パリ

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パリテンプレート:Lang-fr-short[1]巴里)は、フランス首都であり、イル=ド=フランス地域圏首府である。

概要

ファイル:Point Zéro des Routes de France (1).JPG
フランスの道路の原点を象徴する『ポワン・ゼロ』

フランス最大の都市であり、同国の政治経済文化などの中心である。また、ニューヨークロンドン東京などと並ぶ世界トップクラスの世界都市でもある。2014年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス人材文化政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、ニューヨークロンドンに次ぐ世界第3位の都市と評価された[2]

文化

歴史的な建物を観ることができ、ルーブル美術館オルセー美術館ポンピドゥーセンターなどを始めとした一流の美術館で膨大な数の一流の美術品を観賞できる。また世界最古のバレエ団や、世界で最も古くから存在している劇団などの公演を楽しむこともできる。 →#文化

観光

パリは年間外国人観光客数 世界一を誇る観光都市である。→#観光

経済

フランスにおける経済の中心地で、世界屈指の経済都市。多国籍企業の本社数や資本市場の規模などビジネス分野を総合評価した都市ランキングでは、ロンドンと共にヨーロッパでトップクラスであり、世界500大企業の本社数では、ニューヨークロンドンを凌ぎ、西洋の都市では最多である。→#経済

地理

ケスタ地形を呈するパリ盆地のほぼ中央に位置し、市内をセーヌ川が貫く。この川の中州であるシテ島を中心に発達した。行政上では、1コミューン単独でを構成する特別市であり、ルーヴル美術館を含む1区を中心に、時計回りに20の行政区が並ぶ(エスカルゴと形容される[3])。

北緯49度とやや高緯度に位置するが、温かい北大西洋海流偏西風によって一年を通して比較的温暖となっており、西岸海洋性気候の代表的な都市である。

市域はティエールの城壁跡に造られた環状高速道路の内側の市街地(面積は86.99km2。参考:東京都山手線の内側は63km2ニューヨーク市マンハッタンは59km2)、および、その外側西部のブローニュの森と外側東部のヴァンセンヌの森を併せた形となっており、面積は105.40km2

パリ市内の地形は、比較的平坦であるが、標高は最低でセーヌ川沿いの35メートル、最高でモンマルトルの丘の130メートルである。[1]

人口

市域人口は1950年代の約290万人を絶頂に減少し続けたが、ここ数年は微増傾向に転じており、2011年現在で約225万人である(INSEEによる。)。2011年の近郊を含む都市的地域の人口では1,200万人を超えており、ロンドンを凌ぐEU最大の都市部を形成している[4]


パリ出身者・居住者は男性がパリジャンテンプレート:Lang-fr-shortテンプレート:IPA-fr パリズィヤン)、女性がパリジェンヌテンプレート:Lang-fr-shortテンプレート:IPA-fr パリズィエヌ)と呼ばれる。1960年代以降、旧植民地であったアフリカ中部・北部やインドシナ半島、更に近年は中近東東欧中国などからの移民も増え、パリジャン・パリジェンヌも多民族・多人種化している。

標語

パリ市民の標語は “Fluctuat nec mergitur (Il tangue mais ne coule pas)”、「たゆたえど沈まず」である。

風景

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歴史

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語源

語源パリシイ(パリースィイ)Parisii(複数形。単数形は Parisius「田舎者、乱暴者」)で、ローマ人が入ってくる以前からの先住民であるケルト系部族の、ローマ側からの呼称である。欧州の言語の中で古い時代の痕跡をとどめているギリシャ語ではテンプレート:El(パリーズィ)、イタリア語で Parigi(パリジ)と発音される。フィンランド語で Pariisi(パリースィ)と発音されるのはここからだという説がある。ルーテティア(・パリースィオールム)Lutetia (Parisiorum) 「パリシイ族の、水の中の居住地」(シテ島のこと。)とも呼ばれていた。 テンプレート:Double image

古代

セーヌ川の中洲シテ島は古くからセーヌ川の渡河点であり、紀元前3世紀ごろからパリシイ族の集落ルテティアがあった。紀元前1世紀ガリア戦争の結果ルテティアはローマ支配下に入った。ローマ時代のルテティアはシテ島からセーヌ左岸にかけて広がっており、円形劇場(闘技場)や公衆浴場などが築かれた。現在でも5区に円形劇場の遺跡(テンプレート:仮リンク)や浴場跡が残っている。しかし、ローマが衰退すると左岸の市街地は放棄され、シテ島のみを範囲とする城塞都市になった。このころからルテティアに代わり「パリ」と呼ばれるようになった。

フランク王国

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9世紀のシテ島の地図

5世紀末にフランク族の王クロヴィス1世はパリを征服し、508年にはパリをメロヴィング朝フランク王国の首都とした。しかしクロヴィス1世の死後王国はいくつかに分裂したため、パリは現在のフランスよりも狭い範囲の都でしかなかった。シャルルマーニュ(カール大帝)以降のカロリング朝フランク王国の中心はライン川流域にあり、パリは一地方都市でしかなかった。

885年から886年にかけてパリはヴァイキングの襲撃を受けた。このときフランク王シャルル3世(カール3世)は金銭を支払って講和を結んだため信望を失い、代ってパリ伯の権威が上昇することになった。このころからセーヌ右岸側にも市街地が拡大した。

カペー朝

西フランク王国が断絶すると、987年にパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に推挙されたことから、パリはフランス王国の首都となった。王権の強化にしたがって首都も発達し、王宮としてシテ宮が建築された。 フィリップ2世の時代にはパリを囲む城壁(フィリップ・オーギュストの城壁)も築かれ、その西に要塞(後にルーブル宮殿に発展する。)が設けられた。このころのパリは初期スコラ学の中心の一つでもあり、11世紀頃からパリ大司教座聖堂付の学校が発達し、1200年には王にも承認され、のちのパリ大学につながっていった。パリ大学は特に神学の研究で著名であった。右岸に中央市場「レ・アル (Les Halles)」が作られたもこのころである。こうして、左岸は大学の街、右岸は商人の街という現在まで続く町の原型が定まった。

12世紀にはパリ水運商人組合が結成され、後にパリ商人頭は事実上の市長として市政を司るようになる。

13世紀になると、ルイ9世によってサント・シャペルが建築されたほか、ノートルダム大聖堂も一応の完成を見る。パリは成長を続け、セーヌ左岸も再び人口を増やしていた。王たちは次第にヴァンセンヌ城を居城とするようになったが、行政機構はシテ宮に残った。

14世紀はじめ頃のパリの人口は、約20万人と推定され、ヨーロッパ随一の都市であった。

ヴァロア朝

1328年にカペー朝が断絶したことなど契機とする百年戦争の最中、パリ商人頭となったエティエンヌ・マルセルは、王に匹敵する権力を持ち、王と対立した。シャルル5世は、1356年から1383年にかけて新たな城壁(シャルル5世の城壁)を築いて市域を拡大させ、1370年にサン=タントワーヌ要塞(後のバスティーユ牢獄)を築いた。また、ルーブル宮殿を王宮とした。

15世紀初めにおいても、パリの支配権と王および王族の確保を巡って、オルレアン派(後にアルマニャック伯を頼って同盟した後アルマニャック派)とブルゴーニュ派との対立である百年戦争が、イングランドをも巻き込んで続いていた。ジャンヌ・ダルクの活躍などもあり、1435年のアラスの和約でブルゴーニュ派と和解して勢力を伸ばしたシャルル7世率いるフランス軍は1436年にパリを奪還し、翌1437年に改めてパリが首都と定められた。その後、1453年にフランスにおけるイングランド領の大半が陥落したことにより、百年戦争は終結した。百年戦争後のパリの人口は10万人程度にまで減少していた。

この後もフランス王はパリには住まず、ブロワ城アンボワーズ城などのロワール渓谷の城を好んだ。特に、フランソワ1世は、ロワールにシャンボール城を築いたほか、パリ近郊にフォンテーヌブロー宮殿を発展させた。もっとも、フランソワ1世は、公式的には1528年にパリを居城と定めた。パリでは学術が発展し、コレージュ・ド・フランスにおいて、大学教育課程(理論とリベラルアーツ)が近代教育課程に加えられ、王が望んだ人文主義や正確な科学が研究されるようになった。

16世紀後半、ユグノー戦争の時代にはパリはカトリック派の拠点であり、1572年にはサン・バルテルミの虐殺が起こってプロテスタントが殺害されるなどした。シャルル9世を継いだアンリ3世は平和的な解決を模索したが、民衆は反乱し、バリケードの日と呼ばれる1588年5月12日アンリ3世を強制追放した。このときからパリは、16区総代会 (Seize) という組織によって統治されるようになった。

その後、カトリック派からの反発を招いたアンリ3世が暗殺され、ヴァロア朝は断絶した。

ブルボン朝

1594年アンリ4世の即位によりパリは名実ともにフランスの首都の座を回復した。ヴァロア朝後期の王と異なり、アンリ4世はパリを主な居住場所とし、都市での多くの公共事業を行った。例えばルーブル宮殿の拡張、ポンヌフヴォージュ広場ドフィーヌ広場サン・ルイ病院の建設を行った。もっとも、フォンテーヌブロー宮殿もよく用いられ、次のルイ13世はこの宮殿で生まれている。他にもサン=ジェルマン=アン=レーにも居城があった。

ルイ13世の治世下にパリは大きく変化した。その母のマリー・ド・メディシスによるテュイルリー宮殿リュクサンブール宮殿リシュリューによるパレ・ロワイヤルが建設され、ソルボンヌ大学の改築も行われた。

太陽王ルイ14世の即位後まもなく、フロンドの乱が起こり、反動的に貴族勢力が打倒された結果、絶対王政の確立が促された。ルイ14世は、1677年に居城をヴェルサイユに移した。財務総監のジャン=バティスト・コルベールはパリでの豪華な建設事業を行い、太陽王にふさわしい「新たなローマ」を作り上げようとした。廃兵院などは、この頃の建築である。 しかし、王自身はパリを好まず、パリ郊外の広大なヴェルサイユ宮殿にて執政を行うことを好んだ。このときまでにパリは中世の市域を大きく越えて成長し、17世紀半ばには人口約50万人、建物約2万5000棟に達していた。以降、政治の中心地は、ルイ16世の治世末期までヴェルサイユに移ることとなる。

ルイ15世1715年に居城を一旦パリに戻したが、1722年にはヴェルサイユに居城を再度移してしまう。1752年にはエコール・ミリテールが創設され、1754年にはサント・ジュヌヴィエーヴの丘に教会(現在のパンテオン)が建設された。

ルイ16世 (フランス王)治世下の1784年から1790年にかけて、新たな城壁であるフェルミエー・ジェネローの城壁が建設される。

18世紀は、やはり経済的成長の世紀で、人口が増大した。フランス革命直前のパリの人口は64万人を数えた。啓蒙主義が啓蒙思想が発展し、ヴォルテールジャン=ジャック・ルソー、『百科全書』のドゥニ・ディドロシャルル・ド・モンテスキューらが活躍した。

フランス革命

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1789年7月14日、パリ市内で発生したバスティーユ襲撃によってフランス革命が勃発した。ヴェルサイユ行進でルイ16世が強制的にパリのテュイルリー宮殿に戻されてからは、革命の重要な事件の多くがパリで発生した。

1790年にパリ県が成立し、1795年にセーヌ県へと改称される。パリ市は県庁所在地とされていた。

19世紀

混乱を経た1800年当時の人口は、54万7756人であった。 ナポレオン1世は、パリを新しいローマとすべく、帝都と定め、カルーゼル凱旋門エトワール凱旋門を建て、ウルク運河を開削するなどした。

第一帝政後の19世紀のパリは、復古王政期及び1848年革命(二月革命)を経て、第二共和政、そして、第二帝政さらに第三共和政へと、王政ないし帝政と共和政が交錯し、政治的には安定しなかったものの、産業革命の到来により経済的、文化的には繁栄した。

文化面では、ヴィクトル・ユーゴーオノレ・ド・バルザックエミール・ゾラスタンダールといった文豪に加え、19世紀後半にはエドゥアール・マネモネドガルノワールセザンヌピサロモリゾギヨマンシスレーといった印象派の画家が活躍し始めた。スーラゴッホポール・ゴーギャンなどのポスト印象派新印象派へと続くものとなった。

1837年にはパリ・サン=ジェルマン鉄道サン・ラザール駅、1840年にヴェルサイユ・左岸鉄道モンパルナス駅、1840年にパリ・オルレアン鉄道オステルリッツ駅、1846年北部鉄道 (フランス)パリ北駅、1846年にソー鉄道のアンフェール城門駅(ダンフェール=ロシュロー駅)、1849年にパリ・リヨン鉄道のリヨン駅及びパリ・ストラスブール鉄道のストラスブール駅(パリ東駅)がそれぞれ建設された。他方、1841年から1844年にかけてティエールの城壁が築かれ、こららの放射状路線をつなぎ、城壁内の補給路を確保するために、プティト・サンチュール1852年から建設され始めた。

第二帝政下ではセーヌ県知事ジョルジュ・オスマンによってパリ改造が行なわれた。中世以来の狭い路地を壊して道路網を一新したほか、上下水道の設置など都心部の再開発社会基盤の整備が行なわれた。これによりパリは近代都市として生まれ変わった。現在のパリ市中心部の姿はほぼこの時の状態をとどめている。 1860年に、ティエールの城壁内のコミューンがパリに併合された。併合後である1861年当時の人口は169万6141人だった,

普仏戦争ナポレオン3世の主力軍が敗北すると、パリは1870年9月からプロイセン軍に包囲された。翌1871年1月に第三共和政の政府は降伏したが、パリの労働者らはこれを認めず蜂起した。3月には史上初の労働者階級の政権パリ・コミューンが発足したが、ヴェルサイユ政府軍の攻撃によりわずか2か月で崩壊した。コミューンの最後はパリ市内での市街戦となり、大きな被害を出した。

19世紀末から20世紀初めにかけて、パリでは数回の万国博覧会が開かれた。1889年の万博ではエッフェル塔が建てられ、1900年にはメトロが開業した。この時代をベル・エポック(よき時代)と呼ぶ。パリは「光の都」と呼ばれ、ロンドンに匹敵する経済都市に成長した。

20世紀

20世紀にはさらに工業が進展し、このころまだまとまった敷地が残っていたパリ郊外にルノーシトロエンの工場ができた。パリで働くための移民が集まり、赤いバンリューの起源となった。

第一次世界大戦の緒戦ではドイツ軍がパリの目前にまで迫り、政府が一時ボルドーに避難するほどであったが、マルヌ会戦の勝利により辛くも陥落を免れた。大戦後半にはパリ砲による砲撃を受けた。

戦間期にはパリは芸術の都としての地位を回復し、アメリカやヨーロッパなどから多くのボヘミアンたちを惹き付けた。

しかし第二次世界大戦が勃発すると、ナチス・ドイツのフランス侵攻開始から1か月で政府はパリを放棄せざるを得なくなり、1940年6月14日にはドイツ軍がパリをほぼ無血で占領した。6月23日にはアドルフ・ヒトラーがパリに入った。占領下のパリではレジスタンス運動に身を投じる者がいる一方で、積極的にドイツ軍に協力する市民もいた。後者は後に対独協力者として糾弾されることになる。

ノルマンディー上陸作戦から2か月半後の1944年8月25日、パリは連合国軍と自由フランス軍によって解放された。このときドイツ軍のパリ駐留部隊を指揮していたディートリヒ・フォン・コルティッツ将軍はヒトラーからパリを破壊するよう命令されていたが、これを拒んで部隊を無抵抗で退却させ、自身は降伏した。この英断によりフォン・コルティッツは戦後、フランスから名誉パリ市民号を贈られている。

20世紀のパリは文化的にも成熟し、アルベール・カミュジャン=ポール・サルトルらが実存主義を生み出し、マルセル・プルーストアンドレ・ジッドなどの小説家が輩出された。1960年に創刊された前衛雑誌『テル・ケル』にはロラン・バルトジョルジュ・バタイユミシェル・フーコージャック・デリダジュリア・クリステヴァらが名を連ね、構造主義ポスト構造主義は世界的な影響力を持ち、フランス現代思想が隆盛を極めた。 映画界では、1950年代末から1960年代中盤にかけて、ジャン=リュック・ゴダールフランソワ・トリュフォーヌーヴェルヴァーグが台頭した。

人民戦線の頃以降のフランス共産党の党勢拡大などを背景として、1968年1月1日、セーヌ県が廃止され、パリは特別市となった。 このような政治的や文化的状況下で、五月革命が起こった。

戦後のパリでは主に郊外(バンリュー)で人口が急増した。環状高速道路ペリフェリックをはじめとする高速道路網や、郊外と都心を直結する鉄道RERなどが整備され、ラ・デファンス地区がオフィス街として開発された。一方で豊かな都心と貧しい郊外という構図が生まれ、失業や治安の悪化が社会問題となった。2005年にはパリ郊外暴動事件が発生した。

政治・行政・司法

行政機構の変遷

テンプレート:Double image フランス革命後の地方自治制度では、パリ市はセーヌ県(当初の名称はパリ県)に属する一コミューンであり、同県の県庁所在地であった。当時の市域は現在より狭く、フェルミエー・ジェネローの城壁(現在は、ほぼその跡に沿ってメトロ2号線及び6号線が走っている。)の内側のみであった。当初は、48の地区に細分化されていたが、各地区を統合する形で12の行政区が設けられるに至った。

1860年に市域が拡張されてほぼ現在の範囲となり、同時に新たな20の行政区が設けられた。これらの行政区は、1795年10月11日以降存在していた12の旧行政区から置き換えられたものである。

1968年1月1日に完全施行された「パリ地域の再編に関する1964年7月10日法」による再編以降、セーヌ県が廃止され、パリ市は単独でと同格のコミューン、いわゆる特別市となった。県でもあるパリは、県を構成する唯一のコミューン以外に下位機構を有しない。この唯一のコミューンは、1860年のパリ拡張の際に創設された20の行政区と18の選挙区に分けられている。

1976年イル=ド=フランス地域圏が発足すると、パリはその首府となった。

行政区

市内20の区は、パリ市街地の1区から、右回りの渦巻状に番号が付けられている。1 - 4、8 - 12、16 - 20区は右岸に、5 - 7、13 - 15区は左岸に位置する。

行政的地位の変遷

この街の行政的地位は何度も変更されている。 1871年3月26日から5月22日まで、パリには、蜂起勢力である、代表制普通選挙による議会を伴うパリ・コミューンによる政府が置かれた。1870年に成立した第三共和政は、この出来事への恐怖心を持つ保守主義者達によって運営されていた。彼らは、パリの行政権をセーヌ県知事(préfet de la Seine)に、パリの警察権を警視総監(préfet de police)にそれぞれ与えることを内容とする1884年4月5日法を制定した。他方、市町村選挙で議員が選出されるパリの議会は、毎年、主として代表者としての機能を有する「議長」を選出していた。すなわち、パリには市長がいなかった。また、街の予算は、国の同意を得る必要があった。

1975年12月31日法 (1977年の市町村選挙の際に施行された。)は、109人の議員で構成される市議会かつ県議会である、パリの議会を創設し、議員によってパリ市長を選出することにした。区の委員会は、諮問と推進の役割を有していた。委員会の構成員は、選挙人・パリ市長・パリの議会によって選出された。警視総監は、国家により任命され、警察権を行使する。

パリ・リヨン・マルセイユ及びコミューン間の協力による公共機関に関する1982年12月31日法が、パリには1983年の市町村選挙の際に施行され、163人の議員を選出することになったほか、特に予算に関する議会の権限が拡大し、委員会を廃して、区議会が創設された。

2002年5月2日の2002-810号デクレ以降、行政警察権が、パリ市長と警視総監に共有されることとなり、その実現のために、両者は、互いの活動方法を相互に承認することとなった。承認手続に関しては、パリ議会が審議した上、毎年その予算及び決算を承認する必要がある[5] (この予算は国家によって決められたものであるが。)。パリ市長は、これ以降、生活安全分野に関する限り、たとえ警視総監の手中にある権限に関するものであっても、関与することになった。

パリの議会の活動は、パリ市が資本を保有する会社の仲介人やパリの混合経済会社(SEM)によっても、実現される。

他のコミューンとの連携の不存在

他の主要都市とは異なり、パリとその郊外との間には、固有の予算を伴うコミューン間の連携が存在しない。もっとも、パリと郊外の県は、下水道組合(SIAAP,Syndicat interdépartemental pour l’assainissement de l’agglomération parisienne)の再編を行った。また、イル=ド=フランス交通組合(STIF)は、イル=ド=フランス地域圏の公共機関であり、パリとその郊外の総合的な交通網整備を行う組織である。

他の国際的な大都市と異なり、中心市街のみを範囲とするパリの街については、その実際的な範囲を明確にする必要がある。歴史的かつ政治的な配慮が障害となって、« 大パリ »を管理する行政機関が存在しないことは、パリ都市圏の現在の主要な問題の一つである[6]

現在の市域は、歴史的で時代錯誤な経緯の産物(あるいは現在は都市圏に取り込まれて、消えてしまった地形に適合していたにすぎないもの。)であって、市域の内外を問わず、パリ都市圏の人々には共通の行政的需要並びに経済的及び社会的関心がある。ところが、各コミューンは行政的・税制的に独立しており、コミューンや県の枠を超えて存在する集団的需要(交通や住宅など)に関する組織については、都市圏規模のまとめ役となる機構が存在しない。イル=ド=フランス地域圏となると、地域の約80%に農村部が残っており、パリ都市圏のための枠としては大き過ぎる。

歴代市長

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初代市長はジャン=シルヴァン・バイイ(在任 1789年7月15日-1791年11月18日)。

1795年~1848年の2月革命まで、12の区に分割され各区にConseil municipal(議会)が置かれ自治が行われたので、パリ市長は置かれなくなった。パリ市長を置くと権力が強大になりすぎるので、それを恐れて国の権力者がパリ市長を置かないようにさせたらしい。 1795~1977年の間、わずかな例外(2月革命後の4人の市長)を除いて市長は置かれず、各区のConseil municipalの議長が実質上は市長のような務めを果たした。 [7]

歴代市長
- 氏名 就任 離任 政党 補記(他の資格 等)
- ジャック・シラク 1977年3月20日 1995年5月16日 共和国連合 国民議会議員
- ジャン・チベリ 1995年5月22日 2001年3月24日 共和国連合 国民議会議員
- ベルトラン・ドラノエ 2001年3月25日 2014年4月5日 社会党 元老院議員
- アンヌ・イダルゴ 2014年4月5日 現職 社会党 初の女性パリ市長

予算と税収

2011年の当初予算 (街として及び県としてのもの。)は、約85億8200万ユーロで、うち69億0600万ユーロが行政活動に、16億7600万ユーロが投資に充てられている[8]。債務残高は約26億9600万ユーロである。2008年の県債は266億ユーロにのぼる[9]

裁判機関

司法裁判所系統

パリ大審裁判所シテ島パレ・ド・ジュスティス (パリ)に置かれている。この裁判所は、フランスの大部分の訴訟事件を取り扱う巨大司法機関である[10]。各区には、小審裁判所が置かれている。

パリ商事裁判所は、やはりシテ島(コルス河岸)に置かれている。パリ違警罪裁判所は19区(rue de Cambrai)、パリ労働審判所は10区(rue Louis-Blanc)にそれぞれ置かれている。

パリのみを管轄する裁判所以外に、複数の県を管轄するパリ控訴院もパレ・ド・ジュスティスに置かれている。その管轄は、セーヌ=エ=マルヌ県エソンヌ県セーヌ=サン=ドニ県ヴァル=ド=マルヌ県及びヨンヌ県である。パリ控訴院の管轄区域には、フランス全人口の12.6%が暮らしている[11]。なお、他のイル=ド=フランス地域圏内の各県及びウール=エ=ロワール県は、ヴェルサイユ控訴院の管轄となる[12]

行政裁判所系統

パリは、4区所在のパリ地方行政裁判所の管轄に属する。控訴は、パリ行政控訴院に対して行うことになる(ほかに、マタ・ウトゥムランヌーヴェル・カレドニー及びフランス領ポリネシアの各地方行政裁判所からの控訴を受ける。)。

最高裁判所及び憲法裁判所

パリ(1区)には、司法と行政それぞれの最高裁判所である破毀院国務院(コンセイユ・デタ) に加え、憲法院も置かれている。

治安

セーヌ=サン=ドニ県オー=ド=セーヌ県及びヴァル=ド=マルヌ県と同様にパリ警視庁の管轄下にある。

イル=ド=フランス地域圏で犯される重罪及び軽罪は、フランス全土での4分の1を占める。 パリ市内、その外側の“小さな王冠”(セーヌ=サン=ドニ県オー=ド=セーヌ県及びヴァル=ド=マルヌ県)及び更にその外側の“大きな王冠“ は、それぞれイル=ド=フランス地域圏内の全認知件犯罪の概ね3分の1ずつが発生している。パリでみられる犯罪類型としては窃盗が大部分で、全重罪及び軽罪の3分の2を占める。2006年には、255238件が認知され、 犯罪発生率としては人口1000人当たり118.58件であった。これは、全国平均61.03‰の約2倍であるが、大都市のみに限ってみれば平均的な数値である(リヨン:109.22、リール:118.93、ニース:119.52.マルセイユ:120.62)。女性被告人の割合は15%を下回り(全国平均をわずかに下回る程度。)、未成年の割合は11.02 %(全国平均18.33%を7ポイント下回る。)である。他方、外国人(有効な滞在許可証を所持しフランスに住居を有する者。)の割合は、全国平均を上回る20,73%である[13]テンプレート:・[14]

パリでは、2008年の強姦事件数1413件で発生率が0.6 ‰とフランス国内で2番目の高率であった[15]。身体的暴行に関しては、2万7857件であった[16].テンプレート:,[17]。暴行を行うとの脅迫に関しては、2008年において、パリでは5165件認知された[18]。2008年の財産犯(窃盗、器物汚損、器物破壊)に関して、ブーシュ=デュ=ローヌ県に次ぐ件数が認知された[19]

パリの中央集権主義はまた、この街がテロの犠牲者であることをも物語る。よく知られるナポレオン1世に対するサン・ニケーズ街テロ事件や、最近では、RER B線サン=ミッシェル=ノートルダム駅での爆弾テロがある。パリの歴史はこれらの象徴的価値の高い事件が刻まれたものである。これらは、この街での日常生活にとって取るに足りないというものではない。特に、ヴィジピラート計画(Plan Vigipirate)[20] の実施により、観光地や首都の戦略的要衝地の近くに武装した警察、憲兵及び兵士が警備しているのを目にすることになる[21]

行刑施設

パリのいくつかの刑務所は今日でも有名である。

右岸のグラン・シャトレは、王の刑務所を内部に置き、その別館(左岸のプティ・ポンにあるプティ・シャトレ)とともに、14世紀から破壊される1782年まで投獄及び拘置場所とされていた。

コンシェルジュリーバスティーユ牢獄及びヴァンセンヌ城の3つの刑務所は、歴史的なシンボルとなっている。コンシェルジュリーは、パリの裁判所固有の刑務所であったが、フランス革命の間にマリー・アントワネットや他のギロチン犠牲者を迎えた後も、1914年まで、拘置所として機能し続けた。バスティーユ牢獄は、1370年から構築され、リシュリューが権力を振るっていた頃にもっぱら国の刑務所となった。 ヴァンセンヌ牢獄は、やはり1784年まで国会の刑務所であったが、その名のとおりの投獄の場といよりもむしろ軟禁場所であり、第二帝政下までしばしばそのように使われていた。

1830年から1947年まで11区にロケット刑務所があったが、パリで唯一残存する刑務所(兼拘置所)は1867年に開設されたサンテ刑務所のみである。 イル=ド=フランス地域圏の主要な刑務所兼拘置所(Maison d'arrêt,メゾン・ダレット。)は、フレンヌ (ヴァル=ド=マルヌ県)フルリー=メロジエソンヌ県)にある。他に、ポワシーにある困難受刑者が収容されるメゾン・サントラルがある。


気候

西岸海洋性気候に属し、暖流である北大西洋海流の影響で高緯度の割には温暖である。夏(6~8月)は気温が15度から25度までの範囲で、冷涼で乾燥しており過ごしやすいが、年間数日程度は32度を超える暑さとなる。しかし、2003年夏には30度以上の気温が数週間も続き、40度近い気温が観測され1万人以上の死者を出した。春(3~5月)と秋(9~10月)は天候は不安定であり暖かい時期と寒い時期が同居し、10月でも真冬並みの寒さとなることもある。冬(11~2月)は、元々高緯度で昼間の時間が短い上、曇りや雨の日が多いので日照時間が少ないが、降雪・積雪はあまり見られない。年間数日程度は気温が氷点下5度以下まで下がる。しかしながら、近年の冬は寒さが厳しく2009~2010年の冬にはパリ郊外では気温が-10度から-20度前後まで下がっているなど、寒気の影響を受けやすくなっている。年間降水量は652 mm ほどであり、それほど多くは無い。今までの最高気温は 40.4 °C(1948年7月28日)、最低気温は−23.9 °C(1879年12月10日)である。

パリの気象観測は中心部から離れた14区にあるモンスーリ公園で行われている。

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地理


市内の各地域

右岸

シャンゼリゼ通り8区
凱旋門からテュイルリーまで続く、パリを代表する目抜き通り。パリの歴史軸を構成する。
サントノーレ通り1区
フランスの高級ブランドの本店が並ぶ、世界屈指の高級ブランド街。ヴァンドーム広場、コンコルド広場、ルーブル美術館、テュイルリー庭園、に囲まれたパリ中心部の通り。
シテ島1区4区
パリ発祥の地であり、ノートルダム大聖堂など歴史的建造物も多い。
パッシー(16区
高級住宅地。
オペラ界隈(2区
デパートや高級洋服店、銀行などが立ち並び、日本料理店や日本の生活雑貨店が並ぶ日本人街でもある。
マレ(3区4区
貴族の館が集中して残る地域であり、現在は裕福なユダヤ系住民が多く住む。美術館や画廊も多い。お洒落なゲイの集まる地域でもある。
バスティーユ(4区11区12区の各境)
フランス革命の発端となった場所として有名だが、今では若者が集まる歓楽街となっている。オペラ・バスティーユもある。
オベルカンフ(11区
同じく歓楽街だが、比較的新しい。テクノテンプレート:要曖昧さ回避音楽やゲームなど新しい文化を紹介する場として認識され、アニメ店なども複数見られる。
ピガール、ブランシュ(18区
モンマルトルのふもとに位置する。高級キャバレー「ムーラン・ルージュ」があるが、その他は怪しげなキャバレーやいかがわしいセックステンプレート:要曖昧さ回避店が多く並ぶ性的歓楽街でもある。昔から猥雑な界隈であり、永井荷風の「ふらんす物語」にも描かれている。
モンマルトル18区
パリを見下ろす高台。パリ市に編入されたのは1860年以後だが、現在ではパリを代表する名観光地となっている。2001年のフランス映画『アメリ』の舞台にもなった。サクレ・クール寺院が一番の高台にそびえ、そこから西側へ行くにつれテルトル広場やムーラン・ド・ラ・ギャレットなど観光名所が多く並ぶ。寺院東側は観光地ではなくアフリカ系移民が多く暮らすシャトー・ルージュ地区。
ベルシー(12区
昔は倉庫街だったが今は再開発が進み、大蔵省やベルシー公園、ワイン倉庫街を改造したレストラン街・商店街などが新しい観光地となっている。
ベルヴィル(11区20区
元々はパリ郊外のコミューンだったが、1860年にパリに編入された。アラブ系アフリカ系ユダヤ系(労働者系の)、中国系(華僑)など、主に労働者系の多くの移民が暮らす地域。安くて異国的なレストランなどが集中する。名前とは裏腹に雑多で庶民的な界隈であるが、近年ベルヴィル公園が整備され、再開発が進んでいる。エディット・ピアフの生地でもある。トルビヤック地区に次いで、1970年代以降パリ第2の中華街が形成されつつある。
バルベス(18区
ベルヴィルと同じくアラブ系やアフリカ系の移民が多く暮らす。有名な安物服屋やアフリカ系商店街があり、人口密度も多く、駅前は常に混雑している。

左岸

モンパルナス14区
異様な雰囲気を残す左岸の地域。
サン=ジェルマン=デ=プレ5区6区
歴史的地区であり、美術学校に近いことから画廊も多い。サルトルら哲学者が集まった場所として有名な2軒の喫茶店がある。カルチエ・ラタンに隣接する。
カルチエ・ラタン5区6区
ソルボンヌ大学をはじめ大学が集中しており、昔から学生街として有名。カルチエは「地区」、ラタンとは「ラテン語」のことであり、「ラテン語を話す、教養のある学生が集まる地区」という意味が語源。羅典区。
エッフェル塔シャン・ド・マルス公園7区
パリを代表する観光名所としてあまりに有名。セーヌ川の観光船のうち有名な2つの船の発着点ともなっており、観光客が集中する。
トルビヤック(13区
いわゆる中華街だが実際はベトナム系が多く、中華・ベトナム料理店が並ぶ。昔はゴブラン織りで栄えたが、今は高層ビルが林立する再開発地域である。

郊外

パリの郊外にはヴェルサイユなど有名な観光地がいくつかあり、そのほとんどはパリから日帰りで往復できる。

16-17区に繋がるセーヌ川下流の西部方面には閑静な高級住宅地が広がっている。逆に18~20区から繋がる北東方面は低所得層の集まる地価の安い郊外となっており、近年は犯罪増加などの問題を抱えている。フランスで単に「郊外(バンリュー)」という場合、こうした地域を婉曲的に指すことが多い。その他の方面の郊外は一般的な住宅衛星都市となっている。

パリより電車で各30分ほど離れた郊外にはいくつかの衛星都市があり、近代建築によって町の機能が整えられている。中でもラ・デファンス地区には「新凱旋門グランダルシュ」をはじめ高層ビル群が集中しており、多数の企業の支店を抱える新都心となっている。

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河川

セーヌ川
パリ市内を横断する川であり、パリのセーヌ河岸世界遺産に登録されている。パリではセーヌ川の北部を右岸 (Rive Droite)、南部を左岸 (Rive Gauche) という。パリ市中心部にある川中島であるシテ島は、パリ市発祥の地である。シテ島の東にもうひとつサン・ルイ島という島がある。セーヌ川は重要な運路であり、パリ市内では観光船のほか運搬船も多く行き来する。パリ市東部郊外のごく近い場所でセーヌ川とマルヌ川が合流し、ベルシーからパリに入り、途中サン・ルイ島とシテ島を抜け、アンヴァリッドのあたりで南西に折れ曲がり、そのまま15区と16区を抜けていく。パリを抜けた後は蛇行を繰り返し、ノルマンディー地方を経て大西洋へと流れていく。パリ市内には多くの橋がかかっており、歴史やいわくのある橋も多い。詳細はセーヌ川の項を参照。

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ビエーヴル川
13区のトルビヤック地区やゴブラン地区には、セーヌ川の支流であるビエーヴル川という自然の川がかつて流れていた。エソンヌ県に端を発する小規模な川で、パリ市の直前で暗渠に入る。今はパリ市内では暗渠として完全に地下化してしまい、現在の一般の地図上でその存在を確認することは出来ないが、古地図などでその川の流れを見ることが出来る。かつてはこの川を利用してゴブラン織の染色が行われていた。国立手工芸製作所(ゴブラン織り工場)はこの川の上に存在する。現在このビエーブル川の一部を暗渠から再び掘り返して親水公園にする計画が立ち上がっている。

運河

サン・マルタン運河
パリ東部セーヌ右岸を南北に流れる運河。セーヌ川に面したサン・マルタン運河の出入口はアルスナル港という。ここからバスティーユ広場を経て、運河は地下水道となる。10区に入ったあたりで、運河は地上に顔を出す。この辺りには水位を上下するための水門(閘門)がいくつかある。10区の運河沿いにはかつて革製品などの町工場が多く並んでいたが、今はそれらの工場は衰退しており、徐々に再開発の動きが進んでおり、最近は、景観を生かしてレストランが並ぶ。10区と19区の境にある地下鉄2号、5号、7号線のジョレス駅およびスタリングラッド駅付近にあるラ・ヴィレット運河まで出たところで、サン・マルタン運河の名称は終わる。今はサン・マルタン運河を走る運搬船はほとんどないが、観光船が走っている。
ウルク運河
サン・マルタン運河と一続きの運河だが、ラ・ヴィレット運河より以北はこの名称になる。パリ19区からパンタン市へ、さらに遠方のウルク川へと繋がっている。メトロ5番は、終点、ボビニー=パブロ・ピカソ駅手前でこのウルク運河沿いの地上部を走る。ラ・ヴィレット公園の手前でサン・ドニ運河と分岐(合流)している。
サン・ドニ運河
ラ・ヴィレット公園の手前でサン・ドニ運河と分岐・合流している。パリ市内では19区のごく一部を流れる。パリ郊外のオーベルヴィリエ市、サン=ドニ市を経て、パリ北部で蛇行するセーヌ川下流と合流する。ウルク運河経由で水路をショートカットするためにつくられており、運搬船が頻繁に行き来している。

広場、公園、森

広場

コンコルド広場1区
パリの中心部、テュイルリー公園とシャンゼリゼ通りに挟まれて位置する。歴史ある広場で、フランス革命の後にはルイ16世やマリー・アントワネットの処刑が行われた。現在はツール・ド・フランスの終着点としても知られ、最終日には多くの愛好者が集まる。
ヴァンドーム広場1区
ナポレオン2世の記念柱が立っている。この広場および隣接するサントノーレ通りには高級宝石店や高級洋服店が並ぶ。
バスティーユ広場4区11区12区の各境)
フランス革命の発端となったバスティーユ要塞があった場所で、要塞は革命後に取り壊されて現在の広場となった。広場中央には1830年におきた七月革命の記念柱が立っている。広場に面してオペラ・バスティーユがある。サン・マルタン運河出入口のアルスナル港にも面している。
ヴォージュ広場4区
バスティーユ広場のすぐ近くだが奥まった場所にあり、赤い煉瓦と石造りの美しい建物に囲まれたほぼ正方形の広場である。その赤い建物の一角にはヴィクトル・ユーゴーの住んだ家がある。フランス革命前は国王(ロワイヤル)広場と呼ばれていた。
サン・ミッシェル広場6区
カルチエ・ラタンの中心部に位置し、セーヌ川および対岸のシテ島、ノートルダム寺院に面している。本屋などが多くあるほか、広場裏手には安手のレストランが立ち並ぶ。
シャルル・ド・ゴール広場(エトワール広場)(8区
凱旋門を中心に、シャンゼリゼ通りを含め放射状に道路が伸びる、パリの顔とも言うべき広場。元はエトワール広場と呼ばれたが、第二次世界大戦シャルル・ド・ゴール将軍をたたえて現在の呼称となった。通常はエトワール広場の呼称でも通じる。1860年のパリ拡張以前はパリの西の玄関だった。
レピュブリック広場3区10区11区
訳すと共和国広場。庶民的な地区に位置するが、広場としてはきわめて大きいそれの一つ。マニフェスタシオン(抗議集会)がある際にはほとんどここが起点となる。
ナシオン広場11区12区
エトワール広場と同じく道が放射状に伸びる、1860年以前のパリの東の玄関。かつてカルーゼル凱旋門が置かれていたが現在同門はルーヴル正面に移され、現在ナシオン広場には2つの柱が立っている。ロベスピエールの恐怖政治時代にはここで多数の反体制者がギロチンで処刑された。
テルトル広場18区
モンマルトルがパリに編入される以前はこの広場が村の中心だった。現在は絵描きが多く並ぶ一大観光名所となっている。
イタリア広場13区
パリの南の玄関口。

公園、庭園

公園はパルク (Parc)、庭園はジャルダン (Jardin) と呼ばれ区別されている。

テュイルリー庭園1区
パリの中心部、ルーヴル宮の正面に位置する。かつてテュイルリー宮殿があった。
リュクサンブール庭園6区
リュクサンブール宮殿(現在のフランス上院議会)の正面に位置する庭園。カルチエ・ラタンに隣接し、学生たちの憩いの場でもある。
シャン・ド・マルス公園7区
エッフェル塔に登ると先ず目に入るのが眼下に広がるこの公園の全景である。かつては軍事演習場だったところ、1889年のパリ万博の会場にもなった。
モンソー公園8区
1860年のオスマン公によるパリ大改造で公園に整備された。
ベルヴィル公園20区
主要なベルヴィル地区に位置する。高台になっており、パリを一望できるとても眺めの良い公園。
ビュット・ショーモン公園19区
同じく1860年のパリ大改造で整備され、昔の石切場跡を公園にした。
植物園5区
その名の通り植物園で、動物園も併設する(ただしヴァンセンヌの森の動物園よりは小さい)。敷地内には自然史博物館がある。
モンスーリ公園14区
これも1860年のパリ大改造で整備された。14区の外れにあり、国際大学都市に面している。
ジョルジュ・ブラッサンス公園15区
馬市場、家畜市場の跡を整備した公園で、銀色の巻貝のような劇場を併設する。馬市場の跡の19世紀の鉄骨屋根のテントの下では、定期的に古本市が開かれる。
ラ・ヴィレット公園19区
主要な地区に属するが、かつての食肉処理場跡および旧鉄道用地の広大な敷地を再開発して公園とした。広大な敷地内にはサン・ドニ運河が流れる(サン・マルタン運河に繋がる)。代表的な建物として、食肉処理場時代の19世紀の鉄骨建築ホールをそのまま流用したグランド・アール(見本市会場)、科学産業都市(博物館)および音楽都市(クラシック用コンサートホール)、ZENITH(ロックポップス用コンサートホール)、パリ国立高等音楽院現校舎などがある。
アンドレ・シトロエン公園15区
自動車会社シトロエンの工場跡および鉄道敷地跡を整備して公園にした。大きな芝生の広場がある公園で、現代的なデザインである。
ベルシー公園(12区
フランソワ・ミッテラン元大統領により整備された。新大蔵省の建物に面している。付属のベルシー体育館では運動のほか演奏会なども行われている。

パリには東西2つの大きな森があり、パリ市民の憩いの地となっている。現在はこの森もパリ市の敷地に含まれる。

ブローニュの森16区
パリの西側に位置する。16区の高級住宅街パッシーやオートゥイユ、近郊の高級住宅市街に面し、高級社交場でもあるオートゥイユ競馬場や、凱旋門賞などが行われるロンシャン競馬場なども併設する、高級的な雰囲気の漂う森である。ただし夜暗くなってからはゲイの人達が集うことでも知られる。
ヴァンセンヌの森12区
パリの東側に位置する。こちらは小さなな森として知られ、アフリカ・オセアニア博物館のほか、動物園農場(パリ唯一の農場)、パーク・フローラル(花公園)などを併設する。中世の砦だったヴァンセンヌ城もある。

四大墓地

パリは東西南北に4つの主要な墓地があり、多くの著名人が眠っている。

この他、パリ中心部に位置するパンテオンにもルソーヴォルテールヴィクトル・ユーゴーデカルトといった偉人たちが埋葬されている。

観光

パリは世界屈指の観光都市である。世界観光機関の調べでは2012年の外国人旅行者数は8301.8万人で世界1位[22](「世界観光ランキング」を参照)。[注 1]。2012年の観光収入は536.97億米ドルであり、米国、スペインに次いで世界第3位の観光収入である。

「芸術の都」などのイメージを前面に出す戦略をとっている。

主な集客装置は、歴史的な建造物の数々(例えば世界遺産「パリのセーヌ河岸」に入っている建物など)、数々の美術館に収められた著名な美術品、有名料理店で提供されるフランス料理、高級銘柄を扱う店舗、等である。

建造物は、中世以前のものも残るが、第三共和政期のパリ改造ベル・エポックの建造物、あるいはフランス革命200周年期のグラン・プロジェの建造物など、各時代の世界の最先端のものが多い。美術館には、フランスで活躍した著名な芸術家の美術品の他、戦利品や購買によって収集された世界一級の収蔵物が並ぶ。

#主な観光名所

主な観光名所


劇場・劇団・コンサートホール・楽団

文化

「芸術の都」という異名が言い表すように、パリは美術・音楽・演劇・バレエなど、さまざまな芸術の世界的な中心地として名を馳せている。

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美術

ルーヴル美術館オルセー美術館ポンピドゥーセンター(国立近代美術館)等々の美術館に世界一級の美術品が多数収蔵されている。ざっくりと時代ごとに美術館が割り振られている。古代から19世紀半ばまでの美術品はルーブル美術館で観ることができ、モナ・リザサモトラケのニケミロのヴィーナスなど世界中の誰もが知っている名作をはじめとして、ナポレオンがエジプト遠征時に集めた古代エジプトの考古学品なども含めて常設展示数はおよそ26,000点で(展示しきれない総所蔵作品数はなんと30万点以上)、ざっと観ても数日かかり、全部じっくり観ると一カ月ほどかかるとも言われる。ルーヴルは建物自体もかつての王宮であり、歴史のある美しい建物で、年間800万人以上の入場者数を誇る。19世紀以降の絵画、つまり印象派象徴主義アール・ヌーボーの絵画などはオルセー美術館に展示されている。

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ガルニエ宮の内部。世界最古のバレエ団のバレエを観賞し、かつての王や貴族の生活に想いを馳せたり、シャガールの天井画を堪能することができる。
演劇

世界で一番歴史の長い劇団、1680年創設のコメディ・フランセーズがあり、同名の劇場でその舞台を観ることができる。

バレエ

パリには1661年に王立舞踏アカデミーとして創設された世界最古のバレエ団パリ国立オペラ」があり、旧オペラ座のガルニエ宮や新しいオペラ・バスティーユでその公演を観ることができる。

音楽

パリは音楽都市のひとつである。 シャンソンを聞かせるライブハウスがいくつもある。

パリには管弦楽団が多数あり、コンサートが頻繁に行われている(一時期は世界一流のレベルだったが近年はいくらか厳しい評価も聞かれる)

毎年夏至の日6月21日にはFête de la musique(音楽祭)がフランス全土で開かれ、パリでも様々な場所でさまざまなジャンル(ジャズやブルース等も含めて様々なジャンル)の音楽の演奏が行われる。

Conservatoire de Paris コンセルヴァトワール・ドゥ・パリ(パリ国立高等音楽・舞踊学校)があり、世界から才能のある若者が一流のバレエや音楽を学びにやってきている。

食文化

パリはガストロノミー(食によるおもてなし、食文化、一流の料理作り)の中心地でもあり、有名なレストランがいくつもあり(ギッド・ミシュランでは三ツ星が例年10店前後)、世界で最高レベルのシェフの料理を堪能することができる。2つ星の良い店も多数。またフランス料理を習得しようとしている若い料理人(の卵)たちがそれら有名店で修行に励んでいる場所でもある。料理競技会も開催されている。

1989年には欧州文化首都に選ばれた。

経済

フランスにおける経済の中心地であり、世界屈指の経済都市でもある。多国籍企業の本社数や資本市場の規模などビジネス分野を総合評価した都市ランキングでは、ロンドンと共にヨーロッパでトップクラスである[2]BNPパリバトタルアクサなど世界有数の大企業の本社が所在しており、世界500大企業の本社数では、ニューヨークロンドンを凌ぎ、西洋の都市では最多である[23]2008年パリ都市圏のGDPは、世界第6位の5640億ドルであり、ロンドン都市圏(5650億ドル)と共に欧州二大経済都市圏を形成している[24]

金融

2013年のアメリカのダウ・ジョーンズらの調査によると、世界7位の金融センターと評価されており、欧州ではロンドンに次ぐ2位である[25]

商業

パリは工芸品贅沢品服飾品のビジネスの集積地でもある。

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2011年パリ・コレクション。華やかさの陰には、商人たちの金儲けのためのしたたかな計算がうごめく。こうした虚偽のイメージに騙されて、パリにやってきて精神的なダメージを受ける日本女性も多い。

アンシャン・レジームの時代では、貴族は服をたった一着 手に入れるにも、まずは布地を扱う商人のところへ行って気にいる布地を苦労して見つけ、つぎにその布を裁断する職人のところへそれを持っていって、次にそれを縫いあげる職人...と何軒もの店・職人をかけずりまわらなければならず[26]、おまけに訪ねる店は(現代からは想像もつかないような)まるで倉庫のようなありさまで、価格の表示もなく、客は顔色をうかがわれて とんでもない高値を吹っかけられ、支払いも高利掛け売りというありさまで、皆、服を手に入れることにうんざりしていた[26]。だがアンシャン・レジーム末期のパリに、新しい経営方法を導入した服飾品の小売業者やモード商人が登場した。それまで注文を受ける側であった商人が、主導権を握って王妃などに着る服を提案することを始めたのであり、王族を宣伝塔として巧みに利用し流行を意図的・恣意的につくりだし、貴族たちを煽って金儲けをするようになり[26]、19世紀にはさらにオートクチュール(オーダーメイド服)への道を開き、ファッションショーなどを開催し、メディアも活用し巧みにイメージを作りだし、新興の富裕層の欲望を掻きたて金儲けを行った[26]。だが、オートクチュールのビジネスは20世紀後半には衰退し、現在は主としてプレタポルテを扱う。ショーの華やかな見た目に惑わされている一般人には見えないが、ファッションウィーク期間中のパリというのは、デザイナー側とバイヤー側が直接に会してビジネス上の冷徹でしたたかな交渉が行われる商業(ビジネス)の空間でもある。

最近では、商人によって金儲けのためにこうして作りだされ雑誌などの各種メディアで流されている虚像を信じてしまって、パリになんとなくフワフワとやってくる若い日本女性も多いが、こういう女性たちも、やがてパリの実態を見ているうちに、自分が虚像を信じていたにすぎないこと、虚像に騙されていたことに気づかされ、またフランス人が日本人のようなウェットな人間関係を持たないこと等々も体験し、やがて鬱状態になったり責められているように感じ苦しんで帰国してゆく。→パリ症候群を参照のこと。

主だった企業

各節とも日本語での五十音順。

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企業本社

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ファッション

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社会情勢

人口

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人口推移(1801年から2008年)
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パリ都市圏の人口分布

パリ市の人口は2011年現在、約225万人で、近年は微増傾向にある。特に、再開発が進む南部や移民流入の著しい東部での人口増加が目立っている。

この間、郊外(市域外)の人口は増加している。20世紀以降、かつて城壁に囲まれていた市域外にも市街地が大きく拡大し続け、現在、イル=ド=フランス地域圏(パリ地域圏)全体の人口は1,198万人にのぼる。 パリ市域内もおおむね商業・業務・住宅地としての活気と威信を維持しており、アメリカの大都市などで見られる都心部の荒廃や郊外への人口流出(インターシティー問題)はさほど見られない。むしろ、移民の多い一部の郊外での治安の悪化が顕著である(バンリュー参照)。

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世帯構成

パリは他の大都市同様、学生、若者、老人が多い一方、子供を有するカップルの割合は低い。1999年、パリ市の世帯数の22%、人口数の40.7%は1人以上の子供を有するカップルであったが、単身世帯数の割合は27%、カップルのみの世帯数の割合は19%であった。パリ市では47%(フランス全体の平均は35%)の人々が独身で、37%(同50%以上)が結婚している。また片親世帯の割合が26%(同17%)と高い。離婚率も最も高く、婚姻100件のうち55件は離婚に至っており、パリ市民の7.7%を占めている。

出生率は1000人中14.8人であり、国平均の13.2%より高い。一方、子供の数は世帯あたり1.75人で、国平均の1.86人より少ない。半分の世帯において子供は1人である。パリ市では住居が狭く高額であることが、その主因である[27]

経済格差

ファイル:Revenus à Paris et Petite Couronne.JPG
パリの地区毎の年間平均所得の分布[28]

高所得者層は主に西部に、低所得者層、移民は主に北東部に居住している。

パリ市の平均世帯所得はフランス全体の平均より高く、隣接する郊外のオー=ド=セーヌ県イヴリーヌ県エソンヌ県ヴァル=ド=マルヌ県の4地域の平均所得も国内で最高水準であり、イル・ド・フランス地域圏に高所得者層が集中している。

しかしパリ市内の社会的格差の状況は、さらに複雑である。伝統的には豊かなパリ市西部と、貧しいパリ市東部という構図がみられる。実際、7区の平均世帯所得(2001年)は31,521ユーロにのぼり、19区の13,759ユーロの2倍以上となっている。イル・ド・フランス地域圏において、パリ6区7区8区16区は最も高所得の地域、10区18区19区20区は最も低所得の地域に分類される。さらに、市内の19区の状況はそのまま所得が低い北東部郊外のセーヌ=サン=ドニ県に連なる一方、16区の外縁は西部の豊かな郊外に続く。

18区19区20区にはパリの貧困層の4割が集中し、学校の中退、失業、健康問題などが集中している。EU域外からの移民は、フランス国内の出身者に比べて、貧困な状況に置かれていることが多い。

移民

18区マグリブや、最近はサブサハラ地域のアフリカからの移民が多い。フランスの国勢調査では法律上、民族や宗教の属性を問うことができないが、出身地の情報は得ることができる。1999年の国勢調査によると、パリ都市圏はヨーロッパで最も多民族化が進んでいる地域の1つであり、人口の19.4%がフランス本国外の出身である[29] 。また、パリ都市圏の人口の4.2%は1990年から1999年の間にフランスにやってきた新しい移民であり、その大半は中国またはアフリカ出身である[30]。さらにパリ都市圏の人口の15%はイスラム教徒である。

パリへの大量の移民の第一波は1820年代、ドイツの農民が、農業危機とナポレオン・ボナパルトの侵攻に伴って移住してきたことによる。その後、今日に至るまで、何度か移民の波が続いている。19世紀はイタリア人と中央ヨーロッパのユダヤ人、1917年のロシア革命後はロシア人、第1次世界大戦中は植民地の国々から、大戦間期はポーランド人、1950年代から70年代はスペイン人、イタリア人、ポルトガル人、北アメリカ人、またアフリカ・アジア地域の独立後はユダヤ人が移民してきた[31]。移民の居住区域は、それぞれ出身地ごとに異なっている。

教育

初等・中等教育

2005年から2006年の学校年度における公立学校の児童・生徒数は、26万3812人であった。うち13万5570人が初等教育、12万8242人が中等教育を受けていた。同年度の私立学校の児童・生徒数は13万8527人で、うち9万1818人が契約に基づく就学であった。パリには、優先的教育地域(ZEP) または優先的教育組織 (REP) の施設(小学校214校、コレージュ32校。5人に1人の割合。)がある。

2007年現在、881校の公立学校があり、うち323校が幼稚園、334校が小学校(日本の5年生までに相当。)、6校が病院内学校、110校がコレージュ(日本の小学6年生及び中学生に相当。)、72校がリセ(普通及び科学技術とも含む。)、34校が職業訓練リセ及び2校が公的実験リセである。他方、契約に基づき入学する私立学校は256校であり、うち110校が幼稚園・小学校・特別学校であり、67校がコレージュ、73校がリセ(普通及び科学技術)及び5校が職業訓練リセであった。

中等教育については、リセ・ルイ=ル=グランリセ・アンリ=カトルが全国的かつ国際的にも有名である。

高等教育

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ソルボンヌ広場とソルボンヌのチャペル
ファイル:Pantheon-Assas University - Panthéon.jpg
パンテオン広場にあるパリ第1大学と第2大学
ファイル:Paris 75005 Rue Saint-Jacques La Sorbonne facade 01c.jpg
サン・ジャック通りのパリ第3大学校舎

2007年現在、イル=ド=フランス地域圏では約58万5000人が高等教育を現に受けており、フランス全土の4分の1強にあたる。特に1990年代のフランス国立行政学院ストラスブール移転や高等師範学校リヨン校などの脱中央化の動きもみられるが、大部分の名高い国立学校は常にパリ地方に設置されている。

歴史

12世紀以降、パリは、ヨーロッパにおける知識の大集積地のひとつで、特に科学技術と哲学分野に秀でていた。フィリップ2世が大学の構成員に対して特権与えた西暦1200年はパリ大学の設立の年とされ、人々に象徴的に記憶されている。そこでは教育が行われた場所である寄宿舎(寄宿学校)が学部を構成した。ソルボンヌ寮の創設は1257年を起源とする。大学は、サント=ジュヌヴィエーヴの丘を中心として、カルチエ・ラタンに発展した。カルチエ・ラタンは、現在でも、パリ大学を含む高等教育機関の重要な中心地である。

18世紀以降、いくつかの専門職のために専門化された高等教育機関が創設され、現在のグランゼコールの起源となった。エコール・ポリテクニーク及び高等師範学校はともにフランス革命期に創設された。近代のパリ大学は、19世紀、法・医・薬・文・神・理の6学部に組織化された。20世紀五月革命後には多くの学生が強く社会問題を考えたが、ソルボンヌはその震源地となった。その結果、パリ大学は、それぞれ専門分野を相対的に限定された13の個別の大学へと、分割再編された。

現在の状況

パリ市内は、現在も大学の中心地であり続けている。パリ第1からパリ第7までの各大学は再編されて左岸の3つの区(5区、6区、13区)に存在している。カルチエ・ラタンには、パリ・ソルボンヌ(パリ第4)大学、高等師範学校、コレージュ・ド・フランスといった歴史的施設が残り、重要な地位を今も保ち続けている。

また、他の高等教育機関もこの地区に存在する。パリ政治学院パリ第1大学パリ第2大学、ジュシュー・キャンパス・(Campus de Jussieu:パリ第6大学とパリ地球物理研究所による複合研究施設)、パリ第3大学社会科学高等研究院古文書学校美術学校パリ市立工業物理化学高等専門大学 (EPCI) 、応用美術研究所(LISAA)、パリ国立高等鉱業学校パリ高等化学学校(Chimie ParisTech)、生活工業・環境科学研究所(AgroParisTech)、パリ高等電子工学研究所(ISEP)及びパリ企業経営学院(IAE de Paris)などである。なお、パリ第9大学、エコール・ポリテクニークエセック経済商科大学院大学などは、いずれも校外に移転している。大学街は東部に広がり、かつて5区にあったパリ第7大学は、フランス国立図書館が移転した13区において、複数の大学施設を一般公開している。国立高等工芸学校が1912年からイタリア広場近くに迎え入れられている。

1960年代以降、バンリューに大学が作られ始めたが、その先鞭となったのは1964年にナンテールに作られたパリ第10大学である。同時期には複数のグランゼコールが、特に広大な敷地を求めて、同様にパリの中心部を去っている。 パリの南にあるサクレー台地は、重要な研究拠点となっている。その広大な大地には、パリ第9大学やグランゼコール(HEC経営大学院は1964年、高等電子学校は1975年、エコール・ポリテクニークは1976年にそれぞれ移転してきた。)のほか、サクレー研究所などの公的研究所や民間の研究施設が多数存する。

パリ市は、7つの高等専門学校を有している。4つは応用芸術に関するもので、エコール・ブール(家具修理)、エコール・エティエンヌ(グラフィック アート。特に装丁。)が有名である。2つは科学技術に関するもので、パリ市立技術学校及びパリ市立工業物理化学高等専門大学である。エコール・デュ・ブルーユは園芸に関するものである。

医療・衛生

数多くの病院がパリに設置されている。そのうちいくつかは特に古く、医療の伝統は中世にまで遡る。651年にパリ司教だった聖ランドリーによって設立されたオテル・デューは、パリで最も古い医療施設である。慈愛ともてなしの象徴であり、12世紀まではパリで唯一の病院であった。

大部分の医療施設は、1849年1月10日法によって創設された公的医療施設であるAP-HP(Assistance publique - Hôpitaux de Paris,公的支援-パリ病院連合)に名を連ね、パリ市の後方支援をしている。地域圏及びパリの医療センターの役割も果たし、多くの医師及び公務員を含む9万人以上が業務に従事している。5区にあるミラミオン館は、かつて病院の施設として使用されていたが、現在はAP-HPの博物館となっており、パリの医療の歴史を想起させている。AP-HPのパリ市内主要病院としては、ネッケル小児病院、コシャン病院、サルペトリエール病院、サン・タントワーヌ病院、サン・ルイ病院、ビシャ=クロード・ベルナール病院あるいは、ジョルジュ・ポンピドゥー欧州病院を挙げることができる。

他方、アンヴァリッド・軍病院は、AP-HPに属していないが、保健大臣の監督の下、国防大臣に権限が委任されており、退役軍人などの治療を行っている。同様に、« 国立アンヴァリッド研究所»[32]では、現役及び退役軍人(その家族等の被保険者を含む。)などが医療看護や外科的治療を受けられる。

パリの近郊“小さな王冠”では、パリ東・クレテイユ・ヴァル=ド=マルヌ大学(パリ第12大学)附属アンリ・モンドール大学病院センター(クレテイユ)、パリ南大学附属クレムラン・ビセートル大学病院センター(ル・クレムラン=ビセートル)、ル・ランシーモンフェルメイユ・コミューン連携医療センター、ボジョン病院(クリシー)が有名な医療機関である[33]。“大きな王冠”においても、AP-HPに属してはいないが、いくつかのコミューン連携の総合病院が存在する。たとえば、アルジャントゥイユのビクトル・デュプイ病院やヴェルサイユ医療センターを挙げることができる。

また、医療研究機関としては、1260年にルイ9世によってパリの視覚障害者救済を目的として設立されたキャンズ・ヴァン病院、いずれも軍の衛生部に属するヴァル=ド=グラース軍研究病院、ペルシー軍研究病院及びベガン軍研究病院を挙げることができる。

さらに、ヌイイ=シュル=セーヌには、1906年に設立された社会保障非受益者のための非営利・認可私立病院であるパリ・アメリカン・ホスピタルも特筆される。

パリは、フランス全土でも医師の密度がもっとも高い街の一つである。たとえば、2005年現在、パリの一般医は5840人を下らないが、セーヌ=サン=ドニ県ヴァル=ドワーズ県には両県を合わせても3349人の一般医しかいない[34]


パリでは、公衆衛生を保証・保持するため、特に貧困層向けに、16の市立入浴施設が9つの区に分散設置されている。これらの入浴施設は、個室を有するが、洗面具は利用者が用意することになっている[35]

交通

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空港

シャルル・ド・ゴール国際空港
パリ北部郊外のロワシーに位置し、TGVや在来線の駅とも直結するより、エールフランス航空の本拠地かつハブ空港であり、エールフランス航空が成田空港に1日に2便、関西空港に1日に1便の直行便を、日本航空が成田空港に1日に1便、羽田空港に1日に1便(2010年10月開設)の直行便を運航している。また、全日空が成田空港からの直行便を、アエロフロート・ロシア航空が成田空港からのモスクワ経由便を運航している。
オルリー空港
パリ南部オルリー市にある空港。かつては最も主要な空港だったが、シャルル・ド・ゴール空港にその座を譲った。とはいえ現在も国際空港として機能しており、主にヨーロッパ近隣諸国のほかアフリカ・中近東方面の便が発着している。Orly-sud(南)とOrly-ouest(西)の2つの発着ターミナルがある。アメリカ人のチャールズ・リンドバーグが世界初の大西洋無着陸横断飛行を行ったときに着陸したのがこの空港である。現在は政府専用機、自家用および商用機の発着に使われているほか、初夏に行われるパリ航空祭の会場として知られている。
ボーヴェ空港
パリより北に約80キロのボーヴェ市近くにある空港。ライアンエアー等が使用している。
ヘリポート
15区南部のセーヌ川沿い、ペリフェリック(環状道路)の外側に位置する。ヘリポートはパリ市内の敷地である。パリ市内上空は飛行禁止区域のため、ヘリコプターはパリ市の境界すれすれを飛ぶことが多い。

鉄道

主要ターミナル駅

リヨン駅 (12)
リヨンマルセイユスイスイタリア方面
ベルシー駅 (12)
リヨン駅の近くにある駅。当駅から出た線路はリヨン駅からのものと合流するため方面は同じだが、イタリア方面への国際夜行列車およびカートレイン乗用車運搬用列車が発着。
北駅 (10)
ロンドンユーロスターブリュッセルケルンアムステルダムタリスTGVほか
東駅 (10)
ストラスブールドイツ方面。TGVICEほか
モンパルナス駅 (14, 15)
ブルターニュ地方、ボルドー方面TGVほか
サン・ラザール駅 (8)
西部、ノルマンディー方面
オステルリッツ駅 (13)
オルレアントゥール方面(TGV以外)のほか、フランス南部・スペインへ向う夜行列車のほとんどが発着。

市内にはメトロ地下鉄)とRER(高速地下鉄)がくまなく走っている。メトロは14号線まであり、運営はRATP(パリ市営交通)が行っている。2006年にパリ市最南端でトラム路面電車)が開通した。このほか郊外を結ぶトラムがある。

道路

ファイル:ParisRingRoads A104.svg
パリ周辺の高速道路網(黄色がペリフェリック)
ファイル:Rue du Faubourg St Honore dsc00792.jpg
フォブール・サントノレ通り
ファイル:Paris-bld-saint-germain.jpg
サンジェルマン通り

パリ市内では道路混雑を避けるため自動車交通の抑制が目指されており、バス・自転車専用レーンが多く設置され、一方通行路も多くルートが複雑であるため、不慣れであると運転が難しい。また主要交差点の多くは、ラウンドアバウト(ロータリー)方式となっている。地元民の多くは、狭い市内で駐車場所を確保するために前後間隔を密着させて道路脇に縦列駐車を行っており、路上駐車が非常に多い。

パリ市域の外縁を環状高速道路ペリフェリックが取り巻いており、その内側の市域には立体交差式の自動車専用道はあるものの、高速道路は存在しない。

主な一般道

シャンゼリゼ通り
凱旋門のあるエトワール広場とパリ中心部のコンコルド広場を結ぶ、パリで最も有名な目抜き通り。フランス一周自転車ロードレースツール・ド・フランス」はここが目的地となる。
フォブール・サントノレ通り
有名ブランドの洋服店が並ぶ。
リヴォリ通り
ルーヴル宮北側に沿って市内最中心部を横断する道路。
サンタントワーヌ通り
リヴォリ通りとバスティーユを結ぶ、パリ中心部を横断する道路の一つ。
フォブール・サンタントワーヌ通り
バスティーユとナシオン広場を結ぶ通り。
ヴァンセンヌ大通り
ナシオンからパリ最東端ヴァンセンヌ門までを結ぶ目抜き通り。目抜きと言ってもシャンゼリゼ通りのようには栄えておらず市の外れではあるが、決して寂れてはおらずパリの東の玄関の品格を保った通りである。週2回、パリ最大規模の朝市が開かれる。
オペラ通り
ガルニエ宮(オペラ座)からルーヴル宮に向かって伸びる通り。高級洋服店やホテルなどが立ち並ぶが、付近は日本人街でもある。
グラン・ブールヴァール
1860年のオスマン公によるパリ大改造で生まれたブールヴァールのうち、9-10区の北部沿いの一部の通りを指す。メトロ8番と9番が走っている。
サンジェルマン大通り
サンジェルマン・デ・プレからカルチエ・ラタンを通る、左岸の代表的な通り。
ムフタール通り
パリ5区にある道路であり、多くのレストランや市場などが立ち並んでいる。

主な車輛専用道

ヴォワ・エスプレス
河岸沿いの一部は、パリを横断する一方通行専用の高速バイパス道路となっている。なお、日曜日の昼間時には歩行者・自転車用に開放され、自動車の通行ができなくなる。
ブルヴァール・デ・マレショー
パリ市内最外周部を囲んで走る道路のうち、一般道をまとめてこう呼ぶ。ティエールの城壁の後に作られたブルヴァール。ペリフェリックより少し内側に位置する。
ペリフェリック
パリ市内最外周部を囲んでいる環状高速道路で、現在はこれがパリ市の境界となっている。(ブローニュの森ヴァンセンヌの森など一部の区間を除く。これらの区間は地下化されている)


スポーツ施設

日本人とパリ

パリ症候群

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姉妹都市・提携都市

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世界にあるパリ

ヨーロッパ的な美しい街並みに対し、「○○のパリ」と異名が付けられている。特に移民や植民地などでフランス色が強い都市に多い。

脚注

  1. マスターカードが2012年に公表した統計によると、パリはロンドンに次いで、世界で2番目に外国人旅行者が多く訪れる都市、とのことである。MasterCard Global Destination Cities Index 2012
出典

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関連項目

テンプレート:ウィキポータルリンク 上述までの既出のリンクを除く。

スポーツ

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施設
音楽教育機関

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テレビ局

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ラジオ局

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催事
出来事

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化学

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舞台とした作品

外部リンク

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公式
日本政府
観光

テンプレート:Navbox テンプレート:パリとその周辺 テンプレート:夏季オリンピック開催都市 テンプレート:フランス関連の主要項目 テンプレート:欧州連合加盟国の首都

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テンプレート:Link GA テンプレート:Link GA テンプレート:Link GA テンプレート:Link GA

  1. テンプレート:IPA-fr
  2. 2.0 2.1 2014 Global Cities Index and Emerging Cities Outlook(2014年4月公表)
  3. 「パリのみち」:パリ市街地調査余談東樋口護 鳥取環境大学教授・副学長)
  4. Demographia: World Urban Areas & Population Projections
  5. Paris Politiques> Statut et institutions de Paris> L’évolution du statut de Paris> Les récentes évolutions législatives
  6. Une histoire croisée de Paris et de ses banlieues.
  7. 「パリ市長の歴史をたどる」
  8. Budget 2011 de la ville et département de Paris
  9. Le budget primitif 2008 : état de la dette
  10. [2]Le tribunal de grande instance de Paris(consulté 2013-04-07)
  11. [3]La cour d'appel de Paris(consulté 2013-04-07)
  12. [4]La cour d'appel de Versailles(consulté 2013-04-07)
  13. La documentation Française - Criminalité et délinquance constatées en France - Tome I (Année 2006)
  14. La documentation Française - Criminalité et délinquance constatées en France - TomeⅡ(Année 2006)
  15. http://www.lefigaro.fr/assets/pdf/violences-sexuelles-2008.pdf
  16. http://www.lefigaro.fr/assets/pdf/violences-physiques-crapuleuses2008.pdf
  17. http://www.lefigaro.fr/assets/pdf/violences-physiques-non-crapuleuses2008.pdf
  18. http://www.lefigaro.fr/assets/pdf/menaces-violence-2008.pdf
  19. http://www.lefigaro.fr/actualite-france/2009/04/16/01016-20090416ARTFIG00601-la-nouvelle-carte-de-france-de-l-insecurite-.php
  20. Le plan vigipirate expliqué sur le site du Ministère de l'intérieur
  21. Document expliquant le plan vigipirate en Île-de-France
  22. [5]
  23. フォーチュン・グローバル500 2011年版テンプレート:En icon
  24. プライスウォーターハウスクーパースによる都市のGDP
  25. Xinhua-Dow Jones International Financial Centers Development Index(2013) 2013年9月15日閲覧。
  26. 26.0 26.1 26.2 26.3 角田奈歩『パリの服飾品小売とモード商―1760‐1830』
  27. APUR - observatoire des familles à Paris : Les familles parisiennes パリ市・パリ市の世帯の状況テンプレート:Fr icon
  28. INSEE - À Paris, les ménages les plus aisés voisins des plus modestes 国立統計経済研究所・パリにおける所得分布の高低テンプレート:Fr icon
  29. INSEE - Flux d'immigration permanente par motif en 2003. 国立統計経済研究所・出生地に基づくパリの移民統計テンプレート:Fr icon
  30. INSEE - Aire urbaine 99 : Paris - Migrations (caractère socio-économique selon le lieu de naissance). 国立統計経済研究所・2003年における移民の動向テンプレート:Fr icon
  31. Histoire de l'immigration en France. フランスの移民の歴史テンプレート:Fr icon
  32. Site de l'Institution nationale des Invalides, sur invalides.fr. Consulté le 16 mai 2013.
  33. Carte des hôpitaux, sur aphp.fr. Consulté le 17 mai 2013.
  34. Ordre national des médecins - Démographie médicale
  35. Bains-douches municipaux de la ville de Paris, article du 16 septembre 2013, sur paris.fr, consulté le 16 septembre 2013.