在日韓国・朝鮮人
在日韓国・朝鮮人(ざいにちかんこく・ちょうせんじん)は、日本に在留する韓国・朝鮮籍外国人のこと。場合によってそのうちの特別永住者を指すなど範囲が変わることがあり[1][2][3]、しばしば「在日」と短縮して用いられる。
目次
- 1 概要
- 2 呼称
- 3 歴史
- 4 在日民族団体
- 5 在日民族産業
- 6 在日韓国・朝鮮人の文化
- 7 各地のコミュニティー・コリアンタウン
- 8 著名な在日韓国・朝鮮人
- 9 在日韓国・朝鮮人を取り巻く諸論点
- 10 脚注
- 11 参考文献
- 12 関連項目
- 13 外部リンク
概要
本籍 | 人数 | % |
---|---|---|
テンプレート:Display noneソウル市 | 63,797 | 11.3 |
テンプレート:Display none釜山市 | 26,571 | 4.7 |
テンプレート:Display none光州市 | 2,499 | 0.4 |
テンプレート:Display none大田広域市 | 2,466 | 0.4 |
テンプレート:Display none京畿道 | 34,427 | 6.1 |
テンプレート:Display none忠清南道 | 10,660 | 1.9 |
テンプレート:Display none忠清北道 | 8,841 | 1.6 |
テンプレート:Display none全羅南道 | 36,447 | 6.4 |
テンプレート:Display none全羅北道 | 9,993 | 1.8 |
テンプレート:Display none慶尚南道 | 152,984 | 27.0 |
テンプレート:Display none慶尚北道 | 112,908 | 20.0 |
テンプレート:Display none江原道 | 4,615 | 0.8 |
テンプレート:Display none済州特別自治道 | 88,510 | 15.6 |
テンプレート:Display none北朝鮮地域 | 2,589 | 0.5 |
テンプレート:Display noneその他 | 7,385 | 1.3 |
テンプレート:Display none不詳 | 1,291 | 0.2 |
総数 | 565,989 | 100 |
在日韓国・朝鮮人は、日本の外国人のうち、韓国・朝鮮籍[5]の人のことであり、日本国独立行政法人統計センター発表の統計によれば、2013年6月末現在、このうち統計上「在留外国人(韓国・朝鮮)」(総在留外国人(韓国・朝鮮)[6]とは別)として表される韓国・朝鮮籍の「中長期在留者[7]」及び「特別永住者」の合計は526,575人、そのうちしばしば「在日」と略称される韓国・朝鮮籍特別永住者は373,689人となっている[8]。(外国人登録制度が廃止されたため、2012年7月以降の統計においては、「外国人登録者」が、「在留外国人」に置き換わった。)また、韓国に本籍地があっても朝鮮籍のままの者もいるため、北朝鮮地域を本籍地にしている者は2010年末時点で2,589人に過ぎないが、朝鮮籍保持者は3-4万人程度いるとみられている[9]。
長年に亘り日本定住外国人の最大勢力であったが、帰化と死去による特別永住者の減少が続き、2007年度、急増する在日中国人を下回った[10]。
併合時代に朝鮮から内地に渡航し、そのまま日本に定住した者、およびその子孫と、戦後、朝鮮戦争などの戦火から逃れるために、荒廃した朝鮮半島より日本に密航した20万から40万と推定される密航者[11][12][13]およびその子孫の多くはその後特別永住資格を付与され、旧日本国籍保持者としての背景から日本の外国人の中で特殊な地位を占めている。
「在日朝鮮人の大半は戦時中に日本政府がおこなった強制連行の結果」とする主張があるが、1959年に日本政府が発表し、2010年にも再確認された資料によれば、当時の在日朝鮮人総数61万人のうち徴用労務者は245人で、日本に居住している者は「犯罪者を除き、自由意思によって残留したものである」としている[14][15]。また、在日本大韓民国民団の子団体、在日本大韓民国青年会の中央本部が、在日1世世代に対する聞き取り調査の結果をまとめ1988年に刊行した『アボジ聞かせて あの日のことを -- 我々の歴史を取り戻す運動報告書 -- 』では、渡日理由のアンケート結果として、「徴兵・徴用13.3%」「経済的理由39.6%」「結婚・親族との同居17.3%」「留学9.5%」と65%以上が自らの意思で渡航してきた結果となっている(渡航時12歳未満だった者は含まれていない)[16]。2005年の日韓基本条約関係文書公開に伴う韓国政府に対する補償申請者は、2006年3月の時点で総受理数21万件のうち在日韓国人からは39人に留まっている[17](詳細は#徴用・「強制連行」と渡航、#戦後の在日韓国・朝鮮人各節参照)。1965年12月18日、韓国政府は在日韓国人の苦労の原因は本国政府の責任となる他ありませんので、これからは最大限に生活を保護し、朝鮮総連に加担したものも政府保護下に戻ることを希望し、分別なく故国をすてて日本に密入国しようとしたものについても韓国民として是非を問わないとすることを表明している[18]。
呼称
韓国併合後、韓国、北朝鮮建国前後までは在日朝鮮人と呼ばれ、サンフランシスコ条約発効後は外国人登録の国籍欄に朝鮮と記入されていたが、その後日韓基本条約の締結に伴い韓国籍に切り替えたものが現れ、1970年代後半から1980年代にかけて「在日韓国・朝鮮人」がより広く普及・浸透するようになった[19]。国籍によって在日朝鮮人または在日韓国人と区別されることもあり、また、韓国・北朝鮮それぞれの正統国家としての立場と深く関係して、在日韓国・朝鮮人全体を在日朝鮮人または在日韓国人と呼称することもある。韓国は1970年代から「朝鮮」の排除を進め、これを支持する在日本大韓民国民団(通称:韓国民団ないし民団)は「在日韓国人」(재일 한국인)であるべきだと主張し、これに対して北朝鮮とこれを支持する在日朝鮮人組織・在日本朝鮮人総聯合会(通称:朝鮮総連ないし総連)では、引きつづき日本人は「在日朝鮮人」(재일 조선인)と呼ぶべきだと主張している。民団も総連も共に、日本に在住する朝鮮民族は全て自分達の団体および自分達が支持する国家に属するべきであり、呼称に関しても自分達が使用しているものを使用すべきであると今なお主張しつづけている。一方、日本国としては韓国籍、朝鮮籍どちらであっても、すべて韓国籍と判断し韓国人として扱うということとなっている[20]。これとは別に、国籍ではなく民族としてのアイデンティティから在日朝鮮人と呼ぶ場合もある。民族名(朝鮮民族)については、韓国では「韓民族」などと呼ばれる。
これら呼称に関する南北の争いを避け、国籍を問わない呼称として在日韓国・朝鮮人の他に在日コリアンという呼称がしばしば使われる。また、池東旭などによって、在日韓国・朝鮮人としてのアイデンティティを獲得しようとの呼掛け・主張の中で、日本に住む朝鮮半島由来の住民(日本国籍を持たない者も含む)の民族としての総称として、「コリアンジャパニーズ」などが提唱されて、在日韓国人である金城一紀や新井英一などが自称として用いている。「在日」とだけ表現する場合は在日外国人一般ではなく、在日韓国・朝鮮人(それもニューカマーを含まない特別永住者)を指すことが大半である。
韓国、北朝鮮においては、帰化者も含めて在日僑胞(チェイルキョッポ、재일 교포)または在日同胞(チェイルドンポ、재일 동포)と呼ばれる。[21]。韓国政府は1999年に「在外同胞法」を制定し兵役の義務を果たしていない韓国籍特別永住者などの在外永住者や韓国系アメリカ人などの外国籍の元韓国人にも「在外同胞」(재외동포、F-4査証)の法的地位を与え韓国人と同程度の内国人待遇を認めるようになった[22](ただし、朝鮮籍在日韓国・朝鮮人は対象外。また中国政府の反対もあり、中国朝鮮族、旧ソ連の高麗人も在外同胞法の対象となっていない[23][24]。母国滞在中の在日韓国人永住者の投票権は韓国における外国人投票権(2005年から)に遅れ2010年から認められるようになった[25])。韓国外交通商部の2009年在外同胞現況によると在日僑胞は91万2655人となっている[3]。国籍上は日本人である場合や片親が日本人の日本国籍保持者であっても、一部の民族的なアイデンティティから在日韓国・朝鮮人を呼称することがある。
在日韓国・朝鮮人の性格には、来日・定住を始めた時期、出身地、定住する地域、本国での国籍によって大きな違いがあるといわれている。韓国により留学が自由化された1980年代以降に来日した韓国人を「ニューカマー」[26][27][28]、それ以前から在留している在日韓国・朝鮮人やその子孫を「オールドカマー」と呼び、区別することもある。
韓国・朝鮮系日本人
大韓民国外交部統計によると、2013年9月末時点で日本国籍を取得した(帰化した)韓国・朝鮮系日本人は345,774人となっている。なお、韓国は帰化した韓国・朝鮮系日本人であっても「在日同胞」と位置づけている[29]。
上述のように、外国人登録制度が廃止された2012年7月以降の日本政府の一般的な外国人数統計では、「中長期在留者」と「特別永住者」を「在留外国人」として計上しており(総在留外国人[6]とは別)、本項目でも、主に韓国・朝鮮籍の在留外国人について記載している。これに対して、帰化して日本国籍を取得した者は「韓国・朝鮮系日本人(コリアン・ジャパニーズ)」と呼ばれるのが自然だが、現実にはそのような用例は少ない。コリアン・ジャパニーズは1977年、坂中英徳によって在日の帰化を奨励する流れの中で用いられた[19]。当初は「単一民族国家日本への同化を促すもの」として在日知識人から異論が唱えられたが、上記のように2000年ごろから「コリアン・ジャパニーズ」と自称したり、これらの自称を用いて日本へ帰化し日本の多民族国家化を奨励する池東旭、河炳旭、鄭大均などの(元)在日韓国・朝鮮人も出現している[19][30]。2003年には、高槻むくげの会の李敬宰を会長とした「在日コリアンの日本国籍取得権確立協議会[1]」が発足、2005年には坂中を顧問に迎え特別永住者の帰化を押し進めている[19]。総務省も2005年「多文化共生社会の推進に関する研究会」を発足、「多文化共生の推進に関する意見交換会」を設置しこの流れを推進している[31]。
これら、「韓国・朝鮮系日本人」は在日韓国・朝鮮人とは区別されるのみならず、単に「日本人」であるとみなされる場合がほとんどであった。これは、日本国籍に帰化した者にも朝鮮系という出自を言明する者が少なく、帰化した韓国・朝鮮人も日本人と自認する場合がほとんどだったこと。また、そう自認する者しか帰化しない時期が長くつづいたことがある。また、日本在住が数世代を経ていっそう日本人からは区別がつかなくなっていること、帰化がかつて手続き的な国籍取得ではなく民族的同化を求めるものであったこと、日本国籍を取得しながら韓国・朝鮮人を自認し表明する者がほとんど見られなかったことなどが関係している。しかし、1980年代末以降、日本国籍を取得しながら民族的出自を明らかにする者も増えつつあり[32]、韓昌祐(はん・ちゃんう)のように民族名の朝鮮語読みを日本語転記した名前で帰化した例もある[33]。また、韓国・朝鮮系日本人を同胞視する在日韓国・朝鮮人も増えている[34]。
歴史
西暦 | 和暦 | 人数 |
---|---|---|
1883年 | 明治16年 | 16 |
1884年 | 明治17年 | 1 |
1885年 | 明治18年 | 1 |
1886年 | 明治19年 | 0 |
1887年 | 明治20年 | 6 |
1888年 | 明治21年 | 7 |
1889年 | 明治22年 | 8 |
1890年 | 明治23年 | 9 |
1891年 | 明治24年 | 6 |
1892年 | 明治25年 | 5 |
1893年 | 明治26年 | 7 |
1894年 | 明治27年 | 7 |
1895年 | 明治28年 | 12 |
1896年 | 明治29年 | 19 |
1897年 | 明治30年 | 155 |
1898年 | 明治31年 | 71 |
1899年 | 明治32年 | 188 |
1900年 | 明治33年 | 196 |
1901年 | 明治34年 | 355 |
1902年 | 明治35年 | 236 |
1903年 | 明治36年 | 224 |
1904年 | 明治37年 | 233 |
1905年 | 明治38年 | 303 |
1906年 | 明治39年 | 254 |
1907年 | 明治40年 | 459 |
1908年 | 明治41年 | 459 |
1909年 | 明治42年 | 790 |
1910年 | 明治43年 | 不明 |
1911年 | 明治44年 | 2527 |
1912年 | 大正元年 | 3171 |
韓国併合以前の在日韓国・朝鮮人
1876年(明治9年、高宗13年)、日朝修好条規が結ばれ、「隠者の国」と呼ばれた朝鮮が開港・開国、1880年、金弘集らが第二次朝鮮通信使として来日[36]、東京に朝鮮公使館が設置される。その後、留学生や亡命者などが少しずつ入国し始める。この時期来日した著名人は、1884年(明治17年)(甲申政変)、1895年(明治28年)と二度に亘って日本に亡命し、併合後は朝鮮貴族となり、朝鮮総督府中枢院顧問, 副議長[37]、貴族院議員などを勤めた朴泳孝、1882年、慶應義塾などで学び、甲午改革失敗後1894年上海で閔妃の刺客に斃れた金玉均、金玉均を暗殺するために来日した宋秉畯、閔妃暗殺に係わったを禹範善を日本で暗殺した高永根、独立協会を結成した尹致昊、徐載弼、1905年、1915年と2度に亘って留学し、1919年の「二・八独立宣言」の起草に加わった李光洙、日本への留学、亡命後、三・一独立運動の「独立宣言書」の起草に係わった崔南善、崔麟、孫秉煕、呉世昌、権東鎮などがいる。戦前の在日韓国・朝鮮人移入の背景
テンプレート:See also 注:ここで述べる背景・経緯は、朝鮮の植民地時代・日本の敗戦以前から日本に居住する在日韓国・朝鮮人に関するものである。
韓国併合(日韓併合)以前から南部に住む朝鮮人は日本に流入しはじめており、留学生や季節労働者として働く朝鮮人が日本に在留していた[38]。韓国併合以降はその数が急増した。内務省警保局統計は、1920年に約3万人、1930年には約30万人の朝鮮人が在留していたとしている[38]。一方、「大正9年(1920年)および昭和5年(1930年)の国勢調査(民籍別)」を記載した1938年(昭和13年)発行の年鑑[39]によれば朝鮮人の民籍は、大正9年(1920年)で40,755人、昭和5年(1930年)で419,009人との記載がある。したがって、この十年で人口増は378,254人ということになる。
日本政府は日本人が兵役についたために労働力が不足した戦時の数年間を除き、戦前戦後を通じて日本内地への渡航制限などにより朝鮮人の移入抑制策を取ったが、移入を止めることは出来なかった[40][41][42][14]。
朝鮮人が日本に移入した要因として、以下の社会的変化が挙げられる。
- 朝鮮南部は人口密度が高い上に李氏朝鮮時代から生活水準が低かったため、生活水準の高い日本内地を目指した[40]。
- 朝鮮における農業生産体制の再編
- 併合後の朝鮮では農村を含めた経済システムが再編され、特に1910年から1918年にかけて行われた土地調査事業によって植民地地主制が確立し、日本人地主と親日派朝鮮人地主へと土地所有権が移動したといわれ[45]、その結果、土地を喪失した多くの農民が困窮し、離農・離村したことが日本への移住につながったとしている[46]。また、産米増殖計画による米の増産と日本への過剰輸出が、朝鮮半島で1人当たりの米の供給量激減と米価の高騰を招き、小作農などの人々を困窮させ[47][48]土地の収奪・農民の没落が進行し[49]、日本への移住に拍車をかけたとする論もある。なお、民団の子団体、在日本大韓民国青年会による在日1世1106名への聞き取り調査の「日帝が行なった土地調査事業をご存知ですか」と言う設問では「知っている」「聞いたことがある」は4分の1(25.1%)であり、「知らない」は4分の3であった[16]。そのため、「土地調査事業で土地を奪われた農民が、仕事を求めてやむなく日本に渡ってきた」という主張は、当人たちが存在を知らない土地調査事業を渡日理由にしたというのは後知恵ではないかという指摘もある。1985年に土地事業当時の公文書が大量に発見されてからは実証研究がなされるようになり[50]、2004年には「日本による土地収奪論は神話である」と李栄薫が主張している[51]。
- 山本有造によると、土地調査事業によって所有者が判明せず、日本に収められた朝鮮の農地は全体の3%前後(多くても10%)であるとしている[52]。
- 李栄薫によると、朝鮮全土484万町歩の土地の大部分が民有地、残りの12.7万町歩が国有地とされ、国有地も1924年までは日本人ではなく朝鮮人の小作人に有利な条件で払い下げられたもので[53]、土地収奪論は1955年に東京大学留学中の李在茂による創作としている[50]。
- 日本における資本主義の発展によって、第一次世界大戦による好況下、労働力需要が高まったこと、人件費の高騰を抑え、国際競争力の源泉である低賃金労働力として朝鮮人労働力を必要としたことが挙げられる。これが朝鮮人の日本への移住を促進した[54][55]。
- 特に紡績業界は、1891年を最初として、1915年以降は頻繁に、朝鮮人労働者公募を行った[56]。紡績業界は、低賃金・長時間労働を強いられる下層労働市場であったが、朝鮮人はこのような日本人に卑賎なる稼業として忌避された仕事であっても、日本人より低廉なる賃金と低級なる生活状態のもと、粗衣・粗食に耐えながら、之を忌避せず、厭わず、黙々と従事した為、このような稼業の労働力として必要とされるようになったとも言われる[57][58][59][60][61][62][63]。一般の日本人に忌避された仕事は、元々、日本の被差別部落民や社会的マイノリティの仕事であった為、朝鮮人労働者は、被差別部落民や社会的マイノリティよりも低廉な労働力として、競合する形で入り込み、その居住地も当初、被差別部落の中にあった[64]。このような貧しくて日本に流れてきた朝鮮人がいる一方で、朝鮮において「京城紡織株式会社」のように戦後まで続く大手の紡績会社を経営して成功した朝鮮人もおり、このような姿は資本主義の萌芽が日韓併合時に朝鮮で生まれたものであるとする研究者もいる[65]。
- 1910年-1940年にかけて朝鮮では年平均1.3%の人口増加率を記録し、世界的に見て高い人口増加率が記録されている[66]。
- 1910年-1940年にかけて朝鮮では年平均3.7%の経済成長率を記録し、世界恐慌下にあった海外とは異なり高度成長を遂げている[66]。
日本政府は、第一次世界大戦終了後、朝鮮人流入に起因する失業率上昇[67]や、日本内地の犯罪増加に悩まされており、朝鮮人の日本内地への流入を抑制する目的で満洲や朝鮮半島の開発に力を入れた[40][41]。
朝鮮人労働者の日本への移入は日中戦争および太平洋戦争の勃発により増加の一途をたどった。併合当初に移入した朝鮮人は土建現場・鉱山・工場などにおける下層労働者で[68]、単身者が多くを占める出稼ぎの形態をとっていたが、次第に家族を呼び寄せたり家庭を持つなどして、日本に生活の拠点を置き、永住化もしくは半永住化を志向する人々が増えた[38][69]。
1945年8月終戦当時の在日朝鮮人の全人口は約210万人ほどとする報告もある[70]。その9割以上が朝鮮半島南部出身者であった[38]。このうちの多くが第二次世界大戦終戦前の10年間に渡航したと考えられている。
- 1934年10月 岡田内閣は「朝鮮人移住対策ノ件」を閣議決定し、朝鮮人の移入を阻止するために朝鮮、満洲の開発と密航の取り締まりを強化[40][41]。
- 1939年9月 朝鮮総督府の事実上の公認のもと、民間業者による集団的な募集の開始
- 1942年3月 朝鮮総督府朝鮮労務協会による官主導の労務者斡旋募集の開始(細かな地域ごとに人数を割り当て)
- 1944年9月 日本政府が国民徴用令による徴用
この時期は兵役により減少した日本での労働力を補うため、朝鮮半島からの民間雇用の自由化(1939年)、官斡旋による労務募集(1942年)により在日朝鮮人が急増したが、1944年9月から始まった朝鮮からの徴用による増加は第二次世界大戦の戦況の悪化もあってテンプレート:要出典範囲。1974年の法務省・編「在留外国人統計」では、朝鮮人の日本上陸は1941年 - 1944年の間で1万4514人とされ、同統計上同時期までの朝鮮人63万8806人のうち来日時期不明が54万3174人であった。官斡旋等による朝鮮半島での労務募集の実態や日本国内での朝鮮人労働者の待遇・生活については、その人数や規模などを含めて、現在も議論が続いている[71][72][73]。また、日本国内での労働に従事した朝鮮人の中には、「タコ部屋労働」のような、自由を奪われた状況に置かれた者も多数あった[73]。
なお、2005年の日韓基本条約関係文書公開に伴う韓国政府に対する補償申請者は、2006年3月の時点で総受理数21万件のうち在日韓国人からは39人に留まっており、これは樺太(サハリン)からの5996件に比べても極端に低い数となっている[17]。
1945年以降は、日本は戦災によって国土が荒廃し、食料不足になり占領国からの食糧援助に頼らざるを得なくなったが、戦災に遭わなかった朝鮮は日本統治時代には食料を輸出できるほどの生産性を備えるに至ったことなどから、1946年3月までに在日朝鮮人のうち140万人の帰還希望者が日本政府の手配などにより朝鮮に帰還しているが[14]、戦後も朝鮮からの密航者が絶えず日本の治安上の問題となった[42]。また、1945年に朝鮮半島に帰還したものの、その後に動乱を避けて再び日本に移入した者も多かった。彼らとその子孫も、オールドカマーのうちに入れられて考えられることが多い[74]。
戦前の在日韓国・朝鮮人
テンプレート:Multiple image 韓国併合(日韓併合)により、日本による朝鮮半島の合邦化が進行していくのと並行して、朝鮮人の素養が疑問視されるようになった。要因は様々であるが、例えば、朝鮮人の順法意識や衛生知識の乏しさに起因する生活上のトラブルや、皇室(桜田門事件)・李王家(李王世子暗殺未遂事件)を対象とした暗殺未遂事件が引き起されたこと、内地人(日本人)に比べて犯罪率が高い事などが原因とされる。[75][76]
関東大震災
テンプレート:See also 1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災では、報道機関が機能不全に陥り、混乱に乗じて朝鮮人(「不逞鮮人」)による暴動が発生したなどの不確かな情報から自警団によって、朝鮮人虐殺事件が関東各地で発生した。被害者には日本人もいた。
虐殺の原因は、朝鮮人が「暴徒化している」[77]「井戸に毒を入れ、また放火して回っている」などの情報が流れたことに端を発しており[78]このデマを流布した首謀者は、時の警視庁官房主事正力松太郎(後に読売新聞社主)であるとする主張もある[79]。震災で焼け出された各新聞の記者が、警視庁官房に食糧や飲料が集まっているという情報を聞きつけ、手に入れようと次々に正力のもとを訪れ、そこで正力が「朝鮮人暴徒化の噂が流れている」とリークし、記者たちが記事にしたことによってデマが広がった(後に正力はこれを「虚報」と認めている)[80]。後藤新平内務大臣兼帝都復興院総裁は正力に「朝鮮人暴動は事実だが自警団に任せて力で押しつぶせば必ず朝鮮人は報復する」として鎮静化を図った[81]。警察や戒厳司令部は、このような不正確な情報が流布していることを察知し、全ての朝鮮人が悪いわけではないとして、自警団の武装を禁止し、警察と軍を信頼するよう声明を出した(右図参照)。
また、横浜市の鶴見警察署長・大川常吉は、保護下にある朝鮮人など300人の奪取を防ぐために、1000人の群衆に対峙して「朝鮮人を諸君には絶対に渡さん。この大川を殺してから連れて行け。そのかわり諸君らと命の続く限り戦う」と群衆を追い返した。さらに「毒を入れたという井戸水を持ってこい。その井戸水を飲んでみせよう」と言って一升ビンの水を飲み干したとされる[82]。また、軍も多くの朝鮮人を保護した[83]。
10月22日には、東京時事新報は「関東一帯を騒がした鮮人暴動の正体はこれ」と題し、名前が判明している者としては鄭塋・金孫順・姜金山・崔先卜・金実経・林松致・李王源 ・呉河模の8名、名前が一部判明している者としては金某の2名、氏名不詳の者としては約59〜60名の、一部の朝鮮人暴徒が放火、殺人、婦女暴行、掠奪、騒乱を約30件起こした報じた(取り押さえられた者6名、解放され行方不明となった者約36名、逃走した者9名、射殺された者1名、毒殺された者1名、起訴された件10数件、起訴された者23名で、尚も捜査中であるとしている。)[78]。東京時事新報は、政府が朝鮮人による暴動事件について報道統制していたが、震災からしばらくたち記事差止が解除されたので、発表したとしている[78]。
被害者数については諸説あるが、吉野作造は2613名余、大韓民国臨時政府の機関紙『独立新聞』は6415名、韓国政府は1959年7月1日に関東大震災時に数十万の韓国人が大量虐殺されたと公式に主張した[84]。
また、関東大震災における朝鮮人殺害は、関東在住の朝鮮人の、関西への避難と、新規渡航者の関東回避をもたらしたと日本テコンドー協会会長の河明生は主張しており[85]、在日本大韓民国民団は官憲が意図的に民衆に朝鮮人を襲撃させたと主張している[86]。
1931年の朝鮮排華事件の際には日本内地でも在日朝鮮人による中国人への襲撃事件が起きた[87]。
日中戦争による戦時動員体制の強化にともない朝鮮人の動員を進める必要に迫られたころ、日本政府は「内鮮一体」のもと、日本人と朝鮮人を同じく扱う政策に傾いた。朝鮮人は旧来の日本国民(内地人)とは別個の法的身分に編入されたが、日本国民としては不完全ながら公民権(選挙権、被選挙権、公務就任権など)を与えられた。「民族的出自によって差別的な不利益処分を受けることは原則としてありえない」という方針に、朝鮮の知識人が賛同した(李光洙など)。朝鮮出身者の中にも、日本国民として官公庁に勤務した者がいた。高等文官試験の受験資格も与えられており、キャリア官僚や裁判官になった例もある(民団団長の権逸は元裁判官)。朝鮮人にも陸軍幼年学校や陸軍士官学校への入学資格が与えられ、日本陸軍の将軍・将校として日本兵を指揮した朝鮮人も多くいた。日本軍の将軍となった朝鮮人は洪思翊中将や李垠中将のように朝鮮名のままで日本軍に在職していた。
第二次世界大戦の終戦以前に行われた選挙では朝鮮名のままで立候補した者も存在し、実際に衆議院議員に当選した者(朴春琴)もいる。また、多くの朝鮮人も華族(朝鮮貴族)として貴族院議員に議席を持っていた。
日本内地への移入・密航
朝鮮人の移入は戦前から行われるとともに、多くの密航が行われており、密航者や密航組織の摘発が頻繁に行われていた[88]。1919年4月には朝鮮総督府警務総監令第三号「朝鮮人旅行取締ニ関スル件」により日本への移民が制限されるも、形骸化する[89]。1925年10月にも渡航制限を実施したが、1928年には移民数がさらに増加している[90]。1934年10月に岡田内閣は、朝鮮人の移入によって治安や失業率が悪化したため、朝鮮人の移入を阻止するために朝鮮、満洲の開発を行うとともに密航の取り締まりを強化するための「朝鮮人移住対策ノ件」を閣議決定した[40][41]。
1938年12月26日には摘発された密航朝鮮人180人が強制送還されている[91]。1939年1月には300人の密航朝鮮人が強制送還された[92]。2月2日には密航朝鮮人128人が一網打尽に逮捕されている[93]。3月1日から3月17日にかけて250余名の朝鮮人を強制送還している[94]。このように余りに密航が多いため1939年春から日本内地への渡航の取り締まりを緩和するようになったが、6月22日までに日本内地への渡航証明下付出願者は40,485人に上り、漫然渡航者として19,110人が論旨され、2,000人の密航者が摘発されている[95]。また、朝鮮人のなかには渡航証明書を偽造して売りさばき巨利を貪るものもいた[96]。1940年以降も内地渡航緩和が行われ、炭鉱だけでなく、工場、会社などへも道が開かれた[97]。その一方で、第二次世界大戦中にも密航者は増加し、警察による摘発も行われていた[98]。
福岡県の日産鉱業所では、400人の朝鮮人が採用されて、新築の住居が与えられ、一人当たり月々20円以上朝鮮に送金していた[99][100]。
戦後の在日韓国・朝鮮人
テンプレート:Multiple image 日本の敗戦と共に、在日朝鮮人たちは各地で朝鮮人会、朝鮮人組合などの朝鮮人団体を結成し日本人との賃金格差撤廃などの運動を開始し、全国組織の在日本朝鮮人連盟へと急速に糾合されていった。在日朝鮮人たちは自らを「解放国民」「解放民族」と位置づけ、日本人よりも上位に置くような態度を示すようになり、敗戦にうち沈んでいる日本人との軋轢を生じさせることもあった。 そのような朝鮮人は、「戦勝国民」「中立国民」のいずれにも該当しない「第三国人」と呼ばれた[101]。
帰国と滞在
終戦直後の1945年8月24日、朝鮮人帰還者を乗せ釜山港へと向かった浮島丸が、連合国軍司令部の航行禁止命令により、舞鶴港への入港中、触雷・沈没して乗員約5000名のうち約550人が死亡する浮島丸事件などの事故もあったが[102]、その後連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により送還事業が開始され、翌1946年までに徴用者を中心に140万名が朝鮮半島に帰還する一方、1939年9月の「朝鮮人労働者内地移住ニ関スル件」通達により朝鮮における雇用制限撤廃(自由募集)以前から滞在していた者を中心に約60万名が日本に残った。
朝鮮人の引揚に関しては、GHQと日本政府は引揚希望者を全員帰国させる方針であり、船便による具体的な送出人数に関してもGHQが指示を出している[103] 。また、日本国内(内地)の輸送に関しても具体的な指示が出ている[104]。
その後、在日韓国・朝鮮人は戦勝国民でも敗戦国民でもない「第三国人」としてみなされるようになった[105]。戦前・戦中から、在日韓国・朝鮮人の多くは日本の一般社会との交流に乏しく、港湾や鉱山、工場などでの労働によって生活していたため、日本語を巧く話すことはできず、生活基盤は脆弱であった。GHQの計画に従い、大部分の人々が終戦後故郷へ帰る選択肢はあったものの、約4分の1が戦後も日本に定住するに至ったことは、後に日本人と在日韓国・朝鮮人双方から「棄民政策」として批判された[106][107]。
1945年9月、在日本朝鮮留学生同盟が設立される[108]。1945年10月15日に在日本朝鮮人連盟が設立され、1946年10月3日には在日本朝鮮居留民団(現在日本大韓民国民団)が設立される。1946年9月29日には坂町事件を報道した新潟日報が朝鮮人に襲撃される新潟日報社襲撃事件が起きた。1946年11月末までに占領軍は連合国や朝鮮人・中国人についての批判を禁ずるとした検閲の指針を定めた[109]。1946年11月10日、在日朝鮮人生活権擁護委員会を結成すると、朝鮮人に対する生活物資の優先配給を要求し、12月20日に皇居前広場で朝鮮人生活権擁護全国大会を開くと首相官邸を襲撃した(首相官邸デモ事件)。また、行政への脅迫によって米の二重三重配給を受けて密造酒を醸造するものが多く[110]、神奈川税務署員殉職事件、高田ドブロク事件など税務署との衝突が多発し、職員に死傷者が出ることもあった[111][105]。このため、1947年に国会に上程された「財務局及び税務署に在勤する政府職員に対する税務特別手当の支給に関する法律案」の趣旨説明で、法案に記載されている政府職員が事務の執行にあたり生命又は身体に著しい危険を及ぼす恐れがある場合とは、特殊な第三国人等に対する検査調査が該当するとしている[105]。ソフトバンクグループ会長孫正義の父は密造酒で稼いだ資金を元にパチンコ店数十店舗を開くなどして財を成している[112]。また、覚醒剤密造の72%が在日韓国人によって行われた[113]。1948年の浜松事件ではヤクザ、警官隊、占領軍との抗争が行われた。1949年4月8日、GHQの意向で在日本朝鮮人連盟が解散させられる。1950年5月、在日本朝鮮留学生同盟では、北朝鮮派と韓国派との内部抗争によって死傷者がでる事件が起きた[114]。1950年1月、祖国防衛隊が結成される。1951年1月、在日朝鮮統一民主戦線が結成される。1955年、在日本朝鮮人総聯合会が設立される。
戦後、「朝鮮人には民族教育が必要である」との主張に基づいて、日本各地に朝鮮人学級が設けられ、続いて朝鮮人学校が設置された。これに対して1948年に、GHQの意向により朝鮮学校閉鎖令が出され、阪神教育事件に発展した。朝鮮人が兵庫県庁に突入して閉鎖令を撤回させるなどしたため、アメリカ軍は非常事態宣言を出して朝鮮人1,700人を逮捕した[115]。王子朝鮮人学校事件など朝鮮人学校をめぐる事件も続発した。
1947年5月の外国人登録令で、朝鮮人は、未だ日本国民ではあったが、外国人の入国について定める同令との関係では外国人とみなされるようになる。その後1952年のサンフランシスコ講和条約発効と併せ、外国人登録法が施行される。これに合わせて、通達(1952年(昭和27年)4月19日法務府民事局長通達・民事甲第438号「平和条約の発効に伴う朝鮮人台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について」)が出され、日本籍を持っていた朝鮮人らは日本国籍を有しないこととされた。
その後も朝鮮人の引き揚げは継続され、1959年に外務省は、朝鮮への国民徴用令適用による朝鮮人徴用は1944年9月から下関-釜山間の運行が止まる1945年3月までの7か月間であり、また、戦時中に徴用労務者として来た朝鮮人の内、そのまま日本に留まった者は1959年時点で245人に過ぎず、日本に在住している朝鮮人は、「大半が自由意志で来日・在留した者」とする調査結果を発表している[116]。
「自警」組織
テンプレート:See also 終戦直後の混乱期、日本各地で在日韓国・朝鮮人が小規模な組織を作り[117]、保安隊[118]、警備隊[118]、自治隊(コリアンポリス)[117]などと称して徒党を組み、日本の警察や占領軍兵士の黙認のもとに警察類似行為を行った[117][118]。これらの武装組織はやがて在日朝鮮人の青年組織である在日朝鮮民主青年同盟が1946年1月に設立した「自治隊」の下に統合、組織化が進められ、「解放民族」と称する、日本の統制下をはなれた軍事組織化を目指し、日本全土で多数の犯罪、また警察など公務員を対象としたテロ行為を行った。
このことからGHQの命令により制定された団体等規正令により「暴力主義的団体」とされ、1949年9月に解散。在日韓国・朝鮮人は、摘発を逃れるため地下に潜伏するに至った[119][120][121]。鄭栄桓明治学院大学講師は、終戦直後の警察類似行為について、日本警察の容認の下に行われていたとし、それが遡及的に犯罪行為として扱われることとなったと主張している[121]。
戦後の密入国
戦後の大きな朝鮮人の日本移入の起因となった最初のものとして、1948年の済州島四・三事件がある。韓国政府による済州島民への虐殺は日本への難民/密航者を大量に生んだ[122]。済州島四・三事件の鎮圧を命じられた韓国軍が韓国本土で反乱を起こした麗水・順天事件の際にも日本への密航者が生み出された[123]。1950年に始まった朝鮮戦争時にも韓国政府による拷問や独裁から逃れるために密航者が生み出された[124]。また、経済的理由から密航して来るものも多くいた。例えば、1947年に孫正義の祖父・父ら孫一族は日本に密航船で入国しており[125]、マルハン韓昌祐会長は「韓国にいても稼げないので密航して来た」と2005年のテレビ番組で発言した[126]。作家のキム・ギルホは「1973年、食べていくために日本行の密航船に乗った」と証言した[127]。
戦後にまもなくして来日した彼らは戦後の混乱に紛れ、本来は対象者ではなかったが特別永住資格を得た[126]。日本政府は密入国者の摘発を行ったが、韓国政府は強制送還を拒否するとともに韓国が抑留した日本人の返還条件として密入国者を日本国内に解放するよう要求した[42]。
『朝日新聞』1955年8月18日「65万人(警視庁公安三課調べ)の在日朝鮮人のうち密入国者が10万人を超えているといわれ、東京入国管理局管内(1都8県)では、この昨年中のべ1000人が密入出国で捕まった。全国ではこのざっと10倍になり、捕まらないのはそのまた数倍に上るだろうという」また、『朝日新聞』1959年6月16日「密入出国をしたまま登録をしていない朝鮮人がかなりいると見られているが、警視庁は約20万人ともいわれ、実際どのくらいいるかの見方はマチマチだ」また、『朝日新聞』1959年12月15日天声人語「韓国から日本に逃亡してくる者は月平均五、六百人もある。昭和二十一年から昨年末までに密入国でつかまった者が五万二千人、未逮捕一万五千人で、密入国の実数はその数倍とみられる」また、『産経新聞』1950年6月28日には、「終戦後、我国に不法入国した朝鮮人の総延人員は約20万から40万と推定され、在日朝鮮人推定80万人の中の半分をしめているとさえいわれる」という記事が掲載されている。当時の総理大臣である吉田茂も「在日朝鮮人に対する措置」文書(1949年)において、在日朝鮮人の半数は不法入国者で、大多数の朝鮮人は日本経済の復興に全く貢献せず、多くは法の常習的違反者で、共産主義者など政治犯罪を犯す傾向が強く、常時7000名以上が獄中にいるという状態であることを伝えている。
元秀一は、外国人登録証を所持して日本に合法的に居住できる朝鮮人と密航船に乗って不法入国した朝鮮人で在日朝鮮人が形成されており、後者は主に済州島出身であり、これは済州島出自の在日朝鮮人が大阪市生野区を中心に9万人にのぼることと無関係ではなく、また、大阪市生野区を中心に偏在する在日朝鮮人の縁故を頼っての密入国も多く、大規模な密航は、日本統治時代、戦後の済州島四・三事件、ベトナム戦争時の徴兵逃れの三度にわたり、ほか離散家族の再会・同居、思想的に拘束を受けない日本の大学への留学、病気治療なども移住の理由にあるとしている[128]。1984年には朝日新聞が「法務省の推定では、数万人の密航者が、息をひそめるように生活しているといわれる」と報じた[129]。
佐藤勝巳は外国人登録証を所持している在日コリアンといえども不正な手段で入手した密入国者が存在し、ある時期、対馬に登録証の製造工場があったといわれ、敗戦直後日本から帰国した在日コリアンが再度日本に手続きなしで入国する場合は、それらの人に登録証が売買され、そのため、ゆうれい登録証が大量に存在することを指摘している[130]。
また、朝鮮総連系雑誌において弁護士洪正秀は、「本名、本籍や本当の生年月日が外国人登録と異なることが在日同胞の場合、多々あります」「実は私も朝鮮学校に通っていた時代には「尹(ユン)」という氏を使用していました。戦後、父が密航で日本にやってきて、他人の外国人登録を買ったためでした。そのため、親族と会うときは「洪(ホン)」の氏を使用し、学校では「尹」の氏を使用しました」と記している[131]。
吉田首相の占領軍への朝鮮人送還嘆願書
年次 | 事件数 | 朝鮮人関係者数 |
1945(8月15日以降) | 5,334 | 8,355 |
1946 | 15,579 | 22,969 |
1947 | 32,178 | 37,778 |
1948(5月末時点) | 17,968 | 22,133 |
合計 | 71,059 | 91,235 |
1949年に吉田茂首相は連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥に送還費用は日本政府が負担するとした上で「在日朝鮮人の全員送還を望む」と題する朝鮮人送還を求める嘆願書を提出している[132]。嘆願書では台湾人はあまり問題を起こしていないとして朝鮮人のみの送還を要望し、また朝鮮人の半数が不法入国者であることを明らかにした上で、以下の問題点を指摘した[132]。
- 日本の食糧事情がひっ迫しており朝鮮人の分まで輸入するのは将来の世代への負債となり公正ではないこと。
- 朝鮮人の大多数は日本経済の再建に貢献していないこと。
- 朝鮮人は犯罪を犯す割合が高く、日本国の経済法規を破る常習犯であること。かなりの数が共産主義者とその同調者であること。投獄者が常に7,000人を越えること。
朝鮮戦争
テンプレート:See also 朝鮮戦争勃発後、在日朝鮮人は韓国側と北朝鮮側に分かれて反目し、下関事件、万来町事件、浅草米兵暴行事件、吹田事件など数々の大規模な騒乱事件や、枚方事件や親子爆弾事件などの工場襲撃事件を引き起こした。また、30万人の朝鮮人が日本共産党とともに武装蜂起し、「火炎瓶闘争」と呼ばれる暴力革命闘争を行い多数の警察官が死傷した[133]。警察による朝鮮人部落への強制捜査には硫酸瓶や火炎瓶で対抗した[133]。このため、1955年に結成された朝鮮総連は、1952年に制定された破壊活動防止法による調査指定団体となっている[134]。
第二次世界大戦終結後、在日朝鮮人は日本共産党とともにデモ活動などを積極的に行っていたため、1950年6月25日に朝鮮戦争が始まると共産主義者の処刑(保導連盟事件)を実行している韓国への帰国を躊躇するようになった。また、共産主義者ではなくとも韓国に帰国すれば韓国民として従軍しなければならなかった。6月29日、在日本大韓民国居留民団は義勇兵を募り6万名の志願者から選抜した2万名を韓国に送りだすことを発表した[135][136][137]。韓国人647名、日本人150名の志願者が集まったものの[138]、当初は韓国政府が受け入れを拒否するなどの事態があったが[139]、後に占領軍が必要としたため、韓国人志願者644名を派遣した(その後、義勇兵の一部には韓国政府による工作訓練が施され工作船で日本に潜入し、新潟日赤センター爆破未遂事件を引き起こした[140])[141][142]。
日本の全権回復
テンプレート:Main 1952年4月28日、連合軍の占領下にあった日本はサンフランシスコ講和条約の発効により主権を回復する。カイロ宣言に「奴隷状態にある朝鮮人に留意し朝鮮を独立させる」とあるように、朝鮮人は日本から独立した朝鮮半島国家に帰属する民族であることとなり、結果的にこの時点で彼らは日本国籍を喪失した。ここで国籍を喪失した者の範囲は、日本国との平和条約発効時(1952年4月28日午後10時30分)において、朝鮮戸籍令の適用を受けていた者である。したがって、現国籍法施行(1950年7月1日)より前に、朝鮮に地域籍をもつ者と婚姻した内地籍を有した妻や朝鮮籍を有した父に認知されるまで内地籍を有していた子も日本国籍をその時点で喪失したことになる。以降、韓国政府は日本国と韓国の間で政府間協定が結ばれていないとして在日朝鮮人の引き取りを拒否することになる[143]。
帰国運動
戦後、在日韓国・朝鮮人の帰国運動が盛り上がったのは、1958年の日本・北朝鮮赤十字会談の開催からである。「千里馬運動」を掲げて、多数の労働者を必要とした北朝鮮政府と、当時、生活保護受給者の半数を占めていた在日問題の解決を目指す日本政府、さらには在日韓国・朝鮮人にとって、それぞれの思惑が一致した結果とされる。また、共産主義者を弾圧している韓国に帰還することが困難な者にとっても北朝鮮は希望の地であった。このとき、帰国運動に参加した在日韓国・朝鮮人のほとんどは朝鮮半島南部、すなわち韓国政府が支配する地域の出身者であった。このこともまた、韓国政府による「棄民政策」として、後に様々な方面から批判されている。
日本における在日韓国・朝鮮人団体である在日本朝鮮人総連合会は、北朝鮮政府の指示のもとで在日韓国・朝鮮人の『地上の楽園』北朝鮮への帰国を、強力に勧誘・説得する活動を展開した。当時の韓国は朝鮮戦争による荒廃のため世界最貧国であったが[144]、北朝鮮は国際協調によって共産諸国の支援を受けて発展を遂げ、在日朝鮮人へも支援金を送るほどであった[145]。日本の新聞各社、また民間の研究機関「現代コリア研究所」(旧・日本朝鮮研究所、代表・佐藤勝巳)も、これに同調した。在日韓国人の犯罪発生率が日本人の十数倍に上ること[42]、犯罪者や密入国した韓国人の送還を韓国政府が受け入れないこと[42]、摘発された密入国者を日本国内へ解放するよう韓国政府から要求されるなどの治安上の問題[42]や、在日韓国・朝鮮人をとりまく生活保護費の予算捻出に苦慮していた日本政府は、このキャンペーンに応じた。当時の内閣総理大臣・岸信介は国会答弁で帰国運動の「人道性」を主張し、北朝鮮への帰国事業を受け入れた。韓国はこれを「北送」と呼んで非難し、韓国居留民団は「北送事業」への反対運動を展開した。韓国政府は日本に工作員を送り込み、テロ活動によって帰還事業の阻止を図った(新潟日赤センター爆破未遂事件)。また、「在日韓国・朝鮮人は強制連行された人々である」と主張するようになった[14]。
大多数にとって出身地(故郷)ではない北朝鮮へ「帰国」した在日韓国・朝鮮人の生活は過酷なものであった。帰国者は北朝鮮においても出身成分による差別にさらされ、一部は強制労働に追いやられた。行方不明者が多く、処刑されたと言われている者も多い。在日韓国・朝鮮人の子弟であるほど、突然にスパイ容疑で強制収容所に送られるケースが多かったとの証言もある[146]。一方、金日成国家主席の後継者となる金正日の妻となった高英姫のように栄達した例もあった。北朝鮮における待遇の実態が次第に在日韓国・朝鮮人社会へ伝わるにしたがって帰国者は激減し、1983年に帰国者が0人となったことで「帰国運動」は事実上終結した。
現在では、帰国運動の際に在日韓国・朝鮮人と結婚して帰国運動の際に北朝鮮へ渡った「日本人妻」(一部「日本人夫」)の日本帰国も、日朝間で解決が必要な課題のひとつとなっている。ただし詳細は不明ながら、一時日本へ帰国したものの、再び北朝鮮へ渡る例もある。
テッサ・モリス=スズキはジュネーブの赤十字社資料から北朝鮮帰国運動の背景を明らかにしており、日本による追放政策としての側面を強調している[147]。
帰国者は北朝鮮における身分制度である出身成分の最下層に分類されている[148]。
冷戦と日韓基本条約
60年安保闘争を経て、1964年の新幹線開業、東京オリンピックも成功させるなど高度経済成長は軌道に乗り、日本社会は落ち着きを取り戻していた。アメリカは1961年からベトナム戦争への介入を開始、冷戦は1962年のキューバ危機で最高潮に達し、その後米ソは対話路線に移行する。一方、東アジアでは中ソ対立が鮮明になり東京オリンピック開催中の1964年10月16日に核実験を成功させた中華人民共和国は文化大革命に突入、北朝鮮は中ソ間を行き来するも援助額は減少し先細りになっていく。1961年、韓国では5・16軍事クーデターにより朴正煕が権力を掌握し民団も支持を表明[149]、しかし第一次経済開発五カ年計画を推進するも1964年には行き詰っており、その打破を目指して1965年2月からベトナム戦争に参戦、同年10月には主力部隊5万人をベトナムに派遣する。
1965年6月、日本が韓国を朝鮮半島唯一の国家として承認する「日韓基本条約」および在日韓国人の法的地位について定めた「日韓法的地位協定」などの付随協約が結ばれ、韓国籍申請者にはそれまで暫定的に与えられていた在留資格よりも優遇された「協定永住」資格が与えられ、永住が法的に保証された[150]。条約批准書交換に際し朴正煕韓国大統領は談話を発表し[151]、この中で在日同胞の苦労の原因を韓国政府の責任とし、それまで在日同胞の一部が共産主義に駆り立てられ加担するようになったことも大部分韓国政府が十分保護できなかった責任であるとした。さらに、朝鮮総連系に加担した者たちの過去の行為を不問に付すとともに、韓国政府による在日同胞の安全と自由についてより積極的に努力し可能な最大限の保護を行うことを約束、また、これまで分別なく故国を捨て日本に密入国を試み抑留され祖国のあるべき国民になれなかった者に対しても、新しい韓国民として前非を問わない姿勢を示し、再びこうした分別のない同胞がいなくなることを希望した。韓国は民団を通じ朝鮮籍から有利な「協定永住」資格が得られる韓国籍への書き換えを強力に推進、1966年には民団側も日本全国への韓国領事館の設立支援を決議し、1971年1月の申請締め切りまでに350,922人が韓国籍を取得するなど民団は大きく勢力を伸ばした[149]。この国籍欄書き換えをめぐって、推進する民団とこれを阻止しようとする朝鮮総連の幹部が、大阪市生野区役所などで激突する事態も発生した[152]。一方北朝鮮は、日本との国交樹立は「二つの朝鮮」「分断の固定化」につながるとして日朝国交樹立に強く反対したため、北朝鮮を支持する在日朝鮮人の法的地位は変わらなかった[150]。
朝鮮半島では1968年1月の青瓦台襲撃未遂事件、プエブロ号事件、翌年にかけての韓国東海岸への武装ゲリラ侵入事件など北朝鮮が南北統一とベトナム派兵の後方撹乱を目的として対南工作を活発化し南北関係が悪化[153][154]、その後デタントの一環として1970年7月に在韓米軍の削減が発表され、1971年4月には北朝鮮が統一会談を提案、1972年7月4日には南北共同声明が出されるなど一時融和も見られた。しかし韓国は維新体制に移行して国内統制を強め、その後の日本が舞台になった1973年の金大中事件や在日韓国人が行った1974年の文世光事件は南北関係の悪化をもたらすのみならず日韓関係にも大きな影響をもたらした。日本ではベ平連や70年安保闘争、「戦争を知らない子供たち」の流行など反戦運動の盛り上がりや金大中事件などを通じて反米、反韓機運が高まっていった。日本も経済的にはベトナム戦争の恩恵を受けており[155]、また国際勝共連合など反共主義運動も自民党を巻き込んで展開されていたが、「進歩的文化人」や教育現場を中心に共産主義に共感する風潮が高まり革新自治体が続出、公害病や同和問題などの社会問題の解決を求める声も大きくなっていく。1967年の在日朝鮮人の脱税容疑に関連する強制捜査に端を発し、在日民族団体を通じた所得税や事業税、住民税などの減免が行われ始めたとされる(詳細は「在日特権」を参照)。朝銀信用組合(朝銀)や商銀信用組合(商銀)といった民族系信用組合が日本全国に次々設立され、在日朝鮮人による商工会、朝銀、朝鮮総連を通じた「祖国への貢献」も始まった[156]。1968年からの北朝鮮への帰還事業の一時中断、1968年の金嬉老事件、1970年の日立就職差別事件などを経て、1975年には坂中英徳が「坂中論文」で帰国ではなく日本定住を前提にした法的地位や国籍問題の解決を提唱するなど、日本社会も在日社会も「併合時代の遺物としての在日」から日本の定住者への脱却の道を模索し始める[157]。
難民条約批准と社会保障
テンプレート:See also 1981年、日本の難民条約批准を受けて1982年「出入国管理令」が「出入国管理及び難民認定法」と改められ、韓国籍以外の朝鮮籍・台湾籍平和条約国籍離脱者には「特例永住」制度により特例として永住許可が与えられた[158]。また、それまでは例えば国民健康保険には「外国人である」在日韓国・朝鮮人は当該自治体が条例を制定しなければ加入できず、医療費は全額自己負担であったが[159]、難民条約に定められた難民に対する各種の保護措置を確保するため、国民年金法、児童扶養手当法などの社会保障関係法令から国籍要件を撤廃するなどの法整備が行われ、初等教育、国民年金、児童扶養手当、健康保険などについて日本国民と同一待遇を受けられるようになった[160]。さらに、国民年金を受給するには60歳までに最低25年間の加入期間が必要であったが、1986年の制度改正により平和条約国籍離脱者は20歳以上60歳未満のうち1961年4月から1981年12月まで在日していた期間も遡って老齢基礎年金の加入期間(通称「カラ期間」)として追加されることになった[161][162][163]。ただし、この措置によっても1986年に60歳を超えていた人(1926年(大正15年)以前に出生した者)は加入資格を満たすことができず、また告知も不十分であったとして、一部の在日韓国・朝鮮人により訴訟がおこされたが、2014年現在、在日側の敗訴が続いている(「在日無年金訴訟」)[163][164][165]。
日韓外相覚書、入管特例法と定住化
テンプレート:See also 日韓法的地位協定第二条で協定永住者の日本での居住については、大韓民国政府の要請があれば効力発生の日から25年を経過するまでは協議を行なうことになっていたことを受けて[166]1988年からいわゆる「在日三世問題」[167][168]について協議が続けられ、1991年1月10日海部俊樹総理大臣訪韓時に「日韓法的地位協定に基づく協議の結果に関する覚書」(日韓外相覚書)が交わされた。この中で、在日韓国人が日本でより安定した生活を営むことができるようにすることが重要であるという認識に立ち、永住手続きの簡素化と指紋押捺の廃止、退去強制事由の限定(内乱・外患罪、国交・外交上の利益に係る罪及びこれに準ずる重大犯罪に限定し麻薬取締法違反は除外)、再入国許可の出国期間を最大限5年に延長、外国人登録証の携帯制度の運用の弾力化、民族教育への配慮、公立学校教員としての採用と地方公務員への採用機会の拡大などが日本政府の対処方針として表明され、さらに、大韓民国政府より地方自治体選挙権についても要望が表明された。
これを踏まえ、1991年11月1日に「日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法」(入管特例法)が施行され、「協定永住」と「特例永住」は「特別永住」として永住資格が一本化された。また、これと同時に中国残留孤児やフィリピンの日系人家族などを想定した「定住者」という法的地位も新設された[169]。一方、この入管特例法施行後も外国人登録証の国籍欄には韓国籍、朝鮮籍双方が用いられているが、日本国としてはどちらであっても、すべて韓国籍と判断し韓国人として扱うということとなっている[20]。
同年3月22日には文部省が都道府県教育委員会などに、在日韓国人などの教員採用試験の受験を認めるとともに、選考合格者には任用の期限を附さない「常勤講師」として採用するよう通知した[170]。1993年には外国人登録法が改正され特別永住者の指紋押捺制度が廃止された。
これらの措置を勝ち取った1994年以降、在日本大韓民国居留民団は、団体名から仮住まいの意味としての「居留」という文字を外して在日本大韓民国民団に改め、日本国での居留ではなく定住を標榜する団体であることを明らかにするとともに、外国人地方参政権の獲得、国籍条項撤廃、在日無年金問題などの運動を強化するようになった[142]。一方、朝鮮総連は外国人参政権獲得運動は韓国政府の棄民政策や、日本政府による同化・帰化政策に追随するものだとしてこれら民団の動きに反対した[171][172][173]。
韓国の留学・旅行自由化と新・旧在日韓国人
韓国では留学自由化が1980年の初めに実施され[174]、それ以降に来日した韓国人はニューカマーと呼ばれるようになる[28]。1987年には45歳以上の海外旅行を自由化、1988年のソウルオリンピックを経て1989年には完全自由化された[175]。「漢江の奇跡」と呼ばれる韓国経済の発展に伴い人々の往来も活発化、さらに2005年、愛知万博を期に日本政府は観光や商用目的など90日以内の短期滞在について査証を時限付きで免除、その後恒久化した[176]。2008年の統計では韓国からの新規入国者数は2,248,645人でその内のほとんどが短期滞在(2,218,602人)である[177]。これに伴い短期滞在者の不法滞在も問題化してきている(#在日韓国・朝鮮人の強制退去、不法滞在参照)。不法滞在者はフィリピン同様女性が多く、2004年に韓国で性売買特別法が施行されたこともあり国外で性売買を行う「遠征売春」が急増、日本国内の韓国人不法滞留者6万-8万人のうち性売買や風俗店で働く韓国人女性は5万人余りに達すると見られている[178]。
また、ニューカマー在日韓国人が増え続けているのに対し、オールドカマーである特別永住者は死去と帰化で減少傾向にあるが、元々オールドカマーにはニューカマーを民団などの在日組織から排斥する傾向も見られ、そのためニューカマーが「在日本韓国人連合会」を組織するなど新・旧在日韓国人間で確執も散見される。特に民団は韓国政府の補助金を受けているのにニューカマー受け入れに消極的だとの批判が強く[28]、また、民団の政府補助金をめぐる虚偽報告問題に際しても、民団の問題点として組織運営の閉鎖性、本国への依存深化、過度な政治志向、葛藤の調整力の乏しさ、文化的貧困などが指摘された[179]。そのような新旧間の確執の一つは2007年の東京韓国学校のカリキュラムをめぐる内紛となって表面化した[180]。また、韓国の在外選挙権獲得運動において、欧米の在外韓国人の一部は、日本での外国人参政権獲得運動に比べ本国参政権獲得議論に消極的な在日社会を指して「在日韓国人はどうしてアクションを起こさないのか。民団の消極的姿勢は、参政権付与反対と言っているに等しい」と非難する声も見られた[181]。2010年6月2日の第5回韓国全国同時地方選挙に際しては、祖国での初めての投票を行った在日韓国人に対し「母国に住む在日韓国人」という表現も使われるなど[25]、日本語を母語とし文化的にも日本人的であるオールドカマー集団は韓国本国から見ても、日本以外の在外同胞社会から見ても特異な集団であるとみなされることがある。また、オールドカマーの側でも、自身を日本人でも韓国(朝鮮)人でもない「在日人」と規定する動きが見られる[182][183][184]。
北朝鮮の拉致問題と核開発
1987年11月29日、大韓航空機爆破事件が引き起こされる。当初、拘束された被疑者は日本旅券を保有していたが、その後の調査でこれは偽造旅券であり、日本から拉致された日本人により教育されたとされる北朝鮮工作員であることが判明した。ソウルオリンピック開催の妨害を目的としていたとされるが、北朝鮮によるテロであることが明らかになるにつれ東側諸国はソウルオリンピックへの参加を決めるなど、北朝鮮の思惑とは裏腹の結果となった。その後も北朝鮮の反対を押し切って1990年にソ連が、1992年には中国が韓国と国交を樹立、北朝鮮は孤立を深め核兵器開発へと傾倒していく[185][186][187]。また、1990年代に入り日本のバブル景気が崩壊、「学習組」の指揮下北朝鮮への不法送金を行っていた朝銀信用組合も、不動産投資にのめりこんでいた商銀信用組合や多くの日本の金融機関とともに1990年代後半から次々と破綻、朝銀救済のために投入された公的資金は最終的に約1兆4千億円に上り批判が集まった[188][189][190]。その後の破たん処理の過程で担保とされていた朝鮮総連本部ビルや朝鮮学校などが差し押さえられている[191]。
1994年の金日成の死去に伴う金正日体制移行への世襲批判、北朝鮮が「苦難の行軍」と呼ぶ1990年代半ばの飢饉[192]を経て弱体化していたところに在日社会という重要な資金源の一つを失った北朝鮮は「太陽政策」を掲げていた韓国や民団、日本との関係改善にも意欲を見せた。しかし2002年平壌で行われた日朝首脳会談で北朝鮮による日本人拉致問題を認めたことで日本の対北感情は極度に悪化、それまで拉致問題は捏造であるとしてきた朝鮮総連や北朝鮮支持者などに厳しい目が向けられ、日本国籍を取得したり朝鮮籍から韓国籍に書き換えるものが続出し、1990年代末には10万人を超えていた朝鮮籍保持者は、2010年時点では3-4万人になっているとみられている[9]。また、朝鮮半島非核化を目指した米朝枠組み合意や朝鮮半島エネルギー開発機構 (KEDO) の失敗、度重なる北朝鮮によるミサイル発射実験の影響により、2006年、国際連合安全保障理事会では決議1695が採択され、2006年の民団と朝鮮総連の「5.17共同声明」も民団側が白紙撤回[193]、さらに同年の北朝鮮の核実験を受け国際連合安全保障理事会決議1718が採択された。2009年には北朝鮮の再度の核実験を受け国際連合安全保障理事会決議1874に基づく制裁が決定され、日本でも万景峰号の入港禁止や北朝鮮への輸出・送金禁止、送金制限に違反した在日外国人の再入国禁止措置などが採られた[194]。2010年5月28日には日本で「国際連合安全保障理事会決議第千八百七十四号等を踏まえ我が国が実施する貨物検査等に関する特別措置法」(臨検特措法)が可決[195]、2012年12月の弾道ミサイル発射を受け2013年1月には追加制裁を含む国際連合安全保障理事会決議2087が採択され[196]、これを受け日本政府も制裁を強化するなど[197]、北朝鮮との交流はさらに細ってきている。
一方、六者会合の機能停止、2010年の延坪島砲撃事件、2011年の金正日死去と金正恩の世襲などもあり、日朝の交流がほぼ停止状態であるにもかかわらず、朝鮮総連を中心とした祖国訪問事業は続けられている。朝鮮学校の児童・生徒たちも毎年旧正月に行われる「学生少年たちの迎春公演」などを中心に北朝鮮を訪問、祖国とのつながりを深める中で朝鮮人としての誇りを感じ、民族心を育む機会とするだけでなく[198][199][200]、北朝鮮指導部に対する忠誠を示す機会ともなっている[201][202]。他方、国連決議違反である核実験や弾道ミサイル発射実験などを繰り返す北朝鮮指導部に対する礼賛教育や、日本と国交を持つ韓国やアメリカを敵視し民族の分断につながる教育を韓国籍を持つ在日韓国・朝鮮人にも行う朝鮮学校に対し援助を行うことは、国際的な立場からも、拉致問題の解決を訴える日本人の立場からも好ましくないとして[203]、2012年、文部科学省は高校授業料無償化を朝鮮学校には適用しないという方針を示した[204](なお、各種学校である外国人学校でもコリア国際学園や韓国系の東京韓国学校は就学支援金支給の対象となっている[205])。また、補助金不正受給問題もあり[206]、朝鮮学校に対する援助を見送る地方自治体が続出した[207]。韓国籍を持つ在日韓国・朝鮮人に対する朝鮮学校での北朝鮮礼賛教育は、文世光事件再発が懸念されるだけでなく、韓国籍を持ちながら2010 FIFAワールドカップに北朝鮮代表として出場し、後に韓国のKリーグクラシックでプレーすることとなった鄭大世が、海外のテレビ番組で金正日総書記を「尊敬している」と発言したことを受けて、韓国の検察に国家保安法違反容疑で捜査される事態にもつながった[208]。
現在
今日、在日韓国・朝鮮人は、日本に民族的アイデンティティーを重視した独自のコミュニティーを形成する者、新たに形成することを志す者、帰化する者、日本人配偶者を得て同化する者、それらの中間的立場や混合的立場をとる者、と多様な生き方を見出している。
在日韓国・朝鮮人の諸組織・知識人・朝鮮学校からは、民族教育の必要性が主張されてきた。日本側の受け入れ態勢も進み、実際に本名を名乗り自らのアイデンティティーを明確にすることで、在日韓国・朝鮮人が社会の中で認められるようになっている。これに呼応して、行政側の対応にも変化が起こりつつある。朝鮮学校の卒業生は、各種学校卒のため、日本の学制から除外されているが、近年では国公立大学でも2004年前後から朝鮮学校の卒業を大学入学資格として認定する、動きが生じている。
近年では在日韓国・朝鮮人であることを最初から・あるいは途中から明らかにして、本名で活動する著名人もいる。芸能人・スポーツ選手など日本人に触れやすい分野でも、在日韓国・朝鮮人の本名を見かけるケースが増えている。また、東京大学教授に就任した姜尚中や日本映画監督協会理事長に就任した崔洋一のように学問・文化両面においても日本社会で高い知名度を得るにいたっている。日本側では韓国・朝鮮社会には比較的無関心・不可触であったが、2002年FIFAワールドカップ日韓共催、2005年の日韓友情年に続く韓流ブームによって両国間の友好を図ろうとする動きがメディアや在日社会を中心に大きく展開される一方、「知れば知るほど度合いが増す」と言われる嫌韓感情[209][210]が発生している。
社会的地位
社会的地位の指標として最も重要と考えられている教育年数、職業威信スコアの平均値はいずれも在日韓国・朝鮮人は日本人と同等(差が統計学的に誤差の範囲内におさまっている)である[211]。教育年数、職業威信スコアと並んで社会的地位の指標として重要と考えられている収入には統計学的に有意な差異があり、関西学院大学金明秀教授と埼玉大学福岡安則教授による調査(1997年)、SSM調査研究会による社会階層と社会移動全国調査(1995年)では在日韓国・朝鮮人の方が収入は高くなっている[212]。
帰化と日本国籍取得
長年、在日韓国・朝鮮人を日本社会の構成員として取り扱おうという主張があった。この場合「日本社会の構成員」という語は、立場によって様々に意味を変える。「社会の構成員」と言うかぎりならば、これには単なる実態の反映でしかないという見方もある。しかしこれが、地方参政権の付与に至ると、議論が分かれる(外国人参政権を参照)。
2007年時点で民族名による帰化は保障されておらず、届出による日本国籍取得と民族名使用の保障などを盛り込んだ国籍取得特例法を求める運動が続いていた[213]。自民党法務部会の「国籍問題に関するプロジェクトチーム」は2008年1月24日の会合で、在日韓国・朝鮮人などの特別永住者が日本国籍を簡単に得られるようにする特別永住者等の国籍取得の特例に関する法律案(特別永住者国籍取得特例法案)を議員立法で2008年の第169回通常国会に提出する方針を決めた[214]。
在日韓国・朝鮮人から日本に帰化する者の数は、95年に一万人を超えたのを皮切りに年間で毎年9000 - 11000人に上っている。帰化を許可された者は国籍法第10条に基づき、『官報』に帰化前の名前・住所・生年月日が公示される。
また1990年代までに比べれば、「日本籍コリアン」にも朝鮮系であることを周囲に言明する者が増えるなどし、帰化した後の生活スタイルも多様化しつつある。
日本人との婚姻
2006年、韓国・朝鮮籍所有者と日本国籍者の婚姻件数は8376件で、1961年の1971に比べおよそ4倍、日本国内全体の婚姻件数73万971件のうち、約1%を占めている[215]。在日韓国・朝鮮人女性と日本人男性間の婚姻件数は1990年の8490件を最高に2006年には6041件、一方、韓国・朝鮮人男性と日本人女性間の婚姻件数は2006年末現在で2335件で1984年に2000件を超えて以来、ほぼ横ばいとなっている。
在日民族団体
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在日本大韓民国民団本部ビル(東京都港区南麻布・左)と在日本朝鮮人総聯合会本部(東京都千代田区富士見・右) |
オールドカマー在日韓国人とその子孫中心の全国的民族団体として、韓国を支持する在日本大韓民国民団(韓国民団ないし民団)と北朝鮮を支持する在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連ないし総連)がある。2011年末現在、民団には帰化者も含めた全在日同胞(僑胞)の38%である356,405人が登録されている[216]。この他にも新宿区のコリアンタウンを中心とする東京都内在住のニューカマーが中心となった在日本韓国人連合会(韓人会)[27]、2001年に日本の保守派の国会議員らによって新しい日本国籍取得法案が検討され始めたことを契機に結成された在日コリアン弁護士協会[217]、民団傘下の在日韓国人法曹フォーラム[218]などがある。
帰化者も含めた全在外同胞の12%である在日韓国人への2012年の韓国政府の支援額は78億ウォンで在外同胞交流支援予算の67%を占め、また他国ではプロジェクトごとに予算が付けられているのに対し、予算執行の管理・監督に手抜きが指摘される民団には毎年継続的に一定額が支援されている[216]。韓人会などの他の韓国系在日団体への支援も民団を通じて行われており、民団支援予算の1%程度がこれら非民団団体の支援に使われている[216]。
在日民族産業
在日韓国・朝鮮人自営業者が多いパチンコや不動産、焼肉、韓国料理店などの飲食などは民族産業や在日産業と呼ばれることがある[220]。これら自営業者に対して昭和四十年代に民族団体を通じた減税の動きが全国的にあったとされる[221][222]。
パチンコ業界は2007年7月からパチスロが射幸性の高い「4号機」から低く抑えられた「5号機」に移行し、ファン離れが起きたことに加え、貸金業の法律改正により消費者金融を利用してパチンコをしていた客の足が遠のいた[220]。大型チェーン店は「1円パチンコ」を導入して新規の顧客を開拓している。
焼肉業界は在日が生み、育てたとも言われ[223]、全国焼肉協会会長は朴(新井)泰道叙々苑社長が[224]、キムチ・焼肉・韓国料理店・居酒屋を支援する韓食ネット協議会(旧キムチネット協議会)会長は朴健市焼肉文化社代表が務める[225]。焼肉業界は2003年の米国産牛肉の輸入停止問題では大きな影響を受けた[226][227]。民団の機関紙民団新聞によると、2001年時点で焼肉店は2万店舗、年間販売は7000億円、焼肉業界の6割を在日系が占めていたが[228]、景気悪化により2010年には4割にまで減った[229]。
レジャーホテル業界は2010年7月9日に公布され、2011年1月から施行される改正風営法[230]に関連して開発・経営・運営に関する勉強会を開き対応を急いだ[231]。
1970年代後半、韓国から日本に技術者が進出するようになった貴金属業界もニューカマー在日韓国人が多く、御徒町駅周辺の「ジュエリータウンおかちまち」の形成にも係わっており、日本国内で制作される貴金属製品の約7割、特に高級宝飾品の大部分が韓国人技能士(貴金属装身具製作技能士)の手によるものとされる[232]。東京都内には在日韓国人らでつくる在日韓国人貴金属協会、山梨にも韓人山梨貴金属協会がある[233][234]。
民族系金融機関
韓国・在日韓国人信用組合協会(韓信協)・民団系の商銀信用組合(商銀)系と北朝鮮・在日本朝鮮信用組合協会(朝信協、現在は解散)・朝鮮総連系の朝銀信用組合(朝銀)系の金融機関があるが、バブル崩壊以降破綻が相次いでいる。以前に比べて在日韓国朝鮮人も日本の金融機関からの融資が受けやすくなったため、民族系金融機関の存在理由が薄れてきていることに加え、破たん処理の過程で日本人理事長を受け入れるなど、民族色も薄まってきている。
破綻した朝銀の債権を受け継いだ整理回収機構は朝鮮総連中央本部や大阪など主要都市の朝鮮総連地方本部と学校などを差し押えるなど[235]、債権回収手続きを進めている[236][237]。また、朝銀の破綻に関連して2004年3月までに朝鮮総連中央の元財政局長を含む25人以上の朝銀役職員が逮捕され、150人以上が取調べを受けている[238]。2010年、韓信協も韓国政府に100億円の出資を要請するなど[239]、合併や管理体制、資本の増強が急務となっている[240]。商銀系信用組合の一つで、2009年4月24日と2010年8月26日、暴力団に関係する企業に融資をしていたなどとして金融庁関東財務局から業務改善命令を受けた中央商銀信用組合では[241][242][243]、取引先で一番多いのは遊技業、貸金業、ホテル業、飲食業の業種で、総代の8〜9割がこれらの業種となっている[244]。 また2010年6月25日、商銀系の近畿産業信用組合は内部規定を改定し、民主党に政治献金100万円等を支出したと明らかにした[245]。信組を規制する中小企業等協同組合法は「政治的中立の原則」を定めていが、中小企業庁は「一般論として政治献金は好ましいことではない」が、事業運営に支障をきたさず組合員の総意を反映しているなら抵触しないと回答した。
商銀破綻を期に韓国政府が出資する在日韓国人系普通銀行のドラゴン銀行を設立しようという動きも見られたが、2002年、優先交渉権を得ることができず失敗した[246]。変わりに優先交渉権を受けた近畿産業信用組合(青木定雄会長、元エムケイ (タクシー会社)会長)は2007年から普通銀行への転換を目指していることを明らかにしている[247]。
1982年に韓信協の当時会員であった信用組合が母体となり在日韓国人が本国韓国に設立した韓国初の純民間資本銀行である新韓銀行は[248][249]、新韓銀行東京・大阪・福岡支店を譲り受けて2009年、日本法人SBJ銀行の営業を開始した[250]。貸出金の大半は娯楽業や不動産賃貸業を中心とした中小企業向けであり、預金、貸出ともに商銀系信用組合が圧倒的シェアを持つ在日韓国人・企業マーケットで競合している[248]。保有有価証券は調達・運用ともドル建てで行われており、為替リスクは回避されている。
在日韓国・朝鮮商工人に関する調査
1982年に行われた東京在住の在日韓国青年商工人を対象に経営している業種、従業員の数、企業規模、企業承継の問題、企業の継続性、韓国への投資に関する意見および今後の計画などに対する質問調査では、在京企業家は30代以上が多く、飲食、パチンコ、金融・不動産等主にサービス業に従事するというケースが多かった。また、他業種と兼業する場合は少なく、年間売上額が1億円未満の零細自営業を運営する企業家が多かった。また自身で起業した例は65.5%、両親からの承継が27.6%であった[251]。また、1982年に在日韓国商工人1,103人を対象に行われた同様な調査でも全般的な調査結果は同じであったが、経営上の問題として、人材不足、利益減少、税金問題等が指摘された[252]。
1,059社の企業家を対象として2004年11月から2005年2月まで行った調査では、郵送調査により62人(回収率5.9%)、面接調査は72人の企業家から回答があり合計128人の在日韓国朝鮮人企業家を対象に量的・質的分析が行われた[253][254]。この中で、在日韓国朝鮮人企業は小・中規模零細企業が多いと考えられるが、従業員が1,000人以上の企業も存在していること、企業家の最終学歴は、中学・高校(25.8%)、専門大学(6.2%)、大学・大学院(64.9%)、その他無学(3.1%)であり、教育水準は低いという既存の研究結果と異なり、高学歴化が進みつつあることがわかり[254]、業種別分布では、パチンコ産業(23.4%)、不動産・金融業(21.9%)、飲食・宿泊業(16.4%)が上位3業種となったが、3世の場合、知識産業職種が多く見られる。経営活動上の問題点としては、過当競争が最も大きな問題であるとされた。金融機関の利用状況は、民団と総連系の銀行が倒産したため、日本の銀行の利用率が9割以上に上った。また、韓国への投資については、14.8%だけが投資経験があると答え、投資の成果については63.1%が満足しており、韓国への将来的な投資の可能性に関しては21.1%だけが関心があるとした。一方、失敗の原因や関心の低い理由として、家族や親戚への頼りすぎ、詐欺、あるいは同業者からの裏切り、約束に対する概念や信頼関係をとても大事する日本人との差、情報不足を挙げた。また、世界韓商大会[255]のような世界韓商ネットワークの構築は、積極的に、あるいは状況を見て参加したい、が86.3%だが、日本だけに限定されたビジネスであるパチンコ業者の中には、必要性を感じないと指摘する者もいた。全体的に在日韓国朝鮮人企業家の意識が日本人化してきており、世界韓商ネットワークを祖国への投資機会としてではなく世界進出への足がかりにしたいとの期待が読み取れる。
朝鮮新報は2001年から商工連合会経済研究室編集による「同胞経済研究」を発行している(同サイトからは2002年冬・第7号までの発行が確認できる)[256]。
在日韓国・朝鮮人の文化
在日朝鮮人文学
テンプレート:Main 在日朝鮮人文学は日本へ渡った朝鮮人によって書かれた文学作品の総称であり、主に明治以降の文学に対して用いられる。
在日朝鮮語
テンプレート:Main 現時点で在日韓国・朝鮮人永住者によって話される言語は主に日本語であり、朝鮮語を話すものは少数派である。母語が日本語である日本で生まれ育った世代は、朝鮮語を学ぶにしても第二言語として学ぶことになり、彼らの使う朝鮮語は日本語の影響を受け、朝鮮半島のそれとは大きな差異を有する独特の在日朝鮮語が生まれた。
また3世や4世、5世からは日本語しか話せない人(韓国語や朝鮮語の読み書きはできない)が増え続けている。その多くは朝鮮や韓国系の学校ではなく日本の教育で育った人が多く 家庭内で韓国語を日常的に使われていない家庭も少なくない。
葬儀
1970年代までは遺体を飛行機で韓国に運び土葬するケースも多かったが、最近は、日本式に葬儀を行い日本で火葬し日本での埋葬がほとんどである[257][258][259]。一方、世代を重ねるにつれ自分の本貫を知らない若者が増え、故人の本貫を書いて柩にかける赤色の布(幟)、亡くなった方が着る寿衣、遺族の着用する伝統的衣裳や、出棺時の料理を乗せたサンという供養膳、故人の仮の住まいとして部屋の一角に設けられた殯所などに対する葬儀文化の継承が危ぶまれている。また、経済的理由、親や祖父母の時代に逆のぼってまでの付き合いをしたくないというしがらみへの忌避などから家族葬が増えている。このような在日社会の流れの中で民団神奈川県本部は1998年から冠婚葬祭事業「無窮花サービス」を立ち上げ、民族的要素を取り入れながら時代に沿った葬儀サポートを行っており[260][261]、「団費を取られるだけで、なにもしてくれないと思っていた」と言われる民団活動の見直しにつながっている[262]。朝鮮総連でも同様のサービス「同胞生活相談綜合センター」を本部、支部ごとに設けている[263]。また、日本国内には曹溪宗などの韓国仏教寺院も建立されている[264]。
ホルモン焼
テンプレート:Main ホルモン焼きを始めたのは朝鮮人という説がある[223][265]。
- 戦前に捨てるか肥料にするかしていた臓物肉を朝鮮人女工がもらってきて焼いて食べたのがホルモン焼きの始まりで、ホルモンを焼いて食べる習慣は朝鮮にはなく、ホルモン焼きは日本で始まった。戦後、ホルモン焼きの屋台が「ホルモン屋」や「朝鮮料理屋」という名称になって行く中、臓物だけでなく精肉を用いる店ができ、在日朝鮮人女性が経営する明月館がホルモン焼きの祖とする。
- 「焼肉」という呼称は、1965年の日韓基本条約以降、韓国籍を取得する者が増え、在日朝鮮人の主張した朝鮮料理屋と在日韓国人の主張した韓国料理屋との呼称論争を収拾する案としてプルコギを直訳した「焼肉」が用いられたとする。この他に、焼肉のたれもヤンニョム(薬念)の影響が見られる(1968年エバラ食品から発売された商品名は「焼肉のたれ・朝鮮風」[266])。
各地のコミュニティー・コリアンタウン
テンプレート:節stub 人口分布は、首都圏・中京圏・京阪神圏の三大都市圏に集中するが、特に多いのは大阪府と東京都である。また、日本各地にコリアンタウンが形成されている。一般的に関西に集中しているというイメージが先行しているものの、関西2府5県の在日韓国・朝鮮人人口と関東1都6県のそれとでは、その差はそれほど大きくない。
都道府県別在日(在留)韓国・朝鮮人人口
- 出典・・・[267]
著名な在日韓国・朝鮮人
在日韓国・朝鮮人を取り巻く諸論点
国政への関与
日本国では外国人による日本国政治家への献金は公職選挙法第二十二条の五によって禁じているが、菅直人元内閣総理大臣[268][269]や前原誠司元外務大臣などに対して在日韓国人から長年にわたって献金が行われていることが明るみとなり問題が顕在化している。
徴用・「強制連行」と渡航
テンプレート:See 在日韓国・朝鮮人が日本に移入してきたのは、「戦前または戦時下の日本政府による徴用/強制連行」によると語るものがいるが、同認識は漠然としたイメージによる流布が蔓延ったもので、現在における日韓関係の外交において歪曲された歴史認識の上での発言がなされるものとなり、在日朝鮮人に関する政策に大きな弊害を生じさせている。朝鮮人徴用者の日本移入は1944年9月から1945年3月までの期間実施された[14]。1946年3月までに在日朝鮮人のうち140万人の帰還希望者が日本政府の手配などにより朝鮮に帰還している[14]。日本政府は朝鮮人の帰還を訴えていたが[132]、占領下では占領軍が送還を徹底しなかったこと、主権回復後は韓国政府が朝鮮人の送還を拒んでいる[270]。
1959年に発表された日本政府による調査では、245人の徴用労務者を除く在日朝鮮人は犯罪者を除き自由意思で残留した者とその子孫であることを明らかにしている[14]。1990年代に入って朝鮮人被害者への戦後補償問題が日本国内で国民的論争課題になると、「徴用/強制連行」に関してもさまざまな角度から議論がなされた。このことは、在日韓国・朝鮮人団体である在日本大韓民国民団の子団体、在日本大韓民国青年会の中央本部が、在日1世世代に対する聞き取り調査の結果をまとめ1988年に刊行した『アボジ聞かせて あの日のことを -- 我々の歴史を取り戻す運動報告書 -- 』にも、渡日理由のアンケート結果として、「徴兵・徴用13.3%」と明記されており、「その他20.2%」、「不明0.2%」を除いたとしても「経済的理由39.6%」「結婚・親族との同居17.3%」「留学9.5%」と65%以上が自らの意思で渡航してきたことがわかる[16]。なお、このアンケートは渡航時12歳未満だったものは含まれておらず、これを含めるとさらに徴兵・徴用による渡航者の割合は減ることになる。なお、2005年の日韓基本条約関係文書公開に伴う韓国政府に対する補償申請者は、2006年3月の時点で在日韓国人からは39人に留まっている[17]。
通名
在日韓国・朝鮮人には、日本式の姓名、「通名(通称名)」を名乗って韓国・朝鮮式の本名を隠す人々が存在し、新聞・TV等のマスコミ報道においては、各社の方針によって通名での報道がなされる場合が多々存在する。このことは、犯罪者にあっては本名隠匿による過擁護と通名の変更による再犯の要因になり得る。
ただし、近年では、民族としてのアイデンティティーを取り戻す意味で、韓国・朝鮮式の姓名を名乗る者が徐々に増えてきている。これには在日韓国・朝鮮人たちによる啓蒙活動に加えて、韓国の近年における経済発展によって日本での韓国の評価が上昇してきたことや、日本と韓国の文化交流が拡大発展を続けていることも無縁ではないと思われる。2009年の事例では、弾道ミサイルの発射台に転用できるトレーラーを日本から北朝鮮に不正輸出した容疑者が逮捕された北朝鮮タンクローリー不正輸出事件の報道で確認することができる。在日本大韓民国民団の発表では、韓国・朝鮮式の本名で暮らす人は全体では1割強にとどまり、3人に1人は「状況により使い分ける」としていることを明らかにした[271]。
社会保障問題
在日韓国・朝鮮人に対する社会保障についても、多くの議論がある。
1950年に長田区役所襲撃事件、1951年には下里村役場集団恐喝事件、1952年には万来町事件などの生活保護費の受給もしくは増額を要求する行政機関への騒乱事件が引き起こされている。1952年には、ウトロ地区を始めとする各地での行政への脅迫による生活保護費の受給が国会で問題とされた[110]。
ある観点では、生活保護の受給対象者とすることへの異議、また認定の方法・基準への異議が出されている。例えば、在日韓国・朝鮮人の生活保護受給率が日本人より高いことから、これを不当であると考え、日本国による生活保護負担を強調する論調がある。日本国憲法第25条第1項では「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と規定され、1950年以降の生活保護法第一条では「この法律は、日本国憲法第二十五条に規定する理念に基き、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長することを目的とする」と「国民」との用語が加えられ[272]、生活保護法による権利保障は日本国民に限定されている。大分地方裁判所は「憲法の要請する社会権の保障は、国家による国民の保護の義務を本来の形態とするため、外国人を保護する義務はその国籍国にある」とする判決を出した[273][274]。また1965年6月の日韓基本条約批准書交換に際し、朴正煕韓国大統領も「在日同胞の苦労」の原因を「韓国政府の責任」と認め、韓国政府による在日同胞の安全と自由についてより積極的に努力し可能な最大限の保護を行うことを約束した[151]。
外国人への生活保護の実施については、1954年(昭和29年)5月8日付社初第382号厚生省社会局長通知により生活保護法を準用して保護を実施するとされ、さらに1990年(平成2年)年の口頭指示により、その準用の対象を日本に適法に滞在し活動に制限を受けない永住、定住等の在留資格を有する者としている[275]。この通知に基づく保護は地方公共団体の裁量により実施され、行政側から外国人に対する贈与の性質をもつものであるとされる[273][274]。外国人の生活保護受給者に、生活保護にかかる行政行為等の行政処分についての異議申立権(審査請求及び再審査請求権)を認めなかったとしても、当該外国人の法的利益が侵害されたとはいえないが、永住権を持つ場合においては先進国のほとんどの国が外国籍の者に生活保護などの社会保障を国籍保有者と区別をつけずに行う[276]。
2008年度には、日本政府は1か月平均で32,156世帯(年延べ385,870世帯)、51,441人(年延べ617,297人)の外国籍者に生活保護を支給している[277]。また、2008年時点で生活保護を受けている外国人30,955人の内、韓国・朝鮮籍が23,232人で1位、中国籍は2,842人で2位となっており、在日韓国・朝鮮人の3.9%、在日中国人の0.4%が受給している計算となり、在日韓国・朝鮮人の受給率は日本全体の生活保護受給率1.2%の約3.25倍となっている。一方、生活保護を受けていない在日韓国・朝鮮人は96.1%で、日本全体の「非受給率」は98.8%である。生活保護を受けていない人々の数は、日本全体の方が在日韓国・朝鮮人よりも約1.02倍多い[278]。このうち、例えば大阪市では2010年、外国人の受給者がはじめて1万人を突破し、そのほとんどが高齢化した在日韓国・朝鮮人の無年金世代であることが分かり問題となっている[279]。しかし生活保護受給者はそもそも帰化申請が下りにくく(比較的帰化条件が緩い特別永住者であっても収入の主たる部分が生活保護である場合は帰化は難しい)[280][281]。また、40年間年金保険料を納めた場合の老齢基礎年金は月額約6万6千円、25年間納付では約4万1千円であるのに対し、65歳の生活保護受給者では住宅扶助も含めて月額12万1530円となるなど、外国人の無年金者が日本人の国民年金加入者よりも多額の受給を受ける逆転現象も問題になっている[279]。
子ども手当
2010年、韓国人が養子縁組した子供554人分の子ども手当をタイ政府発行の証明書を提出して申請したが、厚生労働省は不許可とする指導を行っている[282]。
在日韓国・朝鮮人無年金問題
1981年の日本の難民条約批准を受けて1982年、国民年金法から国籍要件を撤廃するなどの法整備が行われ在日韓国・朝鮮人も日本の国民年金に加入することができるようになった。さらに1986年の制度改正により国民年金受給に必要であった60歳までの最低25年間の加入期間を、平和条約国籍離脱者は20歳以上60歳未満のうち1961年4月から1981年12月まで在日していた期間も遡って老齢基礎年金の加入期間(通称「カラ期間」)として追加されることになった[161][163]。
一方、1986年以降の「カラ期間」による救済措置後も加入率は低水準で推移し、年々無年金者が増えている。2004年(平成16年)に大阪府立大学などが行った70歳以上の在日韓国・朝鮮人300人を対象にした生活実態調査によると、1926年(大正15年)以前に出生し1986年に既に60歳を超えており加入資格を満たすことができなかった人は116人、救済対象だった139人も大半が加入しておらず、救済措置の告知不足や低い受給額への不満などに加え、将来帰国することを考え加入しなかったケースもあるとみられている[279]。日本にも本国にも年金保険料を支払っていないなど「確信犯的に年金に加入しなかったケースは、一義的には本人の責任だ」とする意見や、2国間で年金の加入期間を相互に通算できる社会保障協定を結んでこなかった政府を批判する意見もある。
日韓の間では2004年にようやく「社会保障に関する日本国と大韓民国との間の協定」(日韓社会保障協定)が締結されたが[283]、韓国の国民年金制度(1988年創設、1999年から皆保険[284])は施行から歴史が浅く平均加入期間が短いことから、当分の間日本の最低加入期間25年の受給要件を満たすことは困難であり、韓国は協定に年金加入期間の通算措置を設けない立場を強く主張、その結果、日英協定と同様に年金加入期間の相互通算措置を取り入れず、二重加入防止に限定した協定を締結している[285]。
他方、救済措置から外れた者や、また告知も不十分であったとして、一部の在日韓国・朝鮮人により訴訟がおこされたが、国民年金が当初日本人だけを対象としていたことについては、「立法府の裁量権の範囲内で、憲法や国際人権規約に反するとは言えない」とする1、2審判決が2009年に最高裁で確定するなど、2014年現在、在日韓国・朝鮮人側の敗訴が続いている[163][164][165]。
現在、日本政府は「年金など社会保障の責任は国籍の属する本国が行うべき」という立場から、年金を払い込んでいなかった在日韓国・朝鮮人に対して年金支給を行っていない。この日本政府の見解に対して「海外在住の日本人に日本政府は年金を支払っていない」と糾弾し、在日韓国・朝鮮人に対しても年金を支給するように要求している[286](日米のように社会保障協定がある場合、年金加入者はそれぞれの国の加入期間に応じてそれぞれの国から支給される[287]。日本の年金については現況届を提出すれば金融機関に振り込まれる)。「日本国籍を有する者で海外に居住する20歳以上65歳未満の者」は日本の国民年金に任意加入することができる。いくつかの地方自治体では法律上年金に加入できなかった在日外国人(低所得高齢者に限る)の申請者に対して福祉給付金を支給する制度を設けている。
また、生活保護を受給する者のなかで(65歳の生活保護受給者では住宅扶助も含めて月額12万1530円)国民年金加入者よりも多額の受給を得ている無年金者も存在する(詳細は#社会保障問題参照)。
所在不明高齢者
2010年から大きく取り上げられた高齢者所在不明問題では、2010年8月15日の時点で100歳以上の所在不明高齢者のうち外国人は35人であり[288][289]、全員が韓国・朝鮮籍とみられている[289]。これについては、再入国許可を得て日本から出国し故郷で死去したケースも多いのではないかとされる[289]。北朝鮮は、日本で年金生活を送る在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)系の高齢者に「月3万円あれば、北で豊かに暮らせる」などと宣伝して永住帰国を求め、帰国後は死亡しても日本側に伝えない手法で一人当たり12万円ずつの年金を「着服」していると、消息筋が伝えている。[290]。
在日韓国・朝鮮人の参政権
在日韓国人・朝鮮人には二つの参政権論争が存在する。韓国および北朝鮮における本国参政権と、日本における地方参政権である。韓国人は本国在外選挙権を、北朝鮮人は在外選挙権・被選挙権双方を有する。
韓国においては、兵役、納税義務などが免除される在外国民に住民登録要件不備を理由に参政権を与えないことの違憲性についての議論が行われてきた[291] 。本国参政権のみの獲得を目指す在日以外の在外韓国人社会と違い、在日韓国社会は日本での地方参政権の獲得も目指している。日本国内においては地方参政権獲得の議論が盛んであることに対して、本国参政権についての議論はあまり活発ではなく、欧米の在外韓国人の一部は、本国参政権獲得議論に消極的な在日社会を指して「在日韓国人はどうしてアクションを起こさないのか。民団の消極的姿勢は、参政権付与反対と言っているに等しい」と、非難する声も見られた[181]。
一方朝鮮総連は、日本の外国人参政権は日本政府による同化政策に繋がるものだとして外国人参政権の付与に反対している。また、民団中央の反民族策動を暴露糾弾し、「地方参政権獲得ごっこ」を徹底的に排撃する政治工作に注力するよう指示しているとされる[292]。
在日韓国人の本国参政権
テンプレート:See also 韓国における在外投票権の対象は、短期滞留者だけに限るか、永住権保有者までを含むようにすべきかで論争があった[181]。これは韓国民短期滞留者はたまたま海外に在住している自国民であり、国民の権利として不在者投票権を要求することに国民的合意が得られやすいことに対し、永住権保有者は、兵役、納税義務などが免除されており、住民登録要件不備を理由に参政権を付与することには慎重だった(在日永住権者は35歳まで徴兵が延期され、36歳になると兵役の義務はなくなる。1962年10月、「在外国民の兵役免除」の項目が兵役法に法律第1163として追加された)。 一方、大韓民国憲法#第二章 国民の権利および義務第24条は「すべての国民は選挙権を持つ」としており、これに準拠して永住権保有者にも参政権を保障するべきとの議論が続いていた。
これに対し、韓国憲法裁判所は2007年5月、海外の駐在員や留学生はもちろん、外国での永住権者も韓国の国籍を持ってさえいれば、韓国国内に住民登録がなくても選挙権と国民投票権を与えるべきという決定を下し、1999年3月の決定を覆した[293][294]。また、憲法裁判所は2008年12月31日までに国会で必要な法改正を行うよう命じた。この決定の理由として「情報通信技術の発達」や「経済力の伸張」など10項目を挙げた。また、納税や国防の義務が免除されていることを問題とする考えについても、大韓民国憲法は参政権や平等権などの国民の基本権行使を、納税と国防の義務に対する反対給付として想定していない上、在外国民であっても兵役の義務を果たすことができ、また兵役が義務付けられていない女性も投票権を有しているとする原告の訴えを認めこれを退けた。
これらの動きを受けて、海外短期滞留者をモデルとした不在者投票の準備作業が行われた[295]。2006年12月には外交通商部と共同で50以上の海外公館で模擬投票を実施し、参加者の80%は「投票権を行使する」と回答した。この場合、実際の日本地域の短期滞留者は82000人になり、そのうち21000人が投票すると推算された。
与野党とも在外韓国人に参政権を付与する方向では一致しており、2007年2月末までに中央選挙管理委員会や与野党から5つの選挙法改正案が韓国国会に上程された。しかし、在外投票の導入方法をめぐって紛糾し、当初目指していた2007年の大統領選挙からの在外投票導入は困難となった。海外永住者は一般的に保守傾向が強いとされており、これを取り込みたい保守派であるハンナラ党と、若年層にも支持基盤を持ち留学生や、外交官などの一時滞留者たちを取り込みたいウリ党の党争によるものと指摘された[296][297]。
2009年2月の韓国国会は法案を可決して2012年の国政選挙から投票できる見通しとなったが、祖国での参政権に対する在日社会の関心は低く、そのメリットを知ってもらおうと、原告団(李健雨)を起源とした兵庫と大阪の在日韓国人で「在日韓国人本国参政権連絡準備会」を設立しPR活動を行っている[298][299]。
また、海外に主な居住地を定めていても韓国内の居住地を法務部に登録していれば投票できるように法改正されたため、2010年6月2日の第5回韓国全国同時地方選挙では、在日韓国人1世も含む「母国に住む在日韓国人」も、一足早く生まれて初めて祖国での選挙を体験した[300]。
2010年11月には模擬選挙が予定されており、永住者は比例代表選挙に限られているが、韓国の住民登録番号があるか、韓国国内の居所申告があれば地方区選挙にも投票できる[301]。
2012年大韓民国大統領選挙では、在日有権者462,509人の内、37,342人が選挙人登録し、25,312人が投票を行い、投票率は67.8%であり[302]、投票率は2012年4月の第19代総選挙 (大韓民国)の52.6%から15.2%上昇したものの、在外投票率平均の71.2%を下回った[303]。大阪、ロサンゼルス、北京の在外韓国人に対して行われた調査では、在外選挙の公正性については10点満点で平均7.1点に対し日本では6.6点、「在外選挙が韓国の政治発展に役立つか」との質問には平均8.1点に対し日本では6.7点に留まった[304]。在外投票全体では朴氏の得票率は文氏より13.9ポイント低い42.8%だったが、日本では回答者の大多数が20-40代であったにもかかわらず朴氏の支持率(70.0%)が文氏(30.0%)より大幅に上回った。この調査結果について「在日韓国人は韓国人として差別を経験したのに加え、朝鮮総連に警戒心を持っており、母国の政治的な安定を望む気持ちから米国と中国に比べ、保守色が強いとみられる」と説明された。
朝鮮籍および、北朝鮮籍朝鮮人の本国参政権
朝鮮籍の17歳以上の在日朝鮮人公民は海外にいる者も北朝鮮国政への選挙権、被選挙権ともに有しているため[305]、2009年3月の北朝鮮最高人民会議代議員選挙では、在日朝鮮人からは徐萬述朝鮮総聯中央本部議長をはじめとする朝鮮総連幹部や朝鮮大学校校長などの6名が代議員(国会議員)に選出されている[306]。
地方参政権問題
テンプレート:Main 在日本大韓民国民団は、2009年8月30日投票の第45回衆議院議員総選挙から外国人参政権付与を掲げている候補者を支援しており、集会を通じて、民団の構成員に選挙への支援を指導している[307][308][309][310][311]。一方、朝鮮総連では在日朝鮮人はれっきとした独立国である北朝鮮の海外公民であるので、民団の外国人参政権獲得運動は韓国政府の棄民政策や、日本政府による同化政策に追随するものだとしてこれに反対している[171]。
李鍾元立教大学法学部教授は、日本の右傾化に対処する方法の一つとして、在日韓国人の地方参政権獲得とともに日本社会を内側から変化させる方法を指摘し[312]、韓国が先に永住外国人に地方参政権を付与した措置[313]を高く評価した。
在日韓国人地方参政権獲得運動の支援の一環として韓国で外国人参政権付与が行われるなど[314]、韓国においてもこの運動は支持されている。また、地方参政権問題は今まで抑圧されてきた在日韓国人同胞の恨をはらす契機とも見ることができ、日本政府の歴史問題解決への前向きの姿勢の表明として歓迎する意見もある[315]。
民団の主導による、在日韓国人に対する日本国の参政権付与を求める活動が活発になっており、地方参政権に反対する議員が多数派を占める地方議会に対しては「日韓親善協会との協力体制」や「地方議会で傍聴を行う」などの対応策が検討されている[316]。たとえば、千葉県市川市では、民団市川支部の組織的な「巻き返し工作」により、2010年1月29日の市議会総務委員会で可決されていた永住外国人への地方参政権の付与に反対する意見書を、翌20日の本会議で否決させることに成功した[317]。
遊技業界
本籍 | 割合 % |
韓国籍 | 50% |
朝鮮籍 | 30-40% |
日本籍 | 5% |
華僑 | 5% |
テンプレート:Main パチンコ産業に携わっている就業者の在日韓国・朝鮮人比率は他産業より高く、2007年12月27日の中央日報の記事によると、業界経営の90%ほどを在日韓国人と朝鮮総連系が掌握している[320][321]。ただし、パチンコ業界に占める在日韓国・朝鮮系の割合については諸説あり、2008年1月10日のハンギョレの記事ではパチンコ業界の6割が在日韓国・朝鮮系とされ[322]、また、別冊宝島『嫌韓流の真実』の野村旗守の記事によると、1949年に全国で5千店しかなかったホールが、3年後に4万店以上に激増し凄まじいブームが起き、はじめの頃は日本人経営者のほうが多かったが、「射幸心を煽る」との理由で業界に規制を受けてから、日本人業者の多くが撤退してしまい、規制後は7割を在日が占めるようになり、この比率は現在も変わっていないという。またパチンコ最大手のマルハンの韓昌祐会長は、2005年にテレビ番組のインタビューで、「現在日本にあるパチンコ店の約7割が在日韓国・朝鮮人による経営」という見解を示した[126]。民団傘下の「在日韓国商工会議所」では、所属する1万社のうち約7割がパチンコ業に係わっている[323]。パチンコ最大手のマルハンの創業者が元在日韓国人1世の韓昌祐であることからもパチンコ業界内の在日韓国・朝鮮人の立場の強さがうかがえる。このため「パチンコはその実体が賭博であるにもかかわらず賭博として規制されておらず、事業で生まれた収益が北朝鮮へ送金され独裁体制やミサイル・核開発を支えている」という指摘がある[324][325][326]。2008年、在日本大韓民国民団顧問のチョン・ドンファは、「朝鮮総連はパチンコ事業で資金を集めたが、民団はどのようにしたのか?」と記者に問われると「民団の主な事業もパチンコだ。朝鮮総連は収入の全てを組職化して北に送った。」と証言している[327]。ランド研究所上級経済顧問のチャールズ・ウォルフ・ジュニアによると、日本から北朝鮮への送金は年200億円以上で、その主な資金源はパチンコであり、30兆円産業から朝鮮人事業主が手にした純収入分の2%が合法、非合法を問わず送金されたとするとそれだけで200億円を超えると推定している[328][329]。また、日本国内では在日韓国人のパチンコ店経営者から菅直人内閣総理大臣への政治資金が提供されていることが明るみとなっている[268][269]。
ただし、『朝日新聞』2011年6月7日朝刊15面記事によると、90年代半ばに売り上げ30兆円・店舗数1万8000店は、2010年までに売り上げ20兆円・店舗数1万2000店の3分の2に激減しており、現在のパチンコ店経営者の国籍は、韓国が5割、日本が3割、中国・台湾が1割、朝鮮(北朝鮮)籍が1割で、パチンコ=北朝鮮というのは正しい批判ではないとしている。
韓国では賭博メダルチギ「海物語」の大流行とその弊害[330]、およびそれに関わる関連公職者の告発[331]が社会問題となった。
在日大韓民国民団は李明博韓国大統領にパチンコ産業への規制強化により、在日同胞への影響が出ているので小沢一郎に働きかけるようロビー活動を行い、李は小沢に取り組むよう求めた[332][333]。
外国人犯罪と在日韓国・朝鮮人
テンプレート:See also フィクションではあるが「はだしのゲン」の中では朝鮮人が列車の中で、「四等国の日本人は朝鮮人に席を譲れ」と怒鳴るシーンがあり、台湾人の蔡焜燦も「列車内では日本人乗客に対し理不尽なまでに威張り散らし、一方で当時は戦勝国であった中華民国の軍人にはこびへつらう、朝鮮人の極端なまでの二面性」を描写している[334]。また、戦前と戦後直後の朝鮮人による虐待も描写されている。これらと同じ様な事象として、1945年末の直江津駅リンチ殺人事件がある。
第二次世界大戦後に朝鮮人による犯罪が増加したという現実があり、長く語り継がれている。直江津事件のほか、神戸市役所襲撃事件、生田警察署襲撃事件、七条警察署巡査殺害事件、名古屋少年匕首殺害事件、中津市朝鮮人一家殺害事件と在日朝鮮人による殺人や警官・軍人などへの襲撃事件が多発したため、それが後々の日本人との間のわだかまりや先入観(「朝鮮人は恐い」などとして)を作り出し、日本人による在日韓国・朝鮮人への忌避・嫌悪感情の温床になったと主張する層が存在している[335]。浅草米兵暴行事件のように、一地区に多く住んでいる在日韓国・朝鮮人による集団犯罪も問題の根を深くしている。2010年代には靖国神社と日本大使館に対する放火事件や、犯人が「日本人なら何人も殺そうと思った」と供述した大阪府生野区における通り魔事件などが発生している。ただし後者の事件は、動機も含めた責任能力の有無を調査するための精神鑑定拘留が行われている。
在日韓国・朝鮮人の起こした事件の例
- 第1回生田警察署襲撃事件(1945年12月24日)
- 第2回生田警察署襲撃事件(1946年1月9日)
- 富坂警察署襲撃事件(1946年1月3日)
- 長崎警察署襲撃事件(1946年5月13日)
- 七条警察署巡査殺害事件 (1946年6月9日)
- 富山駅前派出所襲撃事件(1946年8月5日)
- 神奈川税務署員殉職事件(1947年6月23日)
- 尾花沢派出所襲撃事件(1947年10月20日)
- 下里村役場集団恐喝事件(1951年10月22日)
- 東成警察署襲撃事件(1951年12月1日)
- 木造地区警察署襲撃事件(1952年2月21日~23日)
- 広島地裁暴動事件(1952年5月13日)
- 高田派出所襲撃事件(1952年5月26日)
- 奈良警察官宅襲撃事件(1952年5月31日)
- 五所川原税務署襲撃事件(1952年11月19日~26日)
在日韓国・朝鮮人の強制退去、不法滞在
1965年、日韓基本条約締結に伴い締結された在日韓国人の法的地位(協定永住)について定めた日韓法的地位協定第三条は、以下の事由に該当しない限り日本国からの退去を強制されないとされた。
- 日本国において内乱罪又は外患誘致罪等により禁錮刑以上に処せられた者(付和随行者、執行猶予者は除く)。
- 本国において国交に関する罪および外国の元首、外交使節又はその公館に対する犯罪行為で禁錮刑以上が処せられ、日本国の外交上の重大な利益を害した者。
- 営利の目的をもつて麻薬及び向精神薬取締法等に違反して無期又は三年以上の懲役又は禁錮に処せられた者(執行猶予者は除く)あるいは、三回以上刑に処せられた者。
- 日本国の法令に違反して無期又は七年をこえる懲役又は禁錮に処せられた者。
1991年、入管特例法により韓国人のみが対象となっていた協定永住が朝鮮籍、台湾籍の永住者も合わせて特別永住許可として一本化された。特別永住者は退去強制となる条件が他の外国人よりも限定される(入管特例法第9条)[336]。具体的条件は次のとおり。
- 内乱罪(付和随行を除く)、内乱予備罪、内乱陰謀罪、内乱等幇助罪で禁錮刑以上に処せられた者(執行猶予が付いた場合は除く)。
- 外患誘致罪、外患援助罪、かそれら未遂罪、予備罪、陰謀罪で禁錮刑以上に処せられた者(執行猶予が付いた場合は除く)。
- 外国国章損壊罪、私戦予備罪、私戦陰謀罪、中立命令違反罪で禁錮刑以上に処せられた者。
- 外国の元首、外交使節又はその公館に対しての犯罪で禁錮刑以上が処せられ、かつ法務大臣が(外務大臣と協議の上)日本の外交上の重大な利益が損なわれたと認定した者。
- 無期又は7年を超える懲役又は禁錮に処せられ、かつ法務大臣が日本の重大な利益が損ねられたと認定した者。
1970年代後半、日本で犯罪を犯した在日韓国人20人を韓国に強制退去させようとしたが、韓国政府は受け入れを拒否した[337]。 一方、法務省入国管理局によれば、1978年、初めて韓国・朝鮮籍2人が退去強制により送還され、その後1988年までにさらに17人が送還されたとの記録がある[338]。国交のない北朝鮮への送還は考えにくく、韓国に送還されていた可能性が高いという[338]。
2010年1月1日時点での韓国人不法滞在者数は21,660人(男7,796人、女13,864人)で全体(9万1778人)の23.6%であり、中国人(12,933人、14.1%)、フィリピン人(12,842人、14.0%)を抑えて1位となった[339]。このうちビザ免除プログラム等による短期滞在の後不法滞在者となった者は19,824人で全体の90%以上を占めた。2009年の韓国人上陸拒否者数は1,951人で2007年の3,565人、2008年の2,428人から減少した[340]。
暴力団と在日韓国・朝鮮人
テンプレート:See also カプランとデュブロによると、日本最大の広域暴力団である山口組の構成員のうち、約10%の者が在日朝鮮人であるという[341]。指定暴力団会津小鉄会四代目会長で在日韓国人だった高山登久太郎は「ヤクザの世界に占める在日韓国・朝鮮人は三割程度ではないか、しかし自分のところは約二割だ」と発言している[342]。元公安調査庁調査第二部長の菅沼光弘が、2006年10月19日に外国特派員協会で行った講演で、六代目山口組若頭の髙山清司から聞いた話として、暴力団構成員のうち6割が同和(被差別部落)、3割が在日韓国・朝鮮人、1割が同和でない日本人であり、右翼活動により収益を上げているという見解を示した[343]。暴力団系右翼団体の構成員である在日韓国・朝鮮人が実行犯として逮捕された事件では村井秀夫刺殺事件と石井紘基刺殺事件テンプレート:要出典が有名である。
元山口組顧問弁護士の山之内幸夫は「ヤクザには在日朝鮮人や同和地区出身者が多いのも事実である」「約65万人といわれる在日朝鮮人のうち約50%が兵庫・大阪・京都に集中していることと山口組の発展は決して無関係ではなく、山口組は部落差別や在日朝鮮人差別の問題をなしにしては語れない」と述べた[344]。
警察庁発表による2008年(平成20年)の暴力団の人数は、構成員が約40,400人・準構成員が約42,200人・計約82,600人であり、22の指定暴力団の内、七代目酒梅組の金在鶴、極東会の曺圭化、松葉会の李春星、三代目福博会の金寅純、九州誠道会の朴植晩が代表者として紹介されている[345]。また2010年7月20日、東京都公安委員会は4,800人の構成員を擁する指定暴力団稲川会の代表者として辛炳圭を指定した[346]。
一方猪野健治は、『やくざと日本人』の中で、昭和中期の関西や北部九州の部落の悲惨な現状を取り上げ、日本社会に「やくざとなるか土方になるか」しか、選択肢の無い若者が多く存在する事がやくざの温床であるという見解を示したテンプレート:どこ。また自身の取材から得た印象として、もとより体系的な統計があるわけではないが、と断りながらも、現在の暴力団員の半数は部落も在日朝鮮人も出自に持たない「市民社会からのドロップアウト組」だろうと推測している。事実、2012年の政府公式統計によれば、その年に刑務所に入った受刑者のうち暴力団加入者の国籍別比率は、日本国籍2060人で約98.4%、韓国・朝鮮籍31人で約1.5%となっている[347]。
覚醒剤と在日韓国・朝鮮人
警察白書によれば、覚醒剤の密輸に在日韓国人が関与した事例が複数報告されている[348][349]。また、日本国内で流通する覚醒剤は北朝鮮・中国を仕出地とするものが大部分を占めており[350][351][352]、2001年に北朝鮮から日本への大規模密輸がおこなわれた際、在日韓国人が北朝鮮側との連絡役として関与した事例もある[353]。
匿名口座と在日韓国・朝鮮人
在日韓国・朝鮮人には通名が認められているため、一部の銀行では通名での口座開設が可能である。そのため通名を変更後は事実上の匿名口座になり、これが在日韓国・朝鮮人による犯罪の温床となるケースがある。テンプレート:要出典
2006年、最高裁判所は、朝銀に架空名義で口座を開設し脱税資金を預金していたパチンコ店経営の在日韓国・朝鮮人の男性に対し、脱税した資金41億8千万円を公的資金で穴埋めする判決を下した[354]。これは、脱税資金の匿名口座の金を公的資金で補填するという異常な判決であり、在日韓国・朝鮮人の犯罪者(ただし脱税行為については時効が成立)に対し、遅延損害金6億7千万円も加算して公的資金で補填することに日本国民からの反発は極めて強い。
民族団体を通じた在日韓国・朝鮮人への税減免措置
韓国・北朝鮮との関わり
兵役義務の延期
大韓民国では、国民に兵役を付与する徴兵制が施行されている一方、国外を往き来する船舶の船員と国外に滞在または居住している人、犯罪によって拘束されている人や刑の執行中の人、高等学校以上の学校に在学中の学生、研修機関で所定の過程を履修中の人、国威発揚のための体育分野優秀者は、徴兵検査を延期することができる。また、大韓民国軍の兵役義務は40歳で終了する。よって、海外に居住する韓国人は徴兵検査を受けなくてもよく、40歳以降に韓国に帰国しても徴兵義務は課されない。特段に在日韓国人が区別されているわけではない[355]。
竹島領有権問題への姿勢
テンプレート:See also 姜尚中東京大学教授は、韓国が占拠している竹島について、韓国側に立った主張・提言を行っている[356][357]。また、在日本朝鮮人総聯合会の関連団体である在日本朝鮮留学生同盟(留学同)は、日本の領有権主張に反対する声明を行っている[358]。 また日本の学校へ通った人の多くは日本側の立場を立つ人もいれば、どちらとも言えない人もいる。
北朝鮮問題との関連
北朝鮮問題への注目(拉致事件、核保有問題など)に伴って、在日韓国・朝鮮人、とりわけ朝鮮籍の者への圧力が高まったことに対し、在日韓国・朝鮮人の立場を『親族を北朝鮮政府に人質同然にされ、不本意ながら北朝鮮政府の意のままに操られている人たち』として同情視する向きもある。
一方で「在日朝鮮人は北朝鮮国政の選挙権・被選挙権ともに有しており、在日朝鮮人からは朝鮮総連議長や朝鮮大学校校長などの6名が北朝鮮の国会議員に選ばれており、日本からの送金もかなりの額に上るため、在日朝鮮人側の責任が皆無とは言い難い」との批判もある。また、朝鮮総連は本国の見解に乗っ取り、拉致問題を「解決済み」、「日本側にこそ問題がある」との立場を固守している。北朝鮮のミサイル発射に関連してチマチョゴリ切り裂き事件なども起きた。
在日韓国・朝鮮人は北朝鮮の核兵器や生物兵器などの大量破壊兵器開発のために輸出規制されている物品を北朝鮮に不法に輸出する北朝鮮タンクローリー不正輸出事件や凍結乾燥機不正輸出事件などの事件を引き起こしている。中には、北朝鮮のスパイに協力をした「土台人」として検挙された者もいる。
東京大学大学院で博士号を取得したロケット開発権威の在日朝鮮人は在日本朝鮮人科学技術協会の顧問として日本の技術を不法に入手し、頻繁に北朝鮮に渡り技術指導を行い、ミサイル発射時には現地で立ち会っている[359][360][361][362]。
脚注
編注
参考文献
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物語
- テンプレート:Cite book(奥付け)
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関連文献
以下は記事本文および脚注で直接言及していない文献。
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- 徐京植 『在日朝鮮人ってどんなひと?』平凡社、2012年。ISBN 978-4-582-83555-7
関連項目
- 在日韓国・朝鮮人の一覧
- 朝鮮民族
- 在日朝鮮人文学
- 第三国人
- 日本統治時代の朝鮮
- コリア・タウン#日本
- 朝鮮学校
- 日本の民族問題
- 在日韓国人をはじめとする永住外国人住民の法的地位向上を推進する議員連盟
- 高槻むくげの会
- 在日特権
- 在日認定
- 朝鮮進駐軍
- 在日本朝鮮人連盟
- 在日朝鮮統一民主戦線
- 祖国防衛隊 (在日朝鮮人団体)
- ポツダム命令
外部リンク
- 在日韓人歴史資料館ホームページ
- 戦前日本在住朝鮮人関係新聞記事検索 - 京都大学人文科学研究所
- 在日朝鮮人問題 - Yahoo!百科事典
- 五十年前、こういう偉大な「在日」がいた - 呉文子・秋山祐徳太子・西部邁
テンプレート:日本の外国人 テンプレート:朝鮮民族のディアスポラ
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- ↑ 6.0 6.1 在留外国人を構成する各資格に「外交」・「公用」・「短期」・「滞在」の各資格を加えた区分を総在留外国人という
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1、「3月」以下の在留期間が決定された人
2、「短期滞在」の在留資格が決定された人
3、「外交」又は「公用」の在留資格が決定された人
4、1から3までに準じるものとして法務省令で定める人(「特定活動」の在留資格が決定された,亜東関係協会の本邦の事務所若しくは駐日パレスチナ総代表部の職員又はその家族の方)
5、特別永住者
6、在留資格を有しない人 - ↑ 引用エラー: 無効な
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」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ 9.0 9.1 “没落する朝鮮総連、韓国国籍の取得者が急増”, 朝鮮日報, 2010/02/10.
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- 鄭在貞 『日帝下朝鮮における国家総力戦体制と朝鮮人の生活 -- 「皇国臣民の錬成」を中心に -- 』(PDFファイル、日本語)- 日韓文化交流基金(公式ウェブサイト)
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朝鮮人集団移入労務者等ノ緊急措置ノ件
関釜連絡船ハ近ク運行ノ予定ニアル朝鮮人集団移入労務者ハ次ノ如ク優先的ニ計画輸送ヲナス
尚石炭山等ニ於ケル熟練労務者ニシテ在留希望者ハ在留ヲ許容スルコト 但シ事業主ニ於テ強制的ニ勧奨セザルコト
(1)輸送順位ハ概ネ土建労務者ヲ先ニシ石炭山労務者ヲ最後トシ地域的順位ニ付テハ運輸省ニ於テ決定ノ上関係府県、統制会、東亜交通公社ニ連絡ス
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タグです。 「wakatuki
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