好太王碑
好太王碑(こうたいおうひ)は、高句麗の第19代の王である好太王(広開土王)の業績を称えた石碑である。広開土王碑(こうかいどおうひ)とも言われ、付近には陵墓と見られる将軍塚・大王陵があり、合わせて広開土王陵碑(こうかいどおうりょうひ)とも言われる。
4世紀末から5世紀初の朝鮮半島の歴史・古代日朝関係史を知る上での貴重な一次史料である。
目次
[非表示]概要
この碑は好太王の業績を称えるために子の長寿王が[1][2][3]建てたもので、碑文には「甲寅年九月廿九日乙酉」(西暦414年10月28日)に建てたとある。
のち1880年(明治13年・光緒6年)頃に清の集安(現中華人民共和国吉林省通化地級市集安市)の農民により発見され、翌年関月山より拓本が作成された。1961年(昭和36年)、洞溝古墓群の一部として、全国重点文物保護単位に指定される。
好太王碑は現在の吉林省集安市の好太王陵の近くに位置している。高さ約6.3メートル・幅約1.5メートルの角柱状の石碑で、その四面に計1802文字が刻まれ、碑文は純粋な漢文での記述となっている[4]。碑文は風化によって判読不能な箇所もある。なお、2010年(平成22年)現在、この碑文は風化・劣化を防ぐためにガラスケースで保護されている。
日本と拓本
1884年(明治17年)1月、情報将校として実地調査をしていた陸軍砲兵大尉の酒匂景信が参謀本部に持ち帰った資料の中に、好太王碑の拓本が含まれていた(「酒匂本」)。その後、参謀本部で碑文解読に当たったのは文官である青江秀と横井忠直であり、それが日本の古代史に関係する重要史料とわかったため、漢文学者の川田剛・丸山作楽・井上頼圀らの考証を経て、1888年(明治21年)末に酒匂の名により拓本は宮内省へ献上された。
碑文
碑文は三段から構成され、一段目は朱蒙による高句麗の開国伝承・建碑の由来、二段目に好太王の業績、三段目に好太王の墓を守る「守墓人烟戸」の規定が記されている。
そのうち、倭に関する記述としては、いわゆる辛卯年条(後述)の他に、以下がある。
- 399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
- 400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
- 404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた[5]。
碑文では好太王の即位を辛卯年(391年)とするなど、干支年が後世の文献資料(『三国史記』『三国遺事』では壬辰年(392年)とする)の紀年との間に1年のずれがある。また、『三国史記』の新羅紀では、「実聖王元年(402年)に倭国と通好す。奈勿王子未斯欣を質となす」と新羅が倭へ人質を送っていた記録等があり、他の史料と碑文の内容がほぼ一致しているところが見られる。
この碑文からは、好太王の時代に永楽という元号が用いられたことが確認された。
碑文では、高句麗と隣接する国・民族はほぼ一度しか出てこず、遠く離れた倭が何度も出てくることから、倭国と高句麗の「17年戦争」と称する研究者も存在している[6]。その一方で、韓国などには高句麗が百済征伐のために倭を「トリックスター」として用いただけであると主張する研究者も存在している。
倭の古代朝鮮半島における戦闘等の活動は、日本の史書『古事記』『日本書紀』『風土記』『万葉集』、朝鮮の史書『三国史記』『三国遺事』、中国側の史書『宋書』においても記録されている。 また、2011年に発見された職貢図新羅題記にも「或屬倭(或る時は倭に属していた)」という記述があり、議論を呼ぶだろうとした[7]。
辛卯年条
碑文のうち、欠損により判別の出来ない記述のある二段目の部分(「百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭以耒卯年来渡[海]破百殘■■新羅以爲臣民」)の解釈がしばしば議論の対象となっている。
中国では歴史学者耿鐵華などの見解で、[海]の偏旁がはみ出し過ぎて他の字体とつり合いが取れていない事から、実際は[毎]ではないかとする意見もある。
世界中(朝鮮半島諸国を除く)の学会による解釈
以下、該当部分を日本学会による通説により校訂し訳す。 テンプレート:Quotation
なお、「[海]を渡り」は残欠の研究から「海を渡り」とされ、日本学会の通説では以下のように解釈される。 テンプレート:Quotation しかし、韓国の学会では異説が主流である(#韓国・北朝鮮の学会による解釈参照)。 また、倭を大和朝廷とするのか九州の支配者とするのかなど、倭をどう理解するかでも異論が多い。日本の史学者は、日本書紀の神功皇后による、所謂三韓征伐を念頭に置いて理解しているため倭を大和朝廷と理解することが一般的である。
朝鮮民主主義人民共和国・大韓民国の学会による解釈
韓国・北朝鮮の学会では、碑文で「破」と「攻」の文字が使われるのは「高句麗の軍事行動にだけ」だと指摘しながら、他の国である倭の軍事行動に例外として「破」が使われることはありえないと、一貫して世界で一般的な解釈を否定している(東北大学名誉教授であった井上秀雄はこれに同調している)。
1955年(昭和30年)、韓国の歴史学者鄭寅普の解釈以降、それを土台としたいろいろな解釈がなされている。 鄭寅普は好太王の業績を称えるための碑文に、好太王の業績に対して都合の悪い記述をする理由が無いとして、それらの主語や目的語が相当数省略されているのではないかという認識から、 テンプレート:Quotation
と解釈した。これを受け北朝鮮の歴史学者朴時亨が以下のような解釈をした。
韓国学会では好太王碑は好太王の高句麗の業績のためにつくられており、好太王の業績を礼賛する碑に倭が主語となって百残、加羅、新羅を破り臣民としたと記述されるのは間違えていると主張し、以下のような解釈が韓国学会の定説となっている。
しかし、これらの解釈は主語の変化が多く、他の史書との整合性や文章の前後の繋がりが乏しいことなどから批判もなされている。
大日本帝国陸軍による碑文改竄説とその破綻
辛卯年条に関しては、酒匂本を研究対象にした在日コリアンの考古学、歴史学者の李進熙が、旧大日本帝国陸軍による改竄・捏造説を唱えた[8]。その主張は、「而るに」以降の「倭」や「来渡海」の文字が、5世紀の倭の朝鮮半島進出の根拠とするために日本軍によって改竄されたものであり、本来は テンプレート:Quotation
と記されており、「破百殘」の主語を高句麗とみなして、倭が朝鮮半島に渡って百済・新羅を平らげた話ではなく、あくまでも高句麗が百済・新羅を再び支配下に置いた、とするものであった。
しかし、百済などを破った主体が高句麗であるとすると、かつて朝貢していた百済・新羅が朝貢しなくなった理由が述べられていないままに再び破ることになるという疑問や、倭寇を破ったとする記述が中国の正史、『三国史記』、日本の『日本書紀』などの記述(高句麗が日本海を渡ったことはない)とも矛盾が生じる。これに対して、高句麗が不利となる状況を強調した上で永楽6年以降の好太王の華々しい活躍を記す、という碑文の文章全体の構成から、該当の辛卯年条は続く永楽六年条の前置文であって、主語が高句麗になることはありえない、との反論が示された[9]。
1974年(昭和49年)に上田正昭が北京で入手した石灰塗布以前の拓本では、改竄の跡はなかった[10]。
その後、2005年(平成17年)6月23日に酒匂本以前に作成された墨本が中国で発見され、その内容は酒匂本と同一であるとされた。さらに2006年(平成18年)4月には中国社会科学院の徐建新により、1881年(明治14年)に作成された現存最古の拓本と酒匂本とが完全に一致していることが発表され[11]、これにより改竄・捏造説は完全に否定され、その成果は『好太王碑拓本の研究』(東京堂出版)として発表された。
東北大学名誉教授の関晃は「一介の砲兵中尉にそのような学力があったとはとうてい考えられないし、また酒匂中尉は特務機関として行動していたのであるから、そのような人目を惹くようなことができるはずもない」と述べ、改竄・捏造説を否定している。
なお、この説が唱えられる以前の1963年(昭和38年)、北朝鮮内で碑文の改竄論争が起き、その事実確認を一つの原因とした北朝鮮の調査団が現地に派遣された所、改竄とは言えないという結論を出した[12]。
参考:三国史記の記述
なお、以下に『三国史記』の関連する記述を示す。 テンプレート:Quotation 八年、夏五月一日に日食あり。秋七月、高句麗の王、談德(好太王)が4万を兵で北の国境を攻め、石峴など10余りの城を落とされた。王は談德が用兵に長けてると聞き出兵を拒否、漢水の北の部落が多数落とされた。冬十月、高句麗に關彌城を落とされた。王が狗原に狩りに出て十日が過ぎても帰って来なかった。十一月、狗原の行宮にて死去した。
その他
集安高句麗碑
2012年7月吉林省集安市麻線県にある麻線河の川辺において、広開土王碑と同じ時期と推定される高句麗の石碑が発見された[13]。
大阪経済法科大学のレプリカ
大阪経済法科大学の花岡キャンパス敷地内にレプリカが建立されている。1999年に朝鮮社会科学院の好意でレプリカ建立が成ったとされる。
脚注
参考文献
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- テンプレート:Cite book - 別冊に水谷拓本として図13枚を収録。テンプレート:Google books
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関連項目
テンプレート:Sister テンプレート:Wikisourcelang テンプレート:Wikisourcelang
外部リンク
- テンプレート:Kotobank
- テンプレート:PDFlink - 付録としてpp.63-82.に〈日本における「広開土王碑」研究文献目録〉を掲載。
- 広開土王碑拓本 - お茶の水女子大学デジタルアーカイブズ。
- 高句麗研究会(日本語)
- 廣開土境平安好太王 碑文
- 廣開土王碑
- 広開土王碑と神功皇后征韓伝承 安本美典「邪馬台国の会」