リオデジャネイロ
リオ・デ・ジャネイロ(テンプレート:Lang-pt-short)は、ブラジル南東部に位置するリオデジャネイロ州の州都。世界有数のメガシティであり、ブラジル最大の港湾都市である。
人口は600万人を超えており、サンパウロに次ぐブラジル第2の都市である。2010年の都市圏人口は1,167万人であり、世界第22位、国内ではサンパウロに次ぐ第2位である[1]。2014年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第56位、国内ではサンパウロに次ぐ第2位の都市と評価された[2]。都市周辺の美しい文化的景観は「リオデジャネイロ:山と海との間のカリオカの景観群」として、2012年に世界遺産リストに登録された。
2016年の第31回夏季オリンピックの開催都市である。
目次
名称
"Rio de Janeiro"とはポルトガル語で「1月の川」という意味。
ブラジルポルトガル語発音では、ヒウ・ヂ・ジャネイル[ˌxiuʤiʒaˈnejɾu]となる。
一般的にポルトガル語で都市名を読み書きする場合は男性形・女性形の区別をつけないが、一般名詞と区別するためにリオ・デ・ジャネイロは必ず男性定冠詞"o"を付けた"o Rio de Janeiro"という男性形で呼ばれる。ただし、長距離バスや航空機の行先表示などでは単純に「Rio」と略記されることもある。
概要
カーニバルで有名。コパカバーナ、イパネマなどの世界的に有名な海岸を有し世界3大美港の一つに数えられる美しい都市である。都市のGDPは2010億ドルであり世界第30位、南米ではサンパウロ、ブエノスアイレスに次ぎ第3位である[3]。
1960年にブラジリアに遷都するまではブラジルの首都であった。また、1808年にナポレオンに本国領土を奪われたポルトガル王室が遷都してからブラジルが独立するまではポルトガルの首都であった。また、中南米有数の貿易港でもあるためにブラジルの経済的な中心地でもあった。近年は経済の中心地はサンパウロに移り、その地位が低下しているものの、依然として中南米有数の経済都市である。また、ブラジルのみならず世界でも有数の観光地としても、ショーロ、サンバ、ボサノヴァを生んだ音楽の都としても名高い。
歴史
1502年1月にポルトガル人探検家ガスパール・デ・レモスたちがグアナバラ湾の湾口であるこの地に到達。グアナバラ湾は湾口が狭まっているため大きな川であると誤認し、発見した月に因みポルトガル語で「一月の川」と命名した[4]。ポルトガル人たちは海岸に壁を白く塗った家を建てて住んだ。先住民のテンプレート:仮リンクは彼ら白人を「カリ・オカ」(トゥピー・グゥアラニー語で白い家の意味)と呼んだ。それが現代語のカリオカの起源である。1555年にフランスの植民地開拓者がテンプレート:仮リンク居留地をつくったが1567年にこれをポルトガル人は追い出し、18世紀までここに小さなコミュニティをつくっていた。町の名は川(実は湾)の名の転用である。
17世紀までのリオは、砂糖の栽培と製糖工場がある小さな港町にすぎなかった。しかし18世紀前半に内陸のミナスジェライス州周辺で金鉱が発見された。この金の集散地は、当初は金鉱発見者であるバンデイランテスたちの基地であるサンパウロであったが、1725年にリオとミナスジェライスを結ぶ新道が開通すると、距離的に近いリオがサンパウロに代わってミナスの金やダイアモンドの積出港となり、テンプレート:仮リンクの交通と富の中心となった。このためそれまで栄えていた北東部から南東部への重心の移動が生じ、1763年にはブラジル総督がサルヴァドール・ダ・バイーアからリオに移されテンプレート:仮リンクの首府となった[5]。
1808年に半島戦争の勃発により、リスボンのポルトガル宮廷はナポレオン軍を逃れてリオに移転した。翌1809年、リオがポルトガル・ブラジル連合王国の首都となる。これによりリオは人口も増加し、また高い文化を持った移住者たちによって文化も進歩した。1821年には王の帰還と共に首都もリスボンに再遷都されたが、ポルトガルがブラジルの統治に軍を送り込んだためブラジル側の憤激を買い、独立派はリオに残っていた王太子ドン・ペドロを擁立して1822年にブラジル帝国の独立を宣言し、リオはブラジル帝国の首都となった。
1832年4月4日から7月5日まで、ダーウィンの乗ったイギリス海軍のビーグル号が寄港している。ここでダーウィンは奴隷に対する酷い仕打ちを目撃した。このときの深い嫌悪感を終生忘れることがなかった[6]。
帝国の首都として行政機能の集中したリオの街は順調に発展していった。1854年にはブラジル初の鉄道14kmがリオに建設され、ガス燈や電信、上下水道といったインフラも整備され始めた。1889年に帝政が廃止され共和制に移行するものの、リオは引き続きブラジル連邦共和国の首都となった。当時の市街はグアナバラ湾の入口にほど近い現在のセントロ地区のみであったが、19世紀末には人口は50万、1900年には81万に達し、市街は拡大していった。1902年に就任した第5代大統領のロドリゲス・アルヴェスは首都であるリオの改善に熱心に取り組み、都市計画家フランシスコ・ペレイラ・パソスを起用して都市計画を実施し、1903年には東西南北の幹線道路が整備された。黄熱病が撲滅され、衛生状況が大きく改善したのもこの時期である。南のボタフォゴ地区やさらに南のコパカバーナへと市街地が延びていった。コパカバーナやイパネマへと通じる直通トンネルも建設された。
ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス時代の開発政策により、第二次世界大戦後に商工業が発展すると内陸部や北東部から職をもとめて大量の人々が流入した。しかし、経済の重心は徐々に内陸部のサンパウロ市に移っていき、1950年代にはリオの人口はサンパウロに抜かれ、現在に至るまでリオはブラジル第2の都市となっている。また1960年、ジュセリーノ・クビシェッキ大統領によって首都はブラジリアに移され、リオは行政の中心地としての機能を失った。遷都後もそれまでの連邦直轄区の領域、すなわち今日のリオデジャネイロ市域はグアナバラ州としてリオデジャネイロ州と併存していたが、1975年にグアナバラ州とリオデジャネイロ州が合併し、ニテロイ市にかわって新リオデジャネイロ州の州都になった。1992年にはこの地で地球サミット(環境と開発に関する国際連合会議)が開催され、「環境と開発に関するリオデジャネイロ宣言」(リオ宣言)とその行動計画であるアジェンダ21が合意された。
2009年10月2日、東京、シカゴ、マドリードとの投票に勝利して、第31回夏季オリンピックのリオ開催が決定した。これは南米大陸初、ラテンアメリカ全体でも1968年開催のメキシコオリンピックに次ぐ48年ぶり2回目のオリンピック開催となる。
人口動態
白人(53.4%)、混血(33.5%)、黒人(12.6%)、その他(0.5%)。19世紀末から20世紀初頭の大量の移民によって人種構成は多様化し、ポルトガル人のほか、イタリア系、スペイン系、ドイツ系、日系(15000人)、ユダヤ系、レバノン系など、多種多様な人種が混在し、混交している。1872年に27万人だった人口は、1890年に52万人、1900年に81万人、1950年に237万人、2000年には585万人に達した。この人口増加の多くは国内移動、とくに貧しい北東部からの大量流入によるもので、これによりリオ市内各所にファヴェーラ(スラム)ができ、貧富の差や治安の悪化が問題となっている。
地域
- セントロ地区
- セントロ地区はリオの歴史的中心部であり、また現在でも経済的中心でもある。セントロ地区の中心であるリオ・ブランコ通りはビジネス街で、多くのオフィスビルが立ち並ぶ。東西にはプレジデンチ・ヴァルガス大通りが走っており、リオの中央駅であるドン・ペドロ2世駅もこの通り沿いにある。東端にはグアナバラ湾に面してサントス・ドゥモン空港があり、国内線が多く発着する。また西部には、カーニバルのメイン会場となるサンボードロモ・ダ・マルケス・ジ・サプカイがある。
- 南地区
- 南部は高級住宅街が多く、またグアナバラ湾や大西洋に面したビーチも多い。セントロのすぐ南に広がるフラメンゴやボタフォゴにもビーチがあるが、リオのビーチで最も著名かつ人の多いところはその南に広がるコパカバーナや、そのさらに西に広がるイパネマ海岸である。この二つははリオ有数の観光地であると同時に、リオ有数の高級住宅街でもある。イパネマ海岸はリオで生まれた音楽ボサノヴァの曲『イパネマの娘』の舞台としても有名である。イパネマのさらに西にあるレブロン地区は南アメリカ大陸で最も地価が高い地点のある高級住宅街である。また、ボタフォゴの東のウルカ地区にはリオのシンボルの一つであるポン・ヂ・アスーカルと呼ばれる岩山があり、ロープウェーで頂上まで登ることができる。また、リオデジャネイロのシンボルであるコルコバードのキリスト像はこの南部地区にあるコルコバードの丘の上に立っており、登山電車で登ることができる。
- 北地区
- 北地区は工業地区や住宅地区となっている。この地区には、1950年のワールドカップのために建設され、かつては20万人の収容人員を誇る世界一のサッカースタジアムだったエスタジオ・ド・マラカナンがある。現在の収容人員は95000人だが、現在でもリオデジャネイロのメインスタジアムであり、2014年ワールドカップおよび2016年リオデジャネイロオリンピックのメイン会場に予定されている。また、東のグアナバラ湾対岸のニテロイ市との間にリオ・ニテロイ大橋がかかっている。グアナバラ湾に浮かぶゴベルナドル島には、アントニオ・カルロス・ジョビン国際空港があり、国際線及び一部の国内線のターミナルとなっている。また、内陸の丘陵地帯には多くのファヴェーラがある。
- バラ・ダ・チジュカ地区
- 南地区西端のレブロン地区のさらに西に広がる地区であり、近年開発が進んでいるエリアである。計画的な開発が進められ、高層アパートが立ち並んでいる。2016年オリンピックにおいては、この地区に選手村や会場の多くが建設される予定である。
- ファヴェラ地区
- 地域の名前ではなく、不法に立てられた貧民街を「ファヴェーラ」と呼ぶ。映画『シティ・オブ・ゴッド』(2002年)の舞台となった。
経済
サンパウロについでブラジル第2の経済規模を持ち、ブラジルGDPの5.4%をリオ1市で生み出している。首都移転により行政機能は失われたが、ペトロブラス社などの公企業や半官半民の企業はブラジリアへは移転せず、リオに本社を置き続けた。工業面でもブラジル第2の都市であり、石油精製や造船、鉄鋼、冶金、石油化学、薬品、セメント、印刷、ゴム、食品などの産業が立地している。
リオデジャネイロ港は貨物取扱量でブラジルで3番目の港であり、埠頭の総延長は7kmに及ぶ。リオデジャネイロ州、ミナスジェライス州、エスピリトサント州、そしてサンパウロ州の貨物を主に取り扱っている。
交通
市内
リオ市内やその近郊にはバスと地下鉄2路線、そして1998年に運行を開始した郊外電車(SuperVia)8路線が張り巡らされており、また比較的安価な価格で利用できるタクシーもポピュラーな移動手段である。ちなみに地下鉄には女性専用車も設置されている。路面電車も一路線残っている。
市外
他の都市との移動は、高速道路を使った長距離バスや、市内に2つある空港(主に国内線向けのサントス・ドゥモン空港と、主に国際線向けのリオデジャネイロ国際空港(アントニオ・カルロス・ジョビン国際空港/ガレオン国際空港))からの旅客機での移動が主流である。
特に市内のサントス・ドゥモン空港とブラジル最大の都市であるサンパウロ市内のコンゴニャス国際空港との間には「ポンチ・アエレア」(空の架け橋)と呼ばれるシャトル便が就航しており、世界でも有数の搭乗者数を誇る路線となっている。所要時間はサンパウロまで車・バスで6時間、航空機で1時間弱かかる。
長距離バスの便数も多い。特にサンパウロ・チエテバスターミナルとの便はバス会社3社(Itapemirim, Cometa, Expresso Brasileiro)が同区間を別々に運行しており、日中は数十分に1本の頻度で運行されている。サンパウロだけでなく、ニテロイ接続のサンパウロ行きやベロオリゾンテ行きの便も多い。
またリオデジャネイロ港は世界3大美港の一つでもあり、ブラジルでも最大級の港湾設備を有している。そのため近隣の港湾都市、島嶼とのフェリーの運航も頻繁に行われている。
気候
- ケッペンの気候区分ではサバナ気候(Aw)に属する。12月から3月にかけては雨が多く、また気温も最も高くなる。一方7月と8月は冬であり、降水量が少なく気温もやや低くなるが、全般的にいえば年間通じて温暖な気候を保っているといえる。年間平均気温は23℃で、年間平均降水量は1175mmである。
文化
ブラジルの文化の中心地であり、流行の発信地でもある。「サンパウロ人は仕事で忙しく、リオ人は遊びで忙しい」[7]ともいわれる明るく享楽的な気質を持つ。
カーニバル
ポルトガル語でカルナヴァル(Carnaval)。カトリックの謝肉祭のことで、カーニバル自体は世界各国のカトリック文化圏で行われている他、ブラジル各地でも行われている。もともとはポルトガルの謝肉祭・エントルードがブラジルに渡ったものであるといわれる。リオのカーニバルは派手で規模が大きいので特に有名で、開催時期は世界各国からの観光客を集める。復活祭(イースター)を基準に太陰暦で日程を決めるため毎年開催日程は変動するが、だいたい2月の中旬から下旬になることが多い。
なおカーニバルといえば真っ先にサンバが連想されるが、サンバ以外にもマルシャ(ブラジル版マーチ)やポルカなどもある。サンバの場合、ファンタジアと呼ばれる華やかな衣装を身に着けサンバを踊り打楽器隊などによる演奏や歌で行進する。4日間行われ、開催中は世界各国から見物客が集まる。いわゆるリオのカーニバルとして知られているのは、マルケス・ヂ・サプカイ通りにあるサンボードロモ(サンバ会場)で行われるコンテスト形式のパレードである。ここで行進するサンバチームはエスコーラ・ヂ・サンバ(テンプレート:Lang-pt-short、直訳:サンバの学校)と呼ばれる。テンプレート:要出典範囲で実際はリクリエーション団体の傾向が強い。そのため多くの団体はグレーミオ・ヘクヘアーチヴォ・エスコーラ・ヂ・サンバ、略称:G.R.E.S.(~チーム名)と冠がつけられ一般的にはチーム名で呼ばれることが多い。なお日本ではこれらを総称してエスコーラと呼ばれる。これらはリオ市や隣接する他の市に点在する地域を代表するサンバのコミュニティーである。
パレードはコンテスト形式になっており審査が行われる。有名なサンバ団体を挙げるとベイジャ・フロール、ポルテーラ、マンゲイラ、インペリオ・セハーノ、サウゲイロ、ヴィラ・イザベウ、ウニードス・ダ・チジュッカ、ウニアォン・ダ・イーリャなどでどれも歴史的なサンバの名手(Sambista、サンビスタ)や曲を生んだエスコーラである。他にも沢山のエスコーラが存在し順位や優勝を競っている。今日、世界に誇るリオ各地域の市民による手作り文化の結晶として光り輝いている。
リオのカーニバルは1959年公開のブラジル・フランス合作映画『黒いオルフェ』の背景舞台にもなっており開催前の人々の準備ぶりや浮かれ具合、当時のカーニバルの様子などうかがい知ることができる。オルフェウ率いる架空のエスコーラもあれば本物のカルトーラ夫妻やポルテーラ、マンゲイラ、インペリオ・セハーノもチラリと登場する。1999年公開のブラジル映画『オルフェ』は現代のリオを窺い知ることが出来る作品。リオのカーニバルのトップリーグ、Grupo Especialに出場するエスコーラのパレードテーマ曲集は毎年日本の輸入盤扱いのある大型CDストアなどでも手に入れることが出来る。カーニバル後にはその年の模様を収めたビデオテープ(近年ではDVD)も発売されている。
なおリオのカーニバルが観光化・商業化が進むとそれに嫌気をさしたりエスコーラの内紛などによりカンディアやカルトーラ、メストリ・マルサルなどの著名サンビスタがエスコーラを去ったケースも多い。またいくつかのサンバコミュニティーがファベーラと呼ばれるスラム街に拠点があることなどから、賭博や麻薬取引との関係も指摘される。
またカーニバル期間中はリオ・ブランコ通りなどをはじめ、各所でエスコーラより小規模であるブロコやコルダゥンと呼ばれる各チームがパレードを行う光景も見られる。
2011年2月7日、リオデャネイロのカーニバル用の用具を制作する施設が集中する地区で大規模な火災が発生し、同年のカーニバルに使用予定の山車及び衣装多数が焼失するという事態が発生した[8]。
教育
リオデジャネイロ連邦大学やリオデジャネイロ州立大学など、99の高等教育機関がある。また、ラテンアメリカ最大、世界でも7番目の、900万点の蔵書数を誇るブラジル国立図書館もリオのセントロ地区に位置する。
世界遺産
テンプレート:Main コルコバードの丘やコパカバーナ海岸は、2012年に世界文化遺産に登録されている。
スポーツ
サッカー
リオのみならずブラジルを代表するクラブとして知られているCRフラメンゴをはじめとしてCRヴァスコ・ダ・ガマ、フルミネンセ、ボタフォゴなどのサッカークラブの本拠地として知られ、これらのクラブは多くの「クラッキ(名選手)」、「ジョガドール(サッカー選手)」を輩出してきた。2000年代ではロナウド、アドリアーノなどがリオ出身のクラッキとして知られる。
また、世界最大のサッカースタジアムで1950年の1950 FIFAワールドカップの主会場となったエスタジオ・ド・マラカナンがある。同スタジアムは2014年に行われた2014 FIFAワールドカップの主会場の一つとなった。
オリンピック
- 2016年夏季オリンピックの開催地に決定した。なおこれはブラジルのみならず、南アメリカ大陸で開催される初のオリンピックとなる。
その他
- 1989年までフォーミュラ1選手権が郊外のネルソン・ピケ・サーキットで行われていた他、各種マリンスポーツやハンググライダー、ビーチバレーなどが盛んに行われている。
- 2007年7月13〜29日にパンアメリカン競技大会が開催された。
観光
リオデジャネイロは年間282万人の観光客の訪れる、ブラジル有数の観光都市である。主な名所は以下の通り。 (括弧内はポルトガル語による表記。)
- コパカバーナ海岸 (Praia Copacabana)
- イパネマ海岸 (Praia Ipanema)
- コルコバードのキリスト像 (Cristo Redentor)
- ポン・ヂ・アスーカル (Pão de Açúcar)
- リオデジャネイロ旧大聖堂 (Igreja de Nossa Senhora do Monte do Carmo)
- リオデジャネイロ市立劇場 (Teatro Municipal do Rio de Janeiro)
- エスタジオ・ド・マラカナン (Estádio do Maracanã)
- キンタ・ダ・ボア・ヴィスタ (Quinta da Boa Vista)
治安
リオの犯罪率は高く、とくにファヴェーラなどで麻薬組織や麻薬販売人による犯罪や殺人が多い。2006年には2273人が殺され、10万人あたりの殺人率は37.7だった。2008年より、リオデジャネイロ州は治安回復計画(UPP)を実施し、悪化していた治安を向上させることに努め、2009年から2010年の殺人率は21%減少し、治安は改善傾向にある。しかしこれに反発した麻薬組織と警察の対立が激化している[9]。
リオデジャネイロ市出身の著名人
リオデジャネイロ出身の人を「カリオカ(テンプレート:Lang-pt-short)[10]」という。
- ジーコ(サッカー選手、元サッカー日本代表チーム監督)
- ラモス瑠偉(サッカー選手)
- ネルソン・ピケ(F1ドライバー)
- ピシンギーニャ(音楽家)
- エイトル・ヴィラ=ロボス(音楽家)
- カルトーラ(音楽家)
- アントニオ・カルロス・ジョビン(音楽家)
- ジョルジ・ベンジョール(音楽家)
- マルコス・スザーノ(音楽家)
- オスカー・ニーマイヤー(建築家)
- ジョアン・アヴェランジェ(元FIFA会長)
- ファビアナ・オリベイラ(女子バレーボールブラジル代表選手)
- カルロス・ヌズマン(リオデジャネイロオリンピック組織委員会会長)
姉妹都市
リオデジャネイロは以下の都市と姉妹都市となっている。[11][12][13][14][15][16][17][18][19][20][21][22][23][24][25] [26] [27][28][29]
脚注
関連項目
- ブラジルの都市の一覧
- 日本人学校
- IHI
- 交換船
- 日系ブラジル人
- 若大将シリーズ
- アルフレッド・アガッシュ
- ノバ・ボサ・ノバ(リオデジャネイロを舞台にした宝塚歌劇のショー作品)
外部リンク
- 公式
- 日本政府
- 観光
テンプレート:夏季オリンピック開催都市 テンプレート:夏季パラリンピック開催都市 テンプレート:Coord
- ↑ Demographia: World Urban Areas & Population Projections
- ↑ 2014 Global Cities Index and Emerging Cities Outlook (2014年4月公表)
- ↑ プライスウォーターハウスクーパースによる都市のGDP
- ↑ 「ラテンアメリカを知る事典」p454 平凡社 1999年12月10日新訂増補版第1刷
- ↑ 「概説ブラジル史」p221 山田睦男 有斐閣 昭和61年2月15日 初版第1刷
- ↑ パトリック・トール著、平山廉監修、南條郁子、藤丘樹実訳 『ダーウィン』 《「知の再発見」双書99》 創元社 2001年 36ページ
- ↑ 「ブラジルを知るための56章」p21 アンジェロ・イシ著 明石書店 2010年2月10日第2版第1刷
- ↑ 2011年2月8日の朝日新聞朝刊6面
- ↑ [1]
- ↑ カリオカ(Carioca)は、ポルトガル語の形容詞・名詞で「リオデジャネイロ市出身の」あるいは「リオデジャネイロ市出身の人」をさす言葉。この語はトゥピ・グアラニー族)の方言で、「白人の家」(家 oca、白人 cari)に由来する。
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ Sister cities
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ http://spl.camara.rj.gov.br/spldocs/pl/0099/pl1593_0099_001493.pdf
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ http://spl.camara.rj.gov.br/spldocs/pl/2001/pl0444_2001_000513.pdf
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- ↑ Sister citiesテンプレート:リンク切れ
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 26.0 26.1 テンプレート:Cite web
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- ↑ テンプレート:Cite web
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- ↑ テンプレート:Cite web テンプレート:リンク切れ
- ↑ Lei nº 2.643/1998. Câmara Municipal do Rio de Janeiro. Página visitada em 26 de dezembro de 2008.
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- ↑ http://spl.camara.rj.gov.br/spldocs/pl/2006/pl0980_2006_008195.pdf
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ Leis sancionadas e vetos (21 de janeiro de 2008). Lei n.º 4.752/2008. Câmara Municipal do Rio de Janeiro. Página visitada em 26 de outubro de 2008.
- ↑ テンプレート:Cite web