ジョゼ・モウリーニョ
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ジョゼ・マリオ・ドス・サントス・モウリーニョ・フェリックス OIH(José Mário dos Santos Mourinho Félix、1963年1月26日 - )、通称ジョゼ・モウリーニョ(José Mourinho)は、ポルトガル・セトゥーバル出身のサッカー指導者である。2013-14シーズンよりチェルシーFC監督[1]。
ポルトガル語での発音(テンプレート:IPA-pt)に近い日本語表記はジュゼ・ムリーニュ。監督として唯一UEFAチーム・オブ・ザ・イヤーに4度選ばれている。また過去に4人しか達成していない、異なる2つのチームを欧州王者に導いた監督のうちの1人であり、監督としてイングランド、イタリア、スペインのリーグ戦と国内カップ戦(プレミアリーグ、セリエA、プリメーラ・ディビシオン)優勝を成し遂げた。
モウリーニョは現在世界最高の監督の一人と目されている[2][3][4][5][6][7]。選手としてのキャリアはポルトガル2部で始まった。リスボン工科大学でスポーツ科学を学び、イギリスではコーチングコースに参加した。リスボンでは、体育教師として働きながら、ユースチームの指導者やスカウト、コーチとしてしばらくの間働いた。1990年代始めに、ボビー・ロブソンの通訳として、ポルトガルのスポルティング・リスボンとポルト、スペインのバルセロナで働いた。ロブソンの退任後もバルセロナに残り、後任のルイス・ファン・ハールと働いた。
監督に就任したベンフィカとウニオン・レイリアでは、短期間であったものの成功を収め、ウニオン・レイリアでは過去最高位でシーズンを終えた。2002年始めに監督としてポルトに戻ると、2003年にはプリメイラ・リーガ、タッサ・デ・ポルトガル、UEFAカップを制した。翌年にはスーペルタッサ・カンディド・デ・オリベイラに勝利、リーグは2連覇を果たし、更にUEFAチャンピオンズリーグに優勝し、クラブを欧州チャンピオンへと導いた。翌年、イングランドプレミアリーグのチェルシーに移ると、最初のシーズンに最多勝点記録95で50年振りにリーグを制し、フットボールリーグカップでも優勝した。2シーズン目もチェルシーはリーグを制し、2006-07シーズンはリーグは2位に終わったものの、FAカップとリーグカップの2冠を達成した。モウリーニョはクラブオーナーのロマン・アブラモヴィッチとの不和が報道される中、2007年9月に退任した[8]。
2008年、モウリーニョはイタリアセリエAのインテルナツィオナーレの監督に就任した。3カ月でスーペルコッパ・イタリアーナを制すると、リーグでも優勝を果たした。2009-10シーズン、インテルはイタリアクラブ史上初となるセリエA、コッパ・イタリア、UEFAチャンピオンズリーグの三冠を達成した。2つの異なるクラブを率いて欧州チャンピオンとなったのは、これまでエルンスト・ハッペル、オットマー・ヒッツフェルト、ユップ・ハインケス、モウリーニョの4人のみである。2010年には初めて設立されたFIFAバロンドール最優秀監督賞を受賞した。2010年、レアル・マドリードと契約し、最初のシーズンにはコパ・デル・レイを制した。翌年にはリーガ・エスパニョーラを制し、トミスラフ・イヴィッチ、エルンスト・ハッペル、ジョバンニ・トラパットーニに次いで、異なる4カ国でリーグタイトルを制した4人目の監督となった[9]。2013年6月にマドリードを退任した後、再びイングランドのチェルシーの監督に就任した[10]。
目次
来歴
父親のフェリックス・モウリーニョは元ポルトガル代表のゴールキーパーで、少年時代は父親にチームのスパイとして使われ、試合相手のチームの弱点などを探ってくる役目を与えられていたという。裕福な家庭の生まれで、使用人もいたようである。ポルトガルのユース代表に選出されたこともあるが、故障により、本人曰く「三流だった」選手生活を早々切り上げたため、プロとしてのキャリアはない。
通訳・アシスタントコーチ時代
リスボンで一度、体育教師になるが、指導者の道を志してスコットランドで語学を勉強。ボビー・ロブソンがスポルティング・リスボンの監督に就任した際に通訳としてスタッフ入りし、以降厚い信頼を受けてロブソンとともにFCポルト、バルセロナといった名門クラブで通訳を務める。ロブソンがバルセロナを去った後、監督に就いたルイス・ファン・ハールのアシスタントコーチも経験した。なお、バルセロナ時代は通訳と思われがちだがカタルーニャサッカー協会には助監督として登録されている。
ポルトガル時代
そして、2000-01シーズンにポルトガルの古豪ベンフィカの監督に就任した。不調だったクラブを建て直し、ライバルのスポルティングを3-0で破るなど順調なスタートを切った。しかし、会長交代劇などの内紛によりそのスポルティング戦までの8試合の指揮を執った後、自らリスボンを離れる。ちなみに、このシーズンのベンフィカは6位、クラブ史上最低の順位だった。
2001-02シーズン、リーグ中位のウニオン・レイリアの監督に就任。クラブを19試合9勝7分3敗・リーグ4位の好成績に導く。
シーズン途中の2002年1月、当時不調にあえいでいた名門FCポルトに引き抜かれる。彼は残りの試合を15戦11勝2分2敗で乗り切り、低迷していた名門の順位を最終的に3位にまで上昇させた。ポルト監督就任時、彼は不遜にも「(中位に甘んじる)このクラブを来年チャンピオンにしてみせる」と宣言し、メディアの冷笑を買ったが、彼はそれ以上の偉業を翌年以降成し遂げることとなる。
2002-03シーズン、モウリーニョに率いられたポルトは快進撃を続け、スーペル・リーガ、ポルトガルカップのタイトルを獲得。さらにUEFAカップ決勝でもセルティックを延長の末に下し、三冠を達成。指導者として国際的に注目され始めた。
さらに2003-04シーズンには、圧倒的な強さでリーグ二連覇を成し遂げる。ポルトガルカップは決勝で惜しくもベンフィカに延長の末敗れたが、UEFAチャンピオンズリーグでは、決勝でASモナコを3-0で下し制覇。ポルトを17年ぶりのヨーロッパチャンピオンに導き、より一層評価を上げた。
チェルシー
2004-05シーズンからはプレミアリーグのチェルシーで指揮を執った。ここでも就任一年目から創立百周年の記念の年を迎えたチェルシーに50年ぶりのリーグ優勝をもたらし、リーグカップとともに二冠を達成。名将としての評価を不動のものとした。
2005-06シーズンも独走でプレミアリーグ連覇を成し遂げるが、優勝決定後のセレモニーで優勝メダルを惜しげもなく観客席に投げ入れるなど、ここでも物議を醸している。とはいえファンは大喜び。
2006-07シーズンはFAカップ、リーグカップのカップ・ダブルを達成するが、DF陣の相次ぐ故障で冬の移籍市場でDFの補強を要求するモウリーニョと、補強をしようとしない経営陣との対立が表面化。「報道を忘れる必要がある」と否定する姿勢を見せず、同シーズン限りでチームの監督を辞するのではという憶測が流れた。モウリーニョ自身は「2010年の契約満了まで自分から辞める事はない」と明言。だが、クラブオーナーであるロマン・アブラモビッチの態度は不明瞭であり解任の噂が絶えなかった。そして2007年9月20日、チェルシーとの契約解除が公式ホームページ上で発表された。モウリーニョとクラブ側双方合意の上でのものだったが、事実上の解任であった。後任には、アヴラム・グラントが就任。このシーズン、クラブ史上初めてUEFAチャンピオンズリーグ決勝に進出を果たすも、サポーターから「モウリーニョの遺産」と揶揄されていた。
チェルシー退団後
チェルシーを退団してフリーの身となった際、各国クラブから監督就任の打診を受けているが、モウリーニョが要求する高額な年俸がネックになっているとされ、いずれも噂の域を出なかった。
そのような中、2007年11月にイングランド代表のユーロ2008予選敗退を受け解任されたスティーブ・マクラーレンの後任最有力候補であると報道された。
しかしこの件については、モウリーニョとFA幹部との三者会談の後、代理人を介して「素晴らしい仕事だとは思うが、熟考の末、イングランド代表監督候補になっても身を引くことにした。」と声明を発表し[11]、代表監督就任を辞退している(なお、イングランド代表監督の後任にはファビオ・カペッロが就任した)。
インテル
その後も引く手数多の状態が続いていたが、2008年6月2日、解任されたマンチーニ監督の後任としてイタリア・セリエAのインテル監督就任が発表された。セリエA初指揮となった2008-09シーズンはスーペルコッパ・イタリアーナとリーグ優勝の二冠を達成。一方でチャンピオンズリーグではマンチーニ時代から合わせて3年連続となるベスト16に止まった。しかし、翌2009-10シーズンはチェルシー、CSKAモスクワ、バルセロナ、そしてかつての師であるルイス・ファン・ハール率いるバイエルン・ミュンヘン等の各国の強豪(しかもCSKA以外の3チームはこの年の各国リーグ王者)を破り45年ぶりのチャンピオンズリーグ優勝、そして同年のセリエA、コッパ・イタリアも制し、イタリア史上初の三冠に導いた。この三冠を達成した優勝記者会見でインテル監督を辞任すると発言[12]。2010年5月28日、モラッティとペレス両会長の直接会談により、レアル・マドリードがインテルに違約金を支払う形で残り2年の契約が解除された。
レアル・マドリード
2010年5月31日、レアル・マドリードの監督就任が発表された。契約期間は4年[13][14][15]。就任初年度は序盤から好調を維持してリーグ戦首位にたったものの、監督就任後初となるエル・クラシコで5-0の大敗を喫して2位に転落すると、驚異的なペースで勝ち点を積み重ねるFCバルセロナに及ばずリーグ戦2位に終わった。それでもUEFAチャンピオンズリーグでは6年連続でベスト16止まりだったレアルをベスト4にまで進出させ、コパ・デル・レイでは決勝でバルセロナを1-0で破り、18年ぶりの優勝を果たしてバルセロナのトレブルを阻止した。
2011-12シーズンは、ほぼ毎試合圧倒的な攻撃力で大差をつけるゲームを披露してリーグ戦を独走。2012年2月26日のラーヨ・バジェカーノ戦に勝利し、リーガ・エスパニョーラ通算50勝を、史上最速となる62試合で達成した[16]。終盤にはライバルのFCバルセロナに猛追されたものの、アウェーでの直接対決で見事に勝利して突き放し、優勝を成し遂げた。この結果、欧州3大リーグ(プレミアリーグ、セリエA、リーガ・エスパニョーラ)優勝を成し遂げた史上初の監督となり、欧州の4カ国の1部リーグ優勝を果たした史上2人目の監督となった(1人目はジョバンニ・トラパットーニ)[17]。
2012-13シーズンは、スーペルコパ・デ・エスパーニャでバルセロナを破りスペインスーパーカップを制覇。チャンピオンズリーグでは3年連続で準決勝に進出するもボルシア・ドルトムントに敗れ敗退。リーグ戦では序盤戦での取りこぼしが響き連覇を逃すと、コパ・デル・レイ決勝でもアトレティコ・マドリードに敗れ2年ぶりの優勝を逃すなど、リーグとカップ戦では無冠に終わった。シーズン終了後の2013年5月20日、クラブ側との同意で、契約を解消しレアルからの退団が決定した[18]。
チェルシー復帰
2013年6月3日、4年契約でチェルシーに復帰が発表された。シュウォーツァー、シュールレ、インテル時代の教え子エトーらを獲得した。プレミアリーグでは2014年4月20日の第35節・サンダーランド戦に敗れ、モウリーニョ自身がそれまで持っていたホームスタンフォード・ブリッジの無敗記録が77試合で止まる等、上位チーム相手には勝負強さを見せつけたものの、下位チーム相手の取りこぼしが祟り3位。リーグカップでは準々決勝でそのサンダーランドに、FAカップでは5回戦で2月1日にチェルシーにホーム全勝記録を止められたシティにリベンジされる様にして敗れた。UEFAヨーロッパリーグ王者として臨んだUEFAスーパーカップでは、ジョゼップ・グアルディオラ率いるUEFAチャンピオンズリーグ王者のバイエルン・ミュンヘンと対戦し、延長戦の末敗れた。UEFAチャンピオンズリーグでは、準決勝で前年レアル時代に国王杯決勝で敗れたディエゴ・シメオネ率いるアトレティコ・マドリードと対戦したが、2戦合計1-3で敗れ、リベンジを果たせなかった。FAコミュニティ・シールドにはチェルシーは出場していないので、2001-2002シーズンのウニオン・レイリア時代以来12シーズンぶり、ポルトやチェルシーの様なビッグクラブを率いるようになった2003年以来では初めての無冠に終わった。
経歴
- テンプレート:Flagicon スポルティング・リスボン: 通訳 1992-1993
- テンプレート:Flagicon FCポルト: 通訳 1994-1996
- テンプレート:Flagicon FCバルセロナ: 通訳 1996-1997
- テンプレート:Flagicon FCバルセロナ: アシスタントコーチ 1997-2000
- テンプレート:Flagicon ベンフィカ: 監督 2000.9-2000.12
- テンプレート:Flagicon ウニオン・レイリア: 監督 2001.4-2002.1
- テンプレート:Flagicon FCポルト: 監督 2002.1-2004
- テンプレート:Flagicon チェルシー: 監督 2004-2007.9
- テンプレート:Flagicon インテル: 監督 2008-2010
- テンプレート:Flagicon レアル・マドリード: 監督 2010-2013
- テンプレート:Flagicon チェルシー: 監督 2013-
監督成績
クラブ | 国 | 就任 | 退任 | 記録 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試合 | 勝 | 分 | 負 | 勝率 % | 得点 | 失点 | 得失点 | ||||
ベンフィカ | テンプレート:Flagicon | 2000年9月20日 | 2000年12月5日 | 11 | 6 | 3 | 2 | 54.55 | 17 | 9 | +8 |
ウニオン・レイリア | テンプレート:Flagicon | 2001年4月14日 | 2002年1月20日 | 29 | 15 | 8 | 6 | 51.72 | 49 | 32 | +17 |
ポルト | テンプレート:Flagicon | 2002年1月23日 | 2004年5月26日 | 124 | 90 | 21 | 13 | 72.58 | 251 | 92 | +159 |
チェルシー | テンプレート:Flagicon | 2004年6月2日 | 2007年9月20日 | 185 | 124 | 40 | 21 | 67.03 | 330 | 119 | +211 |
インテルナツィオナーレ | テンプレート:Flagicon | 2008年6月2日 | 2010年5月28日 | 108 | 67 | 26 | 15 | 62.04 | 185 | 94 | +91 |
レアル・マドリード | テンプレート:Flagicon | 2010年5月31日 | 2013年6月2日 | 177 | 127 | 28 | 22 | 71.75 | 471 | 166 | +305 |
チェルシー | テンプレート:Flagicon | 2013年6月3日 |
獲得タイトル
- テンプレート:Flagicon FCポルト
- スーペル・リーガ2回(2002-03、2003-04)
- ポルトガルカップ1回(2002-03)
- スーペルタッサ1回(2003)
- UEFAカップ1回(2002-03)
- UEFAチャンピオンズリーグ1回(2003-04)
- テンプレート:Flagicon チェルシー
- プレミアリーグ2回(2004-05、2005-06)
- FAカップ1回(2006-2007)
- リーグカップ2回(2004-05、2006-07)
- FAコミュニティ・シールド1回(2005)
- テンプレート:Flagicon インテル
- セリエA2回(2008-09、2009-10)
- スーペルコッパ・イタリアーナ1回(2008)
- コッパ・イタリア1回(2009-10)
- UEFAチャンピオンズリーグ1回(2009-10)
- テンプレート:Flagicon レアル・マドリード
- リーガ・エスパニョーラ1回(2011-12)
- コパ・デル・レイ1回(2010-11)
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ1回(2012)
個人タイトル
- Portuguese Liga Manager of the Year (2002–03, 2003–04)
- Premier League Manager of the Year (2004–05, 2005–06)
- Premier League Manager of the Month (November 2004, January 2005, March 2007)
- Serie A Manager of the Year (2009, 2010)
- Albo Panchina d'Oro Coach of the Year (2010–11)
- Miguel Muñoz Trophy for Best Coach of the Year (2010–11)
- UEFA Manager of the Year (2002–03, 2003–04)
- UEFA Team of the Year Coach of the Year (2003, 2004, 2005, 2010)
- BBC Sports Personality of the Year Coach Award (2005)
- La Gazzetta dello Sport Men of the Year (2010)
- Onze d'Or Best Coach (2005)
- FIFA Ballon d'Or Best Coach (2010)
- IFFHS World's Best Club Coach of the Year (2004, 2005, 2010)
- World Soccer Magazine World Manager of the Year (2004, 2005, 2010)
- International Sports Press Association Best Manager in the World (2010)
- CNID Best Portuguese Manager in Foreign Countries (2008–09, 2009–10)
戦術
対戦相手によって様々なフォーメーションを使いこなすが、サイドを広く使い攻撃的といわれる4-3-3を最も好んでいる。基本的に4-3-3を適用しているが、チェルシー時代は中盤を省略して素早く前線にボールを送るカウンター寄りの戦術がよく見られたために、彼の意思に反して「守備的なチーム」と言われていた。また、このカウンター戦術は彼の好みではなかったということで、インテル就任時に「トライアングルを作ってパスを回すサッカーをしたい」とも語った。選手を固定せず 自身のフォーメーションにあわない場合は変更に躊躇のない信念の強さをもっている。一試合を通して彼の経験からハードワークをする選手、チームの為に隙を与えない徹底的に攻守に貢献しようと実行する選手を好む。特にオフ ザ ボール(ボールをもっていない時)の選手の動きに重点を置いている。 マスコミやメディアを利用したり相手チームの輪を乱すものを挑発するなどして試合を円滑に進めるためには手段を選ばないところにも注目である。 ポルト大学のビトール・フラデ教授が1980年代初期に提唱した戦術的ピリオダイゼーション理論(PTP理論)を取り入れており、綿密な分析を基に周到な戦術を駆使することで知られる。選手起用においては、シーズンを通しての出場時間数や怪我の有無といった一般的な判断材料から、試合時間別の成績とプレーの精度、体脂肪のベスト数値などの細かいデータを参考としている[19]。
リーダーシップ
サッカーの監督には、信念や我の強さが求められることもたぶんにあり、それは、選手たちを引き付けるリーダーシップにもつながる。ジョゼ・モウリーニョはこの点において最も注目を集める監督のひとりである[20]。また、モウリーニョはプロ経験がなく通訳としてプロチームのスタッフの一員となった。こうしたキャリアをもって欧州有数の監督になったことからも、監督としての手腕やリーダーシップが注目されることが多い[21]。そのリーダーシップがビジネスの世界でも活用できることから、サッカーやスポーツに関連のないテレビCMにも出演している。 アメリカの企業のアメリカン・エクスプレス社は自国以外に向けてのCMに、未来に起こることを予測するリーダー像としてモウリーニョを起用している。また、多国籍企業のサムスンも007に似せたCMにモウリーニョを起用している。モウリーニョは、自身が監督としてチームの指揮を執る際の哲学として、正直・率直・明確、そして野心的であることをあげている。
モウリーニョは対戦相手のプレースタイル、中心選手の長所・短所など細かい点についてまで事前に調べて試合前の練習において試合を想定した練習をする。チェルシーFCにおいてモウリーニョの下でプレーしたディディエ・ドログバは、ポルトガルの新聞「コレイオ・ダ・マーニャ」のインタビューで「外科手術で体を開いて説明するように、監督がベンチでこれからピッチで起こることを説明した。ときとして、その通りの試合展開となった。まるで監督には未来が見えているようだった。」と話した[22]。
モウリーニョはチームを率いる際に複雑性をテーマにしている。複雑性とはフランスの哲学者、エドガール・モランが提唱した言葉である。この言葉は「部分部分にあるものがすべてである。つまり、全体を理解できなければ、結局部分を理解することはできない。逆もしかりである。」ということを表している。モウリーニョの複雑性の考えは、練習においても表れる。サッカーの練習の現場では試合で起こる状況を考慮しない練習が行われることも多い。しかし、モウリーニョは練習では必ず試合の場面を想定した練習を行い、選手には実際の試合を体験させている。試合前の練習では必ず敵方を用意する。また、モウリーニョは選手には常にプロフェッショナルであることを求める。それは試合や練習以外のときでも同じで、休養日に家にいるときでもプロ意識を要求している。一方で、私生活が充実して初めて選手としての職業が成り立つことも理解している。ポルトFCで監督を務めていたときに、MFのデコの心身の疲労を察したモウリーニョは「ブラジルに2、3日戻って来い」と言って選手にリフレッシュすることを指示した。[23]
記者会見では常に自信に満ち溢れた態度で記者たちに接し、時には傲慢な態度を取っていると受け取られることがある。チェルシーに就任した際の記者会見では、イングランドのメディアに対して「私のことを横柄だとか尊大だとか言って揶揄しないでほしい。私はCL優勝を果たした監督だ。ならば私は“特別な存在”であるということだと思う」と話している[24]。しかし、チームにいるときにはチームに寄り添っていて、試合に負けたときなどにはロッカールームで選手にきつく当たることもあるが、それを外側に発信することはしない。このようなことから、記者会見での不遜な態度はチームを守る盾になるために演じているのではという見方もある。[25]2009-10シーズンにインテルを率いていた際には年末の休暇を挟んでチームはパフォーマンスを低下させていた。ここで、モウリーニョはメディアの関心を一手に引き受けて、マスコミやファンのプレッシャーから選手を隔離することでチームを立て直している[26]。一方で、モウリーニョのメディアに対する対応は計算されたものではなく、モウリーニョの人間性から来るものだという見方もある。スペインのスポーツ新聞で『マルカ』に次ぐ発行部数を誇る『アス』の編集長を務めるアルフレッド・レナーニョは「モウリーニョの振る舞いや言動は彼のエキセントリックな性格によるものだろう。彼は生来そういう類の人間なんだ。」と語っている[27]。
人物
家庭では二児の父で、夫人はアンゴラ出身。FCポルトでのチャンピオンズリーグ決勝試合直前、彼のチェルシーFC移籍が決定的となっていたことに起因し、ポルトの一部のサポーターから家族ぐるみで脅迫を受けるという災難に見舞われている[28]。試合後、優勝セレモニーに加わらず足早にピッチを後にしたのは、その脅迫に対しての抗議行動であり、何より家族を案じていたからだというエピソードがある。故郷のクラブのヴィトリア・セトゥバルのファンである。
コーチの前には通訳としてのキャリアを有し、6言語(ポルトガル語、イタリア語、スペイン語、カタルーニャ語、英語、フランス語)を流暢に操る。
ボビー・ロブソンとはFCポルト、バルセロナで共に仕事をした経験があり、師弟関係にあった。ロブソンの訃報の際はインテルの公式HPを通して哀悼のコメントを寄せた[29]。また、ロブソンの死後に同氏の基金が主催するがん撲滅チャリティーオークションに、自身が2010年に受賞したFIFA(国際サッカー連盟)年間最優秀監督賞のトロフィーを出品している[30]。
スペイン『Veo7』の取材で将来的なイングランドのプレミアリーグへの復帰を仄めかすと同時に、ポルトガル代表の監督になることを最終目標としていると語った[31]。
リーグ戦ホーム無敗記録
モウリーニョはホームでの国内リーグ戦において150試合連続無敗記録を残した(国内カップ戦、UEFAチャンピオンズリーグなどの国際大会においてはホームで敗北がある)[32]。途中就任したシーズンである2001-02シーズンの2002年2月23日に行われたSCベイラ・マルとの試合で敗れたのを最後に、2011年4月2日に行われたスポルティング・デ・ヒホンに敗れるまで9年間にわたってリーグ戦ホーム無敗記録を続けた。以下はその9年間の内容である。
クラブ | 成績 | シーズン | 備考 |
---|---|---|---|
FCポルト | 38試合36勝2分 | 2001-02,2002-03,2003-04 | ※2001-02シーズンは途中就任のため4試合のみ。 |
チェルシー | 60試合46勝14分 | 2004-05,2005-06,2006-07,2007-08 | ※2007-08シーズンは途中解任されたため6試合のみ。 |
インテル | 38試合29勝9分 | 2008-09,2009-10 | |
レアル・マドリード | 14試合14勝 | 2010-11 |
語録
- 「我々チェルシーには最高の選手たちがいる。そして今、傲慢に聞こえたら許して欲しいが、最高の監督を手に入れた」
- 「私はヨーロッパチャンピオンである。私は特別な存在(Special One)だ」[33] ―チェルシー監督就任記者会見で
- 「彼の言うとおりだ。現に昨シーズン、私の指揮するポルトがその10倍もの予算のマンチェスターUを破ったのだから」 ―資金が潤沢だからといって勝てるとは限らない、というマンチェスターU監督ファーガソンの挑発を受けて
- 「FCバルセロナは100年もの歴史の中でまだ1回しかヨーロッパチャンピオンになったことが無い。私はそれをたった1年で成し遂げた。さて、ライカールト監督は?」 ―2004-05シーズン、古巣バルセロナとの対戦を前に
- 「私は常に勉強している。あなた方はいつも時代遅れだ」 ―英国メディアに対して
- 「相手チームの感情など知ったことではない。私はチェルシーを勝たせるためにやってきた」
- 「ベンゲルはチェルシーの覗き魔だ」[34] ―アーセナル監督、アーセン・ベンゲルとの舌戦。なお後日「流石に言い過ぎた」と謝罪
- 「教えは請うがCL(UEFAチャンピオンズリーグ)の決勝を0-4で負ける方法は知りたくない」[35] ―ヨハン・クライフが05-06シーズンのチェルシーを「結果主義」と批判したことに対して述べたもの。クライフが1993-94シーズンのチャンピオンズリーグ決勝で0-4の大敗を喫した事を絡めた皮肉
- 「まずクラブに大事なのは、メンバーをできるだけ自国の選手で賄う事。その国の選手で賄えない時に他の選択肢を考えるべきだ。だから今クラブに必要だとされる自国出身の選手がいれば、その選手を是が非でも獲得しなければならない」 ―自身の「クラブ強化の理想」を問われて
- 「優勝した昨シーズンよりも選手たちを誇りに思っている。彼らは素晴らしいパフォーマンスを見せてくれたヒーローだからだ。」 ―06-07シーズンの三連覇を逃したアーセナル戦の後に
- 「来シーズンのチャンピオンズ・リーグで是非ともチェルシーと対戦したい。もし実現したら、何としてでも倒してみせるよ」 ―07-08シーズン。事実上解任された古巣チェルシーへ復讐ともとれるコメント(実際に2009-2010年シーズンにインテルの監督としてチェルシーと決勝トーナメント1回戦で対戦し、勝利している)。
- 「私は特別なクラブに来た。偉大な監督になる目標を忘れることはないが、特別な人間にはなりたくない。私はジョセ・モウリーニョになりたいだけであって、いつも同じように情熱を持って、モチベーション高くやりたいだけだよ」 ―インテル・ミラノ監督就任会見にて。
- 「我々は強いチームを作り上げているし、新戦力を何人も獲得する必要はない。私は量より質を重視する。私は革命家ではなく、何かを革命したいとも思わない。私はとても明確な考えを持っている一人の人間にすぎない。これは大事なことだと、私は思っている。私の人生哲学はサッカー哲学に似ている。それは正直、率直、明確、そして野心的であるべきということ。私はこれらの特徴を絶対に失いたくない」―自身の「サッカー哲学」についてのコメント
- 「この試合に選手として出場できなかったのは、私の人生で最大の損失だ。この試合でプレーするには強い精神力が必要になるだろうが、選手たちと同様、私も血を流して戦っていたと思う。」[36]-UEFAチャンピオンズリーグ2009-10・準決勝・FCバルセロナ戦終了後のコメント。インテル・ミラノを決勝に導く。
- 「インテルはイタリアのチームだが、先発にイタリア人はいなかった。それでも私たちはイタリアの文化を持ったチームだし、イタリアのサッカーを披露できたことを誇りに思う。この勝利は重要である。イタリアはこれで代表は世界王者であり、クラブでも欧州の頂点に立った。最高の気分だし、私も少しは貢献できたかと思うと誇らしい。」[37]-UEFAチャンピオンズリーグ2009-10・決勝戦後の優勝記者会見にて。
- 「私がレアル・マドリーを率いるために、この世に生を受けたかは分からない。ただ、フットボールの監督をするために生まれたのは確実だ。私は挑戦が好きなんだ。」[38]-レアルマドリード監督就任会見時のコメント
- 「私は自分が世界一の監督だとは思わない。しかし、私以上の監督がいるとも思わない。」―『ガゼッタ』のインタビューより―
- 「私が始めて監督業に就いたのは2000年だが、その前にはビッグクラブで偉大な監督たちのアシスタントを務めていた。30歳の頃にはバルセロナでロナウドも指導した。あいつではなく、本物の方。ブラジルのロナウドだ。」― 古巣レアルマドリードのFW、クリスティアーノ・ロナウドへの皮肉ともとれる発言。
- 「『本物のロナウド』と言ったのは、彼(ブラジルのロナウド)が一人目だからだ。本物のミュラーは誰かと聞かれれば、私はトーマス・ミュラーではなくゲルト・ミュラーと答えるだろう。後者がより年長で、最初だからだ」― 上記の発言に対する弁明。
関連人物
- ルイ・ファリア - モウリーニョの下で10年間主にフィジカルコーチを務めている。モウリーニョからは「私の右腕」[39]と言われる。
- アンドレ・ヴィラス・ボアス - モウリーニョの下でアシスタントコーチを務め、後にチェルシーFC監督に就任した。現在はFCゼニト・サンクトペテルブルク監督。
- シウビーノ・ロウロ - モウリーニョの下で長年GKコーチを務めている。
- ジョゼ・モライス - モウリーニョが率いたいくつかのチームでコーチを務めており、現在もチェルシーFCのアシスタントコーチのうちの一人。
- バルテマール・ブリトー - ウニオン・レイリア、ポルト、チェルシーでコーチとしてモウリーニョと共に働いた。
- ブレンダン・ロジャーズ - 第1期チェルシー時代に下部組織の監督を務めていた。現リヴァプールFC監督。
脚注
著書
外部リンク
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- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ http://www.dailymail.co.uk/sport/football/article-2464832/Jose-Mourinho-best-manager-Deco-worked-with.html
- ↑ http://metro.co.uk/2013/09/30/rafael-benitez-says-arsene-wenger-not-jose-mourinho-is-the-best-manager-in-the-premier-league-4128645/
- ↑ http://www.goal.com/en/news/9/england/2013/10/31/4373795/mourinho-arguably-the-best-manager-in-the-world-says-pardew
- ↑ http://espn.go.com/sportsnation/post/_/id/9539744/greatest-all-soccer-managers
- ↑ http://espnfc.com/news/story/_/id/982842/pep-guardiola:-jose-mourinho-is-the-best-in-the-world
- ↑ http://www.dailystar.co.uk/sport/football/318473/Chelsea-boss-Jose-Mourinho-is-one-of-the-greatest-managers-of-all-time
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ José Mourinho's mission accomplished as Real Madrid seal title. The Guardian. Retrieved 3 May 2012.
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ http://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-29294920071211
- ↑ http://www.soccer-king.jp/news/cl/article/id=261
- ↑ 5対0の大差は、なぜ生まれたのか?バルサがモウリーニョを引き裂いた夜。 -NumberWeb: 2010年11月30日
- ↑ 不振に喘ぐレアルで繰り広げられる、モウリーニョ対GMの“仁義なき戦い” -NumberWeb: 2011年2月11日
- ↑ “レアルNo.2”バルダーノの追放完了! クラブを完全支配したモウリーニョ。 -NumberWeb: 2011年6月1日
- ↑ モウリーニョ、リーガ歴代最速で50勝達成…わずか62試合での快挙 SOCCER KING 2012年2月28日
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite journal
- ↑ スポーツナビ ウェールズ代表、トシャックの失敗
- ↑ The Burning Platform プロ経験のない通訳から欧州ナンバーワン監督に這い上がったモウリーニョ
- ↑ テンプレート:Cite book
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- ↑ CONDE NAST DIGITAL 誰よりも“特別な存在”、モウリーニョの誕生
- ↑ テンプレート:Cite book
- ↑ OCNスポーツ 09-10シーズン総括“インテル黄金時代”は続く
- ↑ Goal.com 不定期連載『スペイン通信』:スペインメディアの重鎮、『アス』編集長に聞く(上)
- ↑ 著書『ジョゼ・モウリーニョ 「KING OF 監督」誕生ストーリー』P201
- ↑ http://www.goal.com/jp/news/56/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3/2009/08/01/1414755/%E3%83%A2%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%A7%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%93%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%AD%BB%E3%82%92%E6%82%BC%E3%82%80
- ↑ http://www.soccer-king.jp/news/spain/article/201109201745_realmadrid_mourinho.html
- ↑ http://www.goal.com/jp/news/73/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3/2011/03/29/2415312/%E3%83%A2%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%A7%E6%9C%80%E7%B5%82%E7%9A%84%E3%81%AB%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%AC%E3%83%AB%E4%BB%A3%E8%A1%A8%E7%9B%A3%E7%9D%A3%E3%81%AB%E5%B0%B1%E3%81%8D%E3%81%9F%E3%81%84
- ↑ “モウ”がギネス並みの大記録樹立 Livedoorスポーツ 2011年2月21日
- ↑ http://www.youtube.com/watch?v=H_ai5C-pBhc
- ↑ http://sports.livedoor.com/article/detail-1916940.html
- ↑ http://sports.livedoor.com/article/detail-1722980.html
- ↑ http://news.livedoor.com/article/detail/4745503/
- ↑ http://jp.uefa.com/uefachampionsleague/matches/season=2010/round=2000032/match=2000488/postmatch/quotes/index.html
- ↑ http://www.realmadrid.jp/news/2010/05/news_4798.html
- ↑ 著書『モウリーニョ どうしてこんなに勝てるのか?』P34