イベリア半島

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イベリア半島の衛星写真

イベリア半島スペイン語ポルトガル語ガリシア語:Península Ibérica、カタルーニャ語:Península Ibèrica、バスク語:Iberiar penintsula)は、ヨーロッパの南西に位置する半島である。

イベリアの名は、古代ギリシア人が半島先住民をイベレスと呼んだことに由来する。しかし、もともとは漠然とピレネー山脈の南側に広がる地域を指した言葉である。一方、イベリア半島を属州としたローマ人たちは、この地をヒスパニアと呼称したが、このラテン語に由来して現在の「スペイン」(英語名)は「イスパニア」とも「エスパーニャ」とも呼ばれるようになった。

概要

面積は約59万平方km、形状は東西約1100km、南北約1000kmのほぼ方形をなす。北緯44度と北緯36度、西経9度と東経3度の間に広がっている。半島の付け根にあたる北東部は、幅約30キロにわたりピレネー山脈[1]によってフランスと画されている。一方、南西端は最も狭いところが約14キロのジブラルタル海峡を挟んでアフリカ大陸と向かい合っている。半島の周囲8分の7にあたる4000キロを上回る海岸線は、地中海と大西洋に大きく開かれている。

存在する国家

歴史

旧石器時代

イベリア半島に人類が居住していた形跡は約50~40万年前に溯る。これら最古の住人は原人類で、火を使い、石斧石刃をはじめとする石器をつくり、洞窟に住んでいた。

1848年、半島南端のジブラルタル付近で化石人類の人骨が発見された。その後も数カ所で発見された化石人骨は、いずれもネアンデルタール人に属する。約20万年前頃には活動しており、氷河期最後のビュルム氷河期までその活動は続いた。現生人類のホモ・サピエンスの活動は、このビュルム氷河期に始まった。クロマニョン人がピレネー山脈を越えてフランス方面からやって来たと見られている。彼らが残した文化は、マドレーヌ文化と呼ばれる。日常の道具は、狩猟漁労の石刃・鑿・鏃・弓矢・石の銛・石槍などと釣り針などの骨角器が発明された。洞窟に住み、壁面や岩に牛や山羊などの動物を描いた。これらの遺跡はピレネー山脈を間に挟んで、南フランス・ドルドーニュ地方と、北スペイン・カンタブリア地方に分布する。これらは紀元前2万5000年から紀元前1万年までの間に描かれたと見られている。このうち代表的なものはアルタミラ洞窟で、約1万5000年前ごろのもので、1879年に発見された。壁画を描いた目的は、狩りの成果を祈る呪術的なものであったとされている。

新石器時代

約1万年前に氷河時代が終わり、気候は温暖化した。地質年代では、完新世に入った。この頃のイベリア半島では、人類の活動は低調であった。アジル文化[2]、アストゥリアス文化[3]、洞窟壁画などの遺跡が残っている。ちょうどその時期には、地中海東端メソポタミア農耕は始まっており、紀元前5000年紀か前4000年紀にイベリア半島を伝播した。当時の農耕は素朴なものであったが、まもなく大規模な農耕文化が伝わり、イベリア半島は新石器時代に入っていった。この時期の文化は半島の東南部の地中海沿岸地方に多く見られる。とりわけ半島南部のアルメリアが農耕文化受容の拠点の一つと考えられている。代表的な遺物に籠目(かごめ)模様の土器[4]ドルメン(支石墓)[5]がある。

青銅器時代

新石器時代と明確な区分はないが、紀元前2500年頃に青銅器時代に入る。はじめに銅器が、次いで青銅器が用いられるようになった。これらの金属器は、地中海を渡って伝播してきたが、鉱山資源が豊富な半島なのでそのうちに自作するようになった。農耕文化受容の拠点であったアルメリアでは、早くから銅器が用いられ、紀元前2000年頃に最盛期を迎えた。アルメリア文化と呼ぶ。集団埋葬の墳墓から推定して、氏族社会であったと考えられている。紀元前1500年頃には青銅器の使用が始まり、紀元前100年頃まで繁栄した。代表的な遺跡名からエル・アルガール文化青銅器文化)と呼ぶ。この頃から籠や壺形の甕棺を用い、個人別に家屋の地下に埋葬された。この文化は半島全域に広がり、錫を産出する西部のガリシア地方と並んで二大中心地と成り、東部地中海地方や南部都市との交易も盛んになった。さらに大西洋を越えたブルターニュやアイルランドなどとの交易も盛んに行われた。紀元前1000年頃を境に、半島の青銅器文化は沈滞していった。しかし、青銅器時代に培った地中海文化圏やヨーロッパ先史文化圏との強い結びつきが、これ以後も引き続き諸民族と交流していく。

ローマ帝国による統治

古くはローマ帝国の支配にまで遡る。

イスラムによる統治

ローマ帝国滅亡後はゲルマン系の西ゴート王国の支配下に置かれるが711年ウマイヤ朝ターリク・イブン=ズィヤードにより西ゴート王国は滅亡、イスラム史上最初の世襲イスラム王朝であるウマイヤ朝が代わって支配することになる。ウマイヤ朝が滅亡するとその子孫がイベリア半島へ逃亡、後ウマイヤ朝を建てる。

レコンキスタから現代まで

イベリア半島北部においては、アラゴン王国レオン王国カスティーリャ王国ポルトガル王国などのキリスト教国が建国され、レコンキスタを推し進めていった。一方、南部においては、1031年に後ウマイヤ朝が自滅し、多数のイスラム系小王国(タイファ)が割拠する状態となった。後に、アフリカ大陸のイスラム王朝であるムラービト朝、その後ムワッヒド朝の支配下に置かれた。

次第に力をつけていったキリスト教国は、イスラム王朝を南へ南へと圧迫し、その支配領域を広げていく。1479年にはアラゴンフェルナンド2世カスティーリャ女王イサベル1世の結婚によりスペイン王国が成立、レコンキスタに拍車がかかり、1492年にはイベリア半島最後のイスラム王朝であるナスル朝が滅ぼされ、イベリア半島からイスラム王朝は完全に駆逐された。

以降はスペイン王国とポルトガル王国がイベリア半島を支配することになった。

脚注

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参考文献

  • 立石博高編『新版世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』山川出版社 2000年 ISBN 4-634-41460-0

関連項目

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  • 中央部には約3000メートル級の峰々が続く
  • 北部のピレネー山中で絵を描いた石を特徴とする文化。
  • カンタブリアから大西洋岸に貝塚を残した文化
  • アルメリア近辺、セビーリャからコルドバ付近、東部地中海沿岸から出土。西はポルトガルのテージョ(タホ)川周辺、北はバスク地方にまで分布。
  • この巨石文化は、今もなお謎に包まれている。一般に、太陽崇拝や死者崇拝などの宗教的な遺物であると考えられている。半島では、南部のアンダルシーア、北部のガリシア、ピレネー地方、南部のポルトガルに広がる。