ナチス・ドイツ
テンプレート:半保護 テンプレート:基礎情報 過去の国 ナチス・ドイツは、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が政権を掌握していた1933年から、第二次世界大戦の敗北によってナチ党政権が崩壊する1945年までのドイツ国を指す呼称。
目次
国名
正式な国名は帝政ドイツ、ヴァイマル共和国を通じて「ドイツ国(Deutsches Reich、ドイチェス・ライヒ)」であった。
ドイツによるオーストリア併合以降、民間などの間で「大ドイツ国(Großdeutsches Reich、グロースドイチェス・ライヒ)」の呼称が使われ始めた。1943年6月24日には総統官邸長官ハンス・ハインリヒ・ラマースが公用文書Erlass RK 7669 Eの中ではじめて「大ドイツ国」の用語を用いた[1]。同年10月24日以降は切手にも「大ドイツ国」の語が印刷された。ただし、正式な国号変更宣言は出されなかった。
「ナチス」は国家社会主義ドイツ労働者党の蔑称であるが、党が政権をとる前から世界に広く知られていた[2]。このため同党の政権掌握後、英語圏ではドイツを指して「Nazi Germany」という呼称が用いられた。日本においては昭和8年(1933年)10月27日付の大阪毎日新聞で「ナチス独政府」[3]という表記が見られ、昭和10年(1935年)4月28日付の大阪朝日新聞では「ナチス・ドイツ」の呼称が用いられている。昭和11年(1936年)5月31日付大阪朝日新聞の天声人語でも「ナチ・ドイツ」[4]と表記され、戦時中の昭和18年(1943年)1月11日でも「ナチスドイツ」という語が用いられた[5][6]。
またドイツ全国を統一的に統治した国家体制として、神聖ローマ帝国、帝政ドイツを継承する「理想国家」という意味で、「第三帝国(テンプレート:Lang-de-short、テンプレート:Lang-en-short)」という呼称も宣伝に使用したが、これが逆に敵対国の反独宣伝に利用されたため、ナチス・ドイツ政府はこの語の使用を禁じた。
年表
- 3月~4月 大統領選挙にヒトラーが出馬したが次点となる。
- 7月31日 国会議員選挙。230議席を獲得し第1党となる。
- 11月6日 国会議員選挙。34議席を失ったが、196議席を確保し第1党の地位を保持する。
- 1月30日 パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領は、周囲に説得されてクルト・フォン・シュライヒャーに代わってアドルフ・ヒトラーを首相に任命。ナチ党の権力掌握課程、「Machtergreifung」(乗っ取り)の始まり。
- 2月6日 大統領令により、プロイセン州内閣の権限が国家弁務官に譲渡されることとなる。この措置は2月中旬までにほとんどの州で行われ、地方行政が国家の監督を強く受けることとなる。強制的同一化(テンプレート:Lang-de)の開始。
- ヘルマン・ゲーリングが無任所相兼プロイセン州内相に就任。プロイセン州の警察権力をナチ党が掌握。
- 2月27日 国会議事堂放火事件発生。翌日、ヒトラーは緊急大統領令を布告させ、ワイマール共和国憲法によって成立した基本的人権のほとんどは停止され、ドイツ共産党員、ドイツ社会民主党員らが大量に逮捕される。
- 3月5日 国会議員選挙結果発表。ナチ党は43.9%の票を獲得、288議席を得た。
- 3月10日 バイエルン州の国家弁務官にフランツ・フォン・エップが就任し、州政府を解体。この時点ですべての州が国家弁務官の支配を受けることになる。
- 3月12日 新国旗を制定するまで黒・白・赤の旧ドイツ帝国国旗とナチ党旗であるハーケンクロイツ旗の両方を掲げる事を定めた。
- 3月20日 最初の強制収容所、 ダッハウ強制収容所が設立される。
- 3月21日 新国会の開会式。ヒトラーはヴァイマル共和国の伝統を否定し、ドイツ帝国からの権威継承を表明する。国民高揚の日と名付けられ祝日となる。(ポツダムの日(de))
- 3月23日 議会において授権法(全権委任法)が成立。立法権を政府が掌握し、独裁体制が憲法的にも確立された。
- 3月31日 ラントとライヒの均制化(Gleichschaltung)に関する暫定法律(de)公布。各州議会の議席が国会の議席配分に従って決められるようになり、地方自治権はほぼ停止する。4月7日には『ラントとライヒの均制化に関する暫定法律の第二法律』が公布。国家弁務官に代わってライヒ代官(または国家代理官、州総督Reichsstatthalter)が中央政府から各州政府に派遣される。
- 4月26日 プロイセン州警察政治部門がプロイセン州秘密警察局(ゲシュタポ)と改名。
- 7月14日「政党新設禁止法」(de)公布。ナチ党以外の政党の存続・結成が禁止される。
- 10月21日 ジュネーブ軍縮会議の決裂を理由として国際連盟脱退。
- 12月1日「党と国家の統一を保障するための法律」公布。ナチ党と国家の一体化が定められる。
- 1月30日 「ドイツ国再建に関する法」成立。各州の主権がドイツ国に移譲され、州議会が解散される。
- 6月30日 「長いナイフの夜」事件。突撃隊幹部や前首相シュライヒャーなど政敵が粛清される。
- 8月1日 「国家元首に関する法律」(de)が閣議で定められる。
- 8月2日 ヒンデンブルク大統領が死去。「国家元首に関する法律」が発効し、首相職に大統領職が統合されるとともに、「指導者およびドイツ国首相(Führer und Reichskanzler))アドルフ・ヒトラー」個人に大統領の権能が委譲される。以後、ドイツ国の最高指導者となったヒトラーの地位を日本では「総統」と呼ぶ。
- 8月19日 国家元首に関する法律の措置に対する国民投票。投票率95.7%、うち89.9%が賛成票を投じる。
- 1月26日 ブロンベルク国防相を罷免。28日にはフリッチュ陸軍総司令官も罷免され、ナチ党による国防軍支配が強固になる(ブロンベルク罷免事件)
- 3月13日 オーストリアを併合(アンシュルス)。
- 9月29日 ミュンヘン会談でチェコスロバキアのズデーテン地方を獲得。
- 11月9日 水晶の夜事件。
- 3月14日 チェコスロバキア内のスロバキア民族派に働きかけ、スロバキア共和国をチェコスロバキアから独立させる。
- 3月15日 チェコスロバキアのボヘミア・モラビアをベーメン・メーレン保護領として保護領とする(チェコスロバキア併合)。
- 3月22日 リトアニアのメーメルを住民投票で併合。
- 8月23日 独ソ不可侵条約締結。
- 9月1日 スロバキアと共同してポーランドに侵攻。
- 4月9日 ノルウェー、デンマークに侵攻(ヴェーザー演習作戦・ノルウェーの戦い)。デンマークは降伏し、保護国下に置かれる。
- 5月にはほぼノルウェー全土を占領。ヴィドクン・クヴィスリングによる傀儡政権が設置される。
- 5月10日 フランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクに侵攻を開始(ナチス・ドイツのフランス侵攻、オランダにおける戦い (1940年))。ルクセンブルクは占領、併合される。
- 5月17日 ヨーロッパのオランダ軍がドイツ軍に降伏。
- 5月28日 ベルギー降伏。
- 6月21日 フィリップ・ペタンを首相とするフランス政府、ドイツに休戦申し入れ、翌22日に独仏休戦協定締結。北部をドイツの占領下に置き、南部はヴィシー政権としてドイツの強い影響下に置かれる。
- 9月20日 日独伊三国軍事同盟締結。
- 4月6日 ユーゴスラビア侵攻開始。
- 4月10日 ギリシャ・イタリア戦争にイタリア側として介入(バルカン半島の戦い)。
- 6月22日 バルバロッサ作戦を発動し、ソビエト連邦に侵攻(独ソ戦)。
- 12月11日 12月7日に日本が真珠湾攻撃を行い、アメリカ・イギリスに宣戦布告したことを受け、ドイツ・イタリアもアメリカに宣戦布告。
- 2月2日 スターリングラードで、パウルス元帥率いる第6軍がソ連軍に降伏(スターリングラードの戦い)
- 6月24日 公用文書で「大ドイツ国」(Großdeutsches Reich)の国号が用いられ始める。
- 7月25日 イタリア王国においてベニト・ムッソリーニが首相を解任、逮捕される。
- 10月24日 「大ドイツ国」(Grossdeutsches Reich)の国号が切手によって使用され始める。
- 3月8日 マルガレーテI作戦によりハンガリー王国を占領下に置く。
- 6月6日 ノルマンディー上陸作戦。連合国軍がフランス北部に上陸し、橋頭堡を築く。
- 7月20日 反ヒトラー派グループ(黒いオーケストラ)により、ヒトラー暗殺計画とクーデターが行われるが失敗に終わる。
- 8月25日 パリの解放。枢軸国であったルーマニアが連合国につき、ドイツに宣戦布告(ルーマニア革命 (1944年))。
- 9月9日 ブルガリア王国がドイツに宣戦布告。
- 9月 西部戦線において連合軍がドイツ国境を越えて侵攻。占領地に連合軍による地方政府が樹立されはじめる。
- 10月15日 パンツァーファウスト作戦により、ハンガリー王国を矢十字党の支配するハンガリー国として傀儡化する。
- 4月16日 ベルリンの戦い始まる。
- 4月30日 ヒトラーが総統官邸地下壕において自殺。後継大統領にカール・デーニッツ、首相にヨーゼフ・ゲッベルスを指名。
- 5月1日 ゲッベルスが地下壕において自殺し、政府機能が崩壊。デーニッツのフレンスブルク政府が活動を開始。
- 5月2日 ベルリンがソ連軍に占領される。
- 5月7日 アルフレート・ヨードル大将がランスにおいて連合国への降伏文書に署名。
- 5月8日 ヴィルヘルム・カイテル元帥がベルリンのカルルスホルストにおいて、降伏文書の批准を行う。
- 5月23日 デーニッツをはじめとするフレンスブルク政府閣僚が逮捕される。
- 6月5日 ベルリン宣言により、ドイツに中央政府が存在しないことが確認される。統合的な占領行政がスタート(連合軍軍政期)。
- 7月5日 ドイツの統治を担当する連合国管理理事会(en:Allied Control Council)設置。
歴史
政権掌握
テンプレート:Main ナチスはヒトラー内閣成立直前の1932年の二度の国会選挙で最大の得票を得たが、議会においては単独では過半数を獲得することはできなかった。同年11月の選挙でナチスは34議席を失ったが、第1党の地位は保持した。一方ドイツ共産党は11議席を増やし、首都ベルリンでは共産党が投票総数の31%を占めて単独第1党となった。これに脅威を感じた保守派と財界は以後、ナチスへの協力姿勢を強め、途絶えていた財界からナチスへの献金も再開された。
1933年1月30日、ヒトラーはパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領よりドイツ国首相に任命されて政権を獲得した。同時にナチス党幹部であるヘルマン・ゲーリングが無任所相兼プロイセン州内相に任じられた。ゲーリングはプロイセン州の警察を掌握し、突撃隊や親衛隊を補助警察官として雇用した。これにより多くのナチスの政敵、特にドイツ共産党およびドイツ社会民主党員が政治犯として強制収容所に収容された。
- 非常権限掌握
ヒトラーは組閣後ただちに総選挙を行ったが、2月27日にドイツ国会議事堂放火事件が発生した。ヒトラーはこれを口実として「民族と国家防衛のための緊急令」と「民族への裏切りと国家反逆の策謀防止のための特別緊急令」の二つの緊急大統領令を発布させた。これにより国内の行政・警察権限を完全に握ったヒトラーは、ドイツ共産党に対する弾圧を行った。選挙では共産党議員も多数当選したが、選挙後に共産党は非合法化され、共産党議員の議席は議席ごと抹消された。ドイツ中央党など中道政党の賛成も得て全権委任法を制定し、一党独裁体制を確立した。その後、ドイツ国内の政党・労働団体は解散を余儀なくされ、ナチス党は国家と不可分の一体であるとされた。
1934年6月には突撃隊幕僚長エルンスト・レームをはじめとする党内の不満分子やナチス党に対する反対者を非合法手段で逮捕・処刑した(長いナイフの夜)。1934年8月にヒンデンブルク大統領が死去すると、ヒトラーは従来の首相職に加えて国家元首の機能を吸収し、国民投票によってドイツ国民により賛同された。これ以降のヒトラーは指導者兼首相(Der Führer und Reichskanzler)、日本語では総統と呼ばれる。 テンプレート:-
支配の強化
1935年にはヴェルサイユ条約の破棄と再軍備を宣言した。ヒトラーはアウトバーンなどの公共事業に力を入れ、壊滅状態にあったドイツ経済を立て直した。一方で、ユダヤ人、ロマのような少数民族の迫害など独裁政治を推し進めた。1936年にはドイツ軍はヴェルサイユ条約によって非武装地帯となっていたラインラントに進駐した(ラインラント進駐)。同年には国家の威信を賭けたベルリン・オリンピックが行われた。また、1938年には最後の党外大勢力であるドイツ国防軍の首脳をスキャンダルで失脚させ(ブロンベルク罷免事件)、軍の支配権も確立した。
外交においては“劣等民族”とされたスラブ人国家のソ連を反共イデオロギーの面からも激しく敵視し、英仏とも緊張状態に陥った。ただし、ヒトラーはイギリスとの同盟を模索していたとされる。アジアにおいてはリッベントロップ外相の影響もあり、伝統的に協力関係(中独合作)であった中華民国(中国)から国益の似通う日本へと友好国を切り替えた。1936年には日独防共協定を締結。1938年には満州国を正式に承認し、中華民国のドイツ軍事顧問団を召還した。1940年9月にはアメリカを仮想敵国として日独伊三国軍事同盟を締結した。 テンプレート:-
領土拡張政策
1938年にはオーストリアを併合(アンシュルス)。9月にはチェコスロバキアに対し、ドイツ系住民が多く存在するズデーテン地方の割譲を要求。英仏は反発し、戦争突入の寸前にまで陥ったが、イタリアのベニート・ムッソリーニの提唱により英仏独伊の4ヶ国の首脳によるミュンヘン会談が開かれ、ヒトラーは英仏から妥協を引き出すことに成功した。
この時ヒトラーが英国のネヴィル・チェンバレン首相に出した条件は「領土拡張はこれが最後」というものであった。しかしヒトラーはこの約束を遵守せず、翌1939年にはドイツ系住民保護を名目にチェコスロバキア全土に進軍、傀儡政権として独立させたスロバキアを除いて事実上併合した(チェコスロバキア併合)。オーストリア・チェコスロバキアを手に入れたヒトラーの次の目標は、ポーランド領となっているダンツィヒ回廊であった。ヒトラーは軍事行動に先立って、犬猿の仲とされたヨシフ・スターリン率いるソビエト連邦との間で独ソ不可侵条約を締結。世界中を驚愕させた。 テンプレート:-
第二次世界大戦
テンプレート:Main ヒトラーはダンツィヒ回廊の返還をポーランドに要求。拒否されると、独ソ不可侵条約締結からちょうど1週間後の1939年9月1日にドイツ軍はポーランドへ侵攻した。ヒトラーは、イギリスとフランスは参戦しないだろうと高をくくっていたが、その思惑に反してイギリスおよびフランスはドイツに宣戦を布告し、第二次世界大戦が開始された。しかし、戦争準備が十分でなかった英仏はドイツへの攻撃を行わず、ドイツもポーランドに大半の戦力を投入していたため、独仏国境での戦闘はごく一部の散発的なものを除いてまったく生じなかった。西部戦線におけるこの状態は翌1940年5月のドイツ軍によるベネルクス3国侵攻まで続いた。ポーランドはドイツ軍の電撃戦により1ヶ月で崩壊。国土をドイツとソ連に分割された。 テンプレート:-
テンプレート:Main 1940年の春には、ドイツ軍はデンマーク、ノルウェーを立て続けに占領し、5月にはベネルクス三国に侵攻、制圧した。ドイツ軍は強固なマジノ線が敷かれていた独仏国境を避け、ベルギー領のアルデンヌの森を突破に一気にフランス領内に攻め込んだ。ドイツ軍は電撃戦によりフランスを圧倒し、1ヶ月でフランスを降伏に追い込んだ。
イギリスを除く西ヨーロッパの連合国領のすべてを征服したドイツ軍は、イギリス本土上陸作戦(アシカ作戦)の前哨戦としてブリテン島上空の制空権を賭けてバトル・オブ・ブリテンを開始したが敗北。イギリス本土上陸は中止に追い込まれた。その後は、貧弱な同盟国であるイタリアの救援として北アフリカ戦線、バルカン半島戦線に部隊を派遣。バルカン半島からギリシャにかけての地域を完全に制圧し、北アフリカでも物量に勝るイギリス軍を一時アレクサンドリア近辺まで追い込んだ。 テンプレート:- テンプレート:Main
そして、1941年6月22日、突如不可侵条約を破棄しソ連に侵攻する(バルバロッサ作戦)。ソ連軍は完全に不意を突かれた形となり、大粛清によるソ連軍の弱体化の影響もありドイツ軍は同年末にはモスクワ近郊まで進出した。しかし、冬将軍の訪れと補給難により撤退。独ソ戦は膠着状態となりヒトラーが当初もくろんだ1941年内のソ連打倒は失敗に終わった。ナチスは占領下のソ連で「征服、植民地化と搾取」を行った。ロシア人が「大祖国戦争」と呼ぶこの戦争で1,100万人の赤軍兵士のほか、およそ1,400万人の市民が死んだ。ソ連への攻撃はドイツの「生存圏」Lebensraum を東方に拡張する目的であったが、「ボルシェヴィズムからヨーロッパを防衛する」ことにつながるとして、この侵攻をイギリスは容認すると考えていた。
日本軍による真珠湾攻撃の3日後、ヒトラーは対米宣戦布告を行った。1942年夏、ドイツ軍はブラウ作戦を発動しソ連南部に進攻。ドイツ軍は得意の電撃戦でスターリングラードまで進出した。しかしスターリングラード攻防戦は長期化し、逆にソ連軍に包囲されてしまう。翌1943年2月、スターリングラードの第6軍は降伏。1個軍が包囲殲滅(せんめつ)されるという致命的な大敗を喫したドイツ軍は東部戦線での主導権をソ連に明け渡すこととなる。一旦は戦線を持ち直したものの、7月のクルスクの戦いを最後にドイツ軍が東部戦線において攻勢に回ることはなかった。クルスクでの戦いの最中には、イタリアのシチリア島に連合軍が上陸。翌月にはイタリア本土に連合軍が上陸し、9月にはイタリアは連合軍に降伏した。ドイツ軍は直ちにイタリア北部を制圧し、イタリア戦線が開始された。
1944年6月、連合軍がフランス北部のノルマンディーに上陸し、ドイツ軍は二正面作戦を余儀なくされる。同時期には東部戦線でもソ連軍によるバグラチオン作戦が開始され、ドイツ軍の敗色は濃厚となった。7月にはヒトラー暗殺計画とクーデターが実行されたが失敗に終わった。東部戦線でのソ連軍の進撃に伴い、ルーマニア・ブルガリア・フィンランドといった同盟国が次々に枢軸側から離反した。
各地で敗退を続けるドイツ軍は、同年12月に西部戦線で一大攻勢に打って出た(バルジの戦い)が失敗。1945年に入ると連合軍のライン川渡河を許した。東部戦線でもソ連軍が東プロイセンを占領し、オーデル・ナイセ線を越えた。4月、ソ連軍によるベルリン総攻撃が開始され、30日にヒトラーは総統官邸の地下壕で自殺した。ヒトラーの遺言により、カール・デーニッツ海軍総司令官が大統領となった(フレンスブルク政府)。5月2日にベルリンはソ連軍によって占領され、ベルリンの戦いは終結した。5月7日、デーニッツにより権限を授けられた国防軍最高司令部作戦部長、アルフレート・ヨードル大将が連合国に対する降伏文書に署名し、翌5月8日に最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥が批准文書に署名した。すでにナチス党は事実上崩壊しており、連合国も中央政府の存在を認めなかったため(ベルリン宣言 (1945年))、ナチス・ドイツの政府は消滅した。 テンプレート:-
ナチス・ドイツの思想
テンプレート:Main テンプレート:節スタブ ナチズムにおいてはアーリア人種こそが世界を支配するに値する人種と信じられ、その中でも容姿端麗で知能が高く、運動神経の優れた者が最もアーリア人種的であるとされた。また頭脳の優れた超人こそが大衆を支配すべきだと信じられ、超人を生み出すために数々の人体実験を行った[7]。一方、ユダヤ人の血は民族の血を腐らせる病原菌とした。これらの思想がニュルンベルク法やホロコーストに繋がったのである[8]。
政治
ナチス・ドイツの政治は原則的には、ナチ党のイデオロギーである指導者原理によるものであった。一人の指導者に被指導者層が従う、つまり民族の指導者であるナチ党、その指導者であるヒトラーに民族すべてが従うというこの原理は、政治分野だけでなく経済や市民生活全てに適用された。ヒトラーの地位である指導者(Führer)は法律で定義されたものではなく[9]、国家や法の上に立つものであるとされた[10]。このため民族共同体の構成員である国民は、指導者の意思に服従し、忠誠を誓うことが義務であるとされた。
この体制では明文化された法よりもヒトラーの意思に従うことこそが重要であるとされ、合法的であるとされた[11]。一方でヒトラーは下位の指導者に大幅な自由裁量権を認めており、社会ダーウィン主義に基づく権力闘争を是認・奨励していた。このためヒトラーの意思を体現すると称する各指導者同士の権力闘争が頻発し、権力的アナーキーと評される状態となった[12]。
強制的同一化
テンプレート:Main ナチス時代の特色ある政策の一つは政治や社会全体を均質化しようとするGleichschaltung、「強制的同一化」(強制的同質化)と呼ばれる運動である。
国民啓蒙・宣伝省が設置された日の会見でヨーゼフ・ゲッベルスが「政府と民族全体の強制的同一化の実現」が同省の目的である[13]と述べたように、ドイツ民族にもナチズムに基づく同一化が求められた。そのためナチ党以外の政党、労働組合や私的なクラブは次々に排除され、禁止された。代わりに人々は国家や党の主導によるイベントや集会に動員・参加することが義務づけられ、他の事象に興味を持つ時間を奪われていった。
ナチ党
1933年7月6日までにナチ党以外の既存政党はすべて解散に追い込まれ、ヒトラーが「党が今や国家となったのだ」と言明する事態となった[14]。7月14日には政党新設禁止法が公布され、唯一の政党であるナチ党以外の政党の設立・存続が禁止された。12月1日には「ナチズム革命の勝利の結果、国家社会主義ドイツ労働者党がドイツ国家思想の担い手となり、党は国家と不可分に結ばれる」ことが法律で定められた(党と国家の統一を保障するための法律)。この法律では党は公法人であるとされたが、1935年4月19日の「統一施行令」では「共同体」(Gemeinschaft)と定義しなおされた。しかしこれらの条文も1942年12月12日の「ナチス党の法的地位に関する指導者命令」によって削除された[15]。党と国家の役割を定義する試みはしばしば行われたが、結局両者の境界は曖昧なままであった。この党の状態をマルティン・ボルマンは「ナチス党の地位は法律の規定によっては正しく把握しうるものではなかった」としている[16]。
一方でナチ党の世界観において、党は国家と同様、指導者の下にあって、民族指導を実現する一つの手段・装置であるとされたが、党は国家より優位に立つ存在であった。ラインハルト・ヘーン(de)は党は国家より先に立つ第一次的存在であるとし[17]、「国家の存在理由は、官庁・官僚装置を使って、党により与えられた大きな方針を実現し、党の負担を軽減する」存在であると説明している[18]。
統治機構
国内政治の機構もナチズムの影響を強く受けた。ヴァイマル共和政の時代では内閣は合議機関であったが、やがて形式だけのものとなり、権力を持つものは一部の大臣のみとなった。ドイツ帝国以来の官僚機構と並立して党の機関も権力の一部となり、時には優位に立つこともあった。党の地方区分であった大管区は公的なものとなり、大管区指導者は地方の長として大きな権限をふるった。また親衛隊の勢力拡大は大きく、国内の治安権力を掌握した最有力組織の一つとなった。またナチス時代初期の外交分野では、外務省のほか党の外交政策局、さらにリッベントロップの個人事務所(「リッベントロップ事務所」Büro Ribbentrop、後に「リッベントロップ機関」Dienststelle Ribbentrop)が並立し、それぞれ別個の外交活動を行うことさえあった。
またナチ党はヴァイマル共和政下の強い地方自治は阻害要因でしかないと考えており、ヒトラー内閣が成立すると州の自治権は次第に奪われていった。中央政府から国家代理官や国家弁務官が送り込まれ、中央政府の権限が強化される一方で、地方議会は解散に追い込まれ、州政府は形骸化した。またナチ党の地方組織大管区が実質的な地方区分となり、大管区指導者が地方の支配者となった。
対外政策
テンプレート:Main テンプレート:節スタブ ヒトラーはドイツ民族を養うためには現状の領土では不可能であると考えており、東ヨーロッパにおける東方生存圏の獲得を主張していた。軍事力の充実もこの目的を達成するためのものであった。1938年11月にはオーストリアとチェコスロバキアに対する侵略政策を軍首脳に明かしている(ホスバッハ覚書)。この思想に基づいてポーランド、チェコスロバキア、ソ連に対する侵略政策を進めた。また、ヒムラーなどはヨーロッパ全土のゲルマン民族を、ドイツ民族の指導の下に統括する大ゲルマン帝国(Großgermanisches Reich)という構想も持っていた。
テンプレート:See also 一方で東アジア外交では、中国をとるか日本をとるかという路線対立が政軍内にあり、日本接近派が主導権を握る1939年頃まで続いた。
経済政策
テンプレート:Main しばしばナチスは経済分野において高い能力を示したと評されることがあるが、ナチズムがドイツの経済回復に与えた理論的影響はほとんど無かった。ヒトラーは「私たちの経済理論の基本的な特徴は私たちが理論を全然有しないことである[19]」と言っているように、『我が闘争』で展開している自らの経済観が事実上マルクス経済学に依拠していても気づかないほど経済学に疎く[20]、当初訴えていた政策は「ユダヤ人や戦争成金から資産を収奪して国民に再配分する」という稚拙なものだった。またナチ党の経済理論家であったゴットフリート・フェーダーやグレゴール・シュトラッサーは早い段階で失脚しており、影響を与えることはできなかった。
1933年2月1日、ヒトラーは4年以内に「経済再建と失業問題の解決」を実現する「二つの偉大な四カ年計画(テンプレート:Lang-de)によって、わが民族の経済を再組織するという二つの大事業を成功させる」と発表した(第一次四カ年計画)。一方でヒトラーは1923年のインフレーションを沈静化させて名高かったヒャルマル・シャハトをドイツ帝国銀行(ライヒスバンク)総裁に迎えた。後に経済大臣になったシャハトの政策は、ヒトラーの前任者であるパーペン、シュライヒャー内閣時代の計画を継承し、公共事業、価格統制でインフレの再発を防ぎ、失業者を半減させた。
一方でヒトラーはドイツ再軍備のために300億マルクの支出を要求した。シャハトは金属調査会社(Metallurgische Forschungsgesellschaft)というダミー会社を作り、この会社にライヒスバンクが保障する手形を発行させる方式で再軍備の資金を調達した[21]。このメフォ手形(en)の発行でインフレを伴わない資金調達が可能となったが、政府に見えない負債を膨大に抱えさせる結果となった。
一方で農業は原料不足が深刻化し、支払い残高を維持することが難しく、膨大な貿易赤字は避けられないため、外貨危機に悩んでいた。そこでシャハトは1934年から双務主義で均衡を図り、広域経済(テンプレート:Lang-de)を敷いた。しかし、シャハトは外貨割り当てを巡って農業省と対立し、軍備のあり方でゲーリングとも対立した。その後、1935年3月にヒトラーはヴェルサイユ条約の軍備制限条項を破棄し、徴兵制を施行して軍備拡張政策を実行する。
外貨割り当てではシャハトの案が採用されたが、1936年8月26日にヒトラーはゲーリングを指導者とする第二次四カ年計画を開始させ、経済省から独立した四カ年計画庁が経済面において大きな権力をふるうことになった。第二次四カ年計画により、1937年には人員需要が失業者を上回り、ほぼ完全雇用が達成された[22]。景気回復の成果はあったが、投資財産業に比べ著しく消費財産業を劣らせ、極度な外貨不足をもたらした。また、労働力不足に陥り、物価・賃金が急騰し、価格停止令など様々な対策を講じたが、どれも失敗に終わった。このためドイツ経済は過熱し、生存圏の拡大か軍備の制限かという二つの選択に迫られた。ヒトラーは前者を選び、反対したシャハトは閑職に追いやられた。同時期に再び財政収支の悪化が激化し、アルベルト・シュペーアは「第二次世界大戦に参戦しなかったとしても第三帝国は財政赤字で破綻する」と思ったという。またシャハトの失脚後にはユダヤ人・ユダヤ系とされた企業から資本・財産を奪うアーリア化の措置が進行している。
第二次世界大戦が勃発すると、軍事支出は当時のヨーロッパでは最高の割合を示すようになり、1944年にはドイツ経済のほとんどを占めるようになった。またフランスなどの占領地からの収奪、捕虜や外国人の強制労働が、ドイツ経済において大きな割合を占めるようになった。しかしこの体制は経済封鎖と占領地失陥によってほころびだし、1945年の敗戦と同時に、戦争経済は崩壊した。これらの政策はミハウ・カレツキを始めとする経済学者らによって典型的な軍事ケインズ主義と総括されている。 テンプレート:-
自動車政策
カーマニアでもあるヒトラーの経済政策は余り芳しくなかった自動車生産を急激に伸ばさせ、ドイツの自動車産業を経営不振から脱却させたことで知られる。1933年にヒトラーはベルリン自動車ショーでアウトバーンの建設を発表し、自動車税が撤廃された。インフラストラクチャー開発の中で道路工事が特に盛んだったことや戦争準備で軍隊及び物資をすぐに運べる最新式の道路網を必要としていたこともあり、クルップやダイムラー・ベンツ、メッサーシュミットなどの軍需企業の協力を得て、アウトバーンの建設を加速し、フォルクスワーゲン構想を推進させた(フォルクスワーゲンの車が大衆に普及したのは戦後だが、自動車生産の基盤はナチス政権時代に整った)。 テンプレート:-
農業・食糧政策
テンプレート:節スタブ テンプレート:Main 1933年9月に食糧農業相にリヒャルト・ヴァルター・ダレが就任して以降、ドイツの農業にも統制の手が入った。9月12日にはライヒ食糧団(de:Reichsnährstand)が結成され、ナチス党の農業全国指導者でもあるダレが農業組合、生産者、加工精製業者、取引業者間の利害調整を行うことになった。9月23日にはライヒ農場世襲法が制定され、農民の所有地を『世襲農地』として認定し、譲渡・負担設定・賃貸を禁止した。またこの中で農民(Bauer)はドイツ国籍を持ち、ドイツ民族もしくは同等の血統を持つことを要求された。これはダレの提唱した『血と土』理論に基づくものであり、農民は世襲農地から離れることが出来なくなった[23](ナチス・ドイツの農業と農政(de))。
軍事
プロパガンダ
治安政策
1933年に政権につくとともに、ヒトラーはプロイセン州内相に党の最有力幹部であるヘルマン・ゲーリングを任じた(のちプロイセン州首相)。ゲーリングは就任後ただちにプロイセン州警察に予備警察官として突撃隊と親衛隊を加えさせた。間もなく国会議事堂放火事件後の緊急大統領令により、「予防保護拘禁」と称してその場の判断で令状なしで国民を自由に逮捕する権限が与えられた。プロイセンはドイツの国土の半分以上を占める巨大州であり、広範な国民がゲシュタポの猛威にさらされることとなった。4月26日には政治警察ゲシュタポが設置され、逮捕された人々を強制収容所へ送るようになった。
1934年4月、ゲーリングはゲシュタポに対する指揮権を親衛隊(SS)のハインリヒ・ヒムラーに譲った。ヒムラーとラインハルト・ハイドリヒは中央集権化とあわせて各州の警察権力を親衛隊の下で一元化しようとした。ヒムラーは1936年に内相ヴィルヘルム・フリックより全ドイツ警察長官に任じられ、やがて内相をも兼ねることによってドイツ警察・治安行政の支配者となった。ドイツ警察を一般警察業務を司る秩序警察と政治警察業務を司る保安警察に分離させ、秩序警察をクルト・ダリューゲ、保安警察をハイドリヒにそれぞれ委ねた。1938年、保安警察と親衛隊諜報組織SDは統合され、国家保安本部が成立した。国家保安本部には長官ハイドリヒ以下、ハインリヒ・ミュラー(ゲシュタポ局長)、アルトゥール・ネーベ(クリポ局長)、オットー・オーレンドルフ(SD国内諜報局長)、ヴァルター・シェレンベルク(SD国外諜報局長)など悪名高い政治警察幹部の名がずらりと並ぶ。国家保安本部は日夜国民を監視し、親衛隊の支配が全国に浸透していった。1941年にゲーリングはハイドリヒに「ユダヤ人問題の最終的解決」権限を移譲しており、国家保安本部はホロコーストの作戦本部ともなった。1943年にヒムラーは内相に就任し、完全なドイツ警察の支配者となった。ヒトラー暗殺未遂事件の際にもヒムラーが鎮圧者となり、今まで権限が及ばなかった国防軍内部への支配権も手に入れた。
強制収容所
テンプレート:See also 親衛隊はドイツ国内・併合地・占領地を問わず各地に強制収容所を設置させた。政権掌握直後の1933年にははやくもバイエルン州でダッハウ強制収容所が設置され、さらに1936年にはベルリン北部にザクセンハウゼン強制収容所、1937年にはヴァイマール郊外にブーヘンヴァルト強制収容所が設置されている。その後も続々と収容所が建てられた。
第二次世界大戦の際に占領した地域にも強制収容所が立てられ、ポーランドに建てられた収容所のなかにはホロコーストのための絶滅収容所も置かれていた。特にアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所、ベウジェツ強制収容所、ソビボル強制収容所、トレブリンカ強制収容所などが絶滅収容所として著名である。
また戦時中のドイツ占領地域の治安維持組織としては「アインザッツグルッペン」(特別行動部隊)があった。国家保安本部長官ハイドリヒの提唱で創設され、ドイツ軍前線部隊の一つ後方にあっ「政治的敵」を殺害していた部隊である。確かに一面ではパルチザン(ゲリラ)狩りの側面もあったが、国家保安本部への銃殺報告書に「ユダヤ人」などと人種を理由にした項目が設けられているため、一般にはゲリラ掃討部隊とは認められておらず、ホロコーストの一翼を担う部隊であったとされている。
ナチス刑法
ナチス時代の刑法は意思刑法・行為者刑法であり、ドイツ民族の中に存在する具体的秩序に反抗する意思と人格に対して、国家社会主義的(全体主義的)立場から、応報と贖罪を犯罪者に対して要求するものであった。犯罪者は、「民族の直感」から判断されるところの悪い意思を有しているという理由により、反抗的人格を形成したことに対する報復を国家から受ける。後に西ドイツ基本法において罪刑法定主義が明記された理由の一つである[24]。
社会政策
ナチス政権は人種主義を強く打ち出し、アーリア人種の優秀さを強調していた。このため人種、社会、文化的清浄を求めて社会のすべての面の政治的支配を行った。優秀なドイツ人を具現化するためとしてスポーツを推進し、ベルリン・オリンピックを国威高揚に利用した。また禁煙運動にも力を入れた。また芸術面では抽象美術および前衛芸術は博物館から閉め出され、「退廃芸術」として嘲られた。
迫害
ナチスはユダヤ人、ジプシーのような少数民族、エホバの証人および同性愛者や障害者など彼らの価値観で人種を汚す者と考えられた人々の迫害を大規模に行ったことで知られている。
ユダヤ人・ロマ迫害政策
政権獲得間もない頃から、公職にあったユダヤ人達はその地位を追われ始めた。またナチ党の突撃隊による1935年9月15日のニュルンベルク党大会の最中、国会でニュルンベルク法(「ドイツ人の血と尊厳の保護のための法律」と「帝国市民法」)を公布した。この中でアーリア人とユダヤ人の間の結婚や性交は禁止され、ユダヤ人の公民権は事実上否定された。この法律公布後、民間レベルのユダヤ人迫害も増していった。
各地の商店に「ユダヤ人お断り」の看板が立ち、ベンチはアーリア人用とユダヤ人用に分けられた。ユダヤ人企業は経済省が制定した安価な値段でアーリア人に買収され、ユダヤ人医師はユダヤ人以外の診察を禁じられ、ユダヤ人弁護士はすべて活動禁止となった。
またニュルンベルク法では対象とされなかったが、ロマ(ジプシー)に対する迫害もはじまり、1935年にはフランクフルト市がジプシー用の収容所を設置。1936年にはドイツ内務省が「ジプシーの災禍と戦うためのガイドライン」を制定し、以降ジプシーの指紋と写真を撮ることと定めた。1937年には親衛隊も「ジプシーの脅威と戦うための全国センター」をもうけて同センターにジプシーの定義をするよう指示を出した。1935年にニュルンベルク法が制定されたことによって、ユダヤ人はドイツ国内における市民権を否定され公職から追放された。また四カ年計画全権となったゲーリングの指導の下、アーリア化と呼ばれるユダヤ人からの経済収奪が実行された。ユダヤ人、ユダヤ経営とされた企業の資産は没収され、ドイツ人達に引き渡された。
1938年7月5日にはアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトの発案で、スイスのエヴィアンで32カ国によるドイツから逃れてくるユダヤ人難民保護の件が話し合われた(エヴィアン会議)が、各国はすべてユダヤ人の自国への受け入れには後ろ向きであった。これについてアドルフ・ヒトラーは「こうした犯罪者ども(ユダヤ人)に深い悲しみを寄せる諸国はせめてその同情を実際的な援助に向けてほしい。そうした諸国にこの犯罪者どもをくれてやる。お望みとあれば豪華客船で送ってやろう。」と述べ、ユダヤ人に同情する言を述べながら引き取ろうとしない欧米各国の偽善的態度を批判した。
1938年11月9日夜から10日未明にかけてはナチス党員と突撃隊がドイツ全土のユダヤ人住宅、商店、シナゴーグなどを襲撃、放火した水晶の夜事件が起き、これを機にユダヤ人に対する組織的な迫害政策がさらに本格化していった。
障害者への迫害
1933年に成立した「断種法」の下、ナチスは精神病やアルコール依存症患者を含む遺伝的な欠陥を持っていると見なされた40万人以上の個人を強制的に処分した。1940年になるとT4作戦によって何千人もの障害を持つ病弱な人々が殺害された。それは「ドイツのテンプレート:仮リンク(テンプレート:Lang-de)としての清浄を維持する」とナチスの宣伝で記述された。T4作戦は表向きには1941年に中止命令が発せられたが、これらの政策は後のホロコーストに結びついた。
ホロコースト
大戦中、ユダヤ人や少数民族に対する迫害はドイツ国内および占領地域で継続した。1941年からはユダヤ人は「ダビデの星」の着用を義務づけられ、ゲットーに移住させられた。1942年1月に開催されたヴァンゼー会議では「ユダヤ人問題の最終的解決策」(テンプレート:Lang-de)が策定されたとされる。何千人もの人が毎日強制収容所に送られ、この期間中には多くのユダヤ人、ほぼ全ての同性愛者、身体障害者、スラブ人、政治犯、エホバの証人の信者を系統的に虐殺する計画が立てられ、実行された。また、戦争捕虜や占領国国民を含む1,000万人以上が強制労働に従事させられ、劣悪な環境下に置かれた人々が次々と犠牲になった。
これら大戦中に行われた虐待と大量虐殺はホロコースト、ヘブライ語ではショアー (Shoah) と呼ばれる。ナチスは婉曲的に「最終解決策(Endlösung)」 という用語を使用した。 テンプレート:-
ナチスとキリスト教
ナチ党はその綱領でキリスト教については「積極的なキリスト教」の立場を求めるとしており、自らのイデオロギーに基づいた存在であることを求めた。このためナチス政権成立後のキリスト教会の対応は、積極的に追従するものから、反発するものまで様々であった。
ナチ党の政権獲得後のドイツでカトリック教会に対するナチスの暴力的行為が問題となっていた。これを終止させるため、ローマ教皇庁は1933年7月20日にドイツ政府とライヒスコンコルダート(政教条約)を締結した。バチカンの首席枢機卿パチェッリ枢機卿とドイツ副首相フランツ・フォン・パーペンが署名したこの条約は、教会が学校と教育について自由を保持するかわりに政治活動を断念するものだった[25]。
ヒトラーは条約批准直前の閣議で、このコンコルダートが党の道徳的公認になるとの発言をしていた。これに対しかつて教会法専門の研究で学位取得し、教皇ピウス10世による教会法大全の起草・編纂を務めたパチェッリは後の7月26日、27日バチカンの日刊紙「オッセルヴァトーレ・ロマーノ」での声明で、コンコルダート批准が道徳的同意というヒトラーの見解を断固否定し、教会法大全に基づく教会ヒエラルキーの完全かつ全面的承認および受容を意義とすると激しく反論した。しかしこの事が仇となり、締結後もナチス側の暴力的行為は治まるどころか増す一方で、教会や教会の学校に思想的規制および介入するなど条約を無視した行為が頻発するようになった。教会側はナチズムの有力理論家アルフレート・ローゼンベルクの理論を批判する回勅(テンプレート:仮リンク)を出すなど抵抗もしたが[26]、批判的な聖職者は強制収容所に入れられることもあった。
第二次世界大戦直前にパチェッリは教皇ピウス12世として即位した。ピウス12世はナチスによるユダヤ人迫害等の戦争犯罪に対して沈黙したため、終戦後に迫害を「黙認した」として非難され続けた。しかし後の調査により、大戦中に教皇ピウス12世からアメリカ合衆国のルーズベルト大統領宛に、ナチスを非難する極秘の書簡が送られていたという事実があったことや、ドイツのイタリア占領時に多くのユダヤ人の亡命を手助けしたことが明らかになった。このため、ピウス12世はイスラエル政府から諸国民の中の正義の人に認定されている。また、教皇ヨハネ・パウロ2世は後にユダヤ人迫害時のカトリック教会の対応について謝罪の声明を述べている。一方でナチス時代に締結されたライヒスコンコルダートは、現在でもドイツとバチカン間の条約として有効性を保っている。
プロテスタント側は元来プロイセン支持の保守派が多く、大部分がナチスに忠誠を誓った。ドイツ的キリスト者(de:Deutsche Christen)などナチズムとキリスト教を合体させる組織も作られた一方でマルティン・ニーメラー、ディートリッヒ・ボンヘッファーをはじめとする牧師等は告白教会という地下組織を作り、密かに反ナチ運動を続けた。
戦後
ポツダム会議によってドイツ本土は分割統治され、ドイツの国境は西に大きく移動され、旧領土の三分の一を失った。多くがポーランド領となり、東プロイセンについては半分はソ連に併合された。チェコスロバキア、ユーゴスラビア、ルーマニアおよびハンガリーといった地域での少数民族であった約1,000万人のドイツ人は追放された。1949年まで連合国による軍政が敷かれた後(連合軍軍政期)、アメリカ合衆国、イギリス、フランスの西側占領地域はドイツ連邦共和国となり、東側のソ連占領地域は共産主義のドイツ民主共和国になった。
残されたヘルマン・ゲーリングやヨアヒム・フォン・リッベントロップ、ヴィルヘルム・カイテルなどのナチス首脳部の一部は、連合軍による戦争裁判・ニュルンベルク裁判やニュルンベルク継続裁判で裁かれることになった。また、独立回復後の西ドイツ政府により非ナチ化裁判が行われ、ナチス党関係者やヒトラーお抱えの映画監督と言われたレニ・リーフェンシュタールなどが裁かれた。
また、ナチス占領下にあった地域でも、ナチス高官の愛人を持っていたココ・シャネルなど、ナチス党関係者と関係のあったドイツの犯罪行為に加担した政治家・芸術家・実業家も戦後罪を問われ、裁判を受けたもの、活動を自粛せざるをえなくなった者などが存在した。しかし逃亡したナチス戦犯もおり、これらはサイモン・ヴィーゼンタールなどのナチ・ハンターによって追求が行われ続けている。
すべての非ファシスト・ヨーロッパ諸国ではナチ党およびファシスト党の元構成員を罰する法律が確立された。また、連合軍占領地域でのナチ党員やドイツ兵の子供に対する統制されない処罰が行われた(参照:ナチの子供)。終戦前に逃亡した者も、国際手配されて最終的に処刑された。
ナチス・ドイツの武力組織
正規軍
- 国防軍最高司令部 (Oberkommando der Wehrmacht, OKW)
ナチ党軍事組織
- 武装親衛隊 (Waffen-SS)
準軍事組織
警察組織
- 政治警察部門 (国家保安本部, RSHA, Reichssicherheitshauptamt)
- 一般警察部門
政治結社
- 国民社会主義ドイツ労働者党 (NSDAP, Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)
ナチス・ドイツの台頭を背景にした映画作品
- 『オリンピア』Olympia(第1部:『民族の祭典』 - Fest der Völker (Olympia Teil I) /第2部:『美の祭典』- Fest der Schönheit (Olympia Teil II)(1938年、ドイツ映画):1936年のベルリンオリンピックの記録映画。健全な肉体と精神を賛美し、身体・精神障害者を迫害し、強制的に避妊手術を施し、さらには絶滅政策を行ったナチスが国威発揚のために作らせたものだが、映画芸術上の評価は高い。なお映画自体には、民族差別色は薄い。レニ・リーフェンシュタール監督作品。
- 『我輩はカモである』 - Duck Soup(1933年、アメリカ映画):チャップリン・キートンと共に、「アメリカ三大喜劇王」と言われる、マルクス兄弟による、独裁者により戦争の恐怖へ突き落とされる、架空の独裁国家フリードニアを舞台とした風刺喜劇映画。
- 『独裁者』 - The Great Dictator(1940年、アメリカ映画):仮想の独裁者ヒンケルと迫害されるユダヤ人の二役をチャップリンが演じた風刺喜劇映画。撮影中も上映中も、ファシズム・ナチズムに共感する極右アメリカ人による様々な妨害を受けた。また、戦後アメリカの「赤狩り」の際、チャップリンは左翼的であるとして追放される原因となった。なお、ヒトラーはこの映画を部下とともに極秘に鑑賞したが、チャップリンに対する処刑命令は出していない。
- 『サウンド・オブ・ミュージック』 - The Sound of Music(1965年、アメリカ映画):ナチス・ドイツ併合下のオーストリアを舞台にしたアメリカミュージカル映画の代表作。修道女マリアが音楽を通じて厳格なオーストリア海軍軍人の家庭を癒していく様を描いた。ナチスに協力を求められた海軍大佐は家族ともに国外へ脱出する。唱歌として知られる『ドレミのうた』は、この映画が発祥。
- 『地獄に堕ちた勇者ども』 - La caduta degli dei(1969年、イタリア・スイス・西ドイツ合作映画):ナチス突撃隊粛清(長いナイフの夜事件)とナチスによるルール地方の鉄鋼王一族の退嬰を描いたルキノ・ヴィスコンティ監督の代表作。ヴィスコンティに重用されたヘルムート・バーガー主演。
- 『特別な一日』 - Una Giornata Particolare(1977年、イタリア・カナダ合作映画)
- 『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』 - Indiana Jones and the Last Crusade(1989年、アメリカ映画)・『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(1981年、アメリカ映画):いずれもスティーヴン・スピルバーグの作品で、大いなる力を宿す聖杯・聖櫃を奪い世界の支配権を握ろうと企むナチスやヒトラーと戦う正義のヒーローを描く娯楽大作。
- 『戦場のピアニスト』 - The Pianist(2002年、フランス・ドイツ・ポーランド・イギリス合作映画)
- 『ブリキの太鼓』-(1979年、西ドイツ・フランス合作):ギュンター・グラス原作。第一次世界大戦後の国際自由都市ダンツィヒを舞台に、人間の醜悪な姿を、三歳で成長を止めた少年の視点からナチの台頭を交えて描く。
- 『ライフ・イズ・ビューティフル』-(1998年、イタリア):ロベルト・ベニーニ主演・監督作品。北イタリアにおけるナチの駐留、ユダヤ人狩りをテーマにした映画。収容所に入れられたユダヤ人のグイドは、絶望的な状況の中で自分の幼い息子を必死で守ろうとする。
- 『さよなら子供たち』-(1987年、フランス・西ドイツ合作):ルイ・マル監督作品。ナチス占領下のフランスにおけるユダヤ人狩りを描いた作品。主人公のフランス人少年と、教会の学校に匿われているユダヤ人少年との交流を中心に、ナチに協力したフランス人がいた現実、密告や裏切りなどの醜悪な姿などを綿密に描いている。
脚注
文献
- アドルフ・ヒトラー『Mein Kampf, Erster Band, Eine Abrechnung』、1925年、ドイツ(邦訳:わが闘争(上)I民族主義的世界観)
- アドルフ・ヒトラー『Mein Kampf, Zweiter Band, Die nationalsozialistische Bewegung』、1927年、ドイツ(邦訳:わが闘争(下)II国家社会主義運動)
- 澤田謙『ヒットラー傳』、大日本雄弁会講談社、1934年
- 四宮恭二『ナチス』、政経書院、1934年
- 森川覚三『ナチス独逸の解剖』、コロナ社、1940年
- トラウデル・ユンゲ『私はヒトラーの秘書だった(原題:Bis zur letzten Stunde)』、 (2002年、ドイツ)
- ヨアヒム・フェスト『ヒトラー最後の12日間(原題:Der Untergang-Hitler und das Ende des Dritten Reiches)』、(2002年、ドイツ)
- ウワディスワフ・シュピルマン『戦場のピアニスト(原題:THE PIANIST: The extraordinary story of one man's survival in Warsaw, 1939-45)』、(1999年、イギリス)
- 児島襄『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』(文春文庫) 全10巻
- 村瀬興雄編 『ファシズムと第二次大戦 世界の歴史15』(中公文庫、1975年)ISBN 978-4122002289
関連項目
外部リンク
- Axis History Factbook — Third Reich
- Hitler's Third Reich in the News - daily edited review of Third Reich related news and articles.
- NS-Archiv - Large collection of original scanned Nazi documents
- The German Resistance and the USA
- ナチスドイツの経済回復 立教経済学研究第58巻第4号2005年 川瀬泰史論文
- 世襲農場法とナチス農地法制の展開鈴木直哉早稲田大学法学部教授論文
- 南利明
- 『民族共同体と指導者―憲法体制』静岡大学法政研究第7巻2号
- 『指導者-国家-憲法体制における立法』1、2、3
- 『民族共同体と法―NATIONALSOZIALISMUSあるいは「法」なき支配体制―』
- ↑ Erlass RK 7669 E ウィキメディア・コモンズ
- ↑ 日本においても昭和7年(1932年)9月29日付の中外商業新報の「ドイツ社民の統制経済案 ナチス案に対抗」という記事でナチスの語が用いられている。
- ↑ 神戸大学 電子図書館システム神戸大学附属図書館新聞記事文庫
- ↑ 新聞記事文庫 : 大阪朝日新聞 1936.5.31
- ↑ 新聞記事文庫:東京朝日新聞 1943.1.11神戸大学附属図書館新聞記事文庫
- ↑ 日本においてはナチ、ナチスが蔑称であるという認識は薄く、ヒトラー・ユーゲントを歓迎する歌を依頼された北原白秋も「万歳ヒトラー・ユーゲント」という歌において「万歳、ナチス」の語を使用している。
- ↑ ヒトラーの側近たち 「ヨーゼフ・メンゲレ -死の天使-」より
- ↑ ナチスドイツ支配民族創出計画 キャトリーン・クレイ マイケル・リープマン著 (ISBN 978-4-7684-6715-2)
- ↑ 南、民族共同体と指導者―憲法体制、40-42p
- ↑ 南、指導者-国家-憲法体制における立法(1)、115p
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- ↑ 田野、191-193p
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- ↑ 南、指導者-国家-憲法体制の構成、7p
- ↑ 南、指導者-国家-憲法体制の構成、7-11p
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- ↑ 南、指導者-国家-憲法体制の構成、8-9p
- ↑ 南、指導者-国家-憲法体制の構成、16-17p
- ↑ Hans-Joachim BraunのThe German Economy in the Twentieth Century;Routledge 1990 p.78
- ↑ ヒトラーの経済学別宮暖朗公式サイト第一次大戦
- ↑ 児島、第1巻
- ↑ 外部リンク、川瀬、25P
- ↑ 外部リンク、鈴木直哉論文
- ↑ 山中敬一 /刑法I /32P
- ↑ 村瀬、369p
- ↑ 村瀬、370p