人質

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人質(ひとじち)は、交渉を有利にするために、人の身柄を拘束すること。また、拘束された人。また近世以前、借金の担保として人身を質入れすること。また、誓約の保証として妻子や親族などを相手方にとどめておくことや、その対象も人質と呼ばれた。

近世以前の外交関係における人質

歴史上しばしば見られる、国交上の必要に応じて要求される、高い身分を持つ人質は単純な被害者とは言い切れない。人質に選ばれるのは王子など有力者の子弟であり、その人物は必然的に将来の指導階級となるだけに、これを厚遇して好印象を持たせることは保護国側に取っても重要な事であった。人質とその一行は現在での大使館にも似た外交使節とも言えるかもしれない。そして最重要国中枢の姿を間近で見て知り尽くすことが出来ることも大きな利点である。

特に古代ローマがそうであった。人質の滞在先は慎重に吟味され元老院議員等の有力者の家でその子弟と共に学友としてローマ式の教育(リベラル・アーツ)を施され、留学生とも似た境遇となる。こうしてローマ・シンパとして育てられた人質が帰国して指導階級となり、親ローマの立場を取ることで円満な外交関係が築かれる事は正にローマの望むところであった。更に人質時代に築かれた人脈はその関係を潤滑にする。

それはローマ以外のどの国、時代でも似たものであったろう。関係断絶の際にその立場は生命の危機も含む困難なものともなるが、平時にはその立場は悪くはないものであった。

古代の東アジアにおける「人質」は約束の証拠である[1]。王権間の特別の修好結縁に際し、「盟」約にともなう国際的儀礼の一環として、王の近親の者を一時期提供する[1]。政治的手段の性質があり戦略的色彩が濃い[1]。人質を送ることは服属を意味するものではない[2]。人質が「保証」の意義をもつことは一般のの目的と共通である[2]

日本の近世においては、大名が公儀への忠誠の証として、自らとその重臣の家族を「証人」として、大坂や江戸、京都の屋敷に住まわせる慣行があった(大名証人制度)。寛文5年(1665年)に重臣については証人制度が廃止され、大名の妻子については幕末の文久2年(1862年)閏8月22日に廃止された。

人質として知られる歴史上の人物

予防措置としての人質

ファイル:Train hostages.jpg
1936年テンプレート:仮リンクの際に取られた、アラブ側の攻撃を避けるためのイギリス軍の人質戦術。装甲列車の前車両に二人のアラブ人が乗せられている。

プレリアル30日のクーデターの後、総裁政府はいわゆる「テンプレート:仮リンク」の制定に動いた。これは反革命者の身内を拘禁し、官吏や軍人が処罰されるごとに人質を処罰するというものであった。

ナチス・ドイツは占領区域においてこの人質政策をとり、ユダヤ人レジスタンスなどの人質を拘禁した。ドイツ側の人員が殺傷された場合には、これらの人質は殺害されたテンプレート:Sfnナチス・ドイツ占領下のフランスではこの措置が頻繁に行われ、マルク・ブロックテンプレート:仮リンクなど多数の人間が処刑された。これらの行為はハーグ陸戦条約50条で禁止されている。

犯罪事件における人質

犯罪事件において犯人が人質を確保し、要求を行うことはしばしば見られる。日本においてこれらの行為は人質による強要行為等の処罰に関する法律によって禁止されている。人質事件が発生した場合、当局は人質救出作戦において人質の生命を最優先に犯人側の要求を呑むか、人質に多少の犠牲が出ることを覚悟で犯人側の身柄拘束・殺害を試みるかの選択を迫られる。日本政府は1977年のダッカ日航機ハイジャック事件において前者の立場を取り犯人側の要求を認めて「超法規的措置」を取って収監されていたテロリストを解放した。この措置は国際社会から強い批判を受けた。後者の立場をとる場合にも通常の警察力だけでは対応できないことが多く、専門の訓練を受けた警察官、あるいは軍隊によって専門の特殊部隊が構成される。

一方で人質事件においては犯人に対して人質の解放や待遇改善を求める交渉も重視される。政治的要求の場合は犯人との間の仲介者や仲介者の支援者も重視されるテンプレート:Sfn。テロ事件の場合は要求相手と直接関係無い第三者を人質とするケースもしばしばあるテンプレート:Sfn

人質事件の対応に当たる特殊部隊

近代以降における主な人質事件

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 山尾(2003)
  2. 2.0 2.1 堀(1998)

参考文献

関連項目

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