イスタンブル

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イスタンブルテンプレート:Lang-tr [isˈtanbul]、テンプレート:Lang-laコンスタンティーノポリス、テンプレート:Lang-enテンプレート:Lang-elコンスタンディヌーポリ)はトルコ最大の都市で、トルコの経済、文化、歴史の中心地である。日本では一般に「イスタンブール」と呼ばれることが多い。人口は1,410万人を擁しバルカン半島では最大、ヨーロッパでは最大規模の都市圏テンプレート:Enlinkの一つで、イスタンブル市域の人口は世界の大都市の市域人口の上位に含まれている[1][2][3]。 イスタンブルはトルコに16あるテンプレート:仮リンク[4]テンプレート:Lang-tr)の1つで テンプレート:Convert の広大なエリアはイスタンブル県と同一の広がりを持ち、イスタンブルは同県の県都であるテンプレート:Efn。同都市はトルコ北西部に位置し、マルマラ海黒海を結ぶ世界でも最も混雑する航路の一つであるボスポラス海峡を挟んで大陸間に股がった都市である。市域はボスポラス海峡を挟んでアジアアナトリア半島)側と西ヨーロッパトラキア地方)側両方に拡がり、西側の市域は金角湾で南北に分かれる[5]。2大陸にまたがる大都市であり、アジアの最も西にある都市でもある[6]。商業や歴史の中心はヨーロッパ側に広がり、住民の3分の1はアジア側に居住している[7]

テンプレート:仮リンクの岬に紀元前660年にビュザンティオンとして創建され、現在では歴史上最も重要な都市の一つとしてイスタンブルは知られている。330年コンスタンティノープルとして再建されて以降およそ16世紀の間、ローマ帝国 (330-395)、ビザンティン (395-1204, 1261-1453)、ラテン帝国 (1204-1261)、オスマン帝国 (1453-1922) と4つの帝国の首都であった[8][9]。1453年にオスマン帝国により都市が征服されコンスタンティノープルの陥落が起こる以前のローマやビザンティンの時代はキリスト教発展の要であったが、征服後はイスラームの中心やオスマンのカリフの中心に変わった[10]。トルコ共和国がアンカラを新しい首都に制定したが、宮殿や帝国のモスクは今でもイスタンブルの丘に見ることが出来、イスタンブルの以前の中心的な役割を想起させる遺産となっている。イスタンブルは歴史上重要なシルクロードに沿った戦略的な場所に位置し[11]、ヨーロッパと中東への鉄道網と黒海と地中海を結ぶ唯一の航路は1923年のトルコ共和国の設立を差し引いても、幅広い人々を育むのに役立っている。戦間期には新しい首都のために見落とされたが、その後直ぐにイスタンブルはその傑出した部分の多くを取り戻している。アナトリア中から移住者がイスタンブルやその周辺に集まり居住地が広まり、1950年代以来人口は10倍に増加している[12][13]。20世紀後半には芸術祭が確立し、その間にインフラが改善され複合的な交通網が整備されて行った。

欧州文化首都であった2010年にはイスタンブルに約700万人の海外からの観光客が訪れ、世界で10番目に最もポピュラーな観光地であった[14]。イスタンブルの最大の呼び物は今でも残されている歴史の中心で、部分的にユネスコ世界遺産に登録されているが、文化やエンタテインメントの中心は市内の天然の良港であるテンプレート:仮リンク地区の金角湾周辺に見られる。イスタンブルは世界都市と見なされ[15]、多くのトルコの企業やメディアの拠点があり、トルコの国内総生産の4分の1以上を占めている[16]。 2014年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス人材文化政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第28位の都市と評価された[17]。 新しい活力と急速な経済成長にオリンピックを利用することを希望しイスタンブルは2020年夏季オリンピックの招致活動テンプレート:Enlinkを行っていた[18]

呼称

古代のビュザンティオン(ビザンティオン)、コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)と同じ街である[19]。最初に知られている都市の名称はビザンティオン(ギリシア語Byzántion)またはビザンティウム(ラテン語Byzantium)でこの名称は紀元前660年頃に植民都市を創建したテンプレート:仮リンクの名が元になっているテンプレート:Efn[20]コンスタンティヌス1世の後、新しいローマ帝国の東の首都を330年に創建し都市は「コンスタンティヌスの都市」を意味するコンスタンティノポリス Constantinopolis(コンスタンティノープル Constantinople)と名付けられ、広く知られる名称となった。ギリシア語では現在、Κωνσταντινούπολη 「コンスタンディヌーポリ」と呼ばれている。ラテン語由来の名であるコンスタンティノポリスに基くが、綴りに若干の変化があり、読みも現代ギリシャ語のものとなっている。コンスタンティヌスは新ローマを意味する Nea Roma の名称を広めようとしたが、これは広く使われることはなかった[21]

コンスタンティノープルの名称は西洋ではトルコ共和国が建国されるまで最も広く使われた名称で、オスマン語ではコンスタンティニイェ Kostantiniyye (قسطنطينيه) はオスマン支配期に主に使われた名称である。それにも関わらずオスマン時代の都市を言い表す時、コンスタンティノープル Constantinople を使うことは今では歴史的には間違っていなくても政治的には正しくないとトルコ人により見なされている[22]。19世紀には都市の名称は外国人やトルコ人のいずれかによりいくつかのものが使われていた。ヨーロッパ人はコンスタンティノープルを市内全てを言い表すのに使っていたが、スタンブール Stamboul の名はトルコ人により使われており、金角湾とマルマラ海の間の城壁で囲まれた半島を言い表していた[22]。ペラ Pera(ギリシャ語では横切ってなどの意味)は金角湾とボスポラス海峡の間を言い表すのに使われていたがトルコ人はテンプレート:仮リンクを使っており今日でも使われている[23]。 イスラムの街やイスラムで満たされたを意味するイスラムボル Islambol は時折、イスタンブルを表す口語として使われオスマンが硬貨の一部にも刻印されているが[24]、これが現代の名称であるイスタンブルの前の名称であると信じることは誤りでイスラムボルの以前から存在しオスマンやムスリムにより都市が攻略される以前から存在していた[20]。 イスタンブル İstanbulテンプレート:IPA-tr 口語では テンプレート:IPA-tr)の語源は一説にテンプレート:仮リンクの表現である "εἰς τὴν Πόλιν"(発音 テンプレート:IPA-el)からで「都市で」や「都市に」を意味する[8]。これは当時、イスタンブル周辺部では唯一の大都市の地位を反映し、現代の人々が近くの都市の中心を「都心」"the City"と称するのと同じである。他のものではコンスタンティノープル Constantinople から進化し第一音節と第三音節が省略されたと言う見方もある[20]

現代のトルコ語ではイスタンブルの表記は İstanbul でドットが付いたİが使われ、テンプレート:仮リンクではドットの有無が区別される。また英語では第一音節の (Is) に強勢が置かれるが、トルコ語では第二音節の (tan) に置かれる[25]。 イスタンブル İstanbul は単独の都市の名称として1930年に公式に採用された[26][27]。イスタンブル出身者は İstanbullu(複数では İstanbullular)だが英語ではイスタンブライト Istanbulite が使われている[28]

リゴス

ガイウス・プリニウス・セクンドゥスによれば、ビザンティオンの最初の名称はリゴス Lygos であったとされる[29]。これはおそらく、半島近くの後に都市となる場所に位置したトラキア人の集落の名称かもしれない。(テンプレート:仮リンク[30]

ビザンティオン

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ビザンティオンByzantion (Βυζάντιον)、ラテン語化された名称ではビザンティウムByzantiumは紀元前667年にメガラからの入植者により創建された。名称自体はトラキア人かイリュリア人に由来すると考えられ、ギリシャ人の入植よりも前に遡る[30]。おそらく、トラキア人かイリュリア人の個人名であったテンプレート:仮リンクByzasから来ており[31]テンプレート:Rp、古代ギリシャの伝説ではメガラの入植者のリーダーで都市の名称の由来で創建者である伝説上の王を示している。ずっと後にはビザンティオン Byzantium の名称は、西洋ではその首都であった東ローマ帝国を言い表す名称として一般化した。この使い方を取り入れたのはドイツ人の歴史家テンプレート:仮リンクで帝国が消滅した1世紀後のことである。帝国が存在した期間、ビザンティオンの使われ方は帝国そのものよりも街自体に限られていた。

アウグスタ・アントニーナ

アウグスタ・アントニーナAugusta Antoninaの名称は3世紀の短期間、街の名称として使われていた。この名称はローマ皇帝セプティミウス・セウェルス (193-211) により、息子(次代皇帝)のマルクス・アウレリウス・アントニヌス・カエサル(通称カラカラ)に因んで命名されている[32]

新ローマ

コンスタンティヌス1世は330年5月11日に新しいローマ帝国の東の首都を創建する前に、ローマを部分的に手本とし街を根本的に建て直すとてつもないスケールの大きな建設計画を着手した。この期間の名称には新や第二のローマを意味する ἡ Νέα, δευτέρα Ῥώμη[33]やローマを愛するAlma Roma  Ἄλμα Ῥώμα, Βυζαντιάς Ῥώμη, ἑῴα Ῥώμη、東のローマ、ローマ・コンスタンティノポリターナなどがあった[31]テンプレート:Rp

新ローマの用法はギリシャ人の作家により使われた時には元のローマとのライバル関係を強調する特に東西教会の分裂の文脈に向いて行った。新ローマは今でも公式にコンスタンディヌーポリ総主教庁の肩書きの一部である[34]

コンスタンティノープル

テンプレート:Further2 コンスタンティノープルConstantinople(コンスタンティヌスの都市)の名称はコンスタンティヌス1世の名誉からすぐにより広く知られるようになった。ギリシャ語の語形ではΚωνσταντινούπολις、ラテン語の語形ではConstantinopolisであった。最初に公式に使われたのはテオドシウス2世 (408-450) 統治下であったことが実証されている[32]。主要な公式名称としてビザンティン時代を通して残り、20世紀初期まで西洋では一般的な名称として使われていた。コスタンティニエKostantiniyyeの異なった形も含めオスマン帝国でもトルコ共和国の出現まで使われていた[35]

他のビザンティンの名称

コンスタンティノープルConstantinopleの他にもビザンティンは幅広い名誉ある名称で呼ばれ、「都市の女王」(Βασιλὶς τῶν πόλεων) と呼ばれることもあった。しかし、一般的な話し言葉では最も広く使われる言い方は単に都市や都会を意味するポリスἡ Πόλις(現代のギリシャ語ではη Πόλη)である。この使われ方は今日でも口語のギリシャ語やアルメニア語(Պոլիս、テンプレート:仮リンクでボリス)の語法で後のトルコ名であるイスタンブルの元の一つでもある。

イスタンブル・コスタンティニエ

現代のトルコ語の名称はイスタンブルİstanbulテンプレート:IPA-tr)であるが、これは10世紀以来のものでトルコの典拠によれば表現の幅があるが最初にアルメニア語アラビア語で実証されている。これはギリシャ語の語形 "εις την Πόλιν" または "στην Πόλη" テンプレート:IPA-el「街へ」、「街で」[36]、"εἰς τὴν Πόλιν", "(eis) stin poli"(エス・テン・ポリン「都市に、町へ」)から取られ[8]、それ故これを基本にギリシャ語の用法では単に「都市」や「街」と呼んでいる。冠詞の一部分や他の接辞のギリシャ語の地名への結合はオスマン期以前では一般的なもので、ナヴァリノの代わりにアヴァリノ[37]、サティネスの代わりアティネスなどがある[38]。 似たような例には現代のトルコの地名でギリシャ語由来のものにはイズミットなどがあり、初期にはイズニクミット İznikmitニコメディアから、イズニクはギリシャのニカエアNicaeaサムスン (s'Amison = "se + Amisos")、İstanköyはギリシャの島コス島などがある。語頭のiの起こりはこれらの名称の古いギリシャ語の語形の一部を is- と一緒に反映しているか、部分的に第二の音挿入により、トルコ語音素配列構造を成している。İstanbulは1453年の征服前でさえ普通の話し言葉では一般的な名称であったが、オスマンの当局はコスタンティニエKostantiniyyeなど他の名称の公式の使用を特定の状況で好んでいた。故にKostantiniyyeは硬貨の鋳造に17世紀後半使われ、19世紀に再び使われている。

コンスタンティニエKostantiniyyeテンプレート:Lang-ar al-Qusṭanṭiniyah クスタンティニーヤ、オスマン語: قسطنطينيه Kostantiniyye コンスタンティニエ)の名称はイスラム世界で知られるようになった名称である。トルコ人に先立ってコンスタンティノポリスに接触したイスラム教徒たちの書いた史料では、9世紀にはこの街の名称であった。これは、アラビア語のコンスタンティノープル Constantinople の語形の翻訳借用でギリシャ語要素の-polisの代わりにアラビア語で「-の場所」を意味する語を最後に当てている。オスマンにより攻略された1453年以降、オスマントルコでは一番使われた公式名称で[39]、帝国が崩壊する1923年までのほとんどの期間使われていた。しかしながら、いくつかの時期にオスマンの権力者は他の名称を好んだ。オスマンの役所や裁判所ではKostantiniyyebe-Makam-ı Darü's-Saltanat-ı Kostantiniyyetü'l-Mahrusâtü'l-Mahmiyyeのような正式な文書で元の場所を表現する複雑なやり方の一部として使っていた[40]。19世紀、トルコの本の印刷では外国でコンスタンティノープルを使うのとは対照的に使われていたが、同時期にイスタンブルは公用語の一部としてオスマンの軍隊の高官 (İstanbul ağası) や都市の身分の高い行政官 (İstanbul efendisi) の肩書きの一部に使われていた[41]。 イスタンブルİstanbulや同じ名称の他のいくつかの異なった表現の名称も幅広くオスマンの文学や詩で使われた[32]

1923年のトルコ共和国の建国後はイスタンブル以外の別の名称はトルコ語では使われなくなり、1930年3月28日のトルコの郵便法ではトルコ当局は外国人に公式にこれまでの伝統的なトルコ語以外での名称(コンスタンティノープルやツァーリグラードなど)で街を言い表すの止める他、自分たちの言語でもイスタンブルを唯一の都市の名称として取り入れるよう求めた[42]。手紙や小包をイスタンブル"Istanbul"ではなくコンスタンティノープル"Constantinople" で送るとトルコの郵便当局により配達されることはなく、このことは世界的に新しい名称の施策が広まることに貢献した。

スタンボウル

スタンボウルStamboulやスタンブルStambulはイスタンブルİstanbulの語形の変わった種類で、イスタンブルのようにそれ自体の語形の頭に i- は無く、中世初期には最初に10世紀のアラビア語の典拠に実証され[43]、アルメニア語では12世紀にはそうであった。いくつかの初期の典拠にはギリシャ語のPoli(n)を元に同様なBulinの短い表現も単独で前述の文が無く実証されている[44]。この表現は現代のアルメニア語でも生きている。

スタンボウルStamboulは西洋の言葉でイスタンブルと同様に1930年代の新しいトルコの語形に置き換わるまで使われていた。19世紀から20世紀初期、西ヨーロッパやアメリカの典拠では良くコンスタンティノープルConstantinopleは大都市全体を言い表すのに使われていたが、スタンボウル Stamboul は中心部の歴史的な半島部分を言い表すのに用いられ、ビザンティン時代の城壁の内側 (Theodosian) を指していた[45][46]

イスラームボル

イスラームボルIslambol(多くのイスラム)やイスラムブルIslambul(イスラムの発見)はイスタンブルIstanbulへオスマンが1453年に攻略し新しいイスラムのオスマン帝国の首都しての役割を表現するため作られた民間語源の適応であった。イスラーム・ブール(「イスラムの地」という意味)を語源に想定する説もある[47]。最初に実証されたのは攻略直後で、現代の一部の作家たちはメフメト2世自身が付けたものとしている[32]。いくつかの17世紀のオスマンの典拠では、最も目立つものでエヴリヤ・チェレビが、当時の一般的なトルコでの名称として表現している。17世紀から18世紀、これは公式に使われていた。最初に使われた語は "Islambol" でアフメト3世の時代の1703年、貨幣の鋳造に使われた。

他のオスマンでの名称

オスマンと同時代の外国の人々は特に外交書簡でオスマン帝国の政府を特定の敬語で表現し、以下のようなものが含まれていた。

  • Dersaadetدر سعادت『歓喜の門』)
  • Derâliyeدر عاليه『崇高な戸』)Derはペルシャ語で戸に当たる語。
  • Bâb-ı Âlîباب العالی『荘厳な朝廷』)Babはアラビア語で戸に当たる語。
  • Pâyitahtپایتخت『王座の中心』)ペルシャ語で首都。
  • Asitaneآستانه)ペルシャ語からでスルタンの宮居又はオスマン帝国の中心の意味。(アラビア語: الأستانة)Āstāne-ye Sa‘ādat/Asitane-i Saadet(「幸福の宮居」)

歓喜の門、崇高な戸、荘厳な朝廷は文字通りオスマンのスルタン宮殿であったトプカプ宮殿でそこに位置した朝廷、それ故イギリスのホワイトホールや日本の霞ヶ関のようなオスマン帝国中枢を表す換喩であった。 ビザンティン帝国近隣の多くの人々は「大都市」や「皇帝の都市」、「ローマの首都」と言った概念の表現を使っていた。10世紀から12世紀の間、コンスタンティノープルは世界ではバグダードと並ぶ2つの大都市のうちの1つであった。

古ノルド語

中世のヴァイキングは東ヨーロッパでの拡大を通してヴァリャーグなどでビザンティン帝国との接点があり、古ノルド語ではミクラガルズMiklagarðrmikillは大きなや偉大な、garðrは街)後の ミクラガードMiklagardを使っていた。今日でもこの語はアイスランド語のミクリガルドゥールMikligarðurフェロー語のミクラガルドゥールMiklagarðurの語に残っている。

スラヴ諸語

スラヴ語派 では皇帝の都を意味するツァリグラドTsarigradCarigradの名称で呼ばれ、スラヴ語派の単語tsarカエサル君主(王)とgrad(都市)から来ている。キリル文字ではЦарьградで、これはおそらくギリシャ語の皇帝の街を意味するΒασιλέως Πόλις (Vasileos Polis) などからの翻訳借用である。この言い方は今でも時折、ブルガリア語で使われ一方でセルビア・クロアチア語ロシア語マケドニア語では懐古的である。セルビア・クロアチア語ではビザンティンやオスマン帝国の歴史的な首都を言う場合は今でも使われている。スロベニア語ではCarigradが現代の都市の別の名称で使われている。チェコ語など西スラヴ語群ではツァーリフラッドCařihradが19世紀まで使われていたが今では稀である。また、スラヴ語派からルーマニア語にツァリグラードŢarigradで借用されたが、コンスタンティノープルの方がはるかに広く使われた。

ペルシャ語・ウルドゥー語・アラビア語

クスタンティニーヤKustantiniyyahに並んで、ペルシャ語ウルドゥー語アラビア語など以外にも他のイスラム世界の言語での呼称はCesar(皇帝)を元にしたものが使われ、ペルシャ語やウルドゥー語ではKayser-i Zeminやアラビア語では民族名のRum(ローマ人)が、「ローマ人の大きな都市」Rūmiyyat al-kubra、「ローマ人の王座」Takht-e Rumがペルシャ語やウルドゥー語では使われたりする[44]

ヘブライ語

ヘブライ語では時折、クシュタンディナ (קושטנדינה) やクシュタンディナ・ラバティ (קושטנדינה רבתי) と呼ばれ、文字通り大きなクシュタンディナでまたは略してクシュタקושטאとも呼ばれ、コンスタンティニエが変化したものである。この使われ方は20世紀初期までユダヤ人の間で一般的であったが現代のイスラエルではこの使われ方はほとんど見られず、ヘブライ語でもトルコ語のイスタンブル (איסטנבול) が転写されている。

歴史

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ファイル:Second Court Topkapi 2007 80.JPG
ビザンティオンアクロポリスで発見された今でも残っているビザンティオンの円柱。現在はトプカプ宮殿の敷地にある。

21世紀初めに考古学者により発見された紀元前7,000年に遡る新石器時代の遺物は、イスタンブルの歴史的な半島には以前考えられていたよりも前のボスポラス海峡が形成される以前から人が住んでいたことを示している[48]。 遺物の発見以前はフリギア人を含めトラキア人の部族がサイライブルヌに紀元前6,000年後半から住み始めたと言うのが従来の考えである[49]。アジア側の遺物は紀元前4,000年に遡る物とされ、テンプレート:仮リンク地区のフィキルテペFikirtepeで発見されている[50]。同じ場所は紀元前1,000年初めにはフェニキアの交易地点で、同様に紀元前660年頃に設立されたカルケドンの町があったテンプレート:Efn

しかしながら、イスタンブルの歴史は一般的に紀元前660年頃テンプレート:Efnテンプレート:仮リンク王の下メガラからの入植者が、ボスポラス海峡のヨーロッパ側に植民都市ビザンティオンを創建した時代に遡る。入植者は金角湾に隣接した初期のトラキア人の居住地であった場所にアクロポリスの建設を進め、生まれたばかりの都市の経済に勢いを与えた[51]。ビザンティオンは紀元前5世紀の変わり目に短期間アケメネス朝の支配を経験するが、ギリシャ人はペルシア戦争で取り戻している[52]。都市の開祖はギリシア神話海神ポセイドンとケロエッサの間に生まれた子テンプレート:仮リンクであり、彼は太陽神アポロンの協力を得て彼の名を冠した「ビュザンティオン」を建設したとされ、トラキア人の王による侵略から町を守り、妻ペイダレイアもスキタイの侵攻を防いだとも言われる[5]。ビザンティオンは デロス同盟とその後のテンプレート:仮リンクの一部であったが、紀元前355年についには独立を得ている[53]。長いローマとの同盟関係の後、ビザンティオンは73年に公式にローマ帝国の一部となった[54]。ビザンティオンのローマ皇帝セプティミウス・セウェルスに対抗する敵対者テンプレート:Enlinkペスケンニウス・ニゲルの支持は大きな代償となり、2年にわたる包囲は都市を荒廃させた。195年に降伏している[55]

それにも関わらず、セウェルスは5年後にビザンティオンの再建を始め都市は回復し多くの取引はそれ以前の繁栄を上回った[56]

コンスタンティノープルの興亡

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コンスタンティヌス1世は324年9月に実質的なローマ帝国全体の皇帝になった[57]。コンスタンティヌスは2ヶ月後に新しいキリスト教の都市にビザンティオンを置き換えるための都市計画を打ち出した。帝国の東の首都として都市は新ローマを意味するテンプレート:仮リンクNea Romaと名付けられたが、一番単純なコンスタンティノープルの名称が20世紀まで続いた[58]。6年後の330年5月11日にコンスタンティノープルはついにビザンティン帝国や東ローマ帝国の名称で知られる帝国の首都として宣言された[59]

この遷都にはいくつかの伝説があり、当初コンスタンティヌス1世はトロイに遷都しようと考えていたが夢での啓示を受けて変更した、カルケドンを予定し建設工事に取り掛かったがが道具を咥えてビュザンティオンに飛び去った、また夢に現れた老婆が美しい女性に変貌し、このように古い町ビュザンティオンを新生するよう求められたという[60]。また新都の城壁建設にも伝説があり、コンスタンティヌスが自ら槍を手に地面に線を引いて城壁の位置を指示したが、余りにも長く続くので従者が聞くと、コンスタンティヌスは「私の前を歩く御方がお止まりになるまでだ」と答えたという[60]

ファイル:Map of Constantinople (1422) by Florentine cartographer Cristoforo Buondelmonte.jpg
1422年にテンプレート:仮リンクにより作られた最古の現存するコンスタンティノープルの地図

コンスタンティノープルの創建はコンスタンティヌスの最も永続的な成果として、ローマの力の東進や街をギリシャ文化やキリスト教の中心にしたことにある[59][61]。多くの教会が街中に建てられ、その中にはアヤソフィアも含まれ、1,000年の間世界最大の大聖堂であり続けた[62]。 コンスタンティヌスにより着手された他の街の改良にはコンスタンティノープル競馬場の大改修や拡張が含まれ、何万もの観衆を収容し競馬場は市民生活の中心となり、5世紀や6世紀にはニカの乱を含め社会不安の出来事の中心であった[63][64]

コンスタンティノープルの位置はまたその存在が時の試練に耐えることを確実とした。多くの世紀、城壁や海岸により東やイスラムの進軍する侵略者からヨーロッパを守っていた[61]中世の大部分の間とビザンティン時代の後半、コンスタンティノープルはヨーロッパ大陸最大で最も裕福な都市で、当時の世界最大の都市であった[65][66]第4回十字軍の後、コンスタンティノープルの衰退が始まり第4回十字軍の間に略奪や占領があった[67]。コンスタンティノープルは後に正教会のビザンティン帝国を置き換えるために、カトリックの十字軍によって作られたラテン帝国の中心となった[68]。しかしながら、ラテン帝国は短命でビザンティン帝国は弱体化しながらも1261年に復活した[69]。コンスタンティノープルの教会や防衛力、基本的な公益事業は荒廃しており[70]、人口は8世紀の50万人から10万人へ減少していたテンプレート:Efn

アンドロニコス2世によって始められた様々な経済や軍事力の削減などの軍事の政策は、帝国を弱体化させ攻撃に対してより脆弱なままにした[71]

14世紀半ばオスマン朝テンプレート:Enlinkは小さな町や都市を攻略し、コンスタンティノープルへの供給路を断ちゆっくりと締め付ける戦略を始めた[72]。1453年5月29日に8週間にわたる包囲の後、ついにスルターンメフメト2世コンスタンティノープルの陥落[73]の勝者になりオスマン帝国の新しい首都として宣言された。この間、ビザンティン帝国最後の皇帝であったコンスタンティノス11世は殺されている。その後、スルターンはアヤソフィアへ赴きイマームシャハーダを命じ、壮大な大聖堂は帝国のモスクへと変わった[74]。(トルコやイスラム世界では「イスタンブルの開拓」または「イスタンブルの征服」(İstanbul'un Fethi) と呼ばれている。)預言者ムハンマドのハディース(言葉)で「コンスタンティンの町」を征服する司令官やその兵士たちが褒められているという伝説があり、歴代のイスラム教司令官がイスタンブルの征服を試みた。674年から678年に、ウマイヤ朝初代のカリフ、ムアーウィヤ時代から[75]1453年にオスマン帝国のメフメト2世までの間、イスラム教司令官により計15回の包囲が行われた。1453年にこの町を征服したオスマン帝国のメフメト2世はただちにエディルネから遷都し、イスタンブルは引き続き東地中海を支配する帝国の首都となった。

オスマン朝の時代

ファイル:Dolmabahce.jpg
ドルマバフチェ宮殿
ファイル:Süleymaniye Mosque, Istanbul.jpg
スレイマニエ・モスクミマール・スィナンが携わったイスタンブルのモスクのうちの一つ。

コンスタンティノープルの陥落後、メフメト2世は直ちに街を復興するために試みた。モスクと病院、学校などを組み合わせた複合施設群を設立し、ローマ帝国の引いた水道(ローマ水道)を補修し、後のグランドバザールの前身となる屋根付きバザールを始めとする商業施設を建設して都市インフラを再興した。また、王宮としてトプカプ宮殿の建造を開始している[76]。この宮殿はその後も歴代スルタンによって増築が進められ、19世紀半ばまで王宮として帝国政治の中心となっていた。包囲の間都市から逃れていた人々の帰還を促し、ユダヤ教徒や被征服者のキリスト教徒ズィンミー(公認された異教徒)として一定程度の人権を保障して新都にそのまま住まわせる一方、アナトリア半島の諸都市からムスリム(イスラム教徒)の富裕者を強制的に移住させる政策をとったため、15世紀後半の50年間にイスタンブルは東ローマ帝国の末期には激減していた人口を大きく上回る大都市となった。また、スルターンはヨーロッパ中から首都に人々を招き入れ、オスマン期に持続した国際的な社会を築いている[77]

オスマン朝は急速に街をキリスト教の牙城からイスラーム文化の象徴に変化させた。ワクフは壮大な帝国のモスク、また度々隣接した学校や病院、ハンマムなどの公衆浴場の建設などに資金を供給するため設立された[76]。各街区には君主や大臣などの有力者が設立したモスクが造られ、イスラム都市の伝統に則ったモスクと公共施設が整備された。また、イスラーム教徒による差別と抑圧はあったものの東方正教アルメニア使徒教会教会ユダヤ教シナゴーグも数多く維持され、ムスリムのトルコ人のみならず、ギリシャ人アルメニア人ユダヤ人、そして西ヨーロッパ諸国からやってきた商人・使節など、様々な人々が住む多文化都市、東西交易の中心都市でもあった。1517年にオスマン家イスラム帝国の地位を宣言し、イスタンブルは4世紀にわたりテンプレート:仮リンクの首都として続いた[10]。 1520-1566年のスレイマン1世の治世の時代、特に偉大な芸術と建築的偉業の時代であった。主要な建築家であったミマール・スィナンは市内のいくつかの象徴的な建築物に携わり、この間オスマンの芸術や陶器、イスラームの書法テンプレート:仮リンクが栄えた[78]。イスタンブルの全人口は18世紀までに57万人に達した[79]。19世紀初めの反乱の時代は進歩的な皇帝であったマフムト2世の高まりに導かれ、政治改革が生じ新しい技術の街への導入が認められ[80] この時代に金角湾に橋が架けられた[81]。1880年代にイスタンブルはヨーロッパの鉄道網と結ばれ[82]、1883年に運行を開始したオリエント急行は、1888年にイスタンブルへの直接乗り入れを開始している。これにより、西ヨーロッパとイスタンブルは直接結ばれることとなった[83]。安定的な水道や電気、電話、路面電車など近代的な施設が他のヨーロッパの都市に比べ後であるが、イスタンブルに後の数十年間にわたり徐々に導入されていった[84]。それでも、近代化への取り組みはテンプレート:仮リンクを阻止するのには十分ではなかった。

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20世紀以降から現代

20世紀初め、青年トルコ人革命により廃位されたアブデュルハミト2世や一連の戦争は病んでいる帝国の首都を悩ませた[85]。これらの第一次世界大戦の終わりはイギリスやフランス、イタリアによるテンプレート:仮リンクの結果となった。遂にはオスマン帝国最後の皇帝であったメフメト6世が1922年11月に亡命し、翌年ローザンヌ条約によりコンスタンティノープルの占領は終わり、アンカラのトルコ大国民議会でムスタファ・ケマル・アタテュルクはトルコ共和国の建国を宣言し[86]共和国が認められた[87]。共和国の初期の頃、オスマンの歴史から新しい世俗的な国を遠ざけるためイスタンブルはトルコの首都の選択から外されアンカラが支持された[88]。しかしながら、1940年代後半から1950年代初めにイスタンブルは大きな構造変化を経験し、新しい公共広場や大通り、道路が市内中で建設され、時には歴史的な建築物が犠牲となった[89]。アナトリアの人々が膨張するイスタンブルの郊外に建設された新しい工場の雇用を見付けるため市内に移住したため、1970年代に急増が始まった。都市のこの突然の人口の増大は大規模な住宅開発の需要の要因となり、以前の中心部から離れた村や森はイスタンブルの大都市圏に飲み込まれた[90]

地理

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イスタンブル市街の衛星写真。左がヨーロッパ、右がアジアで、両者の間を隔てるのがボスポラス海峡。海峡の南がマルマラ海で、北が黒海。マルマラ海の北岸、ヨーロッパ側に見える三角形の半島がイスタンブル旧市街で、海峡から旧市街に切れ込んだ海が金角湾。この写真から、旧市街から城壁や海を越えて市街地が拡大していることがよく分かる。

イスタンブルはトルコ北西部マルマラ地方に位置し、テンプレート:Convert の範囲を占めているテンプレート:Efn。ボスポラス海峡はマルマラ海黒海を結び市街を歴史や経済の中心であるヨーロッパのトラキア側とアジアのアナトリア側に分けている。さらに市街は金角湾により分けられ、以前のビザンティンやコンスタンティノープルが創建された半島は天然の港に囲まれている。マルマラ海やボスポラス海峡、金角湾の交わる辺りが今日のイスタンブルの中心で数千年の間攻撃から街を守って来ており、まだ街の景観の特徴として良く残されている[61]

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トルコ西部の断層は丁度、イスタンブルの南西に集中しマルマラ海とエーゲ海の下を通っている。

イスタンブルの市章のモデルにもなっているローマの七丘をモデルとしたテンプレート:仮リンクは歴史的な半島を特徴付け、それぞれの頂上には帝国のモスクがある。これらの丘の最も東のものはサライブルヌの上のトプカプ宮殿の場所である[91]。金角湾の反対側から上がると、別の円錐の丘で近代的なベイオール地区が位置している。地形のためにベイオールの建物はかつて斜面を保った擁壁の助けを借りて建てられ、道は階段の形で配置された[92]。アジア側に位置するユスキュダルでは地形が徐々にボスポラス海峡沿岸の下方に延びるとともに、同じような丘陵地の特性を示すが、シェムシパシャŞemsipaşaやアヤズマAyazmaでは景色がより急峻な岬に似ている。イスタンブルで一番海抜が高いのはテンプレート:仮リンクBüyük Çamlıca Tepesiテンプレート:Convert である[92]

イスタンブルは北アナトリア断層の近くに位置し、アフリカプレートユーラシアプレートの境界に近い。この断層地帯は北アナトリアからマルマラ海にかけて走り、これは都市の歴史を通していくつかの甚大な震災と関連している。甚大な震災の中にはテンプレート:仮リンクが含まれこの地震による津波は城壁を超え市街を破壊し、10,000人が犠牲になった。より最近ではイズミット近くを震源とする1999年のイズミット地震で18,000人が犠牲となり、イスタンブル郊外の1,000人も含まれている。イスタンブルの人々はイスタンブルの急速な人口増加に対応するために最近建設された数千の住宅が正しく建設されていない可能性があり、さらに壊滅的な震災が都市で発生することを危惧している[93]。地震学者は2030年までにマグニチュード(モーメントマグニチュード)7.6かより大きな地震がイスタンブルで起こる可能性が60%以上であると言っている[94][95]

気候

イスタンブルの気候は改訂されたケッペンの気候区分によれば地中海性気候 (Csa) と温暖湿潤気候 (Cfa) の境界にあたり、夏の2ヶ月間だけ40mm以下の降水量のため亜熱帯か地中海性の気候か単独で分類されるのが妨げられている[96][97]。しかしながら、広大な市域や多様な地形、海辺の場所などイスタンブルではテンプレート:仮リンクが見られる。市街の北部は海洋性気候で表されるが (Cfb)、これは黒海からの湿気や比較的高い植生の密度による。市街南部の人口密集地の気候は暖かく、湿度の影響を受けにくい[98]

実際、イスタンブルの気候の顕著な特徴の一つに持続的な高湿度があり、湿度は80%に達しほとんどは朝である[99]。これらの気象条件により霧はごくありふれたもので、市の北側や中心部から離れた場所ではより多い[98]。特に深い霧はボスポラス海峡を含め地域の交通を混乱させ、秋や冬の月に継続的に起こり湿度が高いまま午後まで残る[100][101][102]。高湿度の条件と霧は夏の月の間は昼までに解消されるが、長引いた湿度は夏の高い気温に不快な悪影響を与える[99][103]。夏の数ヶ月間の最高気温の平均は29℃程度で、降雨は珍しく6月から8月にかけて測定可能な降水量は15日程度だけである[104]。しかしながら、低い降水量にもかかわらず夏の月の期間、雷雨は高く集中している[105]。 冬のイスタンブルは地中海盆地周辺の他のほとんどの都市と比べると冷涼で最低気温の平均は4-5℃である[104]。黒海からの湖水効果雪はよくあり、予測するのが難しく霧と共に厄介なものになる可能性があり、都市のインフラを混乱させる[106]。春や秋は穏やかであるが、しばしば雨が降ったり変わり易い北西からの冷たい風や南からの暖かい突風で、同じ日に激しい気温変化を引き起こす[103][107]

イスタンブルの年間降雨日は平均で115日で、年間降水量は テンプレート:Convert である[104][108]。極値は最高気温の記録は40.5℃、最低気温の記録は-16.1℃をそれぞれ観測している。1日当たりの降水量の記録は テンプレート:Convert で、1日当たりの降雪量の記録は テンプレート:Convert である[109][110]

テンプレート:Infobox Weather

都市景観

テンプレート:仮リンク地区はオスマンに征服されるまでガラタのジェノヴァ共和国の要塞がある街全体と一致している。ジェノヴァの要塞は19世紀には街の北側へ市街地を拡大するため大部分が取り壊され、唯一ガラタ塔だけが残っている[111]。ガラタは現在の行政区ではテンプレート:仮リンク地区に含まれ、タクスィム広場周辺部はイスタンブルの商業や娯楽の中心地となっている[112]

ドルマバフチェ宮殿はオスマン期の統治の中心で、ベイオール北のベシクタシュ地区にある。そこを越えた場所にあるイニョニュ・スタジアムはトルコでは最古のスポーツクラブであるベシクタシュJKが本拠地としている[113]。 以前は村であったテンプレート:仮リンクはベシクタシュ地区内にあり、テンプレート:仮リンクの名称にも含まれボスポラス海峡に沿った第1ボスポラス橋近くに位置する。ボスポラス海峡に岸に沿って並んだ北側のテンプレート:仮リンクは豪華なテンプレート:仮リンクの邸宅は19世紀に貴族やエリート階級の夏の離宮として建てられた[114]。さらに内陸や市内の環状道路の外側にあるテンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクはイスタンブルの重要な経済の中心である[115]

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もともとはイスタンブルの郊外でテンプレート:仮リンクと呼ばれる邸宅がボスポラス海峡沿いに建ち並び、現在ではイスタンブルの高級地区の一部。

オスマン期、ユスキュダルカドゥキョイはイスタンブルの郊外で、駐屯地や海辺の別荘、庭園がある静かな場所であったが20世紀の後半になるとアジア側も急速な都市化を経験し、市内の他の住宅地区と比較して後に開発されたこの地区はより良いインフラと都市計画に至っている[7]。ボスポラス海峡のアジア側の多くは経済や商業的な中心のヨーロッパ側の郊外として機能し、市内の人口の3分の1を占めるが雇用は4分の1を占めるだけである[7]。20世紀のイスタンブルの急速な成長の結果、市内の相当な部分でゲジェコンドゥ(一夜建て)と呼ばれる不法建築物が構成されている[116]。現在では徐々にいくつかのゲジェコンドゥが占める地区は取り壊され、現代的な大規模住宅群に置き換わって来ている[117]

イスタンブルには他の大都市のように主要な都市公園はないが、多くの緑地が広がっている。テンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクはもともとトプカプ宮殿やユルドゥズ宮殿などイスタンブルの2つの宮殿の土地に含まれていたが、トルコ共和国になり初期の10年間で公共の公園に利用されるようになった[118]テンプレート:仮リンクはアナトリアのボスポラス橋に隣接したユルドゥズ宮殿反対側の丘の斜面に位置している。ヨーロッパ側に沿ったファティ・スルタン・メフメト橋に近いテンプレート:仮リンクはもともとはオスマンの指導者の私有地に属しており、47haの公園内には多様な植物があり、2005年以来毎年チューリップ祭が催されている[119]。イスタンブルっ子 (Istanbulites) に夏の間、ポピュラーな場所にはテンプレート:仮リンクが含まれ市の北縁の テンプレート:Convert を占めている。森林はもともとビザンティンやオスマンの時代に市内に水を供給するための貯水池として使われ今でも残っている[120][121]テンプレート:Wide image

建築物

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ファイル:Hagia Sophia (5 Aug 2008).jpg
元々は大聖堂で後にモスクに変わったアヤソフィアは現在は博物館。6世紀に建てられる。

イスタンブルは主としてビザンティンやオスマンの建築物で知られているが、しかしその建物はそれ以前に街を支配した様々な人々や帝国を反映している。例えば、ジェノヴァやローマの建築はイスタンブルではオスマンに相対する物として見ることが出来る。古代のギリシア建築は何も残らなかったが、ローマ建築はより耐久性があることが証明されている。コンスタンティノープル競馬場(ヒッポドローム)からのオベリスクは今でもスルタンアフメト広場で見られ、ヴァレンス水道橋の一部の区間は4世紀後半に建てられたが比較的手付かずでファティ地区の西縁に残っている[122]テンプレート:仮リンクは330年に新しいローマ帝国の首都を記すため建てられたが、ヒッポドロームからそう遠くない場所に今でも建っている[122]

初期のビザンティン建築は古典様式のローマのドームやアーチをモデルとし受け継いでいたが、テンプレート:仮リンク(リトルアヤソフィア)ではこれらの要素に改良がなされた。イスタンブルで現存する最古のビザンティン建築は廃墟ではあるけれど後にイムラホルモスクに転換された454年に建てられたテンプレート:仮リンクである[123]。1261年にコンスタンティノープルが奪回されるとビザンティン様式は今でも現存する最も重要なコーラ教会テンプレート:仮リンクに拡大している。それでも、イスタンブルで最も象徴的なビザンティン様式の建築物の頂点の一つはアヤソフィアで、一番上のドームは直径31mあり[124]、アヤソフィアはモスクに変わる前は1,000年以上にわたり世界最大の大聖堂で、現在では博物館になっている[62]

イスタンブルに現存する最古のオスマン建築にはテンプレート:仮リンクルメリ・ヒサルなどの城塞が含まれ、コンスタンティノープルの市街をオスマンが包囲する際の助けとなった[125]。4世紀の間にわたって、オスマンは高くそびえるモスクや華麗な宮殿を建築しいつまでも残るイスタンブルの印象的な街並を作って行った。最大の宮殿であるトプカプ宮殿は内部のバロック様式のハレムから新古典主義建築テンプレート:仮リンク(図書館)など多種多様な建築様式が含まれている[126]テンプレート:仮リンクにはスルタンアフメト・モスク(ブルーモスク)やスレイマニエ・モスクテンプレート:仮リンクが含まれ、これら全ては16世紀から17世紀にオスマン帝国の隆盛期に建てられている。後の世紀、特にタンジマートの改革期にはオスマン様式の建築物はヨーロッパ様式のものに変わっている[127]テンプレート:仮リンク周辺の地区は壮麗なヨーロッパの大使館や新古典様式やネオルネッサンス建築アール・ヌーヴォー建築の通りで満たされている。ベイオールの建築物は教会や店舗、劇場、公的な建物であるドルマバフチェ宮殿などが含まれる[128]

行政

ファイル:Map of the Districts of Istanbul.png
イスタンブルの市街はボスポラス海峡に沿った中心部から遠くに伸びる。(地図の上部が黒海で下部がマルマラ海)

2004年以来、イスタンブルはトルコでは2つある市域と県域が同一の範囲で広がる都市[129]の1つである[130]。イスタンブルはイスタンブル県の県都と見なされ、イスタンブル大都市自治体 (MMI) により統治され39の都市行政区に分けられているテンプレート:Efn

現在の都市機構は19世紀のタンジマート期の改革に遡り、それ以前はカーディーと大宰相の後援の下、イマームにより都市を率いていた。フランスの都市をモデルに、宗教的な仕組みは市長とイスタンブル中のテンプレート:仮リンクの代表者で構成された議会に置き換わった。ベイオールは市内では最初の自らの首長と議会を有する地区であったが、議員はミレットの代表者の代わりに地区に長年住む住民であった。オスマン帝国憲法以後、法律が制定されこの仕組みは市全体に拡大され20のパリの行政区を模範としていたが、1908年まで全ては実行されておらずイスタンブルは9つの地区で構成された行政区として宣言された[131][132]。この仕組みは belediye(自治体)と名称を変えてトルコ共和国建国後も続いたが、1957年にこの自治体は解散した[133][134]。イスタンブルを含めトルコの人口集中地区に隣接した小さな集落は1980年代初期にそれぞれ主要都市に併合され、その結果大都市の自治体となった[135][136]

イスタンブル大都市自治体の意思決定機関は、地区議会から選ばれた議員による市議会である。市議会は予算管理やインフラの維持、博物館や主要な文化センターの監督など市全体の問題を担当している[137]。市政府は「強力な市長と弱い議会」のアプローチの下で運営されるため、議会の指導者、市長は迅速な意思決定を行う権限を有しているがしばしば透明性は犠牲にされる[138]。市議会は大都市行政委員会により助言されるが、委員会もまた自らの意思決定を行う限られた権限を有する[139]。全ての委員会の代表者は市長や議会により任命される[139][140]

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ファティ地区にある1953年に建てられたイスタンブル市庁舎

一方、地区議会はそれぞれの地区内の廃棄物管理や建設計画に関して主に責任がある。それぞれの地区は独自の予算を有するが、市長には地区の意思決定を再検討する権利がある。区長を含むすべての地区議会の議員の5分の1はそれぞれの地区の代表として市議会の議員として選ばれる[137]。全ての地区議会と市長を含む市議会の議員は5年ごとの選挙により選出される[141]。 2004年以来、公正発展党テンプレート:仮リンクがイスタンブル市長を務めている[142]

イスタンブル大都市自治体とイスタンブル県は同等の管轄区域を持つが、いくつかの権限は県政府に残されている。イスタンブル大都市自治体に似て、イスタンブル県は政府から任命された知事[143]、民主的に選出された意思決定機関である地方議会と任命された行政委員会がある。自治体レベルで行政委員会が反映され、県行政委員会には、大臣や部門長が含まれ県議会に助言を行っている[140][144]。県行政の役割は学校や住宅、政府の建物、道路の建設や維持、芸術、文化、自然環境保全や推進に限定されている[145]。フセイン・アヴニ・ムトゥルHüseyin Avni Mutluは2010年5月以来、イスタンブル県の県知事である[146]

統計

人口推移
トルコ共和国建国以前 トルコ共和国建国以後
テンプレート:Abbr テンプレート:Abbr テンプレート:Abbr
100 36,000 1924 500,000
361 300,000 1927 680,000 +36.0%
500 400,000 1935 741,000 +9.0%
7th テンプレート:Abbr 150–350,000 1940 793,000 +8.4%
8th テンプレート:Abbr 125–500,000 1945 860,000 +8.4%
9th テンプレート:Abbr 50–250,000 1950 983,000 +14.3%
1000 150–300,000 1955 1,258,000 +28.0%
1100 200,000 1960 1,466,000 +16.5%
1200 150,000 1965 1,742,000 +18.8%
1261 100,000 1970 2,132,000 +22.4%
1350 80,000 1975 2,547,000 +19.5%
1453 45,000 1980 2,772,000 +8.8%
1500 200,000 1985 5,475,000 +97.5%
1550 660,000 1990 7,620,000 +39.2%
1700 700,000 1995 9,260,000 +21.5%
1800 570,000 2000 10,923,000 +18.0%
1850 785,000 2005 12,061,000 +10.4%
1914 1,125,000 2010 13,256,000 +9.9%
Sources: テンプレート:Harvnb, テンプレート:Harvnb, and テンプレート:Harvnb
Pre-Republic figures estimatedテンプレート:Efn

歴史の大半を通じてイスタンブルは世界の大都市の中に位置付けられてきた。500年までにはコンスタンティノープルはローマを超え40万から50万の人口を擁していた[147]。コンスタンティノープルは歴史的な大都市であるバグダード長安を押し退け、13世紀までには世界最大の人口を抱える都市に位置していた。世界最大の都市には戻らなかったものの、コンスタンティノープル陥落後も19世紀初めにロンドンが上回るまで、ヨーロッパ最大の都市であった[148]。今日でもモスクワと並びヨーロッパ最大の都市集積を形成しているテンプレート:Efn

トルコの統計機関はイスタンブルの人口は2011年12月31日現在13,483,052人と推計しており、トルコ最大の都市を形成しトルコの全人口の18%を占めている[1]。広大な面積のためイスタンブルは世界の市域人口の順位でトップ5に含まれているがこれは都市圏と同等と考えられ、本来の市街人口は大体15位以下である[2][149]。イスタンブルの人口は年間3.45%増加しており、OECDの78の大都市圏の中でも最も高い位置にある。第二、第三の位置を占めるOECDの大都市圏もイズミルやアンカラなどトルコの都市で、この高い人口増加率はトルコの全国的な都市化を反映している[16]。イスタンブルは特に20世紀後半に急速に成長し、1950年から2000年の間の半世紀に人口は10倍になった[12]。人口の急増は市域の拡大から来ており、特に1980年から1985年にかけては人口は2倍になっている[133]。著しい成長がありそれは未だにあり、大部分は住環境の改善や職を求めるトルコ東部からの移住者により勢いが与えられている。イスタンブルの多くの住民は7つの北部や東部の県を出自としているが、イスタンブルのその人口はそれぞれの地方の人口を超えている。とくにイスタンブルの50万人を数える住民はスィヴァス県カスタモヌ県の人口を超えている[13]。 イスタンブルの人口に占める外国人の割合は僅かで、2007年現在42,228人であった[150]

28%の市民だけが元からのイスタンブルの出身である[151]

イスタンブルの人口密度は2,523人/km2でトルコの人口密度の102人/km2を遥かに超えている[152]。人口密度が高い傾向にあるのは北西部や西部、ヨーロッパ側に位置する南西部の市中心部である。最も人口密度が高いのはアジア側の地区であるユスキュダルである[13]

宗教・民族

ファイル:SultanAhmetMosqueCourtyard.jpg
スルタンアフメト・モスクはイスタンブルでは最大で、テンプレート:仮リンクによりイスラームの祝祭日に祈りが主導される。

イスタンブルは多くの歴史を通じて国際的な都市であったが、オスマン帝国の終わり以来均質化されてきている。それでもトルコの少数民族のほとんどは集中してイスタンブルに残っている。トルコ国内やイスタンブルの大多数の人たちは自分たちをムスリムと見なし、より明確にはスンナ派の信徒である。ほとんどのスンナ派の信徒はハナフィー学派を信奉し、約10%のスンナ派の信徒はシャーフィイー学派を信奉している。450万人のトルコ人の非スンナ派を数え、これらはアレヴィー派である。トルコ国内のアレヴィー派の3分の1はイスタンブルに居住している[151]スーフィズムのような神秘主義はトルコ共和国の建国後、公式に禁止されたが今でも多数の信者を誇っている[153]

コンスタティノープル総主教は6世紀以来、総主教に定められ、「エキュメニカル総主教」(全地総主教)という称号を持つ3億人の正教会信徒の指導者として広く見なされている[155]。1453年まではアヤソフィアを総主教座としていたが、アヤソフィアがオスマン朝に接収されてモスクとなって以後は、パンマカリストス修道院付属教会(現在のフェティエ・モスク)などを転々としたのち、1601年以降は旧市街北部・フェネル地区の聖ゲオルギオス大聖堂を基盤にしている。19世紀に入るとイスタンブルのキリスト教徒は正教会アルメニア正教会非カルケドン派)いずかれの信徒である傾向があった[156]。1923年のテンプレート:仮リンクや1942年のテンプレート:仮リンク(富裕税)、1955年のテンプレート:仮リンクなど20世紀の多くの出来事により、テンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクを中心としていたギリシャ人の人口はかなり減少している。1923年には13万も居たイスタンブルのギリシャ人は21世紀初めには3,000人に減少している[157][158]

テンプレート:仮リンクの人口はアルメニア人虐殺により部分的な減少を見たが、最近のアルメニアからの移民により戻って来ている。1913年には164,000人のアルメニア人がイスタンブルに居たが今日では50,000から70,000人のアルメニア人が居る[159]

最大の少数民族はクルド人コミュニティで、トルコ東部や南東部を元にしている。市内のクルド人の存在はオスマン時代初期に遡るが[160]、イスタンブルへのクルド人の流入は1970年代後半のテンプレート:仮リンククルディスタン労働者党により加速し始めている[161]。200万から400万人のクルド人がイスタンブルには居住し、イスタンブルは世界の他のどの都市よりもクルド人が住んでいることを意味している[162][163]

テンプレート:仮リンク地区はかなりのセファルディムコミュニティが暮らしており、最初に形成されたのはスペイン異端審問の時代に遡る[164]ロマニオットアシュケナジムはセファルルディムよりも前にイスタンブルに同様に居住していたが、その割合は減っており今日ではアシュケナジムはイスタンブルのユダヤ人のほんの1%だけである[165][166]。イスラエルへの移住によりユダヤ人の人口は全国的に減少し、1950年の100,000人から2005年には18,000人に減少している。大部分はイスタンブルかイズミルに居住している[167]テンプレート:仮リンクはオスマン期にガラタに居住したカトリック教徒で、19世紀から20世紀初期のイスタンブルの文化や建築を形作るのに重要な役割を担った。彼らの人口は減っているが今でも少数が市内に残っている[168]

経済

ファイル:LeventView.jpg
レヴェントのビジネス地区にはイスタンブルの高層ビルが林立する。

2008年現在のイスタンブルのGDPは1,820億ドルで、世界の都市圏の域内総生産では34位に付けている[169]。イスタンブルはトルコ国内のGDPの27%を占め、国内産業労働力の20%が都市に存在する[16][170]。1人当たりのGDPで70%、生産性で50%それぞれ国内平均を上回っており一つには高付加価値に集中した生産活動が要因である。多くの人口とトルコ経済への高い貢献からイスタンブルはトルコの国税の5分の2を担っている[16]。税には30人のイスタンブルを本拠とする億万長者も含まれ、この数は世界の都市で5番目に多い人数である[171]。 都市の大きさが想像されるように、イスタンブルではオリーブオイル、タバコ、輸送機器、電機など様々な製品を生産し多様な産業経済を擁している[170]。高付加価値の生産活動への集中があるにも関わらず低付加価値の生産部門もかなりを占め、イスタンブルのGDPに占める割合は26%だが市の合計出荷額の5分の4に相当している[16]。2005年にイスタンブルに本拠地を置く企業の輸出総額は 41,397,000,000ドルで、輸入総額は69,883,000,000ドルであった。これはトルコ全体の合計にそれぞれ輸出で57%、輸入で60%を占めている[172][173]

イスタンブルはトルコでは唯一の資本市場であるイスタンブル証券取引所を有する。もともとは1866年にたオスマン証券取引所として設立されたが、その重要性は1930年代の世界大恐慌により減少した。一連のトルコ政府の金融自由化計画により1986年に現在の形で再編成されている[174]。19世紀から20世紀初期の間、ガラタのテンプレート:仮リンクBankalar Caddesi(銀行大通り)はオスマン帝国の金融センターでオスマン証券取引所もそこにあった[175]。バンカラル・ジャデッシはイスタンブルの金融地区として1990年代まで続き、トルコのほとんどの銀行は本社をモダンなビジネス中心地区であるレヴェントやマスラクに移転している。1995年にイスタンブル証券取引所は現在のテンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンク地区に建物を移転している[176]

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黒海とマルマラ海を結ぶボスポラス海峡は世界でも繁忙な航路の一つ。左側がボスポラス橋、右側がオルタキョイモスク。

現在、石油が豊富な黒海と地中海を結ぶ唯一の海のルートであるボスポラス海峡は世界でも混雑した航路の1つで、1年間で2億トン以上の原油が通過しており交通量はスエズ運河の3倍に上る[177]。混雑を緩和するため、街のヨーロッパ側に海峡と並行してテンプレート:仮リンクと呼ばれる新たな運河を建設することが提案されている[178]

イスタンブルにはテンプレート:仮リンク、アンバルリ港 Ambarlı、ズィーティンブルヌ港 Zeytinburnu の3つの大きな港の他にいくつかの小さな港や石油ターミナルがボスポラス海峡やマルマラ海沿いに立地している[179][180]。ハイダルパシャ港はボスポラス海峡の南東に位置し、2000年代初めまでイスタンブル最大の港であった。ハイダルパシャ港からアンバルリ港へ運営がシフトして以来、ハイダルパシャ港は容量以下で運営され港を閉鎖する計画もある[181]

2007年現在、アンバルリは都心の西端に位置し年間150万TEUの取扱能力があり地中海沿岸では4番目に大きな貨物ターミナル港である。一方のハイダルパシャ港の取扱能力は354,000TEUである[182][183]

ズィーティンブルヌ港は自動車道路やアタチュルク国際空港に近いことから利点があり[184]、都市の長期計画で全てのターミナルと道路、鉄道網との相互の接続性を必要としている[185]

イスタンブルは著名な観光地として観光客数が増加しており、2000年には240万人の外国人観光客が訪れ2010年には700万人の外国人観光客が訪れており世界で10番目に多くの観光客が訪れる都市である[14][186]。イスタンブルはトルコの外国人観光客の4分の1を受け入れ、トルコではアンタルヤに次ぐ国際的なゲートウェイとなっている。イスタンブルの観光業界はヨーロッパ側に集中し、市内の90%以上のホテルはヨーロッパ側に立地している。低中級クラスのホテルはテンプレート:仮リンクに立地する傾向があり、ハイエンドのホテルは金角湾北側の歓楽街や金融センターに立地する。イスタンブルには70の博物館があるが、もっとも観光客が訪れるのはトプカプ宮殿博物館とアヤソフィアで毎年3,000万ドルの収益をもたらす。市の環境マスタープランでは17の宮殿と64のモスク、49の教会はイスタンブルで歴史的に重要なものであると言及している[187]

所得分配はイスタンブルでは公平ではなく、20%の最高所得層が64%の資産を利用し20%の最低所得層が4%の資産を利用している[188]

金融

ファイル:Bankalar Caddesi Şubat 2012.jpg
バンカラル・カデッシはオスマン期のイスタンブルの金融の中心。右側は1892年に完成したオスマン中央銀行の本店の最初の建物。

イスタンブルは1923年にアンカラが政治的な首都になってからも常に「金融の首都」である。1980年代の特定の市場開放はさらにこの地位を強化した。1986年初め発足したイスタンブル証券取引所 (ISE) は普通株、国債、短期国債、収益分配証明書、債券、民営化の管理で発行される債券と社債取引、夜間の業務を行うために設立されたトルコでは唯一の証券取引所である[189]

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金融地区のマスラク

1993年にイスタンブル証券取引所は金市場の自由化を決定し、1995年にイスタンブル金取引所が設立されトルコ中央銀行の金塊の輸入独占は終わりを告げ、金取引は民間部門のメンバーに移された[190]。 レヴェント、マスラクはトルコの大企業や銀行、世界的な金融部門の巨大企業の地域本部が置かれており、シティバンクメリルリンチJPモルガンHSBCホールディングスABNアムロ銀行フォルティスグループINGグループBNPパリバソシエテ・ジェネラルウニクレーディト・イタリアーノドイツ銀行コメルツ銀行などがイスタンブルに拠点を置いており、他の金融機関も多く立地している。レヴァントとマスラクの両地区は絶えず成長しダイナミックなスカイラインに変わり、いくつもの新しい超高層ビル計画が提案され認可されており毎年着手されている。

工業

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欧州最大規模のショッピングモールテンプレート:仮リンク前にある、イスタンブルメトロテンプレート:仮リンクの駅入口

イスタンブルはトルコの産業の中心で、トルコの労働力の20%を雇用し職場の38%を提供している。これに加えて、イスタンブルはトルコの貿易の55%と卸売りの45%を生み出し、GDPの21.2%、税収の40%、工業生産額の27.5%に寄与している。多くのトルコの大きな生産工場はイスタンブルに立地しており、イスタンブルやその周辺部では木綿果物オリーブオイルタバコなど生産されている。食品加工、織物製品、オイル製品、ゴム製品、金属製品、皮革、電機、ガラス、機械、紙や紙製品、アルコール飲料などはイスタンブル市内の主要な工業製品に含まれる。イスタンブルではまた、自動車やトラックの組み立て工場もある。これらの様々な事業は過去にペンキ工場に近かったため悪化した2008年の花火爆発事故のような災害にも見舞われている[191]

医薬産業は1952年にレヴェントにエジザルバシュ医薬品工場が設立され始まった[192]。今日では134の企業がトルコの製薬業界でビジネスを行っており、大部分はイスタンブルかその近郊を基盤としている[193]

観光

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マルマラホテルからのタクスィム広場とカンファレンスバレーの眺め。

イスタンブルはトルコでも最も重要な観光スポットの1つである。数千ものホテルや他の旅行者中心の産業がイスタンブルにはあり、観光や業務で訪れる両方の旅行者を満たしている。2006年には23,148,669人がトルコを訪れ、ほとんどはイスタンブルやアンタルヤの空港や港を通り入国している[194]。 イスタンブルのアタチュルク国際空港やサビハ・ギョクチェン国際空港を利用しトルコに入国した観光客は2005年の4,849,353人から翌年には5,346,658人に増加している[195]。2011年には急成長しているトルコの観光事業により1,050万人に増加している。2011年のイスタンブルの2つの国際空港は5,000万人以上の旅客を扱っている[196]

イスタンブルはまた世界の主要な会議の目的地の一つであり、世界有数の国際的な団体や機関にとってはますます人気のある選択肢となっている[197]。イスタンブルの会議の魅力は3つに分かれた会議と展示エリアにより発展した。カンファレンス・ヴァレー(イスタンブルコンベンション・エキシビジョンセンター、イスタンブルヒルトン・コンベンション・エキシビジョンセンター、軍事博物館文化センター・ジェマイルレシィトリーコンサートホール)、空港・エキシビジョン地区 (150,000m2)、CNR国際博覧センターの周辺の展示スペース)、ビジネス・金融地区(多くの分散型のセンターを含む)がある。これらが集まったエリアは宿泊施設、会議場、展示スペースが結合したのが特徴である。これらは個々にでもイスタンブルメトロの輸送を通じて総合的に使うことも出来、10,000人またはそれ以上の参加者に対応している。

文化

テンプレート:Main イスタンブルは歴史的に文化的な中心として知られているが、トルコ共和国の中心がアンカラに移ると文化的なシーンは停滞した[198]。新しい政府はトルコ人に音楽の伝統とくにヨーロッパ由来の音楽に適用させようと新しい計画を確立したが、音楽の機関や海外の古典音楽の芸術家は主に新しい首都に集中した[199]。多くのトルコの文化的なシーンはイスタンブルにルーツを持っていたが、文化的な重要性が単にその過去の栄光に基づくだけでない都市として再びグローバルに現れることは1980年代や1990年代までなかった[200]

美術館・博物館

19世紀末までにはイスタンブルは都市自体、この地域の芸術の中心としてトルコやヨーロッパ、中東などから街に芸術家を集めていた。アンカラをトルコの文化の中心として作る努力にも関わらず、1970年代までイスタンブルはトルコの主要な芸術関連の機関が置かれていた[202]。さらに、1980年代には大学やアートジャーナルが新たにイスタンブルに創設され、以前はアンカラを拠点としていた芸術家が移って来ている[203]

ベイオールは街の芸術の中心として一変し、若い芸術家や以前は海外に暮らしていた年長のトルコの芸術家が基盤をこの場所に見付けている。テンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクなどモダンな美術館は2000年代に開館し、展示スペースやオークションハウスは都市の国際的な雰囲気への寄与を引き立てるものになっている[204]。 しかし、これらの美術館は未だに歴史的な半島にあるトルコの近代的な博物館の先駆けとなったテンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクほどの人気は得ていない[187][201]

映画

トルコでの最初の映画上映は少なくとも1896年のテンプレート:仮リンクで、パリで技術が公開された丁度1年後であった[205]。映画館はベイオールで急速に現れ始め、今ではテンプレート:仮リンクの名で知られる通り沿い映画館は集中していた[206]。トルコの映画産業は1950年代まで発展は無かったが、イスタンブルは初期のテンプレート:仮リンク中心であった[207]。それ以来、イスタンブルはトルコで最も人気がある映画やドラマ、コメディーの場所である[208]。トルコの映画産業は世紀の後半に強化されるが、それはテンプレート:仮リンクUzak (2002)、テンプレート:仮リンクBabam ve Oğlum (2005) まで無く、2つの映画はイスタンブルで撮影されトルコ映画は国際的なかなりの成功を見始めた[209]。イスタンブルとその絵のような美しいスカイラインは多くの海外映画の舞台となり、『トプカピ』(1964) や『007 ワールド・イズ・ノット・イナフ 』(1999)、『ザ・インターネット2』(2006)、『テンプレート:仮リンク 』(2008) などがある[210]

イベント

文化的な再現と同時にイスタンブルでは文化的な催しが創設され、1973年頃からトルコや世界中から様々な芸術が披露し始められた。フラグシップとなるテンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクは1980年代初期から行われている。現在では専ら音楽やダンスだけを中心とした、以前のイスタンブルフェスティバルは1994年以来、テンプレート:仮リンクとして知られている[211]。元のイスタンブルフェスティバルから発展した祭典で最も顕著な催しにはテンプレート:仮リンクがあり、1987年以来2年ごとに開催されている。初期の姿はトルコの視覚芸術を披露する目的であったが、国際的なアーティストに開放されて以来、ヴェネツィア・ビエンナーレサンパウロ・ビエンナーレと並び権威あるビエンナーレとして評価が上がって来ている[212]

レジャー・エンターテイメント

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グランドバザールは世界最大規模の屋内市場の一つ。

イスタンブルには歴史的なものから現代のものまで多くの商業施設がある。カパル・チャルシュKapalıçarşı(グランドバザール)は1461年以来市場が開かれており、世界最古で最大の屋内市場である[213][214]テンプレート:仮リンクは青空市でカパル・チャルシュからテンプレート:仮リンクにかけ広がっている。エジプシャンバザールは1660年以来、イスタンブルのメジャーな香辛料の市として開かれている。テンプレート:仮リンクはトルコのモダンなショッピングモールの先駆けとして1987年に開業した[215]。それ以来、モールは歴史的な半島の外のメジャーなショッピングセンターになっている。テンプレート:仮リンクは1995年と1996年に「欧州最高」、「世界最高」のショッピングモールのタイトルをテンプレート:仮リンクより与えられている。テンプレート:仮リンクは2005年に開業しそれ以来、欧州最大のショッピングモールである。テンプレート:仮リンクは2006年に建てられた商業建築カテゴリーで都市景観建築評価賞を獲得している[214]

テンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクとアナトリア側のテンプレート:仮リンクは高級ショッピング地区へ発展している[216][217]

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大晦日のニシャンタシュのデコレーション

典型的なケバブのようなトルコ料理と並んでイスタンブルは、歴史的なシーフードレストランでも有名である。市内の多くの最も評判な店や高級な店はボスポラス海峡の海岸にあり、マルマラ海に沿ったテンプレート:仮リンク地区には歩行者ゾーンがあり周辺には約50のレストランがある[218]

イスタンブル中心部から テンプレート:Convert 離れたテンプレート:仮リンクはシーフードレストランでも人気がある。これらのレストランは車の来ない通りと、静かで穏やかな雰囲気がある歴史的な夏の離宮で、プリンス諸島はイスタンブルっ子や外国人観光客にとっては人気のある観光地である[219]。外国の料理を特徴としたレストランは主にベイオール地区に集中している。イスティクラル通りに沿った、テンプレート:仮リンクはワインハウス(テンプレート:仮リンクとしても知られる。)やパブ、レストランが入っている[220][221]。イスティクラル通り周辺の他のいくつかの地区ではベイオールのナイトライフに応えるため最近では改装され、以前の商店街は現在ではパブやカフェ、生演奏が行われるレストランが林立している[222]。他のイスタンブルのナイトライフの中心的な場所にはテンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクカドゥキョイなどがある[223]

スポーツ

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76,092人の観客を収容可能なアタチュルクオリンピックスタジアムはトルコ最大の多目的スタジアム

イスタンブルにはいくつかのトルコで最も古いスポーツクラブがある。ベシクタシュJKは1903年に創設され、数あるクラブチームの中でも最古のものと考えられている。初期にはトルコで唯一のクラブチームで、時折トルコの代表チームとしてプレーしていた[113]。サッカーのクラブチームは国内の争いでそれぞれの優位な時期を見て来たが[113]ガラタサライフェネルバフチェSKは国際大会では善戦し、プロサッカー1部リーグスュペル・リグで最も多くの優勝回数を誇っている[224][225]。ガラタサライとフェネルバフチェSKはボスポラス海峡を挟んで長年にわたりライバル関係にあり、ガラタサライは市内のヨーロッパ側にフェネルバフチェSKはアナトリア側に本拠地を置いている[224]。 イスタンブルにはエフェス・ピルゼン S.K.ベシクタシュJKフェネルバフチェ・ユルケルテンプレート:仮リンクの4つのクラブチームがあり、プロバスケットボール1部リーグのターキッシュ・バスケットボール・リーグでプレーしている[226]

イスタンブルには2000年から多くのスポーツ施設が建設されたり改良されており、夏季オリンピックの招致活動が行われている。アタチュルク・オリンピックスタジアムはトルコ最大の多目的スタジアムで、2002年に竣工し国際陸上競技連盟では最上級に分類される陸上競技施設である[227]。スタジアムではUEFAチャンピオンズリーグ 2004-05 決勝が開催され、テンプレート:仮リンクのホームフィールドとして残っている。シュクリュ・サラジオウル・スタジアムはフェネルバフチェSKのホームフィールドで、改修工事が竣工した3年後にテンプレート:仮リンクが開催された。2011年にはトルコ・テレコム・アリーナが完成し、ガラタサライのホームであったテンプレート:仮リンクから置き換わった[228][229]。3つ全てのスタジアムはUEFAスタジアムカテゴリーでカテゴリー4に分類され、UEFAチャンピオンズリーグを開催するのに適したスタジアムであるテンプレート:Efn

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テンプレート:仮リンクは2012年に開業し、バルケットボールやバレーボールのクラブチームであるフェネルバフチェ・ユルケルのホームコート。

スィナン・エルデム・ドームはヨーロッパ最大の屋内アリーナの中に含まれ2010年バスケットボール世界選手権2012年世界室内陸上競技選手権大会テンプレート:仮リンクの準決勝が開催されている[230]

2010年にシナン・エルデムドームが完成するまでアブディ・イペクチ・アリーナがイスタンブルの主要な屋内アリーナで2001年バスケットボール男子欧州選手権が開催された[231]。他の屋内アリーナの中には2000年から運営されているテンプレート:仮リンクが含まれ、イスタンブルのスポーツクラブのホームコートを提供している。より最近では13,800席を備えるテンプレート:仮リンクは2012年に開業し、フェネルバフチェ・ユルケルのホームコートにしている[232]。建設ブームにも関わらず、2000、2004、2008、2012年のオリンピック招致やUEFA EURO 2012UEFA EURO 2016の招致は失敗に終わっている[233]。イスタンブルは、2020年夏季オリンピックに向けて招致活動テンプレート:Enlinkを行っていた。2013年9月7日に開催都市が発表されたが、決選投票で東京に敗れている[18][234][235]

イスタンブール・パークは2005年に世界ツーリングカー選手権が2006年にル・マン・シリーズが開催されているが、それ以降はどちらも開催されていない[236][237]。2005年から2011年の間、イスタンブール・パークでは毎年開催されるトルコグランプリが行われていたが、資金難から将来の開催は不確実さが残る[238]。イスタンブルセーリングクラブは1952年に創設され、イスタンブルやその周辺の航路で行われるショーケースとなる競技を毎年行っている[239][240]。 トルコオフショアレーシングクラブも主要なレースを主催しており、もっとも権威あるレースである海兵隊杯も含まれる[241]。イスタンブルでは時折、F1パワーボート世界選手権も開催され最後に開催されたのは2000年で、ボスポラス海峡で開かれた[242]

メディア

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1948年に創刊したHürriyetはトルコで最も読まれている新聞。

ほとんどの国営のラジオ局やテレビ局はアンカラをベースとしているが、イスタンブルはトルコメディアの最も重要なハブである。メディア産業のルーツは、オスマン帝国の首都であった時代の1831年に最初にトルコで発行された新聞であるTakvim-i Vekayi(情勢の暦)にある。テンプレート:仮リンク通りでは新聞が印刷され、バーブ・アーリ通りBâb-ı Âliは金角湾を越えたベイオールとともに急速にトルコの印刷メディアの中心となった[243]。今日、イスタンブルでは幅広い種類の定期刊行物が発行されている。ほとんどの全国紙はイスタンブルを拠点として、同時にアンカラやイズミル版がある[244]

新聞

イスタンブルを拠点とするテンプレート:仮リンクは1986年の創刊と歴史が浅いが、トルコでは最も広く流通している新聞で週に100万部が発行されている。テンプレート:仮リンクヒュッリイェトテンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクの各新聞はトルコの5大紙で、それぞれ毎週20万部以上を売り上げている。ヒュッリイェトの英字版であるテンプレート:仮リンクは1961年より発行されていたが、2007年にザマン新聞により発行された英字紙のテンプレート:仮リンクが発行部数で追い抜いた。いくつかの小さな新聞社の中にはイスタンブルを拠点とするミッリイェトテンプレート:仮リンクのような人気の発行者も含まれる[244][245]

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国営の TRT'sの本社。イスタンブルではラジオも放送。

ラジオ

イスタンブルでのラジオ放送の開始は1927年に遡り、最初のラジオ電波の送信はエミノニュEminönüの中央郵便局の上から行われた。後の数10年間で設立された他のラジオ局と先の放送の管理は最終的には国営のトルコ国営放送 (TRT) の下になり、1964年の設立から1990年までラジオやテレビの放送を独占していた[246]。今日、TRTは4局の国営ラジオ局を運営しこれらの放送局はトルコの人口の90%以上をカバー出来るように全国に送信所を持っている。Radio 2は唯一イスタンブルに拠点を置いており、教育番組からスポーツ競技の放送までをカバーしトルコでは最もポピュラーなラジオ局である[246]。イスタンブルのラジオ放送はトルコでは一番賑やかで主にトルコ語や英語の番組内容を特徴としている。両方の内容を放送する希有な放送局にはテンプレート:仮リンク (94.9 FM) がある。トルコでは初の民放ラジオ局で初の海外音楽を特徴とする1992年に設立されたテンプレート:仮リンク (97.2 FM) も含まれる。国営のRadio 3はアンカラを拠点とするが英語のポップスを特徴とし、NTV Radyo (102.8 FM) は英語のニュース番組を放送している[247]

テレビ

TRT-ChildrenはTRTのテレビ局で唯一、イスタンブルを拠点としている[248]。それにもかかわらず、イスタンブルにはいくつものトルコの放送局や国際的な報道機関の拠点が置かれている。イスタンブルを拠点とするテンプレート:仮リンクはTRTのテレビ放送の独占が終わった後に始めて設立された民放局である。スターテレビと同じくイスタンブルを拠点とするテンプレート:仮リンクは全国的に人気が高いままで、トルコやアメリカのシリーズ物の番組を放送している[249]テンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクや他のイスタンブルのテレビ局はニュース番組やシリーズ番組の混成で放送される。テンプレート:仮リンク(アメリカのMSNBCと提携)とテンプレート:仮リンクもイスタンブルを拠点とするが、主にトルコを視聴範囲としたニュースを放送している。BBCはイスタンブルに地域事務所を置きトルコ語ニュースの運営を援助しているのに対し、アメリカのニュース専門チャンネルCNNは1999年にトルコ語放送のテンプレート:仮リンクを1999年に設立した[250]。ビジネスとエンターテイメントのチャンネルであるCNBC-eもイスタンブルを拠点とし、2000年から放送を開始した。

教育

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イスタンブル大学の入口。市内ではトルコの最古の教育機関

イスタンブル大学は1453年に創設された、市内にある最古のトルコの教育機関である。元はマドラサで、大学には法律、医学、科学部門が19世紀に創設されトルコ共和国が建国されてからは宗教から分離された[251]イスタンブル工科大学は1773年にオスマン帝国海軍の技術学校として創設されたのが起源で、工科に特化した大学としては世界で3番目に古い大学である[252][253]。これらの公立大学は市内にある8つの内の2つで[254]、他の有名なイスタンブルの国立大学にはミマール・スィナン芸術大学が含まれ1970年代までトルコで最も重要な芸術に関する機関で[202]マルマラ大学はトルコでは3番目に大きな高等教育機関である[255]テンプレート:仮リンクは2010年に創設された一番新しい公立大学で、11の学部を通して2年間の学位取得過程を提供している[256]

イスタンブルの著名な大学には政府の支援があるが、市内には多くの著名な私立の機関もある。最初の近代的な私立大学としてテンプレート:仮リンクは1863年にアメリカからの団体により設立された。高等教育部門は1971年にボアズィチ大学に移行され、残りの部門はアルナウトゥキョイArnavutköyにロバートカレッジの名の下、全寮制学校として残った[257][258]。私立大学はトルコでは公式には1982年のテンプレート:仮リンクにより非合法となったが、1970年当時イスタンブルにあった15の「高校」は事実上の大学であった。イスタンブルで1982年以来、最初の私立大学が設立されたのは1992年のテンプレート:仮リンクで他に数十の大学が10年の間に開学している[257]。 今日、市内には少なくとも30の私立大学がありテンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクも含まれる[259]

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ボアズィチ大学はアメリカの寄宿学校であったロバートカレッジの高等教育部門が移行したのが始まり。

2007年には約4,350の学校があるが、そのうちの半数は小学校で各校平均688人の生徒が在籍する。近年ではイスタンブルの教育システムは大幅に拡大してきており、2000年から2007年にかけて学級数や教師の数は倍近くに生徒の数は60%以上増加している[260]

テンプレート:仮リンクは1481年にガラタ宮殿帝国学校として設立されたイスタンブルでは最古の高校で、市内でも2番目に古い教育機関である。この学校はバヤズィト2世の命により建てられ、さらなる帝国の成長を強化するための手段として多様な背景を持つ学生を教育しようとした[261]。トルコのテンプレート:仮リンクの1つで、外国語での教育に重点を置くエリート公立高校である。ガラタサライは例えばフランス語で教育が行われ、他のアナトリアン高校はトルコ語と並んで英語やドイツ語で主に授業を行っている[262][263]。市内にはまた、テンプレート:仮リンクなど外国の高校もあり、外国人を教育するために19世紀に設立された[264]

イスタンブルの他のいくつかの高校は独自の教育や入学条件を特徴としている。テンプレート:仮リンクはボスポラス海峡の岸に沿ったテンプレート:仮リンクにあり、テンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクの1つにありこれらは軍の高校で、テンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクなどを補完するものである。他の重要な高校にはテンプレート:仮リンクがあり、少なくとも一方の親が居ない全国の子供に無料で教育を行っている。ダルシュファカでは第4学年で英語の授業が始まり、第6学年で第二外国語であるドイツ語とフランス語の授業が始まる[265]。他の市内の有名な高校には1908年に設立されたテンプレート:仮リンク[266]や1955年に設立されたテンプレート:仮リンクが知られている[267]

公共サービス

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シラフタラガ発電所は現在は美術館で、1914年から1952年の間はイスタンブルの唯一の電力源

イスタンブルの最初の水道システムは街の歴史の初期に遡りヴァレンス水道橋のような水道橋により水は当時街の多くの貯水池に蓄えられていた[268]

スレイマン1世の命令によりキクチェシュメKırkçeşme水道網が1563年までに建設され、この水道網は毎日 4,200立方メートルの水を158箇所に送水していた[268]。後には公の要求によって、多くの水源からテンプレート:仮リンクのような公共の泉へ導管を使い送水された[269]。今日のイスタンブルでの塩素処理やろ過した水道水の供給や、下水処理のシステムはイスタンブル上下水道局 (İSKİ) により管理されている[270]

テンプレート:仮リンクSilahtarağaは金角湾沿いの火力発電所で最初の機関室が完成した1914年から1952年までイスタンブルの唯一の電力源であった[271]。トルコ共和国建国後は都市の電力需要の増加に対応し発電所は幾度も施設の改装を受け、1923年の23 MW から1956年にはピークの 120 MW に容量が増加した[271][272]。発電所の容量は次第に減少し、経済的な理由により1983年に閉鎖された[271]。発電と送電を独占する国営のトルコ電力庁 (TEK) が1970年から1984年の間設立されていたが、現在ではトルコ発電送電会社 (TEAŞ) とトルコ配電会社 (TEDAŞ) に分けられ、完全な民営の電力公益事業者である[272]

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1909年に遡る現在のイスタンブルの中央郵便局[273]

オスマンの郵便・電信省は1840年に創設され最初の郵便局である帝国の郵便局はテンプレート:仮リンクの中庭近くに開局した。1876年には最初の国際郵便網がイスタンブルと広大なオスマン帝国の領地を超えた間に開設された[274]。皇帝アブデュルメジト1世は1847年にサミュエル・モールスに最初の公式な特許を授与し、最初の電信線がイスタンブルとエディルネの間に建設され1856年のクリミア戦争終戦の通知までには完成している[275]。初期の電話回線はイスタンブルでは1881年頃に出始め、後に最初の手動の電話交換機が1909年にイスタンブルで運用が始まり郵便・電信省は郵便・電信電話省になった[274][276]。イスタンブルの通信インフラはその後、大幅に発達している。GSMの携帯電話網がトルコに到達したのは1994年のことで、イスタンブルは最初にサービスが提供された都市のうちの1つであった[277]。今日、携帯電話と固定電話のサービスは、1995年に郵便・電信電話省からテンプレート:仮リンクが分離されて2005年に民営化されて以降いくつかの民間事業者により提供されている[274][277]。郵便事業は今も郵便・電信機構の管理下で国営として残っており PTTの頭文字は保っている[274]

2000年にはイスタンブルには137の病院があり、そのうちの100は私立の病院であった[278]。トルコの国民は国営の病院で医療助成が受けることができる[244]。公立病院は混雑しているか遅い状態で、私立の病院は余裕がある人には適している。私立の病院はここ10年ほどで顕著に増加し外来患者の私立病院の利用割合も2005年と2009年を比較すると6%から23%に増加している[244][279]。多くの私立の病院や一部の公立病院はハイテク設備を備えMRIも含みまた医療研究センターと関連付けられている[280]。トルコは他の国よりもより多くのアメリカを基盤とするテンプレート:仮リンクの認定を受けた病院があり、ほとんどは大都市に集中している。とくに私立病院の高い質の医療は急増するトルコへの医療観光に貢献し、2007年から2008年に40%増加した[281]。レーザー眼科手術はとくに医療観光の患者の間で広まっており、トルコは手続きで特化していることで知られている[282]

交通

テンプレート:Main

道路

イスタンブルの主要な自動車道路にはテンプレート:仮リンク (O-1)、テンプレート:仮リンク (O-2)、テンプレート:仮リンク (O-3)、テンプレート:仮リンク (O-4) がある。O-1は街の内側の環状道路を構成しボスポラス橋を渡っており、O-2は街の外側の環状道路で ファーティフ・スルタン・メフメト橋(第二ボスポラス橋)を通っている。O-2はエディルネに続いており、O-4は東側のアンカラへと続いている。O-2、O-3、O-4はつながり合って、ポルトガルからトルコ、イラン国境までの欧州自動車道路E80号線の一部を構成している[283]。2つのボスポラス海峡に架かる橋はトルコのアジア側とヨーロッパ側を結び、2つの橋で毎日40万台もの自動車交通を扱っている[284]。14.6kmの2本で構成されたテンプレート:仮リンクがクムカピ (Kumkapı)、ファティヒ (Fatih) とセリミエ (Selimiye)、ユスキュダル (Üsküdar) 間のボスポラス海峡の下で現在建設中である[285]テンプレート:仮リンクは1990年代初期に最初に構想されたが、最終的に実現可能であると言うことでプロジェクトが2012年に正式に着手された[286]。これらの新たなトンネルと橋の計画は2015年には完成の見込みである[285][286]

公共交通

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イスタンブルの近代的なトラム。1872年に登場した馬車軌道からの長い道程がある。

イスタンブルの公共交通網は路面電車ケーブルカー地下鉄路線、路線バス、バス・ラピッド・トランジット、フェリーなど複合的なシステムで構成されている。交通機関の運賃は2010年に導入されたICカードシステムであるテンプレート:仮リンクか以前からの電子チケットデバイスであるテンプレート:仮リンクに統合され利用されている[287]テンプレート:仮リンクは馬車軌道であった1872年に遡るが1960年代には最初の電化された市電は廃止されている[288]。 イスタンブル市電・チュネル会社İETTが運行する市電は1990年代には徐々に復活し、テンプレート:仮リンクや速いトラム路線が導入され、現在では毎日265,000人を運んでいる[288][289]イスタンブル・トンネル(Tünel、チュネル)は1875年に開業し、世界ではロンドンのメトロポリタン鉄道に次いで2番目に古い地下式鉄道である[288]。この路線は現在でもカラキョイテンプレート:仮リンクの急な573mの路線を運行しており、よりモダンなケーブル鉄道がタクシム広場とカラキョイの間を2006年から走り始めた[290][291]イスタンブル地下鉄は3つの接続されていない路線、テンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクで構成され、テンプレート:仮リンクなどの他の路線が建設中か計画中である[292][293]

イスタンブルの両側の地下鉄は最終的にボスポラス海峡の下を通るマルマライ計画の海底トンネルにより結ばれ、トラキア側とアナトリア側では史上初となる鉄道による接続が2015年に完了する[294]。計画の完了後にはイスタンブルの鉄道のシェアは現在の4%から28%に増加すると予想され、これは唯一東京やニューヨークに続くものである[295]。それまでは路線バスが市内両サイドの毎日220万人の輸送を担う[296]テンプレート:仮リンクはバスの高速輸送網を構成し、ボスポラス橋を横切り専用の車線により目的地まで達している[297]

水運

テンプレート:仮リンクは旅客船とカーフェリーを組み合わせボスポラス海峡の両岸やさらには北部や黒海などを結ぶ航路を運航している[298][299]。İDOはマルマラ海周辺にも就航地があり、自治体が運営するフェリー運航事業者としては世界最大である[300]。イスタンブルのクルーズ船のターミナルはカラキョイにあるイスタンブル港で1時間に1万人の旅客を扱う容量がある[301]。イスタンブルにやって来るほとんどの人たちは空路だが、約50万人の外国人観光客は海路により街へやって来る[187]

鉄道

イスタンブルで国際間の鉄道が開業したのは1889年ことで、ブカレストとシルケジ駅の間でシルケジ駅は遂にはパリからのオリエント急行の東のターミナル駅として有名になった[82]ブカレストテッサロニキからの定期列車の運行は2010年初めまで続けられ、前者はマルマライ計画の工事により中断され後者はテンプレート:仮リンクの影響による[302][303]。1908年にハイダルパシャ駅が開業した後は、バグダード鉄道の西のターミナルやヒジャーズ鉄道の延伸に使われた。今日ではどちらの路線もイスタンブルからの直接の運行はない[304][305][306]アンカラやトルコを横断した他の地点への運行は通常トルコ国鉄により行われているが、マルマライ計画テンプレート:仮リンクの建設工事のため、2012年2月から一時的に閉鎖されている[307]。マルマライ計画は2013年10月29日に正式に開業し列車の運行が開始された[308]

長距離バス

民間のバス会社は鉄道網によって提供されるサービースを超えて、代わりにより上手く運営されている。イスタンブルの主要バスターミナルはヨーロッパ最大で、毎日15,000台のバスと60万人の旅客を扱いトルコ国内や近隣国をはじめ遠くはフランクフルトまで運行されている[309][310]

空港

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2011年には3,740万人の旅客を扱ったアタテュルク国際空港。イスタンブルのハブ空港

イスタンブルには2つの国際空港があり、そのうちの大きい方であるアタテュルク国際空港は市中心部の西側24kmの場所に位置し2011年には3,740万人の旅客を扱い、ヨーロッパでは8番目、世界では30番目に忙しい空港であった[311]サビハ・ギョクチェン国際空港は市中心部の南東45kmの場所にあり、2001年にアタチュルク国際空港の混雑緩和のため開港している。格安航空会社が占めており、イスタンブルの第2の空港として特に2009年に新しい国際線ターミナルが開業して以来、急速に旅行者にはポピュラーになって来ている[312]。サビハ・ギョクチェン国際空港は2011年には1,270万人の旅客を扱っており、国際空港評議会は世界で最も急速に成長している空港としている[313][314]。イスタンブルには複数の滑走路と巨大なターミナルを備えた世界最大規模となる第3の空港が黒海沿岸に計画されている[315][316]

姉妹都市

イスタンブルは以下の都市と姉妹都市の関係にある[317][318][319]テンプレート:Columns-list

関連項目

注釈

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脚注

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脚注関連文献

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外部リンク

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公式
観光

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