和田春樹
テンプレート:存命人物の出典明記 テンプレート:Infobox 学者 和田 春樹 (わだ はるき、1938年(昭和13年)1月13日 - )は、日本の歴史学者、社会科学研究家、市民運動家である。専門はソ連史・ロシア史・朝鮮史。東京大学名誉教授。
目次
人物
大阪府生まれ。静岡県立清水東高等学校を経て、東京大学文学部卒業。
大学入学から、退官まで、約50年間に渡って東京大学においてのみ過ごした。研究分野は多岐にわたるが、ロシア・ソ連・朝鮮半島の近現代史及び、それらの地域と日本の関係にまつわるものが多い。左翼運動・市民運動などの実践活動でも知られる。2010年に韓国の全南大学から「第4回後広金大中学術賞」を授けられる。
研究
民衆側の共産主義
テンプレート:要出典和田による研究対象は、1905年の『血の日曜日事件』で知られるゲオルギー・ガポン、革命家のネストル・マフノによる農民アナキズム運動、ナロードニキとマルクス・エンゲルスとあいだの政治的偏差などを含んだ。
ソ連崩壊と共産主義の瓦解
1980年代、ソ連においてペレストロイカが進行すると、テンプレート:要出典さらに1990年代になって「急進改革派」が登場し、社会主義体制への批判を強めるようになると、テンプレート:要出典
テンプレート:要出典、ロシア近現代史研究の後輩である塩川伸明や下斗米伸夫からは、かつての「進歩的知識人」の誤りを繰り返すものだとして厳しく批判された[1]。また塩川は、和田がソ連・東欧社会主義の崩壊を、一貫して「国家社会主義の崩壊」と規定していることに対して、その用語の曖昧さとともに、国家社会主義でない社会主義という存在の検討がなされていないことについても批判した。
ソ連及びスターリンについては、「マルクス主義が実現すべき目標としたユートピアはスターリンのソ連においてともかくも実現された」、と述べている[2]。
韓国・北朝鮮
テンプレート:要出典和田の研究はインテリゲンツィア(知識階級)にとどまらず、民衆の日常に目を向けるものであり、和田はテンプレート:要出典
和田による朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)現代史研究については、テンプレート:要出典、北朝鮮を『遊撃隊国家』とする規定についてテンプレート:要出典。ラングーン事件について、事件発生直後には「韓国政府内部の人間がやったことも考えられる。北朝鮮の側が爆弾テロをやるということはありえない」(『世界』83年11月号)との立場を一時はとっていたが、『北朝鮮――遊撃隊国家の現在』(1998年)では、北朝鮮工作員の行為と述べている。
主義・主張と社会活動
対・北朝鮮
- 拉致問題
北朝鮮による日本人拉致問題について和田は、2001年(平成13年)の時点においても、「横田めぐみさん拉致の情報は、その内容も、発表のされ方も多くの疑問を生むものである」として、日本政府も拉致疑惑を認定しないことから「横田めぐみさんが拉致されたと断定するだけの根拠は存在しないことが明らかである」と述べている。なお、久米裕の事件については拉致された可能性は高いと述べているが、「日本の警察が国外移送拐取罪で立件しなかった以上、行方不明者として交渉するほかない」と述べている[3][4]。
翌2002年(平成14年)、北朝鮮自身が日本人拉致を認めるに至り、『諸君!』『正論』からは、和田に対する激しい批判が加えられた。また、山脇直司からも、北朝鮮による拉致という国家犯罪は絶対に許してはならないし、左翼知識人の過去の言動は徹底的に糾弾されてしかるべきだろう、と批判された[5]。これを受けて和田は、自分は拉致そのものの存在を否定していたわけではないと弁明した。
対・韓国
- 在日韓国人
和田は、在日韓国・朝鮮人に対する社会処遇の向上や、積極的な戦後補償を行うことについて、一貫してそれを求めている。
- 慰安婦問題
朝鮮人従軍慰安婦問題については、当時の日本政府に対して一貫して批判的である。一方、『女性のためのアジア平和国民基金』に係わる活動によって和田は、朝鮮人慰安婦寄りの主張を行う社会運動家からも批判される立場に立った。
- 竹島問題
竹島問題について和田は、「竹島が日本の領土と宣言されたのは1905年だ。その時から敗戦までの40年間、 竹島は確かに日本の領土だった。1945年に日本の管轄から脱した後、サンフランシスコ条約でも明確な処理がなされなかった」とし、そのうえで、「植民地支配反省の表現として、日本は独島(竹島の韓国名)を韓国領土として認める」という独自の主張を展開している[6]。さらに2013年10月には、独島問題に関して、日本は韓国側の主張を認めること以外に答えはないとし、韓国は韓日友好のための特別な配慮として鬱陵島と隠岐の島の中間地点に経済水域の境界を設定することを提案した[7]。
また和田は、そのかわりに韓国側が、韓日友好のための思いやりとして、島根県の漁民に島周辺の漁業権を認めるという条件を、竹島を韓国に供与する見返りとして提案している[6]。しかしながら実際には、竹島周辺海は暫定水域として日韓漁業協定による漁業権が確定済みであり、和田の案により日本が得られるものは皆無である[6]。
- 日韓併合無効論
和田は2010年(平成22年)、日本が韓国を併合するに当たっての韓国併合ニ関スル条約(1910年)は当初から無効であったとして、日本政府がその無効性を認めるよう求める声明を発表した[8]。さらに、内閣総理大臣 菅直人に対しては、同条約の無効を、日韓併合100周年に当たる同年8月に宣言するよう求めた[8]。
歴史教科書
和田は2001年(平成13年)4月、『新しい歴史教科書』(扶桑社)を批判する声明を、連名で発表した[9]。
翌5月、歴史教科書問題をテーマにしたテレビ討論番組に参加した和田は、同教科書の記載について、「戦前ロシアが朝鮮北部に軍事基地を建設したと書いているが、これは伐採場でしかない」と批判した[10]。同討論に参加していた歴史家・秦はこれに対し、『近代日本総合年表』(岩波書店)にも 『軍事根拠地の建設を開始』との記載があること[11]、しかも同書の編集委員のひとりが、和田とともに抗議声明を出した経済学者、隅谷三喜男であることを指摘して反論した。
北方領土
和田は、「日本は北方領土の問題にこだわって日ソ関係を非常に悪いままにしている」と、領土問題を問わずにソ連との友好を優先することを主張していた[12]。
論争 - アジア女性基金
二人の関係は1995年(平成7年)、村山富市内閣が設立した財団法人 『アジア女性基金』において、ともに資料委員会委員を務めたことに始まる。大蔵官僚出身で官僚や自由民主党関係者との人脈が豊富であった秦は、社会党との関係が強い和田や大沼保昭等の同財団発起人らから、保守人脈をも網羅した国民的運動としての基金活動を展開すべく受け入れられた。
しかし、同基金に拠ってアメリカでも調査を行った秦が同基金への報告書を寄稿すると、和田は秦を激しく批判した。秦による従軍慰安婦に関する報告への、和田による批判は次の様だった。
- 同基金は『村山談話』を根拠としているが、秦の報告には、その趣旨・理念をわきまえないエッセイ的記述が多数ある
- 各自のイデオロギー的立場を越えた資料実証研究を行うという資料委員会の申し合わせに反する
そして、同委員会委員長・高崎宗司と共に和田は、秦に対して文章の撤回を打診した。しかしながら、和田らに撤回要求をするような権限があるかについての疑問を呈し、またそれは打診というよりも査問であったことを秦は訴え、撤回の要求を拒絶した。最終的には、「権限の有無を別として和田・高崎が没を希望、秦がそれを受け入れる」という形で秦論文は未掲載となった。
最終的に取りまとめられたアジア女性基金の報告書、没になった秦の文書で転載されたもの、秦の側の見解表明は以下。
- アジア女性基金『「慰安婦」問題調査報告・1999』〔全文ダウンロード可能〕[1]
- 秦郁彦「『慰安婦伝説』--その数量的観察」『現代コリア』1999年2月〔転載〕。
- 秦郁彦「天皇訪韓を中止せよ!『アジア女性基金』に巣喰う白アリたち」『諸君』1999年2月号(同『現代史の対決』文藝春秋2005年に大部分が掲載)。
略歴
- 1960年(昭和35年)3月 東京大学文学部西洋史学科卒業
- 1960年(昭和35年)4月 東京大学社会科学研究所助手
- 1966年(昭和41年) 同・講師
- 1968年(昭和43年) 同・助教授
- 1985年(昭和60年) 同・教授
- 1996年(平成8年)4月 同・所長(1998年3月まで)
- 1998年(平成10年)3月 東京大学退官
- 1998年(平成10年)5月 東京大学名誉教授
- 2001年(平成13年)4月 東北大学東北アジア研究センター 客員教授
著作
- 単著
- 『近代ロシア社会の発展構造――1890年代のロシア』(東京大学社会科学研究所, 1965年)
- 『ニコライ・ラッセル――国境を越えるナロードニキ](上・下)』(中央公論社, 1973年)
- 『マルクス・エンゲルスと革命ロシア』(勁草書房, 1975年)
- 『農民革命の世界――エセーニンとマフノ』(東京大学出版会, 1978年)
- 『韓国民衆をみつめること』(創樹社, 1981年)
- 『韓国からの問いかけ――ともに求める』(思想の科学社, 1982年)
- 『私の見たペレストロイカ――ゴルバチョフ時代のモスクワ』(岩波書店[岩波新書], 1987年)
- 『北の友へ南の友へ――朝鮮半島の現状と日本人の課題』(御茶の水書房, 1987年)
- 『ペレストロイカ――成果と危機』(岩波書店[岩波新書], 1990年)
- 『北方領土問題を考える』(岩波書店, 1990年)
- 『ロシアの革命1991』(岩波書店, 1991年)
- 『開国――日露国境交渉』(日本放送出版協会[NHKブックス], 1991年)
- 『金日成と満州抗日戦争』(平凡社, 1992年)
- 『歴史としての社会主義』(岩波書店[岩波新書], 1992年)
- 『ロシア・ソ連』(朝日新聞社, 1993年)
- 『朝鮮戦争』(岩波書店, 1995年)
- 『歴史としての野坂参三』(平凡社, 1996年)
- 『北朝鮮――遊撃隊国家の現在』(岩波書店, 1998年)
- 『北方領土問題――歴史と未来』(朝日新聞社[朝日選書], 1999年)
- 『ロシア――ヒストリカル・ガイド』(山川出版社, 2001年)
- 『朝鮮戦争全史』(岩波書店, 2002年)
- 『朝鮮有事を望むのか――不審船・拉致疑惑・有事立法を考える』(彩流社, 2002年)
- 『日本・韓国・北朝鮮――東北アジアに生きる』(青丘文化社, 2003年)
- 『東北アジア共同の家――新地域主義宣言』(平凡社, 2003年)
- 『同時代批評――日朝関係と拉致問題』(彩流社, 2005年)
- 『テロルと改革――アレクサンドル二世暗殺前後』(山川出版社, 2005年)
- 『ある戦後精神の形成 1938-1965』(岩波書店, 2006年)
- 『日露戦争 起源と開戦』(岩波書店, 2009年)
- 共著
- (和田あき子)『血の日曜日――ロシア革命の発端』(中央公論社[中公新書], 1970年)
- (前田哲男)『くずれる国つながる国――ロシアと朝鮮日本近隣の大変動』(第三書館, 1993年)
- (高崎宗司)『検証日朝関係60年史』(明石書店, 2005年)
- 編著
- 『レーニン』(平凡社, 1977年)
- 『ロシア史の新しい世界――書物と史料の読み方』(山川出版社, 1986年)
- 『ペレストロイカを読む――再生を求めるソ連社会』(御茶の水書房, 1987年)
- 『ロシア史』(山川出版社, 2002年)
- 共編著
職のいきさつから東京大学社会科学研究所の研究者との共著が多い。
- (高崎宗司)『分断時代の民族文化――韓国[創作と批評]論文選』(社会思想社, 1979年)
- (梶村秀樹)『韓国の民衆運動』(勁草書房, 1986年)
- (梶村秀樹)『韓国民衆――学園から職場から』(勁草書房, 1986年)
- (梶村秀樹)『韓国民衆――「新しい社会」へ』(勁草書房, 1987年)
- (小森田秋夫・近藤邦康)『「社会主義」それぞれの苦悩と模索』(日本評論社, 1992年)
- (近藤邦康)『ペレストロイカと改革・開放――中ソ比較分析』(東京大学出版会, 1993年)
- (田中陽兒・倉持俊一)『世界歴史大系 ロシア史(全3巻)』(山川出版社, 1994-1997年)
- (家田修・松里公孝)『スラブの歴史』(弘文堂, 1995年)
- (水野直樹)『朝鮮近現代史における金日成』(神戸学生青年センター出版部, 1996年)
- (大沼保昭・下村満子)『「慰安婦」問題とアジア女性基金』(東信堂, 1998年)
- (隅谷三喜男)『日朝国交交渉と緊張緩和』(岩波書店, 1999年)
- (石坂浩一)『現代韓国・朝鮮』(岩波書店, 2002年)
- (高崎宗司)『北朝鮮本をどう読むか』(明石書店, 2003年)
- 訳書
- 『金大中獄中書簡』(岩波書店, 1983年)
- アレク・ノーヴ『スターリンからブレジネフまで――ソヴェト現代史』(刀水書房, 1983年)
- アレクサンドル・チャヤーノフ『農民ユートピア国旅行記』(晶文社, 1984年)
家族
夫人はロシア文学者の和田あき子。長女の和田真保は練馬区区議会議員をつとめた。
脚注
外部リンク
- 和田春樹連載記事(メディアと知識人|魚住昭責任編集ウェブマガジン「魚の目」)