大宰府

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正殿跡(都府楼跡石碑)

大宰府(だざいふ)は7世紀後半に、九州筑前国に設置された地方行政機関。和名は「おほ みこともち の つかさ」とされる。多くの史書では太宰府とも記され[1]、現在でも地元は太宰府「だざいふ」を使っている。

名称

大宰(おほ みこともち)とは、地方行政上重要な地域に置かれ、数ヶ国程度の広い地域を統治する役職で、いわば地方行政長官である。大宝律令以前には吉備大宰(天武天皇8年(679年))、周防総令(天武天皇14年(685年))、伊予総領持統天皇3年(689年))などあったが、大宝令の施行とともに廃止され、大宰の帥のみが残された。

続日本紀文武天皇4年(700年)10月の条に「直大壱石上朝臣麻呂を筑紫総領に、直広参小野朝臣毛野大弐(次官)と為し、直広参波多朝臣牟後閇を周防総領と為し」とあるように「総領」とも呼ばれた。

大宝律令(701年)によって、九州の大宰府は政府機関として確立したが、他の大宰は廃止され、一般的に「大宰府」と言えば九州のそれを指すと考えてよい。また、その想定範囲は、現在の太宰府市および筑紫野市に当たる。遺跡[2]は国の特別史跡[3]

平城宮木簡には「筑紫宰」、平城宮・長岡京木簡には「宰府」と表記されており、歴史的用語としては機関名である「宰府」という表記を用いる。都市名や菅原道真を祀る神社(太宰府天満宮)では「宰府」という表記を用いる。「宰府」と略すこともある。

なお現在、地元では史跡は「都府楼跡」(とふろうあと)あるいは「都督府古址」(ととくふこし)などと呼称されることが多い。

概要

外交と防衛を主任務とすると共に、西海道9国(筑前筑後豊前豊後肥前肥後日向薩摩大隅)と三島(壱岐対馬多禰(現在の大隅諸島824年に大隅に編入))については、(じょう)以下の人事や四度使の監査などの行政・司法を所管した。与えられた権限の大きさから、「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれる。

軍事面としては、その管轄下に防人を統括する防人司、主船司を置き、西辺国境の防備を担っていた。

外交面では、北九州が古来中国の王朝や朝鮮半島などとの交流の玄関的機能を果たしていたという背景もあり、海外使節を接待するための迎賓館である鴻臚館(こうろかん)が那津(現在の博多湾)の沿岸に置かれた。

長官は大宰帥(だざいのそち)といい従三位相当官、大納言中納言クラスの政府高官が兼ねていたが、平安時代には親王が任命されて実際には赴任しないケースが大半となり、次席である大宰権帥が実際の政務を取り仕切った(ただし、大臣経験者が左遷された場合、実務権限はない)。帥・権帥の任期は5年であった。また、この頃は、商船との私貿易の中心となった。 北部九州六国から徴発された西海道の仕丁は、太宰府に集結させられた。そのうち400人前後が太宰府官人の事力(じりき)となり、あるいは主船司等に配属された(『延喜式』民部下)。このほか観世音寺の造営のための駆使丁としても使役された(『続日本紀』和銅2年(709年)2月戊子条)。

面積は約25万4000平方メートル、甲子園の約6.4倍である。

主な建物として政庁、学校、蔵司、税司、薬司、匠司、修理器仗所、客館、兵馬所、主厨司、主船所、警固所、大野城司、貢上染物所、作紙などがあったとされる。しかし、遺跡が確認されたものは少ない。

1921年大正10年)3月3日国の史跡に指定。1953年昭和28年)3月31日、国の特別史跡に指定された。1970年昭和45年)9月21日1974年(昭和49年)6月29日追加指定。

職員

四等官は、帥、権帥の下に

  • 弐(すけ) : 大弐(だいに)、少弐(しょうに)
  • 監(じょう) : 大監(だいげん・だいじょう)、少監(しょうげん)
  • 典(さかん) : 大典(だいてん・おおさかん)、少典(しょうてん)

が置かれ、そのほか令によると主神・大判事・大令史・大工・史生医師算師など50人の官人が置かれていた。

歴史

特に弥生時代古墳時代を通じて、玄界灘沿岸は、アジア大陸との窓口という交通の要衝であった。そのため、畿内を地盤とするヤマト政権が外交や朝鮮半島への軍事行動の要衝として、出先機関を設置することになった。

魏志倭人伝』に見られる「一大率」は別としても、

  • 日本書紀宣化天皇元年(536年)条の「夫れ筑紫国は、とおくちかく朝(もう)で届(いた)る所、未来(ゆきき)の関門(せきと)にする所なり。(中略)官家(みやけ)を那津(なのつ、博多大津の古名)の口(ほとり)に脩(つく)り造(た)てよ」
  • 崇峻天皇5年(593年)条の「駅馬を筑紫将軍の所に遣して曰はく」
  • 推古天皇17年(609年)4月の条に「筑紫大宰(つくしのおほみこともち)、奏上して言さく」

などの記述がその証拠と考えられている。

「大宰」の文字の初見が609年(推古天皇17年)であるが、既に見たように(536年の宣化朝の記事のこと)福岡県博多に官家を造るなどの記事から大宰府の起源はもっと遡るのではないかと考えられている。 7世紀には、遣唐使小野妹子の使者裴世清を伴って那津に着いた頃から、官家(みやけ)は、大陸や朝鮮半島からの使者の接待をも担うようになったと考えられる。筑紫大宰は九州全体の統治と外国使節の送迎などにあたったと考えられ、以後は大宰府に引き継がれていく。

斉明天皇6年(660年百済が滅亡し、百済復興をかけて天智天皇2年(663年新羅連合軍と対峙した白村江の戦いで大敗した。

天智朝では、唐が倭へ攻め込んでくるのではないかという危惧から664年天智天皇3年)8月、筑紫に大きな堤に水を貯えた水城(みずき)・小水城を造ったという。水城は、福岡平野の奥、御笠川に沿って、東西から山地が迫っている山裾の間を塞いだ施設であり、今日もその遺跡が残っている。構造は、高さ14メートル、基底部の幅が約37メートルの土塁を造り、延長約1キロにわたる。また、翌年の665年(天智天皇4年)大宰府の北に大野城、南に基肄城などの城堡が建設されたとされた。

649年大化5年)には「筑紫大宰帥」の記述があるほか、天智天皇から天武天皇にかけての時期にはほかに「筑紫率」「筑紫総領」などが確認でき、中央から王族や貴族が派遣されていた事を示すと考えられている。機関としては、667年(天智天皇6年)に「筑紫都督府」があり、671年(同10年)に初めて「筑紫大宰府」が見える。

この時代は、首都たる大和国(現在の奈良県)(794年以降は山城国(現在の京都市)で失脚した貴族の左遷先となる事例が多かった。例としては菅原道真藤原伊周などがいた。また、大宰府に転任した藤原広嗣が、首都から遠ざけられたことを恨んで740年に反乱を起こし、その影響で数年間大宰府は廃止され、その間は大宰府の行政機能は筑前国司が、軍事機能は新たに設置された鎮西府が管轄していた。つまり、742年天平12年)1月にいったん廃止し、743年(天平15年)12月に筑紫に鎮西府を置く。しかし、745年(天平17年)6月に復活させている。

その後、平安時代に入ると大宰府の権限が強化され、806年大同元年)2月に大宰大弐の官位相当正五位上から従四位下に引き上げられ(『日本後紀』)、810年弘仁元年)には大宰権帥が初めて設置された。941年天慶4年)天慶の乱藤原純友の乱)で陥落し、大宰権帥橘公頼が対抗する。

平安時代後期になると、「大府」「宰府」という異名も登場する。ただし、12世紀に入ると、「大府」は名目のみの存在となった大宰帥に代わって責任者の地位にありながら実際には遥任の形態で京都で政務を執った大宰権帥や大宰大弐を、「宰府」は大宰府の現地機構を指すようになった。大宰権帥や大宰大弐が現地機構に対して発した命令を大府宣、反対に現地機構からの上申書を宰府解(大宰府解・宰府申状)と呼んだ[4]

1158年保元3年)に平清盛が大宰大弐になると、平氏政権の基盤である日宋貿易の意図もあり、やがて北九州での政治的中心地は、大宰府から20キロメートル北の博多(福岡市)へ移る。鎌倉時代に入っても大宰権帥や大宰大弐が広大な大宰府領や対外貿易の利益から経済的に魅力のあった地位であった。元寇前夜の1271年文永8年)2月に、大宰権帥の地位を巡って吉田経俊と分家の中御門経任が争って最終的に後嵯峨上皇の側近であった経任が補任されたことを非難した同族の吉田経長の日記の中に経任が古代中国の富豪である陶朱のようになったと皮肉を込めて記している(『吉続記』文永8年2月2日条)。もっとも、こうした任命の裏には任命する天皇上皇の側にもメリットがあり、大宰権帥退任後に修理職などの地位に任じられ、御所の造営や大嘗祭のような多額の費用のかかる行事の負担を命じられた。当然、大宰権帥に就いたことによる経済的利得はその負担を上回るものであったと推定される[4]

武藤資頼が大宰少弐に任じられ、その子の代に少弐氏となった。

中世に入り、朝廷の衰微や元寇など西海道の動向につれて実権は揺らいでいく。南北朝時代には、南朝後醍醐天皇皇子懐良親王を征西将軍として派遣し、菊池氏に擁立された懐良親王を頂く南朝方は1359年正平14年/延文4年)の筑後川の戦いで少弐氏を総大将とした北朝方を破り、本拠とした。南朝方の征西府室町幕府が派遣した今川貞世(了俊)に敗れ、少弐氏は大宰府を回復するが、戦国時代には大内氏に追われた。

発掘・調査

1968年昭和43年)から学術調査が実施されるようになった。

政庁地区

政庁地区の発掘調査は1943年昭和18年)に行われたものを嚆矢とする。 調査の結果、政庁地区においては3時期の遺構面が存在することが確かめられた。各遺構面の概要は下記のとおりである。

  • 第1期 : 7世紀後半 - 8世紀初頭。大宰府政庁創建期(掘立柱建物群。古段階と新段階に細分される。)
  • 第2期 : 8世紀初頭 - 10世紀中葉。朝堂院形式創建期(礎石建ち瓦葺き建物。政庁規模は、東西111.6メートル、南北188.4メートル、回廊規模は、東西111.1メートル、南北113.8メートル)
  • 第3期 : 10世紀中葉 - 12世紀。朝堂院形式整備拡充期(礎石建ち瓦葺き建物)

政庁地区については、発掘調査以前には「現在見える礎石が創建時のもの」、「941年天慶4年)の藤原純友の乱で焼亡した後は再建されなかった」、という考えが主流であった。前者の考えについては各遺構面が存在することによって否定され、後者については、第2期遺構面上に堆積する焼土層によって焼失の事実は証明されたものの、第3期の遺構がさらに規模を拡大して再建されていることが明らかとなり、現在では否定されている。

第1期から第2期への改築は、律令制度によって政府機関として確立したことに対応するものである。第3期は律令制度が弛緩している時期にあたるため、第2期より大規模な造作が行われていることに多くの研究者が驚かされたが、現在では、当時の政庁運営で中心的役割を担っていた在庁官人層の拡大に対応するものと理解されている。

条坊制

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大宰府条坊復元図(九州大学宮本雅明[5]を参考に作成)

大宰府に条坊制による街区が存在することを想定したのは、のちに九州大学教授となる鏡山猛が初めてで、1937年昭和12年)のことである。鏡山は、政庁域を方四町、観世音寺域を方三町と推定した場合、両者の南辺を東西線上に一致させることができること、かつその場合の政庁東辺と観世音寺西辺の間が二町となることをもって、一町を単位とする造成企画の存在を想定し、その適用範囲を広げると周囲の道路や畦畔に合致するものが多いことを指摘。加えて観世音寺に伝わる古文書類に記された条坊呼称の分析から、東西各十二条、南北二十二条の、東西約2.6キロメートル、南北約2.4キロメートルに亘る条坊域を想定した。その実態は1930年代に存在していた道路や畦道に基づく「机上の復元案」といえるものであるが、大宰府の条坊の存在を指摘し、学界に注意を喚起した功績は揺るがない。鏡山案は現在もっとも知られているもので、一般向け図書やHPなどで紹介されている復元図はほとんどがこの鏡山案である。

その後、福岡県教育委員会、九州歴史資料館、太宰府市教育委員会、筑紫野市教育委員会によって条坊施工想定範囲内での発掘調査が断続的に行われており、現時点では下記のような成果を得ている。

  1. 政庁第1期に対応する7世紀段階では、条坊の存在に結びつくような遺構は確認できない。
  2. 政庁第2期に対応する8世紀段階において条坊に関連すると考えられる遺構は、政庁中央から南へ伸びる南北中央大路(地元では朱雀大路と呼ばれる)周辺を中心として存在する。これらの遺構は南北方向のものが顕著で、東西方向のものは少ないことから、整然とした条坊域が整備されていたのではない可能性もある。
  3. 政庁第3期に対応する10世紀段階の条坊遺構は鏡山案の想定域に近い範囲に存在する。この段階での一区画は面積8反を基準としているらしい。区画溝などの遺構は11世紀後半から12世紀前半にかけて埋没し、条坊制による街区はこの頃に廃れたと考えられる。

こうした状況は、政治的中心の周囲に次第に都市が形成されていく過程と理解できる。

もはや鏡山案はそのままの形では成り立たない状況となっており、上記のような発掘成果を受けた新たな条坊復元案が金田章裕や井上信正などによって提示されている。

2006年平成18年)4月20日、筑紫野市教委は、大宰府政庁跡の北端から約1.7キロメートル南で条坊の南端と推定される幅約8メートルの道路と側溝の遺構が見つかったと発表した。市教委は、この場所より南側ではほとんど遺構が発見されていないことなどを根拠として、この遺構を条坊の南端と推定している。

その他

関係人物

異説・俗説

九州王朝説では、大宰府が、古代北九州王朝の首都(倭京)であったと主張している。しかし査読のある学術雑誌において九州王朝を肯定的に取り上げた学術論文は皆無であり、九州王朝説および関連する主張は科学的な根拠の欠如したいわゆる俗説に過ぎないとの強い指摘が、専門家によりなされている。 テンプレート:要出典範囲

交通

周辺情報

祭事

催事など

関連項目

脚注

  1. 太宰府について記された全25文書のうち「大」だけ使用のもの8例、「太」「大」併用のもの4例、「太」のみのもの13例。8世紀から10世紀までの文書で「太」を用いているもの。 主に8世紀の大和朝廷内部で作られた史書だけが「大宰府」を使っている。
  2. 大宰府跡は、大野山南麓一帯の平野に東西24坊、南北23条の規模であり、北は大野城、南は基肆城、平野部の出入り口は水城で遮って防衛した都城跡である。
  3. 1921年大正10年)3月3日政庁の中心部だけ史跡指定、1953年昭和28年)3月31日特別史跡指定、1970年昭和45年)9月21日1974年(昭和49年)6月25日蔵司(くらのつかさ)西側の木簡と築地が発見された地域が追加指定
  4. 4.0 4.1 釈迦堂光浩「大府と宰府 鎌倉時代の大宰権帥と大宰大弐を中心に」(所収:鎌倉遺文研究会 編『鎌倉遺文研究1 鎌倉時代の政治と経済』(東京堂出版1999年) ISBN 978-4-490-20374-5)
  5. 宮本雅明「太宰府の都市」『太宰府市史建築・美術工芸資料編』太宰府市1998年5月、pp.81-132。

関連文献

外部リンク

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