西ゴート王国

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テンプレート:参照方法 テンプレート:基礎情報 過去の国 西ゴート王国(にしゴートおうこく、ラテン語Regnum Visigothorum415年 - 711年)は、現在のフランス南部からイベリア半島にあたる地域を支配したゲルマン系王国。はじめはキリスト教アリウス派、のちにカトリックを国教とし、ゲルマン文化・ローマ文化・キリスト教文化を融合させ栄えた。

ガリア統治時代

ダキアを経てローマ領内に移動した西ゴート族は、5世紀初頭の指導者アラリック1世のもとイタリア半島に侵入した。すでに首都ではなくなっていたローマを一時的に包囲するが、西ローマ皇帝の説得に応じガリアへと撤退した。このとき、すでにローマ帝国の支配権が及ばなくなっていたガリアヒスパニアの防衛を条件に、領有を認められたとされている。415年にワリア王は南ガリアのトロサ(トゥールーズ)を首都と定め西ゴート王国が建国された。また、イベリア半島を征服していたヴァンダル族スエビ族らを討ち、褒賞として418年にホノリウス帝から正式に属州アクイタニアアキテーヌ)を与えられた。

西ローマ帝国とは基本的に友好な姿勢を保っていたが、敵対した時期もある。西ローマ帝国滅亡後にイタリア半島を占領し東ゴート王国を建国する東ゴート族とは連絡を保っていたが共同して行動することはなかった。451年にはパリ西方のカタラウヌムでフン族を撃退した(カタラウヌムの戦い)。

476年に西ローマ帝国が滅びると、エウリック王は混乱に乗じてフランスの中部からイベリア半島の南部まで勢力圏を広げた。このころからヴァンダル族は西ゴート王国に朝貢し、アフリカに退去したためイベリア半島への入植が進んだ。フランス北部では興ったばかりのフランク王国と争った。

イベリア半島時代

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700年頃の西ゴート王国の領域

507年クローヴィス率いるフランク族に敗れ、王国の重心をイベリア半島に移した西ゴート王国は、531年にも再び敗れガリアの領地のほとんどを失った。560年に首都をピレネー山脈の北のトロサからトレドへと移した。589年、レカレド1世は、第三回トレド教会会議にてアリウス派からカトリックに改宗し、アリウス派の反乱を鎮圧、王権と教会の提携を強める。トレドでは宗教会議が頻繁に開かれ、6世紀中頃からは神権政治の色彩を帯びるようになる。 フランク王国、イベリア半島の先の征服王朝であるスエボス王国、東ローマ帝国としばしば争った。621年にはスウィンティラ王のもとイベリア半島のほぼ全土を支配するに至った。

711年にイスラーム王朝のウマイヤ朝がイベリア半島に上陸、最後の王であるロデリックが戦死して滅亡した(テンプレート:仮リンク)。(一部の残党は引き続き抵抗を続けたが、一般的にはこの年を滅亡年とする。)

政治・文化

西ゴート族はローマとの交流を早くに持ったため、ローマ化するのも早かった。イベリア半島に定住してからはゲルマン慣習法とローマ法(のちにはキリスト教の要素も加味された)に基づく法令がたびたび発され、征服地であるイベリア半島の住民とゴート族の融合がはかられた。これはゴート族が学問を重んじ、ギリシャ・ローマ文化の維持に努めたためだと考えられる。 589年のレカレド1世によるカトリック改宗も先住ラテン人たちとの対立解消に役立ったが、同時にアリウス派を信じる人々との溝が深まり内戦の原因となった。レカレド1世は同時にローマ貴族であるフラウィウス氏を名乗るが、これも民族融和策の一つと考えられている。 王国の初期にはユダヤ人に対しても寛容であったが、宗教の政治への介入が強まるにつれて非寛容へと転じていった。 指導者は世襲と合議・選挙による選出という古ゲルマンの慣習に従ったものだったため王の暗殺、廃位や内戦がたびたび起こった。イベリア半島へ移り住んでから滅亡までの200年間に26人の王が立ち、平均在位は8年足らずであったことからも王権の弱さがわかる。

654年にリベル法典が発布され、同時に属人法の廃止、すなわち人種によって法令の使い分けがなされなくなった。つまりこの時期の頃にはすでにゴート人と先住人の文化的な差異はなくなっていたと見られる。このとき異人種間の結婚が公に認められ、人種的にも同化が進んでいったと考えられている。

イスラム勢力の侵入で滅亡したあと、西ゴート王国の王族とキリスト教徒の一部はイベリア半島北部の山岳地帯に逃げ込みアストゥリアス王国を建国、後のカスティーリャ王国レオン王国のもととなった。西ゴート王国時代の建造物などはほとんど残されていないが、多くの国民は宗教的に寛容なイスラム支配を受け入れ、後のスペイン文化の基礎を作っていった。

年表

歴代君主

  1. アラリック1世395年410年
  2. アタウルフ(410年 - 415年
  3. シゲリック(415年)
  4. ワリア(415年 - 419年
  5. テオドリック1世(419年 - 451年
  6. トリスムンド(451年 - 453年
  7. テオドリック2世(453年 - 466年
  8. エウリック(466年 - 484年
  9. アラリック2世(484年 - 507年
  10. ゲサリック(507年 - 511年
  11. アマラリック(511年 - 531年
  12. テウディス(531年 - 548年
  13. テウディギセル(548年 - 549年
  14. アギラ1世(549年 - 554年
  15. アタナギルド(554年 - 567年
  16. リウヴァ1世568年573年
  17. レオヴィギルド(568年 - 586年
  18. レカレド1世(586年 - 601年
  19. リウヴァ2世(601年 - 603年
  20. ウィテリック(603年 - 610年
  21. グンデマル(610年 - 612年
  22. シセブト(612年 - 621年
  23. レカレド2世(621年)
  24. スウィンティラ(621年 - 631年
  25. シセナンド(631年 - 636年
  26. キンティラ(636年 - 640年
  27. トゥルガ(640年 - 641年
  28. キンダスウィント(641年 - 649年
  29. レケスウィント(649年 - 672年
  30. ワムバ(672年 - 680年
  31. エルウィグ(680年 - 687年
  32. エルギカ(687年 - 701年
  33. ウィティザ(701年 - 710年
  34. ロデリック(710年 - 711年
  35. アギラ2世(711年 - 714年
  36. アルド(714年 - 718年

脚注


参考文献

  • 鈴木 康久『西ゴート王国の遺産―近代スペイン成立への歴史』中央公論社
  • 玉置 さよ子『西ゴート王国の君主と法』創研出版

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