允恭天皇
允恭天皇(いんぎょうてんのう、仁徳天皇64年? - 允恭天皇42年1月14日)は、第19代天皇(在位:允恭天皇元年12月 - 同42年1月14日)。雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと)、男浅津間若子宿禰王(古事記)。中国の歴史書『宋書』・『梁書』に記される倭の五王中の倭王済に比定されている。
系譜
仁徳天皇の第四皇子。母は葛城襲津彦の女・磐之媛命(いわのひめのみこと)であり、履中天皇、反正天皇の同母弟である。
皇居
都は遠飛鳥宮(とおつあすかのみや、現在の奈良県高市郡明日香村飛鳥か)。飛鳥の地に宮を設けた初めての天皇が允恭であった。
略歴
以下の略歴は、『日本書紀』に拠る。
反正天皇5年1月、反正天皇が皇太子を定めずして崩御したため、群臣達が相談して雄朝津間稚子宿禰尊を天皇(大王)に推挙する。尊は病気を理由に再三辞退して空位が続いたが、允恭天皇元年12月、忍坂大中姫の強い要請を受け即位。
3年8月、新羅から医者を招聘、天皇の病気を治療する。
4年9月、諸氏族の氏姓の乱れを正すため、飛鳥甘樫丘にて盟神探湯(くがたち)を実施する。
5年7月、玉田宿禰(葛城襲津彦の孫)の叛意が露顕、これを誅殺する。
7年12月、皇后の妹・衣通郎姫を入内させるが、皇后の不興を買い、藤原宮(奈良県橿原市)に住まわせる。
8年2月、衣通郎姫が皇后の嫉妬を理由に茅渟宮(ちぬのみや、大阪府泉佐野市)へ移る。天皇は遊猟にかこつけて郎姫の許に行幸を続けたが、10年に皇后に諌められ、その後の茅渟行幸は稀になった。
24年6月、皇太子の木梨軽皇子と同母妹の軽大娘皇女の近親相姦が発覚。(古事記に拠れば)木梨軽皇子を廃太子とし、伊予に配流(→衣通姫伝説)。
42年1月、崩御。新羅王はこれを悲しみ、弔使を送る。『古事記』『旧事紀』に78歳、『愚管抄』『神皇正統記』に80歳、北野本『日本書紀』に81歳(一本68歳)とする。
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、大阪府藤井寺市国府1丁目にある惠我長野北陵(恵我長野北陵、えがのながののきたのみささぎ)に治定されている。公式形式は前方後円。考古学名は市ノ山古墳(前方後円墳、全長228m)。
上記とは別に、大阪府藤井寺市津堂にある宮内庁の藤井寺陵墓参考地(ふじいでらりょうぼさんこうち)では、允恭天皇が被葬候補者に想定されている[2]。考古学名は津堂城山古墳。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
在位年と西暦との対照
当天皇の在位について、実態は明らかでない。『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。