妹尾河童
テンプレート:Infobox 作家 妹尾 河童(せのお かっぱ、本名同じ、旧名:妹尾 肇〈せのお はじめ〉、1930年(昭和5年)6月23日 - )は、兵庫県神戸市林田区(現在の長田区)生まれのグラフィックデザイナー・舞台美術家・エッセイスト・小説家。
エッセイ『河童が覗いた』シリーズで発表されるその緻密な手書きイラストレーションも知られている。妻はエッセイストの風間茂子。
人物・来歴
小学生の時芥川龍之介の『三つの宝』を裕福な友人から借りたくて、その友人が冗談で出した「空中2回転が出来たら貸す」という条件を鵜呑みにして失敗、肩から落下して骨折した。本自体は友人が父親に内緒で貸し出した。
旧制第二神戸中学校(現・兵庫県立兵庫高等学校)に進学。家を空襲で失い、学校に住むことになったが、教室を等分してすのこで区切るという簡易部屋であったため一時期荒れる(仕切りであるすのこは、間を障子紙で塞いだ粗末なもので隣の子供が一日中妹尾家を穴を開けて覗き見していたため精神的にイラついたという)。「ボクこのままやったらなんか気がおかしくなってしまいそうや」と父に言って家出。そんな息子に父は暖かい言葉をかけて見送ったという。この家出の最中の棲家は旧制中学の使われていない美術室であった。
1949年(昭和24年)第二神戸中学校を卒業。その後、藤原義江に師事し、1954年(昭和29年)に独学で舞台美術家デビュー。後に藤原は「僕は若い舞台美術家を誕生させたかったんだよ」と述べているが、藤原にその意図はなかっただろうと妹尾自身が否定している。「トスカ」の公演直前、藤原はある舞台美術家に本来支払うべき報酬をずっと払っていなかったため、「今までの分を支払わなければ、今度の舞台美術の設計書は渡せません」と抗議された。藤原は売り言葉に買い言葉で「ああ、じゃあいいよ」と答え、上演予定日が迫る中で舞台美術が確保できなくなってしまった。藤原は当時グラフィックデザイナーとして仕事をしていた妹尾の存在を思い出し、必死で口説いた。結果として上演は成功し、当時辛口批評で有名だった評論家も絶賛したので妹尾自身も気をよくし、妹尾はその後も藤原から舞台美術を半ば無理やりやらされ、気がついたら生業となっていたのだという(『河童の手のうち幕の内』より)。
若い頃は女遊びが激しかったといい、そのことを自身ビョウキと表現している。
フジテレビ美術部に22年間在籍し、『夜のヒットスタジオ』の美術スタッフとして名を連ねる[1]。また『ミュージックフェア』のセット美術で第1回伊藤熹朔賞テレビ部門を受賞。『ザ・ベストテン』の美術デザイナー・三原康博は妹尾の照明デザインに大きな影響を受けたと述べている[2]。1970年には文化庁新進芸術家在外研修員に選ばれ、ヨーロッパに留学し舞台美術を学んだ。
自身の少年時代を描いた著書『少年H』は上下巻を合わせて300万部以上の大ベストセラーになり、1997年(平成9年)毎日出版文化賞・特別賞受賞。1999年(平成11年)および2001年(平成13年)にはフジテレビにより2時間スペシャルドラマ化、2013年(平成25年)にはテレビ朝日開局55周年記念作品として映画化された。
モデルガンのコレクターであり、52年規制に伴う規制強化論に対し、モデルガン愛好家協会の会長として戦い抜いたことでも知られる。
自身の個展「河童の覗いたトイレまんだら展」において、海外の古典的なトイレに腰掛けて用を足しているという、トイレにちなんだシチュエーションとした自身の蝋人形が製作された事がある。(この顛末は、河童の手のうち幕の内で紹介されている。)
なお、「河童」はデビュー当時のあだ名であり出生当時の本名は「肇(はじめ)」であったが、それが本名以上に浸透してしまったため1970年(昭和45年)に家庭裁判所の承認を取り付けて改名。それ以降は「河童」が(戸籍上も)本名である。
少年時代は、クリスチャン(プロテスタント)であった両親(特に母親)の影響もあって教会に通っていたが、本人は小学校時代より信仰に馴染めなくなっており、教会で戦勝祈願をしている女性信者を見て、中学校入学後に教会に通わなくなった。以後は現在に至るまで無宗教である。
名前と改名に関して
『少年H』の由来ともなっている子供のころのあだ名は、母親がセーターに大きく名前(肇)のイニシャルである「H」と編みこみ、これを見た同級生から「H」と呼ばれたことによる。母親はさらにHの下に「SENOH」と編んだので街中で見知らぬ人に「君は妹尾くんって言うんやね」と話しかけられ「何故僕の名前がわかるんやろ」と本人は不思議に思っていた。
『河童が覗いた仕事場』の立花隆のインタビューで大阪、朝日会館でのグラフィックデザイナー時代、近くのバーで出た菊の花の漬物を見て「他の花も喰えるんじゃないか」と店に生けてあった花を片っ端から食べたところ、しばらくすると急に腹が痛くなり七転八倒店の中を転げまわった。それを見ていた『航空朝日』編集長斉藤寅朗が「おまえは河童みたいな奴だな」と言ったことが始まりと述べ、『河童の手のうち幕の内』ではあだ名が異常に浸透してしまい、藤原歌劇団の舞台美術を手がけた際も本名を思い出してもらえず、プログラムに「妹尾河童」と書かれてしまったと事の経緯を書いている。
勤務先のフジテレビで来客が受付に「妹尾肇を呼んで欲しい」と伝えても「当社にはそのような人物はおりません」といって業務に差し障りが生じたり、また「妹尾肇」宛の郵便物が近所に住む「松尾肇」という人物に届いたりと度々仕事のみならず生活においても支障が生じた。さらに文化庁の事業により海外に派遣されることになったが海外において舞台美術の名義がすべて「妹尾河童」で紹介されており、文化庁交付書類上の「妹尾肇」という人物と同一人物であることをいちいち説明するのは大変ということで「妹尾河童」という名前でのパスポート取得のために改名を決意する。
しかし家庭裁判所は「本来改名というのは珍奇な名前で苦しんでいる人を救済するためにあり、あなたのような普通の名前から珍妙な名前は前例がなく、到底認められない」と一度門前払い。食い下がる妹尾に対し「では上申書を提出しなさい」とうながし提出させる。上申書を受け取った裁判官は読みながら時々うなづいたり笑ったりし「よく書けていました」といい改名を認めた。普通の上申書の書き方と異なっていたようである。上申書の全文及び改名騒動の顛末は『河童の手のうち幕の内』河童の由来は『河童が覗いた仕事場』で読める。
家族
両親はともに広島県福山市出身で親戚。家も隣りの幼馴染であったという[3][4][5]。父は洋服店を営んでいた。彼が修繕を行った服の中には杉原千畝のビザを受け取って来日したユダヤ人のものも含まれるという。
最初の妻は病で亡くす。1961年、風間茂子と再婚。風間は妹尾を最初写真で知り、個人写真で他の人は全員正面から撮っていたのに妹尾だけ見返り美人風に撮っていたので変わったキザな奴だと思ったとのこと。風間との結婚は契約結婚であり毎年結婚記念日に「また一年結婚生活を行うかどうか」の意思表示を行い同意した場合再度一年更新するとの取り決めを二人で交わし現在まで更新中。上記の理由から妹尾家の表札は「妹尾」と「風間」で別となっているので時々「離婚したんですか?」「家庭内別居なさったんですか」と尋ねられることがあるという(風間の著書『まま子、実の子、河童ン家』より)。
最初の妻との間の子供に「狸(まみ。狸穴(まみあな)から)」と名づけようとしたという。結局読みは同じで別の漢字をあてた。風間との間には男児をもうける。「河太郎」という名前を候補に考えていたが、知り合い数十人による投票で「太郎」に決定。この妹尾太郎は後に画家となり立花隆のネコビルの猫や妹尾の『少年H』の表紙を描いている。
著書
- 河童が覗いたヨーロッパ
- 河童が覗いたインド
- 河童が覗いたニッポン
- 河童が覗いたトイレまんだら
- 河童が覗いた「仕事場」
- 河童が覗いた50人の仕事場
- 河童が覗いた仕事師12人
- 河童が語る舞台裏おもて
- 河童のタクアンかじり歩き
- 河童の対談おしゃべりを食べる
- 河童の手のうち幕の内
- 河童のスケッチブック
- 少年H