横穴式石室
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横穴式石室(よこあなしきせきしつ)とは、日本においては、古墳時代後期に古墳の横に穴をうがって遺体を納める玄室へつながる通路に当たる羨道(せんどう)を造りつけた石積みの墓室のことをいう。
イギリスの古墳(羨道墳、Passage grave)などヨーロッパやインドなどでも普遍的に見られる墳丘墓の内部施設であるが、特に日本の場合は、古墳時代前期の粘土槨による竪穴式の墓室や竪穴式の石室に対する概念として、中国の塼槨墓(せんかくぼ)の影響を受けながら、新羅などの朝鮮半島諸国や日本で発展・盛行した横穴式の古墳内部施設としての墓室を指す概念である。
高句麗の影響が、5世紀頃に百済や伽耶諸国を経由して日本にも伝播したと考えられ、主に6~7世紀の古墳で盛んに造られた。奈良県の石舞台古墳のような巨石を用いるもの(石舞台の場合は墳丘が喪失している)が典型的であるが、中国の塼槨墓を意識したような切石や平石を互目積(ごのめづみ)にした磚槨式石室と呼ばれるものもある。
日本での横穴式石室
日本列島でも横穴式石室や横穴系墓室は、4世紀後半から北九州で造られ、それが九州全域に拡がり、東の方へ伝わった。
- 4世紀後半には、北九州の福岡市に老司古墳と鍬崎古墳で造られている。それぞれの墳丘長は約90メートルと62メートルの前方後円墳である。老司は後円部に3基、前方部に1基を、杉崎は後円部に埋葬施設が確認されている。
- 5世紀の初頭から前半には、福岡市西区に丸隈山古墳や佐賀県唐津市浜玉町に横田下古墳[1]などが築造され、より整形された割石積みの横穴式石室を持つようになっている。
- 5世紀中葉から後半には、九州の北部から中部にまでひろがり、福岡県八女郡広川町石人山古墳や熊本県玉名郡菊水町江田船山古墳などのように地域的な特徴をもった横穴式石室が盛行する。また、北部九州の各地では石棺式石室などが考え出され、福岡県行橋市では竹並横穴群が知られている。さらに宮崎県南部から鹿児島県東部に地下式横穴が墳丘の下につくられている。例えば宮崎県東諸県郡国富町の塚原地下式横穴A号など。
- 九州から東の地域では、5世紀代の古墳の埋葬施設は縦穴系が一般的であるが、画一的なものでなく様々な埋葬法が各地で行われていた。このような中でも極限られて地域では横穴式石室が採用され始めていた。例えば、岡山市千足古墳、大阪府堺市塔塚古墳(方墳)、藤井寺市藤の森古墳、奈良県葛城市平岡西方古墳群所在古墳、和歌山県橋本市陵山古墳、同県和歌山市岩橋千塚古墳群の大谷22号墳、同花山6号墳、奈良県椿井富山古墳(円墳か)、福井県三方上中郡若狭町向山1号墳、三重県志摩市おじょか古墳、愛知県西尾市穴観音古墳などに極限られている。
- 6世紀になってからは横穴式石室が全国各地にひろがった。朝鮮半島で一般化されつつあった横穴石室が日本の各地にひろがるには約1世紀近くの時間がかかった。
- 646年(大化2)薄葬令が公布された。この令によって、古墳の築造が細かく規制されたテンプレート:要出典。石室をつくることが許されたのは貴族階級であり、一般庶民には石室をつくることは許されず、地に埋めることが規定されているテンプレート:要出典。
代表的・特異な構造石室
- 石舞台古墳(奈良県高市郡明日香村)巨大な花崗岩を積み上げた両袖式の石室。石棺は、凝灰岩製の家形石棺であったと推定されている。
- 見瀬丸山古墳(奈良県橿原市)全長28.4メートルで、全国第1位の規模である。最も大きな石材は100トンにも達すると推定されている。
- 花山塚古墳(奈良県桜井市)朝鮮半島の磚槨墳によく似た、磚(レンガ)積みの石室。被葬者は渡来系と推定される。
- 文殊院西古墳(奈良県桜井市)切石積みの精美な石室。横穴式石室の最終形とみられる。
- 段の塚穴(徳島県美馬郡美馬町)の太鼓塚・棚塚2古墳の石室は、天井の内面がいくらか弓状に盛り上がり、平面形が胴張りで膨らんでいる形状に工夫されている。周辺の26基の古墳も同じような工夫が成されている。