ポルトガル
- ポルトガル共和国
- República Portuguesa
República Pertual -
ポルトガルの国旗 ポルトガルの国章 (国旗) (国章) - 国の標語:なし
- 国歌:ポルトガルの歌
- ポルトガルの位置
公用語 ポルトガル語、ミランダ語 首都 リスボン 最大の都市 リスボン - 政府
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大統領 アニーバル・カヴァコ・シルヴァ 首相 ペドロ・パッソス・コエーリョ - 面積
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総計 91,985km2(109位) 水面積率 0.5% - 人口
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総計(2009年) 約10,640,000人(75位) 人口密度 114人/km2 - GDP(自国通貨表示)
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合計(2008年) 1,661億[1]ユーロ (€) - GDP(MER)
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合計(2008年) 2,444億[1]ドル(33位) - GDP(PPP)
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合計(2008年) 2,359億[1]ドル(40位) 1人あたり 22,189[1]ドル - 独立
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レオン王国より独立 1128年 ポルトガル王国成立 1139年 レオン王国国王が承認 1143年 ローマ教皇が承認 1179年
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通貨 ユーロ (€)(EUR)[2][3] 時間帯 UTC ±0(DST:+1)[4] ISO 3166-1 PT / PRT ccTLD .pt 国際電話番号 351 </dd>
ポルトガルはユーラシア大陸最西端の国家であり、かつてはヨーロッパ主導の大航海時代の先駆者ともなった。そのためヨーロッパで最初に海路で中国や日本など東アジアとの接触を持った国家でもある。
目次
国名
正式名称はポルトガル語で、República Portuguesa(レプーブリカ・ポルトゥゲザ)。国名の由来は、ポルトの古い呼び名であるポルトゥス・カレの訛りに由来するとされている。
公式の英語表記は、Portuguese Republic (ポーチュギーズ リパブリク)。通称、Portugal (ポーチュゴル)。日本語の表記は、ポルトガル共和国。通称ポルトガル。漢字では葡萄牙と表記され、 葡と略される。
歴史
先史時代とローマ化
現在から35,000年前にはクロマニョン人がピレネー山脈を越えてイベリア半島に進出し始め、ポルトガルにもテンプレート:仮リンク(ドウロ川支流)沿いに動物壁画が残されている。紀元前3000年頃に新石器時代に突入すると、この地でも農業が始まった。紀元前1000年頃にイベリア半島に到達したフェニキア人によって青銅器文明がもたらされ、ギリシャ人もこの地を訪れた。当時この地にはイベリア人が定住していたが、紀元前900年頃から断続的にケルト人が侵入を続けた。
紀元前201年に第二次ポエニ戦争に勝利したローマ共和国は、それまでイベリア半島に進出していたカルタゴに代わって半島への進出を始めた。先住民のテンプレート:仮リンクはテンプレート:仮リンクの指導の下でローマ人に抵抗したが、紀元前133年にはほぼローマによるイベリア半島の平定が完了し、現在のポルトガルに相当する地域は属州ルシタニアとテンプレート:仮リンクに再編された。これ以降、「ローマの平和」の下でイベリア半島のラテン化が進んだ。
ゲルマン諸王国とイスラームの侵入
ローマ帝国が衰退すると、イベリア半島にもゲルマン人が侵入を始めた。411年にガラエキアに侵入したスエヴィ人はスエヴィ王国を建国し、西ゴート人の西ゴート王国がこれに続いた。西ゴート王国は585年にスエヴィ王国を滅ぼし、624年に東ローマ領を占領、キリスト教の下でイベリア半島を統一したが、内紛の末に711年にウマイヤ朝のイスラーム遠征軍によって国王ロデリックが戦死し、西ゴート王国は滅亡してイベリア半島はイスラーム支配下のアル=アンダルスに再編された。アンダルスには後ウマイヤ朝が建国され、西方イスラーム文化の中心として栄えた。
キリスト教勢力のペラーヨがアストゥリアス王国を建国し、722年のテンプレート:仮リンクの勝利によってイベリア半島でレコンキスタが始まった後、868年にアストゥリアス王国のアルフォンソ3世はガリシア方面からテンプレート:仮リンクを解放し、テンプレート:仮リンクを最初の伯爵としたポルトゥカーレ伯領が編成された。1096年にこのポルトゥカーレ伯領とテンプレート:仮リンクが、アルフォンソ6世からポルトゥカーレ伯領を受領したブルゴーニュ出身の騎士エンリケ・デ・ボルゴーニャの下で統合したことにより、現在のポルトガルに連続する国家の原型が生まれた。
ポルトガル王国の盛衰
ポルトゥカーレ伯のアフォンソ・エンリケスは、1139年にオーリッケの戦いでムラービト朝を破ったことをきっかけに自らポルトガル王アフォンソ1世を名乗り、カスティーリャ王国との戦いの後、ローマ教皇の裁定によってテンプレート:仮リンクが結ばれ、1143年にカスティーリャ王国の宗主下でポルトガル王国が成立した。
ポルトガルにおけるレコンキスタはスペインよりも早期に完了した。1149年には十字軍の助けを得てリスボンを解放し、1249年には最後のムスリム拠点となっていたシルヴェスとファロが解放された。レコンキスタの完了後、首都が1255年にコインブラからリスボンに遷都された。1290年にはポルトガル最古の大学であるコインブラ大学が設立された。また、1297年にはカスティーリャ王国との国境を定めるためにテンプレート:仮リンクが結ばれ、この時に定められた両国の境界線は現在までヨーロッパ最古の国境線となっている。また、この時期にポルトガル語が文章語となった。
ディニス1世の下で最盛期を迎えたボルゴーニャ朝は14世紀半ばから黒死病の影響もあって衰退し、百年戦争と連動したカスティーリャとの戦争が続く中、1383年に発生した民衆蜂起をきっかけに親カスティーリャ派と反カスティーリャ派の対立が激化し、最終的にイングランドと結んだ反カスティーリャ派の勝利によって、コルテス(イベリア半島の身分制議会)の承認のもとで1385年にアヴィス朝が成立し、ポルトガルはカスティーリャ(スペイン)から独立した。
ヨーロッパで最も早くに絶対主義を確立したアヴィス朝は海外進出を積極的に進め、1415年にポルトガルはモロッコ北端の要衝セウタを攻略した。この事件は大航海時代の始まりのきっかけとなり、以後、エンリケ航海王子(1394年-1460年)を中心として海外進出が本格化した。ポルトガルの探検家はモロッコや西アフリカの沿岸部を攻略しながらアフリカ大陸を西回りに南下し、1482年にはコンゴ王国に到達、1488年にはバルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸南端の喜望峰を回り込んだ。
1492年にテンプレート:仮リンクに勝利してレコンキスタが終結したスペインが、 1494年にポルトガルとトルデシリャス条約を結び、ヨーロッパ以外の世界の分割を協定した。条約に基づいてポルトガルの探検家の東進は更に進み、1498年にヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達した。また、1500年にインドを目指したペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルを「発見」し、ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化が進んだ。以後ブラジルは1516年にマデイラ諸島からサトウキビが持ち込まれたこともあり、黒人奴隷貿易によってアフリカから多くの人々がブラジルに連行され、奴隷制砂糖プランテーション農業を主産業とする植民地となった。ブラジルはポルトガルに富をもたらすと同時にブラジルそのものの従属と低開発が決定づけられ、ポルトガルにもたらされた富はイギリスやオランダなどヨーロッパの先進国に流出し、イスパノアメリカの金銀と共に資本の本源的蓄積過程の原初を担った[1]。一方、1509年のテンプレート:仮リンクで勝利し、インド洋の制海権を確保してマラッカ、ホルムズと更に東進したポルトガル人は、1541年~1543年には日本へもやってきた[2]。ポルトガル人の到達をきっかけに日本では南蛮貿易が始まり、織田信長などの有力大名の保護もあって南蛮文化が栄えた。さらに、1557年には明からマカオの居留権を得た。
こうしてポルトガルは全世界に広大な植民地を獲得したが、国力の限界を越えた拡張とインド洋の香料貿易の衰退によって16世紀後半から徐々に衰退を始め、さらにモロッコの内紛に乗じて当地の征服を目指したセバスティアン1世が1578年にアルカセル・キビールの戦いで戦死したことにより、決定的な危機を迎えた。アルカセル・キビールの戦いの余波は、最終的に1580年のアヴィス朝断絶による、ポルトガルのスペイン・ハプスブルク朝併合に帰結した(スペイン帝国)。
スペイン併合後もポルトガルは形式上同君連合として、それまでの王国機構が存置されたため当初は不満も少なかったが、次第に抑圧に転じたスペインへの反感が強まり、1640年のカタルーニャの反乱(収穫人戦争)をきっかけとした[3]ポルトガル王政復古戦争によりスペインから独立し、ブラガンサ朝が成立した。一方この時期に植民地では、スペイン併合中の1624年にネーデルラント連邦共和国のオランダ西インド会社がブラジルに侵入し、サルヴァドール・ダ・バイーアを占領した。テンプレート:仮リンクにオランダがテンプレート:仮リンクを成立(テンプレート:仮リンク)させたことにより、ブラガンサ朝の独立後の1646年に、これを危機と感じた王家の図らいによってブラジルが公国に昇格し、以降ポルトガル王太子はブラジル公を名乗るようになった。1654年にオランダ人はブラジルから撤退し、1661年のテンプレート:仮リンクで、賠償金と引き換えにブラジルとテンプレート:仮リンク(現アンゴラ)の領有権を認められた。アフリカでは、アンゴラの支配を強化したポルトガルは1665年にコンゴ王国を事実上滅ぼした。また、この時期にモザンビークの支配も強化されたが、18世紀までにそれ以外の東アフリカ地域からはオマーン=ザンジバルによって駆逐された。南アメリカではトルデシリャス条約で定められた範囲を越えてバンダ・オリエンタル(現在のウルグアイ)にコロニア・ド・サクラメントを建設し、以降南アメリカでスペインとの戦争が続いた。1696年にはブラジルでパルマーレスのズンビを破り、ブラジル最大の逃亡奴隷国家テンプレート:仮リンクを滅ぼしたことにより支配を安定させ、1750年にはスペイン帝国とテンプレート:仮リンクを結び、バンダ・オリエンタルと引き換えに、アマゾン川流域の広大な領有権を認められ、現在のブラジルに繋がる国境線の前進を果たした。
広大な植民地を獲得したブラガンサ朝は、17世紀から18世紀にかけて植民地、特にブラジル経営を進めることによって繁栄を保とうとし、ヨーロッパの戦乱には中立を保ったが、産業基盤が脆弱だったポルトガルは1703年にイギリスと締結したメシュエン条約によって、同国との間に経済的な従属関係が成立した。1696年にテンプレート:仮リンクのミナスで金が発見され、ゴールドラッシュが発生したため、ポルトガルには多量の金が流入したが、そうして流入した金の多くはイギリスに流出し、国内では奢侈や建築に使用され、産業を産み出さないまま貴族と聖職者が権勢を奮う絶対主義が続き、ピレネー山脈の北部との社会、経済的な隔絶は大きなものとなった。
1755年のリスボン大地震の後、ジョゼ1世の下で権力を握ったセバスティアン・デ・カルヴァーリョ(後のポンバル侯爵)はポルトガルにおける啓蒙専制君主の役割を果たし、工業化や王権の拡大、植民地経営の徹底、イエズス会の追放などを行ったが、ジョゼ1世の死後には権力を失った。1777年に即位したマリア1世の時代にもポンバル侯が進めた政策は続いたものの、1789年のフランス革命によってフランス革命戦争/ナポレオン戦争が勃発すると、国内が親英派と親仏派の対立で揺れる中で、1807年11月にジュノー将軍がリスボンに侵攻し、王室はブラジルに逃れた。ポルトガル本国は半島戦争(スペイン独立戦争)に突入し、介入したイギリス軍の占領を蒙る一方で、以後1808年から1821年まで南米のリオデジャネイロがポルトガルの正式な首都となり、1815年にはブラジルが王国に昇格し、ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国が成立した。フランスは1811年にポルトガルから撤退したが、王室はブラジルから帰還する気配を見せなかった。
近代のポルトガル
ナポレオン戦争終結後も王室は遷都先のブラジルに留まり続け、ポルトガル本土ではイギリス軍による軍政が続いたが、イギリス軍への不満を背景にした民衆蜂起により1820年にポルトで自由主義革命が勃発し、10月にイギリス軍は放逐された。翌1821年に招集されたコルテスでは憲法が制定され、ジョアン6世がポルトガルに復帰し、立憲君主制に移行した。ブラジルでも革命を受けてジョアン6世が帰国すると、ブラジル人の国民主義者達による独立運動が盛んとなり、テンプレート:仮リンクの末に1822年にジョゼー・ボニファシオらを中心とするブラジル人ブルジョワジー達がポルトガル王太子ドン・ペドロを皇帝ペドロ1世に擁立し、ブラジル帝国が独立した。ブラジルの独立によってポルトガルは最大の植民地を喪失した。戦乱でそれまでの産業基盤が崩壊していたポルトガルにとって、それまで多大な富をもたらしていたブラジル喪失の影響は非常に大きなものとなった。
ブラジルの独立後、国内の自由主義者と保守主義者の対立を背景に、ブラガンサ王家の王位継承問題がきっかけとなって1832年から1834年までポルトガル内戦が続いた。内戦は自由主義者の勝利に終わり、自由主義側の代表となった元ブラジル皇帝ペドロ1世がポルトガル王ペドロ4世に即位することで幕を閉じた。その後、自由主義者と保守主義者の主導権争いが続いた後、1842年にブラジル帝国憲法をモデルにした君主権限の強い憲章体制が確立され、農村における大土地所有制と零細農民の併存という土地所有制度が維持された。憲章体制の下でテンプレート:仮リンクと呼ばれる二大政党制が確立され、鉄道の普及が進んだことによる国内市場の統一も進んだが、ポルトガルにおける議会制民主主義はテンプレート:仮リンク(テンプレート:Lang-pt-short)と呼ばれる農村部のボス支配がその実態であり、権力を握ったブルジョワジー主導の大土地所有制度の拡大が進んだ。さらに大土地所有制の強化による余剰労働力の受け皿となるべき工業化が進まなかったこともあって、19世紀後半から20世紀後半まで多くのポルトガル人がブラジルやポルトガル領アフリカ、西ヨーロッパ先進国に移住することとなった。
また、19世紀になっても工業化が進まず、農業に於いても徐々に国内市場が外国の農産物に席巻されるようになったため、ポルトガルのブルジョワジーは新たな市場を求めてアフリカに目を向けた。それまでにもブラジル喪失の直後からアフリカへの進出は進められていたが、19世紀末のアフリカ分割の文脈の中でポルトガルのアフリカ政策も活発化した。列強によるアフリカ分割が協議されたベルリン会議後の1886年には、大西洋のポルトガル領アンゴラとインド洋のポルトガル領モザンビークを結ぶ「テンプレート:仮リンク」構想が打ち出されたが、1890年にアフリカ縦断政策を掲げていたイギリスと、アンゴラ=モザンビーク間に存在した現在のザンビア、マラウイ、ジンバブエに相当する地域を巡って対立したポルトガル政府がイギリスの圧力に屈する形でこれらの地域を失うと、アフリカにおけるポルトガル領の拡張は頓挫した[4]。この事件がきっかけとなって共和主義者による王政への批判が進み、王党派は共和主義者による攻撃を受けることになった。その他にも1887年にマカオの統治権を清より獲得している。
共和制の成立とエスタド・ノヴォ体制
1910年10月3日に共和主義者が反乱を起こすと、反乱は共和主義に共鳴する民衆蜂起となり、国王マヌエル2世が早期に亡命したこともあって1910年10月5日革命が成功し、ブラガンサ朝は倒れ、ポルトガルは共和政に移行した。翌1911年には急進的な1911年憲法が制定され、反乱を扇動した王党派を排除して共和国政府は支持基盤を固めた。1914年に第一次世界大戦が勃発すると、アフリカのドイツ植民地と国際社会の共和制への支持を求めた政府は1916年にドイツ帝国に宣戦布告した。しかし、参戦が食糧危機などの社会不安をもたらすと、戦時中の1917年にシドニオ・パイスがクーデターで政権を獲得するなど政治不安が顕在化し、現状の植民地保持が認められた以外にポルトガルにとって利益なく第一次世界大戦が終結した後も政治不安は続いた。
幾度かのクーデターと内閣崩壊を繰り返した後、1926年5月28日クーデターにより、マヌエル・ゴメス・ダ・コスタ将軍、ジョゼ・メンデス・カベサダス将軍を首班とする軍事政権が成立し、第一共和政の崩壊とともに革命以来の政治不安には終止符が打たれた。軍事政権のオスカル・カルモナ大統領の下で財務相アントニオ・サラザールが混乱していたポルトガル経済の再建に成功し、世界恐慌をも乗り切ると、サラザールは徐々に支持基盤を広げ、1932年には首相に就任した。翌1933年にサラザールは新憲法を制定し、独裁を開始。エスタド・ノヴォ(新国家)体制が確立された。 [5]
対外的にはナチス党政権下のドイツやファシスト党政権下のイタリアに近づき、スペイン内戦ではフランシスコ・フランコを支持したサラザールだったが、対内的にはファシズムよりもコーポラティズムを重視し、第二次世界大戦も親連合国的な中立政策で乗り切ったため、戦後もエスタド・ノヴォ体制は維持されることになった。
第二次世界大戦後、反共政策を維持したサラザールはポルトガルの北大西洋条約機構や国際連合への加盟に成功し、こうした西側諸国との友好政策もあって1950年代は経済が安定する。一方、サラザールの独裁体制に対する野党勢力の反対は、1958年の大統領選挙に立候補した反サラザール派のテンプレート:仮リンク将軍が敗れたことが合法的なものとしては最後となり、1961年のテンプレート:仮リンク退役大尉が指導するテンプレート:仮リンクによるサンタマリア号乗っ取り事件が失敗したことにより、非合法な闘争も失敗に終わった。国内では学生や労働者による反サラザール運動が激化したが、サラザールはこれらの運動を徹底的に弾圧した。
一方、植民地政策では、第二次世界大戦後に世界が脱植民地化時代に突入していたこともあり、1951年にサラザールはポルトガルの植民地を「海外州」と呼び替え、ポルトガルに「植民地」が存在しないことを理由に形式的な同化主義に基づく実質的な植民地政策を続けたが、占領されていた人々に芽生えたナショナリズムはもはや実質を伴わない同化政策で埋められるものではなかった。1961年2月4日に国際共産主義運動系列のアンゴラ解放人民運動(MPLA)がルアンダで刑務所を襲撃したことによりテンプレート:仮リンクが始まり、同年12月にはインド軍が返還を要求していたゴア、ディウ、ダマンのポルトガル植民地に侵攻し(テンプレート:仮リンク)、同植民地を喪失した。ギニアとモザンビークでも1963年にはギニア・カーボベルデ独立アフリカ党(PAIGC)によってテンプレート:仮リンクが始まり、1964年にはモザンビーク解放戦線(FRELIMO)によってモザンビーク独立戦争が始まった。
サラザールは国内の反体制派を弾圧しながら植民地戦争の継続を進め、経済的には国内の大資本優遇と外資導入による重工業化を推進して経済的基盤の拡充を図ったが、大土地所有制度が改革されずに農業が停滞を続けたため、戦争による国民生活の負担と相俟って1960年代には多くのポルトガル人がアンゴラを中心とする植民地や、フランス、ルクセンブルクなどの西ヨーロッパ先進国に移住した。
1968年にサラザールが不慮の事故で昏睡状態に陥り[6]、後を継いだマルセロ・カエターノ首相も戦争継続とエスタド・ノヴォ体制の維持においてはサラザールと変わることはなく、国内では学生運動が激化し、さらに戦時体制を支えてきた財界の一部も離反の動きを見せた。軍内でも植民地戦争が泥沼化する中で、社会主義を掲げるアフリカの解放勢力が解放区での民生の向上を実現していることを目撃した実戦部隊の中堅将校の間に戦争への懐疑が芽生えつつあり、1973年9月にはポルトガル領ギニアで勤務した中堅将校を中心に「テンプレート:仮リンク」が結成された。翌1974年3月に大尉運動は全軍を包括する「テンプレート:仮リンク」(MFA)に再編された。
カーネーション革命以降
1974年4月25日未明、テンプレート:仮リンク(MFA)の実戦部隊が突如反旗を翻した。反乱軍に加わった民衆はヨーロッパ史上最長の独裁体制となっていたエスタド・ノヴォ体制を打倒し、無血の内にカーネーション革命が達成された。革命後共産党と社会党をはじめとする全ての政党が合法化され、秘密警察テンプレート:仮リンクが廃止されるなど民主化が進んだが、新たに大統領となったMFAのテンプレート:仮リンク将軍は革命を抑制する方針を採ったためにMFAと各政党の反対にあって9月30日に辞任し、首相のテンプレート:仮リンク、共産党書記長のアルヴァロ・クニャル、MFA最左派のテンプレート:仮リンクと結んだテンプレート:仮リンク将軍が大統領に就任し、革命評議会体制が確立された。革命評議会体制の下で急進的な農地改革や大企業の国有化が実現されたが、1975年の議会選挙で社会党が第一党になったことを契機に社会党と共産党の対立が深まり、1975年11月までに共産党系の軍人が失脚したことを以て革命は穏健路線に向かった。この間海外植民地では既に1973年に独立を宣言していたギネー・ビサウをはじめ、アフリカ大陸南部の2大植民地アンゴラとモザンビーク、大西洋上のカーボ・ヴェルデとサントメ・プリンシペなど5ヶ国の独立を承認した。一方、ポルトガル領ティモールでは、ティモールの主権を巡って独立勢力間の内戦が勃発し、内戦の末に東ティモール独立革命戦線(FRETILIN)が全土を掌握したが、12月にインドネシアが東ティモールに侵攻し、同地を併合した。こうしてポルトガルは1975年中にマカオ以外の植民地を全面的に喪失し(マカオも中華人民共和国から軍事侵攻を仄めかされるなどしたため、中国側へ大幅に譲歩して形だけは植民地として残った)、テンプレート:仮リンクと呼ばれたアフリカへの入植者が本国に帰還した。
1976年4月には「階級なき社会への移行」と社会主義の建設を標榜した急進的なポルトガル1976年憲法が制定されたが、同年の議会選挙では左翼の共産党を制した中道左派の社会党が勝利し、マリオ・ソアレスが首相に就任した。ソアレスの後にテンプレート:仮リンク、テンプレート:仮リンク、ピンタシルゴと三つの内閣が成立したが、何れも短命に終わった。1979年の議会選挙では民主同盟が勝利し、テンプレート:仮リンクが首相に就任した。しかし、民主同盟はサー・カルネイロが事故死したことによって崩壊し、以降のポルトガルの政局は左派の社会党と右派の社会民主党を中心とした二大政党制を軸に動くこととなった。1985年の議会選挙では社会民主党が第一党となり、アニーバル・カヴァコ・シルヴァが首相に就任し、翌年1986年1月1日にポルトガルのヨーロッパ共同体(EC)加盟を実現したが、同月の大統領選挙では社会党のソアレスが勝利し、左派の大統領と右派の首相が併存するコアビタシオン体制が成立した。その後もコアビタシオンが続く中、カヴァコ・シルヴァの下で1987年には急進的な憲法が改正され、EC加盟が追い風となって1980年代後半は高い経済成長が実現され、さらに国営企業の民営化も進んだ。
1990年代に入り経済が失速したことを受けて1995年の議会選挙では社会党が第一党となり、アントニオ・グテーレスが首相に就任した。さらに、翌1996年の大統領選挙でも社会党のジョルジェ・サンパイオが勝利し、80年代から続いたコアビタシオンは崩壊した。社会党政権の下では1998年のリスボン万国博覧会に伴う経済ブームや民営化政策の進展により1995年から2000年までに年平均3.5%と高度な経済成長を達成し、同時に社会民主党政権が放置していた貧困問題にも一定の対策が立てられ、ヨーロッパ連合(EU)の始動に伴って1999年に欧州統一通貨ユーロが導入された。しかし、2000年代に入って経済が停滞すると、2002年の議会選挙では右派の社会民主党が第一党となり、ドゥラン・バローゾが首相に就任した。この時期の旧植民地との関係では1996年にポルトガル語諸国共同体(CPLP)が設立され、革命以来冷却化していた旧植民地とポルトガルの関係が発展的な形で再び拡大した。1999年にはマカオが中華人民共和国に返還され、実質上植民地を全て手放し、2002年に名目上ポルトガルの植民地だった東ティモールが独立を果たした。こうして1415年の大航海時代の始まりと共に生まれたポルトガル帝国は、名実共にその歴史を終えて消滅した。
政治
大統領を元首とする立憲共和制国家であり、20世紀においては第二次世界大戦前からの独裁制が長く続いたが、1974年4月25日のカーネーション革命(無血革命)により、48年間の独裁体制が崩壊した。
一時は主要産業の国有化など左傾化したものの、1976年4月2日に新憲法が発布された。同年4月25日に自由な選挙が行われた。社会党、人民民主党(10月、社会民主党に改称)、民主社会中央党が躍進した。1976年のマリオ・ソアレス政権成立から1986年のEC加盟までの10年間は、急進路線による経済のひずみを是正するための期間であった。
憲法の制定により民主主義が定着し、さらに1979年の保守中道政権樹立以降、行き過ぎた社会主義を修正している。さらに、1983年に社会党・社会民主党の連立政権樹立以降、両党を中心とする二大政党制となっている。社会党のソアレスは、1986年2月の大統領選挙でからくも勝利し、1991年1月に大差で再選された。他方、1987年と1991年10月の総選挙ではアニーバル・カヴァコ・シルヴァ率いる社会民主党が過半数を制して圧勝し、ともに中道ながら左派の大統領と右派の首相が並び立つことになった。1989年6月には憲法が全面的に改正され、社会主義の理念の条項の多くが削除された。1995年10月、10年ぶりに社会党が第1党に返り咲き、翌1996年1月、社会党のジョルジェ・サンパイオが大統領に選出された。
統治機構
政府は直接普通選挙で選出される任期5年の大統領(一回に限り再選が認められている)、議会の勢力状況を考慮して大統領が任命する首相が率いる行政府、任期4年の230人の議員で構成された一院制の共和国議会からなる立法府、及び国家最高裁判所を頂点とする司法府により構成されている。
大統領は首相の任命・解任、法律・条約への署名・拒否、議会の解散・総選挙の決定、軍最高司令官、非常事態宣言の発出等の権限を有するが、多分に名誉職的な性格が強く、ほとんどの行政権限は議会で多数得た政党から選ばれる首相が掌握している。 テンプレート:See also
最近の政治状況
- 2005年2月の総選挙により、社会党が1976年の民主化以降初めて単独過半数を獲得。同年3月社会党党首ジョゼ・ソクラテスが首相に就任。
- 2006年1月22日、大統領選挙が行われる。社会民主党アニバル・カヴァコ・シルヴァ50.6%の得票で当選。無所属で立候補した社会党マヌエル・アレグレは20.7%、社会党マリオ・ソアレスは14.3%、共産党のデ・ソウザは8.6%をそれぞれ獲得した。
- 2011年3月の大統領選でアニバル・カヴァコ・シルヴァが再戦。
- 2011年6月の総選挙にて社会党が敗北。社会民主党の党首ペドロ・パッソス・コエーリョが首相に就任。
軍事
テンプレート:Main ポルトガルの軍隊は、正式にはポルトガル国軍(Forças Armadas Portuguesas、FAP)と呼ばれる。2005年時点で、陸軍22,400人、海軍14,104人、空軍8,900人。他に国家憲兵としてポルトガル共和国国家警備隊(Guarda Nacional Republicana、GNR)6個旅団(儀仗任務、地方警察、交通警察、税関を担当)を擁している。
2004年11月に徴兵制が廃止され、志願兵制度が導入された。
国際関係
NATO、OECD、EFTAの原加盟国であり、独裁政権崩壊後の1986年にはECに加盟した。現在はEU加盟国であり、EUは現在のポルトガルにとって最も重要な政治的交渉主体である。ヨーロッパとの関係では伝統的にイギリスとの関係が深く、現在も1373年に締結された英葡永久同盟条約が効力を保っている。
旧植民地のブラジルとは特に関係が深く、ブラジルとは文化的、経済的、政治的な関係を強く保っている。
EUとブラジル以外ではアンゴラやモザンビークなどの旧植民地諸国と関係が深く、1996年にはポルトガル語諸国共同体(CPLP)を加盟国と共同で設立した。ポルトガルは1990年代からCPLP加盟国のアンゴラやモザンビークなどのルゾフォニア諸国にポルトガル語教師の派遣を行っており、東ティモールの独立後にも同国にさまざまな援助(特にポルトガル語教師の派遣)を行っている。
2004年時点でポルトガルは国内外で国際武力紛争を抱えていないが、1801年以来隣国であるスペインが実効支配しているオリベンサの領有権を主張している為、同国と対立している。しかし、同時にスペインとの間には両国を統一すべきであるとのイベリズモ思想も存在する。
日本との関係
- ポルトガル出身のイエズス会士ジョアン・ロドリゲスは、1577年に来日し、その後1620年にマカオで語学書「日本語小文典」を発行している[7]。
- 岩倉使節団の記録である『米欧回覧実記』(1878年(明治11年)発行)には、その当時のポルトガルの地理・歴史について記述した個所がある[8]。
地方行政区分
ポルトガルには、現在308都市4,261地区が存在する。その地域区分は、共和国憲法で定められているものと、欧州連合によるものが採用されている。
主要都市
テンプレート:Main 2000年時点の都市人口率は53%と、ヨーロッパ諸国としては例外的に低いため、大都市が少ない。多くのヨーロッパ諸国の都市人口率は70%~90%(例えば、イギリス89%、スペイン76%)である。ヨーロッパにおいて、ポルトガル以外に都市人口率が低いのは、アルバニアやセルビア、スロベニアなどのバルカン諸国である。
都市 人口 都市 人口 1 リスボン 564,657 11 ケルス 78,040 2 ポルト 263,131 12 アヴェイロ 55,291 3 ヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア 178,255 13 ギマランイス 52,181 4 アマドーラ 175,872 14 オディヴェラス 50,846 5 ブラガ 109,460 15 リオ・ティント 47,695 6 アルマーダ 101,500 16 ヴィゼウ 47,250 7 コインブラ 101,069 17 ポンタ・デルガダ 46,102 8 フンシャル 100,526 18 マトジーニョス 45,703 9 セトゥーバル 89,303 19 アモーラ 44,515 10 アグアルヴァ=カセーン 81,845 20 レイリア 42,745 2004年調査 地理
アイスランドに次いで、ヨーロッパ諸国の中で最も西に位置する。イベリア半島西端に位置し、国土は南北に長い長方形をしている。本土以外に、大西洋上のアソーレス諸島、マデイラ諸島も領土に含まれる。いずれも火山島である。アソーレス諸島は7つの主要な島からなり、首都リスボンからほぼ真西に1,500km離れている。マデイラ諸島は4つの主要な島からなり、南西に900km離れている。
ポルトガルの最高峰は、アソーレス諸島のピコ島にそびえるピコ山 (Montanha do Pico) 。標高は2,351m。富士山などと同じ成層火山である。本土の最高地点は北部に位置するエストレーラ山脈中のトーレの標高1,991m。エストレーラとは星を意味する。
東部は山岳であり、西部に海岸平野が広がっている。ほとんどの山脈が北東から南西に向かって走っており、北部ほど海岸平野が少ない。主要河川であるテージョ川が国のほぼ中央部を東西に流れており、テージョ川を境として南北に山脈の景観が変わる。首都リスボンはテージョ川に河口部分で面し、最大の海岸平野の端に位置している。南部に向かうにつれて山脈はなだらかになり、丘陵と見分けがつかなくなっていく。ポルトには同国第二の河川であるドウロ川が流れている。このような地形であるため、規模の大きな湖沼は存在しない。全水面積を合計しても440km2にとどまる。また、沿岸部にはポルトガル海流が南西に流れている。
気候
本土は北大西洋に面しているものの、ケッペンの気候区分では、地中海性気候 (Cs) に属する。地域差は大きく、季節の変化も著しい。大西洋岸には寒流のカナリア海流が北から南に流れており、緯度のわりに気温は低く寒暖の差が小さい。夏は涼しく、冬は降雪を含み、雨が多い。年間降水量は1,200から1,500mmである。中部の冬期は北部と似ているが、夏期の気温が上がる。年間降水量は500から700mmである。南部は典型的な地中海性気候である。そのため、夏季の雨量が少なく年間降水量は500mmを下回る。ほとんどの地域で、夏季の気温は20度を超え、冬季は10度まで下がる。
首都リスボン(北緯38度46分)の気候は、年平均気温が21℃、1月の平均気温が11.2℃、7月は22.8℃。年降水量は706mmである。冬季の雨量は100mm程度だが、夏季は数mmにとどまる。
経済
2013年のポルトガルのGDPは約2199億ドルであり[9]、日本の埼玉県よりやや大きい経済規模である[10]。同年の一人当たりのGDPは20,727ドルであり、EU加盟国の中では下位に位置する。
1975年に植民地を一度に失ったため、石油を中心とする原料の安価な調達ができなくなり、アンゴラやモザンビークから大量の入植者が本国に引き上げたことも重なって、経済は大混乱に陥った。
1986年のヨーロッパ共同体 (EC) 加盟以来、ポルトガル政府は金融・情報通信の分野を中心に国営企業の民営化を進め、経済構造はサービス産業型に転換しつつある。1999年1月にユーロ導入。2002年1月1日からEU共通通貨ユーロが流通している。2000年以降、GDP成長率が1%を割り始めた。一人当たり国民所得は加盟国平均の70%程度に止まる。
主要産業は農業、水産業、食品・繊維工業、観光。地中海性気候を生かし、オリーブ、小麦、ワイン、コルクの生産が盛ん。オリーブ油の生産高は世界7位。ワインの生産は第10位。第一次産業人口比率は12.6%。土地利用率は、農地 (31%) と牧場 (10.8%)。森林 (36%) も多い。また、エネルギー分野では代替エネルギーに力を入れている。電力消費の約40%は代替エネルギーでまかなわれており(2007年時点)、政府は2010年までに代替エネルギー比率を45%にする目標を掲げている[11]。また、波力発電のトップランナーを目指し研究を重ねている[11]。
鉱業資源には恵まれていないが、鉄、銅、錫、銀などを産する。特筆すべきは世界第5位のタングステン鉱であり、2002年時点で700トンを産出した。主な鉱山はパナスケイラ鉱山。食品工業、繊維工業などが盛んである。
2002年時点では輸出255億ドルに対し、輸入は383億ドルと貿易赤字が続いており、出稼ぎによる外貨獲得に頼っている。貿易形態は、自動車、機械などの加工貿易。主な輸出品目は、自動車 (16%)、電気機械 (12%)、衣類 (11%)。主な相手国は、スペイン(21%)、ドイツ(18%)、フランス(13%)。主な輸入品目は、自動車 (13%)、機械 (10%)、原油 (5%)。主な相手国は、スペイン(29%)、ドイツ(15%)、フランス(10%)。
2002年時点では、日本への輸出が1.7億ドル。主な品目は衣類(15%)、コンピュータ部品(15%)、コルク(11%)。日本が輸入するコルクの2/3はポルトガル産である。タングステンの輸入元としてはロシアについで2位。輸入が6.5億ドル。主な品目は乗用車 (20%)、トラック (10%)、自動車部品 (8%)である。
2012年になっても経済は復興せず、ポルトガル人の中には、母国の経済的苦境から逃れるためにモザンビークなど旧植民地に移民する動きがある[12]。
交通
道路
国内交通の中心は道路であり、リスボンとポルトを中心とした高速道路網が整備されている。原則として有料である(一部無料)。
主な高速道路は以下のとおり。
- A1 リスボン - ポルト
- A2 アルマダ - アルガルヴェ地方 リスボン市へはテージョ川を4月25日橋で渡る。
- A3 ポルト - スペイン・ガリシア地方国境方面
- A4 ポルト - アマランテ
- A5 リスボン - カスカイス
- A6 マラテカ - スペイン・バダホス国境方面 国境にてマドリッド方面のA-5に接続。
鉄道
航空機
リスボン、ポルト、ファロが主な国際空港。またこれらの空港から、マデイラ諸島やアソーレス諸島などの離島への路線も出ている。
- TAPポルトガル航空
- SATA Air Açores - ポルトガル のアソーレス諸島を中心とした航空会社
国民
ポルトガルの国民の大部分はポルトガル人である。ポルトガル人は先住民であったイベリア人に、ケルト人、ラテン人、ゲルマン人(西ゴート族、スエビ族、ブーリ族)、ユダヤ人、ムーア人(大多数はベルベル人で一部はアラブ人)が混血した民族である。
かつてポルトガルは移民送出国であり、特にサンパウロ州でのコーヒー栽培のために、奴隷に代わる労働力を欲していたブラジルには1881年から1931年までの期間にかけて実に185万人が移住した。ブラジル以外にもベネスエラ、アルゼンチン、ウルグアイなどのラテンアメリカ諸国に多数のポルトガル人が移住した。また、アンゴラやモサンビークなど、アフリカのポルトガル植民地にも多くのポルトガル人が移住した。1960年代から1970年代にかけてはフランスやスイス、ルクセンブルクなど、西ヨーロッパの先進諸国への移民が増えた。
しかし、1973年のオイル・ショックによる先進国での不況や、カーネーション革命による植民地の放棄により多くの在アフリカポルトガル人が本国に帰国し、代わりにカナダ、アメリカ合衆国への移住が行われるようになった。
このように移民送出国だったポルトガルも、近年ではブラジルをはじめ、ウクライナ、ルーマニア、カーボ・ヴェルデ(カーボベルデ系ポルトガル人)、アンゴラ、ロシア、ギニア・ビサウなど、旧植民地や東ヨーロッパからの移民が流入している。
言語
テンプレート:Main 言語はインド・ヨーロッパ語族ロマンス語系のポルトガル語(イベリアポルトガル語)[13]が公用語である。
1999年ブラガンサ県のミランダ・ド・ドウロで話されているミランダ語が同地域の公用語として認められた。
また、ポルトガルの北に位置するスペインのガリシア地方の言語ガリシア語はポルトガル語とは非常に近く、特にドウロ川以北のポルトガル語とは音韻的にも共通点が多い。
宗教
テンプレート:Main 宗教はローマ・カトリックが国民の97%を占める。ファティマはマリア出現の地として世界的に有名な巡礼地となった。
婚姻
婚姻の際には、自己の姓を用い続ける(夫婦別姓)、あるいは、相手の姓を自己の姓に前置、あるいは後置することを選択することが可能である。また、2010年からは、同性同士の婚姻(同性婚)が認められるようになった。
教育
テンプレート:Main 6歳から15歳までが基礎教育(義務教育)期間であり、6歳から10歳までが初等学校(初等教育。基礎教育第一期)、10歳から11歳まで(基礎教育第二期)、12歳から15歳(基礎教育第三期)までが二期に分けられる準備学校(前期中等教育)となっている。前期中等教育を終えると15歳から18歳までが中等学校(後期中等教育。日本における高等学校に相当)であり、後期中等教育は普通コース、技術・職業教育コース、職業教育コース、芸術教育専門コースなどにコースが分かれ、中等学校を終えると高等教育への道が開ける。ポルトガルの初等教育から中等教育にかけての問題としては、留年率の高さなどが挙げられる。
主な高等教育機関としてはコインブラ大学(1290年)、リスボン大学(1911年)、ポルト大学(1911年)、リスボン工科大学(1930年)、ポルトガル・カトリカ大学(1966年)などが挙げられる。大学は1974年のカーネーション革命以降急速に新設が進み、それに伴い学生数も増加した。
2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は93.3%(男性95.5%、女性91.3%)であり[14]、ヨーロッパ諸国の中ではマルタに次いでセルビア・モンテネグロと並ぶ低さだった。なお、第一次世界大戦直前の識字率は約25%だった。
文化
テンプレート:Main ポルトガルの文化は、イベリア半島にかつて居住していたケルト人、ローマ人、アラブ人等の影響を受けながら、カトリックを基盤にポルトガル人によって育まれてきた。政治や経済においてポルトガルはイギリスの強い影響を受けて来たが、文化面ではイギリスの文化の影響よりもフランスの文化の影響が強い。隣国スペインと同様に闘牛の文化もある。なお、ポルトガルの文化とブラジルの文化を象徴する言葉に郷愁を表す「サウダーデ」(Saudade)という言葉がある。
食文化
ポルトガル料理は魚介類を使うことが多く、鰯、鯖、鮟鱇などの多様な魚の中でも、特に干鱈(バカリャウ)がよく用いられる。穀物としては小麦、トウモロコシ、ライ麦、米が用いられ、米はヨーロッパで最多の消費量である。他には豚肉が使われる。主な料理として、フェジョアーダ(ブラジルのものとは異なる)、石のスープ、ガスパチョ、パステル・デ・ナタ、アルフェニンなどが挙げられる。
ポルトガルワイン(ポルトワイン、マデイラワイン、ヴィーニョ・ヴェルデ、ダンワイン)は古くから高い品質を保っている。
文学
ポルトガル文学は12世紀末のガリシア=ポルトガル語でトゥルバドゥール(吟遊詩人)によって詠われた中世叙事詩にはじまった。
16世紀のルネサンス時代にはポルトガル演劇の父となったジル・ヴィセンテや、詩人のサー・ダ・ミランダなどが現れ、叙事詩『ウズ・ルジアダス』などの作品を残したルイス・デ・カモンイスは、特に国民的な詩人であるとされている[15]。また、15世紀から17世紀前半にかけてはポルトガルの海外進出を反映して紀行文学が栄え、ポルトガル人による西アフリカ探検と奴隷狩りを描いた『西アフリカ航海の記録』のゴメス・エアネス・デ・アズララに始まり、ブラジルの「発見」を記録した『カミーニャの書簡』のペロ・ヴァス・デ・カミーニャ、『東方諸国記』のトメ・ピレス、『東洋遍歴記』(1614)のフェルナン・メンデス・ピントなどが現れた。
17世紀、18世紀のポルトガル文学は不調だったが、19世紀に入ると1825年にアルメイダ・ガレットの『カモンイス』によってポルトガルに導入されたロマン主義は、ガレットとアレシャンドレ・エルクラーノによって発展させられ、第二世代の『破滅の恋』(1862)などで泥沼の恋愛関係を描いたカミーロ・カステロ・ブランコによって完成された。19世紀半ばからは写実主義のジュリオ・ディニス、エッサ・デ・ケイロス、テオフィロ・ブラガなどの小説家が活躍した。19世紀末から20世紀はじめにかけて、テイシェイラ・デ・パスコアイスはポルトガル独自のアイデンティティを「サウダーデ」という言葉に見出し、このサウドディズモから『ポルトガルの海』を残した大詩人フェルナンド・ペソアが生まれた。この時期の日本との関わりにおいては、ヴェンセスラウ・デ・モラエスが特に言及される。
現代の著名な作家としては、『修道院回想録』(1982)や『白の闇』(1995)で知られ、1997年にノーベル文学賞を受賞した作家のジョゼ・サラマーゴや、ポルトガル近現代史を主なテーマにするアントニオ・ロボ・アントゥーネスなどの名が挙げられる。
カモンイスに因み、1988年にポルトガル、ブラジル両政府共同でポルトガル語圏の優れた作家に対して贈られるカモンイス賞が創設された。
音楽
ポルトガルの音楽は、宮廷吟遊詩人や、カトリック教会の音楽の影響を受けて育まれて来た。クラシック音楽においては、19世紀末から20世紀初頭にかけての文化ナショナリズムの高揚からポルトガル的な作品の創作が進められ、ポルトガルの民衆音楽を題材にした交響曲『祖国』を残したジョゼ・ヴィアナ・ダ・モッタや、交響曲『カモンイス』のルイ・コエーリョ、古代ルシタニ族の英雄ヴィリアトゥスを題材にしたオラトリオ『葬送』のルイス・デ・フレイタス・ブランコなどの名が特筆される。
ポルトガル発のポピュラー音楽(いわゆる民族音楽/ワールドミュージック)としては、特にファド(Fado)が挙げられ、このファドを世界中で有名にしたアマリア・ロドリゲス(1920~1999)は今でも国内外で広く愛されているが、近年ではドゥルス・ポンテスやマリーザなど、若手の台頭も著しい。ファドにはリスボン・ファドとコインブラ・ファドがある。その他にも現代の有名なミュージシャンには、1960年代に活躍し、カーネーション革命の際に反戦歌『グランドラ、ビラ・モレーナ』が用いられたポルトガル・フォーク歌手ジョゼ・アフォンソの名が挙げられる。なお、日本でもCM曲として使われたことで有名になったマドレデウスの音楽はファドとは呼び難いが(アコーディオンは通常ファドでは使われない)、彼らの音楽も非常にポルトガル的であることは間違いない。
近年は、アンゴラからもたらされたキゾンバやクドゥーロのような音楽も人気を博し、ポルトガルからもブラカ・ソン・システマのようなクドゥーロを演奏するバンドが生まれている。
また、ポルトガルは近来、デス/ブラック/シンフォニックメタルなどのゴシック要素の強いダーク系ヘヴィメタルの良質なバンドを輩出している。ゴシックメタルバンド、MOONSPELLはポルトガルのメタルシーンを世界に知らしめた。今や世界のメタルシーンのトップバンドとなったMOONSPELLは、ヘヴィメタルとゴシック系の両方のシーンから絶大な支持を得ている。
美術
絵画においてはルネサンス時代にフランドル学派の影響を受け、この時代にはヴィゼウ派のヴァスコ・フェルナンデスとリスボン派のジョルジェ・アフォンソの対立があり、『サン・ヴィセンテの祭壇画』を描いたヌーノ・ゴンサルヴェスが最も傑出した画家として知られている。17世紀には『聖ジェロニモ』のアヴェラール・レベロ、『リスボンの全景』のドミンゴス・ヴェイラの他に傑出した画家は生まれなかったが、18世紀になるとローマで学んだフランシスコ・ヴィエイラやバロックのドミンゴス・アントニオ・デ・セケイラのような、ポルトガル美術史上最高峰の画家が現れた。19世紀に入ると、ロマン主義派のフランシスラコ・メトラスが活躍した。19世紀後半には絵画でもナショナリズムの称揚が目指され、写実主義の下にポルトガル北部の田園風景を描いたシルヴァ・ポルトや、『ファド』に見られるようにエリートから隔絶した民衆の世界を描いたジョゼ・マリョアが活躍した。
ポルトガルで発達した伝統工芸として、イスラーム文化の影響を受けたタイル・モザイクのアズレージョや、金泥木彫のターリャ・ドラダなどが存在する。
映画
ポルトガルに映画が伝えられたのは1896年6月で、リスボンでヨーロッパから持ち込まれた映写機の実演にはじまる。その5ヶ月後にはポルトでアウレリオ・ダ・バス・ドス・レイスが自作映画を上映した。ポルトはポルトガル映画の中心地となり、1931年にはマノエル・デ・オリヴェイラによって『ドウロ川』が制作された。オリヴェイラはネオレアリズモの先駆的作品となった『アニキ・ボボ』(1942)などを撮影したのち西ドイツに渡り、1950年代にポルトガルに帰ってから『画家と町』(1956)などを撮影した。1960年代に入ると、フランスのヌーヴェルヴァーグとイタリアのネオレアリズモに影響を受けてノヴォ・シネマ運動がはじまり、『青い年』のパウロ・ローシャや、ジョアン・セーザル・モンテイロらが活躍した。
現代の映像作家としては『ヴァンダの部屋』(2000)のペドロ・コスタの名が挙げられる。
世界遺産
ポルトガル国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が12件、自然遺産が1件存在する。詳細は、ポルトガルの世界遺産を参照。
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アゾレス諸島のアングラ・ド・エロイズモ中心地区 - (1983年)
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バターリャ修道院 - (1983年)
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トマールのキリスト教修道院 - (1983年)
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エヴォラ歴史地区 - (1986年)
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アルコバッサ修道院 - (1989年)
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シントラの文化的景観 - (1995年)
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ポルト歴史地区 - (1996年)
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コア渓谷の先史時代の岩絵遺跡群 - (1998年)
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マデイラ島の照葉樹林 - (1999年)
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アルト・ドウロ・ワイン生産地域 - (2001年)
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ギマランイス歴史地区 - (2001年)
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ピコ島のブドウ畑の景観 - (2004年)
祝祭日
日付 日本語表記 現地語表記 備考 1月1日 元日 Ano Novo 2月 カルナヴァル Carnaval 移動祝日 3月~4月 聖金曜日 Sexta-Feira Santa 復活祭前の金曜日 3月~4月 復活祭 Páscoa 移動祝日 4月25日 解放記念日 Dia da Liberdade カーネーション革命(1974年)記念日 5月1日 メーデー Dia do Trabalhador 6月10日 ポルトガルの日 Dia de Portugal カモンイスの命日 6月 聖体の祝日 Corpo de Deus 移動祝日
復活祭60日後6月13日 聖アントニオの日 Dia de Santo António リスボンのみ 6月24日 聖ジョアンの日 Dia de São João ポルト、ブラガのみ 8月15日 聖母被昇天祭 Assunção de Nossa Senhora 10月5日 共和国樹立記念日 Implantação da República 11月1日 諸聖人の日 Todos os Santos 12月1日 独立回復記念日 Restauração da Independência 1640年にスペインとの同君連合を廃絶 12月8日 無原罪の聖母 Imaculada Conceição 12月25日 クリスマス Natal スポーツ
サッカー
サッカーが盛んであり、1934年に国内の1部リーグスーペル・リーガが創設され、主なプロクラブとしてSLベンフィカ、FCポルト、スポルティング・リスボンの名が挙げられる。ポルトガル代表は初出場となった1966年のイングランド大会以降、1986年のメキシコ大会、2002年の日韓共同大会、2006年のドイツ大会、2010年の南アフリカ大会と合計5回のワールドカップに出場している。
陸上競技
陸上競技においては、1984年のロサンゼルスオリンピック男子マラソンで金メダルを獲得したカルロス・ロペスや、1988年のソウルオリンピック女子マラソンで金メダルを獲得したロザ・モタなどの名を挙げることが出来る。
その他
ポルトガルの闘牛はスペインとは異なり、基本的には牛を殺さないが、スペイン国境地帯のバランコスではポルトガル全土で唯一牛を殺す闘牛が行われている[16]。
著名な出身者
王族以外のポルトガル出身者・関係者を挙げる。
政治家
- アントニオ・サラザール - 元大学教授、元首相、大統領。独裁者。
- ジョゼ・マヌエル・ドゥラン・バローゾ - 元首相、欧州連合の欧州委員会委員長。
- マリア・デ・ルルデス・ピンタシルゴ - 同国初の女性首相。その後欧州議会議長。
聖職者
- ジョアン・ロドリゲス - イエズス会士、ならびに通訳士。
- ルイス・フロイス - イエズス会士、『フロイス日本史』の著者。
文学者
- ルイス・デ・カモンイス - 国民詩人、『ウズ・ルジアダス』の著者。
- フェルナンド・ペソア - 詩人
- ヴェンセスラウ・デ・モラエス - 海軍軍人、外交官、知日家
- ジョゼ・サラマーゴ - ノーベル文学賞作家
音楽家
- ルイス・デ・フレイタス・ブランコ - 作曲家
- アマリア・ロドリゲス - ファドの歌手
- マリア・ジョアン・ピリス - ピアニスト
- ネリー・ファータド - ポルトガル系カナダ人歌手。両親がアソーレス諸島出身。
芸術家
- ファティマ・ロペス - ファッションデザイナー
- アルヴァロ・シザ - 建築家
- マノエル・デ・オリヴェイラ - 映画監督
スポーツ関係者
- ジョゼ・モウリーニョ - リーガ・エスパニョーラ・レアル・マドリード監督
- ルイス・フィーゴ - サッカー選手
- マヌエル・ルイ・コスタ - サッカー選手
- クリスティアーノ・ロナウド - サッカー選手、リーガ・エスパニョーラ・レアル・マドリード
- デコ - サッカー選手。ブラジル生まれでポルトガル国籍を取得
- エウゼビオ - サッカー選手。モザンビーク出身
- ティアゴ・モンテイロ - F1ドライバー
- ペドロ・ラミー - 元・F1ドライバー
- セルジオ・パウリーニョ - 自転車ロードレース選手
- ルイ・コスタ - 自転車ロードレース選手
- ロザ・モタ - 女子マラソン選手
- フェルナンド・マメーデ - 元陸上選手
脚註
参考文献
関連項目
外部リンク
- 政府
- ポルトガル共和国政府 テンプレート:Pt iconテンプレート:En icon
- ポルトガル大統領府 テンプレート:Pt iconテンプレート:En icon
- ポルトガル首相府 テンプレート:Pt iconテンプレート:En icon
- 在日ポルトガル大使館 テンプレート:Ja icon
- 日本政府
- 観光
- その他
テンプレート:Navbox テンプレート:Navbox テンプレート:OECD テンプレート:CPLP
- ↑ エドゥアルド・ガレアーノ『収奪された大地 ラテンアメリカ五百年』大久保光夫訳 新評論 1986
- ↑ 日本では、明の寧波を目指し遭難したポルトガルの船が1543年(天文12年)8月25日に種子島の門倉岬に漂着した出来事を初のポルトガル人の来日であるとしているが、ポルトガル史料では1542年説が有力であるとしている。またポルトガル共和国リスボン県リスボン市ベレン地区の発見のモニュメントには、ポルトガルは1541年に日本を発見したと書かれている。豊後国を訪れたとしている。
- ↑ 金七紀男『ポルトガル史(増補版)』彩流社、2003年4月増補版。p.128
- ↑ A.H.デ・オリヴェイラ・マルケス/金七紀男訳3 『ポルトガル3──世界の教科書=歴史』 ほるぷ出版、1981年。pp.36-40。
- ↑ サラザール政権は枢軸国にタングステンを売り、その取引に純金を利用していた。純金の出所はユダヤ人からの没収資産ということを知りつつ取引をおこなった。このときに保持した純金が戦後も独裁体制を維持する財政基盤となった。『朝日新聞GLOBE』2012年5月18日
- ↑ 意識不明の状態のまま辞任の手続きが取られ、2年後に覚醒したが本人には事故後の政局は全く伝えられることなく、事実上の軟禁状態のままサラザールは死去した。詳しくはアントニオ・サラザール#1968年の事故についてを参照のこと
- ↑ ロドリゲス『日本語小文典(上)(下)』池上岑夫 訳、岩波書店(岩波文庫)1993年
- ↑ 久米邦武 編『米欧回覧実記・5』田中 彰 校注、岩波書店(岩波文庫)1996年、140~145頁
- ↑ IMFによるGDP
- ↑ テンプレート:PDFlink
- ↑ 11.0 11.1 「ポルトガル:「共産主義だった遠い国」からの脱皮」『日経ビジネスオンライン』日経BP社、2008年4月17日付配信
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ ポルトガル語はアラビア語につぎ、世界第7位の話者人口を擁する。これはブラジルの存在による。同じポルトガル語でもブラジルポルトガル語とイベリアポルトガル語では発音や語彙にかなりの差がある。
- ↑ CIA World Factbook2009年3月30日閲覧。
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 市之瀬敦『ポルトガルの世界──海洋帝国の夢のゆくえ』社会評論社、2000年12月。p.139