前方後円墳

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仁徳天皇陵と比定されていた大仙陵古墳
大阪府堺市
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3世紀築造と推定される箸墓古墳(墳丘長278メートル)

前方後円墳 (ぜんぽうこうえんふん)は、日本における古墳の一形式で3世紀から7世紀頃にかけて盛んに造成された。平面が円形と方形の墳丘を組み合わせた形状は、日本独特の特徴であり、出現期より規模の巨大さを特徴としている。墳形については、現在では円形墳丘墓の通路部分が発達し墳丘と一体化したものであると考えられている。前方後円墳は日本列島の広範囲に分布しており、北は岩手県から南は鹿児島県にまでおよんでいる。また、近年、朝鮮半島西南部でも若干の存在が確認されている。

概要

起源

日本(およびそれに影響を受けた朝鮮半島南部)でのみ見られる前方後円墳の起源については、これまでに様々な仮説が唱えられている。最もよく知られているものは、弥生時代の墳墓から独自に発展したものであるという学説である。この説においては従来より存在した円形墳丘墓の周濠を掘り残した陸橋部分(通路部分)が発達し、墓(死の世界)と人間界を繋ぐ陸橋として墳丘と一体化したと考えられる。それに対して円部は軍事・政治を担った男王、方部は祭祀を司った女王の墓に由来するという説もある。

形状

前方後円墳の形状は、古くはヒョウタン形などとも形容されていた。「前方後円」の語は、江戸時代国学者蒲生君平19世紀初めに著した『山陵志』で初めて使われた。蒲生は、各地に残る「車塚」という名から、前方後円墳は宮車を模倣したものだと考え、方形部分が車の前だとした。しかし現在では古墳時代にそのような車は存在しなかったと考えられている。明治時代末期になり、ウィリアム・ゴーランドは円墳と方墳が結合して、清野謙次は主墳と陪塚が結合して前方後円墳になったと推測した。その後、壺形土器の形や盾の形を模倣したというような学説も生まれた。

現在の研究では、平面では円形をしている後円部が埋葬のための墳丘で主丘であり、平面が形・長方形・方形・台形などの突出部をひっくるめて前方部と呼ぶ。前方部は、弥生墳丘墓の突出部が変化したもので、もともと死者を祀る祭壇として発生・発達とする説や葬列が後円部に至る墓道であったとする説があり、次第に独特の形態を成したと考えられている。ただし時代が下ると前方部にも埋葬がなされるようになった。しかし、慣習と便宜によって前方後円墳、前方部、後円部といった用語はそのまま使われている。古い形の前方後円墳は前方部は低く撥形をしており、後円部は新古にかかわらず大きく高く造られている。撥形にしているのは、葬列が傾斜の緩やかな道を通れるように前方部の左右の稜線のどちらかを伸ばしたものと考えられている。

分布

前方後円墳の存在が明確でないのは、北方では北海道青森県秋田県、南方では沖縄県の計4道県にすぎない。建造時期や個数には幅があるものの、他の43の都府県では数百基から1、2基の前方後円墳が知られている。離島の対馬壱岐隠岐などにも存在する一方で、これまでのところ淡路では存在が確認されていない。各地域で最後に建造された前方後円墳はその時期にほとんど差がないことが判明している。5世紀を最後に建造が途絶えた徳島県などは数少ない例外である。

日本列島以外では、韓国の西南部、全羅南道に当たる栄山江流域を中心に10基程度が分布する[1]

近畿地方宮崎県を中心として日本全国に広く分布する大型の前方後円墳の周りには、小型の前方後円墳、あるいは円墳・方墳が寄り添うように建造されており、複数の大型古墳から構成される古墳群が形成されている箇所も多い。古墳時代に築かれた巨大な墳墓中はその多くがこの前方後円墳であり、その中で最も大きなものは大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)であり、墳墓の表面積としてはクフ王ピラミッドおよび始皇帝陵をしのぐ世界最大の墳墓である。墳丘の全長が486メートル、高さが36メートル、周りには、三重の周濠を巡らしている。

終焉

6世紀になると前方後円墳の造られ方に変化が生じてくる。関東地方以西ではほとんどの前方後円墳の規模が縮小し、墳丘長100メートル以上の規模の比較的大きなものは九州の岩戸山古墳尾張断夫山古墳など一部を除くと、奈良盆地内や古市古墳群など、畿内に集中するようになる。

また岩戸山古墳と断夫山古墳、そして畿内でも大王墓の可能性が高い古墳とその他の古墳との規模の格差が拡大している。これは当時の社会体制の変化を表しているものと考えられ、特に河内大塚山古墳見瀬丸山古墳今城塚古墳といった大王墓と見られる古墳の規模は他を圧しており、これまでの有力首長の共同統治から大王への権力の集中が始まったものと見られている。見瀬丸山古墳など6世紀の大王墓と推定される墳墓は、3世紀から大王墓が造られ続けてきた古市古墳群、百舌鳥古墳群馬見古墳群佐紀盾列古墳群、大和・柳本古墳群といった古墳群から離れた場所に造られており、この点からも6世紀の大王の権力構造に変化が生じたことがわかる。

また前方後円墳の形式にも変化が生じ、陪塚が見られなくなり、葺石の使用も少なくなり、墳丘の段築も3段が基本であったものが2段に減少する。そして関東地方を除くと埴輪も使用されないようになっていく。つまり6世紀の前方後円墳は大きさばかりではなく視覚的な見栄えも低下しており、当時の社会における前方後円墳そのものの位置づけにも変化が起きてきたと考えられる[2]

一方、関東地方では他の地方とは異なり、6世紀、埼玉古墳群など墳丘長100メートルクラスを含む前方後円墳が盛んに造られる。埼玉古墳群では長方形をした二重周濠の築造、下野の前方後円墳では基壇と呼ばれる広い平坦面を持った前方後円墳など、地域色が見られる前方後円墳が造られており、6世紀の段階ではまだ全国一律の造墓規制を行う段階には至っていない。

前方後円墳の出現期から、大王陵と見られる大型の古墳を始めとする多くの前方後円墳が集中的に造られてきた畿内の古墳群では、6世紀半ばに古市古墳群で前方後円墳の築造が終了した後、前方後円墳は造られないようになり、6世紀後半になると、全国各地で前方後円墳が造られないようになっていく。大王陵としても6世紀後半に造営されたとみられる見瀬丸山古墳か梅山古墳、または太子西山古墳を最後に前方後円墳から方墳へと変わった。関東地方や周防など[3]、一部の地域で7世紀初めから前半まで前方後円墳の築造が続いたケースもあるが、おおむね6世紀末までに前方後円墳の築造は終了し、その後、首長墓は主に円墳ないし方墳に移行し、大王墓など一部の首長墓は八角墳などの多角形墳に移行する。


形状と構造

前方後円墳は、墳丘(前方部・後方部・造出)、埋葬施設(棺室・槨室・石室)、副葬品、外表施設(封土固めの葺石、祭祀用の土器埴輪など)などの諸要素から成っている。

後円部

後円部は、前方後円墳で最も大切な場所である。それは、そこに亡き首長を埋葬し、盛大に埋葬祭祀が行われてきたからである。その頂上は狭いが平坦に造られていて、その下の土中に埋葬を行うのに都合のよい形に造られている。裾部から頂までは高く造られ、その斜面の勾配は、平均的には25度から26度あり、それ以上の急勾配もある。築造当時には斜面に葺き石が敷かれて、登ることができないように造られている。前方部から後円部に登るために一つの工夫が為されている。それを隆起斜道(りゅうきしゃどう)という。この隆起斜道の設置によって後円部と前方部が繋がることになる。しかし、この斜道だけで、頂上や頂下の墓壙に達することが難しい場合が多いので斜道の途中から墓壙に達するための掘割墓道(ほりわりぼどう)を設置した。

また、くびれ部や前方部の斜面も急勾配に造られており、簡単に登ることができなくなっている。葬列が登れるのは前方部の前面の左右の隅角のどちらかで、そこを緩い斜面にして登りやすくしている。このように前方後円墳は簡単に登れないような急斜面で囲まれているといってもよい。登ることを慎めという意味であり、前方後円墳は禁忌の状態に築造されている。

前方部

最古の前方後円墳は3世紀代の箸墓古墳のように前方部の前面幅が(バチ)形になっており、前方部の前面幅が後円部の直径に匹敵するほど開いている。京都府木津川市椿井大塚山古墳などが挙げられる。高さも後円部の方が高くなっている。次の段階では、前方部が前面に向かってまっすぐ伸び、幅狭く低い。例として、桜井市茶臼山古墳などがある。

その後、時代が下るにつれて後円部の直径と前方部の幅がほぼ同じとなり(古墳時代中期)、さらに時代が下ると前方部は巨大化の一途をたどり、前方部の幅が後円部の直径の1.5倍、中には2倍に達するものもあり、高さも前方部のほうが高いものが多い(古墳時代後期)。また、古墳時代後期の一部の前方後円墳には、「剣菱形」と呼ばれる、前方部の中央がへの字のようにやや角ばって外側に突き出すような形状をしているものがある(なお剣菱形が確認されているのは今城塚古墳河内大塚山古墳見瀬丸山古墳鳥屋ミサンザイ古墳瓦塚古墳と極めて数が少ない)。

造出

テンプレート:Main 最古級の前方後円墳には造出(つくりだし)は見つかっていない。大王墓および地方の有力首長墓のみに付随すると考えられている。この造出に埋葬が行われている例が見られる。埴輪を立て並べたり、形象埴輪を置いたりしている。祭祀・追葬が後円部や前方部の墳頂で行われるのではなく、くびれ部裾付近に作られた造出で行われたことは、埋葬祭祀の考え方が変わって来たのではないか。それは、墳頂へ登ることが禁忌され、畏敬されたことと関わっていると考えられ、追葬や祭祀は一定期間行われると停止されるものと思われる。

祭祀用土器

テンプレート:Main 埋葬祭祀で使用された土器は、最古級の前方後円墳では、宮山型特殊器台・特殊壺、この土器から変化した最古の埴輪といわれる都月形円筒埴輪と次に古い特殊壺形埴輪、円筒埴輪、家型埴輪、武器形埴輪、人形埴輪などである。特殊土器は、日常の器台・壺と違い大きく、文様で飾られている。器台は1メートルほどもあるものもあり、壺も40センチから50センチぐらいで、器台に壺を載せると人の肩ほどにもなる。このような大きな目立つ道具を使って亡くなった首長の霊魂と首長権を継承するための祭祀を行ったと考えられる。

横穴式石室

テンプレート:Main 横穴式石室の石室そのものは広い空間であり、一人の死者だけでなく親族や血族の死者を一緒に葬ることができる。今までの竪穴式石室の一人の死者(首長)を葬るという葬法とは大いに違い、埋葬観念や埋葬施設に変化が生じた。 埋葬祭祀は、隅角(前方部の前面の左右のどちらか)から前方部頂へ登り、そこから後円部に向かって降りていき、隆起斜道(後円部へ登りやすくした斜面)を登り、掘割墓道(石室への道)を経て墓壙に入る。石室は後円部頂に入り口を前方部方向に向けて造る。このような古式の例は、福岡県老司古墳鋤崎古墳に見ることができる。

朝鮮半島南部の前方後円墳

1983年韓国慶尚南道固城の松鶴洞一号墳が前方後円墳であるとして紹介されて以来、朝鮮半島南西部で前方後円墳の発見が相次いだ。その後の調査により、松鶴洞一号墳は築成時期の異なる3基の円墳が重なり合ったものであり、前方後円墳ではないことが明らかになったものの、現在までに、5世紀後半から6世紀半ば築造されたとみられる前方後円墳が、百済が南遷する前は任那の最西部であった[4]全羅南道に12基、全羅北道に2基確認されている [5]

現在前方後円墳が集まる全羅南道を流れる榮山江(Yeongsan-gang)流域は、墳丘形態と円筒埴輪などの外部施設[6]甕棺による独特な埋葬法や九州北部でも発掘されている鳥足文土器の副葬から、この地域は周囲とは異なる文化を持つ地域であったことが見受けられる[7]。このことから、被葬者について、大和朝廷によって当地に派遣された官吏や軍人、大和朝廷に臣従した在地豪族、いずれも倭国が擁立した東城王・武寧王に随伴した倭人有力者とする見解などが出ている[8]。榮山江流域に倭人が住んでいたという説も存在する[7]

韓国の新民族主義史観に基づく主張

北京大学教授の歴史学者である宋成有は以下のように述べる。 「1948年の大韓民国創立の後、民族主義史学は韓国の大学の歴史学の三大流派の一つになったが、民間のアマチュア史学や神話や伝承や講談などの作り物と真実を混同して、社会的な扇動におおきな力を振るっている」[9]

見解は様々に分かれる。倭人系百済官僚であるとする見解や[10][11][12][13][14]、百済が高句麗の南下により、475年に首都の漢城(現在のソウル)を落とされ、都を熊津(現在の現在の忠清南道公州市)に移し、高句麗戦で失った地域の代わりに求めた土地が榮山江流域であったが、武寧王がこの地域を支配しようとしていた時代に前方後円墳が現れており[7]、百済が背後に他国との関係があることを見せつけるために造った、あるいは百済に協力した倭人が造ったとするものもある[7]

古代、文化は朝鮮半島から日本へ一方的に移動したとする先入観から、前方後円墳を『里帰りによる逆輸入』などと考える研究者も存在し、そのような固定観念による全羅南道西部の前方後円墳についての解釈に日本の研究者から批判の声も挙がっていた。近年は、前方後円墳を倭人の墳墓と認め、倭の軍事勢力が栄山江流域で活動していたという事実を認定した上で、百済に服属した倭系官僚がこの地を支配していたなどと従来の観念から脱却しつつある韓国人学者も出ている[15]

朴天秀は、韓国の前方後円墳が在地首長の墓を避けるように単発的に存在し、石室を赤く塗るものもあり九州の古墳と共通点が多いことから、その被葬者は九州出身の豪族である可能性を提起している。また、当時の先進文化は韓国から日本に渡ったものであり前方後円墳もその1つであるという認識が1980年代の韓国にはあったが、それは間違いであり、韓国の前方後円墳は5世紀から6世紀に日本から韓国に伝わったものであると指摘している[16][17]

脚注

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参考文献

  • 森浩一編著「韓国の前方後円墳」社会思想社 1984年
  • 広瀬和雄・岸本道昭・宇垣匡雅・大久保徹也・中井正幸・藤沢敦『古墳時代の政治構造』青木書店 2004年 ISBN 4-250-20410-3
  • 西日本の終末期古墳、中国書店 2006年。
  • 西谷正「韓国の前方後円墳をめぐる諸問題」『朝鮮学報』第179輯、2001年
  • 田中俊明「韓国の前方後円形古墳の被葬者・造墓集団に対する私見」『朝鮮学報』第179輯、2001年
  • 文藝春秋編『幻の加耶と古代日本』文春文庫、1994年
  • 田中俊明『古代の日本と加耶』山川出版社、2009
  • 山尾幸久「5、6世紀の日朝関係、韓国の前方後円墳の一解釈」『朝鮮学報』第179輯、2001年
  • 柳沢一男「全南地方の栄山江横穴式石室の系譜と前方後円墳」『朝鮮学報』第179輯、2001年
  • 広瀬和雄『前方後円墳の世界』岩波書店〈岩波新書(新赤版)1264〉 2010年 ISBN 978-4-00-431264-2

関連項目

  • 田中(2001)
  • 古墳時代の政治構造。32、33頁。
  • 西日本の終末期古墳。123頁。
  • 吉田孝『日本の誕生』岩波書店
  • 田中俊明は私見と断った上で、古墳は一箇所に固まらず、点々としており、他の古墳群と離れ、孤立した形で存在しているものが多い。また、古墳の全長は、小さいもので約30メートル、大きいもので77mだが、日本の前方後円墳に比べれば大凡、小規模である。築造プランは基準が統一されておらず、また、埋葬施設の主要な構成部分は、チャラボン古墳が竪穴式石槨で、ほかは横穴式石室と考えられている。段築・造り出しや葺石といった日本の前方後円墳に見られるものは韓国の前方後円墳に見られない。周濠については、あるものとないもの、両方存在している。 遺物については、百済系遺物と共に円筒埴輪や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物も発見されている(→田中、2001)。
  • 現地で製作されたと考えられる円筒埴輪、ベンガラ(酸化鉄)を塗った横穴式石室が確認され、「前方後円墳、横穴式石室、埴輪」と前方後円墳祭祀が体系的に実現しているとする見解がある。(韓国調査報告
  • 7.0 7.1 7.2 7.3 NHK 「日本と朝鮮半島2000年」 第2回 "任那日本府"の謎
  • 朝鮮学会編「前方後円墳と古代日朝関係」
  • 中国边疆史学争议频发
  • 山尾幸久は全羅南道までも対高句麗戦に動員しようとする、百済が国家を形づくるプロセスにおける独特な事柄だと述べている。5世紀の第四半期と6世紀第一四半期とに、多くの倭国の有力者が移住して百済に臣従し、当時、百済が全羅道の重要な拠点の領有を進めていたという事実から、山尾は、この地に派遣された武臣の一部に、百済の臣下たる倭国の有力者一世がいたと推測している。そして、山尾は前方後円墳の被葬者について、派遣された倭人系官僚の中には現地で埋葬された者もいたのではないかと述べている(→山尾、2001)。
  • 西谷正もまた、被葬者を倭人系百済官僚だとしている(→西谷、2001)。
  • 一方、森公章は、墓制において規模が権威と密接に関わっていることをふまえ、武寧王陵(20m)を優に越える規模を持った前方後円墳群の存在を、該当地域に百済の影響がおよんでいなかったことの傍証と指摘し、現地化しつつある倭人有力者あるいは倭国の影響下に入った在地首長であろうとしている(→NHK、ETV特集シリーズ「日本と朝鮮半島2000年」 第2回 “任那日本府”の謎)。
  • 同様に柳沢一男は、百済の侵入に対して、全羅南道の在地首長のなかには倭勢力と互いに密接につながりを持つ層も出現したことを予想し、そのような政治的な結びつきを表すために、前方後円墳や、九州系石室が採用されたと考えられるとした(→柳沢、2001)。
  • 田中俊明は、造墓をおし進めたのは、活発に倭と往来し、在倭の勢力とも交流、政治的な関係をもったこの地域の特定の首長層だと述べ、倭固有の墳形を選択した意図を対外的な政治的アピールを注入したものと理解すべきだとした。また、田中は、全南地域の特定首長層の政策を、百済と完全に敵対するのではなく、倭と百済と等距離な関係を保とうとするものとし、前方後円墳の採用について百済の進出が、外見的に倭寄りの方向を選ばせたと述べている(→田中、2001)。
  • 朴天秀「韓国の前方後円墳は倭人の墳墓」
  • 『朝日新聞』2010年3月19日
  • 朴天秀 (慶北大学教授) "韓半島南部に倭人が造った前方後円墳".