崩御
崩御(ほうぎょ)は、天皇、皇帝、国王、太皇太后、皇太后、皇后、その他君主等の死亡を表す敬語。死因については特に問わない。
解説
元々は中国起源の語であり、『礼記』曲礼下篇に「天子の死は崩(ほう)と曰(い)ひ、諸侯は薨(こう)と曰ひ、大夫(たいふ)は卒(そつ)と曰ひ、士は不禄(ふろく)と曰ひ、庶人は死と曰ふ」とある。中国歴代史書では、この死因の敬語はその人物の生前の功績を表すものとして重んじられ、 皇后や大夫の身分にあるものでも、不忠の臣であれば、庶人の礼として死を用いることもあった。例えば資治通鑑では晋の恵帝の皇后賈南風は生前淫乱で悪事をなしたということから、「賜賈后死于金墉城」(賈后に死を金墉城に賜う)[1]と表現している。新聞記事等では日本国外の君主の死亡にも使うことがあった。
日本の新聞では、一例として香淳皇后死去の際に産経新聞などを除き「(ご)逝去」としたものが多かった。天皇の死以外には崩御の語を用いない場合もある。[2]
天皇の崩御に際しては、国の行事として「大喪の礼」が営まれる。天皇の崩御から追号が決められるまでの期間の天皇については、「大行天皇」と呼ばれる。
またお隠れになるとも表現する。この表現が天皇についてのみ用いられる理由としては、以下の2説がある(これに限らないかもしれないが未詳)。
- 日本神話において天皇は神の末裔であり、一般の人間とは異なる存在という思想背景があったためと解釈する説
- 天皇が太陽神の子孫であるという思想、即ち「天皇の死亡=太陽が雲に隠れる」から来ている説
「雲隠れ」についても、現在では単に姿をくらますという意味合いで用いられるが、元々は2番目の説に由来する語である。
また、先帝祭は先帝崩御日に毎年斎行される大祭のことである。
なお、前述『礼記』が示す語義から、古代中国においては用いる語によって執筆者の正統観を表現するという筆法が見られる。具体的には、「崩御」と称せば「その人物が正統な天皇・皇帝であると認めた」ことを意味する、などである。たとえば西晋の陳寿は『三国志』を著した際、魏・蜀漢・呉のうち魏の君主のみに「崩」の語を用いることで、正統が魏にあることを示した。司馬光はそれを改めて、三国すべての君主の死を「殂」とした。[3]
その他の皇族・高位の者など
律令制下においては、貴人の死を指し、「崩御」の他、皇太子や大臣などの死を意味する「薨御(こうぎょ)」、親王や三位以上の死を意味する「薨去(こうきょ)」、王や女王、四位・五位以上の死を意味する「卒去(しゅっきょ、そっきょ)」などの尊敬語が用いられた。
死に関する敬語としては他にも、「殂(そ)」・「殂落(そらく)」や「逝去(せいきょ)」などがある。「殂」「殂落」は崩御と同義の語だが、現代ではほとんど使われない[4]。
「逝去」も、本来は崩御や薨去に近い表現ではあるが、第二次世界大戦後、人を敬ってその死を表現する語として、この表現が広く一般に普及し定着したことから、今日の報道では皇族の死に対しても、便宜上こちらを使用している。貴人でない一般人の死に対する尊敬語・謙譲語である「死去」[5]や、単に死の概念のみを表す「死亡」は使われない。
薨御
皇太子や大臣の死については、「薨御(こうぎょ)」の語を用いる。
薨去
皇族の内の皇太子妃や親王・親王妃や内親王、或いは、位階が三位(正三位・従三位)以上の者の死については、「薨去(こうきょ)」の語を用い、外国の皇太子等元首に近い者の死についても同様の表記を用いる場合がある。
1945年(昭和20年)の朝日新聞では、アドルフ・ヒトラーの訃報に「ヒ総統薨去」の見出しを用いた(共和国の元首であるため「天皇や皇帝に次ぐ」と見なしたと思われる)。2011年(平成23年)10月22日に出た外務省のリリースにおいて、「スルタン・サウジアラビア王国皇太子薨去に際しての弔意メッセージ」[6]として、外務大臣の玄葉光一郎が薨去の語を用いている。
2010年(平成22年)当時の日本マスコミ上では、位階が三位以上の者の死であっても、まず「薨去」と表記しない。
2000年代以降の日本の皇室の事例では、2000年(平成12年)に崩御された香淳皇后の際にも、「崩御」とせず「ご逝去」と報じたマスコミが多く見られた。2002年(平成14年)の高円宮憲仁親王薨去の際には、報道で「薨去」が用いられたことは多いが、その後も、2004年(平成16年)の宣仁親王妃喜久子、2012年(平成24年)の寛仁親王、2014年(平成26年)の桂宮宜仁親王の薨去の折には、「逝去」と報道したマスコミが多く、報道の仕方には変化が見られる。
卒去
皇族の内の王や女王、或いは、位階が四位(正四位・従四位)・五位(正五位・従五位)以上の者の死については、「卒去(そっきょ、しゅっきょ)」の語を用いる。