JPモルガン・チェース
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JPモルガン・チェース(JPMorgan Chase & Co.)は、アメリカ合衆国ニューヨークに本拠地を置く銀行持株会社で、商業銀行であるJPモルガン・チェース銀行(JPMorgan Chase Bank, N.A.)や投資銀行であるJPモルガン(J.P. Morgan)を子会社として有する。
投資銀行部門であるJPモルガンは、2007年の金融危機以降買収により急速に勢力を拡大しており、また適切なリスク管理によりリーマン・ショックによるダメージを相対的に低く抑え、世界最大級の規模である。投資銀行業務のグローバル総合リーグテーブルでは、2009~2012年の4年連続でゴールドマン・サックスやモルガン・スタンレーらを上回り、首位をキープしている。[1]
また、JPモルガン・チェース銀行は、2011年10月にバンク・オブ・アメリカを抜き、アメリカ最大の資産を擁する銀行となった。[2]
フォーブスのフォーブス・グローバル2000では、2010年と2011年の2年連続で世界一位を獲得した。[3]
目次
概説
総資産2.2兆ドル。世界60カ国以上に営業拠点を持ち、投資銀行業務、企業及び資産家向けの金融サービスを行うほか、一般個人顧客数百万人を擁する。
2000年にチェース・マンハッタンとテンプレート:仮リンク(JPM)との経営統合で誕生した。対外的には対等合併とされ、社名もJPMが先だが、実質的には資産規模の大きかったチェースによるJPM買収であった。
その後、2004年、当時米国6位の商業銀行バンク・ワン(総資産2900億ドル。1800支店。2003年9月現在)を買収。
さらに、2007年以降の金融危機の混乱の中、経営状態の悪化した銀行を買収して規模を大きくしている。2008年5月に当時米国5位の投資銀行 ベアー・スターンズ(総資産3945億ドル。2008年2月現在)を買収。2008年9月には当時米国最大の貯蓄貸付組合 ワシントン・ミューチュアル(総資産3070億ドル。2207支店。2008年9月現在)を買収。
2008年10月13日 アメリカ財務省長官、連邦準備理事会議長、通貨監督局、連邦預金保険公社、ニューヨーク連邦準備銀行に不良債権救済プログラム(TARP)実施について同意を求められる。
JPモルガン・チェース・アンド・カンパニーは持株会社の名称であり、子会社のJPモルガン・チェース銀行は米国外を含む商業銀行業務(預金、クレジットカード、住宅ローン、自動車ローン、学生ローン、保険、投信、オンラインバンキング等)を、子会社のJPモルガンは米国外を含む投資銀行業務(資産管理、証券業務、プライベートバンク、プライベートエクイティ)を分担している。
ヘッジファンド部門は米国最大で、340億ドルを管理している[4]。
歴史
ケミカル
1823年に創業されたニューヨーク・ケミカル・マニュファクチャリング(The New York Chemical Manufacturing Company)は、その名の通り化学工業会社であったが、翌1824年に金融業務に参入、子会社としてケミカル・バンク・オブ・ニューヨーク(Chemical Bank of New York)が設立された。
1851年にはケミカル・バンクが親会社から独立し、以降は合併・買収を進めて業容拡大を続ける。特に大型の買収に1954年のコーン・エクスチェンジ・バンク、1988年のテキサス・コマース・バンク、1993年のマニュファクチャーズ・ハノーヴァー・トラストなどがある。買収の過程で幾度か総資産・預金シェアで米国トップになった。
1996年、チェース・マンハッタンを買収したが、新社名には買収先を残した。さらに2000年、チェース・マンハッタンがJPMと経営統合するが、現在もその本社機能はケミカルのものを引き継いでおり、また法定手続上の直接の前身である。
チェース・マンハッタン
チェース・マンハッタン・バンク(The Chase Manhattan Bank)は、1955年にバンク・オブ・マンハッタンがチェース・ナショナル・バンクを買収して発足した。
1958年には、クレジットカード『バンカメリカード』が発明された。これは後の1976年にVISAカードに変わる。 その影響を受けて2年後1960年アメリカ・ニューヨーク州にあるチェースマンハッタン銀行が、バンカメリカードと競争するため、MasterChargeを発明した。 また、その2年後1962年に、現在のMasterCardにブランド名を変更現在に至る。
バンク・オブ・マンハッタンは1799年の創立で、JPMチェースの前身企業中最古の歴史をもつ。かつて水道事業者だったマンハッタン社を、アーロン・バーが銀行に転換させた。現在のJPMチェースのロゴは前身のチェース・マンハッタンのものであり、そしてさらに前身のバンク・オブ・マンハッタンのものであるが、かつての水道事業に因んで、木製水道管の断面が図案化されている。
1970年代から1980年代にかけてはデイヴィッド・ロックフェラーが頭取を務める。この頃は債券・株式市場、シンジケートローンからクレジットカード、住宅ローンに至るまで、幅広い分野で高い業績を残した名門銀行だった。
1990年代に入ると不動産市場低迷の影響を受けてかつての地位を失い、1996年、ケミカルに合併された。
バンク・ワン
バンク・ワン(Bank One Corporation)は、1998年にバンク・ワン・オブ・オハイオとファースト・シカゴ・NBDが合併して誕生した。
バンク・ワン・オブ・オハイオは、オハイオ州地盤だったシティ・ナショナル・バンク・オブ・コロンバス=オハイオを中心とした地元銀行の持株会社として設立されたファースト・バンクグループ・オブ・オハイオが前身である。ファースト・バンクグループがバンク・ワンと社名を変更したのに合わせて、傘下の銀行も合併しバンク・ワンとなった。他の州へ業務を拡大し、銀行を買収する際も、常にバンク・ワンの名称を用い続けた。
NBDとの合併後は業績が悪化し、祖父の代からバンク・ワンの頭取を務めてきたオーナーのジョン・B・マッコイは退任を余儀なくされた。代わってシティグループから転身したジェミー・ディモンが頭取に就任、改革を進めた上でJPMチェースに自社を売却するとともに、JPMチェースのCEOに就任した。
JPモルガン
マサチューセッツ州出身のジョージ・ピーボディは、ロンドン在住中にロスチャイルド家から支援を受け、ジョージ・ピーボディ&カンパニーを設立し金融業を始めた。当初は米国債をイギリスの投資家に仲介するのが主な業務だった。このとき共同経営者として迎え入れられたのがジニーアス・スペンサー・モルガンで、のちにモルガンが代表を引き継ぎ、社名はJ. S. モルガン&カンパニーとなった。
J・S・モルガンの息子であるジョン・ピアポント・モルガン(J・P・モルガン)は、父の事業を米国内で広げ、1871年にJP モルガンの前身となるドレクセル・モルガン&カンパニー(Drexel, Morgan & Co.)をフィラデルフィアの銀行家、アンソニー・J・ドレクセルと共同でニューヨークに設立した。ドレクセルの死後、1895年にドレクセル・モルガン&カンパニーはJ.P. モルガン&カンパニー(J.P. Morgan & Company)となる。JPMはアンドリュー・カーネギーほか米国内の鉄鋼会社を買収し、USスチール社を設立し業界を再編。世界初の時価総額10億ドル企業誕生の仕掛人となった。1895年、米国債を金6,200万ドルで引き受け、後の償還ではこれを現金1億ドルに換えて手に入れた。 タイタニック (客船)号の実際のオーナーであったことでも有名で陰謀説もある[5]。
製紙、電気事業にも投資を行いさらに巨大化。1914年にウォール街に建設された本部は「モルガン邸」と通称され、金融資本による経済支配の象徴的存在となった。それゆえ反体制派の標的ともなり、1920年には本部前でテロリストによる爆弾事件が発生。33人が死亡し400人が重軽傷を負ったこの事件では、「もはや我慢の限界だ。政治犯を解放しなければ、貴様ら全員に死が訪れる」という中身の脅迫文が無政府主義者を名乗る者から送り付けられている。FBIが捜査にあたったが、1940年に最後の事件報告書を提出し、ついに犯人は特定されなかった。
第一次世界大戦中にはイングランド銀行が発行する戦時債券の独占代理人を引き受けた。加えてイギリス・フランスの軍需産業にも融資し、利益を上げる。
繁栄を謳歌したJPMだったが、1929年の世界恐慌により打撃を被る。これを受けてグラス・スティーガル法(銀行と証券の兼営を禁止する法律)も制定され、市中銀行になるか投資銀行になるかの選択を余儀なくされた。JPMは恐慌以前に比較的収益の安定していた市中銀行としての道を選び、分離された証券・投資銀行部門はその後モルガン・スタンレー(MS)となった。誤解されがちだが、MSの「モルガン」はジョン・ピアポント・モルガンに由来するものではなく、投資銀行部門の一般社員から昇進したヘンリー・モルガン(ジョン・ピアポント・モルガンの孫)の名前から付けられている。
新生JPMは1940年に法人格を取得し、同族経営の色を薄めていく。1959年にはギャランティ・トラスト・カンパニー・オブ・ニューヨークと合併、モルガン・ギャランティ・トラストとなるが、10年後に持株会社を設立し、再び社名がJ.P. モルガン&カンパニーに復帰した。1990年代半ばまで、JPMはリテール銀行業務は行わないホールセール・バンクとして、大口融資などにその実力を発揮した。
1990年代後半、グラス・スティーガル法が改正され規制が緩和されると、2000年にチェース・マンハッタンとの経営統合を選択し、再び投資銀行として活動するに至った。
営業拠点
かつてはマンハッタンのダウンタウンにあるチェース・マンハッタン・プラザが本社だったが、現在はパーク通り270番地にグループ全体の統括本部を置く。リテール部門のチェースは、2004年に買収したバンク・ワンの本拠地であるシカゴに移っている。クレジットカード部門の本部はウィルミントンにある。
テキサス州地盤のテキサス・コマース・バンクを買収した経緯から、同州のヒューストンが南部における総代理店としての役割を担っている。この他主要な支店はフェニックス、コロンバス、フォートワース、インディアナポリスなど。
9.11テロ後の政府助成金
BBCニュースは、JPMチェースが、ニューヨークのダウンタウンからコネチカット州に移転しないことを確約する助成金を受け取ることで、ニューヨーク市/州と合意したと報じた[6]。アメリカ同時多発テロ事件以降、他の企業も同様の助成金を受け取っていたが、JPモルガン・チェースに対してのそれは最大であった。
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- ナショナルリーグ西部地区に所属するアリゾナ・ダイヤモンドバックスのスポンサーであり、そのホームスタジアムのチェイス・フィールドの命名権を取得している。もとはバンク・ワンによるスポンサー・命名権取得であり、バンク・ワン・ボールパーク(B.O.B.)として親しまれていたが、合併に伴い変更された。
- 米国のプロサッカーリーグ「メジャーリーグサッカー」の公式スポンサー。
- テニスの4大国際大会の1つである「全米オープン」の公式スポンサー。
参考文献
- ↑ テンプレート:Cite web
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- ↑ 広瀬隆には1986年の『億万長者はハリウッドを殺す』(講談社)などロックフェラーとモルガンの2財閥を軸にして近現代史を読み解くものや、主にロスチャイルド財閥を扱った1991年の『赤い楯』(講談社)などの作品がある。
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関連項目
外部リンク
- JPMorgan Chase & Co.(英語)
- JPモルガン(日本語)