蕭道成
テンプレート:Mboxテンプレート:基礎情報 中国君主 テンプレート:Wikisourcelang テンプレート:Wikisourcelang テンプレート:Wikisourcelang 蕭 道成(しょう どうせい)は、南朝斉(南斉)の初代皇帝。
家系
蕭氏は蘭陵(現在の山東省)を本貫とし、前漢の丞相・蕭何の24世の子孫と称した。宋代に淮陰(現在の江蘇省淮安市)に移っている。父の蕭承之は宋初に武功があったが、当時の貴族制社会においては軍人は寒門(低い家格の出身者)でしかなかった。
生涯
元嘉24年(447年)に雍州刺史・蕭思話の参軍となり、対北魏戦に戦功を挙げた。明帝より驍騎将軍・西陽県侯・南兗州刺史に任じられ、淮陰にて北魏に対抗した。淮陰では自費で兵士を集めて勢力を拡大し、一時は明帝に叛乱を疑われることもあったが、明帝が崩御する際に右衛将軍・衛尉に進んだ。
元徽2年(474年)に後廃帝の叔父の桂陽王劉休範の反乱が発生したが、これを蕭道成が鎮圧した。この武功により中領軍となり、禁軍を掌握して独裁体制を築いた。元徽5年(477年)、これに危機感を抱いた後廃帝は蕭道成を誅殺しようと計画したが、これに対して先手を打って後廃帝を殺害、順帝を擁立し、自らは侍中・司空・録尚書事・驃騎大将軍となった。
蕭道成の専横に反対する沈攸之・袁粲・劉秉らが兵を起こすが、これを鎮圧して朝政を掌握、昇明3年(479年)に相国・斉王となり、順帝より禅譲を受けて斉を建てた。
即位した高帝は、権力掌握の時期から建国後にかけて宋の皇族を多数殺害したために不評を買った。内政面では戸籍の整備を行い部曲(私兵)の制限を行うなどの政策を実施し、自らは倹約に励み、斉は次代の武帝の代まで治世としては小康状態を保った。しかし安定した国情を造出したとは言い難く、斉は23年しか存続しなかった。
妻子
后妃
- 劉智容
- 羅太妃
- 任太妃
- 何太妃
- 謝貴嬪
- 陸修儀
- 袁修容
- 区貴人
- 張淑妃
- 李美人
子
- 武帝蕭賾(長男、母は高昭皇后劉智容)
- 豫章文献王蕭嶷(次男、母は高昭皇后劉智容)
- 臨川献王蕭映(三男、母は謝貴嬪)
- 長沙威王蕭晃(四男、母は謝貴嬪)
- 武陵昭王蕭曄(五男、母は羅太妃)
- 安成恭王蕭暠(六男、母は任太妃)
- 鄱陽王蕭鏘(七男、母は陸修儀)
- 桂陽王蕭鑠(八男、母は袁修容)
- (九男、早逝)
- 始興簡王蕭鑑(十男、母は何太妃)
- 衡陽王蕭鈞(十一男、母は区貴人)
- 江夏王蕭鋒(十二男、母は張淑妃)
- (十三男、早逝)
- (十四男、早逝)
- 南平王蕭鋭(十五男、母は李美人)
- 宜都王蕭鏗(十六男、母は何太妃)
- (十七男、早逝)
- 晋熙王蕭銶(十八男、母は陸修儀)
- 河東王蕭鉉(十九男、母は張淑妃)
女
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