ロナウジーニョ
テンプレート:存命人物の出典明記 テンプレート:サッカー選手 ロナウジーニョ(Ronaldinho)こと、ロナウド・デ・アシス・モレイラ(Ronaldo de Assís Moreira, 1980年3月21日 - )は、ブラジル出身のサッカー選手。ブラジル代表である。ポジションはフォワード(セカンドトップ、左ウイング)、ミッドフィールダー(トップ下)。愛称はガウーショ[1]。ホナウジーニョと表記される事もある。
目次
人物
名前・愛称
Ronaldinhoは、日本語ではロナウジーニョと主に表記・呼称される。出身地であるポルト・アレグレなどの南部では、R発音は昔のポルトガル語発音であるラ行も多いが、現在ブラジルではリオなどの北部を中心として広い範囲でブラジルポルトガル語からR発音はハ行で読むのがほぼ一般的になりつつある。したがって日本でもホナウジーニョというネイティブに近い表記・呼称もある。この為、表記や読みを完全に統一することは難しくなっている。
また、RonaldinhoとはRonaldoに縮小辞inhoがついた愛称形で「小さなロナウド」というニックネームである。セレソン選出当時に既にロナウド(ロナウド・ルイス・ナザリオ・ジ・リマ)がおり、彼がロナウジーニョと呼ばれていた。後から入ったロナウド(ロナウド・デ・アシス・モレイラ)もロナウジーニョと呼ばれたが、ホナウド=ホナウジーニョと区別するために、ブラジル南部出身である事から彼はガウーショとも呼ばれることになる。ガウーショとは南米のカウボーイを意味し、ブラジル国内では南部地域、とりわけリオグランデ・ド・スル州とサンタカタリナ州出身の男性(気質)を強調する際に用いられる語である(戦争の時にガウチョが活躍したため)。
現在、ブラジルではロナウドはロナウジーニョもしくはFenômeno(フェノーメノ、天変地異、転じて「怪物」)、ロナウジーニョをGaúcho(ガウーショ、ロナウジーニョ・ガウーショ)と呼び区別している。
なお、このようにブラジル人を本名で呼ばず、愛称で呼ぶことが多いのは、母親と父親の名前の両方を受け継ぎ、名前が非常に長くなること、またロナウドのように同じ名前が非常に多いことによる。
家族
ロナウジーニョの代理人である、実兄のロベルトは、1999年にアシスという登録名でコンサドーレ札幌に在籍していた。幼いころに父親を亡くしたため、ロベルトが父親代わりになっていた。
元々は貧しい家庭環境だったが、兄のロベルトがグレミオとプロ契約したことで、6歳の時にプール付きの豪邸に移り住んでいる。ロナウジーニョの回想のなかの「家の中で椅子や犬を相手にドリブルの練習をしていた」という話からも、広々とした家に住んでいたことが窺える。
経歴
幼年期
ロナウジーニョは1980年3月21日、父ジョアン・アシスと母ミゲリーナ・モレイラの3番目の子としてブラジル、リオ・グランデ・ド・スル州の州都ポルト・アレグレで生まれた[2]。人口150万人のこの町は先住民とポルトガルからの入植者の他、スペイン、アフリカ、イタリア、ポーランド、ウクライナ、ロシア、ユダヤなど多数の移民が暮らしを営み、それぞれの文化が複雑に融合した独特の雰囲気を持った町で、住民はガウーショ(カウボーイ)と呼ばれていた[3]。帝王切開でロナウジーニョを取り上げた担当医は彼の右足に違和感を覚え、整形外科医の診察を受けるよう両親に進言したという[4]。家は貧しく、両親は共働きであったため、ロナウジーニョの面倒は主に祖母アルベルティーナと姉デイジが見ていた[5]。10ヶ月を数える頃には歩き始め、父はロナウジーニョにサッカーボールとサッカーシューズを買い与えた[6]。以降サッカーに夢中になったロナウジーニョは、家の中や中庭で兄ロベルトや4匹の飼い犬を相手にサッカーの技術を高めていった[7]。
7歳になると州立アルベルト・トーレス小学校へ入学したが、翌年に兄ロベルトがグレミオとの間でプロ契約を締結し、グラブチームから新しい住居が提供されることとなったため、その引越しとともにグアルージャの州立ランゲンドンク初等教育学校へ転校している[8]。ジョアンは早い段階でロナウジーニョの才能を見抜いていたとされており、ロベルトがグレミオと契約を交わした際に、指導者に「将来、超一流の選手になるはずの子が家にいます。ロナウドと言います」と伝えている[9]。
クラブ
グレミオ
ロナウジーニョはグレミオの下部組織でサッカーを始め、1998年のコパ・リベルタドーレスでトップチームデビューした[10]。2001年にはイングランドのアーセナルFCがロナウジーニョとの契約に興味を示したが、彼はEU圏外選手であり、イギリスの労働許可証の取得条件を満たさなかったため、この移籍話は破談となった[11]。同年にはスコティッシュ・プレミアリーグのセント・ミレンFCにレンタル移籍することを検討したが、偽造パスポート事件に巻き込まれたために取りやめとなった[12]。
パリ・サンジェルマン
- 2001-02シーズン
2001年、フランス・リーグ・アンのパリ・サンジェルマンFCと5年契約を結んだ[13]。移籍金は500万ユーロ。パリ到着後、背番号21を与えられ、ブラジル代表のアロイジオ(Aloísio José da Silva)、ミケル・アルテタ、ジェイジェイ・オコチャなどが在籍する攻撃陣の一員に加わった。2001年8月4日のAJオセール戦(1-1)で途中出場してリーグ戦デビューし[14]、2001-02シーズン前半戦は先発出場と途中出場を交互に繰り返した。10月13日のオリンピック・リヨン戦(2-2)では途中出場し、79分に移籍後初得点となる同点弾をペナルティキックで決めた[15]。ウィンターブレーク後のASモナコ戦(1-2)、スタッド・レンヌFC戦(2-1)、RCランス戦(1-1)、FCロリアン戦(5-0)では4試合連続得点を記録し、2002年3月16日のトロワAC戦(3-1)では残留争いに苦しむ相手から1試合2得点を記録した。4月27日のFCメス戦(2-0)でシーズン最後のゴールを挙げ、移籍初年度のリーグ戦は9得点でシーズンを終えた。同シーズンはクープ・ドゥ・ラ・リーグでもチームに大きな影響を与え、ラウンド16のEAギャンガン戦ではハーフタイムに途中出場して後半だけで2得点を挙げた。チームは準決勝に進出し、準決勝でFCジロンダン・ボルドーに敗れた。プレーでは移籍初年度から健闘したが、「サッカーよりもパリでの夜遊びで注目を集め、ブラジルでの休暇から予定通りに帰国しない」と主張するルイス・フェルナンデス監督との確執によって台無しとなった[10]。
- 2002-03シーズン
2002年夏には背番号を10に変更し、2002-03シーズンに臨んだ。2年目のシーズンは1年目と比較して失望の残るシーズンであったが、それでも見事な成績を残した。2002年10月26日、オリンピック・マルセイユとのル・クラスィク(3-1)で2得点を挙げた。最初の得点は直接フリーキックによるもので、カーブしたボールは壁の横を通り抜けてベドラン・リュンジュ(Vedran Runje)が守るゴールに吸い込まれた。スタッド・ヴェロドロームで行われたアウェー戦でも得点し、3-0で快勝した。クープ・ドゥ・フランス準決勝のFCジロンダン・ボルドー戦(2-0)では2得点を挙げ、再び称賛を集めた。22分に先制点を決め、81分にはGKウルリッヒ・ラメが適切なポジション取りをしていたのにもかかわらず、頭を抜くチップシュートを決めて試合を締めくくった。これらの活躍で、パリ・サンジェルマンFCの観客にスタンディング・オベーションを贈られた。クラブにとって不幸なことに、決勝のAJオセール戦(1-2)ではロナウジーニョ自身もチームも本来の調子を出せず、ロスタイムのジャン=アラン・ブームソンの得点に屈した。2002-03シーズンのリーグ戦は11位と失望の順位に終わり、欧州カップ戦出場権を逃したことで、ロナウジーニョは他クラブへの移籍希望を明らかにした。
バルセロナ
- 2003-04シーズン
当初、FCバルセロナのジョアン・ラポルタ会長はデヴィッド・ベッカムの獲得を公約していたが、ベッカムはレアル・マドリードに移籍したため、FCバルセロナはロナウジーニョの獲得争いに参加し、マンチェスター・ユナイテッドFCよりも高額な3000万ユーロのオファーを提示して獲得に成功した[16][17]。アメリカのワシントンにあるロバート・F・ケネディ・メモリアル・スタジアムで行われたACミランとの親善試合でデビューし、その試合で1得点を挙げて2-0で勝利した。2003-04シーズン前半戦には負傷離脱していた時期もあったが[18]、復帰後はチームをリーグ戦2位に導いた。
- 2004-05シーズン
2004年12月20日にはFIFA最優秀選手賞を受賞し、2004-05シーズンには移籍後初のリーグ優勝を果たした。2005年3月8日、UEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦・チェルシーFC戦セカンドレグ(2-4)では2得点を挙げたが、2試合合計4-5で敗退が決まった[19]。
- 2005-06シーズン
2005年9月にはFIFPro年間ベストイレブンとFIFPro年間最優秀選手賞を受賞し、同年にはUEFA年間最優秀選手賞も受賞した。さらに、FIFA最優秀選手賞の投票では956点を集め、2位のフランク・ランパード(306点)に3倍以上の大差をつけて2年連続で受賞した。2005年11月19日、レアル・マドリードとのエル・クラシコ(3-0)では2得点を挙げた。勝利を決定づける2点目を決めると、アウェーでのダービーマッチにもかかわらずレアル・マドリードのファンからスタンディング・オベーションが贈られた。2006年1月には3年連続でUEFAチーム・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。UEFAチャンピオンズリーグ準々決勝・SLベンフィカ戦セカンドレグでは先制点を決めた。準決勝のACミラン戦ファーストレグではリュドヴィク・ジュリの決勝点をアシストし、2試合合計1-0で決勝に駒を進めた。5月26日に行われた決勝ではアーセナルFCを2-1で下して優勝を果たした。決勝の2週間前にはセルタ・デ・ビーゴに1-0で勝利してリーガ・エスパニョーラ2連覇を決めており、キャリア初の2冠を達成した。全公式戦を通じて自己最多の26得点を挙げ、UEFAチャンピオンズリーグの大会最優秀選手に選ばれた。
- 2006-07シーズン
2006年11月25日のビジャレアルCF戦では2度目となるオーバーヘッドキックでの得点を決め、FCバルセロナでのリーグ戦得点数が50点に達した。このビジャレアル戦での得点は少年時代から夢見ていたゴールであると後に語っている[20]。12月にはFIFAクラブワールドカップに出場し、準決勝のクラブ・アメリカ戦(4-0)では1得点1アシストの活躍を見せたが、決勝のSCインテルナシオナル戦(0-1)に敗れて準優勝に終わった[21]。この大会でロナウジーニョはブロンズボールに輝いた。SCインテルナシオナル戦の翌日にはFIFA最優秀選手賞が発表されたが、2006 FIFAワールドカップで優勝したイタリア代表のキャプテンであるファビオ・カンナヴァーロ、準優勝のフランス代表のキャプテンであるジネディーヌ・ジダンに次ぐ3位に終わった[22]。2007年1月、最多となる29万票以上を集めてUEFAチーム・オブ・ザ・イヤーに3年連続で選出された[23]。エル・クラシコ(3-3)で負傷し、3月13日のチャリティマッチには出場できなかった[24][25]。
- 2007-08シーズン
2008年2月3日のCAオサスナ戦に出場し、FCバルセロナでの公式戦通算200試合出場を達成した。しかし、2007-08シーズンは全体的に負傷に苦しめられ、4月3日には右足の筋肉断裂により一足早くシーズンを終えた[26]。5月19日、ラポルタ会長は「ロナウジーニョは新たなチャレンジを必要としている」と発言し、トップ選手としてやっていくためには移籍が必要であると主張した[27]。6月6日、マンチェスター・シティFCのタクシン・シナワットオーナーはロナウジーニョの獲得に興味を示した[28]。6月28日、ロナウジーニョとリオネル・メッシはベネズエラで開催された人種差別撲滅のための親善試合でそれぞれのチームのキャプテンを務め、試合は7-7の引き分けに終わった。彼は2得点2アシストを記録したが、この試合がFCバルセロナの選手としての最後の試合となった[29]。2010年のジョアン・ガンペール杯前日、FCバルセロナのファンと選手たちに対して「FCバルセロナでの5年間が最高の時期であった」とする手紙を公開した[30]。
ミラン
- 2008-09シーズン
2008年7月、ロナウジーニョはマンチェスター・シティFCからの移籍金2550万ポンドのオファーを拒否し[31]、イタリア・セリエAのACミランと3年契約を結んだ。年俸は約510万ポンド(650万ユーロ)であり、移籍金は約1450万ポンド(1850万ユーロ)と考えられている[32][33]。希望の背番号10は既にクラレンス・セードルフが着けていたため、生まれ年の1980年に因んで背番号80を選んだ。9月28日、インテルとのミラノ・ダービー(1-0)で初得点を挙げた。10月19日のUCサンプドリア戦(3-0)では初の1試合2得点を記録した。11月6日、UEFAカップグループリーグのSCブラガ戦では93分に決勝点を挙げた。2008-09シーズンは全大会を通じて32試合に出場して10得点した。良好なスタートを切った後、コンディション不良に苦しんで途中出場が多くなり、ACミランでの初年度は失望に終わった。
- 2009-10シーズン
2009-10シーズン序盤はベンチから試合開始を迎えることも多かったが、その後調子を取り戻し、攻撃的ミッドフィールダーから馴染み深い左ウイングに役割を変え、このシーズンのチームの最優秀選手と言ってもよい活躍を見せた。2010年1月10日、アウェーでのユヴェントスFC戦(3-0)では2得点を挙げた。翌週の1月17日に行われたシエナ戦(4-0)では、1点目をペナルティキック、2点目をコーナーキックからのヘディングシュート、3点目を20ヤードの距離からのミドルシュートで決め、移籍後初のハットトリックを達成した[34]。1月16日には移籍後初めてのUEFAチャンピオンズリーグの試合となるマンチェスター・ユナイテッドFC戦に出場し、序盤に得点してリードを得たが、ポール・スコールズとウェイン・ルーニー(2点)に得点を許して最終的に2-3で敗れた。4月13日、カルチョ・カターニア戦(2-2)でマルコ・ボリエッロの得点をアシストし、アシスト数はリーグトップの14に達した[35]。5月15日にはホームでのユヴェントス戦(3-0)で2得点を記録し、ライバル相手に1シーズンで計4得点を記録した。この試合はレオナルド監督のACミラン監督としてのラストマッチとなった。なお、2008-09シーズンもペナルティキックを1度失敗していたが、2009-10シーズンは3度もペナルティキックを失敗している。
- 2010-11シーズン
2010年夏にマッシミリアーノ・アッレグリ監督が就任し、4-3-3フォーメーションではなく主に4-3-1-2フォーメーションが採用された。2010-11シーズン開幕戦のUSレッチェ戦(4-0)ではキレの良いプレーを見せたが、役割が変更になると徐々にフェードアウトし、シーズン前半戦は11試合出場無得点に終わった。
フラメンゴ
2011年冬にはアメリカのロサンゼルス・ギャラクシー、ブラジルのSCコリンチャンスやSEパルメイラス、イングランドのブラックバーン・ローヴァーズFCなど様々なクラブがロナウジーニョに関心を示した。特に幼少時代を過ごしたグレミオFPAから強い関心を示されたが、2011年1月11日にCRフラメンゴと2014年末までの契約を交わし[36]、1月13日に行われたお披露目では2万人以上のファンに迎えられた[37]。2月6日のボアヴィスタSC(Boavista SC)戦(3-2)で移籍後初得点を記録し[38]、2月27日に行われたタッサ・グアナバラ(Taça Guanabara)決勝の同一カード(1-0)では右足での直接フリーキックで決勝点を決め、トロフィー獲得に貢献した。CRフラメンゴにとっては19度目の同大会制覇であり、2ヶ月後にはリオ・グランデ・ド・スル州選手権(Campeonato Carioca)とタッサ・リオ(Taça Rio)でも優勝を果たした。
2012年5月31日にフラメンゴとの契約を一方的に解除した[39]。
アトレチコ・ミネイロ
2012年6月、アトレチコ・ミネイロへ移籍。契約はシーズン終了まで。2013年7月25日、クラブ史上初のコパ・リベルタドーレス制覇を達成し、史上8人目となる欧州&南米王者に輝いた。
代表
- 1999-2002
全ての年代でブラジル代表に選ばれた数少ない選手の一人である。1997年にはU-17ブラジル代表としてFIFA U-17ワールドカップで優勝し、ブロンズボールに輝いた。1999年はブラジル代表で大きな結果を残した年となった。4月にはナイジェリアで開催されたFIFA U-20ワールドカップに出場し、グループリーグ最終戦(1得点)と決勝トーナメント1回戦のU-20クロアチア戦(4-0、2得点)で計3得点を挙げた。準々決勝でU-20ウルグアイ代表に敗れ、2大会連続のベスト8に終わった。6月26日、コパ・アメリカ1999前最後の親善試合となったラトビア戦(3-0)でブラジル代表初出場を果たし、コパ・アメリカ1999中に代表初得点を記録した。コパ・アメリカが閉幕して1週間後にはFIFAコンフェデレーションズカップ1999に招集され、メキシコに3-4で敗れた決勝以外の全ての試合で得点した。特に準決勝のサウジアラビア戦(8-2)ではハットトリックを達成し、大会得点王と大会最優秀選手賞を同時受賞した。2000年前半にはCONMEBOLプレオリンピック大会(CONMEBOL Men Pre-Olympic Tournament)に出場し、7試合で9得点を挙げて優勝に導いた。同年夏にはU-23ブラジル代表としてシドニーオリンピックに出場したが、優勝したU-23カメルーン代表に準々決勝で敗れた。ロナウジーニョは4試合に出場し、U-23カメルーン戦での1得点に終わった。
2002年には初めてのFIFAワールドカップとなる2002 FIFAワールドカップの代表メンバーに選ばれ、コパ・アメリカ1999を共に制したロナウドやリバウドなどと共に脅威的な攻撃陣を構成した。大会を通じて5試合に出場して2得点し、更にいくつかの重要なアシストでもチームに貢献した。最初の得点はグループリーグの中国戦(4-0)であり、次の得点は準々決勝のイングランド戦(2-1)であった。この試合で彼は35mの距離から直接フリーキックを蹴り、デヴィッド・シーマンが守るゴールネットを揺らした。この得点の7分後にダニー・ミルズへのファールで退場処分を受けたが、フリーキックでの得点が決勝点となって準決勝進出を決めた。準決勝は出場停止であったが、決勝のドイツ戦(2-0)には先発出場し、5度目の優勝を果たした。
- 2003-2006
次に参加した大会は2003年のコンフェデレーションズカップであったが、どの試合でも得点を挙げることができず、低調なプレーのブラジル代表はグループリーグで敗退した。2004年、カルロス・アルベルト・パレイラ監督は代表の主力選手を休ませるため、ロナウジーニョをコパ・アメリカ2004のメンバーに加えず、メンバーの大部分を本来なら控えの立場の選手で構成した[40]。2005年6月にはコンフェデレーションズカップに出場し、決勝のアルゼンチン戦(4-1)ではマン・オブ・ザ・マッチに選出された。この大会を通じて3得点を挙げ、1999年大会を含めた得点数を9得点とし、通算最多得点者のクアウテモク・ブランコと並んだ。
2006年にはドイツで開催されたワールドカップのメンバーに選ばれ、アドリアーノ、ロナウド、カカと共に構成されたマジック・カルテットの一員として全5試合に先発出場した。しかしブラジル代表は全体的に低調で、この4人組は計5点しか奪えなかった。ロナウジーニョはグループリーグの日本戦でジウベルトの得点をアシストしたが、代表キャリアの中でも最悪の大会となり、大会を通じて無得点1アシストに終わった。準々決勝のフランス戦(0-1)では何もできず、ブラジル代表は枠内シュートを1本しか打てない体たらくで敗退が決まった[41]。この代表チームはブラジル帰国後にファンやメディアの批判にさらされ、フランス戦の2日後の7月3日には、チャペコ(Chapecó)にあった7.5m(23フィート)ものグラスファイバーと樹脂製のロナウジーニョの彫像が過激なファンによって破壊された[42]。この彫像は2004年にFIFA最優秀選手賞受賞を記念して設立されたものだった。同じ日、バルセロナに戻ったロナウジーニョは自宅にアドリアーノを招いてパーティを催し、ナイトクラブで早朝まで夜遊びを続けた。このことは多くのブラジルのファンに「努力の足りないブラジル代表に裏切られた」という感情を抱かせた[43]。
- 2007-2010
2007年3月24日のチリ戦(4-0)ではFIFAコンフェデレーションズカップ2005決勝以来となる得点(2得点)を決め、2年近くにも及んだ連続無得点期間を終わらせた[44]。同年にはコパ・アメリカ2007が開催されたが、疲労のために出場免除を申し出て、ドゥンガ監督はロナウジーニョの大会欠場を許可した[45]。10月にはエクアドルとの親善試合(5-0)を戦ったが、数人の選手たちとリオデジャネイロの高級ナイトクラブでパーティを催し、翌朝11時にナイトクラブを出たが、メディアを避けるために車のトランクに隠れて移動したとされる[46]。この夜遊びが原因でスペイン帰国が遅れたとして、FCバルセロナの試合では先発から外されて議論を呼んだ。
2008年7月7日、オーバーエイジ枠として北京オリンピックのブラジル代表メンバーに加わった[47]。FCバルセロナはチャンピオンズリーグの試合に彼を出場させたいとして、初めはブラジル代表への招集を拒否しようとしたが、ACミランへの移籍が合意に達したためにオリンピックへの出場が許された[48]。グループリーグのU-23ニュージーランド戦(5-0)で2得点を挙げたが、準決勝でU-23アルゼンチン代表に敗れ、3位決定戦のU-23ベルギー代表に勝利して3位となった。
コンディションを取り戻した後は、2010年5月11日に2010 FIFAワールドカップのブラジル代表候補30人に選ばれ[49]、自身も南アフリカ行きを熱望していたが[50]、ドゥンガ監督は本大会に出場する23人のメンバーからロナウジーニョを除外した[51]。ジャーナリストの中には、ロナウジーニョ、アレシャンドレ・パト、アドリアーノ、ロナウドのような選手を選外とすることはブラジルの伝統的なプレースタイルであるJoga Bonitoを放棄する兆しであると主張する者もいた[52]。
- 2011-
2011年9月5日のガーナとの親善試合で10ヶ月ぶりに代表に復帰すると、得点こそ奪えなかったものの好調をみせ、監督のマノ・メネゼスに「彼を代表へ復帰させなければならない」と言わしめた[53]。同年10月11日のメキシコとの親善試合では代表では4年ぶりとなる得点を挙げ、勝利に貢献した[54]。
エピソード
- 2008年4月、アムウェイのサプリメントブランドであるニュートリライトとグローバル契約を結んだ。
- ナイキのCMにも多く出演しており、主にその華麗なボール捌きを題材にしている。特に、ボールを一度も落とす事なく4連続でクロスバーに当てると言う映像は、実際のプレーなのか合成映像なのか論争になり、現在も真偽は不明だが本人は合成であることを否定している。ナイキジャパンのスタッフで、現地にいた人間は「あれは実際にやったプレー」と証言している。
- 2006年にはナイキとの縁で、ファンであるマイケル・ジョーダンと対談した。スーパースターであるロナウジーニョも、さすがに憧れのジョーダンの前では子供のように目を輝かせていた。
- 2006年には、ゴマブックスから人生を叙事的につづった『ロナウジーニョ The Smiling Champion』が出版された。
- W杯やコンフェデ杯などでは、セレソンの中で率先してサンバを歌っている姿などが見かけられる。中でもサンバ楽器のパンデイロ演奏はプロのミュージシャンにも劣らない腕前を持っていると言われる。2006年には彼自身がサンバなどのブラジル音楽を選曲したコンピレーションCD「ゴー!ゴー!ロナウジーニョ」[55]が発売されており、1曲目では彼がサンバを歌っている曲が聴ける。
- 大の負けず嫌いで、勝負事では手を抜かないことは有名だが、反面 燃え尽き症候群のようなことも多々見られる。日韓W杯優勝、05-06CL優勝後のロナウジーニョの言動の変貌ぶりは周りの人間を驚かせたという。
- 試合中もサッカーを楽しむことを忘れない選手であり、たびたび笑顔をちらつかせプレーしている。これほど笑顔を絶やさずプレーする選手は、かつてのセレソンの英雄ガリンシャとロナウジーニョをおいて他にいないと言われている。
- 世界屈指の人気選手であり、Twitterのフォロワー数は2014年6月現在で約968万人である。世界のあらゆるアスリートの中でもクリスティアーノ・ロナウド、カカ、レブロン・ジェームズ、ネイマールに次いで5番目に多い[56]。
リバウドとの関係
ロナウジーニョにとってロナウドは特別な存在であることは良く知られているが、リバウドとの関係はあまり知られていない。雑誌で、バルセロナ加入時に「リバウドやロナウドのような僕のアイドルのあとを追う事が出来て嬉しい」と語っている。
2002年の日韓大会でのイングランドの強力センターバック・コンビのソル・キャンベル、リオ・ファーディナンドを相手にカウンターでロナウジーニョがドリブルでひきつけてからのリバウドへのパスにより1点をもぎ取った。
2002年夏、ルイス・ファン・ハールの監督復帰によってリバウドとバルサの間に決定的な亀裂が生じた。このような状況の中、10番としてやってきたのがフアン・ロマン・リケルメであった。その後、リバウドはミランへと移籍。リケルメは後の2006年W杯でアルゼンチン代表の主軸を担う選手だが、彼はプレーにムラがあり、当時の監督ファン・ハールの戦術にもフィットしなかった。当時リバウドはジダンらと並び称される世界最高の選手の一人ながら、プレーやポジション、チームでの役割は異質なものがあり、その穴を埋めるのは至難の技だったと言える。そんな中バルサが目をつけたのが、当時パリ・サンジェルマンに所属していたロナウジーニョであった。
スペインはフランスと違いポルトガル語が通じやすい上に生活習慣にも共通点が多く、元々ロナウジーニョはスペインに行きたいという願望があった。そしてブラジル代表とFCバルセロナで10番を背負っていたリバウドの後釜としてカンプ・ノウの舞台に立ち、その上でタイトルの獲得、バロンドール、年間最優秀選手などの個人タイトルを獲得し、はては代表で背番号10を付けていく経緯は大変意味深である。結果的にはリバウドの辿ったミランへの移籍も決まった。
タイトル
クラブ
- テンプレート:Flagicon グレミオ
- コパ・スル (1): 1999
- カンピオナート・ガウショ (1): 1999
- テンプレート:Flagicon パリ・サンジェルマン
- UEFAインタートトカップ (1): 2001
- テンプレート:Flagicon バルセロナ
- リーガ・エスパニョーラ (2): 2004–05, 2005–06
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ (2): 2005, 2006
- UEFAチャンピオンズリーグ (1): 2005–06
- テンプレート:Flagicon フラメンゴ
- タッサ・グアナバラ (1): 2011
- タッサ・リオ (1): 2011
- カンピオナート・カリオカ (1): 2011
- テンプレート:Flagicon アトレチコ・ミネイロ
- コパ・リベルタドーレス (1): 2013
- カンピオナート・ミネイロ (1): 2013
代表
- U-17 ブラジル代表
- FIFA U-17世界選手権 (1) : 1997
- U-23 ブラジル代表
- 夏季オリンピック 銅メダル : 2008
- ブラジルA代表
- コパ・アメリカ (1): 1999
- FIFAワールドカップ (1): 2002
- FIFAコンフェデレーションズカップ (1): 2005
個人
- FIFAコンフェデレーションズカップ 最優秀選手 : 1999
- FIFAコンフェデレーションズカップ 得点王 : 1999
- カンピオナート・ガウショ 得点王 : 1999
- シドニーオリンピック南米予選 得点王 : 2000
- FIFAワールドカップ 優秀選手 : 2002
- FIFA 100 : 2004
- ドン・バロン・アワード 最優秀外国人選手賞 (2): 2003–04, 2005–06
- EFEトロフィー (1): 2004
- FIFA最優秀選手賞 (2): 2004, 2005
- UEFAクラブ・フットボール・アワード 最優秀フォワード (1): 2004–05
- バロンドール (1): 2005
- FIFPro年間最優秀選手賞 (2): 2005, 2006
- UEFA年間最優秀選手 (1): 2005–06
- UEFAチーム・オブ・ザ・イヤー (3): 2003–04, 2004–05, 2005–06
- FIFPro年間ベストイレブン (3): 2004–05, 2005–06, 2006–07
- ゴールデンフット賞 (1): 2009
- プレミオ・クラッキ・ド・ブラジレイロン : 2011, 2012
- ボーラ・ジ・プラッタ : 2011, 2012
- ボーラ・ジ・オーロ 2012
個人成績
代表での得点
# | 日時 | 場所 | 相手 | 結果 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|
1. | 1999年6月30日 | テンプレート:Flagicon シウダ・デル・エステ | テンプレート:Fb | 7–0 | コパ・アメリカ1999 |
2. | 1999年7月24日 | テンプレート:Flagicon グアダラハラ | テンプレート:Fb | 4–0 | FIFAコンフェデレーションズカップ1999 |
3. | 1999年7月28日 | テンプレート:Flagicon グアダラハラ | テンプレート:Fb | 1–0 | FIFAコンフェデレーションズカップ1999 |
4. | 1999年7月30日 | テンプレート:Flagicon グアダラハラ | テンプレート:Fb | 2–0 | FIFAコンフェデレーションズカップ1999 |
5. | 1999年8月1日 | テンプレート:Flagicon グアダラハラ | テンプレート:Fb | 8–2 | FIFAコンフェデレーションズカップ1999 |
6. | 1999年8月1日 | テンプレート:Flagicon グアダラハラ | テンプレート:Fb | 8–2 | FIFAコンフェデレーションズカップ1999 |
7. | 1999年8月1日 | テンプレート:Flagicon グアダラハラ | テンプレート:Fb | 8–2 | FIFAコンフェデレーションズカップ1999 |
1999年11月17日 | テンプレート:Flagicon メルボルン | テンプレート:Fb | 2–0 | 親善試合 (U-23ブラジル代表) | |
2000年1月12日 | テンプレート:Flagicon フロリアノポリス | テンプレート:Fb | 7–0 | 親善試合 (U-23ブラジル代表) | |
2000年1月12日 | テンプレート:Flagicon フロリアノポリス | テンプレート:Fb | 7–0 | 親善試合 (U-23ブラジル代表) | |
2000年1月23日 | テンプレート:Flagicon ロンドリーナ | テンプレート:Fb | 2–0 | シドニー五輪南米予選 (U-23ブラジル代表) | |
2000年1月26日 | テンプレート:Flagicon ロンドリーナ | テンプレート:Fb | 3–0 | シドニー五輪南米予選 (U-23ブラジル代表) | |
2000年1月26日 | テンプレート:Flagicon ロンドリーナ | テンプレート:Fb | 3–0 | シドニー五輪南米予選 (U-23ブラジル代表) | |
2000年1月30日 | テンプレート:Flagicon ロンドリーナ | テンプレート:Fb | 9–0 | シドニー五輪南米予選 (U-23ブラジル代表) | |
2000年1月30日 | テンプレート:Flagicon ロンドリーナ | テンプレート:Fb | 9–0 | シドニー五輪南米予選 (U-23ブラジル代表) | |
2000年2月2日 | テンプレート:Flagicon クリチーバ | テンプレート:Fb | 4–2 | シドニー五輪南米予選 (U-23ブラジル代表) | |
2000年2月2日 | テンプレート:Flagicon クリチーバ | テンプレート:Fb | 4–2 | シドニー五輪南米予選 (U-23ブラジル代表) | |
2000年2月2日 | テンプレート:Flagicon クリチーバ | テンプレート:Fb | 4–2 | シドニー五輪南米予選 (U-23ブラジル代表) | |
2000年2月4日 | テンプレート:Flagicon クリチーバ | テンプレート:Fb | 3–1 | シドニー五輪南米予選 (U-23ブラジル代表) | |
8. | 2000年2月23日 | テンプレート:Flagicon バンコク | テンプレート:Fb | 7–0 | 親善試合 |
2000年8月9日 | テンプレート:Flagicon オバリェ | テンプレート:Fb | 5–3 | 親善試合 (U-23ブラジル代表) | |
2000年8月9日 | テンプレート:Flagicon オバリェ | テンプレート:Fb | 5–3 | 親善試合 (U-23ブラジル代表) | |
2000年9月23日 | テンプレート:Flagicon ブリスベン | テンプレート:Fb | 1–2 | シドニー五輪 (U-23ブラジル代表) | |
9. | 2001年3月3日 | テンプレート:Flagicon パサデナ | テンプレート:Fb | 2–1 | 親善試合 |
10. | 2002年4月17日 | テンプレート:Flagicon リスボン | テンプレート:Fb | 1–1 | 親善試合 |
2002年5月18日 | テンプレート:Flagicon バルセロナ | テンプレート:CTLf | 3–1 | 非公式親善試合 | |
2002年5月18日 | テンプレート:Flagicon バルセロナ | テンプレート:CTLf | 3–1 | 非公式親善試合 | |
11. | 2002年6月8日 | テンプレート:Flagicon 西帰浦 | テンプレート:Fb | 4–0 | 2002 FIFAワールドカップ |
12. | 2002年6月21日 | テンプレート:Flagicon 袋井 | テンプレート:Fb | 2–1 | 2002 FIFAワールドカップ |
13. | 2002年11月20日 | テンプレート:Flagicon ソウル | テンプレート:Fb | 3–2 | 親善試合 |
14. | 2003年3月29日 | テンプレート:Flagicon ポルト | テンプレート:Fb | 1–2 | 親善試合 |
15. | 2003年9月10日 | テンプレート:Flagicon マナウス | テンプレート:Fb | 1–0 | 2006 FIFAワールドカップ・南米予選 |
16. | 2004年4月28日 | テンプレート:Flagicon ブダペスト | テンプレート:Fb | 4–1 | 親善試合 |
17. | 2004年8月18日 | テンプレート:Flagicon ポルトープランス | テンプレート:Fb | 6–0 | 親善試合 |
18. | 2004年8月18日 | テンプレート:Flagicon ポルトープランス | テンプレート:Fb | 6–0 | 親善試合 |
19. | 2004年8月18日 | テンプレート:Flagicon ポルトープランス | テンプレート:Fb | 6–0 | 親善試合 |
20. | 2004年9月5日 | テンプレート:Flagicon サンパウロ | テンプレート:Fb | 3–1 | 2006 FIFAワールドカップ・南米予選 |
21. | 2004年9月8日 | テンプレート:Flagicon ベルリン | テンプレート:Fb | 1–1 | 親善試合 |
22. | 2005年2月9日 | テンプレート:Flagicon 香港 | テンプレート:Fb | 7–1 | カールスバーグ・カップ |
23. | 2005年6月5日 | テンプレート:Flagicon ポルト・アレグレ | テンプレート:Fb | 4–1 | 2006 FIFAワールドカップ・南米予選 |
24. | 2005年6月5日 | テンプレート:Flagicon ポルト・アレグレ | テンプレート:Fb | 4–1 | 2006 FIFAワールドカップ・南米予選 |
25. | 2005年6月22日 | テンプレート:Flagicon ケルン | テンプレート:Fb | 2–2 | FIFAコンフェデレーションズカップ2005 |
26. | 2005年6月25日 | テンプレート:Flagicon ニュルンベルク | テンプレート:Fb | 3–2 | FIFAコンフェデレーションズカップ2005 |
27. | 2005年6月29日 | テンプレート:Flagicon フランクフルト・アム・マイン | テンプレート:Fb | 4–1 | FIFAコンフェデレーションズカップ2005 |
28. | 2007年3月24日 | テンプレート:Flagicon ヨーテボリ | テンプレート:Fb | 4–0 | 親善試合 |
29. | 2007年3月24日 | テンプレート:Flagicon ヨーテボリ | テンプレート:Fb | 4–0 | 親善試合 |
30. | 2007年8月22日 | テンプレート:Flagicon モンペリエ | テンプレート:Fb | 2–0 | 親善試合 |
31. | 2007年9月9日 | テンプレート:Flagicon シカゴ | テンプレート:Fb | 4–2 | 親善試合 |
32. | 2007年10月17日 | テンプレート:Flagicon リオデジャネイロ | テンプレート:Fb | 5–0 | 2010 FIFAワールドカップ・南米予選 |
2008年7月28日 | テンプレート:Flagicon シンガポール | テンプレート:Fb | 3–0 | 親善試合 (U-23ブラジル代表) | |
2008年8月10日 | テンプレート:Flagicon シェンヤン | テンプレート:Fb | 5–0 | 北京オリンピック (U-23ブラジル代表) | |
2008年8月10日 | テンプレート:Flagicon シェンヤン | テンプレート:Fb | 5–0 | 北京オリンピック (U-23ブラジル代表) | |
33. | 2011年10月11日 | テンプレート:Flagicon トレオン | テンプレート:Fb | 2–1 | 親善試合 |
脚注
参考文献
外部リンク
- 公式サイト
- 公式ブログ
- Ronaldinho Web
- ronaldinho10.com
- 1ronaldinho.com
- Photos and Videos Ronaldinho
- ロナウジーニョの部屋
- テンプレート:FIFA player
- Tactical Profile – Football-Lineups.com
- European Champions Cup/UEFA Champions League Winning Squads
- Ronaldinho profile FIFA website
- テンプレート:Soccerbase
- FootballDatabase career stats
- Ronaldinho profile BBC Sport
- Ronaldinho career stats Futpédia
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- ↑ 『ロナウジーニョ』pp.61-62
- ↑ 『ロナウジーニョ』p.62
- ↑ 『ロナウジーニョ』p.63
- ↑ 『ロナウジーニョ』p.67
- ↑ 『ロナウジーニョ』p.68
- ↑ 『ロナウジーニョ』p.69
- ↑ 『ロナウジーニョ』p.70
- ↑ 『ロナウジーニョ』p.77
- ↑ 10.0 10.1 Radnedge, Keir, "The priceless prince of Barcelona", World Soccer, January 2005, pp. 8–9
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- ↑ Ronaldinho joins Brazilian club Flamengo BBC Sport、2011年1月11日
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- ↑ Brazil victory harms Copa America credibility Sports Illustrated、2004年7月26日
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- ↑ Tired Ronaldinho asks to skip Copa America Reuters、2007年5月15日
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- ↑ World Cup 2010: I Am A Better Player At Milan That What I Was At Barcelona – Ronaldinho – Goal.com
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- ↑ ゴー!ゴー!ロナウジーニョ - ユニバーサルミュージック
- ↑ The World Cup Reminds Everyone That Soccer Players Are The Most Popular Athletes HUFF POST 2014年6月30日閲覧。