サミュエル・エトオ

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テンプレート:サッカー選手 サミュエル・エトオ・フィスSamuel Eto'o Fils, 1981年3月10日 - )は、カメルーン出身で同国代表サッカー選手サミュエル・エトーとも表記される。別名黒い宝石。なお、フィスは英語の Jr. (ジュニア)に相当する仏語の添え名である。

カメルーン代表の最多得点記録保持者であり、史上最多の4度のアフリカ年間最優秀選手賞受賞、2度のアフリカネイションズカップ優勝、3度のUEFAチャンピオンズリーグ優勝など数々の栄誉を手にしている。

経歴

初期の経歴

カメルーンのドゥアラ市にあるカジ・スポーツアカデミーの一期生。1年半程度在籍した後、16歳でレアル・マドリード・カスティージャと契約。しかし、外国人であった為セグンダ・ディビシオンBでは試合に出場できず、成長を妨げないようレンタルされ、レガネスエスパニョールRCDマヨルカで過ごした。

2000年のシーズン終了後に、6億6000万円でRCDマヨルカに完全移籍し、2002年にコパ・デル・レイ優勝に導くなど活躍している。

FCバルセロナ

ファイル:Etoo Joan Gamper Trophy 2008.jpg
バルセロナ時代のエトオ

2004-2005シーズンにFCバルセロナに移籍しリーガ優勝を経験した。

2006年9月のUEFAチャンピオンズリーグ1次リーグ、ブレーメン戦で右ひざ半月板を痛め、全治5ヶ月と診断された。自身が「第二の故郷」としているマジョルカ島で療養していたが、2007年2月に復帰し、ゴールも決めている。なお、復帰後の起用法を巡って出場を拒否するなど、トラブルメーカーぶりもまた、健在である。

2007-08シーズンはティエリ・アンリがバルセロナに加入し、前述のフロントとの衝突などから放出が噂されるもチームに残る。しかし開幕前のインテルとの親善試合で怪我を負うと、ボージャン・クルキッチの台頭などもあり出場機会が減少。ただし、出場した試合では18試合で16ゴールと抜群の決定力を見せた。また、2007年10月17日にはスペイン国籍を取得し、カメルーンとの二重国籍となった。

2008-09シーズン、監督に就任したジョゼップ・グアルディオラの意向により一度戦力外通告を受けるが、最終的に残留する形で踏み止まると、10月25日の第8節UDアルメリア戦でバルサ史上最短の23分間でのハットトリックを達成し(この時点で8試合9得点を記録、バルサ在籍中の得点率が1.34試合となり、バルサ歴代2位につく)[1]、ひとたびリオネル・メッシ、アンリとともに世界最強ともいわれる3トップを組むと、開幕からシーズン終了までゴールを量産。3人でリーガで計72ゴール、さらに国内のカップ戦、UEFAチャンピオンズリーグなどを含めると計100ゴールを挙げ、その圧倒的な攻撃力をヨーロッパ中に知らしめた。自身も自己最多、リーガ2位の30ゴールを記録し、3シーズンぶりのリーガ制覇とチャンピオンズリーグ、さらにはコパ・デル・レイをも制し、スペイン勢史上初の3冠獲得に大きく貢献。チャンピオンズリーグ決勝のマンチェスター・ユナイテッド戦では決勝点を挙げた。

インテルナツィオナーレ・ミラノ

ファイル:Samuel Eto'o - Inter Mailand (1).jpg
インテルでプレーするエトオ(2009年)

2009年7月、ズラタン・イブラヒモビッチとのトレード(エトオ+移籍金4600万ユーロ)により、5年契約でインテルへ移籍。2008-09シーズンセリエA24得点(得点ランキング2位タイ)のディエゴ・ミリートと2トップを組むことになった。8月8日のスーパーカップラツィオ戦で移籍後公式戦初出場、初得点を記録すると、セリエAデビューとなった2週間後のバーリ戦でPKによりセリエA初得点を挙げた。2010年3月16日のUEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦2ndレグチェルシー戦では、チームを4シーズンぶりのベスト8へと導く決勝ゴールを挙げた。その後インテルはセリエA、コッパ・イタリア、チャンピオンズリーグを制し、エトオは史上初めて2シーズン連続で三冠を獲得した選手となった。

2010-11シーズンも好調が続き、UEFAチャンピオンズリーグではグループリーグ6戦で1位の7得点を記録。セリエAでも得点ランクトップを走ったが、11月21日のキエーヴォ戦では相手選手に頭突きをしてしまい、3試合の出場停止処分を受けた[2]FIFAクラブワールドカップ2010では決勝のマゼンベ戦で1ゴール1アシストを記録するなど活躍し、ゴールデンボール(MVP)を獲得した。12月21日にはクラブでの活躍が評価され、4度目のアフリカ年間最優秀選手賞を受賞した。その後はセリエ、チャンピオンズリーグともに得点王こそ逃したものの攻撃の中心として活躍。2011年5月9日のコッパ・イタリア決勝のパレルモ戦では2得点を挙げ、インテルの2連覇に貢献。またこの2得点でシーズンの総得点を37とし、バルセロナ時代の2008-09シーズンに記録した自己記録を更新した[3]

アンジ・マハチカラ

2011年8月24日、ロシアダゲスタン共和国に本拠地を置くFCアンジ・マハチカラに3年契約で移籍した[4]。移籍金は非公表であるが、移籍金2700万ユーロ、年俸は2000万ユーロと伝えられている[5]。その3日後に行われたロシア・プレミアリーグ第22節のロストフ戦(2-2)では後半58分から出場して80分に同点ゴールを挙げ[6]、第23節のヴォルガ・ニジニ・ノヴゴロド戦では2試合連続となる得点を挙げた[7][8]

チェルシーFC

2013年8月、アンジは経営規模の縮小を発表。結果、主力選手の大半が市場に出ることになった。古巣のインテルなどが獲得に動いたが、2013年8月29日、チェルシーFCに1年契約で移籍決定。再びモウリーニョの下でプレーすることになる[9]。背番号は29番。 10月19日のカーディフ戦で移籍後初ゴールを挙げると、2014年1月20日のマンチェスター・ユナイテッド戦ではハットトリックを達成した[10]

代表

ファイル:Samuel Eto'o.jpg
カメルーン代表でのエトオ

1998年のFIFAワールドカップ・フランス大会にはカメルーン代表史上最年少となる17歳3ヶ月で出場した。同年のトヨタカップ2000年のアフリカネイションズカップシドニー五輪を制した。

また、カメルーン代表として2002年日韓ワールドカップで来日した際にサガン鳥栖と試合をして決勝点を奪っている。

2006年のアフリカネイションズカップ・エジプト大会では、準々決勝で2006年のFIFAワールドカップ・ドイツ大会の最終予選で最後まで出場を争ったコートジボワールPK戦までもつれたが全員成功し2巡目の最初の番でエトオはクロスバーを越えるミスキックをしてしまい、チームはベスト8で敗れた。

FIFAワールドカップ・南アフリカ大会ではグループリーグ初戦の日本戦では、チーム事情から本来のポジションとは異なる右サイドでのプレイを余儀なくされ無得点だったが、デンマーク戦とオランダ戦ではゴールを記録した。9月5日のアフリカネイションズカップ2012予選のモーリシャス戦で2得点を挙げ、代表通算100試合出場と50得点を達成した。

2011年11月15日、代表戦出場ボーナスの支払いがないことから、アルジェリア代表との親善試合をボイコットして試合は中止された。これを重く見たカメルーンサッカー連盟は、16日に代表戦15試合の出場停止処分を下したが[11]、エトオは処分が不服であるとして規律委員会に訴え、4試合の出場停止に軽減された[12]

エピソード

テンプレート:雑多な内容の箇条書き

  • 自らも少年時代には十分な環境でサッカーが出来なかった経験から、母国では自ら出資してサッカー教室を作った。
  • 16歳でレアル・マドリードへ移籍する際、イングランドやイタリアからもアプローチがあったようだが、本人がスペインサッカーに最も惹かれていたこともありスペイン行きとなった。フランスのスタイルも気に入っているらしい。ちなみに初めて欧州へ移籍してきたとき間違えてスペインではなくフランスの空港に降りてしまった。
  • レアル・マドリード時代トヨタカップ優勝を経験しているため、カメルーンに凱旋したときカルロス国王から賞賛されている。その写真はカジ・スポーツアカデミーの食堂に飾ってある模様。
  • グアルディオラ政権となってから、一度戦力外通告を受けていたが、プレシーズンマッチで奮起し毎試合のようにゴールを奪い続け、監督の信頼を勝ち取った。アフリカネイションズカップ中にもバルセロナの試合を気にし続けるなど、クラブに対する深い忠誠心とプロ意識を持っている。もっとも、エトーは自らの心のクラブはマジョルカであると公言しており、スペインのクラブでキャリアを終えるとすればマジョルカで終えたいとインタビューで語っている。
  • 2004-05シーズン、カンプ・ノウで行われた優勝報告会において、超満員に膨れ上がった観衆の前で「Madrid ,cabrón saluda al campeon!(くそったれマドリー、チャンピオンに挨拶しろ!)」(cabrónはかなり強い侮蔑の言葉)と叫び物議を醸し、翌16日に謝罪会見を開いた。[13]
  • 2009-10シーズンの11月に古巣バルセロナとカンプノウで対戦した際、スタメン発表時にスタンディングオベーションで迎えられた。試合後にジェラール・ピケと抱擁しバルサTVのインタビューに応じた
  • 弟のダビド・エトオはマジョルカの下部組織出身で現在はテルセーラ・ディヴィジョン(4部相当)のレウス・デポルチウに所属している。
  • 自他共に認める車好きだが、何度か事故を起こしている。
  • 幼い頃に父親に腕時計を買ってもらって以降、腕時計にはこだわりがあり、自らプロデュースも行っている。2010年W杯予選の際は「カメルーンがW杯に出場できたらチームメイト全員に腕時計をプレゼントする」と宣言し、実際に出場決定後、自らのブランドの450万円相当の腕時計を贈った(計1億円に上る[14])。
  • 携帯電話のマニアとして知られており、400台もの携帯を所持している(そのうち14台は別々の国、電話番号で稼働中)[15]。また、2012年1月には母国カメルーンで携帯電話会社を設立した[16]
  • インテルに移籍後、現時点で世界最高の選手は誰かと問われ、「その選手とは一緒にプレーしたことがある。もちろんメッシだ。」と答えている。
  • 異なるクラブでチャンピオンズリーグ2年連続優勝を経験したのはマルセル・デサイーパウロ・ソウザジェラール・ピケ、エトオの4人だけである。
  • 夫人との間に3人の子供がいるが、サルデーニャ島に住む愛人との間に一子を儲けている。

所属クラブ

1997-1998 →テンプレート:Flagicon CDレガネス (loan) 
1998-1999 →テンプレート:Flagicon RCDエスパニョール (loan)
1999-2000 →テンプレート:Flagicon RCDマヨルカ (loan) 

個人成績

テンプレート:サッカー選手国内成績表 top テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |1997-98||CDレガネス||||セグンダB||28||3||0||0|||||||| |- |1998-99||エスパニョール||||rowspan="11"|プリメーラ||0||0||0||0|||||||| |- |1999-00||rowspan="5"|RCDマヨルカ||||13||6||0||0|||||||| |- |2000-01||||28||11||5||2|||||||| |- |2001-02||||30||6||1||1|||||||| |- |2002-03||rowspan="2"|9||30||14||6||5|||||||| |- |2003-04||32||17||2||0|||||||| |- |2004-05||rowspan="5"|バルセロナ||rowspan="5"|9||37||25||1||0|||||||| |- |2005-06||34||26||2||2|||||||| |- |2006-07||18||11||4||1|||||||| |- |2007-08||18||16||4||0|||||||| |- |2008-09||36||30||4||0|||||||| |- テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2009-10||rowspan="2"|インテル||rowspan="2"|9||rowspan="2"|セリエA||32||12||3||2|||||||| |- |2010-11||35||21||4||5|||||||| |- テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2011-12||rowspan="2"|アンジ・マハチカラ||rowspan="2"|9||rowspan="2"|ロシア・プレミア||22||13||1||0|||||||| |- |2012-13|||||||||||||||| |- テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算始276||162||29||11|||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行28||3||0||0|||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行67||33||7||7|||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行22||13||1||0|||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算終393||211||37||18|||||||| |}

代表歴

獲得タイトル

クラブ

トヨタカップ (1): 1998
コパ・デル・レイ (1): 2002-2003
リーガ・エスパニョーラ (3): 2004-2005, 2005-2006, 2008-2009
スーペルコパ・デ・エスパーニャ (2): 2005, 2006
UEFAチャンピオンズリーグ (2): 2005-2006, 2008-2009
コパ・デル・レイ (1): 2008-2009
コッパ・イタリア (2): 2009-2010, 2010-2011
セリエA (1): 2009-2010
UEFAチャンピオンズリーグ (1): 2009-2010
スーペルコッパ・イタリアーナ (1): 2010
FIFAクラブワールドカップ (1): 2010

代表

夏季オリンピック 金メダル (1) : 2000
アフリカネイションズカップ (2) : 2000, 2002

個人

脚注

テンプレート:Reflist

外部リンク

テンプレート:Sister

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テンプレート:Navboxesテンプレート:Link GA
  1. 「TOPIX FILE:エトーが「最短ハットトリック」を達成!!」 『WORLD SOCCER DIGEST No.279』 第14巻第22号、日本スポーツ企画出版社、2008年、81頁。雑誌 29893-11/20
  2. エトーへの処分が確定 パンデフは古巣相手に不振脱却なるか? Livedoorスポーツ 2010年12月3日
  3. バルサ時代の自己記録を塗り替えたエトー「僕はインテルに残る」SOCCER KING 2011年6月1日
  4. エトーがインテルからアンジへ移籍uefa.com、2012年1月8日閲覧。
  5. アンジがエトー獲得を発表goal.com、2012年1月8日閲覧。
  6. ロシア移籍のエトー、早くもデビュー弾goal.com、2012年1月8日閲覧。
  7. Голы Это'О и Роберто Карлоса помогли "Анжи" победить "Волгу"championat.com、2012年1月8日閲覧。
  8. Мгновения 23-го тураchampionat.com、2012年1月8日閲覧。
  9. チェルシー、エトー獲得を発表Goal、2013年8月30日閲覧。
  10. エトー3発でユナイテッドを粉砕 香川は出番なしGoal、2014年2月27日閲覧
  11. 代表戦のストライキをしたエトーが15試合の出場停止処分にsoccer-king.jp、2012年1月8日閲覧。
  12. エトーの出場停止処分が大幅軽減Goal.com、2012年1月8日閲覧。
  13. Sammi Eto'o Madrid Cabron http://www.youtube.com/watch?v=TjkHfoBlCnI&fmt=34
  14. 「TOPIX FILE:大盤振る舞いを見せたエトー」 『WORLD SOCCER DIGEST No.305』 第15巻第24号、日本スポーツ企画出版社、2009年、81頁。雑誌 29893-12/17
  15. エトーは携帯マニア? その数なんと400台!ライブドアニュース、2014年2月27日閲覧。
  16. エトーが携帯電話会社を設立Goal.com、2014年2月27日閲覧。