高句麗
テンプレート:脚注の不足 テンプレート:基礎情報 過去の国 高句麗(こうくり、紀元前37年 - 668年。高句麗語:高句麗)は、いまの中国東北部南部から朝鮮北中部にあったツングース系民族の国家[1]であり、最盛期は満洲南部から朝鮮半島の大部分を領土とした。隋、唐を始めとする中国からの侵攻を度々撃退したが、最終的には唐・新羅の遠征軍により滅ぼされた。後述の王氏高麗との区別による理由から「こうくり」と読むが、百済・新羅の「くだら」・「しらぎ」に対応する日本語での古名は「こま」(後述)である。
目次
国名
高句麗という固有名詞の起源は、漢帝国が設置した玄菟郡の高句驪県に由来する。史料には高句麗王に先立って高句麗侯があらわれるが、玄菟郡の縮小移転に伴いいくつもの県が放棄された際、現地の土豪を県侯に任じたと推測されている。
高句麗から高麗へ
テンプレート:独自研究 中原高句麗碑などの碑文によれば5世紀中頃には「高麗」と自称していたことがわかる。中国の王朝がこの自称を公認したのは520年が最初であることが、歴代正史の冊封記事から明らかになっている。以後は「高麗」が正式名称として認められていた。中国・日本の史書において高麗と書く例があるのはそのためである。
後世(現在)、「高麗」の正名を廃してもっぱら「高句麗」の旧称を用いるのは『三国史記』の誤用に慣例的に従っているまでのことである。王氏高麗と区別する便宜のためならば通常は前高麗・後高麗、または北高麗・南高麗となるのがテンプレート:誰範囲2[2]。
語源
高句麗は別名を貊(はく)[3]と言う。小河に住んでいるために小水貊と呼ばれる別種が居る。良い弓を産出する。いわゆる「貊弓」である。3世紀における「高句麗・夫余」の2国と沃沮・東濊の2部族は、すべて前漢代の「濊貊」の後裔である。日本では「高麗」と書いても「貊(狛)」と書いても「こま」[4]と読む。
歴史
漢の支配
紀元前1世紀中頃から漢の玄菟郡・高句麗県に付属していた支配地域は出費が嵩むため放棄され始め、替わって濊貊系に属する濊族の夫余や貊族の高句麗などを冊封する間接支配へ切り替えられた。高句麗を形成した濊貊系民族とは、中朝国境をはさむ山岳地帯で農耕を主とし、その他に狩猟・牧畜を生業としていた民族とみられる[5]。
建国神話
テンプレート:Main 『魏書』と『三国史記』によれば、高句麗は紀元前37年に夫余の王族である朱蒙(チュモン)により建てられたという。朱蒙の母は東扶余王の金蛙と出会った際に、黄河の神の娘を自称し遊びに出た先で天の子と出会い軟禁されていたと訴えたが、信用されず東扶余王の元に連れて行かれた。やがて娘は太陽の光を浴びて身篭り、卵を産んだ。金蛙は卵を動物に食べさせたり踏ませたりしようとしたが動物や鳥は卵を守ったため卵を母親へ返し、暖めていると朱蒙が産まれた。朱蒙は子供の頃から非常に弓が上手く(朱蒙は弓の名手の意味)、これを危険視した夫余の人々は朱蒙を殺すよう勧めるが王は拒んだ。その後、馬飼いをしていたが策略によって王を駄馬に乗せ自らは駿馬を手に入れると、夫余の人々は再び朱蒙の殺害を企てるが、危険を察知した母の助言により友と共に脱出して卒本へ至り高句麗を建てたという。
卒本城時代
朱蒙が建国したという卒本の地は、現在の遼寧省本渓市桓仁満族自治県(吉林省との省境近くの鴨緑江の少し北)であり、都城の卒本城は五女山山城に比定されている。紀元2年、後漢の光武帝の下へ使者を送って朝貢した際、それまでの高句麗候から王へ冊封されている。しかし、3年には、第2代の瑠璃明王が隣国に在った夫余の兵を避けるため鴨緑江岸の丸都城(丸都山城、尉那巌城。現在の中国吉林省集安市近郊。かつての玄菟郡配下の高句麗県)の山城へ遷都したと伝えられる。テンプレート:要出典範囲
丸都城時代
テンプレート:要出典範囲高句麗は次第に四方に勢力を伸ばし特に東南方面へ拡張したが、第8代の伯固(新大王)の時代には遼東へも数度寇掠を働いている。しかし、それにより遼東で割拠していた公孫氏の不興を買い侵攻を招くことになる。
197年に第9代の故国川王が死んだ後、王位継承をめぐって発岐と延優(後の10代山上王)との間に争いが起こり、卒本に拠った発岐は公孫度を頼って延優と対立したが、丸都城に拠った延優が王となって発岐の勢力を併呑した。219年、高句麗の政情不安に付け込んだ遼東太守の公孫康が高句麗へ侵攻し、高句麗は敗退して村々が焼かれたほか、伯固の長子拔奇,涓奴加ほか各将が下戸3万余人を引き連れ公孫氏へ降った。
高句麗は以前から魏に朝貢を行って臣属しており、司馬懿による公孫氏の平定にも兵数千人を遣わしていたが、魏が公孫氏を平定して国境を接すると、242年に西安平で寇掠を働き魏の将軍毌丘倹による侵攻を招いた。244年に1回目の侵攻が行われ、東川王(位宮)は2万の兵を率いて迎え撃ったが連戦連敗し、丸都城を落とされ千人が斬首された。毌は将兵の墳墓破壊を禁じ捕虜と首都を返還したが高句麗は服属せず、翌245年に再び魏軍の侵攻を招いた。魏軍は南北の2方向から侵攻して高句麗を大いに打ち破り全土の村々を落とすと、東川王は南沃租へ逃げたが更に追撃を受け北方にある粛慎との境いまで逃れた。この戦いにより3千人が捕えられて斬首され、従属させていた東濊も高句麗を離れ魏に服属した。東川王が魏軍が引き上げた後に築城された都を平壌城というが、丸都城の別名または集安市付近の域名であり、後の平壌城とは別のものである[6]。
その後も遼東半島への進出を目指し、西晋の八王の乱・五胡の進入などの混乱に乗じて312年に楽浪郡を占拠し、この地にいた漢人を登用することで技術的、制度的な発展も遂げた。しかし、遼西に前燕を建国した鮮卑慕容部の慕容皝に都を落され、臣従した。355年には前燕から〈征東将軍・営州刺史・楽浪公・高句麗王〉に冊封されている。前燕が前秦に滅ぼされると引き続いて前秦に臣従し、372年には僧侶・仏典・仏像などが伝わった。この間、371年には百済の攻撃に王が戦死する危機に直面する。
391年に即位した19代好太王は後燕と戦って遼東に勢力を伸ばし、南に百済を討って一時は首都漢城(現ソウル特別市)のすぐ傍まで迫り、百済王を臣従させた。
4世紀末になると倭が朝鮮半島へ進出を始め、391年に倭が百済□□新羅を破り臣民とした。393年に倭が新羅の都を包囲したのをはじめ、たびたび倭が新羅に攻め込む様子が記録されている。百済はいったん高句麗に従属したが、397年、阿シン王の王子腆支を人質として倭に送って国交を結び、399年に倭に服属した。倭の攻撃を受けた新羅は高句麗に救援を求めると、好太王は新羅救援軍の派遣を決定、400年に高句麗軍が新羅へ軍を進めると新羅の都にいた倭軍は任那・加羅へ退き、高句麗軍はこれを追撃した。これにより新羅は朝貢国となった。402年、新羅もまた倭に奈忽王の子未斯欣を人質に送って属国となった。404年、高句麗領帯方界まで攻め込んだ倭軍を高句麗軍が撃退した。405年、倭の人質となっていた百済王子の腆支が、倭の護衛により帰国し百済王に即位した。
5世紀、長寿王の時代には朝鮮半島の大部分から遼河以東まで勢力圏を拡大し、当初高句麗系の高雲を天王に戴く北燕と親善関係を結んだ。この時代には領域を南方にも拡げ、平壌城に遷都した。
平壌城時代
遷都直後は大城山城を拠点としたが、後に平壌城に居城を構えた。長寿王は西へ進出して遼河以東を勢力下に収め、475年には百済の首都を陥落させて百済王を殺害、百済は南に遷都した。この時期は満洲南部、遼東半島、朝鮮半島の大部分を支配するに至った。
しかし5世紀末になると百済と新羅が強くなり、百済と新羅の連合により南部の領土を奪われている。危機感を覚えた高句麗は百済に接近し、中国には南北朝の両方に朝貢を行って友好を保ち、新羅との対立を深めていく。高句麗が最も危惧していたのは北朝の勢力であり、その牽制のために南朝や突厥などとも手を結ぶ戦略を採った。
中国で北朝系の隋が陳を滅ぼして全土を平定すると、高句麗は隋に対抗するため突厥と結ぶ。このため隋から4次にわたる侵攻を受けたが、乙支文徳の活躍もあってこれらすべて撃退した。
隋が滅びて唐が興ると、今度は唐が高句麗遠征を行った。これに備えて淵蓋蘇文はクーデターを起こして宝蔵王を擁立し、軍事政権によって唐の進出に対抗した。高句麗は緒戦で善戦し、唐の太宗が親征した第1次侵攻を撃退、百済と結んで新羅を攻めた。新羅の宗主国である唐はこれを受けて新羅を全面支援した結果、660年には百済が滅亡、663年の白村江の戦いで百済の残存勢力も一掃されたため、高句麗は孤立した。さらに高宗の時代になって唐が戦略を持久戦に転換した結果、高句麗の国力消耗は著しくなり、その上に淵蓋蘇文の死後子の間で内紛が生じると、これを機に唐・新羅連合軍は第3次侵攻を起こして王都平壌を攻め、668年に宝蔵王は投降。ここに高句麗は滅亡した。
滅亡後
北部の高句麗遺民は唐によって営州(現在の遼寧省朝陽市)へ強制移住させられた。高句麗の末裔による数度にわたる再興は全て失敗したが、一部の遺民は、粟末靺鞨の建国した渤海国に参加している。旧領に残った者は、後に勃興した女真の金に取り込まれていき、歴史から姿を消した。
一部の遺民は宝蔵王の庶子(あるいは淵蓋蘇文の甥ともいう)の安勝を担いで新羅に入り、新羅から高句麗王(後に報徳王)として冊封され、新羅内で684年まで命脈を保った。
また、遺民の一部には日本へ逃れた者もいる。テンプレート:要出典範囲、高麗神社・高麗川などの名にその名残を留めている。
朝鮮半島では10世紀初め、新羅の王族の弓裔が高句麗の後継を目指して後高句麗を名乗って挙兵し、新羅北部の大半を占領して独立した。その後、王建が後高句麗(当時は泰封と号していた)を乗っ取り、同じく高句麗の再興を意識した高麗が生まれる。
日野開三郎は、弓裔の立てた後高句麗国とは別に、唐が現在の遼東半島一帯に旧高句麗王族を擁立して成立させた傀儡政権としての後高句麗国が存在しており、契丹の遼東占領時に滅亡したとする説を唱えている。
言語系統
中国や朝鮮の史書では夫余と同じ民族と記され[7]、その起源伝説の類似点からも、夫余と同じ民族と見られることが多い[8]。史上でも扶余の流民を受け容れていることが記されている。墓制に関しては扶余と高句麗の違いは歴然としている[9] ものの、『魏書』百済伝の百済王蓋鹵王の上表文には、「臣と高句麗は源は夫余より出る」(臣與高句麗源出夫餘)とあり、当時の百済人は高句麗人を夫余の同種とみていたことが判る。なお、夫余は他に、沃沮(東沃沮・北沃沮)・濊・百済(王族)など満州南部に広く分布していた。 この夫余系民族はその言語系統から、魏書・列伝八十八、北史・巻九十四ほか高句麗に言及した全ての史書がモンゴル系民族(鮮卑→北魏、契丹→遼)とは区別しており、またツングース系と考えられる粛慎の後裔で女真の祖先とみなされる挹婁は、「夫余と容貌は似ているが言語は異なる」と『後漢書』や『三国志』に記されている。
中国の史書によると、高句麗の言語は夫余と同じといい[10]、沃沮と濊もほぼ同じという[11]。夫余・高句麗語が現在のどの系統に属すのかについては古くから論争があり現在に至ってもよく解っていないが、そのいずれであっても現在の朝鮮半島で使われている朝鮮語とは系統が異なっている。
- ツングース+モンゴル語系説…比較言語学的研究により、穢貊系(濊系、扶余系)の語彙[12]の多くがツングース系の語彙と共通し、かつモンゴル系の語彙も含むことから、夫余・高句麗語はツングース系をベースとしたモンゴル系との混成語であるとする説[13]。これに対し、粛慎系の言語はモンゴル系などが混じっていない「純ツングース系」と考えられている。
- 夫余語系説…比較言語学的研究により、『三国史記』所載の高句麗地名から抽出した高句麗語語彙が、ツングース系語彙よりも日本語や中期朝鮮語語彙に多く共通するとして、アルタイ祖語は夫余・日本・朝鮮・韓共通語とテュルク・モンゴル・ツングース共通語の二つに分離し、前者が原始韓語と原始夫余語とに分かれ、ついで原始夫余語が高句麗語と原始日本語とに分かれたとする説[14]。しかし、村山七郎や清瀬義三郎則府は、高句麗語を系統上日本語に非常に近い言語としたうえでツングース語的要素も含むとし、朝鮮語とは遠いことを示している[15]。ただし、そもそも高句麗語の存在や不正確さも指摘されている[16]。
文化
テンプレート:誰範囲2石で築かれた墓(積石塚)と石で築かれた山城が代表的である。高句麗山城は近年、中国や北朝鮮で大量に発見されており、韓国でも高句麗の勢力が及んでいた地域で高句麗式山城がいくつか発見されている。積石塚は高句麗前期の墓制で、後期には土塚即ち横穴式石室をもつ封土墳に移行した。高句麗墓の特徴として華麗な古墳壁画が挙げられる。起源は中国の古墳壁画に求められうるが、すでに前期古墳にもみられるものであり、高句麗独自の風俗や文化を後世に伝えるものとして重要視されている。前期古墳では中国吉林省集安市付近のものが「高句麗前期の都城と古墳」として、後期古墳では朝鮮民主主義人民共和国平壌市・南浦特級市付近のものが「高句麗の古墳遺跡」として、それぞれ世界遺産に登録されている。
仏教
372年(前秦・建元7)、前秦の符堅が高句麗に仏像や経文を送り、高句麗は官史養成のために太学創立、朝鮮半島を支配下に置いていた国家では最も早く仏教を受容した。また『三国史記』高句麗本紀によると、小獣林王の5年(375年)に肖門寺・伊弗蘭寺を創建して順道・阿道らの僧を配したことが朝鮮半島での仏教の始まりと考えられている。既に東晋の僧・支遁(366年没)が高句麗僧に書を送ったことが伝えられており、小獣林王の主導した仏教受容は国家的な取り組みであったことと見られる。
5世紀初頭の広開土王の時代には平壌に9ヶ寺の建立が進められた。テンプレート:要出典範囲。神仙信仰はその後、6世紀頃からは道教として支配者層に広まっていったことが、古墳壁画に仙人・天女の描かれることからも窺える。
栄留王の7年(624年)には唐に願い出て、『道徳経』などを下賜されるとともに道士の派遣を要請し、高句麗の国内で道教の講義を開いてもいる。また仏教寺院を道観に転じることもあった。
国際関係
北方民族との関係
高句麗は鴨緑江中流域の中国郡県内に建国し、漢人地域に対する掠奪や侵略で強大化したため、当初から漢文化の影響が強く、匈奴や柔然との関係はそれほど強くはなかった。
4世紀、中国が五胡十六国時代に入ると、遼西に興起した鮮卑慕容部が前燕を建国し、高句麗はその攻撃を受けて丸都城を落とされ、臣従するようになった。だが華北に進出した前燕は前秦によって滅ぼされ、テンプレート:要出典範囲。この頃、高句麗はシラムレン河流域の契丹や北部満洲の黒水靺鞨にも勢力を延ばしている。また北燕の天王には養子となった高句麗人が擁立されたこともあった[18]。
6世紀に入ってモンゴル高原に突厥が興起すると対立関係が生じた。『三国史記』には突厥が高句麗の新城を攻撃した記事が見え、突厥の「ビルゲ可汗碑」にも初代突厥可汗が東方のボクリ可汗を攻撃した記事がみえる。しかし隋が中国を統一すると巧妙な外交で突厥を分裂させ、一部の契丹や靺鞨が隋に帰付するようになると、高句麗と隋の関係が緊張し、高句麗嬰陽王が隋の営州を攻撃して戦争に発展した。
やがて突厥が復興の兆しを見せると、高句麗は対隋戦略の必要から突厥に接近した。テンプレート:要出典範囲だが高句麗と突厥の通好は隋の疑心を招き、煬帝の大遠征に発展した。隋は高句麗を征服することができず、かえって国内の叛乱によって滅ぶ。突厥はこの機会に乗じて再び勢いを盛り返した。その後、高句麗が唐に滅ぼされると、突厥に亡命した高句麗人もいた。
日本との関係
長野県には大室古墳群や針塚古墳に代表されるように、5世紀から6世紀にかけての高句麗式積石塚が分布し、東京都狛江市の亀塚古墳も高句麗式とみなされる(しかし、亀塚古墳は渡来系による造営ではないことが証明されている[19])。また狛、巨麻の古代地名は以下の例のように近畿、関東に分布する。
4世紀末から5世紀にかけて、高句麗は倭(日本)と敵対関係にあったので、当時の高句麗人が自発的に移住してきたのか戦争捕虜であったのかは不明である。この時期の高句麗が倭と敵対したことを示すものとして、宋の順帝に対して、478年に倭王武が上表した「而句驪無道圖欲見呑掠抄邊隷虔劉不已毎致稽滯以失良風雖曰進路或通或不臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大舉奄喪父兄使垂成之功不獲一簣居在諒闇不動兵甲是以偃息未捷至」との文言[20]点からも裏付けられる。
6世紀になって百済と高句麗の関係が改善するにつれて倭と高句麗との関係も友好的なものとなり、相互の通好も行われた。570年に北陸に漂流した高句麗人が「烏羽之表」を携えており、これが正式な国書であると王辰爾によって解読され、初めて国交が開かれたと伝えられる。7世紀前半までの高句麗と倭との国交は文化的な交流に限定されており、特に仏僧の活躍が目立つ。595年に来朝し、後に聖徳太子の師となった恵慈、610年に来朝した碾磑(みずうす)を製法を伝えたという曇徴は有名である。7世紀後半には文化交流に留まらず、伊梨柯須弥(イリ・カスミ、通常淵蓋蘇文と表記)のクーデターを伝えてもおり、政治的な関わりをもつようになった。
668年に高句麗が滅亡すると倭に亡命してきた高句麗人もあり、716年には武蔵国に高麗郡が建郡された。高麗郡大領となる高麗若光には705年に王(こきし)の姓が贈られており、高句麗王族だと推測される。高麗郡高麗郷の地である埼玉県日高市にはこの高麗王若光を祭る高麗神社が今も鎮座する。ほかにも『新撰姓氏録』には以下のような高句麗系氏族が見られる。
- 狛人…高麗国須牟祁王の後(河内国未定雑姓)
- 狛造…高麗国主夫連王より出(山城国諸蕃)
- 狛首…高麗国人安岡上王の後(右京諸蕃)
- 狛染部…高麗国須牟祁王の後(河内国未定雑姓)
- 大狛連…高麗国溢士福貴王の後(河内国諸蕃)
- 大狛連…高麗国人伊斯沙礼斯の後(和泉国諸蕃)
王
王家の姓
『宋書』夷蛮伝、『隋書』東夷伝、三国史記高句麗本紀では、高句麗の王族の姓を「高」(こう/カウ)としている。高句麗の王は中国史書には長らく名だけで現われており、「高」姓とともに記録に残ったのは『宋書』における長寿王が最初である。長寿王以後は「高句麗王・高璉」というように中国式の姓名表記がなされるようになり、それ以前にはおそらく姓は無かった。
三国史記では建国当初は高姓ではなく、5代慕本王までは夫余の氏族名である「解」(かい/ケ)を本姓としている[21]。高姓の由来としては、早くから中華文明に接触していた高句麗が高陽氏の苗裔として高氏とする付会を行なったとする見解[22]や、元は高姓であった北燕王慕容雲との同族関係の確認によるものとする意見がある[23]。
王と五族
『後漢書』高句麗伝によると、高句麗には五族(消奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部)と呼ばれる有力な地縁的集団があった。王は消奴部(後に桂婁部)から立てられ、王妃は絶奴部から出されていた。 テンプレート:要出典範囲。
2世紀末、故国川王の死後の発岐・延優(後の山上王)の兄弟争いに公孫氏が介入したことにより、高句麗の本拠地が丸都城(集安市)に移ると、基盤となる地域からの移動のために五族の力が薄れていく契機となった。
3世紀前半の東川王の時代には魏の攻撃を受けて逃亡した王を支えたのは直属の五部であり、王都を回復した後の褒賞は五族には与えられず、五部にのみ与えられることとなった。平壌に遷都した後は五族は内・東・西・南・北(或いは黄・前・後・左・右)の五部に改称された。 テンプレート:要出典範囲。この後に五部は高句麗の王都付近及び地方の軍政・行政のための区画となった。高句麗の滅亡時点では五部の下に176城があったといい、部の長官を褥薩、部の配下にある城主を道使といった。これらの王都の区画の制度は高麗の五部坊里、李氏朝鮮の五部へと受け継がれた。
官制
『三国史記』によれば、古くは左輔・右輔の官名が最高位のもので、百済でも同様に左輔・右輔が最高位の官名だった。高句麗では第8代新大王のときにその上に国相という官を新設し、王の即位に功績のあった明臨答夫が初めてその位についた。
『三国志』や『後漢書』などの表記・序列に異同はあるものの、3世紀には次の10階の官制が整っていたものと考えられている。ただし相加・対盧・沛者・古鄒加は五族の有力者が称したものであり、必ずしも王権の下に一元化された官制だったわけではないと考えられている。
- 相加(そうか)
- 対盧(たいろ)
- 沛者(はいしゃ)
- 古鄒加(こすうか)
- 主簿(しゅぼ)
- 優台(ゆうだい): "于台"と書く場合もある。
- 丞(じょう)
- 使者(ししゃ)
- 皁衣(そうい)
- 先人(せんじん)
『隋書』や『新唐書』に見られる官位名も異同が著しいが、いずれも12階となっている。第15代の美川王(在位:300年-331年)の時代になって、次のような王権の下に一元下された13階の官制に整備されたと考えられている。
- 大対盧(だいたいろ)
- 太大兄(たいだいけい)
- 烏拙(うせつ)
- 太大使者(たいだいししゃ)
- 位頭大兄(いとうだいけい)
- 大使者(だいししゃ)
- 大兄(だいけい)
- 褥奢(じょくしゃ)
- 意侯奢(いこうしゃ)
- 小使者(しょうししゃ)
- 小兄(しょうけい)
- 翳属(えいぞく)
- 仙人(せんにん)
高句麗の末期に大対盧の位にあった淵蓋蘇文はクーデターを起こし、莫離支(ばくりし)の位に就いて専権を振るった。莫離支そのものの名称は『三国史記』職官志では『新唐書』を引いて12階のうちの最下位の古雛大加の別名としている(ただし『新唐書』高麗伝にはそのような記載はない)。
歴史論争:高句麗の歴史帰属をめぐる問題
中国と韓国との間で高句麗はどちらの歴史に帰属するかについての論争が起きている(北朝鮮も参加しているが韓国ほどには積極的でない)。1980年代に中国における高句麗の研究が積極的になり、高句麗を中国史の一部とみなす見解が増え始め、首都が国内城から平壌に移った427年を境に、それ以前を中国史、以後を朝鮮史とする「一史両用論」が学会では主流となった[24]。その後、中国での研究が進み、90年代中頃になると「一史両用論」から、「高句麗を全面的に中国史の一部」との見解が優勢となり、2002年には中国社会科学院による中国東北部の歴史研究プロジェクト「東北工程」が本格的に開始され、2003年末頃に「高句麗は古代中国にいた少数民族である夫余人の一部が興した政権」であり、「高句麗は中国の一部であり自国の地方政権である」との見解が中国国外に知れ渡ることになった[24]。
高句麗人はツングースに属するとみられ、韓系である新羅人とは別系統の言語を話した。一般的に現在の朝鮮語の祖語は新羅語と考えられている。このことから言語をもって民族の基準とすると、朝鮮民族を形成していった主流は新羅人であると考えられ、現代の韓国・北朝鮮の祖とみなされる新羅と高句麗とでは民族的・言語的に隔たりがあり(金芳漢著・大林直樹訳『韓国語の系統』)、高句麗を現在の韓国・北朝鮮へ連続する国家と見なす充分な根拠がない。
室谷克実は、中国の史書は「春秋の筆法」が基本で当たり前のことは書いていないため、「(中国の史書には)高句麗などのツングース系民族と韓族との間には、比較の記述がない。(民族が)違うことが大前提であり、わざわざ違うとは書いていない」と述べている[25]。
東京大学社会科学研究所のグレゴリー・ノーブル教授は、「中国が高句麗を歴史的に中国の一部としたことに韓国が猛反発したものだが、高句麗が中国の文明との深い交流のなかから生まれてきたことを考えると、中国側の見方に根拠がないわけではない」と述べている[26]。
黄文雄は著書で、「満州族の先祖が築いた高句麗と渤海」との見出しで、「高句麗の主要民族は満州族の一種(中略)現在の中国の少数民族の一つ、満州族の祖先である」としている[27]。黄は、「ひるがえって、満州史の立場から見れば、3世紀から10世紀にかけて東満州から沿海州、朝鮮半島北部に建てられた独自の国家が高句麗(?~668年)と、その高句麗を再興した渤海(698~926年)である」と高句麗を満州史としている[27]。
中国の主張
- 高句麗が誕生した地域は紀元前3世紀には燕の領域であり、秦が六国を統一した後は秦の遼東外邀に属した。紀元前108年に漢が衛氏朝鮮を滅亡させ、玄菟郡を設置した際に高句麗は玄兎郡内の高句麗県に属していた。紀元前37年に高句麗の始祖朱蒙が高句麗の五部を統一し、建国したのも漢の玄菟郡の領土内であった。このように、高句麗は前漢の武帝が設置した植民地漢四郡の一つ玄菟郡から興った国であり、中国王朝の秩序の中で建国された[24]。
- 高句麗の始祖朱蒙の建国以前の高句麗県はすでに漢の玄菟郡に属し、東漢の180年間に高句麗は東漢王朝に臣属していた。西暦220年から426年まで高句麗は中国中央王朝に臣属し、高句麗侯・高句麗王・征東大将軍・営州刺史・楽浪郡公などの官職を授けられていた。南北朝時期には、北魏・北斉及び南朝の各政権に貢物を納めた。また、北魏・北斉及び南朝の各政権からは高句麗王・都督遼海諸軍事・征東将軍・遼海郡公・領護東夷中郎将・散騎常侍・東夷校蔚・驃騎大将軍・遼東郡開国公などの官職を授けられた。高句麗が隋・唐と数回にわたって戦争を行ったが、その期間は合わせて10年程度に過ぎず、残る70年以上の期間は隋・唐に臣下として臣属し、隋・唐の中央王朝から官職を授けられた。このように、高句麗王国は始終中国の中央王朝の一地方政権であり、一時的な割拠状態を理由にその歴史の全期間にわたって中国へ帰属した事実を否定してはならない[24]。
- 高句麗人は中国古代民族である扶余民族。高句麗が滅びた後、高句麗の後裔たちの多数が中国の中原地域・突厥・渤海などに吸収され、中国の各種族に融合され、朝鮮半島の大同江以南の一部の高句麗人たちが新羅に統合された。朝鮮半島に移住した中国の各種族もかなり多い。しかし、高句麗の後裔は少数である。朝鮮民族は新羅人を中核に形成されたため、高句麗人とは違う民族であり、高麗王朝は新羅系の王朝であって高句麗とは何も関係ない[24]。
- 今日の中国と朝鮮の国境を境にすれば、隋・唐の高句麗に対する戦争は侵略戦争であるが、高句麗の領域は高句麗の建国以前の1000年間(箕子朝鮮・衛氏朝鮮600年、漢四郡400年)も中国の漢民族が支配していた地域であるため、隋・唐が高句麗を攻めたのは侵略戦争ではなく、中国の民族内部の統一戦争である[24]。
- 朝鮮半島の北部地域が朝鮮民族の居住地になったのは15世紀以後のことである。したがって、5世紀に高句麗が首都を平壌に移したことから、高句麗を朝鮮の歴史と論じられない。15世紀以後の李氏朝鮮と箕子朝鮮・衛氏朝鮮は朝鮮という名称こそ同じであるが、民族の構成と国家の帰属が異なるので、同列には見なされない。箕子朝鮮・衛氏朝鮮は中国の漢民族の祖先が建国し、中国の歴史に属する[24]。
- 高句麗の領土の3分の2は現在の中国の領土であり、当時の高句麗人の4分の3は中国に帰化した。これは今日のアメリカ史を述べる際、アメリカインディアンの歴史まで包括する反面、移民者の元の故郷のヨーロッパ史を言及しないことと同じである[28]。
韓国の主張
- 高句麗が中国王朝から官職を受けた時期もあるが、これは東アジア前近代で広く行われた外交儀礼であり、中国の論理を適用すると倭国・越南・新羅・百済など周辺国家はすべて中国の地方政権扱いとなる。高句麗は地方政権で、新羅・百済は独立王朝というが、中国と同じ関係を結んでいる三国のうちで、高句麗のみを地方政権扱いする理由は何なのか。そもそも、当時の中国に一貫して中央政府と呼べる統一王朝が存立していない[24]。
- 高句麗滅亡後、多数の高句麗人が唐によって強制移住させられたが、高句麗故地に残った高句麗人の数は強制移住させられたそれより多く、彼らは新羅・渤海に加わり、渤海滅亡後は、渤海遺民が、高句麗復興運動を継承する過程で建国され、高句麗を継承しているという意識が明らかな高麗王朝に吸収された[24]。
- 高句麗が一貫した独立国家である以上、中国国内戦争論は成り立たない[24]。
- 満洲が漢民族化したのは清朝末期以降であることから中国の政権とするには不適当[24]。
- 箕子朝鮮は神話であり、衛氏朝鮮は中国人が建国しただけで朝鮮人による王朝を中国の歴史と断定することは出来ない[24]。
高句麗遺跡のユネスコ世界遺産登録問題
北朝鮮は2000年頃から、平壌市と南浦市に所在する高句麗後期の遺跡の世界遺産登録を働きかけていた(高句麗古墳群)。2003年には登録される見込みであったが、中国も吉林省集安市を中心に分布する高句麗前期の遺跡の登録申請を行った(高句麗前期の都城と古墳)。この経緯によって、両遺跡は2004年に同時登録という形で決着をみた。
補注
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関連項目
参考文献
- 鮎貝房之進『朝鮮姓氏・族制考』国書刊行会、1987(原著 1937、『雜攷姓氏攷及族制攷・市廛攷』1973復刊から「姓氏攷及族制攷」を独立させ改題再刊したもの)
- 井上秀雄『古代朝鮮』 講談社〈講談社学術文庫〉、2004 ISBN 4-06-159678-0(原著『古代朝鮮』日本放送出版協会、1972)
- 『三国史記』第1巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫372〉、1980 ISBN 4-582-80372-5(新羅本紀)
- 『三国史記』第2巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫425〉、1983 ISBN 4-582-80425-X(高句麗本紀)
- 『三国史記』第3巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫454〉、1986 ISBN 4-582-80454-3(雑志)
- 『朝鮮史』 武田幸男編、山川出版社〈新版世界各国史2〉、2000 ISBN 4-634-41320-5
- 高凱軍『通古斯族系的興起』(中華書局 2006年)
外部リンク
- シロコゴロフ著、川久保悌郎・田中克巳訳『シロコゴロフ 北方ツングースの社會構成』(1942年、岩波書店)p285-p287「鳥居龍蔵氏は彼らを北朝鮮の強国、夫余及び高句麗の建設者と見做し、彼等をツングースであろうと考えている。」
- 『白鳥庫吉全集 第4巻』(1970年、岩波書店)P536「『穢貊は果たして何民族と見做すべきか』穢貊の言語には多量のTunguse語に少量の蒙古語を混入していることが認められる。想うにこの民族は今日のSolon人の如く、Tunguse種を骨子とし、之に蒙古種を加味した雑種であろう。」
- 井上秀雄、他訳注『東アジア民族史1-正史東夷伝』(1974年、平凡社)p103「(高句麗、夫余の)両族は、ともにツングース系と考えられている。両族が同系であることは始祖神話(東明・朱蒙伝説)の類同によっても推測できよう。」
- 加藤九祚『北東アジア民族学史の研究』(1986年、恒文社)p156「高句麗は北扶余から発したというが、その北扶余がツングース・満州語族に属することは定説となっている」
- 三上次男・神田信夫編『民族の世界史3 東北アジアの民族と歴史』(1989年、山川出版社)p161「Ⅱ(夫余、高句麗、濊、東沃沮)の言語はツングース・満州語の一派か、またはそれに近い言語と思われるが、むしろ朝鮮語と近い親縁関係にあるか、詳しく調べてみなければわからない。」
- 鳥越憲三郎著『古代朝鮮と倭族』(1992年、中央公論社)「高句麗は紀元前1世紀末、ツングース系の濊族によって建国」
- 『Yahoo!百科事典』「【濊貊】前3世紀ごろモンゴル系民族に押し出されて朝鮮半島北東部に南下し、夫余,高句麗,沃沮を構成したツングース系の諸族を含むのである《浜田耕策》。【夫余】古代中国の東北地方に割拠していたツングース系と思われる民族が建てた国名《村山正雄》。【満洲族】夫余と靺鞨はツングース系の民族ではないかと考えられている《佐々木史郎》。【騎馬民族】「高句麗は東北アジア、満州にいたツングース系民族《護雅夫》。」
- 諏訪春雄「朝鮮で高句麗や百済を建国した夫余族はツングース系の遊牧民族(学習院大学教授 諏訪春雄通信)」
- 黄文雄「遼東や北満の地は、かつて高句麗人、渤海人などの(中略)ツングース系諸民族が活躍した地である(黄文雄『韓国は日本人がつくった』)」
- 広辞苑「【高句麗】紀元前後、ツングース族の扶余の朱蒙の建国という」
- 大辞泉「【高句麗】紀元前後にツングース系の扶余族の朱蒙が建国」
- 南出喜久治「私の見解では、高句麗は、建国の始祖である朱蒙がツングース系(満州族)であり、韓民族を被支配者とした満州族による征服王朝であつて、韓民族の民族国家ではないと考へている。(いはゆる「保守論壇」に問ふ ‹其の五›日韓の宿痾と本能論)」
『三国史記』巻第十八・高句麗本紀第六・広開土王紀 :「十七年(408年)春三月。遣使北燕。且叙宗族。北燕王雲、遣侍御史李拔報之。雲祖父高和、句麗之支属、自云高陽氏之苗裔。故以高爲氏焉。慕容寶之爲太子。雲以武藝侍東宮。寶子之、賜姓慕容氏。」