7世紀
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7世紀(ななせいき、しちせいき)とは、西暦601年から西暦700年までの100年間を指す。
目次
できごと
- 601年 - 厩戸皇子(聖徳太子)が斑鳩宮を造る。任那回復のため、高句麗と百済に遣使する。
- 602年 - 東ローマ皇帝マウリキオスがフォカスに帝位を簒奪され処刑される。
- 602年 - 撃新羅将軍を任命し、国造・郡司らの軍2万5千を動員する。
- 603年 - 新羅攻撃を中止する。小墾田宮に遷る。冠位十二階を制定する。
- 604年 - 冠位十二階制を施行する。厩戸皇子、十七条憲法を作る。朝礼を改める。
- 604年 - 隋で煬帝が即位する。
- 605年 - 隋の煬帝が大運河の建設を命じる。
- 606年 - ハルシャ・ヴァルダナ、北インドにヴァルダナ朝を建国。
- 607年 - 第2回遣隋使小野妹子が派遣される。「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」。
- 607年 - 国ごとに屯倉を置く。
- 608年 - 小野妹子、隋使裴世清らとともに帰国する。隋使、朝廷に参内し、帰国する。小野妹子また隋に遣わされる。この時、高向玄理・旻・南淵請安ら8人留学する。
- 609年 - 小野妹子ら帰国する。
- 610年 - 隋に使を派遣する。
- 610年 - 東ローマ帝国でヘラクレイオスが皇帝に即位。
- 610年 - ムハンマドがイスラム教を興す。
- 611年 - 隋が高句麗遠征を開始(- 614年)。失敗に終わる。
- 613年 - 東ローマ帝国がサーサーン朝にシリア地方を奪われる。
- 613年 - 隋で楊玄感の乱。
- 617年 - サーサーン朝が東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを包囲。
- 618年 - 煬帝が宇文化及に殺害され隋が滅亡する。李淵が唐を建国。
- 618年頃 - コンスタンティノポリスでの都市民への穀物支給の廃止(「パンとサーカス」の終焉)。
- 622年 - 厩戸皇子が斑鳩宮で没する。
- 622年 - ムハンマドがメディナへ遷る(ヒジュラ(聖遷)- イスラム暦元年)。
- 622年 - 東ローマ皇帝ヘラクレイオス、サーサーン朝への反撃を開始。
- 624年 - バドルの戦いでムハンマドのメディナ軍がメッカ軍に勝利。ラマダーン月の始まり。
- 625年 - ウフドの戦いでメッカ軍がメディナ軍に勝利。
- 626年 - 唐で玄武門の変が起こり、勝利した李世民が第2代皇帝太宗として即位(- 649年)(貞観の治)。
- 626年 - 蘇我馬子が没する。
- 627年 - ハンダクの戦いでメディナ軍がメッカ軍に勝利。クライザ族虐殺事件が起こる。
- 628年 - 推古天皇が没する。
- 628年 - 東ローマ皇帝ヘラクレイオス、サーサーン朝を破って被占領地を奪回。
- 629年 - 第34代舒明天皇が即位する。
- 628年ごろ - 唐の僧侶玄奘(三蔵法師)がインドへ向けて出発(- 645年)。
- 630年 - ムハンマドがメッカを征服。
- 630年 - 唐軍により頡利可汗が捕えられ東突厥が滅亡。唐の太宗は西域諸国から「天可汗」に推戴される。
- 630年 - 遣唐使として犬上御田鍬を派遣。
- 632年 - ムハンマドが没し、イスラム教団でカリフ制度がはじまる。リッダ(背教)の戦いが起こる( - 633年)。
- 634年頃 - チャールキヤ朝のプラシーケン2世がナルマダー川の戦いでハルシャ・ヴァルダナの軍を破り南インドの独立を維持する。
- 636年 - シリア地方のヤルムーク河畔の戦いで、皇帝ヘラクレイオス率いる東ローマ帝国軍がイスラム帝国軍に惨敗。サーサーン朝から奪回した領土を再び失う。
- 638年 - 東ローマ皇帝ヘラクレイオスが「エクテシス」を発布。
- 640年 - イスラム帝国のシリア地方征服が完了。
- 640年 - 唐が麴氏高昌国を滅ぼし、最初の都護府である西州都護府(後の安西都護府)を設置。
- 640年ごろ - 中部ジャワにシャイレーンドラ朝が成立。
- 641年 - 舒明天皇が没する。
- 641年 - 吐蕃のソンツェン・ガンポ王が唐の文成公主を妃として迎える。
- 641年 - アレクサンドリア包囲戦でイスラム軍が勝利。東ローマ帝国はエジプトを喪失。
- 642年 - ニハーヴァンドの戦いでサーサーン朝がイスラム帝国に大敗する。
- 642年 - 第35代皇極天皇即位。
- 642年 - 高句麗の淵蓋蘇文が栄留王を弑害し、宝蔵王を擁立。
- 643年 - 蘇我入鹿が山背大兄王一家を滅ぼす。
- 645年 - 6月12日、中大兄皇子・中臣鎌足ら、蘇我入鹿を宮中で暗殺する。蘇我蝦夷は自殺する(乙巳の変)。
- 645年 - 皇極天皇が譲位し第36代孝徳天皇が即位。難波宮へ遷都( - 655年)。
- 646年 - 改新の詔を宣する(大化の改新)。
- 647年 - ハルシャ・ヴァルダナ王の死によりヴァルダナ朝の支配が崩壊し、北インドは混乱状態になる。
- 648年 - 東ローマ皇帝コンスタンス2世が「テュポス」を発布。
- 650年ごろ - スマトラ島にシュリービジャヤ王国が成立。
- 651年 - サーサーン朝ペルシアが滅亡。皇子ペーローズ3世は唐に亡命する。
- 652年 - 「唐律疏義(永徽律疏)」が編纂され、漢代からの「春秋決獄」が廃止される。
- 653年 - 孝徳天皇と中大兄皇子とが不和になり。中大兄皇子以下は飛鳥に還る。
- 655年 - 東ローマ帝国がリュキア沖の海戦でイスラム帝国に惨敗。
- 655年 - 唐の高宗の皇后として武照が冊立される。
- 655年 - 皇極天皇が重祚し、第37代斉明天皇となる。
- 656年 - イスラム帝国で第一次内乱が勃発(-661年)。ラクダの戦いでアーイシャがアリーに敗北。
- 657年 - 唐軍により沙鉢羅可汗が捕えられ西突厥が滅亡。高宗のこの時期に唐の領土は最大となる。
- 657年 - スィッフィーンの戦い。勝敗がつかずドゥーマト・アッ・ジャンダルの和議が結ばれる。
- 660年 - 新羅と唐の連合軍(唐・新羅の同盟)が百済を滅ぼす。
- 661年 - カリフのアリーが暗殺され、ムアーウィヤ1世がカリフとなる。ウマイヤ朝イスラム帝国成立。
- 661年 - 斉明天皇が没する。
- 663年 - 白村江の戦いで、日本が唐・新羅連合軍に大敗する。
- 663年 - 吐蕃の宰相ガル・トンツェンが吐谷渾を征服する。
- 664年 - ウィットビー教会会議が開かれローマ式典礼がケルト式典礼の優位に立つ。
- 667年 - 近江国の大津へ遷都(- 672年)。
- 668年 - 東ローマ皇帝コンスタンス2世が滞在中のシチリア島で暗殺される。
- 668年 - 高句麗が唐・新羅連合軍に滅ぼされる(唐の高句麗出兵)。
- 668年 - 中大兄皇子が即位し、第38代天智天皇となる。
- 670年 - 全国的に戸籍をつくる(庚午年籍)。
- 670年 - ウマイヤ朝軍がチュニジアに進軍し、カイラワーン市の建設に着手( - 675年)。
- 671年 - 唐僧義浄が渡印のため広州を出航し室利仏逝(シュリービジャヤ王国か)に到着。
- 671年 - 新羅と唐が対立する(唐・新羅戦争)。
- 671年 - 第39代弘文天皇(大友皇子)が即位。
- 672年 - 天智天皇没する。壬申の乱で第40代天武天皇即位。飛鳥浄御原宮に遷る。
- 673年 - ウマイヤ朝海軍、東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを678年まで毎年包囲。
- 676年 - 新羅が朝鮮半島を統一。
- 680年 - カルバラーの戦い(カルバラーの悲劇)。
- 680年 - 第3コンスタンティノポリス公会議で単意論が排撃される。
- 680年 - 唐で皇太子李賢(章懐太子)が廃される。
- 681年 - 飛鳥浄御原令の編纂を開始する。
- 683年 - ウマイヤ朝で第二次内乱(-692年)が勃発。イブン・アッズバイルがカリフを名乗る。
- 683年 - マヤのパレンケ「碑文の神殿」の地下室にパカル王が埋葬される。
- 683年 - 唐の皇帝高宗が没し、息子の中宗が継ぐ。
- 684年 - 唐の中宗が退位させられ、睿宗が即位。李敬業の反乱。
- 686年 - 天武天皇が没し、第41代持統天皇が即位。
- 689年 - 飛鳥浄御原令を発令。
- 687年 - テルトリーの戦いで、カロリング家のアウストラシア宮宰ピピン2世(中ピピン)がネウストリア宮宰ワラットを倒し、フランク王国の実権を握る。
- 690年 - 戸令により庚寅年籍をつくる。
- 690年 - 唐で高宗の皇后(則天武后)が女帝となり、国号を周とする( - 705年)。唐王朝は一時断絶。
- 692年 - ウマイヤ朝カリフのアブドゥルマリクによりエルサレムの岩のドームが完成する( - 688年)。
- 694年 - 藤原京に都を移す。
- 697年 - 持統天皇が譲位し、第42代文武天皇が即位する。
- 698年 - ウマイヤ朝のハサン・イブン・アル・ヌゥマーンがカルタゴの戦いで東ローマ帝国に勝利。北アフリカのほぼ全域を制圧。
- 698年 - 靺鞨人大祚栄が震国(後の渤海)を建国。
日本
645年に孝徳天皇が即位するとこの年を大化元年と定め、日本における最初の元号が誕生した(「大化の改新」を参照)。また、7世紀後半から8世紀初頭ごろに対外的な国号を「倭国」から「日本」へ改めている[1]。
人物
イスラム世界
- ムハンマド(570年頃 - 632年)- イスラム教開祖・最後の預言者・その言行が『クルアーン』に記録される
- アブー・バクル(573年 - 634年) - 初代正統カリフ(在位632年 - 634年)・ムハンマドの教友
- ウマル(592年? - 644年)- 第2代正統カリフ(在位634年 - 644年)・ムハンマドの教友
- ウスマーン(574年 - 656年)- 第3代正統カリフ(在位644年 - 656年)・ムハンマドの教友
- アリー(600年頃 - 661年)- 第4代正統カリフ(在位656年 - 661年)・ムハンマドの従兄弟で娘婿・シーア派では初代イマームとされる
- アムル・イブン・アル・アース(583年 - 664年) - 正統カリフ時代の将軍・アレクサンドリア包囲戦に勝利しエジプトを征服
- ハーリド・イブン・アル・ワリード(592年 - 642年) - 正統カリフ時代の将軍・ヤルムークの戦いに勝利しシリアを征服・別名「アッラーの剣」
- サード・イブン・アビー・ワッカース(595年 - 664年) - 正統カリフ時代の将軍・ニハーヴァンドの戦いに勝利しペルシアを征服
- ムアーウィヤ (603年頃 - 680年) - ウマイヤ朝初代カリフ (在位661年 - 680年)・アリーと敵対しカリフ世襲化を行う
- アーイシャ(614年頃 - 678年) - ムハンマドの3番目の妻・カリフのアブー・バクルの娘・ラクダの戦いではカリフのアリーと対決
- イブン・アッズバイル(624年頃 - 692年) - イスラム帝国の第二次内乱の指導者・アブー・バクルの孫でカリフを名乗る
- フサイン・イブン・アリー(626年 - 680年) - アリーの次男・シーア派では第3代イマームとされる・カルバラーの戦いで虐殺される
- ヤズィード1世(645年 - 683年) - ウマイヤ朝第2代カリフ(在位680年 - 683年)・カルバラーの戦いでアリー家を殲滅する
- アブドゥルマリク(647年 - 705年) - ウマイヤ朝第5代カリフ(在位685年 - 705年)・岩のドームを建設
キリスト教世界
フランク王国
- ブルンヒルド(543年頃 - 613年) - フランク王国アウストラシア王シギベルト1世の王妃・子や孫の摂政となる
- クロタール2世(584年 - 629年) - フランク王国ネウストリア王(在位613年 - 629年)・ブルンヒルデを倒しフランク王国を再統一
- ダゴベルト1世(603年 - 639年) - フランク王国(統一フランク)国王(在位629年 - 639年)・パリ郊外のサン・ドニ大聖堂を建立
- ガルス(ガル)(550年頃 - 646年頃) - アイルランド出身の修道士・コルンバヌスの弟子・現スイスのザンクト・ガレン修道院を建立
ローマ教皇
イングランド・アイルランド
- コルンバヌス(540年 - 615年) - アイルランドの修道士・コルンバの弟子・西欧各地にケルト系修道制を伝えボッビオ修道院を建立
- エイダン(? - 651年) - アイルランドの修道士・リンデスファーン修道院を建立し北部イングランドの布教に努める
- オスウィ(612年頃 - 670年) - イングランド七王国のノーサンブリア王(在位642年 - 670年)・ウィットビー教会会議を開催
- ウィルフリッド(633年頃 - 709年頃) - リポン司教・ウィットビー教会会議ではローマ式典礼側を代表しケルト式典礼派を論破する
西ゴート王国
- セビリャのイシドールス(560年 - 636年) - 西ゴート王国のセビリャ大司教・神学者・著作に『語源論』がある・長兄レアンデルも神学者
- レケスウィント(? - 672年) - 西ゴート王国国王(在位649年 - 672年)・ 西ゴート法典を公布・「グアラザールの宝物」でも有名
ブルガリア
東ローマ帝国
- ヘラクレイオス(575年 - 641年) - ヘラクレイオス朝の東ローマ皇帝(在位610年 - 641年)。シリア・エジプトを喪失・「エクテシス」を発布。
- コンスタンス2世ポゴナトス(630年 - 668年) - ヘラクレイオス朝の東ローマ皇帝(在位641年 - 668年)・「テュポス」を発布。
- コンスタンティノス4世(650年頃 - 685年?) - ヘラクレイオス朝の東ローマ皇帝(在位668年 - 685年)・イスラムに反撃を開始。
- セルギオス1世(? - 638年) - コンスタンティノポリス総主教(在位610年 - 638年)・ 単意論をまとめ「エクテシス」を起草。
- ソフロニオス(560年 - 638年) - エルサレム総主教(在位634年 - 638年)。キリスト教神学者・単意論に反対するがウマル憲章は受容。
- ヨアンネス・クリマコス(579年 - 649年) - シナイ山の聖カタリナ修道院長。修道生活の手引きとなる『天国への階梯』を執筆。
- マクシモス(580年頃 - 662年) - 東ローマ帝国の神学者で修道士(証聖者・表信者)。書簡「神学と受肉の摂理について」が有名。
- ヘリオポリスのカリニクス(生没年不詳) - 東ローマ帝国の技術者・コンスタンティノポリス包囲戦で使われた「ギリシア火」を開発か。
イラン
- ホスロー2世 (? - 628年)- サーサーン朝のシャー(在位590年 - 628年)。エジプト・シリアをめぐって東ローマ帝国と戦う。
- ヤズデギルド3世 (? - 651年)- サーサーン朝最後のシャー(在位632年 - 651年)。ニハーヴァンドの戦いで大敗し殺害される。
インド・チベット
- ソンツェン・ガンポ(581年頃 - 649年) - 古代チベットの王で吐蕃の建国者。唐から文成公主を娶る。
- ハルシャ・ヴァルダナ(590年 - 647年) - インドのヴァルダナ朝の王(在位606年 - 647年)。北インドを統一し玄奘を引見。
- バーナ(生没年不詳) - インドの詩人・サンスクリットによりハルシャ王を讃える『ハルシャチャリタ』を書く。
- プラケーシン2世(? - 642年) - インドの前期チャールキヤ朝の王(在位609年 - 642年)。ハルシャをナルマダー川で撃退。
- ブラーマグプタ(598年 - 668年) - インドの数学者・天文学者・著作『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』では「ゼロの概念」の最古の言及あり。
- チャンドラキールティ(月称)(7世紀) - インド仏教の中観派の学僧・バーヴァヴィヴェーカの論証優先を批判し分派する(帰謬論証派)。
東アジア
隋
- 煬帝(楊広)(569年 - 618年) - 隋王朝第2代皇帝(在位604年 - 618年)・高句麗遠征に失敗し殺害される
- 李密(582年 - 618年) - 隋末に割拠した群雄・楊玄感の反乱に続いて挙兵し河南で自立・王世充に敗北する
- 王世充(? - 621年) - 隋末に割拠した群雄・洛陽にて恭帝侗を擁立・さらに自ら皇帝を名乗るが李淵に敗北
唐
- 李淵(高祖)(566年 - 635年) - 唐の初代皇帝(在位618年 - 626年)・隋末の混乱から唐を建国
- 太宗(李世民)(598年 - 649年) - 唐の第2代皇帝(在位626年 - 649年)・その治世が「貞観の治」
- 高宗(628年 - 683年)- 唐の第3代皇帝(在位649年 - 683年)。唐の最大版図を実現。
- 則天武后(624年 - 705年) - 唐の第3代皇帝高宗の皇后・周の女帝(在位690年 - 705年)・「武韋の禍」の一人
- 李靖(571年 - 649年) - 唐の政治家・軍人・突厥や吐谷渾の征討に功があった・『李衛公問対』にその言行が残る
- 房玄齢(578年 - 648年) - 唐の政治家・尚書左僕射・杜如晦とともに「房杜」と呼ばれ「貞観の治」を指導
- 魏徴(580年 - 643年) - 唐の政治家・諫議大夫・『貞観政要』に多くの言行が残る
- 杜如晦(585年 - 630年) - 唐の政治家・尚書右僕射・房玄齢とともに「房杜」と呼ばれ「貞観の治」を指導
- 長孫無忌(? - 659年) - 唐の政治家・太宗の皇后の兄・『唐律疏義』『隋書』を編纂・則天武后と対立し失脚し自殺
- 李勣(594年? - 669年) - 唐の政治家・軍人・武后の冊立を支持・高句麗を滅ぼすことにも功があった
- 狄仁傑(630年 - 700年) - 唐の政治家・宰相・高宗から則天武后にまで仕え「国老」と称される。
- 王玄策(生没年不詳) - 唐の文官。インドのヴァルダナ朝へ外交使節として赴く。ハルシャ王没後のインドの内紛に介入。
- 欧陽詢(557年 - 641年) - 唐の儒家・書家であり初唐の三大家の一人・代表作に「九成宮醴泉銘」がある。
- 虞世南(558年 - 638年) - 唐の政治家・書家であり初唐の三大家の一人・代表作に「孔子廟堂碑」がある。
- 褚遂良(596年 - 658年) - 唐の政治家・書家であり初唐の三大家の一人・代表作に「雁塔聖教序」がある。
- 閻立本(? - 673年) - 唐の政治家・宮廷画家。人物図・肖像画を得意とし「歴代帝王図巻」ほかを描く。
- 孔穎達(574年 - 648年) - 唐の訓詁学者・国子監祭酒・「五経正義」を撰述。
- 玄奘(三蔵法師)(602年 - 664年) - 唐の僧侶・インドのヴァルダナ朝に渡る・『大唐西域記』を書く。
- 基(慈恩大師)(632年 - 682年) - 唐の僧侶・玄奘の弟子で唯識論を大成し法相宗を起こす。
- 義浄(635年 - 713年) - 唐の僧侶・海路からヴァルダナ朝崩壊後のインドに渡り、『南海寄帰内法伝』を書く。
- 慧能(638年 - 713年) - 唐の僧侶・禅宗第六祖。漸悟の北宗に対し頓悟の南宗を興す。『六祖壇経』を残す。
- 寒山・拾得(生没年不詳) - 唐の僧侶・天台山国清寺に属し豊干とともに「国清三隠」と呼ばれる・寒山は「寒山詩」の作者か。
- 薛懐義(? - 695年) - 唐の僧侶・則天武后の寵愛を受け洛陽白馬寺寺主となる・大雲経の効験を説き諸国の大雲経寺に頒布。
- 法蔵(賢首大師)(643年 - 712年) - 唐の僧侶・華厳宗第三祖・則天武后の庇護で実叉難陀に『華厳経』を訳させ教学を大成。
- 阿羅本(活躍時期635年 - 638年) - キリスト教ネストリウス派(景教)の宣教師で「大秦景教流行中国碑」に名が残る。
- 張鷟(658年? - 730年) - 唐の文人・その著作『遊仙窟』は中国では佚書となり日本で愛好された・ほかに『朝野僉載』など。
渤海
朝鮮
- 武烈王(602年? - 661年) - 新羅の王(在位654年 - 661年)。百済を滅ぼす。文武王は子。
- 文武王(? - 681年) - 新羅の王(在位661年 - 681年)。唐との戦争で唐を退け朝鮮半島を統一。
日本
- 蘇我馬子(551年? - 626年) - 飛鳥時代の豪族・大臣(嶋大臣)
- 推古天皇(554年 - 628年) - 第33代天皇(在位592年 - 628年)・敏達天皇の皇后・日本最初の女帝
- 聖徳太子(厩戸皇子)(574年 - 622年) - 推古天皇の摂政・用明天皇の皇子・遣隋使の派遣や法隆寺の建立を行う
- 小野妹子(生没年不詳) - 飛鳥時代の政治家・遣隋使として隋に赴く
- 鞍作止利(生没年不詳) - 飛鳥時代の渡来系の仏師・法隆寺金堂本尊銅造釈迦三尊像が代表作
- 藤原鎌足(中臣鎌足)(614年 - 669年) - 飛鳥時代の政治家・内大臣大織冠・藤原氏の祖
- 天智天皇(中大兄皇子)(626年 - 671年) - 第38代天皇(在位668年 - 671年)・蘇我氏を滅ぼし大化の改新を進める
- 阿倍比羅夫(生没年不詳) - 飛鳥時代の軍人・蝦夷を討ち海を渡って粛慎を平定した・白村江の戦いでも活躍する
- 弘文天皇(大友皇子)(648年 - 672年) - 第39代天皇(在位672年 - 672年)・天智天皇の皇子・壬申の乱に敗北
- 天武天皇(大海人皇子)(631年? - 686年) - 第40代天皇(在位673年 - 686年)・天智天皇の弟・壬申の乱に勝利
- 道昭(629年 - 700年) - 法相宗の僧・遣唐留学僧として唐で玄奘に学ぶ・帰国後は教化につとめる・行基は弟子
- 役小角(634年? - 701年?) - 修験道の開祖・葛城山などで修行・山岳信仰の隆盛により「役行者」と呼ばれ「神変大菩薩」と号される
- 額田王(生没年不詳) - 飛鳥時代の女性歌人・斉明朝から持統朝に活躍し『万葉集』に歌が残る
- 持統天皇(645年- 702年) - 第41代天皇(在位690年 - 697年)・天智天皇の皇女で天武天皇の皇后・藤原京に遷都
10年紀と各年
600年代 | 600 | 601 | 602 | 603 | 604 | 605 | 606 | 607 | 608 | 609 |
610年代 | 610 | 611 | 612 | 613 | 614 | 615 | 616 | 617 | 618 | 619 |
620年代 | 620 | 621 | 622 | 623 | 624 | 625 | 626 | 627 | 628 | 629 |
630年代 | 630 | 631 | 632 | 633 | 634 | 635 | 636 | 637 | 638 | 639 |
640年代 | 640 | 641 | 642 | 643 | 644 | 645 | 646 | 647 | 648 | 649 |
650年代 | 650 | 651 | 652 | 653 | 654 | 655 | 656 | 657 | 658 | 659 |
660年代 | 660 | 661 | 662 | 663 | 664 | 665 | 666 | 667 | 668 | 669 |
670年代 | 670 | 671 | 672 | 673 | 674 | 675 | 676 | 677 | 678 | 679 |
680年代 | 680 | 681 | 682 | 683 | 684 | 685 | 686 | 687 | 688 | 689 |
690年代 | 690 | 691 | 692 | 693 | 694 | 695 | 696 | 697 | 698 | 699 |
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