フランク王国
テンプレート:出典の明記 テンプレート:基礎情報 過去の国 フランク王国(フランクおうこく、テンプレート:Lang-fr、テンプレート:Lang-de)は、5世紀から9世紀にかけて西ヨーロッパを支配したゲルマン系の王国。最大版図はイベリア半島とイタリア半島南部を除く西ヨーロッパ大陸部のほぼ全域(今日のドイツ・フランス・イタリア・スイス・オランダ・ベルギー・ルクセンブルクに相当)に及び、この地域を統一支配した空前にして絶後の国家でもある。
ゲルマン系フランク人のサリー・フランク族が建てた王国であることからこの名がある。現在のフランス・イタリア北部・ドイツ西部・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・スイス・オーストリア及びスロベニアを領土とした。首都は508年にパリに置かれた。カール大帝時代はアーヘンに王宮が置かれてここが事実上の首都となった。
成立と発展
フランク王国の成立は、古代末期、旧ローマ帝国領にゲルマン系諸族が大量の移住を行ったことに起因する(ゲルマン民族の大移動)。特にフランク族のサリー支族はローマ帝国の同盟軍として、テンプレート:仮リンクなど他のゲルマン系部族やローマ系住民を吸収して共同の軍役の中で集団形成を行い、ローマ的要素とゲルマン的要素を併せ持つ文化を発展させた。幾つかの幸運が重なり、フランク族は3世紀の間、中部ヨーロッパで勢力を保ち続け、次第に現在のドイツとフランスに勢力を伸ばした。ローマ帝国の没落につれて、フランク王国は西ヨーロッパで最大の国力をもつこととなった。フランク王国の系譜は、シカンブリ人系のサリー・フランク人クロヴィス1世がフランク人を統一して王国を開いたメロヴィング朝と、それを継承したカロリング朝に分けられる。
メロヴィング朝時代
サリー支族から出たクローヴィス王は、フランク人を統一して覇権を得た。その上でランス司教のレミギウスの洗礼によりカトリックを受容した。このことは、旧ローマ帝国領で既にカトリックを受容していた在地勢力からの支持を得る上でも有益だった。その後もゲルマン諸勢力に対して遠征を敢行し、507年にはテンプレート:仮リンクで西ゴート王国からガリア南部(ガリア・アクィタニア)を奪い、ガリア支配を確立させた。
フランク王国では分割相続がとられた。そのため、クローヴィスの死後に王国はテウデリヒ1世(ランス)、クロドメール(オルレアン)、キルデベルト1世(パリ)、クロタール1世(ソワソン)の4人によって分割された。これらの分王国(アウストラシア分王国、ネウストリア分王国、ブルグント分王国、アキテーヌ分王国)は、6世紀半ばのクロタール1世や、7世紀初頭のクロタール2世によって再統一されることもあったが、多くの分国王は領内の指導力を欠いており、有力貴族が宮宰(王宮の長官)の地位について貴族を統率していた。とりわけ、アウストラシア分王国ではカロリング家が宮宰の地位を世襲化しており、7世紀後半の宮宰ピピン2世(中ピピン)は全ての分王国における宮宰職を独占するに至った。こうして台頭したカロリング家は、各地の実力者にその所領や特権を保障し、その代償として自らの家臣団に組み込んで軍事的奉仕を求めることで、その地位を強化していった。
カロリング朝時代
こうして、既にカロリング家はフランク王国における事実上の支配者となっていたが、当時においてはメロヴィング家の血統が権威化されていたため、王位にはメロヴィング家がふさわしいとする考えが有力だった。そのため、カロリング家はローマ教皇との接近を強め、カトリックの権威を通じて自らの国王即位を正統化しようとした。当時はローマ教皇もビザンツ皇帝との対立を深めていた時期で、新たな政治的保護者を求めていた。こうして両者の思惑も一致し、751年にローマ教皇の支持下でピピン3世(小ピピン)がフランク国王となった。これによってカロリング朝が創始された。756年にはピピンが北イタリアのランゴバルド王国に遠征し、征服したラヴェンナ地方をローマ教皇に献上することでその連携を深めた。
ピピンの息子で後継者となったカール大帝(シャルルマーニュ)とその弟カールマンはフランク族の習慣に従って国土を分割した形で統治を開始したが、カールマンは771年に早世したためカールは単独の国王として長く君臨した。そして精力的に各地に遠征、ランゴバルド王国を滅ぼし、ザクセン人の強硬な抵抗を屈服させ、キリスト教を受容させて、彼の治世にフランク王国は最も隆盛を誇り、その版図は最大に達した。このような功績によってカール大帝は「ヨーロッパの父」「最初のヨーロッパ人」と呼ばれた。 テンプレート:フランスの歴史
カール大帝の戴冠
800年のクリスマスに、カール大帝はローマ教皇レオ3世より西ローマ帝国皇帝(フランク・ローマ皇帝)に戴冠された。これはカールの王国が理念的にも東ローマ帝国(ビザンツ帝国)から自立し、独自性を得たことを意味する象徴的事件だった。
分割と衰退
カール大帝はフランク人の伝統に即し、3人の嫡男が王国を分割統治するよう遺言した。しかし814年にカールが72歳で死去した時、生存していた息子は敬虔王ルートヴィヒ(ルイ1世)だけだったため、カールの王国は彼にそのまま継承された。ルートヴィヒもまた817年に3人の息子たちが王国を分割相続する法律を制定した。だが、823年に末子カール(四男、後のシャルル2世)が誕生するとルートヴィヒ1世は彼にも領土を与えようと画策、他の3人の息子からの反発を招いて一時廃位され、混乱を招いた。
ルートヴィヒが840年に死亡した後、生存していた3人の息子のうち長子ロタール1世が権力を掌握して皇帝となったものの、ふたりの弟ルートヴィヒとカールは兄に反旗を翻して、841年のフォントノワの戦いで軍事的勝利を得た。その結果2年後の843年、ヴェルダン条約が結ばれ、フランク王国は東・中・西の3王国に分割された。ほんの一時期、カール3世(肥満王)が統一したこともあるが、彼は度重なる外敵の侵入に対処できず、廃位され、この統一国家はごく短期間で崩壊した。これは実質的なフランク王国の終焉を意味した。
西フランク王国は、フランス王国(987年-1791年)などを経て現在のフランスにつながる。東フランク王国は、後の神聖ローマ帝国(962年-1806年)を経てドイツへとつながっていく。一方、ロタールが得た中フランク王国は、オランダからライン川流域を経てイタリアに至る細長い地域で、帝国のふたつの首都(ローマとエクス・ラ・シャペル)を含んでいたものの、地域的な一貫性に乏しく、統治は困難を極め、まもなく北部の領土(「ロタールの王国」と言う意味でロタリンギアと呼ばれ、ロートリンゲン(独)、ロレーヌ(仏)の語源となった)は東西フランク王国によって分割吸収された(870年のメルセン条約)。中フランク王国は後にイタリアに集約され、神聖ローマ帝国時代には、皇帝にイタリア王位として兼任されるようになった。
西フランク王国は987年、中フランク王国は950年頃、東フランク王国は911年にカロリング朝の国王が途絶えた。それぞれの断絶の直接の理由は王位を継承し得るカロリング家系の消滅だが、傍系の王族は残っており、諸侯の台頭と相対的に低下した王権の衰退が考えられている。