新羅
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新羅(しらぎ/しんら、紀元356年[1]- 935年)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。「新羅」という国号は、503年に正式の国号となった[2]。新羅、半島北部の高句麗、半島南西部の百済の3か国が鼎立した7世紀中盤までの時代を朝鮮半島における三国時代という。
7世紀中ごろに朝鮮半島をほぼ統一し、高麗、朝鮮と続くその後の半島国家の祖形となった。内乱や飢饉で国力を弱体化させ、高麗に降伏して滅亡した。
目次
概要
『三国史記』の新羅本紀は「辰韓の斯蘆国」の時代から含めて一貫した新羅の歴史としているが、史実性があるのは4世紀の第17代奈勿王以後であり、それ以前の個々の記事は伝説的なものであって史実性は低いとされる。
6世紀中頃に半島中南部の加羅諸国を滅ぼして配下に組み入れた。唐が660年に百済を、668年に高句麗を滅ぼした時には、新羅は唐軍指揮下で参軍した(羈縻支配)。その後、唐が吐蕃と戦争を始めると、反乱を起こして旧百済領全土と旧高句麗の南半分を統治する唐の役所を襲撃して官員を殺戮し(唐・新羅戦争)朝鮮半島の中南部を統一した。首都はほぼ金城(現在の慶尚北道慶州市)にあった。9世紀末には新羅の国力は衰え、百済・高句麗の再興を図る勢力が出て後百済・後高句麗との鼎立による後三国時代となり、最終的には後高句麗から起こった高麗に帰順して新羅は滅亡した。
新羅の歴史は、『三国史記』新羅本紀・敬順王紀に記されるように、始祖から第28代真徳女王末年(654年)までを上代、第29代武烈王(金春秋)即位から第36代恵恭王末年(780年)までを中代、第37代宣徳王から滅亡までを下代と分類する。
呼称
当初の「斯蘆」という文字の発音は現代日本語では「しろ」現代韓国語では「サロ」だが、漢字の上古音では「シラ」である。
日本では習慣的に「新羅」を「しらぎ」と読むが、奈良時代までは「しらき」と清音だった。万葉集(新羅奇)、出雲風土記(志羅紀)にみられる表記の訓はいずれも清音である。いずれにせよ、「新羅」だけで「しんら」=「しら」と読めるのに、後に「き」または「ぎ」という音が付加されている。これは「新羅奴」(憎い新羅というニュアンス)、あるいは「新羅城」ではないかという説があり、新羅と日本が敵対していた事実を反映しているとする。
前史
斯蘆国の時代
3世紀ごろ、半島南東部には辰韓十二国があり、その中に斯蘆国があった。辰韓の「辰」は斯蘆の頭音で、辰韓とは斯蘆国を中心とする韓の国々の意味と考えられている。新羅は、この斯蘆国が発展して基盤となって、周辺の小国を併せて発展していき、国家の態をなしたものと見られている。
4世紀から5世紀にかけての新羅と百済は、高句麗と倭国に比べて、国力も領土も弱小であったことに注意すべきであると武光誠は指摘している[3]。当時の新羅の領域は北九州と同程度で、百済も新羅の二倍程であった[3]。また、新羅にとって、自国と同程度の広さの北九州と中国・四国・近畿地方を領土とする大和朝廷は脅威であった[4]。 テンプレート:See also
朝貢・服属に関して
帰属に関する歴史論争の詳細は「東北工程」及び「辰韓」も参照。
『太平御覧』で引用する『秦書』には、377年に前秦に初めて新羅が朝貢したと記されており、382年には新羅王楼寒(ろうかん、ヌハン)の朝貢が行われ、その際に新羅の前身が辰韓の斯盧国であることを前秦に述べたとされる。この「楼寒」については王号の「麻立干」を表すものと見られ、該当する王が奈勿尼師今に比定されている。記述から奈勿尼師今の即位(356年)が新羅の実質上の建国年とも考えられている。
また、広開土王碑や中原高句麗碑により、時期によって倭(ここで言う倭をヤマト、九州の倭人を指すなど諸説あり。定説はヤマト)や高句麗によって支配を受けていたことも明らかとなっている。
2011年に新しく見つかった『梁職貢図』模本に、新羅が韓や倭の属国であるという一節があった[5][6]。また、『梁書』新羅伝には「新羅者、其先本辰韓種也。其人雜有華夏、高麗、百濟之屬(新羅、その先祖は元の辰韓(秦の逃亡者)の苗裔である。そこの人々は華夏(漢族)、高句麗、百済に属す人々が雑居している)」という事から、雑多な系統の移民の聚落が散在する国家であったと考えられる。
「秦韓」と秦の移民政権問題
中国政府のシンクタンクである中国社会科学院は新羅について「中国の秦の亡命者が樹立した政権」であり、「中国の藩属国として唐が管轄権を持っていた」と記述している[7]。また、中国の歴史学者の李大龍は、新羅の前身である辰韓は秦韓とも呼ばれ、中国の秦の人が建てた国だから、新羅は中国民族が建てた国だと主張している[8]。
なお、『後漢書』辰韓伝では、以下のように記載される。 テンプレート:Squote
『三国志』魏書辰韓伝では、以下のように記載される。
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『晋書』辰韓伝では、以下のように記載される。 テンプレート:Squote
これらの中国資料によると、新羅は古くは辰韓=秦韓と呼ばれ、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人の国という。
また、『北史』新羅伝には、 テンプレート:Squote との記述がある[9]。
また水谷千秋は、辰韓の民の話す言語は秦の人に似ており、辰韓は秦韓とも呼ばれていたため、実際に中国からの移民と考えて間違いない、と述べている[10]。 当初は様々な書き方をしていたのを6世紀に正式に「新羅」という表記に統一した。
建国神話
『三国史記』新羅本紀によれば、朴氏・昔氏・金氏の3姓の王系があること、そしてそれぞれに始祖説話を持っていることが伺える。新羅はこの3王統により何度か王朝交代が起きており、それぞれの王統が王位を主にしめていた時代を朴氏新羅(初代赫居世居西干~)・昔氏新羅(57年・第4代脱解尼師今~)・金氏新羅(356年・第17代奈勿尼師今~)と呼ぶ。なお、昔氏新羅時代に初代金氏の王である第13代味鄒尼師今が、また金氏新羅時代には第53代神徳王から3代だけ朴氏から王が出ている。
朴氏の始祖説話
- 朴氏初代の朴赫居世
- 辰韓の六村の長の一人が、蘿井(慶州市塔里面に比定される)の林で馬の嘶くのが聞こえたので近寄ったところ、馬が消えて大きな卵があった。卵を割ると中から幼児が出てきて育て上げたが、10歳を越える頃には人となりが優れていたことから六村の人たちは彼を王位につけた。卵が瓠(ひさご)ほどの大きさであったため、辰韓の語で瓠を表す「朴」を姓として名乗った。建国時に腰に瓠をぶら下げて海を渡って来たことから瓠公と称されるようになった倭人が、大輔という役職名の重臣になった。また、瓠公が、瓠を腰にぶら下げて海を渡ってきたことから瓠公と朴赫居世を同定する、またはその同族とする説がある[11]。朴赫居世は紀元前57年に13歳で王位(辰韓の語で王者を表す居西干と称された)に就き、国号を徐那伐とした。また、閼英井(南山の北西麓の羅井に比定される)に龍が現れ、その右脇から生まれた幼女が長じ、容姿端麗にして人徳を備えていたので朴赫居世は王妃に迎えた。当時の人々は赫居世と閼英(アルヨン)とを二聖と称した。
昔氏の始祖説話
- 昔氏初代の昔脱解(第4代脱解尼師今)
- 倭国東北一千里のところにある多婆那国(現在の兵庫北部等の本州日本海側と比定される)の王妃が妊娠ののち7年たって大きな卵を生み、不吉であるとして箱に入れて海に流された。やがて辰韓に流れ着き老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。箱が流れ着いたときに鵲(カササギ)がそばにいたので、鵲の字を略して「昔」を姓とし、箱を開いて生まれ出てきたことから「脱解」を名とした。長じて第2代南解次次雄の娘(阿孝夫人)の女婿となり、のちに王位を譲られた。
- 多婆那国の比定地
この脱解の出身地である多婆那国は、脱解が船で渡来した人物であることを示す挿話などと併せて、日本列島内の地域に比定されている。比定地は、丹波国[12]、但馬国、肥後国玉名郡などの説がある。『三国遺事』では龍城国とされる。
金氏の始祖説話
- 金氏始祖の金閼智(第13代味鄒尼師今の7世祖)
- 脱解尼師今の治世時に、首都金城の西方の始林の地で鶏の鳴き声を聞き、夜明けになって瓠公に調べさせたところ、金色の小箱が木の枝に引っかかっていた。その木の下で白い鶏が鳴いていた。小箱を持ち帰って開くと中から小さな男の子が現れ、容姿が優れていたので脱解尼師今は喜んでこれを育てた。長じて聡明であったので「閼智」(知恵者の意味)と名づけ、金の小箱に入っていたので「金」を姓とした。また、このことに合わせて始林の地を鶏林と改名した。
赫居世神話に現れる六村はのちの新羅六部の前身であると見られており、これらの部と王統がそもそも結びついていないことを示している。また3姓の始祖説話については、それぞれに誕生の形態が異なりながらも姓の由来を説くものであり、3つの有力な集団があって王位を持ちまわっていたということが窺い知れる。これらの始祖説話は紀元前後に繋年されたものではあるが、実際に新羅で姓が用いられるようになったのは6世紀からのことと見られており[13]、後代に整備されたものであるとの可能性もある。いずれにせよ、複数の王統を持つことや、建国初期に倭人勢力との関わりを伝えることなど、高句麗・百済の始祖説話体系とは異なり、新羅の特徴的事象となっている。
新羅の起源をめぐる隣国での諸説
日本での伝承
稲飯命(古事記では「稲氷命」と書く)については、『新撰姓氏録』が新羅の祖は鵜草葺不合命の子の稲飯命(神武天皇の兄[14])だとしているが詳細不明[15]である。
天之日矛(日本書紀では天日槍と書く)については、記紀や風土記などに伝承がある。天之日矛は新羅の王子だったが王位を弟の「知古」に譲って自分は継がず、日本に帰化したという。彼は最終的に但馬(兵庫県豊岡周辺)に土着し、三宅連氏の祖先となった。天之日矛の渡来は古事記は応神朝[16]、日本書紀は垂仁朝[17]、風土記は神代[18]のこととし、伴信友は天之日矛から多遅麻毛理までの世代数から計算して天之日矛の渡来は孝霊天皇の時代のことと推定している。いずれにしろ、なぜ新羅風の名前でなく純然たる和風の名前なのかは謎[19]である。
天之日矛のルーツについては、日本側の伝承によれば日本から渡った稲飯命の開いた新羅王朝家の子孫である。 また半島側の資料からも、新羅の王族である朴氏・昔氏・金氏の三始祖のうち昔氏の始祖脱解の出生については倭国東北1千里(当時の1里はおよそ500m)という。昔脱解は船で渡った倭人と見られ、その出生地は諸説あって現在の日本の但馬、丹波、肥後のいずれかの地域とされるが、但馬(兵庫県北部)と推定する向きが多く、天之日矛が祭られる豊岡と一致する。 豊岡等の地域を基点に倭から半島へ、そして半島から倭へと倭人の移動があった可能性が比定される。
中国での伝承
隋書新羅伝によれば、3世紀の中頃、魏の将軍毌丘倹が高句麗を撃破し、高句麗王の位宮(東川王)は沃沮に逃亡した。位宮はその後、高句麗に帰還したが、沃沮に残留した部隊があり、彼らは南下して辰韓の先住者を破り新羅を建国したという。別の伝承によれば、その王はもと百済人で、海から逃げて新羅に入り、ついにその国に王となった。祚を伝えて金真平に至った。その先には百済に附庸していたが、のち百済が高句麗を征するのに因って、高句麗人は戎役に堪えられず、あい率いてこれに帰したので、ついに強盛を致し、因って百済を襲い、迦羅国を附庸とした。
歴史
以下本節の月日はすべて旧暦、年は当該旧暦年を西暦に単純置換したものである。
1145年に完成した『三国史記』の「新羅本紀」では、始祖から真徳女王までを上代、武烈王から恵恭王までを中代、宣徳王から敬順王までを下代と呼んでいる。一方日本の朝鮮史研究においては、新羅が半島を統一した時期を統一新羅時代と呼んでいる。
上代
新羅は長く高句麗に従属していたが、5世紀中頃からその支配下を脱却しようとしてこれと争うようになった。その傍らでは辰韓諸国に対する支配力を高め、加羅諸国の領有をめぐっては百済とも対抗する姿勢を明らかにし、ここに三国が相競う様相を顕われ始めた。さらには広開土王碑の銘文や日本の「三韓征伐」伝承にも垣間見られるように、新羅は倭国による断続的な侵攻にさらされ、その結果として何らかのかたちで倭国の支配下にあった期間もあったと考えられている。
「新羅本紀」による新羅の建国は前57年だが、実際の建国は356年と考えられている。以下は『三国史記』[20]や『日本書紀』[21]が記すそれぞれの王の治世における事績である。
- 新羅初代王赫居世居西干の時代
- 二代王南解次次雄の時代
- 第四代新羅王の脱解王の時代
- 脱解王は倭国から東北一千里の多婆那国の王の子といわれ[20]、この多婆那国は竜神信仰を持っていたことや交易関係などから、日本列島の丹波国にも比定され[22]、脱解王の出身氏族である昔氏は倭人とされる[23]。
- 第五代新羅王の婆娑尼師今の時代
- 日本書紀で倭国に服したという新羅王波沙寐錦(はさむきむ)のことを指すともいわれる[25]。また、414年に建てられた広開土王碑の第三面二行に「新羅寐錦」とあり、中原高句麗碑では、高句麗を「大王」として新羅王を「東夷之寐錦」とされていることから、「寐錦」は、新羅の固有の君主号ともいわれる[26]。法興王11年(524年)の建立とされる蔚珍鳳坪碑に法興王は「寐錦王」として現れている。また、同時に連なっている高官に「葛文王」の表記が見られることから、6世紀初頭当時の新羅が絶対的な「王」による一元的な王権の支配下にあったわけではなく、寐錦王と葛文王という二つの権力の並存であったとも考えられている[27]。なお、法興王の前代の智証麻立干の時代に国号を新羅として君主号を王に定めている[20]。
- 第6代新羅王の祇摩尼師今の時代
- 第8代新羅王の阿達羅尼師今の時代
- 158年、倭人が来訪する[20]。
- 第9代新羅王の伐休尼師今の時代
- 倭人が飢饉に見舞われ、食を求めて1千余人が新羅に流入した[20]。
- 第10代王奈解尼師今 の時代
- 倭人が国境を犯す[20]。奈解王は将軍利音に反撃させた。
- 倭人が東部国境に侵入[20]。同7月、将軍の昔于老が沙道で倭軍を撃退、倭人の兵船を焼き払う。
- 第12代王沾解尼師今の時代
- 倭人が于老を殺害[20]。
- 第14代の王儒礼尼師今の時代
- 天皇は平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)、的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)を加羅に遣わした。天皇は精兵を授けて、「襲津彦が帰らないのは、きっと新羅が邪魔をしているからだ。お前達は速やかに赴いて新羅を撃ちその道を開け。」と命じた。木菟宿禰らは精兵を進めて新羅の国境に臨んだ。新羅王は恐れて、その罪に服した。[28][21]。
- 倭人が一礼部[29]に来たり、集落に放火し、1千人を捕虜にして立ち去った[20]。
- 倭兵が沙道城(慶尚北道浦項市)を陥落させようとしたので一吉飡の大谷に命じて救援させたが、倭軍が攻略した[20]。
- 倭兵が長峯城を攻略した[20]。
- 伊西国[30]に攻められ首都金城(慶州市)を包囲されるが、竹葉軍の助力で防衛に成功した[20]。なお、この伊西国と日本のイツツヒコ王国との間に関係があったともされる[31]
- 第15代の王基臨尼師今の時代
- 第16代の王訖解尼師今
6世紀になると智証麻立干・法興王らが国制の整備によって国力を高め、6世紀中頃には真興王による急激な領域拡大が可能となった。高句麗を攻撃し北に領土を広げ、百済・日本の連合軍を退け、562年には加羅地方の大加羅を滅ぼして占領し、文字通りの三国時代となった。中国に対しては564年に北斉に朝貢して翌年に冊封を受け、その一方で568年に南朝の陳にも朝貢した。このように中国大陸の南北王朝との関係を深めたことは、半島北部の高句麗に大きな脅威を与えた。隋、唐に対しても建国後まもなく使者を派遣して冊封を受けた。
唐の中国統一の後に危機感を募らせた高句麗は淵蓋蘇文が実権を握って緊急軍事態勢を敷き、新羅と激しく対立するようになっていた百済の義慈王と連携(麗済同盟)したため、新羅は国際的に孤立することとなった。新羅は643年に善徳女王が唐に救援を求めたが、このときに唐からの救援は得られず、逆に女王を退けて唐の皇族を新羅王に据えることを求めてきた。このことが契機となって、新羅国内では親唐派と反唐派の対立を生じ、上大等の毗曇が女王の廃位を求めて反乱を起こした。乱を治めた金春秋(後の武烈王)と金庾信とは真徳女王を立てて親唐路線を継承していった。金春秋は中国の律令制度を取り入れる改革を始め、650年にはそれまで新羅独自で用いていた年号(太和)を廃止し、唐の年号を用いるなどして、唐との連携を強めていった。
日本との関係
テンプレート:See also 新羅建国の王族の昔氏が倭人とされる。また、新羅の重鎮には倭人も登用されていたと考えられ、三国史記には新羅への数千人規模の倭人渡来、また倭国による新羅への軍事的な侵攻が度々記述されている。多くの場合日本側が勝利を収め、新羅側は食料・金銭・一部領土等を日本に割譲した。広開土王碑によれば、「新羅は高句麗の属民であったが、倭が391年に百残・加羅・新羅を臣民となした」とあり、上代の時期に日本の属国になっていたことが窺える。
また、倭の五王のうち珍王と済王が、南朝宋の文帝から「使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事安東大将軍」という称号をもらっており、日本列島と朝鮮半島南部の支配者として公式に認知されていた時期もあった[35]。
三韓征伐(新羅征伐・遠征)においては神功皇后の存在の有無はともかく、倭国から新羅(朝鮮半島)への大規模な軍事侵攻があっただろうことは、朝鮮や中国の資料[36]に残る新羅が倭に従属した経緯から窺える。
中代(654〜780年)
武烈王の即位した654年から、その直系の王統が途絶える780年までの時代を中代と呼び、新羅の国力が最も充実していた時代であった。 新羅は金庾信が援軍を率いて、唐軍に付き随い百済へ進軍。660年に百済を滅ぼし、663年に唐軍が白村江にて倭国の水軍を破ると(白村江の戦い)、668年に唐軍が高句麗を滅亡させた戦いにも従軍した。
新羅の半島統一
その後、唐が西方で吐蕃と戦争している隙に反乱を起こして、676年に唐の行政府に駐留する役人や警備部隊を奇襲して殺害、旧百済領と旧高句麗領の南半分を合わせて朝鮮半島をほぼ統一することに成功した。これ以後を日本では統一新羅時代と呼んでいる。
唐・渤海との関係
半島統一後、唐に対して謝罪外交をする一方、引き続き唐との小競り合いが続いたので関係は緊張し続け、北境に長城を築くなどして唐に対抗した。しかし、696年に唐と渤海との間に戦端が開かれると渤海により唐と新羅は国境線を接しなくなった。これ以後を今日の韓国や北朝鮮では南北国時代と呼んでいる。南北国時代とは、南の新羅と北の渤海を一組にした時代認識である[37]。
732年、渤海に山東の蓬莱港を占領された唐は新羅に南からの渤海攻撃を要請、新羅は唐の要請を受けて渤海を攻撃、唐と新羅の関係は和解へと向かう。唐が渤海と和解すると新羅は渤海攻撃の功績が認められ、735年に唐から鴨緑江以南の地を冊封された。
内政と社会情勢
統一新羅の成立と共に官僚制度の改革が図られた。降伏した百済・高句麗の王族、貴族を格下げした上で官位制度の中に組み入れ、律令制を取り入れながら政治形態を変化させていった。官吏の養成機関として国学という教育機関が置かれた。また、州・郡・県を基本と為す郡県制を基本とした地方支配体制が整えられた。旧新羅・任那・加羅領に3州、旧百済領に3州、旧高句麗領に3州の9つの州が置かれ、これらと副都五京によって地域支配が行われた。
唐の律令制度を取り入れながらも、位階などの名称は旧称のままで残されたりもしたが、8世紀半ばには唐風に改められている。唐の影響は非常に大きく、この頃、先祖伝来の姓や従来的な名もまた、全て漢族乃至中元風に改められている。
745年頃から750年代後半にかけて新羅で飢饉や疫病が発生し、社会が疲弊していた[38]。755年には新羅王のもとへ、飢えのため、自分の股の肉を切り取って父親に食べさせた男の話が伝わるほどだった[38]。このときに、日本の九州北部をはじめ、日本へ亡命し、帰化した新羅の民が多数いた[38]。しかし、その移民の数が多いため、天平宝字3年(759年)9月、天皇は大宰府に、新羅からの帰化人に対して、帰国したい者があれば食料等を与えたうえで帰国させよとする勅を出した[38]。翌年には、帰国を希望しなかった新羅人13人を武蔵国に送還した[38]。また、飢饉や疫病によって、後述する新羅の賊が発生したともされる[38]。
日本との関係
668年以降、日本は遣新羅使を派遣。672年の壬申の乱で勝利した大海人皇子(後の天武天皇)は、親新羅政策をとった。また、次代の持統天皇(在位690年〜697年)も亡夫の天武天皇の外交方針を継ぎ、同じく親新羅政策を執った。但し、親新羅と言っても対等の関係は認めず、新羅が日本に従属し朝貢するという関係であり、新羅は日本への朝貢関係をとった[39]。
持統天皇元年(687年)、日本の朝廷は帰化した新羅人14人を下野国に[40]、新羅の僧侶及び百姓の男女22人を武蔵国に[41]土地と食料を給付し、生活が出来るようにする。持統天皇3年(689年)にも投化した新羅人を下毛野に移し[42]、翌持統天皇4年(690年)にも帰化した新羅人を武蔵国や[43]、下毛野国に居住させる[44]。霊亀元年(715年)には尾張国人の席田君邇近及び新羅人74人が美濃国を本貫地とし、席田郡に移される[45]、天平5年(733年)[46]。 テンプレート:See
- 「王城国」改称問題
しかし新羅が驕り、735年(天平7年)日本へ入京した新羅使が、国号を「王城国」と改称したと事後通告したため、日本の朝廷は無断で国号を改称した無礼を責め、使者を追い返した[47]。両国関係は、朝鮮半島中南部を統一した新羅が、日本と対等な関係を要求した為に悪化した。なお、当時渤海が成立し、日本へ遣日本使を派遣していることも背景にあるとされる[47]。
翌736年(天平8年)には遣新羅大使の阿倍継麻呂は新羅で非礼な扱いを受け、朝廷は伊勢神宮など諸社に新羅の無礼を報告し調伏のための奉幣をしており、以後しばらくは新羅使を大宰府に止めて帰国させ、入京を許さなかった[47]。なお、阿倍継麻呂は新羅からの帰国途中に病死し、残された遣新羅使の帰国後、平城京では天然痘とみられる疫病が流行った。当時、この疫病が新羅から持ち込まれたと信じられた[48][49]。
- 金泰廉による日本への朝貢
752年(天平勝宝4年)、新羅王子金泰廉ら700余名の新羅使が来日し、日本へ朝貢した[47]。この使節団は、奈良の大仏の塗金用に大量の金を貢いだと推定されている[47]。王子による朝貢であり、新羅は日本に服属した形となった。
日本に従属し朝貢を行った意図は明らかではないが、唐・渤海との関係を含む国際情勢を考慮し、緊張していた両国関係の緊張緩和を図ったという側面と交易による実利重視という側面があると見られている[47]。金泰廉は実際の王子ではないとする研究[50]が一部で出されているが、王子の朝貢によってより積極的な通商活動を意図していたとする主張には根拠が無い[51]。
- 長安での席次争い
翌753年(天平勝宝5年)には長安の大明宮で開催された[52]唐の朝賀で遣唐使大伴古麻呂が新羅の使者と席次を争い意を通すという事件が起こる[47]。この際、唐は新羅が日本の従属国である事実を受け新羅を下位に置いた。この年、新羅の景徳王は遣新羅使に謁しなかった[47][53]。
- 藤原仲麻呂の新羅征討計画
天平宝字2年(758年)、唐で安禄山の乱が起きたとの報が日本にもたらされ、藤原仲麻呂は大宰府をはじめ諸国の防備を厳にすることを命じる。天平宝字3年(759年)新羅が日本の使節に無礼をはたらいたとして、仲麻呂は新羅征伐の準備をはじめさせた。軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な遠征計画が立てられるが、この遠征は後の孝謙上皇と仲麻呂との不和により実行されずに終わる[54][55]。 テンプレート:See also
8世紀の終わりに新羅の国内が混乱すると、再び日本に慇懃な態度をとるようになり[52]、宝亀10年(779年)、新羅は日本への服属を象徴する御調(みつき)を携え使者を派遣した。この調は、日本が新羅に要求し続けた念願の品であった[52]。また、新羅の混乱により多数の難民が日本列島へ亡命し、大量に帰化を申請する事態が発生するが、日本側は「蛮国」の人民が天皇の徳を慕って帰化を願い出た事を嘉し、帰化を許可した[52]。
しかし、翌780年に正規の遣新羅使は停止され、以後は遣唐使の安否を問い合わせる使者が数度送られたのみとなった[56]。しかし民間レベル(主に交易)での交流は続けられており、唐・日本・新羅商人により、日本の文物を唐・新羅へ、唐・新羅の文物を日本へ、と運んで交易に励んだ[57][58]。有名な新羅商人に張宝高がいる。
下代(780〜935年)
780年に武烈王の王統が絶えると王位継承の争いが激しくなり、王位簒奪や王都内での反乱が頻繁に発生する様になった。また骨品制により、新羅王族のみが上位官僚を占めるようになり官僚制度は行き詰まりを見せていた。災害や飢饉、また相次ぐ反乱や内戦、また渤海(698年 - 926年)との対立などもあり、新羅は滅亡する。
この780年代から新羅滅亡までの期間(宣徳王から敬順王まで)を下代と呼ぶ[59]。
恵恭王の時代
第36代の王恵恭王の在位中に、律令体制の推進派と旧来の貴族連合的体制への復帰派との間の対立は顕在化し、反乱が多数発生する[60]。
- 768年7月 : 一吉飡(7等官)大恭・阿飡(6等官)大廉の兄弟の反乱。貴族連合体制復活派の反乱とみられる。王都を33日間包囲するが、王の軍隊が平定した。
- 770年8月 : 大阿飡(5等官)金融の反乱。金融は金庾信の後裔であり、中央貴族に対抗する地方勢力を代表する。律令体制推進派と見られる。
- 775年6月 : 伊飡の金隠居の反乱。元侍中の金隠居は金融の反乱の後に退官しており、後に反乱を起こした。貴族連合体制復活派の反乱と見られる。
- 775年8月 : 伊飡の廉相、侍中(現職)の正門が反乱を企てたことが発覚して誅滅された。正門は金隠居の退官の後に侍中に就任しており、律令推進派の反乱と見られる[61]。こうした政治的対立の中で776年正月には新羅政府は教書を出し、律令体制を強固に推進した景徳王が唐風に改名した百官の名称を、旧来のものに戻した。貴族連合体制派への譲歩であったと見られるが、律令体制推進の政策を廃止しようとするものではなく、同年3月には倉部(徴税)の史(3次官)を8名増員している。名目的には律令体制の推進を控えながらも、国家財政や人民支配の強化という点においては貴族層・官僚層の間には共通の意識が持たれていたことの現われと考えられている[62]。
780年2月、 伊飡の志貞が反乱を起こし宮中を包囲する。同年4月、上大等の金良相(後の宣徳王)が伊飡の金敬信(後の元聖王)とともに挙兵し、志貞を滅ぼす。この戦乱の中で恵恭王も王妃ともに殺害された。
宣徳王
次の第37代新羅王宣徳王は、782年閏正月、唐に対して朝貢を行った。勢力を強めている渤海に備え、北方面の守備に努め、781年7月には浿江(大同江)以南の地に使者を送って安撫し、また782年2月には漢山州(京畿道広州市)の住民を浿江鎮(黄海北道平山郡または金川郡)へ移住させている。在位6年目の785年正月になってようやく唐の徳宗から<検校大尉・雞林州刺史・寧海軍使・新羅王>に冊封されたが、病に倒れてそのまま正月13日に死去した。
元聖王
38代元聖王は、即位後直ち(785年2月)に自祖先への追封を行い、五廟を再整備した[63]。788年には官吏登用の制度として、科挙に類似する「読書三品」を定めたように、儒教的・律令体制的な政策を打ち出した。また、度々の天災により民が餓えることがあったが、律令体制の下で貢納された租粟を振舞って民の救済を行っている。恵恭王の末年以来の政治的混乱の収拾に努めたが、こうした天災が続いたこともあって、788年秋には国の西部で盗賊が現われ、791年には元の侍中の悌恭が反乱を起こして誅殺されるなど、安定はしなかった。
唐に対しては786年に使者を派遣して貢納し、徳宗からは新羅の長年の忠勤を慰撫する詔書をいただいている。また、宣徳王に与えられた官爵〈検校大尉・雞林州刺史・寧海軍使・新羅王〉をそのまま引き継いだ[64]。
哀荘王の時代
第40代の王哀荘王の時代(在位 : 800年 - 809年)の801年10月には、耽羅国(済州島)からの朝貢を受けた。耽羅国は文武王19年(679年)に新羅に隷属していたが、後に独立していた。
802年には順応・利貞らの高僧に命じて伽耶山に海印寺(慶尚南道陜川郡伽耶面)を創建させた。
803年には日本とも国交が再開されたが、両国の交渉について『三国史記』新羅本紀が哀荘王の4年(803年)7月「国交を開き通好した」、5年(804年)5月「日本から黄金三百両が進上された」、7年(806年)3月「日本からの使者を朝元殿で引見した」、9年(808年)2月「日本国の使者を厚くもてなした」という4例を伝えるのに対し、『日本後紀』では延暦23年(804年)9月己丑条で「大伴宿禰岑万里を新羅に遣わした」の1例を伝えるのみである[65]。
805年、唐で順宗が即位し、先王の昭聖王への哀悼の使者が送られ、哀荘王も新たに冊封されて<開府儀同三司・検校大尉・使持節大都督・雞林州諸軍事・雞林州刺史・兼持節充寧海軍使・上柱国・新羅王>へと官爵を進められた。唐には朝貢及び、冊命の謝恩使の派遣を行う。
809年7月、摂政の金彦昇(後の憲徳王)が伊飡(2等官)の悌邕(ていよう)とともに反乱を起こし、哀荘王は弟の体明侍衛とともに殺害された。『三国遺事』王暦に拠れば、元和4年(809年)7月19日に王の叔父の憲徳・興徳の2人によって殺害された、としている。
憲徳王の時代
憲徳王は即位するとただちに唐に使者を派遣して先代の哀荘王の死を伝え、唐の憲宗からは〈開府儀同三司・検校大尉・持節大都督・雞林州諸軍事・兼持節充寧海軍使・上柱国・新羅王〉に冊封された。唐に対しては810年10月に王子金憲章を送って金銀製の仏像などを献上したほか、定期的に朝貢を行った。また、819年7月には唐の鄆州(山東省済寧市)で李師道が反乱を起こすと、兵馬を徴発する憲宗の詔勅に応えて将軍金雄元ら3万の援軍兵を派遣している。
812年9月には渤海へも使者を派遣して動向をうかがっていたが、宣王大仁秀が即位するに及んで緊張を増し、後に826年7月には漢山州(京畿道広州市)以北の州・郡から1万人を徴発して浿江(大同江)沿いに300里の長城を築いて、渤海の南下を食い止める備えとした。
飢饉と地方豪族の反乱
一方、国内では度々災害が起こって民が餓える事態が発生した。租を免じたり穀倉を開いたが、816年には浙江省東部へ流入した民が170人にものぼった。[66][67]。
この時代には、地方の村主や王都から地方に飛び出した王位継承に敗れた王族や官僚らが軍事力を背景に勢力を伸ばし、新興の豪族として勃興した。そして、地方で頻繁に反乱を起こす。819年3月には各地の賊徒がいっせいに蜂起したが、諸州の都督や太守に命じて鎮圧される。しかしこうした地方勢力を王権のもとに確実に掌握できていたわけではなく、首都慶州中心主義的な政治に対して地方勢力は反感を持ちながらも、団結して対抗するための中心を求めていた。
日本への賊徒侵攻と弘仁新羅の乱
テンプレート:Main 新羅の国内情勢が悪化する一方、一部の新羅人は、日本へ亡命したり、また賊化した新羅人が度々日本を襲撃してもいる。
弘仁2年(811年)12月6日[68]、新羅船三艘が対馬島に現れ、1艘が下県郡の佐須浦に着岸した。船に10人ほど乗っており、他の2艘は闇夜に流れたが[68]、翌12月7日未明[69]、灯火をともし、相連なった20余艘の船が姿を現し、賊船である事が判明した[68]。そこで先に着岸した者のうち5人を殺害したが、残る5人は逃走し、うち4人は後日補足した[68]。島の兵庫を衛り、軍士に動員をかけ[68]、新羅(朝鮮半島方面)を望み見ると、毎夜数箇所で火光が見えると大宰府に報告された。大宰府は通訳と軍毅を対馬へ派遣し、旧例に准じて要害の警備につくすべき事を大宰府管内と長門・石見・出雲等の国に通知した。
弘仁4年(813年)2月29日、肥前の五島・小近島(小値賀島)に、新羅人110人が五艘の船に乗り上陸し、島民100余人を殺害した[70]。島民は新羅人9人を打ち殺し101人を捕虜にした[71]。4月7日には、新羅人一清、清漢巴らが日本より新羅へ帰国した、と大宰府より報告された。この言上に対して、新羅人らを訊問し、帰国を願う者は許可し、帰化を願う者は、慣例により処置せよと指示した[72]。事後の対策として通訳を対馬に置き、商人や漂流者、帰化・難民になりすまして毎年のように来寇する新羅人集団を尋問できるようにし、また承和2年(835年)には防人を330人に増強した[70]。承和5年(838年)には、796年以来絶えていた弩師(どし)を復活させ、壱岐に配備した[70]。 弘仁5年(814年)、化来した新羅人加羅布古伊等6人を美濃国に配す[73]。
弘仁11年(820年)には日本国内の遠江・駿河両国に移配した新羅人在留民700人が反乱(弘仁新羅の乱)を起こしたがその殆どが処刑され[74][75]、鎮圧されている。天長元年(824年)、新羅人辛良金貴、賀良水白等5人を陸奥国に安置し、法により復を給し、乗田を口分田に充てる[76]。
金憲昌・梵文の反乱
822年3月、武珍州(全羅南道、光州広域市)・菁州(慶尚南道晋州市)・熊川州(忠清南道公州市)の都督職を歴任した金憲昌が反乱を起こし、熊津(公州市)を都として長安国と号すると、その支配領域は武珍州・菁州・熊川州・完山州(全羅北道全州市)・沙伐州(慶尚北道尚州市)の五州及び国原(忠清北道忠州市)・西原(忠清北道清州市)・金官(慶尚南道金海市)の三小京に及んだように、旧百済の領域を中心として国土の大半が金憲昌を支持し、王権に対抗する姿勢を見せることとなった。金憲昌の反乱は1ヶ月ほどで鎮圧されたが、乱の鎮圧に活躍した討伐軍は貴族の私兵と花郎集団であり、律令体制の下での兵制は有名無実化していることが露見した。
825年1月には金憲昌の子の金梵文が高達山(京畿道驪州郡)を根拠として反乱を起こしたが、これは北漢山州(京畿道広州市)の都督によって鎮圧された。
これらの反乱の平定の論考功賞においては、反乱をいち早く王都に知らせた者を重視する王都中心主義が強く見え、また反乱に加担しなかった地方には7年間の租税を免除するなどしており、地方行政を疎かにするだけではなく、王権の地方への関与を放棄して地方の自治を公認するかのような政策に堕したと見られている[77]。
826年10月に憲徳王は死去した。
興徳王の時代
第42代の王興徳王は、唐の文宗からは、〈開府儀同三司・検校太尉・使侍節大都督・雞林州諸軍事・兼持節充寧海軍使・新羅王〉に冊封されて以降、唐への朝貢を続けて文物の招来に努め、827年に唐に入った旧高句麗系の僧の丘徳は経典を持ち帰った。また、828年に帰国した金大廉が持ち帰った茶を持ち帰り、新羅での喫茶が盛んになった。827年に漢山州(京畿道広州市)瓢川県から速富の術(すぐに富貴になれる方法)という新興宗教が流行り出す。政府は教祖を遠島へ流刑とした。
832年の春夏の旱魃、7月の大雨で凶作となり、餓えた民衆が盗賊となって蜂起する。10月には各地に使者を派遣して慰撫に努めた。翌833年にも凶作で民が飢餓に苦しみ流行り病で多くの死者を出すと、834年10月には王自らが巡幸して民に穀物を分け与え、民心の安定を図ろうとした。同834年には、身分の上下に応じて色服・車騎・器物・家屋などの区別を厳然とさせて違反者には刑罰を用いるとする教書を発布[78]して、奢侈を禁じるとともに王都の住民に対する身分序列を明確化させることとした。この教書の中で規定された身分序列は「真骨・六頭品・五頭品・四頭品・平人のそれぞれ男女」としており、7世紀中葉に成立していた王族を中心とする身分序列である「骨制度」(聖骨・真骨)に対して「頭品制度」とされる。これら骨制度・頭品制度をあわせて新羅の骨品制度という。
遣唐使船保護に関する日羅外交
承和3年(836年)、日本が遣唐使を久しぶりに派遣することが決定した際、遣唐使船が難破した場合の保護を新羅に要求した[52]。すると、新羅側執事省は、使者紀三津(きのみつ)を問い詰め、「小人の荒迫(こうはく)の罪を恕し、大国の寛弘の理を申す」との蝶を日本へ送った[79]。「小人」とは使者紀三津を、「大国」は新羅自身を指す。
このような新羅の対等または尊大な態度に対して、それまで新羅を「蛮国」とみなしてきた日本は憤慨し、『続日本後紀』は、この事件を後世に伝えなかったら、後人は得失を判断できないとして執事省蝶全文を掲載している[79]。
承和9年(845年)、日本は外交方針を変換させ、太宰大弐藤原衛(ふじわらのまもる)は新羅人の越境禁止を進言し、以後、帰化を申請する場合でも、漂着民に食料衣服を与えて追い返せとした[79]。これは『貞観格(じょうがんきゃく)』にも収められ、以後の対新羅外交の基本方針になった[79]。
張保皐の乱
張保皐のもとに集結した祐徴らの一派は838年3月に軍事活動を起こし、祐徴派の金陽が武州(光州広域市)を下してさらに南原小京(全羅北道南原市)を陥落させた。12月になって金陽が武州鉄冶県(全羅南道羅州市)まで軍を進めたところで新羅王閔哀王は金敏周を派遣して迎撃したが、金陽軍の前に壊滅した。839年1月19日、金陽軍が達伐(大邱広域市)にまで及び、王は禁軍を用いて防戦に努めたがかなわず、兵の半数以上が戦死した。この敗戦を聞いた王の側近は皆逃げ出してしまい、王も殺害された[80]。祐徴は王の儀礼を以て閔哀王の屍を埋葬し、また、古礼に則って即位式を執り行い、王位を継承し、神武王として即位した。しかし、神武王は病で同年、死す。その子文聖王は、政権交代に役のあった張保皐に官位を与えるが、張は不満を持ち、846年、清海鎮(全羅南道莞島)で反乱を起こしたが、王軍は張の暗殺に成功する。
しかしながら、これらの動揺は地域社会にも波及し、9世紀末には、農民の反乱や豪族の独立が頻発する。
景文王
第48代の王景文王は、唐へ862年7月に使者を派遣して土産物を貢納した。864年4月に日本からも国使を迎えたとされるが、日本側の史書には対応する記事はない[81]。865年4月には懿宗から<開府儀同三司・検校太尉・侍節大都督・雞林州諸軍事・上柱国・新羅王>に冊封された。869年7月には王子の金胤らを唐に派遣し、馬二匹・砂金百両・銀二百両ほか、様々の進奉を行った。翌870年2月には沙飡(8等官)の金因を唐に宿衛させ、874年には僖宗からの宣諭使を受け、唐との交流は盛んになった。
しかし、866年10月には伊飡(2等官)の允興がその弟の叔興・季興とともに反逆を謀った。事前に発覚して允興らは岱山郡(慶尚北道星州郡)に逃走したが、捕縛されて斬刑に処され、一族が誅滅された。
867年5月には王都金城(慶尚北道慶州市)で疫病が流行り、同年8月には洪水が起こった。地方各地でも穀物が実らず、王は各地へ安撫の使者を派遣して慰問に努めた。868年1月には伊飡の金鋭・金鉉らが反乱を起こして誅殺された。 870年には王都が地震・洪水に見舞われ、その冬には再び疫病が流行った。873年にも飢餓と疫病が起こり、王は民に穀物を与えて救済したが、政情は安定しなかった。さらに874年5月にも伊飡の近宗が反乱を起こして宮中まで至り、王は近衛兵を派遣して撃破し、逃れた近宗一味を捕らえて車裂きの刑にした。875年7月8日に景文王は死去。
日本への賊徒侵攻
貞観8年(866年)には、肥前基肆郡擬大領山春永・藤津郡領葛津貞津・高来郡擬大領大刀主・彼杵郡住人永岡藤津らが、新羅人と共謀し、対馬を攻撃しようとした計画が発覚している[70]。
貞観11年(869年)6月から、新羅の海賊、艦2艘に乗り筑前國那珂郡(博多)の荒津に上陸し、豊前の貢調船を襲撃し、年貢の絹綿を掠奪し逃げた。日本側は追跡したが、見失ったと『日本三代実録』に記録があり、また「鄰國の兵革」、隣国である新羅の戦争(内戦)のことが背景にあるのではないかと卜(うらない)が伝えたとある[82]。なお、同貞観11年(869年)5月26日(ユリウス暦7月9日)には、貞観地震や肥後で地震が発生している。
日本政府は沿海諸郡の警備を固めたほか、内応の新羅商人潤清ら30人を逮捕し放逐することに決めた。その後、新羅に捕縛されていた対馬の猟師・卜部乙屎麻呂が現地の被害状況を伝えたため、結局大宰府管内のすべての在留新羅人をすべて陸奥国などに移し口分田を与えて帰化させることに定めた。このとき新羅は大船を建造しラッパを吹き鳴らして軍事演習に励んでおり、問えば「対馬島を伐ち取らんが為なり(870年2月12日条)」と答えたという。また現地の史生が「新羅国の牒」を入手し、大宰少弐藤原元利万侶の内応を告発した。
870年2月15日、朝廷は弩師や防人の選士50人を対馬に配備[70]する。また、在地から徴発した兵が役に立たないとみた政府は、俘囚すなわち律令国家に服属した蝦夷を配備した[83]。これらの国防法令は『延喜格(えんぎきゃく)』に収められ、以後の外交の先例となった[83]。
また、伊勢神宮、石清水八幡宮、香椎、神功陵などに奉幣および告文をささげ、「わが日本の朝は所謂神明の国也。神明の護り賜わば何の兵寇が近く来るべきや(日本は神の国であり、神の守護によって敵国の船は攻め寄せない)」と訴えた[83]。こうして新羅を敵と認識する考えは神国思想の発展へとつながっていった。また、神功皇后による三韓征伐説話もたびたび参照されるようになる[83]。
貞観12年(870年)9月、新羅人20人の内、清倍、鳥昌、南卷、安長、全連の5人を武蔵国に、僧香嵩、沙弥傳僧、關解、元昌、卷才の5人を上総国に、潤清、果才、甘參、長焉、才長、眞平、長清、大存、倍陳、連哀の10人を陸奥国に配する[84]。
また貞観14年から19年にかけて編纂された『貞観儀式』追儺儀(ついなのぎ)では、陸奥国以東、五島列島以西、土佐国以南、佐渡国以北は、穢れた疫鬼の住処と明記されている[85]。こうして対新羅関係が悪化すると、天皇の支配する領域の外はケガレの場所とする王土王民思想も神国思想とともに形成された[85]。
憲康王
憲康王の時代(在位 : 875年 - 886年)には、唐へ876年7月に朝貢を行い、878年4月には 僖宗から冊封された。同年7月に使者を送ろうとしたが、黄巣の乱の起こったことを聞き及んで使者の派遣は中止した。後に885年10月になって、黄巣の乱の平定されたことを祝賀する使者を唐に送った。
878年8月には日本からの使者を朝元殿で引見したこと、882年4月には日本国王が黄金300両と明珠10個とを進上する使者を派遣してきたことを『三国史記』新羅本紀は伝えているが、日本側の史料には対応する記事は見られない。869年に新羅の海賊船が博多を襲って以来、新羅と日本との間には緊張関係が生じており(新羅の入寇を参照)、『日本三代実録』元慶四年(880年)条によれば、新羅の賊が侵入するという情報を得た日本海沿岸の諸国は厳重な警戒態勢をとっていた。しかしその間にも、公私にわたる使者の往来はあったものと見られている[86]。
『三国史記』新羅本紀には憲康王の時代は順調であったと記しているが、879年6月に一吉飡(7等官)の信弘が反乱を起こして誅殺された。
日本への賊徒侵攻
『扶桑略記』には寛平6年(884年)の9月(旧暦)に新羅船45艘は対馬を襲ったが、日本は大宰府の奮戦で、これを迎撃して危機を脱した。合戦後の捕虜となった新羅人の賢春は尋問で、前年来の不作により「人民飢苦」の状態が続き、新羅では「王城不安」だったと答えている。これを打開すべく王の命令により、2500人の軍が大小百艘に分乗、飛帆したと記されている。なお『三国史記』では10年に相当するが、10年の記述は三国史記の段階では消失している。
在位12年目の886年7月5日に憲康王は死去。続く定康王の時代、887年1月には金蕘(きんじょう)が反乱を起こしている。
真聖女王
新羅下代唯一の女王真聖女王は、三国史記によればもともと角干(官位)の魏弘と通じていたが、即位すると常に入内させて用いていた。間もなく魏弘が卒して後は少年美丈夫2~3名を密かに引き入れて姦淫し、彼らに要職を授けて国政を委ねた。このため綱紀はおおいに弛緩した。この女王の治世には国内で反乱が続発し、後三国時代の幕開けとなる。治世11年の897年、女王は「盗賊蜂起、此れ孤の不徳なり」と宣言し、「太子」に譲位してしまう。この年12月女王は金城(慶州)の北宮で死去。
日本への賊徒侵攻
真聖女王の時代にも日本への新羅賊徒が侵攻している。893年5月11日、新羅の賊が肥後国飽田郡で民家を襲撃し放火した。また肥前国松浦郡においても襲撃してきたが、逃げた[87]。寛平6年(894年)、唐の将軍も交えた新羅の船大小100艘に乗った2500人にのぼる新羅の賊の大軍が対馬に侵攻を始めた[70]。9月5日の朝、対馬守文屋善友(ふんやよしとも[70])は郡司士卒を励まして賊徒45艘を弩をかまえた数百の軍勢で迎え撃ち、220人を射殺した。賊は計、300名を討ち取った[70]。また、船11、太刀50、桙1000、弓胡(やなぐい)各110、盾312にものぼる莫大な兵器を奪い、賊ひとりを生け捕った。捕虜がいうには、新羅は不作で餓えに苦しみ、倉も尽きて王城も例外ではなく、「王、仰せて、穀絹を取らんが為に帆を飛ばして参り来たる」という。その全容は大小の船100艘、乗員2500、逃げ帰った将軍はなお3人いて、特に1人の「唐人」が強大である、と証言した。翌年の寛平7年(895年)にも、新羅の賊が壱岐を襲撃し、官舎が焼かれた[70]。
このような賊の来襲は、新羅滅亡後の高麗時代にも発生している。
後三国時代
テンプレート:See also 有力な勢力となった農民出身の甄萱が892年に南西部に後百済を、新羅王族の弓裔が901年に北部に後高句麗を建て、後三国時代に入る。新羅の孝恭王は、これに対抗する事ができず酒色におぼれ、新羅の領土は日増しに削られて行き新羅は滅亡の道をたどることになる。
高麗の建国
テンプレート:See also 後高句麗の武将であった王建は後百済との戦争で何度も勝利し、立派な人格で群臣たちの信望が厚かった。しかし弓裔には嫌われ、命を狙われそうなこともあった。弓裔は宮殿を再建したため、民衆の不満が高まった。また自分を弥勒菩薩と呼ばせて観心法で人の心を見ることができると言い、反対派を粛清した。王建は弓裔の暴政に対して政変を起こして弓裔を追放し918年に高麗を興した。
新羅の景明王は920年、王建と誼を通じて後百済に対抗したが、924年に亡くなった。次の景哀王は927年に宴会をしている最中、後百済の甄萱に奇襲を受け、殺された。その次の敬順王は甄萱により王位に就けられた。
後百済の政変と新羅滅亡
以降、高麗と後百済の戦争が続いたが、935年、後百済の王の甄萱が四男に王位を継がせようとすると、長男の神劍(後百済の第2代王)が反乱を起こし、神劍は甄萱を寺院に監禁し、王位を奪った。甄萱は935年6月、後百済から逃げ出して高麗に亡命した。王建は甄萱を国賓として迎えた。同935年年11月、新羅の敬順王が君臣を挙げて高麗に帰順した。これにより新羅は滅亡した。
その後、高麗は翌年の936年に後百済を滅亡させ、朝鮮半島は高麗によって統一された。
民族
紀元前後の朝鮮半島は元来、粛慎、挹婁、靺鞨、沃沮、倭、濊、濊貊等、各諸民族の混在地域である。 その後、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人によって移民国家である辰韓が建国される。[88]また『魏志東夷伝』によると、東アジアからも『陳勝などの蜂起、天下の叛秦、燕・斉・趙の民が数万口で、朝鮮に逃避した。(魏志東夷伝)』とあり、朝鮮半島は移民・渡来人の受け皿的役割を果たしていた。また隣国、百済・高句麗等の扶余系民族(現在の満族と同系統)も国内に抱えていた。
百済・任那・加羅・新羅地域においては、倭人特有の前方後円墳等の居住跡が発見にされていることから一定数の倭人が同地に居住していたとされる。また倭人である昔氏の一族から新羅王と成った者もあり、日本による支配を受けていた時代もあることから、新羅の重臣には倭人が多数登用されている。[89]。
王
歴代王については 朝鮮の君主一覧#新羅を参照。
上代では新羅の王族は姓が一定していない。初代赫居世(ヒョッコセ)居西干は朴、4代脱解(タレ)尼師今は昔、13代味鄒尼師今は金となっており、朴氏・昔氏・金氏の3姓の王系がそれぞれ始祖説話を持っている(詳細については既述)。13代金味鄒は金閼智の子孫とされているが、後になってこの金閼智の子孫を称する一族が金氏王統となり、統一新羅王朝に於ける唯一の王族となった。
三国史記では法興王の時代521年に中国南朝の梁に使を遣わした新羅王は、姓は募、名は秦と伝えられる。564年に北斉の鄴に使を遣わした新羅王は金真興であった。募という姓は慕韓とも書かれる馬韓のことで、テンプレート:要出典範囲。新羅は532年に金官国の王である金仇亥を降し、536年に初めて国号を立て建元元年とし、545年には初めての国史を編纂、554年には百済の聖王を管山の戦いで殺し、562年に加耶国を征服して任那を完全に併合した。テンプレート:要出典範囲。
ただし、統一新羅王朝末期には、52代孝恭王に子がいなかったために朴景暉が推戴されて王位を継承(53代神徳王)し、その後55代景哀王までの3代は朴氏王統となる。なお、新羅最後の王(第56代)敬順王の姓は金氏であり、新羅は王位が金氏王統に戻ってから間も無く滅亡したことになる。
新羅の王(君主)を表す称号としては『三国史記』には居西干(コソガン)、次次雄(チャチャウン)、尼師今(イサグム)、麻立干(マリッカン)の固有語由来の表記が見られ、第22代の智証麻立干の代で王号を「王」に定め、諡の制度が始まったとされる。また、中原高句麗碑文や『日本書紀』には寐錦、蔚珍鳳坪碑文には寐錦王、迎日冷水碑文には葛文王、『太平御覧』で引用する『秦書』には楼寒(テンプレート:要出典範囲)などの表記が見られる。
六部
建国神話に現れる辰韓の六村はのちの新羅六部であり、王都金城(慶州市)に居住してそれぞれ自立的な政治的集団として存在していたが、王都外部に対しては王京人として結束して優位性を保ち続けた。新羅が周辺諸国を取り込んで領域を拡げていく過程で、これら六部の優位性を維持するために、元来は六部の内部的な身分制度が拡大していき、骨品制が成立したものと考えられている。第3代の儒理尼師今9年(32年)に、元の六村に対して部名を改めるとともに姓を下賜したと伝えられているが、『三国史記』と『三国遺事』との間でも伝える内容が異なっており、姓の表記については高麗の前半期に整備されて付加されたとする見方もある(→井上訳注1980 p.54)。
元の村名 | 比定地(いずれも慶尚北道慶州市) | 『三国史記』に見える部・姓 | 『三国遺事』に見える部・姓 |
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閼川・楊山村 | 塔里方面または川北面東川里方面 | 梁部・李氏 | 及梁部・李氏 |
突山・高墟村 | 南山里~皇南里または西岳里~塔里方面 | 沙梁部・崔氏 | 沙涿部・鄭氏 |
觜山・珍支村 | 内東面普門里方面または内東面南部~外東面 | 本彼部・鄭氏 | 本彼部・崔氏 |
茂山・大樹村 | 慶州面忠孝里方面または牟梁川流域 | 漸梁部(牟梁部)・孫氏 | 漸梁部(漸涿部、牟涿部)・孫氏 |
金山・加利村 | 川北面東川里または内東面普門里、または川北面西部~見谷面 | 漢祇部・裴氏 | 漢岐部(韓岐部)・裴氏 |
明活山・高耶村 | 見谷面または内東面南部・陽南面 | 習比部・薛氏 | 習比部・薛氏 |
政治機構
官位制度
『三国史記』新羅本紀によれば、建国の当初のころは「大輔」という官名が最高位のものとして確認されるが、第3代儒理尼師今の9年(32年)に、下表の17階級の官位(京位)が制定されたとする。枠外の官位としては、第23代法興王の18年(531年)に宰相に相当するものとして「上大等(上臣)」が設けられた。また、三国統一に功績のあった金庾信を遇するものとして、第29代武烈王(金春秋、キム・チュンチュ)の7年(660年:この年百済を滅ぼす)には伊伐飡(角干)の更に上に「大角干(大舒発翰)」、さらに武烈王の息子の第30代文武王(金法敏)の8年(668年:この年高句麗を滅ぼす)には「太大角干(太大舒発翰)」という位が設けられた。
新羅王が新たに即位すると、直ちに最高官位の上大等(古くは大輔、舒弗邯)が任命され、その王代を通じて権力の頂点にたつという例が多い。これは貴族連合政治体制の現れであると見られている。強力な王権が確立した三国統一の後にも上大等が任命されるという慣習は続いているが、真徳女王の代になって651年には国家機密を掌握する執事部が設けられ、その長官の中侍が上大等に代わって政治体制の要となった。
京位は首都金城に居住する六部のための身分体系でもあり、これに対して地方に移り住んだものに対しては外位という別途の身分体系を併せ持っていた。しかし百済・高句麗を滅ぼした後、両国の遺民を取り込み唐に対抗していくため、京位・外位の二本立ての身分制度を再編することに努めた。673年には百済から帰属してきた者のうち、百済の2等官の達率の場合には、金城に移住した者に対しては京位10等の大奈麻に当て、地方に留まった者には外位4等の貴干を当てた。翌674年には外位を廃止して、京位に一本化した。さらに唐との戦闘を終えて684年に報徳国を滅ぼして半島内の混乱を収拾した後、686年には高句麗人に対しても官位(京位)を授けた。このときには高句麗の3等官の主簿[90]に対して京位7等の一吉飡を当てた。このようにして、百済・高句麗両国の官位体系の序列を格下げした形で新羅の身分体系に組み入れることによって、それまで三国独自に展開されていた身分体系が新羅の政治秩序のもとに一本化され、統一国家としての内実を整えることに成功したと考えられている。
骨品 | 外位 | 等級 | 京位 | 読み(日本語/韓国語[91]) | 別名と備考(※) |
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真骨 | 1 | 伊伐飡[92] | いばつさん/イボルチャン | 伊罰干(イボルガン)、于伐飡(ウボルチャン)、角干(カッカン)、角餐(カッチャン)、舒発翰(ソバラン)、舒弗邯(ソブラン) | |
2 | 伊尺飡 | いしゃくさん/イチョッチャン | 伊飡(イチャン) | ||
3 | 迊飡 | そうさん/チャプチャン | 迊判(チャッパン)、蘇判(ソパン) | ||
4 | 波珍飡 | はちんさん/パジンチャン | 海干(ヘガン)、破弥干(パミガン) | ||
5 | 大阿飡 | だいあさん/テアチャン | ※大阿飡以上の官位は真骨だけが任じられ、他の宗族は任命されない。 | ||
六頭品 | 6 | 阿飡 | あさん/アチャン | 阿尺干(アチョッカン)、阿餐(アチャン) ※重阿飡(チュンアチャン)から四重阿飡(サジュンアチャン)までの4階層が設けられた。 | |
嶽干 | 7 | 一吉飡 | いつきつさん/イルギルチャン | 乙吉干(ウルギルガン) | |
述干 | 8 | 沙飡 | ささん/サチャン | 薩飡(チャルチャン)、沙咄干(サトゥルガン) | |
高干 | 9 | 級伐飡 | きゅうばつさん/クッポルチャン | 級飡(クプチャン)、及伏干(クッポッカン) | |
五頭品 | 貴干 | 10 | 大奈麻 | だいなま/テナマ | 大奈末(テナマル) ※重奈麻(チュンナマ)から九重奈麻(クジュンナマ)までの9階層が設けられた。 |
選干 | 11 | 奈麻 | なま/ナマ | 奈末 ※重奈麻(チュンナマ)から七重奈麻(チルチュンナマ)までの7階層が設けられた。 | |
四頭品 | 上干 | 12 | 大舎 | だいしゃ/テサ | 韓舎(ハンサ) |
干 | 13 | 舎知 | しゃち/サジ | 小舎(ソサ) | |
一伐 | 14 | 吉士 | きつし/キルサ | 稽知(ケジ)、吉次(キルチャ) | |
一尺 | 15 | 大烏 | だいう/テオ | 大烏知(テオジ) | |
彼日(ピイル) | 16 | 小烏 | しょうう/ソオ | 小烏知(ソオジ) | |
阿尺 | 17 | 造位 | ぞうい/チョウィ | 先沮知(ソンジョジ) |
地方行政区分
九州
6世紀以来、新羅は一定の領域に州を設けてその下に郡・村を置き、州には軍主を、村には道使を派遣し、さらに在地の有力者を村主に任命して地方を掌握しようとする、州郡制ともいうべき独自の地方統治を行っていた。三国統一を果たした7世紀後半からは村を県に改めて、州・郡・県とする支配方法(日本の国・郡・里制に相当)に切り替わっていった。州には都督、郡には郡太守、県には県令を中央から派遣し、さらに州・郡に対しては外司正という検察官を別途派遣する二重化を図った。第31代の神文王の687年には九州が完成し、州治が地方統治の拠点となるとともに、旧三国のそれぞれを三州とすることで、三国の統一を改めて印象付けることに成功したとみられている。
旧領 | 創設時点 | 九州完成時点(687年) | 景徳王による 改称(757年) |
備考・異称・移転(州治) | |||
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州名 | 州治の現在地名 | 創設年 | 州名 | 州治の現在地名 | |||
高句麗 | 悉直州 | 江原道三陟市 | 505年 | 河西州 | 江原道江陵市 | 溟州 | 何瑟羅州[93] |
新州 | 京畿道広州市 | 553年 | 漢山州 | 京畿道広州市 | 漢州 | 南川州(利川市) | |
比列忽州 | 北朝鮮の江原道安辺郡 | 556年 | 首若州[94] | 江原道春川市 | 朔州 | 達忽州(高城郡)・牛首州 | |
百済 | 所夫里州 | 忠清南道扶余郡 | 671年 | 熊川州 | 忠清南道公州市 | 熊州 | 686年に泗沘州を郡に、熊川郡を州とした[95]。 |
発羅州 | 全羅南道羅州市 | 671年?[96] | 武珍州 | 光州広域市 | 武州 | 686年に発羅州を郡に、武珍郡を州とした[95]。また、武珍の別名に「奴只」がある。 | |
完山州 | 全羅北道全州市 | 685年 | 完山州 | 全羅北道全州市 | 全州 | 下州との混乱・誤記あり[97]。 | |
新羅 | 上州 | 慶尚北道尚州市 | 525年 | 沙伐州 | 慶尚北道尚州市 | 尚州 | 甘文州(金泉市)・一善州(亀尾市) |
下州 | 慶尚南道昌寧郡 | 555年 | 歃良州 | 慶尚南道梁山市 | 良州 | 比斯伐州・大耶州(陜川郡)・押督州(慶山市) | |
居烈州[98] | 慶尚南道居昌郡 | 685年 | 菁州 | 慶尚南道晋州市 | 康州 | 685年、居烈州から菁州を分割設置。 |
五小京
新羅は一貫して首都を金城(慶州市)に保ち続けて遷都をしなかったが、領域の拡大に伴って王都が南東辺に偏りすぎていることが課題となっていた。軍政的側面の強い州郡制の整備と平行して、6世紀中頃よりかつての敵国の地に小京が副都として設けられた。小京に対しては中央から仕臣・仕大等が派遣されて地方行政支援の役割を担うとともに、王都金城の貴族や住民が移住させられて新羅文化の各地への普及が図られた。これら小京は685年に五小京として整い、九州の州治とあわせて地方統治の徹底がなされたと見られる。
設置時の小京名 (かっこ内は景徳王による改称) |
設置年次 | 元の地名 | 現在の地名 | 所属州 |
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国原小京(中原京) | 557年(真興王18年) | 高句麗:国原城 | 忠清北道忠州市 | 漢州 |
北原小京(北原京) | 678年(文武王18年) | 高句麗:平原城 | 江原道原州市 | 朔州 |
金官小京(金海京) | 680年(文武王20年) | 金官郡(金官伽耶国都) | 慶尚南道金海市 | 良州 |
西原小京(西原京) | 685年(神文王5年) | 百済:娘臂城 | 忠清北道清州市 | 熊州 |
南原小京(南原小京[99]) | 685年(神文王5年) | 百済:古龍郡 | 全羅北道南原市 | 全州 |
文化
4世紀後半から6世紀前半にかけての慶州新羅古墳からは、金冠その他の金製品や西方系のガラス器など特異な文物が出土する。こうした6世紀前半以前の新羅出土のガラス器にローマ製のものが極端に多いことに注目して、新羅は北方の遊牧民経由でローマ帝国の文化を受け入れていた古代国家であるとする説もある[100]。この頃の新羅は中国文化よりも北方の遊牧騎馬民族(匈奴・鮮卑など)の影響が強かったことを示している。 また、5世紀後半から6世紀半ばに前方後円墳の築造が盛んになり、勾玉等の装飾品と共に日本から人・文化が流入した。
仏教
テンプレート:See also 新羅は528年、法興王14年に仏教を公認した。なお、仏教は高句麗へは372年(小獣林王2年)に伝来し、百済へは384年(枕流王元年)に伝来している。なお、日本へは538年(戊午年、宣化天皇3年)に伝来している[101]。
新羅の僧侶には元暁(617年 - 686年)、義湘などがいる。
年表
- 576年(新羅真興王37)、安弘法師が南朝陳より胡僧の吡摩羅等と帰国する。
- 627年(新羅真興王49)、新羅僧慧超など3名インド入国する。
- 719~727年、新羅僧慧超が南海経由で五天竺訪問長安に帰国する。
遺跡
- 迎日冷水碑 - 6世紀初頭の智証麻立干時代の碑石。
- 蔚珍鳳坪碑 - 6世紀初頭の法興王時代の碑石。
- 中原高句麗碑 - 高句麗の碑石。高句麗と新羅との関係を兄弟になぞらえながらも、高句麗を「大王」として新羅王を「東夷之寐錦」と位置づけている。
- 好太王碑 - 高句麗の碑石。
- 慶州の古墳群
- 赤城碑(せきじょうひ) - 忠清北道丹陽郡丹陽面にある石碑。新羅の伊史夫智らの高官名と官位、また真興王が赤城の民を慰撫したことが記録。
- 真興王拓境碑(以下の四つの碑石を指す。赤城碑を含めて5つとする場合もある)
- 昌寧碑 - 慶尚南道昌寧郡にある。真興王23年(562年)の大伽耶(高霊加羅)討伐に先立ち,前年の561年の会盟を記念し建立された。
- 北漢山新羅真興王巡狩碑
- 黃草嶺碑 - 真興王29年(568年)に建立。
- 磨雲嶺碑
補注
関連項目
参考文献
- 『三国史記』第1巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫372〉、1980 ISBN 4-582-80372-5
- 『三国史記』第3巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫454〉、1986 ISBN 4-582-80454-3
- 『三国遺事』 一然撰 坪井九馬三・日下寛校訂<文科大学史誌叢書>東京、1904(国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)
- 井上秀雄『古代朝鮮』、日本放送出版協会<NHKブックス172>、1972 ISBN 4-14-001172-6
- 『朝鮮史』武田幸男編、山川出版社<新版世界各国史2>、2000 ISBN 4-634-41320-5
- 上垣外憲一『倭人と韓人』講談社<講談社学術文庫>、2003 ISBN 4-06-159623-3(原著『天孫降臨の道』 筑摩書房 1986)
- 由水常雄『ローマ文化王国-新羅』<改訂新版>新潮社、2001 ISBN 4-10-447601-3
外部リンク
同八年(817年):「二月乙巳。大宰府言、新羅人金男昌等卌三人帰化。」