キリスト教
キリスト教(キリストきょう、基督教、テンプレート:Lang-el、テンプレート:Lang-la、テンプレート:Lang-en)とは、ナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教[1][2]。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる[2]。その多く(正教会[3]・東方諸教会[4]・カトリック教会[5]・聖公会[6]・プロテスタント[7][8][9][10]など)は「父と子と聖霊」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。
世界における信者数は20億人を超えており、すべての宗教の中で最も多い[11]。
目次
教派と信徒数
教派
キリスト教は、その歴史とともに様々な教派に分かれており、現在はおおむね次のように分類されている[12]。
信徒数
世界全体
世界におけるキリスト教徒(キリスト教信者)の数は、2002年の集計で約20.4億人(うち、カトリック約10.8億人、プロテスタント諸派計約3.5億人、正教会約2.2億人、その他教派約3.9億人)であり、イスラム教徒11億人、ヒンドゥー教徒10.5億人を超えて、世界で最大の信者を擁する宗教である[13]。なお、ここでいうキリスト教信者とは、洗礼を受ける等公式に信者と認められた者の意で、必ずしも積極的に信者として活動しているものを意味しない。
アジア地域
テンプレート:See also アジア諸国をみると、韓国は第二次世界大戦後に福音派のリバイバル運動でキリスト教徒の数が急増し、仏教徒25%に対して、プロテスタント20%・カトリック7.4%となっている[14]。フィリピンは、カトリック83%、それ以外のキリスト教10%、イスラム教5%となっている[15]。その一方で、ベトナムは仏教徒が80%[16]であり、中国は公式統計は不詳だが無宗教が多数派とみられ、それ以外では歴史的にも道教・仏教が主であってキリスト教の信徒数は極めて少ないと推定される。また、中央アジアでは正教会、西アジアでは東方諸教会の信徒が少ない割合で存在している。韓国・フィリピン・東ティモールを除けばアジア諸国では、仏教、道教、ヒンドゥー教、イスラム教のいずれかの信徒が多数派を構成していて、キリスト教の信徒は少数派である。
日本国内
テンプレート:Main 日本国内ではキリスト教の信徒数は約260万人程度であり人口比では明治維新以後に1%を超えた事は無く(日本におけるカトリック信徒の人口比率は0.3%程度であるが長崎県では約4%である)[17]、神道約1億600万人あるいは仏教約9,200万人という数字に比すと少数派である。G8の国々の中で、人口構成上キリスト教徒が多数派でない国は東アジアの一員である日本だけという特徴がある。なお、これらの信徒の数を単純に合計すると日本の人口を遥かに超えるが、これは各宗教による自己申告の数値であり、また、1人が複数の宗教に帰属することによる重複があることも1つの要因と考えられる(「日本の宗教#国民と宗教」を参照)。
日本では、行政や文化政策において、国民の信仰が何であるかということは重要視されていないため、詳細な統計は行われたことがない。そのため、日本国内のキリスト教徒に限らず、神道、仏教なども含めて、全宗教の正確な信徒の数は不明である。
教義・教理
キリスト教における正統教義・正統教理では、神には同一の本質を持ちつつも互いに混同し得ない、区別された三つの位格、父なる神と子なる神(キリスト)と聖霊なる神がある(三位一体)とされる[18][19][20]。正教会[3]、東方諸教会[4]、カトリック教会[5]、聖公会[6]、プロテスタント諸派[7][8][9][10]といった主要教派の全てが、この教義・教理を共有している。アダムとイヴの堕罪以降、子孫である全ての人間は生まれながらにして罪に陥っている存在であるが(原罪または陥罪)、(神にして)人であるイエス・キリストの死はこれを贖い、イエスをキリストと信じるものは罪の赦しを得て永遠の生命に入る、という信仰がキリスト教の根幹をなしている。
キリスト教の正統教義・正統教理を最も簡潔に述べているものが信条(信経)である[21][22]。もっとも重要なものとしてニカイア・コンスタンティノポリス信条(381年に成立)と、それとほぼ同じ内容を含むがやや簡略で、西方教会で広く用いられる使徒信条(成立時期不明。2世紀から4世紀頃か)がある。信条は教会内に存在した異端を否定するために成立した経緯があり[23]、現在テンプレート:いつも洗礼式や礼拝で信仰告白のために用いられる。これら信条は現在テンプレート:いつのキリスト教の主流派のほとんどの教派が共有する[24]。
信条
以下に、ニカイア・コンスタンティノポリス信条によるキリスト教の基本教義を示す。
- 神は三位一体である。
- 父は天地の創造主である。
- 子なる神イエス・キリストは万物に先立って生まれた父の独り子である。したがって被造物ではない(アリウス派の否定)。また子は父とともに天地を創造した。
- キリストの聖母マリアからの処女生誕。地上におけるキリストは肉体をもった人間であり、幻ではない(グノーシス主義や仮現説の否定)。これはわたしたち人類を救うためであった。のち、キリストの人性についての解釈の違いから東方諸教会が生まれた。
- キリストは罪人としてはずかしめられ、十字架上で刑死したが、三日目に復活した。昇天し、栄光の座である「父の右に座している」。キリストは自らの死と復活によって死を克服し、人類をもまた死から解く正当な権能を得たと信じられる。
- キリストは再臨し、死者と生者すべてを審判し、その後永遠に支配する。
- 聖霊も神(=位格をもった存在)である。聖霊はイエスの地上での誕生に関係し、また旧約時代には預言者を通じてその意思を伝えた。聖霊もまた被造物ではない。なお聖霊は父から生じたか、それとも父と子両者から生じたかは後世議論の的となり、カトリック教会と正教会の分裂の契機となった(フィリオクェ問題)。
- 教会の信仰。新約聖書では教会を、イエスの意思によってたてられた地上におけるイエスの象徴的身体であり、聖霊がその基盤を与えたとする。そのような理想的教会は、時間と空間を超えた統一的な存在であり(一性)、神によって聖とされ(聖性)、万人が参加することができ(普遍性)、イエスの直弟子である使徒たちにつらなるものである(使徒性ないし使徒継承性)と信じる。これを実現することが信者の務めである。キリスト教信仰は、他者との歴史的また同時代的共同(交わり)の中にのみ成り立つもので、孤立した個人によって担われるものではない。なお使徒性ないし使徒継承性については、西方教会では意見の相違がある。
- 洗礼(バプテスマ)。父と、子と、聖霊の御名による洗礼。洗礼による罪の赦しを信じる教会においては、神すなわち「父と子と聖霊」の名において教会においてなされる洗礼は、時代や場所や執行者に左右されず、ひとつのものであり、それまでに洗礼を受けるものが犯した罪を赦すとされる。洗礼を受けることは信者となって教会に入ることであり、またキリストの死による贖いを信じうけ認めることでもある。ここから、罪を赦された後=入信後は、信者はその赦しに応えて再び罪を重ねないように努力するべきであると信じられる教会もある。ただし、聖霊による新生を信じる教会では、成人の場合新生したキリスト者のみが洗礼資格を持つとし、洗礼による新生を退ける[25][26]。
- 死者の復活と来世の生命。上述のようにキリストの再臨において、すべての死者は審判を受けるべく復活させられる。信じるものには来世の生命が与えられる。伝統的にキリスト教では、この来世を、永遠、つまり時間的な持続をもたない永遠的現在と解する。
またこれに加えキリストの死(ないし犠牲)を記憶することも信者の重要な義務である。これは礼拝においてパンとぶどう酒を用いてなされる。プロテスタント以前に成立した教会では、パンとぶどう酒が祈りによりキリストの体(聖体)と血に変化すると信じる。カトリックでいうミサ、正教会でいう聖体礼儀はこの記憶を行うための礼拝である。教義を異にし聖体の概念を否定するプロテスタントでも、類似の儀式を行う。これを聖餐という。キリスト教最大の祭である復活祭は、この聖餐をキリストが復活したと信じられる日に行うもので、毎年春に行われる。
教義には教派ごとに若干の変異がみられる。カトリック、聖公会、プロテスタントなどの西方教会は、聖霊を「父と子両者から発し」とし、東方の「父から」のみ発するとする立場に対立する。またプロテスタントとカトリック他の伝統的教会では教会についての教義に差があり、使徒の精神を共有することをもって使徒性と解するプロテスタントに対し、カトリック他では聖職者が先任者から任命されることに神聖な意義を認め、その系譜が使徒にまでさかのぼること(使徒継承性)を教会の正統性の上で重視する。また聖餐論においても、カトリックや正教会など伝統的教会とプロテスタント諸派の間には大きな意見の差がある。詳しくはそれぞれの教派の項を参照されたい。
異端
キリスト教における異端は、上記を代表とする信条に外れた教理を持つグループに対して使われる。
異端には「神概念を多神論的に解釈する」「キリストの人性のみか逆に神性のみしか認めない」「キリストの十字架(贖罪)と復活を認めない」「聖霊を人格的存在(厳密には「人」ではないので、位格的存在)ではなく神の活動力とする」「キリストを被造物とする」などといった考えを持つものがある。
次の3団体については正教[27][28][29]、カトリック[30]、聖公会[31]、プロテスタント[32][33][34][35]のいずれからも異端とみなされている。
聖霊を神の活動力とし、キリストを被造物とする理由からエホバの証人が、三位一体を否定し聖書以外に聖典を持つ理由から「モルモン教」がこれに該当し、多くの正統キリスト教から異端とされている。「統一教会」については、正教、聖公会、カトリック、及びプロテスタント側からすれば、異端でさえなく全く異質な団体とされている。
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組織
職制
テンプレート:See also 正教会、カトリック教会、聖公会は、聖職者制度を有する。聖職者は、主教(司教)・司祭・輔祭(助祭)の三つに大別される。正教会においては主教の中でも高い権限と権威を与えられた9人の総主教が居るが、絶対的な権限権威をもつトップは存在せず、ゆるやかな連合体を形成している。カトリック教会においては教皇が教会の最高指導者であり、その下に枢機卿、大司教等の細分された位がある。
一方、宗教改革以降成立したプロテスタント諸教会には、万人祭司の教理から聖職者を設けず、教職として按手礼を受けた牧師をおくものが多い(牧師は「聖職者」とは位置づけられない)。教職の他に教会政治(管理)に長老、監督といった役職を置く事もある。
正教会、カトリック教会においては、女性は聖職者になることができない[36]が、聖公会、プロテスタントでは女性教職は珍しくない[37][38]。
現代では教派によらず、聖職・教職に就くには神学校等で数年の専門的訓練を受けるのが一般的である。
正教会・東方諸教会・カトリック教会・聖公会・一部のルーテル教会には神に生涯を捧げる信者がいる。これを修道者(修道士)という。修道者は必ずしも聖職者ではなく、多くは平信徒である(ただしカトリック教会においては、修道者と信徒は区別されている)。修道者は独身でなければならない。修道生活は3世紀ごろ、他宗教の先行例を模倣しつつエジプトで始まったと考えられている。元来は砂漠で一人行われることが多かったが、すでに古代に集団生活をする例が知られており、中世以降、修道院で行われることが普通である。カトリック教会においては、修道会という独自の組織があり、ローマ教皇に直属する。現代のカトリック教会では、修道士・修道女はなんらかの修道会に所属している。どの教派においても、正式に修道者となるためには、数年の準備期間があり、十分な準備が出来た者のみが修道生活に入る。準備段階、またまれに修道者となった後で、世俗の生活に戻る者もある。
教会
一般的な教派では、信者はみなどこか特定の教会に所属している。これを教会員制という。欧米では洗礼記録により、必要に応じて信者であることの証明(洗礼証明書)を受けることが出来る。日本の教会では教会籍という制度で、洗礼による教会員の新規入会、転会、死去などを記録、管理する例が多い[39]。
教会員の多くは、居住地近隣の教会に所属するが、必ずしも自宅からもっとも近くの教会に属す義務があるわけではない。教会の規模はまちまちであり、日本では、都市部の巨大教会では、1万人を超える信者が所属するところもあり、地方の小教会では信者が10人前後の場合もある。
複数の教会を持つ教派では、管轄範囲を地理的区分によって分けることが多い。これを教区という。カトリック・正教会・聖公会など監督制教会の場合、教区の中心となるのは、主教座聖堂(司教座聖堂)である。教区にはいくつかの教会が所属する。一部教派では、教区はさらに教会を単位とする小教区に細分される。また、いくつかの教区をさらに統括する区分を設置する場合もある。複数の教会からなる教会(教派)に対し、ひとつの教会だけで一教派をなすものを単立教会という。単立教会は原理的にプロテスタントである。教義の近い単立教会が連合した協力組織も存在する。
信徒が転居などに伴い、同一教派の教会から他の教会に移籍すること(転会)も必要に応じて行われる。 これに対して、所属教派自体を変えることは、場合によっては宗教を変える(改宗)に等しいインパクトを持って受け取られる。カトリックでは自教派に改宗することを「帰一」、正教では「帰正」という。プロテスタント教会では多くは単に転会という。洗礼は大抵の教会間で他の教会のものも有効と認めるが、他の秘跡については認めないことが多い。聖餐の共有は聖餐理解が教派ごとに異なることを反映して複雑であり、本項では詳述しない。
キリスト教徒の生活
テンプレート:See also 本項ではキリスト教徒の生活について解説する[40]。 キリスト教の信者をキリスト教徒または「クリスチャン(ハリスティアニン)」という。『使徒行伝』によると、この呼称は1世紀半ばにアンティオキアで初めて用いられた。原義はキリスト支持者というほどの意味である[41]。日本では古くは「キリシタン」と呼ばれた[42]が、現在はこの呼称は用いられない。
多様化する現代のキリスト教世界において、キリスト教信者の一般的な生活を描くことは、それが細部に及べば及ぶほど、困難である。以下の記述は最大公約数を述べたものであって、これに当てはまらないキリスト教徒も一定数いる。
クリスチャンの範囲については、伝統的には洗礼を受けたもののみを信者とみなしているが、最近では特に自由主義神学といわれるキリスト教徒のなかに、(少数ではあるが)ナザレのイエスに従う者は信仰・洗礼の有無によらずクリスチャンであると主張するものもいる[43][44]。プロテスタントのなかには洗礼を行わない教派もあるが、1846年の福音主義同盟の会議は洗礼の義務と永続性を確認している。また福音派は新生を強調する。
将来的に洗礼を受けることを前提に、教会と交わる者を求道者(きゅうどうしゃ、カトリックおよびプロテスタントの用語)、啓蒙者(正教会の用語) などという。洗礼を受けるための条件やその式次第などは、教派によって異なる。詳しくは、洗礼の項を参照。
信者が行う祈祷行為のうち、司祭や牧師らにより執行される公のものを礼拝・公祈祷等という。信者でないものも列席することができるが、聖餐(聖体拝領・領聖)には与ることが出来ないのが一般的である。ほとんどの教派では定期的な公の礼拝を行う。公の礼拝は形式があらかじめ定められていることが一般的である。典型的な形を示すと、祈祷・聖書の朗読・聖体ないし聖餐にかかわる儀式がなされ、また司祭や牧師らによる説教が行われる。ここでの祈祷はしばしば歌唱を伴った聖歌や賛美歌のかたちで行われる。席上、信者からの献金が集められることが普通であるが、献金は義務ではない。信者となったものは、それぞれの教派の聖餐に与ることができる。パンとぶどう酒がキリストのまことの肉と血になるという聖体の教義をもつ教派では、これを、ミサ、聖体礼儀と呼ぶ。他教派の類似の儀式に参加を許されるかどうか、また自教派が特定他教派の類似の儀式に参加を許すかどうかは、それぞれの教派によって考え方を異にする。またプロテスタントの教会のなかには、洗礼を受けていないものにも聖餐への参加を許すものがある。聖餐のあと、短い祈りがあり、終了が告げられて礼拝が終わる。礼拝全体の時間は、教派によって異なるが、1時間から2時間ほどである。ほとんどの教派は日曜日を重視し、これを主日と呼んで共同の礼拝を行うが、少数ながら土曜日を公の礼拝の日とする教派も存在する。詳しくは、祈祷・典礼・奉神礼・ミサの項を参照。
最初期の教会では、ミサ(聖体礼儀)などの礼拝行為への参加、定期的な断食などの義務があった。これと歴史的に連なる伝統的な諸教派では、信者に、年に決まった数以上の聖体拝領・断食・告悔(痛悔)の義務などの信仰実践が教会法によって義務付けられている。その一方で、現代は各教派とも、あまりこうしたことを強調しない傾向がある。それぞれの教派ごとに課せられる信仰実践の義務と恩沢については、秘跡および各教派ごとの記事を参照されたい。
公の礼拝行為のほかに、ほとんどの教派では、私的な祈りを共同で行う会や勉強会などを開いている。こうした会合はあまり大々的に宣伝されることがないが、たいていの場合、信者以外でも参加することが出来る。宿泊を伴うものもある。修道院をもつ教派では、教会のほか、修道院でも修道会に所属しない一般信者を対象にそうした集まりを主宰することがある。
信者は所属する教会を中心に、年齢別・性別の任意団体に加わることができる。児童たちは一般の礼拝と別に開かれる教会学校(日曜学校)に参加して簡単な教義を教えられ[45]、青年会、婦人会や壮年会が分担して施設の清掃・維持・修繕、典礼の補助、教会の運営、他教会との交流行事などを行っている[46]。多くの教会では、こうした団体への参加は義務ではない。
また、教義上の義務ではないが、キリスト教は、隣人や貧者への善行を伝統的に奨励しており[47]、このため病人や旅行者あるいは貧者を対象とするキリスト教関係者の慈善活動は古来より盛んに行われた。現在テンプレート:いつ慈善の意でもっぱら使われる「チャリティー」はラテン語で愛(ギ・アガペー)を意味するカリタスが英語化したものである。このような流れは、現代における社会福祉活動にも少なからず繋がっている。
近世までのキリスト教の歴史
テンプレート:Main 紀元1世紀、イエスの死後に起こった弟子の運動(初期キリスト教運動)が、キリスト教の直接的な起源である。この時期のキリスト教徒はユダヤ教との分離の意識をもたなかったとする学説が現在は主流を占める。それによれば、70年のエルサレム神殿崩壊後、ユダヤ教から排除され、またキリスト教徒のほうでも独立を志向して、キリスト教としての自覚を持つに到ったとされる。
ローマ帝国治下でキリスト教は既存の多神教文化と相容れず、それを批判し、また皇帝崇拝を拒んだため、社会の異分子としてしばしば注目された。キリスト教は国家に反逆する禁教とされ、信徒は何度かの弾圧を経験した。しかし4世紀初めにコンスタンティヌス1世により公認され、その後テオドシウス1世によりローマ帝国の国教とされ、キリスト教以外の他宗教(ミトラ教など)を圧倒するに到った。
キリスト教は歴史上、5回の大きな分裂を経験した。ただし教会歴史学者の多くは、第1回から第3回までを「異端の糾弾」として捉えて、第4回と第5回のみを「分裂」としてみている。しかしこの捉え方は、中世以降に多数派となったカトリック教会や正教会が自己の正統性を主張する観点に立ったもので、わずかな信徒数を残すのみとなったネストリウス派ならびに単性論教会、そして完全に消滅したアリウス派を「異端」として一方的に蔑視しており、中立的な歴史観ではない。
アリウス派とアタナシウス派
最初(1回目)の分裂は4世紀半ばのアリウス派とアタナシウス派の分裂である。厳格な一神教論(唯一神教)に基づいて創造神である聖父のみ唯一神(イザヤ書43章10節)として神性を認めて被造物キリストの人性を主張したアリウス派は、神学・教義も強固だったうえ、最初のローマ皇帝の入信(コンスタンティヌス1世の受洗)やゲルマン人に多くの信徒を得るなど歴史的な意義も大きかった。しかし、西暦325年の第1ニカイア公会議で三位一体論に基づいたアタナシウス派の聖子キリストの両性(神性・人性)が正統教義とされ、アリウス派は異端とされた。その後もガリア地方などでゲルマン人の信徒を拡大して一時的に教勢は増したものの、やがてローマ教皇下でアタナシウス派が積極的な布教活動に出て、中世までにはゲルマン人がアリウス派からアタナシウス派(中世以降のローマ・カトリック教会)に改宗していったため、今日テンプレート:いつではアリウス派の教会・信徒は、もはや消滅している。
ネストリウス派
2回目の分裂は、5世紀半ばのネストリウス派の離脱である。ネストリウス派はキリストの両性を認めたものの、神性・人性の区分を主張し、マリアは人性においての母であって、「キリストの母(クリストトコス)」とまでは認めても、「神の母(テオトコス)」というかたちでのマリア崇敬を拒否した。431年のエフェソス公会議でキリストの神性・人性は不可分という説が正統教義とされ、ネストリウス派は異端とされた。現代の研究では、これは教義の問題だけでなくむしろ政治的な事情により大きくよるものであるとする指摘がある。ネストリウス派はローマ帝国を離れて、その後アジアで多くの信徒を獲得した。ペルシア帝国内では、ゾロアスター教、マニ教に並ぶ大きな宗教勢力となり、中央アジアや中国(景教)にも伝道した。一時は隆盛を誇り、信徒の分布からいえば世界最大のキリスト教勢力であったが、イスラム教の台頭により著しく衰退した。今日テンプレート:いつでは、アッシリア東方教会等、中東を中心に少数の信徒がいる。
非カルケドン派
3回目の分裂は、東方教会におけるエジプトやシリアの教会といった非カルケドン派(東方諸教会、いわゆる単性論教会)の離脱である。キリストにおいて人性は神性に吸収され一つの神性を持つという単性論は、451年のカルケドン公会議で異端とされた。ただし、これらの教会は自らの教義を「単性論」とみなすことを否定している。現在テンプレート:いつでは「互いに相違のない同じ信仰を、異なった表現で説明した為に起こった不幸な誤解と分裂」という認識が東方諸教会と両性説の教会の間で強くなってきている。東方教会の分裂は、中近東地域でのキリスト教ひいては東ローマ帝国の弱体化につながり、やがて7世紀にはこの地方でイスラム教に勢力を奪われる結果となった。とはいえ東方教会は国家と宗教が結びついたローマ・カトリックと異なり、東ローマ帝国に対しては自立的な態度を保っていた。分裂が発生したのはこうした非国家的態度である修道意識の産物であり、東ローマ帝国の弱体化と直接に結びつけられるわけではない。現在テンプレート:いつ、非カルケドン派諸教会にはアルメニア使徒教会、シリア正教会、コプト正教会、エチオピア正教会等がある。
東西教会の分裂
テンプレート:Main 4回目の分裂は、東西教会の分裂(大シスマ)である[48]。9世紀ごろから対立が顕在化し、1054年にローマ教皇とコンスタンディヌーポリ全地総主教が相互破門しあうに至る。教義的には、東方教会が聖霊の流出を「父から」とするのに対して、ローマ教会が「父と子から」と改変したことに起因する(フィリオクェ問題)。西方教会側からは分裂の主な要因を政治的・文化的な問題、つまり西ローマ帝国崩壊後に神聖ローマ皇帝の下に徐々に政治的に結集してきた西ヨーロッパ世界が、東ローマ帝国に独立・挑戦したこととみなす傾向が強いが、東方教会側は教皇首位説などについての教義的な要因を主なものと看做す傾向が強い。但し、1054年の「相互破門」は20世紀になって両教会から相互に解かれているが、分裂の解消にまでは至っていない。
カトリックとプロテスタント(宗教改革)
5回目の分裂は、16世紀に起こった西方教会での宗教改革によるプロテスタント諸教会の誕生である。宗教改革によるプロテスタンティズムの誕生は、やがて近代ヨーロッパのヒューマニズム興隆や政教分離へと繋がることになる。
これらの分裂の結果、現在、キリスト教世界には、東地中海沿岸や東欧諸国などに広まる正教会、ローマ教皇を中心とするカトリック教会、それに対抗して発生した多くの諸教会、諸教団(総称してプロテスタントと呼ぶ)のほか、イラクのアッシリア東方教会(ネストリウス派)およびその分枝であるインドのトマス派教会(マラバル派)、非カルケドン派であるエジプトのコプト正教会・その姉妹教会エチオピア正教会・シリアのシリア正教会(ヤコブ派)・コーカサス地方のアルメニア使徒教会などの東方諸教会が存在する。
キリスト教発展の理由
ユダヤ教内の一分派から出発したキリスト教が、世界最大の宗教に発展した理由はもちろん単純なものではない。歴史的にみても、何度かあった社会環境や世界情勢の変化にキリスト教はその都度対応していった。
まず、『使徒言行録』の中にも描かれているように、キリスト教会はかなり初期の段階でユダヤ文化の外部にいる異邦人への宣教を積極的に行った。そして、異邦人改宗者に対してはユダヤ教の定める割礼や、細かな食物禁忌を緩めた。これが、ユダヤ教の枠を超えてキリスト教が地中海世界に広がっていく条件を整えたとされている。
当時のヘレニズム・ローマ時代は密儀宗教が流行していたが、これらは主にオリエントを起源としながら普遍主義的な目的を説いていた。エジプト起源のオシリス・イシス教、プリュギア起源のアッティス教、ペルシア起源のミトラ教、あるいはギリシア起源のディオニュソス教などである。キリストの死と復活を思い起こしながら、パンとぶどう酒をキリストの肉と血として共食する聖餐式を持つキリスト教もまた、こうした密儀宗教のひとつとして広がったと考えられている[49]。
キリスト教はローマ人の多神教を批判したことや皇帝崇拝を拒否したことなどから弾圧を受けたが、こうした競合宗教から抜きん出て国教化される。これについては、寡婦・孤児・老人の世話を行い、疫病や戦災にあたっては負傷者を看護して死者を葬るような、平等と慈愛と同胞愛を実践するよく組織化された共同体を作り上げることに成功したからだと説明されている(ただしキリスト教の立場からの護教論的説明であることに注意)[50]。また、著書「ガリラヤ人どもを駁す」でキリスト教を批判し、キリスト教の特権を破棄したことで有名なユリアヌス帝も、キリスト教徒は救護施設を運営して他者に対する人間愛を実践し、死者の弔いに対して丁寧であり、真面目な生活倫理をもっていると書簡の中で認めている[51]。
西ローマ帝国滅亡後の西方においては、教会は人々の誕生(洗礼)、結婚、死(葬儀)に関与し、人々の生活を律する組織として機能して、その地位を揺ぎ無いものとした。さらには修道院という組織を確立した西方キリスト教は、ヨーロッパ中世において学問を独占し、その影響力を強化した。
東方においては、キリスト教は中東・アフリカではイスラームに押されて衰退したものの、東ローマ帝国内では正教会が修道院を西方より早く発展させ、修道院は奉神礼を整備・発展させた。また古典文化もマケドニア朝ルネサンス・パレオロゴス朝ルネサンスにみられるように保存され、文化先進地域として周辺異民族を惹きつけつつ、主に東ヨーロッパへと布教範囲を広げていった。
近代になると、西欧諸国はアジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの各地を侵略して植民地化を推進し、それと平行して西方教会の海外宣教が進んでいく。圧倒的に優勢な軍事支配力や科学技術力、その他を背景に、世界各地の西欧文明化とキリスト教化が政教両面での支配が図られた。しかしながら、イスラム教や仏教、ヒンドゥー教など高度に体系化された宗教が浸透していた地域では、キリスト教への改宗は小規模にとどまることが殆どだった。
近現代におけるキリスト教の展開
宗教改革後の啓蒙時代に入ると、神による啓示を基礎に置いた従来のキリスト教のあり方に疑問が出されるようになる。人格神を否定する理神論から始まり、啓蒙期以降は神を論じることの無意味さを説いた不可知論、汎神論、あるいは無神論など、それまでのキリスト教神学に収まりきらない思想が展開される。そして、フランス革命などの市民革命によって西ヨーロッパ社会が大きく脱教会化され、民衆のキリスト教離れが進行した。マルクスは「聖書は神聖だが、宗教はアヘン」とする共産主義を標榜し、原始キリスト教と同様の共有を理想に掲げ、キリスト教と競合する社会運動として現れる。キリスト教が社会に対してその影響力を大きく減じていくことになる中で、各宗派がいかに展開してきたかを以下に概観する。
カトリック教会の展開
カトリックでは宗教改革に対抗する形で組織強化が行われ(対抗改革)、イエズス会やフランシスコ会などが海外宣教などを積極的に展開した。しかし、世俗社会への影響力は近代を通じて確実に減じて行った。ローマ教皇領はナポレオン1世によって没収され、ウィーン会議で復活するものの普仏戦争で縮小し、1861年のイタリア王国の成立で消滅に至る。1929年のラテラノ条約でバチカン市国が成立しているが、これは象徴的な独立国家でしかない。
こうした傾向に危機感を抱き、ローマ教皇への権力集中を唱えるウルトラモンタニズムが勢いを増し、カトリックは反近代指向を強めていった。1846年には啓蒙主義、自由主義、共産主義を排斥するための「誤謬表」(sillabo、シッラボ)を公布し、教皇首位説と教皇不可謬説を公式教義とし、他教派に対して不寛容な態度を取り続けた。さらに第一次世界大戦以降イタリア、ドイツ、スペインなどのファシズムに妥協的態度を取り、特にスペイン内戦ではフランコ派に協力し、第二次世界大戦ではナチスのユダヤ人虐殺ほかの残虐行為を黙認したという批判もある。
しかし第二次世界大戦後、カトリック教会内部から大規模な改革の必要が叫ばれ、1960年代に至ってヨハネ23世の元で開会した第2バチカン公会議にて現代に生きるカトリック教会の方向性が定められた。その中ではプロテスタントや東方諸教会との対話であるエキュメニズムに加え、他宗教との対話の必要性も唱えられた。また科学と聖書学の尊重、各国語による典礼実施の推進、現代社会との連帯という方向性を確認した。この改革が規模と内容において16世紀の宗教改革にも匹敵することから、「第二の宗教改革」と呼ばれることもある。ガリレオ・ガリレイの宗教裁判の見直しと撤回(1992年)などに、こうしたカトリック教会の過去の過ちを認めて自ら正すという姿勢が見られる。
現在もカトリック教会は避妊や妊娠中絶を認めず、時代錯誤だと批判されることもある。また、司祭の独身制の堅持についても批判されており、特に近年の米国において、カトリック聖職者による性的幼児虐待が多数明るみに出たことで、その歪が批判されている。こうした影響もあり、西ヨーロッパでの教勢は低下し、主日(日曜日)のミサに参加する信者は少数派になっている。
中南米は、スペイン・ポルトガルの植民地であった関係上、カトリックの宣教がもっとも成功した地域であり、信者が減少しつつある現在でも比率は大変に高い。この地域では20世紀になって解放の神学と呼ばれる思想が起こった。これはキリスト教社会主義運動の一形態とみられており、民衆の中での社会運動の実践こそが福音そのものであるという立場を取る。その左翼的側面から中傷されることも多く、カトリック内でも拒否反応を示す聖職者も少なくない。
アジア地域でのカトリック宣教が成功したのは、やはりスペインやポルトガルの植民地であったフィリピンと東ティモールであり、その他の地域のカトリック人口は少数派に留まった。例外は韓国であり、第2次世界大戦後プロテスタントと共に信徒数が急増している。中国においては、1949年に共産党政権が成立すると外国人司教は全て国外に退去し、1951年中国とバチカンは断交した。その後、中国はローマ教皇の任命する司教や司祭を一切認めず、政府公認の中国天主教愛国会のみをカトリック教会として扱うようになり、カトリック信徒を政府のコントロール下においた。だが政府に従わない地下教会が組織化されているとも見られており、この問題については今も中国とローマ教皇庁との間で政治交渉が続いている。
プロテスタントの展開
プロテスタントではルター派がドイツ北部や北欧に広がり、それとは別にカルヴァンの影響を受けて改革派教会(カルヴァン主義)が大陸で展開した。そしてジョン・ノックスのスコットランドを経由した長老派教会はイギリスやアメリカにも広がった。また、イギリスではイングランド国教会(聖公会)が1534年にカトリックから分離しておりプロテスタントに分類されている。
またアメリカ合衆国では建国以来、信教の自由を保障したことと移民を広く受け入れてきたことからプロテスタント系諸教派が競い合って、多様なキリスト教信仰が展開している。教派を跨る形で大覚醒(Great Awakening)を代表とする信仰復興運動、再臨運動、異言を伴うペンテコステ運動などが起こり、これが新たな教派を形成し、ヨーロッパなどにも波及した。
さらにマックス・ヴェーバーの有名な学説『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が指摘したように、ピューリタン(主に長老派信徒)の影響が強いイギリスとアメリカで資本主義が驚異的に発展する。そして、それらの富める国力とアメリカで勃興した信仰復興運動を背景にプロテスタントも19世紀頃から海外宣教に積極的に乗り出していくことになる。
ドイツに発した自由主義神学に対し、英国の福音主義同盟は1846年、9か条からなるプロテスタント福音主義信仰の基準を告白した。また20世紀初頭、アメリカ合衆国では自由主義神学の是非を巡ってプロテスタント教派(長老派教会、ルター派、メソジスト、聖公会)間で教義論争(メイチェン論争など)が行われ、自由主義神学(リベラリズム)を採用する主流各教派(メインライン)と、聖書の無誤無謬を主張した福音主義(ファンダメンタリズム=根本主義など)とに教派が二分された。しばらくの間メインラインのリベラル派は多数派として政治的主導権を有していたがベトナム戦争が膠着化した1970年代頃のカウンターカルチャー(対抗文化運動)の興勢の中で影響を減じて世俗化し、信者は現在テンプレート:いつ減少傾向にある。
その一方で福音派は、ビリー・グラハムに代表される大衆伝道者などによる大規模な伝道集会や聖会、テレビなどのメディアでの活動や、地域伝道、個人伝道により、多くの改宗者を獲得し、第四次大覚醒とも呼ばれている。またウェストミンスター神学校、ホィートン・カレッジ、フラー神学大学など神学教育機関を充実させ、福音派のクリスチャニティ・トゥディはキリスト教の代表的な雑誌となった[52]。
1974年にはローザンヌ世界伝道会議が開催された。ここに世界中から福音主義プロテスタントが集ってローザンヌ誓約が結ばれ、福音主義信仰が確認された。福音派は大宣教命令から、海外宣教とりわけ東欧圏・アジア・アフリカなどでの活動にも熱心である。
アメリカにおいて1980年代以降は保守的キリスト教やキリスト教右派と呼ばれる勢力が政治的な影響力を持つようになった。彼らの多くは創造論を奉じて進化論を『聖書』と矛盾するものとして退ける。また福音派、キリスト教根本主義、キリスト教右派、ローマ・カトリック、正教は、人工妊娠中絶の合法化をめぐる議論に中絶反対の立場から発言を行っている。
2009年、アメリカにおいて正教会、カトリック教会、福音派の指導者が共同でマンハッタン宣言を発表し、生命の神聖、結婚の尊厳、信教の自由を守るものがキリスト教の立場であることを示し、中絶、同性愛など性的罪を強制する勢力に対して、立ち向かうと表明した。
アメリカにおける近現代史の詳細についてはアメリカ合衆国の現代キリスト教も参照されたい。
正教会の展開
テンプレート:Main ここではロシア正教会と、ギリシャも含めたバルカン半島における正教会の、近現代史の一部概要のみを記す[53]。
ピョートル大帝以降のロマノフ朝の西欧型近代化政策により、ロシア正教会は国家の保護に入ると共に国家の強力な統制を受ける事となった。1721年にはモスクワ総主教座が廃止される。このような統制下でも、18世紀後半にはアトス山から正教修道精神の復興が起きた事も影響し、ロシア正教会の修道精神はなお盛んであった。この頃の著名な修道士にサロフの聖セラフィムなどがいる。
西方教会の影響を脱し正教の伝統的な精神を復興する事が企図された、正教聖師父の信仰を伝える書『フィロカリア』が1792年に出版されると、1793年には教会スラヴ語に翻訳され、ロシア正教会の精神的な再生に寄与した[54]。
20世紀になると共産主義革命によってロシア正教は大きな打撃を受け厳しい状況を耐え忍ぶことになった[55]。弾圧の程度は時期により強弱はあったものの、恒常的に教会は強力な弾圧の下にあった。聖堂外で司祭が祭服を着用して儀礼を行う事は許されず、墓地で正教会の司祭が埋葬の祈りを行う事すらも禁じられていた。それでもロシア正教会は一定の存在力を示し続け、1961年には世界教会協議会に加入した。ソ連崩壊後は、急速に勢力を回復している。
オスマン帝国の支配下にあった地域にあった正教会はコンスタンディヌーポリ総主教庁の管轄下にあったが、1830年にギリシャが王国として独立した事に伴い、ギリシャ正教会はコンスタンディヌーポリ総主教庁から1850年にアテネ大主教を首座とする独立教会としての地位の承認を得た。オスマン帝国の支配下にあったバルカン半島地域がナショナリズムの勃興によって独立国家群を形成していくなか、紆余曲折を経つつ、ブルガリア正教会、ルーマニア正教会、セルビア正教会などが独立教会としての組織を整えていく事になった。これらの教会もバルカン半島における共産主義政権のもとで辛酸をなめた事、共産主義政権の崩壊後に復活を遂げつつあることはロシア正教会と同様である[56]。
現在テンプレート:いつ、正教会には9つの総主教座がある。その中ではロシア正教会が最大の信徒数を抱えており、教会に通う信徒数が3000万 - 4000万人、洗礼を受けた信徒数は約1億人ともされる[57]。このほかの総主教座ではルーマニア正教会の1500万人、セルビア正教会(地域としては旧ユーゴスラビア圏内等)の800万人、ブルガリア正教会の600万人なども抱え[58]、地盤の深さを示している。
東方諸教会の展開
エフェソスおよびカルケドン公会議が異端として排斥したいわゆる東方諸教会の信徒数は必ずしも多くない。しかし、いくつかの地域ではその地域での最も信徒数の多いキリスト教教派でありつづけている。地域宗教の色彩が濃い東方諸教会ではあるが、19世紀以降、アメリカ合衆国やオーストラリアといった移民の多い国では、移民によって教会が立てられ、信徒の分布は広がりをみせている。
エキュメニズムへの取り組み
プロテスタントは、1910年にエディンバラで世界キリスト教会議を開催し、カトリックと正教会の代表に加えて、非キリスト教の諸宗教の代表も招き、教会の対話と一致を協議した。その結果、1948年には世界教会協議会(WCC)が誕生し、エキュメニカル運動(教会一致運動)が推進された[59]。プロテスタント諸教会は洗礼・聖餐・職制(叙階)において一致するために「リマ文書」を作成し、それを用いて諸教会の合同礼拝を行っている。また、各国でプロテスタント諸教派による合同教会(United Church)が誕生している(ただし、その要因は主流派諸教会の信徒数減少による)。
カトリックでは1960年代の第2バチカン公会議において、エキュメニズムへの取り組みを本格化させた。プロテスタント諸派とは相互聖餐の関係樹立を目指して、教派別に神学的作業が進められている。1990年代には、カトリック教会とルーテル教会の間において、16世紀の宗教改革の最大の争点となった「信仰義認」の教義について、現在の両教会の見解の間には本質的相違が存在しないことが確認されているが、全教会規模での相互聖餐には至っていない。また、聖公会とカトリックの間にも、相互倍餐の関係を模索する動きがあるが、秘跡論の違いに加え、カトリックが同性愛者を否定しているのに対し、聖公会が同性愛者および女性を司祭や主教(司教)に叙階していることが、両教会の完全な合同に対する越えがたい障害となっている。
また、近世以降カトリック教会は、ローマ教皇の首位権を認めることを条件に、東方典礼という形で東方教会の一部を取り込んできた(東方典礼カトリック教会)。しかし20世紀において、将来の一致を目標としつつ、現状テンプレート:いつにおいては東方教会のそれぞれの教派を独自性をもつ教会として扱うに至った。現在テンプレート:いつのカトリック教会は、すべての東方教会の信徒に、止むを得ない場合という留保つきではあるが、聖体拝領を認めている[60]。ただし、こうしたカトリックのいうエキュメニズムは単に他教派のローマ帰一を最終的な目標とするもの(カトリック・エキュメニズム)であり、相互の教理理解に必ずしも基づかないとの警戒も他教派には存在する。
東方諸教会と、かつての正統教会の後裔であるカトリックと正教会、またプロテスタント教会との間の対話も活発化している。正教会と非カルケドン派教会は第2次大戦後、おもに中東地区で対話をすすめ、20世紀末には正教会とシリア正教会が教義についての合意を正式に文書で確認し合うに至った。その文書では、キリスト論などの教義の違いは神学的相違というよりはむしろその表現の相違であり、根底において教義を共有し合っていることを認めた。ただし教会としての全面的な一致には至っていないため、教会の方針としては完全な相互領聖には至っていない。
非カルケドン派教会のひとつ、エジプトのコプト正教会は世界教会評議会での熱心な活動で知られ、特にアフリカ地区での他教会との交流に力を入れている。これは他の教会での礼拝への陪席などを含んでいる。
日本とキリスト教
歴史
キリスト教伝来
日本にいつキリスト教が到来したかということに関しては、中国で景教と呼ばれたネストリウス派キリスト教が5世紀頃、秦河勝などによって日本に伝えられたとする説がある[61][62][63]。
史実として確認されている日本へのキリスト教の最初の宣教は、1549年に、カトリックの司祭、イエズス会のフランシスコ・ザビエルらによるものである。キリスト教は当時、九州から西日本、近畿地方を中心に多くの信徒を獲得した。この頃、キリスト教は「耶蘇教」(やそきょう、耶蘇はラテン語 Jesusの中国音訳「耶蘇」の音読み)、キリスト教徒は「吉利支丹」(キリシタン)、キリスト教宣教師は「伴天連」(バテレン)と呼ばれた。織田信長が宣教師に対して好意的であり、その政策を踏襲した豊臣秀吉も当初はキリスト教を保護した。
鎖国とキリスト教禁止
しかし、九州においてキリシタン大名が仏教徒や神道徒を迫害、さらにポルトガル商人によって日本人が海外に奴隷として売られている事を知った秀吉は、1587年にバテレン追放令を発布して、宣教師の国外退去命令とキリスト教宣教の制限を表明した。しかし、その後しばらくは、キリスト教は秀吉のポルトガルとの南蛮貿易を優先する政策のため事実上黙認されていたが、その後1596年のサン=フェリペ号事件をきっかけに、秀吉はキリスト教への態度を硬化させ、翌年長崎でキリスト教徒26人を処刑した。これが日本二十六聖人の殉教である。
その後権力の座に着いた徳川家康も、当初はキリスト教に対しては寛容な態度をとっていたが、1612年および翌1613年に禁教令を発布し、教会の破壊と布教の禁止を命じた。さらに1637年に島原の乱が起こったことにより、江戸幕府は徹底した禁教政策をとっていった。乱の直接の原因は、それぞれ島原と天草を支配していた島原藩・唐津藩による残酷な収税制度にあったが、同地にはキリシタン大名であった有馬晴信、小西行長の統治時代に入信したキリシタンが多く、一揆の盟約結成の求心力としてキリスト教信仰を基盤においた内部統制も行われたこと、そのことが一向宗や法華宗などのような求心性の強い宗教勢力が排他的な一揆的結合の核となって強大な政治勢力を築いた事態が再来する危機を感じさせたことから「キリシタンによる反乱」と単純化されて規定され、また事件を重く見た幕府は1639年に寛永の鎖国令を発してポルトガル船の来航を禁止、九州沿岸の防備体制を整えると共に、キリスト教徒の根絶に乗り出した。
以後キリスト教徒の探索と迫害が行われ、激しい迫害によってキリスト教は根絶させられたかのように見えたが、長崎などで一部の信徒が地下にもぐり、潜伏キリシタンとして信仰を守り続けた。
1858年の日米修好通商条約によって、居留地に教会を建設することと、居留アメリカ人の信教の自由が認められたが(後に結ばれた他国との条約も同様)、日本人に対する禁教は続いていた。禁教令からおよそ250年後の幕末1865年3月、出来たばかりの長崎・大浦天主堂にてフランス人ベルナール・プティジャン神父(後に司教)の前に潜伏キリシタンが現れて信仰告白を行い(信徒の発見と大浦天主堂)、その後、続々と神父の元に詰めかけた。そして彼らが祈りと洗礼の儀式などを守り受け継いできたことが明らかになり、「信徒発見」のニュースが欧米に伝えられた。潜伏キリシタンの多くはカトリック教会に復帰したが、同時に寺請制度を拒否したために長崎奉行所が迫害に乗り出し(浦上四番崩れ)、1867年に成立した明治政府もこれを継続し、拷問や3,400人におよぶ流刑などが行われた[64]。また他の地方でも東北で正教会への日本人改宗者が投獄されるなど、キリスト教弾圧が全国的に行われた。
明治維新後
しかし、この明治政府のキリスト教弾圧は欧米諸国からの強い抗議を受け、1873年に明治政府はキリスト教禁制の高札を撤去することとなる。
キリスト教への禁止撤廃後は、キリスト教とその教会は、純粋な宗教的動機にとどまらず、西洋文化に触れる目的でまずやってくる日本人をもひきつけるようになる。カトリック、プロテスタント、正教会とも禁教時代から宣教師を日本へ派遣しており、前述のようにそのなかには秘密裡に宣教をするものもあったが、いまや公に日本人信徒を獲得すべく、教会、伝道所を立てて宣教を行った。また海外からの宣教とは独立して、内村鑑三らによる無教会という信仰のあり方も主張された。
カトリックとプロテスタント諸教派は、宣教の補助手段またキリスト教の社会実践として、学校(ミッションスクール)や病院をたて、活動を行った。こうした学校を通じ、とくに都市部の知識層において、学校教育を通じてキリスト教とその文化に触れ、影響をうけるものが出た。またキリスト教実践の延長として社会福祉活動を行うものもいた。セツルメント運動や神戸・灘での生活協同組合(現コープこうべ)などを、キリスト教文化の影響下に生まれた運動としてあげることができる。
また、日本の正教会は19世紀半ば以来の歴史を持ち[65]、発足間もない時代からニコライ・カサートキンら神品を最初に派遣したロシア正教会の指導下におかれており、19世紀半ばに函館から始まった日本正教会の伝道は、明治末には日本全国におよび、北海道・東北・東京・関西・九州を中心に教会が建てられた。主にロシアからの資金援助により、東京神田に壮麗な大聖堂:ニコライ堂も建設された。
戦前・戦中
戦前・戦中を通じ、キリスト教に対して社会の環境は厳しいものであった。キリスト教諸派に対する政府の統制は1930年代からとりわけ厳しさを増し、各教派とも難しい状態におかれた。キリスト教徒にも靖国神社参拝が強制され、解散を命じられた教派も出た。
カトリックでは1932年に上智大生靖国神社参拝拒否事件が起こり、靖国参拝の強要に反対した学生への弾圧を受けて日本のカトリック教会は「靖国参拝は宗教活動に当たらない」との見解「第一聖省訓令」「祖国に対する信者のつとめ」を出し、以後戦争については沈黙した(ただ、司祭や信徒の中には天皇の神性を否定して逮捕された者もいる)。
プロテスタント諸教派は、戦時中その多くが政府の誘導下に皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会の宣言により合同教会「日本基督教団」を設立したが、ほとんど全ての教会に求道者を装った特高の密偵が入り厳しい監視下に置かれた。そのため、日本基督教団では会堂に神棚を設置し、礼拝前に宮城遥拝など国民儀礼を行うなどして保身を図った。また日本基督教団は政府の政策に協力して軍用機「日本基督教団号」を献納し、さらに「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」を出して大東亜戦争は聖戦であると主張し、神社参拝を強要するなど、アジアのクリスチャンへの弾圧に加担した。しかし、偶像を否定する者や再臨信仰を持つ教会では牧師連行などの弾圧を受けた[66][67]。
ホーリネスの日本基督教団第六部(元日本聖教会)、同第九部(元きよめ教会)、宗教結社東洋宣教会きよめ教会の3派は、その再臨信仰により国体否定・神宮冒涜の不穏結社とされ、1942年11月、一斉検挙により結社禁止・教会解散・牧師長期拘置などの厳しい弾圧を受け、7名の牧師が殉教した。
救世軍は1940年7月、イギリス軍スパイの容疑をかけられ外国人士官(宣教師)が逮捕され、また敗戦まで「日本救世団」に名称変更を強制された[68]。セブンスデー・アドベンチスト教会も再臨信仰が不敬に当たるとして活動禁止を余儀なくされた。また神社参拝を偶像崇拝として拒否した美濃ミッションら少数のキリスト者は激しい迫害にあった。
正教会は、1917年のロシア革命によりロシアからの資金と宣教の両面での援助が断たれたことから、苦しい立場におかれていた。加えて、ロシア政府と教会の関係に厳しい目を向けていた日本政府は、ロシアの共産化以後、さらに正教会を厳しく監視するようになる。このため第2代日本府主教であるセルギイ府主教は、政府の圧力により退位を余儀なくされた[69]。そして1923年の関東大震災で東京復活大聖堂(ニコライ堂)も含む東京市内のほとんどの教会が破壊された。資金難の困難な情勢の中でニコライ堂は再建されたが、他の東京市内の教会の殆どは再建されず、東京市内の教会は神田の東京復活大聖堂の教会に再編された[70]。
現代日本のキリスト教
第二次世界大戦後は、合同教会としての日本基督教団の組織はGHQの意向により存続し、アメリカのエキュメニカル運動体の支援により再建された。連絡組織としてエキュメニカル派ではカトリックなども包含する日本キリスト教協議会(NCC)がある。またプロテスタントの各教派の教会も、日本基督教団と決別して再建し、救世軍など活動を禁止されていた教派も活動を再開した。福音派の連絡機関としては日本福音同盟(JEA)が結成されている。日本の福音派の特徴は聖書信仰と偶像崇拝の拒否である。[71][72]
なお、日本キリスト教連合会は、カトリックやプロテスタントも含まれるが、国への対応機関であり、上記のNCCやJEAとは性格が異なる。
政治運動ではなく、さまざまな手段を用いた布教を主たる活動とする教会の台頭も著しい。キリスト者自らがイエス・キリストについての『聖書』の言葉を聞き、イエス・キリストが自らの救い主であることを受け入れ、人生観、人生がいかに変化したかを語る証しによって、キリスト者になる者が一部の教会では増えている。近年、海外のキリスト教の助力により、パワーフォーリビング(2007年に配布開始)やラブソナタなどの大規模な布教が行われている。[73]
また、日本におけるエキュメニカル派の動きとしては、教役者や学者の間での交流と、信徒を中心とした交流が指摘される。元々、戦時中の政府の政策で一本化された日本基督教団であるが、エキュメニカル派の教団として現在も存続している。1960年代の学生運動のときには、靖国神社参拝をめぐり、プロテスタントとカトリックの大学生を中心とする信徒が合同で活動をおこなった。一方教会間の交流としては『新共同訳聖書』の共同翻訳事業が特筆される。この『新共同訳聖書』においては、プロテスタント諸派の一部が「外典(アポクリファ)」として『聖書』から除外したもの(『集会の書』『マナセの祈り』など)を「旧約聖書続編」としてまとめている。これは日本の聖書翻訳事業においては画期的なことである。また2006年8月には京都で世界宗教者会議が行われ、他宗教を含めた交流の場がもたれた。
カトリック教会では、当時の教皇であったピオ12世の方針もあり、日本のカトリック教会は政治・社会問題については消極的で、きわめて保守的な態度をとった。フランスやイタリアで興った社会主義とカトリックとの共存を目指す動きは、学生を中心とする知識人の一部には伝わったが、その力は大きくはなかった。1960年代に入ると、教会内部では第2バチカン公会議に代表されるような自己刷新の動きがあり、日本のカトリック教会は信徒の参加と日本独自の文化への配慮を重視するようになり、仏式・神式の儀式への参列・焼香等が一定の条件付で許可されるようになったほか、プロテスタントとの一致運動(エキュメニズム)にも積極的に参加している。1987年にはカトリックとプロテスタント諸派が共同して翻訳された新共同訳聖書が刊行された。
また正教会は、戦後にソ連との外交関係が途絶してアメリカを中心とする連合軍が日本に入ったことにより、アメリカ合衆国に所在する正教会(アメリカ正教会の前身)の管轄下に一時的におかれた。アメリカから主教が来日し、日本の正教会の指導に当たった。また日本からニューヨークのウラジーミル神学校に多数の若い神学生が留学した。その後、1970年に日本教会はモスクワ総主教庁の庇護下で聖自治教会となり、自身で主教を選出する権限を得た。東京、仙台、京都が主教座教会となっている。また、ロシア正教会の直接の管轄下にあることを選んでいたグループは「モスクワ総主教庁駐日ポドヴォリエ」に再編成された。紆余曲折があったが、現在テンプレート:いつでは日本正教会と駐日ポドヴォリエの関係は良好である。
20世紀後半以降の日本はクリスマスやバレンタインデーのように年中行事として、或いはキリスト教会での結婚式の選択やキリスト教系ミッションスクール人気などの形で純粋な信仰とは別にキリスト教の文化・行事が国民の間に浸透しつつある[74]。
2004年現在日本の総人口の約1%がキリスト教徒である。そのうちカトリックが約45万人、プロテスタント諸派が計約65万人、プロテスタントで最も信徒数の多いエキュメニカル派の合同教会、日本基督教団が約10万人である[75]。プロテスタントのうち教会員数は日本基督教団が多いものの、礼拝に出席する信徒の実数は福音派の日本福音同盟の方が多い[76]。また聖霊派の日本リバイバル同盟も教勢を伸ばしている。正教会(日本ハリストス正教会)は約2.5万人。
なお、異端とされる教派についても言及すると、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)が公称約12万人、最大勢力とされるエホバの証人が約22万人とされている。通常この2派は正統派の立場からはキリスト教徒総人口には含めない。
キリスト教の文化的影響
建築への影響
中世のヨーロッパにおいて大規模な建築は教会や修道院に限られたために、ある時期までのヨーロッパ建築史は教会建築史に重ねられる。特に11世紀よりロマネスク様式、12世紀末よりゴシック様式、15世紀からはルネサンス様式の大聖堂がヨーロッパ各地で盛んに建造された。「神の家」を視覚化した壮麗な建築は見る者を圧倒する。それらは教会として使用されつつ、各都市のシンボルとして保存され、ヨーロッパ都市の原風景の一部となっている。
さらにキリスト教の教会に由来する共同体概念、とりわけプロテスタントの理念である「見えざる教会(Unsichtbare Kirche)」は、バウハウスなど近代建築にも影響を与えた。ヴァルター・グロピウスはバウハウスの雑誌の表紙に教会を現した自作の版画を沿え、「見えざる教会」がバウハウス運動の理念でもあると語っている。
東欧ではビザンティン建築が独自の発展を遂げたが、近現代に至って新古典主義の影響を西欧から若干受けている。
美術への影響
初期キリスト教美術はローマ美術をもとに始まったが、やがて写実性より精神性などを重視するようになり様式化が進んだ。中世西ヨーロッパではキリスト教は美術の最大の需要を生み出していたといえる。上記の聖堂には、聖人の肖像画や聖伝を描いた壁画や絵画、窓にはめ込まれたステンドグラス、聖像、祭壇や様々な聖具類が供えられた。また祈祷書などの写本への挿絵も描かれた。これらはヨーロッパ美術史の中でも重要な位置を占める。
一方、ローマ帝国時代に盛んだった室内装飾などの世俗美術は、中世初期にはいったん廃れた。しかし、12世紀頃より古典古代への関心が復活(12世紀ルネサンス)するとともに異教のテーマに基づいた絵画が現れはじめ、13世紀後半から公然と描かれるようになった(たとえばボッティチェッリ『ヴィーナスの誕生』)。そして西ヨーロッパにおいては、世俗の美術がキリスト教美術を量的に圧倒するようになっただけではなく、その様式が宗教画に逆に取り入れられるようにもなった。
対して東方教会では、イコン(聖像)の規範性を重んじ、古来の型を保つことを教義の一部としたため、教会美術は時代による変化をあまりこうむらなかった。しかしルネサンス以後の西方美術は東方にも影響を与え、特に18世紀以降、ロシアを中心に、印象派風の筆致を持ちやや写実的な聖像表現も行われた。また近世以降はヴィクトル・ヴァスネツォフなどのように、イコンから離れた美術の領域で正教会の題材を用いる藝術家も現れた。
音楽への影響
キリスト教会では典礼での必要上、独特の教会音楽を発展させた。聖句を詠唱するための節回しがかなり早い時期に規定された。高低アクセントをもつギリシア語を公用語としたギリシア教会では、8種類からなる教会旋法が整備され、韻文で書かれたすべての祈祷文を、そのどれかにあてはめて歌うことが出来るシステムが確立した。これはラテン教会にも影響を与え、後者は今日グレゴリオ聖歌として知られている。グレゴリオ聖歌は単旋律(モノフォニー)であるが、9世紀頃には、これにオルガヌム声部を加えた複旋律(ポリフォニー)が現れる。同時に、それまでは口承されていた旋律を正確に記録するための楽譜が考案され、理論化が行われるようになる。教会音楽とは神の国の秩序を音で模倣するものであり、理想的で正確に記述されるべきものという信念が背景にあったと考えられているのだが、これらが五線譜を用いた記譜法、和声法や対位法などの音楽理論へと発展していくことになる。
教会の外部にも世俗的な音楽がヨーロッパに存在していたことは確かなことではあるが、記譜法と理論を兼ね揃えた教会音楽は後世への影響力という点では圧倒的に優勢であった。14世紀頃より、こうした教会の音楽理論が世俗音楽へ流れ始め、やがて教会の外で西洋音楽は発展していくことになる[77]。
作曲家で言えば、16世紀に対位法・ポリフォニーにおいてイタリアのパレストリーナやスペインのヴィクトリアといった大家が現れた。しかしバッハやヘンデルまでは教会音楽が作曲活動の中で重要な位置を占めていたが、それ以降は教会音楽の比率は小さいものとなる。とはいえミサ曲やレクイエムはベルリオーズやブルックナーをはじめとした数々の作曲家にとって重要なテーマであり続けたし、キリスト教関連のテーマを使った曲はその後も続いていく。また器楽曲では、西方教会ではパイプオルガンが好んで用いられ、各地域で優れた大型のオルガンへの需要を生み出した。ヨーロッパでは16世紀、17世紀に建造されたオルガンが補修を受けながら現在テンプレート:いつも使われていることが多い。
また20世紀に入るとアメリカのアフリカ系市民の間で歌われていた賛美歌(ゴスペル)が、レイ・チャールズなどの手によってポップ・ミュージックに導入された。一方で、古楽への一般的な関心の高まりをも反映して、グレゴリオ聖歌などの古い宗教曲が意識的に聴かれるようになり、教会旋法の要素を取り入れる作曲家などもみられる。
一方、器楽の使用を原則として禁じた正教会においては、東ローマ帝国地域でビザンティン聖歌が独自の発展を遂げた。正教が伝播したロシアでは、ビザンティン聖歌にロシア固有の要素を取り入れたズナメニ聖歌といわれる無伴奏声楽曲が発達した。ビザンティン聖歌もズナメニ聖歌も四線譜もしくは五線譜を用いず、それぞれ「ネウマ」と「クリュキー」と呼ばれる記譜法を保持していた。
18世紀以降になると西方との交流によって、イタリア的要素を取り入れた宗教曲が作られ、19世紀初頭にはロシアでボルトニャンスキーが活躍。チャイコフスキーやリムスキー=コルサコフといった作曲家達を生み出す土壌となった。正教会聖歌ではラフマニノフの『徹夜禱』が有名であり、聖歌を専門にした作曲家ではアルハンゲルスキーが著名であるが、ブルガリアのフリストフやセルビアのフリスティッチ、エストニアのペルトも正教会聖歌を作曲するなど、その発展はロシアに限定されず東欧全域に及んでいる。また、西欧的な要素を取り入れつつも新たな伝統復興を模索する動きが19世紀後半から正教会では行われていたが、共産主義政権の弾圧による研究の中断があったものの、共産主義政権の崩壊後にそうした復興運動は再活性化を見せている[78]。
文学への影響
中世のキリスト教文化の中では、聖人伝という形で多くの民間説話が語られて、流通した。それらの多くはウォラギネの『黄金伝説』(13世紀)の中に収められており、後のヨーロッパ文学に大きな影響を与えている[79]。
また、キリスト教の聖典自体が物語を豊富に擁しており、『旧約聖書』の『創世記』、ノアの箱舟、モーセの出エジプト、士師たちの年代記、そして教義の根幹を支える『福音書』の受難物語などは、文学者たちにインスピレーションを与え続けてきた。ジョン・ミルトンの『失楽園』、オスカー・ワイルドの『サロメ』などが有名であるが、プロットの借用という程度であれば日本のライトノベルに至るまで多くの分野に影響は及んでいる。
キリスト教思想に真っ向から取り組んだ作品としては、フランシスコ会の神学を参照しつつキリスト教的世界像を提出するダンテの『神曲』、悪魔と契約を結んだ知識人が最後に救済されるゲーテの『ファウスト』、キリストと異端審問官とを対決させたドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』(「大審問官」の章)などが有名である。
また、アウグスティヌスやイグナティウス・ロヨラなどの告白録は、自己内省で構成される告白文学という形式が西ヨーロッパで成立するにあたり、大きな影響を与えた。
哲学への影響
西ヨーロッパ中世ではリベラル・アーツ(自由七科)を統括する学問として哲学は尊重されたが、キリスト教の秩序のなかでは「哲学は神学の婢(はしため)」(ペトルス・ダミアニ)であった。
11世紀頃より西ヨーロッパではスコラ学が興隆し学問的方法論が整備されて、哲学はキリスト教の枠内であるにせよ発展する。アラビア語から翻訳されてヨーロッパに紹介されたアリストテレス哲学をキリスト教神学に融合させたトマス・アクィナスの業績は、ことに有名である。すでにイスラム世界で行われていたイスラム教学とアリストテレス哲学の整合性と融合に関する議論に多くその源を求められるとしても、彼が創り上げた壮大な神学大系は余人の追従を許していない。また、普遍概念は実在するのか(実念論)、名前だけなのか(唯名論)を争った普遍論争など、哲学史に残る重要な議論がこの時代に行われている。
15世紀頃より、人文主義者たちはスコラ哲学を旧弊として敵視し、キリスト教の枠から離れて思想を展開していくことになるが、キリスト教社会で長年に渡って重ねられてきた一神教的・二元論的世界観にヨーロッパ社会は永く拘束された。
科学への影響
ある種の特徴のある自然哲学者を、他の自然哲学者から区別するために「scientist」という名称がヒューウェルによって造語され用いられ始めたのは19世紀のことだが、その後も彼らの実際的な社会的認知度・社会的地位のほうはすぐには上がったわけではなかった。そのように社会的地位を向上させようともがいている段階の科学関係者(科学者、科学史家ら)は、世間の人々に対して、"カトリック教会に代表される旧弊因習に、科学者たちが立ち向かって近代科学を発展させてきた"という図式で、ものごとを説明したがる傾向があった。そして、そのような図式を描くためには、大抵、迫害を恐れて自説を公表しなかったコペルニクスや、ガリレオ・ガリレイの事例を、ある特有のやり方で[80]取り上げ、強調した。結果として、"キリスト教(カトリック)は科学に対してひたすら抑圧的であった"といったような単純化された乱暴な説明ばかりが(科学関係者の文章を中心として)まことしやかに流布することになった[81]。現代の日本でも、科学に興味を持った青少年はそういった主旨の文章に触れる機会は多く、同様のイメージが形成される傾向がある。
だが近年テンプレート:いつ、過去の行政文書や科学者の私信や草稿等の原文の緻密で真摯な学問的研究が進むにつれ、キリスト教と自然哲学や科学の関係は、そのような単純なものではなかったことが知られるようになってきている。キリスト教と科学の関係はもっと豊穣で複雑なものであったのである(これは欧米の研究者によっても明らかにされてきている)。日本でも同様に、例えば科学史家村上陽一郎がヨーロッパ近代科学を支えたのはキリスト教の精神であったと指摘している[82]。実用的かどうかはいったん度外視して「真理」自体を情熱的に追求するのがヨーロッパ近代科学の特徴であり、他地域の科学から大きく抜きん出た要因でもあるとし、それはキリスト教で培われた一神教神学への情熱がそのまま科学へ転用されたのではないかという指摘である。科学者達の多くは決して非キリスト教徒ではなく、むしろ熱心な信徒であり「神の御業」を追求したものであった点は指摘されなければならない[83]。また、渡辺正雄も、近世における科学の発展の背後には「神による啓示の書として自然界と聖書がある」というクリスチャンの意識があって、神をよりよく知るために自然への探求が始まったと指摘している[84] 。また東京聖書学院の教授である千代崎秀雄は、その著書の中で、宗教と科学の担当する範囲が違うので衝突するはずがないと主張している。天動説の裁判における混乱については、中世のカトリック教会が神学の解釈を広げ、科学の領域に踏み込んだことが発端であるとしている[85]。
現代科学では、牧師であったロバート・スターリングがスターリングエンジンを1816年に発明したのは、教区の労働者が蒸気機関の爆発事故で怪我をしたり命を落としたりするのに直面し心を痛め、安全性が高く効率的な動力源を開発しようとした事がきっかけであった。1847年にイギリスの医師ジェームズ・シンプソンの麻酔薬発明が許可されたのは、『聖書』中の「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた」[86]という記述が根拠になった[87]。また、『ネイチャー』が物理学者や数学者など1000人に行ったアンケートでは「神を信じる」との回答が39パーセントであった[88]。
また、修道院が先進技術の発展に貢献した例が多数ある。14世紀・15世紀において戦乱によって農業技術の革新が遅れていたロシアに西欧の輪作技術を導入したのは、ロシア正教会の荒野修道院群であったと考えられている[89]。カトリック教会・聖アウグスチノ修道会の修道士かつ司祭であり、のちには修道院長も務めたグレゴール・ヨハン・メンデルは、遺伝に関する法則(メンデルの法則、1865年に報告)を発見した事で有名である。また、宇宙創生の理論であるビッグバン理論の提唱者である宇宙物理学者のジョルジュ・ルメートルはカトリックの司祭でもあった。
ただし、現代において創造論と進化論や、クローン技術、脳科学、同性愛等の研究分野においてプロテスタントの一部に根強い聖書主義の立場から、大きな反対運動が起こっており、これが科学の発展を阻害していると見ることもできる。実際に巨大な政治力と支持基盤を背景に、アメリカ合衆国の一部の州ではこれらの研究そのものを禁止する、もしくは阻害する法案や運動が存在し、裁判に発展すること(進化論裁判)も稀ではない。これらの問題は個人が自身の常識に対して他を認めないという点において、キリスト教に関わらず、全ての宗教や思想、文化において起こりえる事である。しかし、その中でもキリスト教は規模と政治力が巨大なため、しばしば世界的な問題に発展するのである。
生活・その他への影響
医療・病院のルーツの多くが修道院にある。旅人を宿泊させる巡礼者を歓待する修道院、巡礼教会をいうホスピス(hospice)が、がんで余命いくばくもない人が最後の時間を心やすく過ごすための施設、ホスピスに転嫁したこと、歓待する(hospitality)が、病院(hospital)の語源でもあることはあまり知られていない。
修道院でリキュール(薬草酒として発達した面もある)が製造されているのもこうした医療行為に由来し、今日テンプレート:いつでも多くのリキュール・ワイン・ビールといったアルコール類が一部の修道院で醸造されている(ワインはミサ・聖餐式・聖体礼儀用でもある)。これらの酒類の中には、シャルトリューズなど有名なブランドとなっているものも珍しく無い。
キリスト教に基づくとされている習俗
キリスト教は独自の典礼暦を用いて教義に基づく祭礼を行い[90]、またそれによって信者の生活を規定するが、一方で各地の習俗と融合した教義と無関係な慣習も多く見られる。以下に、現代の日本でキリスト教に基づくものと一般に理解されている習俗を取り上げキリスト教との関係などを概説するが、この他にも、日本では一般的ではない習俗は多数存在しており、クリスマス前のアドベント(待降節)、公現祭、謝肉祭(カーニバル)、灰の水曜日、枝の主日/聖枝祭、ペンテコステ、各種の行列、大勢の特定聖人の祝日などの祭日、また四旬節/大斎や曜日を定めての節制などがある。これらに関しては典礼暦を参照されたい。
クリスマス
テンプレート:Mainテンプレート:See also クリスマスはイエス・キリストの生誕を祝う記念日であるが、イエスの誕生日は知られていない。ローマ帝国時代、ミトラ教の冬至の祭りがキリスト教に取り入れられたと考えられている。この祭りは西方で始まり、12月25日に行われた。一方、東方では、元来、キリストの生誕は洗礼とともに1月6日に祝われていたが、4世紀には次第に12月25日が生誕を祝う日として定着していく。ヨハネス・クリュソストモスは12月25日をクリスマスとすることを支持した386年の説教で、この祭りをローマの習慣であるとし、アンティオキアでは10年前から始まったとしている。
また、クリスマスに付随する習俗の多くは、キリスト教の教義とは無関係であり、キリスト教が布教されるにあたって土着の習俗を飲み込んでいったことを物語る。たとえばクリスマスツリーを飾る習慣は15世紀に南ドイツで現れ、ハノーヴァー朝とともにイギリスに渡り、そこからキリスト教社会に広がったものである。サンタクロースは聖ニコラスの伝説や、イギリスの Father Christmass の伝承などを使ってニューヨークの百貨店が19世紀に作り上げ、世界中に広まったキャラクターである[91]。
イースター
テンプレート:Main 復活祭(イースター、復活大祭、パスハ)はイエス・キリストの復活を祝うキリスト教最大の祝祭日であり、かつもっとも古く成立した祭のひとつであるが、西方教会における現在の習慣にはゲルマン民族の春の祭りの影響が指摘されている。色をつけた卵(イースターエッグ)を配るなどの習俗がそれに該当する[92]。なおユダヤ教の過ぎ越しにも、ゆで卵を食べる習慣があり(塩水に入れた卵を紅海を渡るユダヤ人に見立てる)、ゆで卵の習慣はユダヤ由来であるとする説もある。
結婚式
宗教改革以前から存在する教会では、婚姻は7つの秘跡(機密)のうちの一つとして位置づけられている。世俗婚とは別に、同教派の信者同士の結婚式は教会の典礼として行われる。結婚する当事者の片方あるいは両方が信者でない場合、カトリック教会では典礼は略式化され、東方教会・正教会では奉神礼の執行そのものを拒否される場合がある。非信者同士の結婚式を引き受けるかどうかは教派・教会によって異なり、キリスト教に触れる良い機会であるとして受け入れる立場と、それは教会や聖職者の仕事ではないとして受け入れない立場が両方存在する。プロテスタントにおける結婚は、カトリックの秘跡に相当する聖礼典には含まれない(そのため、聖礼典執行資格のない伝道師など下位教職でもこれを行うことが出来る)。ただし、人生の節目であることに違いはなく、新たに結婚する二人を祝福する[93]。
キリスト教式の結婚式では、「誓いのキス」が必須であると思われることがときにあるが、西方教会主要教派の典礼は基本的にそのようなものを含まないことが多い[94]。ただし、正教会では婚配機密の最後にキスをする[95]。
現代の日本では、結婚式をキリスト教のスタイルで行うことが盛んになっており、結婚式場などに併設されたチャペルで派遣業者から斡旋された「牧師」の下に司式されることが多い。そういった司式者の資格やそうやって行われた結婚式の有効性についての議論も存在する。
バレンタインデー
テンプレート:Main 西方教会地域の一部には、男女の愛の誓いの日として2月14日に親しい男女間で贈り物をする習慣がある。これもキリスト教の教義には根拠がなく、もともとはローマ帝国時代の女神ユノの祝日が起源であり、それが後になって殉教聖人のバレンタインに結び付けられたのだろうと言われている。
日本には製菓会社が盛んにプロモーションを行って女性から男性へチョコレートを贈る習慣が定着したが、1990年代ごろから他の業界も積極的に販売政策に利用するようになってきている。俳句の季語に取り入れられるほどになじみのある行事となっているが、これもまたキリスト教の教義には根拠がない。
ハロウィン
テンプレート:Main ハロウィン、またはハロウィーンはイングランド・アイルランドおよびその移民の間で行われた民間の祭りであり、直接はキリスト教と全く関係がない。ハロウィンで出てくる幽霊、精霊、魔女などは明らかに非キリスト教的存在である。この祭りの起源は元々ケルト人のドルイド教の祭だっただろうと推定されているが、カトリックの諸聖人の日(万聖節)と日付の上で結びついており、その前晩である10月31日に行われる。イングランドでは中世以降廃れたが、アイルランドに残っていた習俗が移民を通じて19世紀にアメリカ合衆国で広まった。20世紀初頭以降、アメリカからヨーロッパに逆輸入され、2000年前後には日本でもカボチャのランタン(ジャックランタン、ジャック・オ・ランターン)を飾るなど、一部の習俗が入ってきている。 テンプレート:-
他宗教との関係
テンプレート:Main キリスト教、ユダヤ教、イスラム教(イスラーム)は、唯一神信仰を持ち、聖典の一部を共有していることから、「アブラハムの宗教」として類縁関係を強調されることがある。ほかにミトラ教、マニ教などとの関係も宗教学・歴史学などで研究されている。
脚注
参考文献
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- クロード・レヴィ=ストロース『サンタクロースの秘密』中沢新一訳、せりか書房〈serica books〉、1995年、ISBN 9784796701952
関連項目
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外部リンク
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- ↑ 日本国政府外務省HP:フィリピン共和国
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- ↑ Mormonism
- ↑ テンプレート:Cite web
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- ↑ 日本福音ルーテル荒尾教会
- ↑ 日本キリスト教団 札幌中央教会
- ↑ 日本キリスト改革派東京恩寵教会 | 改革派とは
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- ↑ 竹田教区主教就任から退任まで
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- ↑ 岡村又男『教会役員・リーダーの役割』増補改訂版、いのちのことば社、2003年、ISBN 9784264021476
- ↑ 本節に関連する文献としては以下のようなものがある。
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カトリック - 景山あき子ほか『カトリックの信仰生活がわかる本』女子パウロ会、1999年、ISBN 9784789605045
プロテスタント - 山口昇・熊谷徹監修『新クリスチャン生活百科』いのちのことば社、2007年、ISBN 9784264025313 - ↑ 関栄二ほか編『クリスチャン生活事典』教会新報社、1981年
- ↑ 日本キリスト教歴史大事典編集委員会『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年、ISBN 9784764240056
- ↑ 宇田進ほか『新キリスト教辞典』いのちのことば社、1991年、ISBN 9784264012580、525-530頁
- ↑ さらに全人類がイエス・キリストによってすでに救われているとする万人救済主義、新普遍救済主義もある。宇田進『現代福音主義神学』いのちのことば社、尾山令仁『聖書の教理』羊群社
- ↑ 金井由信『実を結ぶ教会学校 CS教師ガイドブック』改訂版、ベラカ出版、2007年、ISBN 9784903370040
- ↑ 関栄二ほか編『クリスチャン生活事典』教会新報社、1981年
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- ↑ ジャン・ダニエルー『キリスト教史 4 中世キリスト教の発展』上智大学中世思想研究所編訳・監修、平凡社〈平凡社ライブラリー〉、ISBN 9784582761788、249-255頁「西側の見解」、255-258頁「東側の見解・キリスト教社会の東西分裂」など
- ↑ ミルチア・エリアーデ『世界宗教史』第2巻、荒木美智雄・奥山倫明訳、筑摩書房、1991年、205節
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- ↑ 宇田進ほか『新キリスト教辞典』いのちのことば社、1991年、ISBN 9784264012580、97頁
- ↑ このような措置はプロテスタント教会の信徒にはとられていない。
- ↑ 日本キリスト教歴史大事典編集委員会『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年、ISBN 9784764240056、「景教」。複数の文献が掲載されており「広隆寺が拠点になっていた」との記述もある。
- ↑ 平凡社編『世界大百科事典』第7巻、平凡社、502頁
- ↑ 景教の日本への伝播によってイエス・キリストの誕生時の物語も日本にも伝わり、そのイメージを重ねる形で聖徳太子が馬小屋の前で生まれたとされ、その幼名が厩戸皇子となったとする説もあるが、これに関しては想像の域を出ない。
- ↑ 浦上小教区変革史
- ↑ 中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』岩波書店〈岩波新書〉、1996年、ISBN 9784004304586
- ↑ 土肥昭夫『日本プロテスタント・キリスト教史』新教出版社、1980年
- ↑ 日本基督教団鎌倉雪ノ下教会編『主に使えて五十年』キリスト新聞社、1973年
- ↑ 「皇軍以外に『軍』を名乗る組織があるのはけしからん」という理由であった。
- ↑ 府主教セルギイ『東京復活大聖堂と関東大震災』府主教ダニエル監修、正教時報社、2002年 (ニコライ堂ほか各地正教会で入手可能)
- ↑ 牛丸康夫『日本正教史』日本ハリストス正教会教団府主教庁、1978年
- ↑ 第五回日本伝道会議『日本開国とプロテスタント宣教150年』いのちのことば社
- ↑ 中村敏『キリスト教宣教史』いのちのことば社
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ これはキリスト教に限らず仏教・神道・儒教も同じで、浸透の色合いとしては仏教・神道に次ぐ。
- ↑ ただし、社会派と教会派の教団紛争があり、旧教派(長老派、メソジスト、組合教会など)の影響があるので、内実は分裂している
- ↑ 『日本の福音派』日本福音同盟、いのちのことば社、
- ↑ 岡田暁生『西洋音楽史 「クラシック」の黄昏』中央公論新社〈中公新書〉、2005年、ISBN 9784121018168、など
- ↑ コンスタンチン・P・コワリョフ『ロシア音楽の原点 ボルトニャンスキーの生涯』ウサミ・ナオキ訳、新読書社、1996年、ISBN 9784788061057、など
- ↑ ヤコブス・ア・ウォラギネ『黄金伝説抄』新版、藤代幸一訳、新泉社、1994年、ISBN 9784787794246、訳者解説、など
- ↑ 学問的に見れば、不正確で不適切なやりかたで。自勢力について、好印象を持ってもらえるような形で。テンプレート:要出典
- ↑ 特に、近代科学の発展期はカトリック教会の保守化の時期と重なっていたこともある
- ↑ 村上陽一郎『科学史からキリスト教をみる』創文社〈長崎純心レクチャーズ〉、2003年、ISBN 9784423301142
- ↑ なお天動説を初めに主張したのはエジプトのプトレマイオスやギリシャのアリストテレスであり、聖書には天動説それ自体を支持する言葉は一つも無い。
- ↑ 渡辺正雄『科学者とキリスト教 ガリレイから現代まで』講談社〈講談社ブルーバックス〉
- ↑ 千代崎秀雄『聖書おもしろ事典』有斐閣〈有斐閣新書〉、1985年、ISBN 9784641090514、「聖書は天動説?」
- ↑ 『創世記』2章21節
- ↑ 山北宣久『おもしろキリスト教質問箱Q&A77』教文館、2006年、ISBN 9784764264106
- ↑ 山北宣久『おもしろキリスト教質問箱Q&A77』教文館、2006年、ISBN 9784764264106
- ↑ 三浦清美『ロシアの源流』p150 - p152, 講談社選書メチエ、2003年 ISBN 978-4-06-258274-2
- ↑ 高尾利数『キリスト教を知る事典』東京堂出版、1996年、ISBN 9784490104356、260頁
- ↑ クロード・レヴィ=ストロース『サンタクロースの秘密』中沢新一訳、せりか書房〈serica books〉、1995年、ISBN 9784796701952、17-27頁、など
- ↑ 高尾利数『キリスト教を知る事典』東京堂出版、1996年、ISBN 9784490104356、258頁
- ↑ 徳善義和・百瀬文晃編『カトリックとプロテスタント どこが同じで、どこが違うか』教文館、1998年、ISBN 9784764263482、160-161頁
- ↑ 例えば『日本聖公会祈祷書』の「聖婚式」の章には接吻についての記述は一度も出てこない。
- ↑ (聖事経)_PORTA_(近代デジタルライブラリー) 122頁