ココ・シャネル

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テンプレート:Infobox 芸術家 ココ・シャネルテンプレート:Lang-fr1883年8月19日 - 1971年1月10日)は、フランスの女性ファッションデザイナー

生涯

生い立ち

フランス南西部オーヴェルニュ地方ソミュールの救済病院で生まれる。12歳の誕生日を迎える前に母ジャンヌが病死、行商人の父アルベールに捨てられ、孤児院修道院で育つ。田舎町ムーランでお針子として18歳で孤児院を出た後、当時つきあいのあった将校たちに連れられ、グラン・カフェで歌手になりたいと夢見るようになる。

ココ」は愛称で、情熱を実行すべく、お針子仕事の傍ら、歌手を志してキャバレーで歌っていた「Ko Ko Ri Ko(コケコッコウ)」と、「Qui qu'a vu Coco dans le Trocaderoトロカデロでココを見たのはだれ)」という歌の題名にちなんでつけられたもの。

シャネル起業

ファイル:Chanel hat from Les Modes 1912.jpg
「シャネル・モード」の帽子(1912年)

その後、歌手を目指しヴィシーでオーディションを受けるも、落選ばかりであったために芸能界への道はあきらめた。この頃交際していた将校であるエティエンヌ・バルサン(en)に伴われてパリ郊外へ移り、友人達の社交場となった彼の牧場で過ごす。退屈しのぎで制作していた帽子のデザインがそこで認められ、バルサンの援助により、1909年、マルゼルブ大通り(fr)160番地で、帽子のアトリエを開業する。

1910年に、パリのカンボン通り(fr)21番地に「シャネル・モード」という名で帽子専門店を開店。このときバルサンと別れ、同じ輪の中にいた、一生涯愛する人物となるイギリス人青年実業家アーサー・カペルとの交際を始める。カンボン通りの店の開設資金はカペルの助力によるものである。

1913年に、ドーヴィルに二号店を開店。翌年に第一次世界大戦が開戦。1915年ビアリッツに「メゾン・ド・クチュール」をオープン。翌年コレクションを発表し大成功を収める。ジャージー素材を取り入れたドレスが話題となる。

1918年に、第一次世界大戦が終戦。

シャネルの興隆から沈黙まで

1921年、本店をカンボン通り31番地に拡張。前年に会った調香師エルネスト・ボーによって生み出された、シャネル初の香水No.5「No.22」を発表した。

このころ劇作家のジャン・コクトー、画家のパブロ・ピカソ、作曲家のイーゴリ・ストラヴィンスキーなどが集うサロンを主催するミシア・セールと出会い、ストラヴィンスキーやジャン・コクトー、ロシアのドミトリー・パヴロヴィチ大公などサロンの様々な人物と交際する。

この頃、同い年である画家・マリー・ローランサンに肖像画を描いてもらったが、ココはそれを気に入らなかったためにマリーに返した。この肖像画は現在、パリのオランジュリー美術館に展示されている。

1924年イギリスウェストミンスター公爵ヒュー・グローヴナーと出会い、以降6年間に及び交際する。この間に彼から多くもらった宝石類から着想を得た、模造宝石を使ったジュエリーを発表。同時期、後に「シャネル・スーツ」として発表されるスーツの原型がつくられた。

ウェストミンスター公爵と別れた後交際していたポール・イリブ1935年に急死。

1939年、当時4000人を抱える大企業として成長したシャネルだったが、コレクション前の苛烈な労働条件に、労働者側がストライキを敢行。苦労してその地位を築いたココには労働環境を重視する彼らの考えを受け入れられずに対立し、ココは一部店舗を残し全てのビジネスを閉鎖、一時引退する。以後、同年9月に勃発し1945年8月に終結した第二次世界大戦中と戦後のスイスへの亡命期(いずれも後述)の15年間、ココはフランスのファッション界で沈黙を守る。

対独協力と亡命

第二次世界大戦中の1940年、フランスがアドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツに占領され、親独のヴィシー政権下となった際、レジスタンスとしてドイツ軍による軍事占領に抵抗した結果、戦死したり、捕えられた末に拷問され処刑された人間がいた一方で、シャネルはドイツの国家保安本部SD局長ヴァルター・シェレンベルク親衛隊少将と懇意になる[1]


このことから、1944年シャルル・ド・ゴール率いる自由フランス軍と連合国軍によるフランス解放後に逮捕され、「対独協力者」、「売国奴」としてフランス中からの非難を浴びた。しかし、イギリス首相であるウィンストン・チャーチルの計らいにより釈放され、その後シェレンベルクとともに戦後の数年間スイスローザンヌへ脱出し亡命生活を送った[2]

ファッション界への復帰

ファイル:Hotel Ritz Paris.jpg
晩年を過ごしたホテル・リッツ

1954年、スイスでの亡命生活を終えパリに戻ったココは、ヴァンドーム広場を望むホテル・リッツに住まいを構え、ファッション界へ復帰を果たした。

ココの第二次世界大戦時の言動に対する嫌悪感が根強く残っていた当時は、「古臭い」としてヨーロッパではバッシングを受けるなど散々だったが、「売国奴」と蔑まれたココやドイツへの嫌悪感が大戦後10年近い年月を経て薄まった上に、ウーマンリブ運動によって女性の社会進出がめざましかったアメリカ合衆国では熱狂的に受け入れられた。

翌年シャネル・スーツ(ブレードの縁取りがある、ウールのスーツ)の発表。アメリカで「過去50年間でもっとも大きな影響力を与えたファッションデザイナー」としてモード・オスカー賞を受賞。

死去

1971年、住居としていたパリのホテル・リッツにて、コレクションの準備中に87歳で死去した。亡骸は第二次世界大戦中のドイツへの協力及びフランスへの裏切り行為によって、高級墓地への埋葬を拒否されたこともあり、亡命生活を送っていたローザンヌの墓地「ボア・デュ・ヴォー」(セクション9・No.130)に埋葬された。シャネルの遺言により、墓石の周りには白い花が咲き乱れている。

デザインに対する姿勢

ココは、コルセットが多用されていた1910年代-1920年代の女性服に対して抱いていた「どうして女は窮屈な服装に耐えなければならないのか」という積年の疑問への回答として、愛人であったウェストミンスター公爵の故郷であるイギリスの紳士服の仕立てや素材を女性服に応用し、スポーティでシンプルなデザインの「シャネル・スーツ」を生み出した。

女性の自立を目指し、モデルに当時の女性としては斬新だった、ポケットに手を入れる仕草をして歩かせていた(『クイズダービー』第686回(1989年4月22日放送分)の3問目より)。それにより女性服にポケットを作った。

なおココはかなり痩せた体型だった。そのため、モデルとしてシャネルの服を着たココがきっかけで、現在に至るまで「ファッションモデルは痩せている方が美しい、という固定観念が生まれた」とされる。

伝記・評伝

  • マルセル・ヘードリッヒ 『ココ・シャネルの秘密』 (山中啓子訳、ハヤカワ文庫で再刊、1995年)
  • シャルル・ルー 『ココ・アヴァン・シャネル』 (榊原晃三訳、ハヤカワ文庫NF 上・下、2009年8月)
  • エドモンド・シャルル・ルー 『シャネルの生涯とその時代』 (秦早穂子訳、鎌倉書房、1990年) 品切
  • ポール・モラン 『シャネル 人生を語る』 (山田登世子訳、中公文庫、2007年)
  • ポール・モラン 『獅子座の女シャネル』 (秦早穂子訳、文化出版局
  • ティラー・マッツエオ『シャネルN°5の秘密』(大間知知子、原書房 2011年)
  • ハル・ヴォーン『誰も知らなかったココ・シャネル』(赤根洋子、文藝春秋 2012年)
  • エリザベート・ヴァイスマン 『ココ・シャネル 時代に挑戦した炎の女』 (深味純子訳、阪急コミュニケーションズ、2009年9月)
  • ジャネット・ウォラク 『シャネル・スタイルと人生』 (中野香織訳、文化出版局 2002年)
  • クロード・ドレ 『ココ・シャネル』 (上田美樹訳、サンリオ出版) 絶版
  • 山田登世子 『シャネル-最強ブランドの秘密』 (朝日新書、2008年)
  • 山口昌子 『シャネルの真実』 (人文書院新潮文庫で2008年4月に再刊)
  • 藤本ひとみ 『シャネル』 (講談社、講談社文庫で2008年12月に再刊)
  • 海野弘 『ココ・シャネルの星座』 (中央公論社、中公文庫で再刊)
  • 秦早穂子 『シャネル20世紀のスタイル』 (文化出版局) 品切
  • 安達正勝 『二十世紀を変えた女たち―キュリー夫人、シャネル、ボーヴォワール、シモーヌ・ヴェイユ』 (白水社

映画

演劇

脚注

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関連項目

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外部リンク

  • 『ナチスの女たち 第三帝国への飛翔』99ページ。
  • http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20121212/frn1212121131002-n1.htm ナチスのスパイだったココ・シャネルの秘密の顔を暴いた評伝 - 政治・社会 - ZAKZAK]