倭の五王
テンプレート:Sister 倭の五王(わのごおう)とは、中国の歴史書に記述のある倭国の五人の王、すなわち讃、珍、済、興、武をいう。倭の五王が誰であるかに関しては諸説ある。
年表
413年 - 478年の間に少なくとも9回は朝貢している。それを年表にすると次のようになる。
西暦 | 中国王朝 | 中国元号 | 倭王 | 用件 |
---|---|---|---|---|
413年 | 東晋 | 義熙9 | 讃 | 東晋・安帝に貢物を献ずる。(『晋書』安帝紀、『太平御覧』)[1] |
421年 | 宋 | 永初2 | 讃 | 宋に朝献し、武帝から除綬の詔をうける。おそらく安東将軍倭国王。(『宋書』夷蛮伝) |
425年 | 宋 | 元嘉2 | 讃 | 司馬の曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる。(『宋書』夷蛮伝) |
430年 | 宋 | 元嘉7 | 讃? | 1月、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる。(『宋書』文帝紀) |
438年 | 宋 | 元嘉15 | 珍 | これより先(後の意味以下同)、倭王讃没し、弟珍立つ。この年、宋に朝献し、自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める。(『宋書』夷蛮伝) 4月、宋文帝、珍を安東将軍倭国王とする。(『宋書』文帝紀) 珍はまた、倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にされんことを求め、許される。(『宋書』夷蛮伝) |
443年 | 宋 | 元嘉20 | 済 | 宋・文帝に朝献して、安東将軍倭国王とされる。(『宋書』夷蛮伝) |
451年 | 宋 | 元嘉28 | 済 | 宋朝・文帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号される。安東将軍はもとのまま。(『宋書』倭国伝) 7月、安東大将軍に進号する。(『宋書』文帝紀) また、上った23人は、宋朝から軍・郡に関する称号を与えられる。(『宋書』夷蛮伝) |
460年 | 宋 | 大明4 | 済? | 12月、孝武帝へ遣使して貢物を献ずる。 |
462年 | 宋 | 大明6 | 興 | 3月、宋・孝武帝、済の世子の興を安東将軍倭国王とする。(『宋書』孝武帝紀、倭国伝) |
477年 | 宋 | 昇明1 | 興(武) | 11月、遣使して貢物を献ずる。(『宋書』順帝紀) これより先、興没し、弟の武立つ。武は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する。(『宋書』夷蛮伝) |
478年 | 宋 | 昇明2 | 武 | 上表して、自ら開府儀同三司と称し、叙正を求める。順帝、武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする。(『宋書』順帝紀)(「武」と明記したもので初めて) |
479年 | 南斉 | 建元1 | 武 | 南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王の武を鎮東大将軍(征東将軍)に進号。(『南斉書』倭国伝) |
502年 | 梁 | 天監1 | 武 | 4月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を征東大将軍に進号する。(『梁書』武帝紀)[2] |
天皇と倭の五王
比定説
『日本書紀』などの天皇系譜から「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇、「済」→允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇等の説がある。このうち「済」、「興」、「武」については研究者間でほぼ一致を見ているが、「讃」と「珍」については「宋書」と「記紀」の伝承に食い違いがあるため未確定である。他の有力な説として、「讃」が仁徳天皇で「珍」を反正天皇とする説や、「讃」は応神天皇で「珍」を仁徳天皇とする説などがある。「武」は、鉄剣・鉄刀銘文(稲荷山古墳鉄剣銘文 獲加多支鹵大王と江田船山古墳の鉄剣の銘文獲□□□鹵大王)の王名が雄略天皇に比定され、和風諡号(『日本書紀』大泊瀬幼武命、『古事記』大長谷若建命・大長谷王)とも共通する実名の一部「タケル」に当てた漢字であることが明らかであるとする説から、他の王もそうであるとして、「讃」を応神天皇の実名ホムタワケ[3]の「ホム」から、「珍」を反正天皇の実名ミヅハワケ[4]の「ミヅ」から、「済」を允恭天皇の実名ヲアサヅマワクゴノスクネ[5]の「ツ」から、「興」を安康天皇の実名アナホ[6]の「アナ」を感嘆の意味にとらえたものから来ている、という説もある。しかしながらいずれも決め手となるようなものはなく、倭の五王の正体については今のところ不確定である。
一方、「倭の五王」の遣使の記録が『古事記』『日本書紀』に見られない[7]ことや、ヤマト王権の大王が、「倭の五王」のような讃、珍、済、興、武など一字の中国風の名を名乗ったという記録は存在しないため、「倭の五王」は近畿主体のヤマト王権の大王ではないとする説も江戸時代からある[8]。 使いを遣わして貢物を献じた目的として、中国大陸の文明・文化を摂取すると共に、南朝の威光を借りることによって、当時の日本列島中西部の他の諸勢力、朝鮮半島諸国との政治外交を進めるものがあったと考えられる[9]。朝貢を通じて朝鮮半島での倭の軍事行動権や経済的利益の国際的承認を得るのが目的であったという主張もある[10]。
『記紀』年次との対応関係
『古事記』に年次の記述は無いが、文注として一部天皇の没年干支を記す。この没年干支を手がかりに、倭の五王を比定する説がある。『古事記』は天皇の没年を次のように記す。
- 十五代応神、甲午(394年)
- 十六代仁徳、丁卯(427年)
- 十七代履中、壬申(432年)
- 十八代反正、丁丑(437年)
- 十九代允恭、甲午(454年)
- 二十一代雄略、己巳(489年)
- 二十六代継体、丁未(527年)
『古事記』の没年干支を正しいとすれば讃=仁徳、珍=反正、済=允恭、興=安康、武=雄略となる。しかし一ヶ所、『宋書』の記述と矛盾する。それは『宋書』倭国伝の次の記述である。
「讃死弟珍立遣使貢献」
元嘉十三年(436)讃死して弟珍立つ。遣使貢献す。(『宋書』倭国伝)
すなわち珍を讃の弟とする記述である。
『古事記』が437年に没したとする反正は、『記紀』によるかぎり仁徳とは親子関係である。讃を仁徳、珍を反正とすると、『宋書』倭国伝が、珍を讃の弟とする記述と矛盾する。反正は履中の弟である。この一点を除けば、『古事記』の天皇没年干支から倭の五王が推測できるとも考えられる。
一方『日本書紀』は天皇の没年を次のように記す。
- 十七代履中、己酉(405年) 仁徳天皇の第一皇子
- 十八代反正、甲申(410年) 仁徳天皇の第三実子
- 十九代允恭、庚午(453年) 仁徳天皇の第四皇子
- 二十代安康、甲申(456年)
- 二十一代雄略、庚午(479年)
『日本書紀』の年次では、413年から479年の間の天皇は允恭・安康・雄略の3名であるが、、反正との年代は宋への行程を考えると候補として十分にあり得る。またこの反正天皇との崩御の時期だけが古事記が正しいとすれば、413年の讃は反正になり矛盾しない。ただ436年の珍、443年の済という二人の遣使に対し、『日本書紀』のこの期間に該当する天皇は允恭1人であるので珍と済が同一人物でなければならない。
だが古事記説では矛盾していた箇所も讃を反正、珍を允恭とすると、『宋書』倭国伝が、珍を讃の弟とする記述と合致する。
ただ一般的には「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇、「済」→允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇と考えるのが通説である。
しかし、そもそも『古事記』、『日本書紀』とも倭の五王の遣使に明確に対応する記事はない。また、記紀の史料批判により、継体天皇以前の編年は到底正しいとは言えず、このころの王家内部では文字による記録が常時取られていたとは考えがたいことから、記紀に伝えられた干支や系譜を元に倭の五王を推定するという試み自体をあまり意味がないとする意見もある。倭国の実態や、倭王とヤマト王権の関係自体も、現時点の学会等で明確化されているとは言い難い。
「倭の六王」説
『宋書』に出てこないだけで中国風の一字名をもった倭王は他にもいたという説[11]。
脚注
- ↑ 倭の五王かどうかは不明。ただし、『梁書』諸夷伝には「晋の安帝の時、倭王讃有り」という記述がある。
- ↑ 鎮東大将軍→征東将軍では進号にならないため、征東大将軍の誤りとされる
- ↑ 和風諡号『古事記』品陀和氣命、『日本書紀』譽田天皇。『日本書紀』一伝に笥飯大神と交換して得た名である譽田別天皇、『播磨国風土記』品太天皇、『上宮記』逸文凡牟都和希王
- ↑ 和風諡号『日本書紀』多遅比瑞歯別尊、『古事記』水歯別命
- ↑ 和風諡号『日本書紀』雄朝津間稚子宿禰尊、『古事記』男淺津間若子宿禰王
- ↑ 和風諡号『日本書紀』穴穂天皇。穴穂皇子
- ↑ 『日本書紀』の雄略天皇紀五年条「呉国遣使貢献」、八年二月条「遣身狭村主青檜隈民使博徳使於呉国」十年九月条「身狭村主青等将呉所献二鵝」などに見られる「呉国」を南朝の諸国家と見る意見がある。
- ↑ 本居宣長『馭戎概言』、鶴峯戊申『襲国偽僣考』、近藤芳樹『征韓起源』、古田武彦『九州王朝説』他)。
- ↑ なお、倭の五王と南朝との交流が、東晋の南燕征服による山東半島領有(410年)以後、北魏の南進が本格化する470年代にかけての時期に集中しているのは、山東半島の南朝支配によって倭及び三韓からの南朝への航海に対する安全性が増す一方で、東晋の東方諸国に対する政治的・軍事的圧力を無視できなくなったからである、という見解を大庭脩や川本芳昭は取っている。
- ↑ 平林章仁『神々と肉食の古代史』吉川弘文館、2007年,44頁
- ↑ 「松野連姫姓系譜」では倭の五王を兄弟相続のない代々の親子として繋いだ上、讃の父に「謄(騰?勝?)」、武の息子に「哲」、哲の息子に「満」がいたとしている。これからすると下記の禰は謄と同一人物、薈は哲と同一人物となる。