モルガンお雪
モルガンお雪(モルガンおゆき、明治14年(1881年)11月 - 昭和38年(1963年)5月18日)は日本の芸妓。本名は加藤ユキ、芸妓名は「雪香」、洗礼名はテレジア。
来歴
士族の家系に生まれる。姉は祇園でお茶屋兼置屋『加藤楼』を経営しており、その縁で14歳で芸妓となる。歌舞に優れており、特に胡弓を得意とした。
1901年(明治34年)、当時30歳のアメリカ人の富豪ジョージ・モルガンと出会い、求婚された。当時20歳のお雪には当時京都帝大に10歳年上の川上俊介という恋人がいたが、この騒動が新聞に掲載されたために破局。
1904年(明治37年)1月20日、当時4万円という莫大な身請け金によりモルガンに引き取られ、横浜で結婚。「日本のシンデレラ」と呼ばれ、「玉の輿の日」が制定されるほどの話題となる。
ジョージとアメリカに渡るが、排日法によりアメリカへの帰化は許可されなかった。
1905年(明治38年)、一時帰国するが、「金に目がくらんだ女」などとマスコミに囃し立てられ、世間の好奇の目は変わらなかった。
2年ほど日本で暮らした後、渡欧してフランスのパリに移り、現地の社交界で大変な評判を呼ぶ。
1915年(大正4年)、34歳。夫ジョージが44歳で心臓麻痺で死去。その後、遺産相続をめぐる夫の一族との裁判に勝ち、60万ドル(当時)という莫大な資産を得るが米国籍を剥奪される。欧州に渡り、フランスで悠々自適の生活を送る。
1916年(大正5年)、新しい恋人の陸軍士官サンデュルフ・タンダールとマルセイユに移り、同棲する。結婚はせず、ジョージから受け継いだ莫大な遺産を、タンダールの学問援助に費やす。タンダールと再婚しなかったのは、再婚すると遺産をモルガン家に没収される可能性があったためではないかと言われている。
1938年(昭和13年)、第二次世界大戦勃発により欧州が不穏化。家族の世話をするため京都に帰る。戦局が逼迫するとモルガン家からの送金も途絶え、さらに国籍の無くなったままのお雪は特高警察に目を着けられて、軍政下で財産を差し押さえられる。
日本敗戦後、遺産相続権を回復。キリスト教の洗礼を受け、以後は一カトリック信者として紫野(京都市北区)の大徳寺門前の小家に隠棲。余生を送った。
1963年(昭和38年)、死去。81歳。
人物・エピソード
明治34年に、芝居小屋「千本座」を建てた牧野省三は、伯父の勧める結婚を避けて祇園の茶屋酒の夜遊びを重ねていた。この放蕩の間に、祇園「加藤楼」の芸妓だったお雪と懇意になった。明治34年春、牧野はこのお雪からモルガンなる「鷲鼻の毛唐から身請けの話がある」と相談を持ちかけられた。省三は「そりゃおもしろいな、しこたま金を吹っかけてやれ。そやな、四、五万円くらい吹いてみい」と冗談めかして云った。
それから数日後、「四万円の貞操」というセンセーショナルな大見出しで、新聞にお雪身請けの記事が顔写真入りで派手に書き立てられ、省三はお雪と別れなければならなくなった。省三はこの切ない恋物語を台本に書いて『モルガンお雪』の題で千本座の舞台で上演、大ヒットさせている。マキノ家とは戦後帰国してのちも交流があった[1]。
東福寺の塔頭・同聚院に墓がある。また、鹿苑寺(金閣寺)の裏にあるカトリックの墓地にも分骨されている。カトリック衣笠教会の建立(昭和33年)は彼女の寄付によるものである。
モルガンお雪が登場する作品
舞台
- 『モルガンお雪』 明治34年、京都千本座
- 『モルガンお雪』 昭和26年、東宝
- 『夜明けの序曲』 昭和57年、宝塚歌劇団花組
- お雪を演じたのは松本悠里。
伝記
- 『実話 モルガンお雪』大正5年
- 関露香著。
- 『祇園のお雪 モルガン夫人の生涯』昭和23年
- 長田幹彦著。
- 『モルガンお雪 愛に生き信に死す』昭和50年
- 小坂井澄著。
- 『モルガンお雪』昭和59年
- 小坂井澄著。
「玉の輿の日」
- お雪がモルガンと結婚した1月20日を記念して定められたもの。
脚注
参考文献
- 『モルガンお雪 愛に生き信に死す』(小坂井澄、講談社)
外部リンク
- MORGAN_O-YUKI(英文)