マイアミの奇跡
テンプレート:Infobox football match マイアミの奇跡(マイアミのきせき)は、1996年アトランタオリンピック(以下アトランタ五輪と略)・男子サッカーグループリーグD組第1戦において、日本五輪代表がブラジル五輪代表を1対0で下した試合の日本における通称である。
概要
アトランタ五輪男子サッカー競技は出場16カ国を抽選でA〜Dの4グループに分け、各グループ上位2チームが決勝トーナメントに進出する方式で行われた。アジア地区予選で2位となり、銅メダルを獲得したメキシコシティ五輪以来28年ぶりに五輪に出場した日本五輪代表はグループDに入り、初戦は南米地区代表のブラジル、2戦目はアフリカ地区代表のナイジェリア、3戦目はヨーロッパ地区代表のハンガリーと対戦することになった。ブラジル戦は五輪開催都市のジョージア州アトランタではなく、フロリダ州マイアミのアメリカンフットボール球技場マイアミ・オレンジボウルで開催された。
ワールドカップ1994年大会でW杯史上初の4回目の優勝を成し遂げたブラジルは、五輪ではまだ金メダルを獲得したことがなかった。ブラジルはワールドカップ1998年大会の予選が免除されていた[1]ことで真剣勝負の場が無く、代表チームの強化の意味合いも含め、A代表監督のマリオ・ザガロが五輪代表の監督も兼任。正規の23歳以下の選手としてロベルト・カルロス、ジュニーニョ・パウリスタ、サヴィオ、ロナウジーニョ[2]、フラビオ・コンセイソンといったすでにA代表で活躍している若手選手を揃えた[3]。さらに、この大会から認められたオーバーエイジ枠に当時のA代表のレギュラーであるベベット、リバウド、アウダイールを加入させ、優勝候補の大本命と目されていた。大会前にはブラジル五輪代表とブラジルA代表が練習試合を行ない、なんと五輪代表チームが勝っている。
一方、日本は西野朗監督の意向でオーバーエイジ枠を使用せず、Jリーグ所属の23歳以下選手、アジア予選を戦ったメンバーで大会に臨んだ。当時の日本A代表経験者は前園真聖と城彰二の2人のみ、怪我で本戦メンバーから外れた小倉隆史を含めても3人だけだった。西野や山本昌邦コーチらスタッフは、スカウティング(以下、偵察と略すことあり)のために入手したブラジルの試合映像を見て「(自信を失わせない様に)選手達には見せない方が良いだろう」と思ったほど殆ど隙が見当たらず、選手個々人の能力、チームとしての総合力に大幅な開きがあることを痛感していた。日本のメディアを含め、下馬評ではブラジルの圧倒的有利が予想されており、日本がグループリーグを突破するためには得失点差の計算上、敗れるにしても大量失点を避けるべきとする意見もあった。
経緯
試合前までの状況
ブラジル戦を前にして日本は念入りに情報分析を行い、相手の長所を消すための対策を研究した。スカウティング担当松永英機やブラジル人GKコーチのジョゼ・マリオ[4]が事前にブラジル入りして偵察し、ブラジル五輪代表の試合の映像を入手した。また、ブラジルの新聞を取り寄せ、細かな情報まで仕入れるなど綿密なスカウティングを行った。それらを元に、スターティングメンバーや選手交代のパターンを予想した。
ブラジルの強力な2トップの内、スピードがあるFWベベットにはDF鈴木秀人をマークにあてることにした。2トップのもう一人は試合が接戦になった場合、FWサヴィオから足元も上手く、高さもあるFWロナウジーニョ(所謂ロナウド)へ交代することが予想されたため[5]、最初からサヴィオのマークに空中戦も強いDF松田直樹をあてることにした。実際に試合ではスタメンも交代パターンも予想通りであった[6]。司令塔ジュニーニョ・パウリスタ対策としては、アジア予選のレギュラーボランチだった廣長優志を外し、左SBが本職である服部年宏のスピードを買って、ジュニーニョに密着マークさせることにした[7]。また、GKコーチのジョゼ・マリオは、左足での強烈なシュートを武器にする左SBロベルト・カルロスのシュートパターンやシュートの軌道を、日本の正GK川口能活に徹底的に叩き込んだ。
このように守備面で万全の手を打つ一方で、攻撃面では打てる手は少なかった。唯一、ブラジル五輪代表にはセンターバックのアウダイールがオーバーエイジとして加入していたが、直前での加入だったためGKジーダとの連係面に不安を抱えていた。さらに、アウダイールは経験豊富な反面スピードが無く、もう一人のCBロナウド・ギアロ(大会登録名ロナウド)も同様に比較的スピードが無かったため、「ブラジルCB2人の背後のスペースは数少ない狙い目だ」と選手たちに伝えていた[6]。
アトランタ五輪本大会の1週間前に、ニューヨークで行われたブラジル五輪代表と世界選抜のチャリティーマッチを西野朗監督と山本昌邦コーチが偵察した。試合は世界のスーパースターを揃えた世界選抜チームに、ブラジル五輪代表が勝利。西野らは驚きを示す一方、ブラジル五輪代表は慢心して隙が出来るのではと考えたという[6]。
ブラジル代表は当時、ロッカールームで自らを鼓舞し、同時に相手を威圧する為に、全員が大きな声を出しながらウォーミングアップを行うことがあった。実際、この試合前にもブラジル五輪代表が行っていたが、事前にその情報を入手していた山本は試合前から精神的に飲まれないため、こちらも負けずに声を出せと日本代表選手にはっぱをかけ、ピッチに選手たちが出るまで、ずっと選手たちの側で日本代表選手たちを鼓舞し続けた[6]。
試合展開
日本五輪代表は城彰二のワントップ、中田英寿と前園真聖が後方からフォローする3-6-1のフォーメーション。DFラインは鈴木・松田の2ストッパーの後方でスイーパーの田中誠がカバーする。ブラジル五輪代表はスカウティング通りのスタメンで[6]、ベベト、サヴィオ、ジュニーニョらの技巧と、リバウド、ロベルト・カルロスらの破壊力を織り交ぜた4-4-2のフォーメーション。試合会場はブラジルから来たカナリア色のサポーターが圧倒的に多く、日本にとって完全アウェーの雰囲気に包まれた[7]。
最初のシュートはFW登録された中田のヘディング。ブラジルの出鼻をくじくものの、その後ブラジルは徐々にペースアップし、流動的なポジションチェンジから度々日本ゴールに迫る。しかし、日本の守備陣も冷静に対応し、前半は0-0のまま終了した。
ブラジルは後半開始からさらに攻勢を強め、世界最強の攻撃陣が猛然と襲い掛かり、シュートの雨を降らせた。日本はボール保持もままならなくなり、後半はさながら日本サイドだけでのハーフコートマッチと化した。しかし、日本の正GK川口能活のファインセーブが続き、川口がゴール外に出るだろうと見送ったボールがゴールポストを直撃して難を逃れるなど、日本に運も味方し、両チーム無得点のまま試合は推移していった。
後半19分、ブラジルはFWサヴィオからFWロナウジーニョ(所謂ロナウド)に交代したが、サヴィオのマークをしていたDF松田が事前の打ち合わせ通り、そのままロナウジーニョにつき、冷静に対応した[6]。
後半23分頃、ブラジルが圧倒しながらも、一向に点が入らないことにいら立った観客がGK川口めがけてピッチに乱入し、川口の目の前で警備員に取り押さえられるハプニングが起こる。
そして、ブラジルの選手たちに疲労の色が見え始めた後半27分、左サイドにいたウイングバック・路木龍次が、ブラジルのディフェンスラインとGKの間のスペースを目掛け、山なりのボールを放り込んだ。そのボールを狙って、FW城彰二が逆サイドからゴール前に走り込む。それに気づいたブラジルのCBアウダイールが城のチェックに向かったその時、ボールをキャッチしようと飛び出したブラジルGKジーダと激突。ゴールに向かって転がったボールにボランチの伊東輝悦が走り込み、そのままゴールマウスに押し込んだ。凡ミスによるラッキーゴールに見えたが、事前のスカウティングで判明していた、数少ない狙い目であるブラジル代表CB2人の背後のスペースを見事に突いた得点であった[6]。
まさかの失点に焦るブラジルはその後も一方的に攻め続けるが、GK川口の神懸ったセービングと、日本DF陣の抜かれても最後まで諦めずに食らいつく粘りの守備、さらにブラジルのシュートが数本ゴールポストに当たる幸運もあり、無得点に抑えた。ロスタイム2分30秒ほどブラジルの猛攻が続いたが、日本は最後まで守り切った。
最終的にブラジルが放ったシュートは計28本。対する日本のシュートは、たったの4本だった。日本サッカー史上、最高のジャイアントキリングの典型である。
反響
この試合結果を受け、日本では新聞や雑誌などで号外が出された。当時「スーパーサッカー」の司会者だった生島ヒロシは新幹線での移動中に試合結果を知り、頼み込んでその新幹線でアナウンスしてもらったという。海外でもこの結果は話題になり、1950年ブラジルW杯グループリーグで、全員アマチュアのアメリカ代表が、全員プロのイングランド代表を1-0で下したFIFAワールドカップ史上最大の番狂わせ(世紀のアップセット)と並ぶものとして讃えられた。
ブラジルにとって格下と目されていた日本の、しかも2軍扱いしていたチームに敗れたことは番狂わせの最たるものだった。ブラジルのテレビ生中継番組の解説者は、ボールがブラジルゴールに吸い込まれていく際に「あーっ、入っちゃう…」と絶望にも似た声でつぶやき、試合終了直後の実況は「こんなことがあっていいのか。大変な教訓になりました。日本はお祭りです。ブラジルは悲しんで……」と絶句した。この試合後、ブラジル国内ではテレビ局が特別番組を組み、国内の有識者たちが屈辱的な敗戦の要因を徹底討論した。また、フル出場したベベットは試合後、この試合のビデオを見返したが、「なぜ、僕たちが負けたのか今でも分からない」と発言した。この試合のブラジルにおける呼称は「マイアミの屈辱」である。
グループリーグD組最終結果
その後、日本は第2戦ナイジェリア戦も実力差を考慮し、守備的布陣で臨んだ。試合開始から身体能力を生かし、ロングボールを多用するナイジェリアに、日本は圧倒され続けた。数少ない日本の攻撃時も、人数がかけられない為、決定機は数本のみだった。ハーフタイムのロッカールームでは、中田が守備陣に対してもっと攻撃参加するよう要求。西野監督はチーム戦術に反した中田を叱責し、チームの武器であった団結力に亀裂が生じた[7]。後半もナイジェリア優勢が続く中、負傷した田中誠と交代した秋葉忠宏がオウンゴールを犯し、後半37分にナイジェリアに先制を許す。さらに後半44分、DF鈴木秀人が自陣ペナルティエリア内で判断ミスでハンドの反則をとられ、駄目押しのPKを決められ、0-2で日本は敗れた。
グループDの他会場はブラジルがハンガリーに3-1で勝ち、2戦終了時点で、2勝のナイジェリア(勝ち点6・得失点差+3)、1勝1敗のブラジル(勝ち点3・得失点差+1)、1勝1敗の日本(勝ち点3・得失点差-1)が決勝トーナメント進出の可能性を持ち、2敗したハンガリーは敗退決定となった。
日本の最終戦は、ハンガリーを相手に大量得点で勝利することが命題であった。日本は中田をスタメンから外し、3-5-2の攻撃的布陣で臨んだが、開始3分にハンガリーに先制点を与えた。前半40分に前園のPKで追いつくが、後半4分にカウンターを許し、1-2と再びリードされた。攻めながらも得点を奪えず、迎えた後半ロスタイム、交代出場したばかりのDF上村健一が同点ゴールを決め、その直後にも前園が決勝点を決めて(公式記録は後半44分)[8]日本が3-2で逆転勝利した。同時刻に開始された最終戦のもう一方の試合はブラジルがナイジェリアに1-0で勝利した。
その結果、日本はブラジル、ナイジェリアと2勝1敗(勝ち点6)で並んだものの、得失点差で両国を下回ったためグループリーグ通過はならなかった。「グループリーグで2勝を挙げながら敗退」という記録は史上初の出来事であった。ちなみに、ブラジルとナイジェリアは準決勝で再度対戦し、ナイジェリアが4-3で勝利。ナイジェリアが決勝戦で金メダルを獲得し、ブラジルも3位決定戦で銅メダルを獲得したことから、グループDが非常に厳しい組であったことが分かる。
順位 | チーム | 勝点 | 勝 | 分 | 負 | 得失差 | 総得点 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | テンプレート:BRAf | 6 | 2 | 0 | 1 | +2 | 4 |
2 | テンプレート:NGAf | 6 | 2 | 0 | 1 | +2 | 3 |
3 | テンプレート:JPNf | 6 | 2 | 0 | 1 | 0 | 4 |
4 | テンプレート:HUNf | 0 | 0 | 0 | 3 | -4 | 3 |
その後
アトランタ五輪大会後、日本サッカー協会(JFA)技術委員会は、JFAテクニカルレポート[9]で、日本アトランタ五輪男子代表について「守備的なサッカーで将来につながらない」と厳しい評価を下した。他の日本五輪男子代表スタッフがその評価に憤りを示す中、西野朗監督は努めて冷静に受け止めたという[6]。
西野は「将来の日本代表監督候補」と言われながらも、アトランタ後はナショナルチームを離れ、Jリーグのクラブ監督を務めた。攻撃的サッカーを標榜し、柏レイソルやガンバ大阪でタイトルを獲得して、Jリーグ最多勝監督となった。山本昌邦コーチは2004年アテネオリンピックで日本五輪代表チームを指揮したが、グループ最下位(1勝2敗)で敗退した。松永英機スカウティングスタッフは、ヴェルディ川崎、清水エスパルス、ヴァンフォーレ甲府、FC岐阜の監督を務め、特に甲府や岐阜での評価が高かった。
マイアミの奇跡から4年後、2000年のシドニー五輪男子グループリーグD組最終戦でも日本とブラジルが対戦。この時はブラジルが1-0で勝利し、4年前の雪辱を果たす形となった。2013年現在、A代表でのブラジル戦勝利は果たせていない。
試合データ
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脚注
- ↑ 当時は、前回優勝国は次の大会が予選免除されており、優勝国のブラジルは南米予選を免除されていた。なお、2006年大会からは前回優勝国も予選から参加することになった。
- ↑ ロナウジーニョ(ロナウド・デ・アシス・モレイラ)ではなく所謂ロナウド(ロナウド・ルイス・ナザリオ・ジ・リマ)。DFのロナウド・ギアロ(大会登録名ロナウド)がいたので、大会登録名をロナウジーニョにした。アトランタ五輪時点ではFCバルセロナへの移籍前で、ブラジル五輪代表では控えのFWだった。
- ↑ 1995年には6月のアンブロカップ(リバプール)と8月の親善試合(国立競技場)で日本対ブラジル戦が行われ、ロベルト・カルロスとサヴィオが日本A代表から得点していた。
- ↑ 後に仏W杯日本代表や柏レイソル等でもGKコーチを務めた。
- ↑ ベベットは戦力アップの為に加えられたオーバーエイジなので交代させないと予想した。
- ↑ 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 6.5 6.6 6.7 山本昌邦著『日本サッカー遺産-ワールドカップ出場舞台裏の歴史と戦略』P20 - P25
- ↑ 7.0 7.1 7.2 "【元川悦子コラム】アトランタ五輪プレイバック:「28年の壁」をこじあけた日本、そして「マイアミの奇跡」 ". Soccer Journal編集部.(2012年6月20日)2013年9月11日閲覧。
- ↑ 『Sportiva』2003年7月号付録「JAPAN NATIONAL FOOTBALL TEAM SPECIAL DATA BOOK」、P41。
- ↑ 協会技術委員等が出す大会報告書のこと。大会のサッカーの傾向及び各チームの分析等を行い、育成方針等の指導改善に役立てる。各国協会及びFIFAがそれぞれ独自に作成する。