機」)、同第九機動隊(以下「九機」)、同特科車両隊(以下「特車」)及び、同第七機動隊レンジャー部隊(七機レンジャー)を中心とした部隊が制圧作戦を開始。まず、防弾改造したクレーン車に釣った重さ1トンの鉄球にて犯人が作った山荘の銃眼の破壊を開始。直後に二機が支援部隊のガス弾、放水の援護を受けながら犯人グループが立てこもる3階に突入開始(1階に九機、2階に長野県機動隊が突入したが犯人はいなかった)。それに対し、犯人側は12ゲージ散弾銃、22口径ライフル、38口径拳銃を山荘内から発砲し抵抗した。このとき、弾丸が貫通することが分かりテンプレート:Refnest、隊員は盾を2枚重ねて突入した。

突入した二機四中隊(中隊長・上原勉警部)は築かれたバリケードを突破しつつ犯人グループが立てこもる部屋に接近した。作戦は当初順調に進んだが、作戦開始から1時間半後から2時間後にかけて、鉄球攻撃及び高圧放水攻撃の現場指揮を担当していた特車中隊長・高見繁光警部、二機隊長・内田尚孝警視が犯人からの狙撃を頭部に受けテンプレート:Refnest、数時間後に殉職。さらに山荘内部で上原二機四中隊長が顔面に散弾を受け後退したのを皮切りに突入を図った隊員数名が被弾して後退した。その他、ショックによる隊員達の混乱、犯人側の猛射、クレーン車鉄球の使用不能等が重なり、作戦は難航した。

途中、拳銃使用許可が下りたものの、現場の混乱もあって命令が伝達されず、結局数名の隊員しか発砲しなかった(威嚇発砲のため犯人には当たらず)。その後、犯人側は鉄パイプ爆弾を使用するなどして隊員達の負傷者は増えた。作戦開始5時間半後、作戦本部の意向により、隊長や中隊長が戦線を離脱し指揮系統が寸断された二機を1階2階を担当とし、無傷の九機で3階に突入することを決定。また、放水の水が山荘中にかかった事から、夜を越すと犯人と人質が凍死する危険があったため、当日中の救出を決定した。また当初は士気に関わるとして部隊指揮官の意思を尊重する形で、狙撃対象の区別がしやすいヘルメットの指揮官表示を取っていなかったが、指揮官が次々と狙撃されていったことから、途中からヘルメットの指揮官表示を外すことを決定した。

作戦開始から7時間半後の午後5時半から、放水によって犯人が立てこもる部屋の壁を破壊する作戦が取られ、午後6時10分、九機隊長・大久保伊勢男警視から一斉突入の命令が下り、数分の後、犯人全員検挙、人質無事救出となった。

逮捕時、犯人側には多くの銃砲や200発以上の弾丸、水で濡れて使用不能になった3個の鉄パイプ爆弾、M作戦(金融機関強盗)などで収奪した75万円の現金が残っていた。

事件収束までの犠牲者は警視庁の高見繁光警部(二階級特進警視正)と内田尚孝警視(二階級特進・警視長)の2人、そして「犯人を説得して人質を解放する」という意思で山荘に近づいた民間人1人が死亡した。また、機動隊員と信越放送カメラマン計16人が重軽傷を負った。重傷者の中には、失明など後遺症が残った者もいる。また、坂東國男が逮捕される直前、彼の父親が自宅のトイレで首を吊って自殺している。遺書には人質へのお詫びと残された家族への気遣いが書かれていた。

事件が長期化した要因

人質の無事救出が最重要目的であり、かつ犯人を生け捕りにする方針であった。仮に犯人を射殺した場合「殉教者」として神格化され、他の集団に影響を与えると考えられたためである。警察は1960年安保闘争で死亡した樺美智子1970年上赤塚交番襲撃事件で射殺された柴野春彦等の事例を想定していた。さらに、1970年の瀬戸内シージャック事件において犯人を射殺した警察官が、自由人権協会所属の弁護士から殺人罪等で告発されたことへの憂慮もあった。告発は正当防衛として不起訴となったが、事件当時は特別公務員暴行陵虐罪による付審判請求が行われ、裁判所の決定が下されていなかった。

また、犯人たちは警察の要求を一切聞き入れず、かつ一切の主張や要求をしなかったので、警察は人質の安否すら把握できなかったテンプレート:Refnest。そのため、人質の安否確認、犯人の割り出しのために偵察を繰り返したが、山荘が切り立ったに建てられていて、犯人に有利な構造であったこと、頻繁に犯人が発砲してくること、警察の発砲が突入直前まで全く許されなかったことテンプレート:Refnestなどから情報収集もままならなかった。佐々淳行は著書の中で、この難攻不落の山荘を「昭和の千早城」と評している[1]

事件後の情勢

連合赤軍の崩壊

あさま山荘事件での犯人逮捕で、連合赤軍は幹部全員が逮捕されテンプレート:Refnest、事実上崩壊した。逮捕後の取り調べで、仲間内のリンチ殺人事件(山岳ベース事件)が発覚し、世間に衝撃を与えた。また、逃走していた連合赤軍メンバーも次々と出頭し、全メンバーが逮捕された。

特殊部隊の創設

1972年9月5日西ドイツ(当時)でミュンヘンオリンピック事件が発生し、黒い九月により人質全員が殺害され、日本国内に衝撃を与えた。事件後、警察庁は全国の都道府県警察に通達を出し、「銃器等使用の重大突発事案」が発生した際、これを制圧できるよう特殊部隊の編成を行うこととした[5]

1975年日本赤軍によるクアラルンプール事件によって、あさま山荘事件犯人の一人である坂東國男が「超法規的措置」として釈放され、日本赤軍に合流した(坂口も日本赤軍から釈放要求されていたが、拒否をしている)。

1977年9月28日、釈放された坂東が関与した日本赤軍によるダッカ日航機ハイジャック事件が発生した際、日本政府は日本赤軍の要求を受け入れ、身代金(600万ドル)を支払い、超法規的措置により6名を釈放した。だが、直後に起こったルフトハンザ航空181便ハイジャック事件での西ドイツ政府の強行手段(特殊部隊GSG-9による犯人射殺)と対照的だったため、国内外から厳しい批判を受けることになった。この事件に対する教訓から、同年、政府は警察にハイジャック対策を主要任務とする特殊部隊を創設した。この部隊が近年増設され、SATと呼ばれている。

裁判

山岳ベース事件も含めた連合赤軍事件全体で起訴された。当初、被告たちの多くは共同の弁護団による統一公判で裁判に臨んだが、徐々に被告間で事件に対する認識の齟齬が生じたり、坂東國男の離脱などの事情もあり、最終的には統一公判組と分離公判組に分かれることになった。本事件に関係した被告では、坂口弘死刑吉野雅邦無期懲役加藤倫教(逮捕時19歳)は懲役13年、加藤元久(逮捕時16歳)は中等少年院送致とそれぞれ判決が確定した。なお、坂口への最高裁判所の判決は1993年2月19日で、あさま山荘事件発生からちょうど21年であった。国外逃亡した坂東國男は現在も国際指名手配されている。警察関係者の中には、坂東が逮捕されるまであさま山荘事件は終わらないと考えている者もいる。

関係者のその後

エピソード

カップヌードル
事件当時、現場は平均気温マイナス15度前後の寒さで、機動隊員たちのために手配した弁当は凍ってしまった。地元住民が炊き出しを行い、隊員に温かい食事を提供したエピソードがあるが、実際にこれにありつけたのは外周を警備していた長野県警察の隊員のみであり、最前線の警視庁隊員には、相変わらず凍った弁当しか支給できなかったという。
やむなく当時販売が開始されたばかりの日清カップヌードルが隊員に配給された。手軽に調達・調理ができた上に寒い中長期間の勤務に耐える隊員たちに温かい食事を提供できたため、隊員の士気の維持向上に貢献したといわれている。もっとも、佐々淳行の著書によれば、カップヌードルは警視庁が補食として隊員に定価の半額で頒布したものであるが、当初長野や神奈川の隊員には売らず(警視庁の予算で仕入れ、警視庁が水を汲んで山に運び、警視庁のキッチン・カーで湯を沸かしたからというのがその理由)、警視庁と県警との軋轢を生んだとある[1]
テレビ中継でカップヌードルを美味しそうに食べる隊員達の姿が映像に映り、同商品の知名度を一挙に高めた[6]。カップヌードルの売上は発売開始時の1971年には2億円だったのに対して、事件後の1972年には前年比33.5倍の67億円になっている。
鉄球作戦
佐々淳行によると、当時テレビの前の視聴者の度肝を抜いた鉄球作戦は、実は東大安田講堂事件の時、当時警視庁警備第一課長として現場指揮担当であった佐々自身が提案したものが、後に浅間山荘で実施されたのだという[1]。佐々は全共闘による建物上部からの抵抗から機動隊員を守り、かつ速やかに占拠された建物への突破口・進入路を安全に確保するために、安田講堂の正面入口を建物解体用のモンケンで一気に破壊する、という正面突破作戦を具申したが、秦野章警視総監(当時)から却下された。その理由として、安田講堂は東京都指定の登録文化財第1号であり、安田財閥の創始者・安田善次郎からの寄付でもあるための配慮があったのではないか、としている。
なお近年のテレビ番組において、警察側に重機、鉄球クレーンを提供した機材会社、また実際にクレーン車を操縦した民間協力者が実名で報じられている。以前は報復を警戒して、テレビ番組では当事者が否定していた。だが、警察の努力により連合赤軍及びそのシンパが報復活動に出ることが不可能となった(要するに連合赤軍が壊滅した)ため、この状況を以って、当事者が実名で現れても報復の心配がなくなったことが証明されたといわれる。使用された鉄球は2008年時点において、長野市内の鉄工所に残されている。
ヘルメットの意匠
当時、現場の隊長、副隊長は指揮を円滑に進めるためにヘルメットの意匠が少し変わっていた。その事が災いし、それさえ理解していれば容易に隊長格を特定して狙撃、指揮系統を混乱させる事が可能だった。事件の後、これらの問題点からヘルメットによる識別は撤廃された。
生中継
1972年2月28日の突入作戦時にNHK・民放5社が犯人連行まで中継しているが、このうち、NHK・日本テレビTBSフジテレビの中継映像がVTRで残っている。長野放送とフジテレビが、当時はまだ白黒用だった長野放送の中継車を通じて犯人連行の様子を高感度カメラで捉えることに成功。当時、報道に力を入れていなかったフジテレビはこれを機に報道に力を入れるようになった。また、暗視カメラとして白黒カメラが見直されるなど後のテレビ報道に影響を与えた。
後方の治安
当時の長野県警察の定数2,350人中、あさま山荘事件と他メンバー潜伏の山狩りのために838人(定数の36%)を動員していた。そのため、事件が長期化するにつれて後方の治安が心配され、交通事故の増加や窃盗犯の増加が懸念された。しかし、事件の長期化とともに犯罪発生件数や交通事故は減少傾向を示していた。これは事件の放送が異常な高視聴率を示していたことから大勢の人間がテレビを視聴していたことになり、外出を控えて自動車の絶対量が減ったり、在宅率が増えて空き巣が入る対象の空き家が減ったり、犯罪者自身もテレビの事件報道を視聴している間は犯罪を犯さなかったためとされている。
警備心理
群集心理や、人質の心理のレクチャーのために宮城音弥東工大教授らが現地に派遣された。
人質女性
事件後、マスコミの取材等は一切の断絶状態で長野県警察本部が厳重に警備していたはずの人質女性の取調べの模様が、新聞の特ダネとして次々とスクープされた。その後、女性の病室に忍び込もうとしていた新聞記者が取り押さえられ、盗聴器を所持していたことが判明したが、公にはならなかった。
女性は、「赤軍派にうどんを食べさせてもらった」、「3食ちゃんと食べさせていた」という発言や、あたかも犯人達と心の交流があったかの如く報道され、広く世間の批判を受けることとなるが、実際には「一日一食、ごった煮みたいなものを食べさせられた」、「26日からはコーラ1本しかもらえなかった」、「2月29日の報道を見たらまるで私が赤軍と心のふれあいをしたみたいに書いてあって驚いた」と後に述べている。
浅間山荘その後
事件後10年ほどは、浅間山荘は観光名所となり、観光バスのコースにもなっていた。その後、大半を取り壊して建て直され、アートギャラリーとなったのち、現在は中国企業の所有となっている。事件当時、新毛沢東主義セクトが篭城した現場が、その毛により建国された中国の企業に”資本主義”のルールに基づき買い取られる、という皮肉な形となった。

事件を扱った作品

小説

  • 立松和平光の雨』 新潮社 1998年
    • 山岳ベース事件を中心とした一連の連合赤軍事件をテーマとした小説。2001年に映画化された。ただし、小説・映画ともあさま山荘事件の場面はわずかである。

映画

  • 光の雨』 2001年
    • 立松和平の小説『光の雨』を原作とする。原作を劇中劇とする手法を用いている。

テレビ番組

  • プロジェクトX〜挑戦者たち〜』「あさま山荘事件 衝撃の鉄球作戦」 NHK 2002年
    • 1話完結ではなく前編と後編に分かれており、前編は突入までの9日間、後編は突入当日の1日を追っている。この番組は主観が警察ではなく、地元住民にある。同番組では2001年に放送されたカップヌードル誕生秘話の「魔法のラーメン・82億食の奇跡」においても、あさま山荘事件のエピソードが番組の最後に紹介された。

舞台

脚注

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注釈

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出典

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参考文献

警察側

  • 持田昭編 『旭の友特集号』「連合赤軍軽井沢事件」 長野県警察本部警務部教養課・発行 1972年6月1日
    • 長野県警察本部警務部教養課による事件をまとめた資料。
  • テンプレート:Cite book
    • 対連合赤軍だけではなく対長野県警察という内部の対立を、警察庁側の視点から書いている。1999年には文庫化され『連合赤軍「あさま山荘」事件-実戦「危機管理」』の表題に改められた上出版されている。
  • 正論』2002年4月号「あさま山荘事件、いまだ決着せず」 産経新聞社
    • 当時の警視庁第九機動隊長を務めた大久保伊勢男の手記「あさま山荘事件、いまだ決着せず」が所収されており、鉄球作戦は失敗ではなかったか、と疑問を呈している。
  • テンプレート:Cite book [親本は1996年]
    • 事件当時の長野県警察警備第二課長である著者は、佐々淳行『連合赤軍「あさま山荘」事件』を、(1)事実に異なる点がある、(2)長野県警察が一丸となって死力を尽くした点などが十分に記述されていない、と批判している。

連合赤軍側

  • 坂口弘 『あさま山荘1972(上)(下)』 彩流社 1993年
  • 坂口弘 『続 あさま山荘』 彩流社 1995年
    • 実行犯のひとり坂口弘による赤軍側から見た獄中手記。
  • 加藤倫教 『連合赤軍 少年A』 新潮社 2003年
    • 実行犯のひとり加藤倫教による手記。著者は兄が山岳ベース事件によって殺害されており、弟と共に山荘に立てこもった。

報道機関側

  • テンプレート:Cite book
    • 日本テレビアナウンサーとして、この事件を現場で実況中継した著者による、「報道側の視点」からの事件の再検証。単なる事件の回想ではなく、執筆に当たり関係者に取材も行っており、この中では鉄球が停止した本当の理由や、事件解決後の被害者のことなどについても触れられている。

関連項目

外部リンク

  • 1.0 1.1 1.2 1.3 佐々淳行 『連合赤軍「あさま山荘」事件』 文藝春秋、1996年
  • テンプレート:Harvtxtによるクレーンのオペレーターへの聞き取り調査
  • テンプレート:Harvtxtでも故障とされている
  • 正論』2002年4月号『あさま山荘事件、いまだ決着せず』 産経新聞社
  • 警察庁次長発各都道府県警察の長宛通達「特殊部隊の編成について」昭和47年9月6日乙備発第11号
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