サッカー日本代表

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テンプレート:サッカーナショナルチーム サッカー日本代表(サッカーにっぽんだいひょう、サッカーにほんだいひょう)は、公益財団法人日本サッカー協会 (JFA) によって編成される日本サッカー国家代表チームである。一般的に「サッカー日本代表」と呼称する場合は、「男子Aナショナルチーム」(年齢制限のないベストメンバーによる代表)を指すことが多い。

FIFAワールドカップには5回出場しており、最高成績は2002年大会2010年大会のベスト16。AFCアジアカップでは最多となる4回の優勝を記録している。アジアサッカー連盟および東アジアサッカー連盟所属。

概要と特徴

テンプレート:ユニフォームの色

チームカラー

現在は基本色として青、サブカラーに白を使用している。青は「日本の国土を象徴する海と空の青」を表すとされているが、これは後付の説明であり、採用時の正確な理由は日本サッカー協会に資料が現存せず不明であるが(日本サッカー協会公式見解)[1]、最初期の日本代表は選抜チームではなく、大学やクラブなどの単独チームで構成され、代表ユニフォームも各チームのものをそのまま使用していたため、その流れで日本代表が初めて選抜チームを結成し優勝を果たした1930年極東選手権の日本代表に大半の選手を送り込んだ東京帝国大学のライトブルーのシャツをそのまま採用したのが始まりと考えられている[2][3]

日本代表にとって初の国際試合となった1917年極東選手権では、東京高等師範学校(現:筑波大学)が日本代表として出場したため、東京高等師範学校ユニホームである海老茶色のシャツ(黒のパンツ、白の鉢巻)をそのまま使用した[3]。前述の通り、1930年極東選手権でライトブルーのシャツとなった以降は1936年ベルリン五輪に出場した早稲田大学主体の選抜チームの日本代表が淡い青色のシャツとなるなどチームカラーとして青が定着することになった[2][3]

1964年東京オリンピックでは上下共に白、1968年メキシコオリンピックでは白のシャツに紺のパンツとなり、1970年代以降は白と青が交互に基調とされるようになった。1988年に日本代表監督に就任した横山謙三の意向により日本代表のユニフォームは国旗の色である赤に同年変更され、胸には従来あった日の丸ではなく三本足の八咫烏が付けられるようになった(ユニフォームの胸の八咫烏のエンブレムは現在も続けて採用されている)。横山監督の成績が振るわず更迭されると、1992年に青を基調としたユニフォームに戻され、現在も続いている[3][4]

歴代ユニフォーム

ホーム

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アウェー

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愛称

2005年10月、日本サッカー協会は5つの候補の中から一般投票を行い、2006年1月27日に他の候補に2倍以上の得票数を獲得した「SAMURAI BLUE 2006」を2006年ワールドカップに向けたペットネームにすることが発表された。2009年10月19日には「SAMURAI BLUE(サムライ・ブルー)」を公式の愛称とすると定められた[5]。グループリーグ敗退に終わった2006 FIFAワールドカップでの愛称の使い回しであることや、ワールド・ベースボール・クラシックでの野球日本代表の愛称「SAMURAI JAPAN(サムライ・ジャパン)」と酷似していると点を批判するメディアもある[6]

マスメディアではハンス・オフトが初の外国人代表監督となった際に「オフト・ジャパン」という呼称が使われるようになり、以降「監督名+ジャパン」という呼称が用いられ広く浸透している。フィリップ・トルシエの代表監督時代は「トルシエ・ニッポン」という呼称も使用されていた[7][8][9][10]

海外メディアでは「ライジング・サン」や「ブルー・サムライ」が使われる事がある。ブルーズという愛称もあるが[11]一般的ではない。

マスコット

三本足のカラスである八咫烏をモチーフにした「カラッペ」と「カララ」がマスコットキャラクターである。デザインは松下進がおこなった。チームユニホームのデザインが変更される度に、2匹のユニホームもそれに合わせて手直しされている。

日本代表グッズ

大日本蹴球協會(現日本サッカー協会)は、1936年ベルリンオリンピック(「ベルリンの奇跡」の大会)への日本代表派遣費用の内、大日本體育協會(現日本体育協会)から支給される旅費以外の経費3万円(2011年で計算すると現在の5275万5千円に当たる)を調達する為に、積極的に募金活動を行った[12]。また、浴衣地(ゆかたじ)や手ぬぐいを販売した。これが「日本代表グッズ」の始まりであり[3]、現在ではレプリカユニフォームやタオルマフラー等多様な日本代表グッズが販売されている。

プレースタイル

サッカー日本代表のプレースタイルとしては中盤にテクニックのある選手を揃えショートパスを丁寧に繋ぐ事が挙げられる。日本のショートパス戦法は古くは1920(大正9)年頃からインステップキックやインサイドキック等の基礎技術とショートパスを繋いで攻める基礎戦術を早稲田高等学院などで教え、1923(大正12)年8月に『How to play association football』という当時としては画期的な写真や図を多用した理論的且つ具体的な技術や戦術の指導書の日本語版を出版し、同年に日本全国で巡回指導したビルマ(現ミャンマー)人留学生チョウ・ディンの指導により始まった[3][13]。後にテクニカルなブラジルスタイルを模倣するようになった[14]。なお、ロングボールを多用した時期もあったが、その時期はアジアでも低迷している。

1960年代から1970年代にかけて活躍した釜本邦茂以降はシュート・得点能力に優れるFWの選手が存在せず、ゴール前での絶好のシュートチャンスを決めきれないという特徴がある[15]。この特徴はしばしば「決定力不足」と形容される[15]

悪質なファウルなどが他国の代表と比べて少なく、世代別代表も含め国際大会ではフェアプレー賞を多く受賞している。

待遇

現在の日本代表選手に対しては様々な給料や手当を、日本サッカー協会(JFA)がその予算の中から支払っている。なお、現在のJFAは独立採算制であり、国の税金は一切入っていない。現在、サッカーくじtotoから3億円以下程度の助成金が入るようになったが、これはJFA全収入の3%以下でしかない(2010年度)。

プロ化される以前の日本代表選手は、JFAが日本代表海外遠征費を捻出できず、旅行代理店に手形で支払うこともあったほど長期に渡り財政難だったこともあり、JFAから給料や手当を長期に渡って受け取っていなかった。1969年のメキシコW杯アジア・オセアニア予選終了後、日本代表選手たちがJFAから何の手当ても受け取っていない事実を知ったデットマール・クラマーコーチが、「私は君たちに厳しい要求をし過ぎたようだ」と謝罪したエピソードがある。また、1972年5月、ペレが所属するブラジルサントスFCが来日し、日本代表と対戦した。前売り券は4日で売り切れ、国立競技場はほぼ満員(有料入場者数5万3516人)となった。この為、当時日本代表だったジョージ小林が、日本代表合宿中に長沼健監督に入場料収入の一部をボーナスとして受け取れないかと要求したが、当時のJFAは依然として財政難だった為、断られた[3]。その後、JFAの財政基盤確立への様々な取り組みの結果、1976年ペレの引退試合以降、JFAの財政は好転し一度も赤字にならずに済むようになった。森孝慈が日本代表監督に就任すると、JFAと日本代表選手の手当てなどについて交渉して、1982年から1日3千円の手当てがつくようになり、翌1983年からは出場した場合あるいは勝利した場合にボーナスがつくようになった[3]。同時に宿泊施設についても改善された[16]。1993年のJリーグ誕生後には日当と勝利給が支給されるようになったが、出場給は存在しなかった。

日本代表の報酬総額は年々アップしている。アメリカW杯アジア予選の際には、JFAは2億円を用意していた。次回のフランスW杯アジア予選の時には2倍の4億円(出場時間に応じて配分された。1人最高1000万円)を計上し、見事に初出場を果たした。開催国だったため、アジア予選に出場しなかった日韓W杯では、本大会のボーナスとして総額6億9000万円の予算を組んだ。

2005年時点では、試合だけでなく合宿なども含めた日本代表全活動期間の日当が1万円、勝利した場合は勝利給(勝利ボーナス)が全額支給され、引き分けだと半額、負ければ勝利給ゼロで日当のみが支払われた。勝利給は試合の重要性によって異なり、 キリンカップのような親善試合では10万円、アジアカップなどの公式戦で30万円、ワールドカップ(W杯)アジア予選では50万円だった[17]。成績が良ければプレミア給も追加して支給され、ドイツW杯アジア予選を突破した際には、日本代表選手1人当たり約1000万円が支給された。2004年のアジアカップ中国大会で日本代表が優勝した際には、当時主将のCB宮本恒靖が「ベンチの選手にもボーナスを」と訴え、ベンチ入りしたものの出場機会はなかった選手も含め全員に一律で優勝ボーナス300万円が支払われた(2004年までは出場実績に基づき勝利給の支給額を変動)。海外クラブに所属している日本代表選手には、ビジネスクラス相当の移動費が支給され、上位のファーストクラスを利用する場合は、その差額は選手の自己負担となる。これらの日本代表選手が受け取る給料はJFAが選手の銀行口座に振り込む。また選手の負傷に備えて、保険がかけられている。日本代表選手が所属するクラブに対してJFAは選手1人につき、1日1万5千円の「クラブペイメント」を支払っていた。

2010年度は「日本代表選手ペイメント規定」に基づき、代表選手への日当やボーナスが支払われた[18]。日当(1日1万円)と勝利給の扱いは2005年時と同様。勝利給はW杯本大会は200万円、W杯アジア予選アジアカップ本大会コンフェデ杯が30万円、東アジアカップ(旧東アジア選手権)アジアカップ予選キリンカップFIFAランク10位までのチームとの親善試合が20万円、FIFAランク11-20位までのチームとの親善試合が15万円、FIFAランク21位以下のチームとの親善試合が10万円となった。また、大会ボーナスも、W杯本大会であれば、優勝5000万円が最高額で、ベスト16(=決勝トーナメント進出)で600万円等各大会ごとの各成績別に細かく規定されている。以上を出場実績に関係なく該当試合及び大会に選出された日本代表選手全員に一律に支給する。他、W杯アジア最終予選出場選手のみが対象のW杯本大会出場権獲得ボーナスがあり、出場実績で変動し最高1000万円まで支払われ、更に貢献度が高い選手には特別報酬100万円または200万円が追加して支払われる。日本代表選手が所属する日本国内のクラブに対してJFAは選手1人につき、派遣費1日5万円、傷害等による出場不能期間の補償1日3万円の「クラブペイメント」を支払っている。

日本代表選手の給料の支給方法についてはJFA技術委員会で決めているが、その時の日本代表監督の意向が反映される。南アフリカW杯アジア予選では、岡田武史監督(当時)の意向で、出場給の「実績変動制」が導入された。1試合につき、出場した選手に80万円、ベンチに入った選手に60万円、ベンチ外の選手に40万円(金額はいずれも推定)が支払われた[19]。しかし、W杯出場権獲得ボーナスはなかった。これについて、犬飼基昭JFA会長(当時)は「南アフリカW杯本大会ベスト4が目標である以上、アジア予選通過はその対象にならない」と述べている。南アフリカW杯本大会では前述通り「日本代表選手ペイメント規定」に基づき、総額約2億5000万円が日本代表選手に支払われた[18]

2010年12月17日、日本プロサッカー選手会(JPFA。当時は藤田俊哉会長)が日本代表の親善試合での勝利給は20万円程度で、J1各クラブの勝利給の半分以下であり、これはハードな日程の中、招集に応じ、重圧とも戦いながら得る報酬としては極めて低い額であること、肖像権料も90%がJ各クラブへ分配されているが、選手への分配は認められていないことなどの待遇改善をJFAに要求した[20]。以後、両者間で協議が続き、2012年11月16日、勝利給等の昇給が決まった。W杯アジア予選等が30万円から50万円にアップするなど、Aマッチの勝利給を全体的に引き上げた。また、親善試合の勝利給は対戦国のFIFAランクにより増減していたが、一律の勝利給に統一された。正式には理事会の承認を経て、2013年3月26日のブラジルW杯アジア最終予選B組第7節ヨルダン戦から実施される[21][22]

2012年時点では、日本代表の放映権料は1試合当たり1億5000万円[23]。日本代表の約1週間の海外遠征には約5000万円程度の経費が必要である[24]

歴史

初期

大日本蹴球協會(現日本サッカー協会〔JFA〕)は、1921年に設立され、1929年国際サッカー連盟 (FIFA) 総会でFIFA加盟が承認された。

日本代表にとって最初の国際試合は、1917年に日本で開催された第3回極東選手権の初戦となった5月9日中華民国戦だった。東京高等師範学校の単独チームによる日本は0-5で中華民国に敗れた。2試合目の5月10日フィリピン戦では、パウリノ・アルカンタラ擁するフィリピンに2-15と大敗した。これは現在も日本代表の最大差敗戦試合に記録されている(しかし、2試合ともJFAが認定する国際Aマッチではないので留意する必要がある)。尚、この試合でFW藤井春吉が2ゴールを決め、日本代表として初めての得点者となっている[25]

1927年の第8回極東選手権には早稲田WMWが日本代表として出場し、フィリピンを2-1で破って国際試合初勝利を挙げた。1930年に日本で開催された第9回極東選手権には単独チームではなく東京帝国大学ア式蹴球部主体ではあったが、初めて全日本選抜が編成された。日本は中華民国と同位優勝し、国際大会における初タイトルを獲得した。

1936年ベルリンオリンピックでは、早稲田大学ア式蹴球部主体の選抜チームの日本代表が1回戦でスウェーデンを破る番狂わせを起こした(「ベルリンの奇跡」)。

ワールドカップへの道程

1930年の第1回ワールドカップ開催にあたり、開催地が南米であることから欧州勢は相次いで不参加を表明した。これに対してFIFAは加盟国に招待状を送ったものの、日本サッカー協会は参加を見送った。その理由は、当時の日本国内が1927年昭和金融恐慌以来慢性的な不況であったため、同年の昭和恐慌発生でさらに経済状態が悪化していたため、そして、日本サッカー協会自身も財政難であったためである。なお、この大会は、以降の大会とは異なり、地区予選は行われていない。

日本は、1938年のフランス大会予選にエントリーした。この予選ではオランダ領東インドとの直接対決に勝てば本大会出場が決まる筈だったが、折からの情勢不安により参加を辞退しエントリーのみに終わった。

第二次世界大戦後の1945年11月13日、戦後の混乱の中、会費が払えずFIFAから資格停止処分にされた[26][27][28]。それから2年後の1947年4月1日日本蹴球協会へと名称変更した上で再発足し[3][29]連合国軍総司令部 (GHQ) の占領終了の2年前の1950年9月23日にFIFAに日本蹴球協会として再加盟し[30][29]、日本サッカー界は政治の世界より一足早く国際舞台に復帰した。日本代表は1954年のスイス大会で初めてワールドカップアジア予選への参加を果たした。韓国代表との一騎打ちとなったワールドカップアジア最終予選は、本来ホーム&アウェイ方式で行われるはずが、韓国李承晩大統領の意向(李承晩ライン)で自国開催を拒否したことにより、2試合とも東京で開催されることとなった。日本はホーム開催のアドバンテージがあったにもかかわらず、その2試合とも敗れ出場を逃す。その後も、1950年代から60年代の日本はアマチュアリズム全盛の時代で、ワールドカップの意義、ワールドカップに出場する意義について理解していたとは言いがたく(当時選手として出場していた長沼健第8代JFA会長によれば1954年のスイス大会アジア予選に出場した頃は、そもそもワールドカップとはどんな大会なのか分からずに戦っていたという)[3]、また東京オリンピックを目指して強化を進めていた時期も重なり、ワールドカップよりもオリンピック(以下五輪と略すことあり)に重点が置かれ、予選参加と辞退を繰り返す状態だった。

1968年メキシコオリンピックで銅メダルを獲得すると、メダル獲得の目的を達成した。これによって、次の目標としてワールドカップ出場にも関心が向くようになり、1970年 メキシコ大会以降、継続的に予選に参加するようになった。しかし、オーストラリア(当時はオセアニアサッカー連盟〈OFC〉の予選の勝者がアジア予選に参加)やイスラエル(当時アジアサッカー連盟〈AFC〉所属)といった国々の前に屈し、アジア予選での敗退が続くことになった。この時期も依然として日本サッカー界にはアマチュアリズムの精神が色濃く残っていた。当時の日本代表選手にとっては「ワールドカップはプロ選手の大会」という認識だったのである。そのため、ワールドカップはオリンピック前のチーム育成の一環として捉えられることが多かった。例えば、ワールドカップアジア予選に若手を出場させ底上げを図り、主力のA代表(年齢制限のないその国最強の代表)を“本番”の五輪に参加させるといったことも、しばしばあった。また、テレビ放送やサッカー雑誌によってワールドカップの紹介がなされるようにはなったものの、選手もファンも、ワールドカップはあくまでもテレビで観戦するものであり、違う世界の出来事という認識を持っていた。

1974年8月31日、協会は財団法人となり、協会誕生より53年間の任意団体状態から脱却し、同時に日本蹴球協会から日本サッカー協会に名称を変更した[31][29]。その後、2012年4月1日付で公益財団法人となり、それまで監督官庁だった文部科学省から完全な独立を果たした(2012年3月31日までは、財務諸表などを文部科学省に届ける必要があった)[32]

日本にとって遠い道程であるワールドカップが身近なものとなったのは、1986年メキシコ大会アジア予選の活躍である。この大会の1次予選を1位で通過すると、日本は2次予選で香港を破り、最終予選となる韓国戦へと駒を進めた。しかし、第1戦ホームでは10番木村和司フリーキックが決まるも1-2で惜敗。ソウルでの第2戦も0-1で敗れ、日本は本大会出場を逃すこととなった。

この敗戦によりアマチュアリズムの限界を悟った日本サッカー協会は、翌1986年スペシャル・ライセンス・プレーヤーの導入を決定した。また当時のFIFA会長のジョアン・アヴェランジェの意向もあり、ワールドカップ日本開催が俄かに現実味を帯び始めたことで国内での状況にも変化が現れた。日本でワールドカップを開催するとなれば、開催国の名に相応しい強い代表チームが必要となる。その為の強化に関わる様々な改革がなされるようになった。1993年からスタートしたJリーグもその一つである。

1987年10月26日、引き分けでも日本の1988年ソウル五輪出場が決まる有利な状況の中、ホーム国立で行われたソウル五輪アジア最終予選第6戦最終戦中国戦で日本が0-2で敗れ(中国が五輪出場)、予選敗退が決まった。それまで日本A代表の最大の目標だった五輪が、1992年のバルセロナ五輪から23歳以下の選手の大会に規定が変更されていた為、このソウル五輪予選敗退直後から日本A代表の目標はFIFAワールドカップ(W杯)へと完全に変わることになった[3]

1992年3月に、日本のクラブを指導し実績を上げていたハンス・オフトを日本代表初の外国人監督として就任させ、それまで出場したことのないワールドカップ本大会への挑戦が本格化した。強化は順調に進み、1994年アメリカW杯アジア予選では最終予選に進出する。しかし、イラクと対戦した最終戦で後半ロスタイム(現在のアディショナルタイム)に同点に追いつかれ引き分けたため、あと一歩のところで出場権を逃した(ドーハの悲劇)。

1998年フランス大会は、日本にとってワールドカップ本大会初出場を自力で果たす最後のチャンスとなった。それは、2002年に日本でのワールドカップが開催されることが決定していたためである。1997年のフランス大会予選では、最終予選グループでは韓国に次ぐ2位となったものの、プレーオフでは延長戦の末、岡野雅行ゴールデンゴールイランを3-2で破り、1954年のスイス大会予選から43年越し10回目の挑戦にして悲願のワールドカップ出場権を獲得した(ジョホールバルの歓喜)。

FIFAワールドカップ

 詳細は各大会の記事を参照

ファイル:98France 14juin.JPG
1998年、対アルゼンチン戦のスタンドの様子(トゥールーズ
1998年フランス大会
初出場となったこの大会では、グループリーグでアルゼンチンクロアチアジャマイカと対戦。アルゼンチン以外の3チームがワールドカップ初出場というグループであったが、アルゼンチンとクロアチアにはともに0-1で敗れて早々とグループリーグ敗退が決定。最終戦となったジャマイカ戦では中山雅史がチーム初得点こそ挙げたものの1-2で敗戦し、グループリーグ3戦全敗で本大会を終えた。
2002年日韓大会
開催国のため予選免除での出場。1990年代のサッカー界の改革の元で育成され各年代の国際大会で好成績を収めた選手達が中心になったチームは、本大会グループリーグ初戦のベルギー戦を2-2の引き分けで初の勝ち点を獲得。続く第2戦ではロシアに1-0で勝利して本大会初勝利を収め、最終戦でチュニジアに2-0で勝利し2勝1分の一位で初の決勝トーナメント進出を決めた。一次リーグの一位突破および無敗突破はいずれもアジア史上初であった。決勝トーナメント1回戦ではトルコに0-1で敗れ、ベスト16という成績で地元開催のW杯を終えた。
2006年ドイツ大会
2大会ぶりに予選に参加し、アジア予選では1次予選で6戦全勝、最終予選で5勝1敗の成績で1位通過し、3大会連続の本大会出場を果たすとともに、時差の関係でワールドカップ予選突破第1号となった。前回大会で活躍した中田英寿黄金世代の選手達が20代後半~30代前半と円熟期を迎え、更に、前回大会には出場の叶わなかった中村俊輔高原直泰が加わったチームは「史上最強」と謳われ、最終予選では視聴率が40%を超える試合が続出する等、日本サッカーファンの期待はかつて無い程大きく高まっていた。しかし、第1戦(オーストラリア戦)では、中村のゴールで先制したものの1-0から試合終了前10分間に3失点して逆転負け。第2戦(クロアチア戦)では柳沢敦が決定機を外す等、川口能活を中心とした守備陣の頑張りが報われず0-0で引き分け、第3戦(ブラジル戦)ではW杯通算得点数でゲルト・ミュラー超えがかかったロナウドに2ゴールを決められる等1-4と大敗。グループリーグを最下位で終えた。
2010年南アフリカ大会
2009年6月6日アジア最終予選においてウズベキスタンに勝利して4大会連続4度目の本大会出場を決め、2006年大会に引き続き2大会連続で予選突破第1号となった。しかし、内容が伴わない試合が多かった上に、本大会前の強化試合で4連敗を喫したことからサポーターやマスコミから酷評され続け、監督の岡田武史及び日本サッカー協会が掲げた「ベスト4」という目標は「非現実的」と批判される等、かつてないほどの低評価の中で本大会に臨むこととなった。ところが、本選2試合前から試された4バックにアンカーを置く守備的布陣が功を奏し、初戦のカメルーン戦を1-0で勝利して他国開催でのW杯初勝利を挙げると、第2戦のオランダ戦こそ0-1で敗れたものの最終戦でデンマークに3-1で勝利し、通算2勝1敗の2位で2大会ぶりのグループリーグ通過を果たした。2勝以上を挙げた大会が2度あるアジア初の国となった。決勝トーナメント1回戦ではパラグアイと対戦し、0-0のまま延長戦でも決着せずPK戦の末3-5で敗れベスト16で敗退。目標のベスト4とはならなかったが、オランダやパラグアイ等の強豪を相手に4試合を2失点に抑えた堅守により、大きな結果を残した。
2014年ブラジル大会
2013年6月4日埼玉スタジアム2002でのアジア最終予選第7戦(第8節)においてオーストラリアと引き分け、5大会連続5度目の本大会出場が決定。初出場から5大会以上連続出場はブラジルイングランドに次いで史上3か国目となり、2006年・2010年大会に続き3大会連続で予選突破第1号となった。また、日本で本大会出場を決めたのはこの大会が初めてとなった。
前回大会で活躍した本田圭佑や、新たに台頭した香川真司等、過去最多の海外組が名を連ねる攻撃サッカーを掲げたチームの前評判は非常に高かった。しかし、コートジボワールとのGL初戦は本田の2大会連続ゴールで先制しながら後半19分から2分間で2点を奪われ逆転負けを喫すると、続くギリシャ戦は前半に相手が一人退場するも数的優位を生かせずスコアレスドロー。コロンビアとの最終戦は控え中心だった相手にシュート数とボール支配率は上回りながら1-4の大敗と、1勝も挙げる事なくグループ最下位で敗退となった。ザッケローニが監督に就任して以降不安視され続けた守備面が最後まで改善されなかった事や、本調子ではない本田に極端に依存した結果攻撃陣が機能不全に陥った事、ザッケローニの一貫性を欠いた采配でチームを混乱させた事等、期待度が高かった2006年大会を彷彿とさせる様な試合内容であった。

FIFAコンフェデレーションズカップ

 詳細は各大会の記事を参照

1995年サウジアラビア大会(第2回、当時の大会名はキング・ファハド・カップ)
アジアカップを初制覇して初出場した大会であったが、2試合2敗・得点1失点8のグループリーグ最下位と、惨敗に終わった。
2001年日韓大会(第5回)
地元開催となった当大会では、初戦で北中米カリブ王者カナダを破りコンフェデレーションズカップ初勝利を上げると、第2戦でアフリカ王者カメルーンを撃破し、グループリーグ突破を決めた。第3戦では、南米王者ブラジル相手に善戦して引き分け、グループリーグ1位となった。準決勝では、大雨の中、中田英寿のFKが決勝点となり、決勝進出。決勝では、惜敗したものの、男子日本代表がA代表に於けるFIFA主催の大会で決勝に進んだのは、史上唯一の快挙である(2014年現在)。
2003年フランス大会(第6回)
初戦でオセアニア王者ニュージーランドに大勝するも、欧州王者フランス、南米王者コロンビアに連敗。グループリーグ3位となり、2大会連続の決勝トーナメント進出はならなかった。
2005年ドイツ大会(第7回)
欧州王者ギリシャに勝利し、南米王者ブラジルと引き分けるも、初戦で北中米カリブ王者メキシコに敗戦したことが響き、得失点差でグループリーグ3位となり、惜しくも決勝トーナメント進出ならず。
2013年ブラジル大会(第9回)
アジアカップ2011を制し、2大会振りの出場となったが、同組にブラジル、欧州王者イタリア、北中米カリブ王者メキシコと、ワールドカップ優勝経験国2ヶ国が入る「死の組」に入り、3戦全敗のグループリーグ最下位。攻撃的サッカーを標榜して来たザックジャパンであったが、失点数は3試合で9点に及び、守備力不足が露呈した。

アジアカップ

アジアにおいてはアジアサッカー連盟(AFC)主催のアジアカップ(サッカー単一種目での大陸選手権)と並んで、アジアオリンピック評議会主催のアジア競技大会(総合競技大会)がかつて高い位置を占めていたので、サッカー日本代表は後者をより重視した。その理由としては、当時はアマチュアリズム全盛の時代であり、オリンピックを重視していたため五輪と同年のアジアカップを軽視していたことや、現在とは違い代表に投資できる年間予算も限られていたことなどが挙げられる(当時のアジア大会の最高成績は1951年イラン大会と1966年バンコク大会の3位。U-23の大会に変わった後の2002年に準優勝、2010年に優勝を果たしている)。

1967年7月、台北で開催された第4回アジアカップイラン大会東地区予選に日本B代表が初参加したものの予選で敗退した。B代表が出場したのは、同じ7月にA代表がペルーとブラジルへ遠征中だったためである。続く第5回タイ大会は不参加。1975年6月、香港で開催された第6回イラン大会東地区予選では初めてA代表が出場した。東地区予選大会は決勝に進んだ2チームが出場する形だった。6月14日の組み分け予備戦(組み分けを決める為に行う試合)で香港と対戦し引き分けたもののPK戦で勝てず (0-0 (PK3-4) ) 、グループリーグでは1勝1敗で準決勝に進み、中国と対戦したが、6分、33分と失点。日本の得点は43分に1点を返したのみで終わり、1-2で敗れ、予選敗退が決まった。その後、第7回クウェート大会第8回シンガポール大会と立て続けに参加しなかった。

前述のとおり、1992年バルセロナ五輪から五輪が23歳以下の選手の大会になったことで、1987年10月26日にソウル五輪アジア最終予選第6戦最終戦中国戦で日本が0-2で敗れ、予選敗退が決まった直後からJFAは日本A代表の最大の目標をワールドカップへと完全に切り替えた。

1988年第9回カタール大会予選で大学生を主体とするB代表が初めて予選を突破し、そのままB代表が同年12月の本大会に出場したが、本大会では1次リーグ4試合を通じ無得点で1分3敗のグループ最下位で大会を終えた。当時は依然としてJFAやマスコミはアジアカップを軽視しており(同時期に日本で開催していたトヨタカップを重視し、アジアカップに帯同する記者が少なかったことについて大会の関係者が次回の日本開催について考えなおす旨の発言もあった)、バルセロナ五輪(この五輪から23歳以下の大会)アジア予選に向けたチーム作りの一環として第9回カタール大会予選にB代表を参加させた。ところが、期せずして予選を突破した為、そのまま本大会にも出場させたという[3]

JFAは、日本代表監督としては史上初の外国人監督ハンス・オフトを1992年3月に日本代表監督へ就任させた。

1992年10月30日から開幕する第10回日本大会へは開催国として出場が決まっており、開催国としても、翌年5月15日に迫ったJリーグ開幕に向け盛り上げる為にも、オフトがチームを掌握する為にも(就任当初は基礎を徹底するオフトに主力が反発するも、結果が出るに従い収まっていったが、中心選手のラモス瑠偉だけが猛反発。1992年9月26日のオフトとの個人面談で和解したが[33]、アジアカップの結果次第では再燃する恐れがあった)、そして何より翌年4月8日から始まる1994年アメリカW杯アジア予選(1993年4月8日がアジア一次予選初戦タイ戦)に自信を持って挑む為にも、この大会での勝利、好成績が求められていた[3]

広島県各地で開催された日本大会では三浦知良、ラモス瑠偉、北澤豪、中山雅史らが活躍し、主要国際大会で史上初めての優勝をもたらした。実質日本が初めて真剣に取り組んだアジアカップで、初の栄冠を勝ち取ったのであった。またこの大会は日本各地にサポーターが生まれるきっかけにもなった(それまでも東京の国立では日本サッカー狂会をはじめ数少ないサポーターたちが声をそろえて応援し続けていたが、この大会ではウルトラス・ニッポンの一般観客を巻き込みながらスタンド全体で手拍子と歌によって行う大規模な応援が注目を集め、マスコミが報道した[3]。そのことで翌年のJリーグ開幕以降、日本各地にサポーターが誕生することになった)。

1996年第11回UAE大会はグループリーグを3戦全勝で通過したものの、準々決勝でクウェートに0-2で敗れ連覇ならず。

2000年第12回レバノン大会は直前のシドニー五輪を戦った中村俊輔高原直泰ら「黄金世代」といわれたシドニー五輪代表と、名波浩川口能活フランスワールドカップ以来のメンバーが融合したチームをフィリップ・トルシエ監督が率い、圧倒的なパフォーマンスで大会を席巻。グループリーグを2勝1分で1位通過すると、準々決勝ではイラクを4-1、準決勝では中国を3-2でそれぞれ逆転で降す。そして、決勝戦では前回優勝のサウジアラビアを1-0で破り2大会ぶり2度目の優勝を果たした。

2004年第13回中国大会ではジーコ監督のもと主力を怪我などで欠き、地元サポーターの激しいブーイングを受けるなど逆境の中での戦いであったが、決勝トーナメントで2度の延長戦を制した末決勝戦で地元中国を3-1で下して、2大会連続3度目の優勝を果たした。

2007年第14回4ヵ国(タイ、マレーシア、ベトナム、インドネシア)共催大会ではグループリーグを2勝1分の1位で通過。準々決勝では初参加のオーストラリアをPK戦の末に勝利してベスト4へ進んだものの、準決勝でサウジアラビアに2-3で敗れ3連覇はならず、さらに3位決定戦でも韓国にPK戦の末に敗れ4位に終わった[34]

2011年第15回カタール大会ではグループリーグを2勝1分の1位で通過。準々決勝の地元カタール戦では10人になりながらも3-2で逆転勝利。準決勝の韓国戦では延長戦でも決着が付かずPK戦に突入し、川島永嗣が相手のPKを2本止める活躍で勝利し決勝進出。決勝のオーストラリア戦では0-0のまま延長戦に突入し、延長後半に長友佑都の左サイドからのクロスボールに李忠成がボレーシュートで合わせ代表初ゴールとなる決勝点を決めて、2大会ぶり4度目(歴代最多)の優勝を遂げた。

コパ・アメリカ

日本代表はアメリカ州外からコパ・アメリカに参加した唯一のチームであり、これまでに1999年大会2011年大会に招待されている[35]。しかし、2011年大会は同年3月に発生した東日本大震災の影響による国内リーグの日程変更により、招集予定であった国内クラブに所属する選手の招集が困難となったこと、欧州クラブに所属する代わりの選手の招集も困難であった(アジアの大陸選手権ではないため代表拘束権がない)ため、参加を辞退した。

特筆すべき試合

成績

FIFAワールドカップの成績

FIFAワールドカップ FIFAワールドカップ・予選
開催年 結果 試合数
[注1 1]
得点 失点 試合数 得点 失点
テンプレート:Flagicon 1930 不参加 不参加
テンプレート:Flagicon 1934
テンプレート:Flagicon 1938
テンプレート:Flagicon 1950[注1 2]
テンプレート:Flagicon 1954 予選敗退 2 0 1 1 3 7
テンプレート:Flagicon 1958 不参加 不参加
テンプレート:Flagicon 1962 予選敗退 2 0 0 2 1 4
テンプレート:Flagicon 1966 不参加 不参加
テンプレート:Flagicon 1970 予選敗退 4 0 2 2 4 8
テンプレート:Flagicon 1974 4 1 0 3 5 4
テンプレート:Flagicon 1978 4 0 1 3 0 5
テンプレート:Flagicon 1982 4 2 0 2 4 2
テンプレート:Flagicon 1986 8 5 1 2 15 5
テンプレート:Flagicon 1990 6 2 3 1 7 3
テンプレート:Flagicon 1994 13 9 3 1 35 6
テンプレート:Flagicon 1998 グループリーグ敗退 3 0 0 3 1 4 15 9 5 1 51 12
テンプレート:Flagiconテンプレート:Flagicon 2002 ベスト16 4 2 1 1 5 3 免除(開催国)
テンプレート:Flagicon 2006 グループリーグ敗退 3 0 1 2 2 7 12 11 0 1 25 5
テンプレート:Flagicon 2010 ベスト16 4 2 1 1 4 2 14 8 4 2 23 9
テンプレート:Flagicon 2014 グループリーグ敗退 3 0 1 2 2 6 14 8 3 3 30 8
合計 5/20 17 4 4 9 14 22 102 54 24 24 203 78

テンプレート:Reflist

FIFAワールドカップでの全試合結果

FIFAワールドカップ
開催年 ラウンド 開催日 開催場所 対戦国 スコア 結果 得点者
1998 GL 6月14日 トゥールーズ
スタディウム・ミュニシパル
テンプレート:ARGf 0-1
レポート
6月20日 ナント
スタッド・ドゥ・ラ・ボージョワール
テンプレート:CROf 0-1
レポート
6月26日 リヨン
スタッド・ジェルラン
テンプレート:JAMf 1-2
レポート
中山雅史
2002 GL 6月4日 さいたま市
埼玉スタジアム2002
テンプレート:BELf 2-2
レポート
鈴木隆行
稲本潤一
6月9日 横浜市
横浜国際総合競技場
テンプレート:RUSf 1-0
レポート
稲本潤一
6月14日 大阪市
長居スタジアム
テンプレート:TUNf 2-0
レポート
森島寛晃
中田英寿
R16 6月18日 宮城郡利府町
宮城スタジアム
テンプレート:TURf 0-1
レポート
2006 GL 6月12日 カイザースラウテルン
フリッツ・ヴァルター・シュタディオン
テンプレート:AUSf 1-3
レポート
中村俊輔
6月18日 ニュルンベルク
フランケン・シュタディオン
テンプレート:CROf 0-0
レポート
6月22日 ドルトムント
ヴェストファーレン・シュタディオン
テンプレート:BRAf 1-4
レポート
玉田圭司
2010 GL 6月14日 ブルームフォンテーン
フリーステイト・スタジアム
テンプレート:CMRf 1 - 0 本田圭佑
6月19日 ダーバン
モーゼス・マヒダ・スタジアム
テンプレート:NEDf 0 - 1
6月24日 ルステンブルク
ロイヤル・バフォケン・スタジアム
テンプレート:DENf 3 - 1 本田圭佑
遠藤保仁
岡崎慎司
R16 6月29日 プレトリア
ロフタス・ヴァースフェルド・スタジアム
テンプレート:PARf 0 - 0
(PK 3 - 5)
2014 GL 6月15日 レシフェ
アレナ・ペルナンブーコ
テンプレート:Fb 1 - 2 本田圭佑
6月20日 ナタール
アレーナ・ダス・ドゥーナス
テンプレート:Fb 0 - 0
6月25日 クイアバ
アレーナ・パンタナール
テンプレート:Fb 1 - 4 岡崎慎司
</div>

</div>

FIFAコンフェデレーションズカップの成績

FIFAコンフェデレーションズカップ
開催年 結果 試合数 得点 失点
テンプレート:Flagicon 1992 不出場
テンプレート:Flagicon 1995 グループリーグ敗退 2 0 0 2 1 8
テンプレート:Flagicon 1997 不出場
テンプレート:Flagicon 1999
テンプレート:Flagicon テンプレート:Flagicon 2001 準優勝 5 3 1 1 6 1
テンプレート:Flagicon 2003 グループリーグ敗退 3 1 0 2 4 3
テンプレート:Flagicon 2005 グループリーグ敗退 3 1 1 1 4 4
テンプレート:Flagicon 2009 不出場
テンプレート:Flagicon 2013 グループリーグ敗退 3 0 0 3 4 9
合計 5/9 16 5 2 9 19 25

FIFAコンフェデレーションズカップでの全試合結果

FIFAコンフェデレーションズカップ
開催年 ラウンド 対戦国 スコア 結果
1995 GL テンプレート:Fb 0-3
テンプレート:Fb 1-5
2001 GL テンプレート:Fb 3-0
テンプレート:Fb 2-0
テンプレート:Fb 0-0
準決勝 テンプレート:Fb 1-0
決勝 テンプレート:Fb 0-1
2003 GL テンプレート:Fb 3-0
テンプレート:Fb 1-2
テンプレート:Fb 0-1
2005 GL テンプレート:Fb 1-2
テンプレート:Fb 1-0
テンプレート:Fb 2-2
2013 GL テンプレート:Fb 0-3
テンプレート:Fb 3-4
テンプレート:Fb 1-2

AFCアジアカップの成績

AFCアジアカップ AFCアジアカップ・予選
開催年 結果 試合数
[注2 1]
得点 失点 試合数 得点 失点
テンプレート:Flagicon 1956 不参加 不参加
テンプレート:Flagicon 1960
テンプレート:Flagicon 1964
テンプレート:Flagicon 1968 予選敗退 4 3 1 0 8 4
テンプレート:Flagicon 1972 不参加 不参加
テンプレート:Flagicon 1976 予選敗退 4 1 1 2 3 4
テンプレート:Flagicon 1980 不参加 不参加
テンプレート:Flagicon 1984
テンプレート:Flagicon 1988 グループリーグ敗退[注2 2] 4 0 1 3 0 6 4 2 1 1 6 3
テンプレート:Flagicon 1992 優勝 5 3 2 0 6 3 免除(開催国)
テンプレート:Flagicon 1996 ベスト8 4 3 0 1 7 3 免除(前回優勝)
テンプレート:Flagicon 2000 優勝 6 5 1 0 21 6 3 3 0 0 15 0
テンプレート:Flagicon 2004 優勝 6 4 2 0 13 6 免除(前回優勝)
テンプレート:Flagiconテンプレート:Flagiconテンプレート:Flagiconテンプレート:Flagicon 2007 4位 6 2 3 1 11 7 6[36] 5 0 1 15 2
テンプレート:Flagicon 2011 優勝 6 4 2 0 14 6 6 5 0 1 17 4
テンプレート:Flagicon 2015 出場権獲得 免除(前回優勝)
合計 7/15 (4 優勝) 37 21 11 5 72 37 27 19 3 5 64 17

テンプレート:Reflist

AFCアジアカップでの全試合結果

AFCアジアカップ
開催年 ラウンド 対戦国 スコア 結果
1988 GL テンプレート:Fb 0-0
GL テンプレート:Fb 0-2
GL テンプレート:Fb 0-1
GL テンプレート:Fb 0-3
1992 GL テンプレート:Fb 0-0
GL テンプレート:Fb 1-1
GL テンプレート:Fb 1-0
準決勝 テンプレート:Fb 3-2
決勝 テンプレート:Fb 1-0
1996 GL テンプレート:Fb 2-1
GL テンプレート:Fb 4-0
GL テンプレート:Fb 1-0
準々決勝 テンプレート:Fb 0-2
2000 GL テンプレート:Fb 4-1
GL テンプレート:Fb 8-1
GL テンプレート:Fb 1-1
準々決勝 テンプレート:Fb 4-1
準決勝 テンプレート:Fb 3-2
決勝 テンプレート:Fb 1-0
2004 GL テンプレート:Fb 1-0
GL テンプレート:Fb 4-1
GL テンプレート:Fb 0-0
準々決勝 テンプレート:Fb 1-1
(PK 4-3)
準決勝 テンプレート:Fb 4-3
決勝 テンプレート:Fb 3-1
2007 GL テンプレート:Fb 1-1
GL テンプレート:Fb 3-1
GL テンプレート:Fb 4-1
準々決勝 テンプレート:Fb 1-1
(PK 4-3)
準決勝 テンプレート:Fb 2-3
3位決定戦 テンプレート:Fb 0-0
(PK 5-6)
2011 GL テンプレート:Fb 1-1
GL テンプレート:Fb 2-1
GL テンプレート:Fb 5-0
準々決勝 テンプレート:Fb 3-2
準決勝 テンプレート:Fb 2-2
(PK 3-0)
決勝 テンプレート:Fb 1-0
2015 GL -
GL -
GL -

コパ・アメリカの成績

出場した大会のみ記載。

テンプレート:Col-begin テンプレート:Col-2

コパ・アメリカ
開催年 結果 試合数 得点 失点
テンプレート:Flagicon 1999 グループステージ敗退 3 0 1 2 3 8
合計 1/43 3 0 1 2 3 8

テンプレート:Col-2

コパ・アメリカでの全試合結果
開催年 ラウンド 対戦国 スコア 結果
1999 GL テンプレート:Fb 2-3
テンプレート:Fb 0-4
テンプレート:Fb 1-1

テンプレート:Col-end

ダイナスティカップの成績

東アジアカップの成績

東アジアカップ
開催年 結果 試合数 得点 失点
テンプレート:Flagicon 2003 準優勝 3 2 1 0 3 0
テンプレート:Flagicon 2005 準優勝 3 1 1 1 3 3
テンプレート:Flagicon 2008 準優勝 3 1 2 0 3 2
テンプレート:Flagicon 2010 3位 3 1 1 1 4 3
テンプレート:Flagicon 2013 優勝 3 2 1 0 8 6
合計 5/5 (1 優勝) 15 7 6 2 21 14

オリンピックの成績

オリンピックサッカー日本代表選手も参照。1992年大会以降の成績はU-23サッカー日本代表#オリンピックの成績を参照。

テンプレート:Col-begin テンプレート:Col-2

オリンピック
開催年 結果 試合数 得点 失点
テンプレート:Flagicon 1908 不参加
テンプレート:Flagicon 1912
テンプレート:Flagicon 1920
テンプレート:Flagicon 1924
テンプレート:Flagicon 1928
テンプレート:Flagicon2 1936 ベスト8 2 1 0 1 3 10
テンプレート:Flagicon 1948 出場禁止
テンプレート:Flagicon 1952 不参加
テンプレート:Flagicon 1956 1回戦敗退 1 0 0 1 0 2
テンプレート:Flagicon 1960 予選敗退
テンプレート:Flagicon 1964 ベスト8 3 1 0 2 5 9
テンプレート:Flagicon 1968 3位 6 3 2 1 9 8
テンプレート:Flagicon 1972 予選敗退
テンプレート:Flagicon 1976
テンプレート:Flagicon 1980
テンプレート:Flagicon 1984
テンプレート:Flagicon 1988
合計 4/17 12 5 2 5 17 29

テンプレート:Col-2

オリンピックでの全試合結果
開催年 ラウンド 対戦国 スコア 結果
1936 1回戦 テンプレート:Fb 3-2
準々決勝 テンプレート:Fb 0-8
1956 1回戦 テンプレート:Fb 0-2
1964 GL テンプレート:Fb 3-2
GL テンプレート:Fb 2-3
準々決勝 テンプレート:Fb 0-4
1968 GL テンプレート:Fb 3-1
GL テンプレート:Fb 1-1
GL テンプレート:Fb 0-0
準々決勝 テンプレート:Fb 3-1
準決勝 テンプレート:Fb 0-5
3位決定戦 テンプレート:Fb 2-0

テンプレート:Col-end

アジア競技大会の成績

オリンピックサッカー日本代表選手も参照。2002年大会以降はU-23サッカー日本代表#アジア競技大会の成績を参照。

  • 1951 - 3位
  • 1954 - グループリーグ敗退
  • 1958 - グループリーグ敗退(開催国)
  • 1962 - グループリーグ敗退
  • 1966 - 3位
  • 1970 - 4位
  • 1974 - 1次リーグ敗退
  • 1978 - 1次リーグ敗退
  • 1982 - ベスト8
  • 1986 - グループリーグ敗退
  • 1990 - ベスト8
  • 1994 - ベスト8(開催国)
  • 1998 - 2次リーグ敗退(ベスト16)※

※1998年大会は、大会規定上はフル代表が出場可能であったものの、日本はU-21の選手で参加した。

実績

世界レベル

大陸レベル

大陸間レベル

地域レベル

その他

選手

定義

世界的に、また日本の記録集においても、代表選手とは「国際Aマッチでの出場経験選手」を条件とし、その出場回数をキャップ数と言う。しかし個々の選手を定義する場合、選出されながらも出場しなかった場合などでは意見が分かれる。また黎明期には日本代表がヨーロッパや南米のクラブチームと対戦した例も多く、その扱いも定まっていない。日本サッカー協会関係者は、明確な基準は無く、また時代とともにルールや環境が変わっている点を指摘し、以下の場合でも選手を「元日本代表」としてもよいのではと話している[37]

  • 国際Aマッチに出場した実績がある(キャップ数がある)。
  • ワールドカップやアジアカップの本選や予選などFIFA公式戦で日本代表に選出されたが出場機会が無かった。
  • 国代表との親善試合で選出されたが出場機会が無かった。
  • 対戦相手がクラブチームなど代表でなくとも、日本代表として選出された。
16px 最新の代表選手 - 2014年のサッカー日本代表および、JFA の発表[38]、メディア報道[39][40]等を参照のこと。

16px 出場経験選手一覧

16px ワールドカップ登録メンバー - 1998年 - 2002年 - 2006年 - 2010年 - 2014年


記録

各ランキングは2014年6月24日 コロンビア戦終了時のもの。(#)は現役選手(代表引退ではなく、現役を引退していない選手)を表す。「期間」は代表で試合に出場した期間であり、末期が抜けている選手は現役の代表選手を表す。

出場数

名前 出場数 得点数 期間
1 遠藤保仁(#) 146 13 2002-
2 井原正巳 122 5 1988-1999
3 川口能活(#) 116 0 1997-2008
4 中澤佑二(#) 110 17 1999-2010
5 中村俊輔(#) 98 24 2000-2010
6 三浦知良(#) 89 55 1990-2000
7 今野泰幸(#) 83 1 2005-
8 稲本潤一(#) 82 5 2000-2010
8 三都主アレサンドロ(#) 82 7 2002-2006
10 長谷部誠(#) 81 2 2006-
16px フルランキングはサッカー日本代表出場選手参照。

得点

JFAは、最多得点者を釜本邦茂(75得点)としている[41]

名前 得点数 出場数 期間
1 釜本邦茂[41] 75 76 1964-1977
2 三浦知良(#)[41] 55 89 1990-2000
3 岡崎慎司(#) 39 79 2008-
4 原博実 37 75 1978-1988
5 高木琢也 27 44 1992-1997
6 木村和司 26 54 1979-1986
7 中村俊輔(#) 24 98 2000-2010
8 高原直泰(#) 23 57 2000-2008
8 本田圭佑(#) 23 59 2008-
10 中山雅史 21 53 1990-2003
16px フルランキングは JFA公式Aマッチ得点ランキング[42]を参照

一方、国際サッカー歴史統計連盟 (IFFHS) は、三浦知良釜本邦茂(共に55得点)を最多得点者としている。これは以下に示す JFA、IFFHS 両者の統計方法の違いによる。

  • JFA - 1988年以前のオリンピック予選および本大会における、プロリーグの存在しない国・地域の、年齢制限のないオリンピック代表チームとの試合は国際Aマッチとする。
  • IFFHS - 1954年以降の全てのオリンピック関係の試合を国際Aマッチから除外。

主な公式記録

以上全て2011年時点[43]

背番号

最も大きな数の背番号をつけ日本代表の公式戦に出場したのは権田修一(88番、AFCアジアカップ2011予選大会、対イエメン、アウェー戦[44])。 また同試合においては、既に登録された77人の選手に加え、19人の選手を追加した為、総勢96人となり、欠番も関係し、河野広貴が背番号100で登録された。

歴代監督の一覧

試合数および成績は日本サッカー協会が認めた国際Aマッチのみをカウントしている[45]。試合数が0の監督がいるのは、指揮した試合がすべて国際Aマッチ以外の試合だったためである。

テンプレート:Colorbox 代行監督

名前 国籍 試合 主な大会
テンプレート:Display none(不明) 0 0 0 0 1917 17FEG
テンプレート:Display none佐々木等 テンプレート:Flagicon 日本 0 0 0 0 1921 21FEG
テンプレート:Display none西田満寿次郎 テンプレート:Flagicon 日本 2 0 0 2 1923 23FEG
テンプレート:Display none山田午郎 テンプレート:Flagicon 日本 2 0 0 2 1925 25FEG
テンプレート:Display none(監督なし) 2 1 0 1 1927 27FEG
テンプレート:Display none鈴木重義 テンプレート:Flagicon 日本 2 1 1 0 1930 30FEG
テンプレート:Display none竹腰重丸 テンプレート:Flagicon 日本 3 1 0 2 1934 34FEG
テンプレート:Display none鈴木重義 テンプレート:Flagicon 日本 2 1 0 1 1936 36OG
テンプレート:Display none竹腰重丸 テンプレート:Flagicon 日本 1 1 0 0 1938-1940
テンプレート:Display none工藤孝一 テンプレート:Flagicon 日本 0 0 0 0 1942
テンプレート:Display none二宮洋一 テンプレート:Flagicon 日本 3 1 1 1 1951 51AG
テンプレート:Display none竹腰重丸 テンプレート:Flagicon 日本 12 2 4 6 1951-1956 54WC予54AG56OG予、56OG
テンプレート:Display none高橋英辰 テンプレート:Flagicon 日本 0 0 0 0 1957
テンプレート:Display none川本泰三 テンプレート:Flagicon 日本 2 0 0 2 1958 58AG
テンプレート:Display none竹腰重丸 テンプレート:Flagicon 日本 12 4 2 6 1958-1959 60OG予
テンプレート:Display none高橋英辰 テンプレート:Flagicon 日本 14 3 2 9 1960-1962 62WC予62AG
テンプレート:Display noneクラマー [注3 1] テンプレート:Flagicon 西ドイツ 1 0 0 1 1960 62WC予
テンプレート:Display none長沼健 テンプレート:Flagicon 日本 31 18 7 6 1962-1969 64OG66AG68OG予68OG70WC予
テンプレート:Display none岡野俊一郎 [注3 2] テンプレート:Flagicon 日本 0 0 0 0 1969
テンプレート:Display none岡野俊一郎 テンプレート:Flagicon 日本 19 11 2 6 1970-1971 70AG72OG予
テンプレート:Display none長沼健 テンプレート:Flagicon 日本 42 16 5 21 1972-1976 74WC予74AG76AC予76OG予
テンプレート:Display none二宮寛 テンプレート:Flagicon 日本 27 6 6 15 1976-1978 78WC予78AG
テンプレート:Display none下村幸男 テンプレート:Flagicon 日本 14 8 4 2 1979-1980 80OG予
テンプレート:Display none渡辺正 テンプレート:Flagicon 日本 3 2 0 1 1980
テンプレート:Display none川淵三郎 テンプレート:Flagicon 日本 10 3 2 5 1980-1981 82WC予
テンプレート:Display none森孝慈 テンプレート:Flagicon 日本 43 22 5 16 1981-1985 82AG84OG予86WC予
テンプレート:Display none石井義信 テンプレート:Flagicon 日本 17 11 2 4 1986-1987 86AG88OG予
テンプレート:Display none横山謙三 テンプレート:Flagicon 日本 24 5 7 12 1988-1991 90WC予
テンプレート:Display noneオフト テンプレート:Flagicon オランダ 27 17 6 4 1992-1993 92AC94WC予
テンプレート:Display noneファルカン テンプレート:Flagicon ブラジル 9 3 4 2 1994 94AG
テンプレート:Display none加茂周 テンプレート:Flagicon 日本 46 24 8 14 1994-1997 95IC96AC98WC予
テンプレート:Display none岡田武史 テンプレート:Flagicon 日本 15 5 4 6 1997-1998 98WC予98WC
テンプレート:Display noneトルシエ テンプレート:Flagicon フランス 50 23 15 12 1998-2002 99CA00AC01CC02WC
テンプレート:Display noneジーコ テンプレート:Flagicon ブラジル 71 38 15 18 2002-2006 03CC03FEC04AC05CC05FEC06WC予06WC07AC予
テンプレート:Display none山本昌邦 [注3 3] テンプレート:Flagicon 日本 1 0 0 1 2002
テンプレート:Display noneオシム テンプレート:Flagicon ボスニア・ヘルツェゴビナ 20 13 2 5 2006-2007 07AC予07AC
テンプレート:Display none岡田武史 テンプレート:Flagicon 日本 49 26 12 11 2007-2010 08FEC10WC予10FEC11AC予10WC
テンプレート:Display none大木武 [注3 4] テンプレート:Flagicon 日本 1 0 1 0 2009 10WC予
テンプレート:Display none原博実 [注3 5] テンプレート:Flagicon 日本 2 2 0 0 2010
テンプレート:Display noneザッケローニ テンプレート:Flagicon イタリア 55 30 12 13 2010-2014 11AC13CC13FEC14WC予14WC
テンプレート:Display noneアギーレ テンプレート:Flagicon メキシコ 2014-

略式:WC=FIFAワールドカップ、IC・CC=FIFAコンフェデレーションズカップ、OG=オリンピックサッカー競技、AC=AFCアジアカップ、AG=アジア競技大会サッカー競技、FEC=東アジアカップ、FEG=極東選手権競技大会サッカー競技、CA=コパ・アメリカ=各大会ごとの予選

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年代別日本代表

国籍以外の資格制限がない、いわゆるA代表(国際Aマッチの成立要件となる)のほかに、派遣対象となる試合が選手資格に制限を設けている場合などに、資格を満たす範囲で選手を選出しチームを編成する。このときは、日本代表という呼称の前に制限や派遣大会の名称等を関して、A代表との区別をする(ただし、正式にはA代表にも派遣大会名称を冠している)。

  • オリンピック日本代表 - 1992年バルセロナオリンピック以降、オリンピックサッカー競技の予選および本大会では、原則として23歳以下の選手に限るという制約が設けられた。このため予選期間にはU-23日本代表(前年に予選が行われる場合はU-22日本代表)と呼ばれることが多いが、本大会ではオーバーエイジ枠を含むことができるため、オリンピック日本代表という呼称が用いられる。詳細はオリンピックサッカー日本代表選手を参照。年齢に制限は無く、アマチュアのみに出場が許された1968年のメキシコシティ大会でオリンピック日本代表は銅メダルを獲得した。
16px参照:オリンピックサッカー日本代表選手U-23サッカー日本代表

  • ユニバーシアード日本代表 - 大学生のスポーツ大会であるユニバーシアードに派遣される日本代表を指す。選考範囲は原則として大学または大学院在学中、ならびに大会の前年に大学または大学院を卒業した選手に限られる。その他の大会で同じ選考範囲で選手構成がなされる場合は、学生日本代表や大学日本代表、もしくは学生選抜や大学選抜と断りを入れるなどをして呼ばれることが多い。ユニバーシアード日本代表は、1995年福岡大会で初優勝、その後2001年北京大会、2003年大邱大会および2005年イズミル大会で3大会連続優勝を果たした。
16px参照:ユニバーシアードにおけるサッカー競技

  • U-21日本代表 - 出場資格が21歳以下であるトゥーロン国際大会などに派遣される日本代表を指す。また、アジア競技大会サッカー競技では2002年釜山大会より、出場資格がオリンピックと同じ23歳以下(オーバーエイジ可)となっているものの、同大会をその2年後のオリンピック日本代表の強化試合と位置付けて、あえて21歳以下の代表を編成する場合もある。
  • U-20日本代表 - 出場資格が20歳以下であるFIFA U-20ワールドカップ(旧:ワールドユース)、およびその予選を兼ねたAFC U-19選手権(旧:AFCユース選手権)に派遣される日本代表を指す。AFC U-19選手権についてはU-20ワールドカップの前年に開催されることから、その時点ではU-19日本代表と呼ばれる。ユース日本代表とも。高校を卒業しJリーグクラブに加入したばかりの若手選手を中心に編成されるのが一般的だが、大学生やU-17世代が加わることもある。1999年のワールドユース選手権では、男女、年代の別を問わないすべてのカテゴリーを通じた「サッカー日本代表」として初めて、FIFA主催の世界大会で準優勝の座に立った[46]
16px参照:U-20サッカー日本代表

16px参照:U-17サッカー日本代表

オフィシャル(公式)パートナー等

日本A代表などの各種代表及び各年代別代表のスポンサーには、現在は4つのカテゴリーがある[47][48]

オフィシャルパートナー

1980年(昭和55年)からキリンカップサッカーを初めとした日本国内での国際Aマッチシリーズを特別協賛している[48]

  • キリンホールディングス
  • キリンビバレッジ
    現在、1980年(昭和55年)からの長年のスポンサーであるキリンホールディングス(キリンビールキリンビバレッジ以下キリングループ)と2007年(平成19年)4月から8年間で推定総額120億円(年間15億円)で契約している。2014年5月25日、JFAとキリングループが対等な関係で、サッカーの普及・促進に寄与していくという意志を込め、名称を従来の「オフィシャルスポンサー」から「オフィシャルパートナー」に変更した上で、2015年4月から2022年12月まで契約を更新した[49]
  • 電通

オフィシャルサプライヤー

各種日本代表のユニホーム等の用具類などを提供する[48]

サポーティングカンパニー

スポンサー料を支払い、各種日本代表戦における広告看板掲出権およびチケットキャンペーン権、日本代表エンブレム、マスコット等の広告・販促活動への使用権を得ている。ただし、日本のホームゲームなど日本サッカー協会がマーケティング権を完全に保有する試合のみに適用される[48]

現在契約中

過去

  • 日産自動車(2001年4月 - 2007年3月)[60]
  • 大和証券グループ本社(2007年6月 - ?)
    当初は「2015年までの契約」とされたが[61][62]、2011年5月のJFAとアウディジャパンとの契約締結時点でプレスリリースから社名が消えているほか[50]、2012年6月現在日本代表公式サイトからバナーが消滅している。なお契約解除に関する公式発表はされていない。

日本代表戦マッチスポンサー

日本サッカー協会がマーケティング権を持つ国内での日本代表の試合をサポートする[47]

なお、スポンサーについての詳細及び他のJFAの財源等については日本サッカー協会のJFA財務内容の項参照のこと。

脚注

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関連項目

外部リンク

テンプレート:日本のサッカー テンプレート:サッカー日本代表年別記録 テンプレート:アジアのサッカーナショナルチーム テンプレート:AFCアジアカップ優勝国 テンプレート:スポーツの日本代表チーム テンプレート:サッカー日本代表歴代監督 テンプレート:Navboxes

  1. テンプレート:Cite web
  2. 2.0 2.1 テンプレート:Cite web
  3. 3.00 3.01 3.02 3.03 3.04 3.05 3.06 3.07 3.08 3.09 3.10 3.11 3.12 3.13 テンプレート:Cite book
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  9. 夕刊フジ全記録『日本代表の1366日』vol.1〜永久保存版、トルシエニッポンの軌跡(夕刊フジzakzak編)
  10. テンプレート:Cite web
  11. テンプレート:Cite news
  12. テンプレート:Cite web p.16-18に寄付者名と金額リスト。
  13. テンプレート:Cite web
  14. 出典:松本育夫『燃えてみないか、今を! - サッカーに教えられた熱き人生』(ぱるす出版、1987年)174-176頁
  15. 15.0 15.1 テンプレート:Cite book
  16. 週刊サッカーマガジン』2008年12月16日号、p56-57
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  18. 18.0 18.1 テンプレート:Cite web
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  20. 待遇改善求めスト検討…代表戦ボイコットも-スポニチ2010年12月18日
  21. 日本代表昇給!Aランク勝利給30万→50万-日刊スポーツ2012年11月17日
  22. 代表勝利給、来年からアップへ-スポーツ報知2012年11月19日
  23. ザックJ、2月にもう1試合 2億円以上入る“ドル箱興行”で協会も得-ZAKZAK2012年12月1日]
  24. ザックジャパン“金欠”で欧州遠征白紙-東スポweb2012年12月25日]
  25. テンプレート:Cite web
  26. 轡田三男 「サッカーの歴史 天皇杯全日本選手権 (6)」『サッカーマガジン』 ベースボール・マガジン社、1968年8月号、112頁
  27. 日本蹴球協会編 『日本サッカーのあゆみ』 講談社、1974年、150頁。
  28. 松岡完 『ワールドカップの国際政治学』朝日新聞社、1994年、P85
  29. 29.0 29.1 29.2 テンプレート:Cite web
  30. 日本蹴球協会編 『日本サッカーのあゆみ』 講談社、1974年、150頁。
  31. テンプレート:Cite book
  32. テンプレート:Cite web
  33. テンプレート:Cite book
  34. 日本は、1996年大会準々決勝でクウェートに敗れて以降、この大会の準決勝でサウジアラビアに敗れるまで16試合連続無敗を続けていた。なお、サウジアラビアも1984年大会の初戦から16試合連続無敗を続けていたが、1992年大会決勝で日本に敗れ記録が止まった。なお、日本は初優勝した1992年大会以降グループリーグは全て無敗で1位通過しており、グループリーグの連続無敗記録は2011年大会までで18試合となっている。
  35. テンプレート:Cite web
  36. 4カ国開催のため、前回優勝チームの日本も予選から参加した。
  37. 日本代表裏戦記『サッカーマガジン』2012年4月10日号、三浦憲太郎、ベースボール・マガジン社、2012年、雑誌23882-4/10, 079頁。
  38. 参考:『日本代表 - JFA』、日本サッカー協会
  39. 参考:『J'sGoal日本サッカー協会オフィシャルニュース』 、J's GOAL
  40. 参考:『スポーツナビ | サッカー|日本代表|日本代表チームメンバー』、スポーツナビ
  41. 41.0 41.1 41.2 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「IFFHS」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  42. 参考:テンプレート:PDFlink、日本サッカー協会 ※PDFファイル。閲覧にはAcrobatリーダが必要
  43. 日本サッカー協会編「日本代表公式記録集The Yearbook of JFA 2011」
  44. [1] 2011年7月22日閲覧。
  45. 『日本代表公式記録集2008』 日本サッカー協会、2008年、14-28頁、225-226頁。
  46. その後にFIFA主催の世界大会で日本代表が準優勝以上の成績を挙げた大会は、FIFAコンフェデレーションズカップ2001(準優勝)・2010 FIFA U-17女子ワールドカップ(準優勝)・2011 FIFA女子ワールドカップ(優勝)がある。
  47. 47.0 47.1 日本代表ページ-日本サッカー協会(JFA)公式HP
  48. 48.0 48.1 48.2 48.3 テンプレート:Cite book
  49. 日本サッカー協会、キリングループとの契約を2022年まで更新-サッカーキング2014年5月25日
  50. 50.0 50.1 アウディ ジャパン株式会社と日本代表チームサポーティングカンパニー契約を締結 - 日本サッカー協会・2011年5月26日
  51. 日本代表チームならびに日本代表戦のスポンサー決定について - クレディセゾン・2007年3月26日
  52. サッカー日本代表チーム サポーティングカンパニー契約締結について - ファミリーマート・2007年3月26日
  53. JAL、サッカー日本代表チームの「サポーティングカンパニー」に! - 日本航空・2007年3月26日
  54. JAL対ANAに注目!“岡田Jウイング”争奪戦の行方
  55. 犬飼会長、JAL問題は「静観するしか」
  56. 財団法人日本サッカー協会とサッカー日本代表チームのサポーティングカンパニー契約を締結しました - 三井住友海上火災保険・2008年5月2日
  57. 財団法人日本サッカー協会とのスポンサーシップ契約について - ソニーマーケティング・2007年3月27日
  58. コナミはサッカー日本代表を応援しています サッカー日本代表のサポーティングカンパニーに - 株式会社コナミデジタルエンタテインメント・2013年3月25日
  59. 株式会社みずほフィナンシャルグループと日本代表チームサポーティングカンパニー契約を締結 - 日本サッカー協会・2013年4月1日
  60. 日産、日本サッカー協会スポンサーから撤退へ - J-CASTニュース・2007年2月16日
  61. 大和証券グループと日本代表チームのサポーティングカンパニー契約を締結 - J's GOAL・2007年5月30日
  62. 過去の協賛事業 - 大和証券グループ本社


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