外務省
テンプレート:行政官庁 外務省(がいむしょう、英訳名: Ministry of Foreign Affairs, MOFA)は、日本の行政機関のひとつ。
平和で安全な国際社会の維持に寄与するとともに、主体的かつ積極的な取組を通じて、良好な国際環境の整備を図ること、並びに調和ある対外関係を維持し発展させつつ、国際社会における日本国及び日本国民の利益の増進を図ることを任務とする(外務省設置法3条)。
目次
概要
上述の外務省設置法第3条に掲げた目標を達成するため、外交政策、外交使節、通商航海、条約等の国際法規の締結・運用、外国政府との交渉、情報収集・分析・発信、在留邦人の保護および文化広報活動など国の対外関係事務全般をつかさどる。
1885年(明治18年)の内閣制度創設以後、一度も名称を変えていない唯一の省である。全面改正前の外務省設置法、外務省官制、太政官達(内閣職権)など設置根拠法に変遷はあるものの、継続して用いられている。最初に「外務省」の名称が用いられたのは、1869年(明治2年)8月15日の太政官制(二官六省制)。
外務大臣を長とし、内部部局として大臣官房および総合外交政策局ほか10局、審議会として外務人事審議会および海外交流審議会、施設等機関として外務省研修所、特別の機関として在外公館を置く。
外務省が主管する独立行政法人 は2012年4月1日現在、国際協力機構、国際交流基金の2法人である[1]。特殊法人は主管していない。外務省所管の旧財団法人に関しては「Category:財団法人_(外務省所管)」を、旧社団法人に関して「Category:社団法人_(外務省所管)」をそれぞれ参照。
2012年度(平成24年度)一般会計当初予算における外務省所管予算は6172億5100万円である[2]。組織別の内訳は外務本省が5040億9700万円、在外公館が1131億5400万円である。特別会計は所管しない。
外務省の広報誌には、外務省発行の『外交』[3]と『外交フォーラム』(都市出版発売)[4]がある。
駐米大使を務めた朝海浩一郎や村田良平は外務省退官後、外務省があまりにもアメリカ合衆国に従属的であると述べている[5]。
所掌事務
外務省設置法第4条は計29項目の所掌する事務を列記している。主なものに、外交政策(外務省設置法第4条第1項)、外国政府との交渉(第2項)、国際連合その他の国際機関等(第3項)、条約締結(第4項) 、国際法規の解釈及び実施(第5項)、渉外法律事項(第6項)、国際情勢の情報収集及び分析並びに外国及び国際機関等に関する調査(第7項)、日本国民の海外における法律上又は経済上の利益その他の利益の保護及び増進(第8項)、海外における邦人の生命及び身体の保護その他の安全(第9項)、海外における邦人の身分関係事項(第10項、第11項)、旅券の発給並びに海外渡航及び海外移住(第12項)、査証(第13項)、本邦に在留する外国人の待遇(第14項)、海外事情についての国内広報(第15項)、日本事情についての海外広報(同項)、外国における日本文化の紹介(第16項)、外交文書の発受(第17項)、外交官及び領事官の派遣(第18項)、外交官及び領事官の接受並びに国際機関の要員の受入れ(第19項)、勲章・記章・日本の栄典の国際的なあっせん(第20項)、儀典その他の外交上の儀礼(第21項)、外交史料の編さん(第22項)、外地整理事務(第23項)、政府開発援助(第24~26項)がある。
海外滞在中の日本人が犯罪行為により、その国の刑務所に収監されたり、死刑判決が下される場合、外務省(在外公館の職員)は邦人保護の一環として面会などの対応をとる。外交的保護権(本人が嫌疑を否定した場合に人身保護を相手国官憲に求める権利)が行使されたことはない。
庁舎
外務省庁舎
外務省庁舎は千代田区霞が関2丁目2番1号本館に所在する。「本館(中央・南庁舎)」、「本館(北庁舎)」および「新庁舎」の3つの建物から構成され、それらは口型に配置されている[6]。中央・南庁舎は地上8階、地下1階のL時型の建物であり、内部は中央庁舎と南庁舎に分かれている。1970年(昭和45年)に完成した。北庁舎は地上8階、地下1階で1960年(昭和35年)完成。新庁舎は南庁舎と北庁舎の間、中央庁舎の向かい側に位置し、地上7階、地下3階である。北庁舎から中央庁舎への連絡は2階-1階、5階-4階、および8階-7階である。南庁舎から中央庁舎への連絡は2階-1階及び8階-7階である。1995年(平成7年)に完成した。以前は南庁舎には旧科学技術庁および公正取引委員会が入居していたが、中央省庁再編に伴い移転した。本庁舎の耐震工事のため、2002年(平成14年)初頭から2003年(平成15年)末まで一時的に仮庁舎が開設され、港区芝公園の住友不動産芝公園タワーに移転した。旅券課など一部の部署は港区芝大門の住友芝大門ビルに分散入居しいた。南庁舎2階には、24時間営業のコンビニエンスストア(ローソン:2013年2月13日現在)がある。
飯倉別館
飯倉公館ともいう。首脳会談や外相会談のほか、各種会議やレセプションなどの交流活動にも利用されている。吉田五十八の設計で1971年に完成。所在地は港区麻布台1丁目5番3号だが、名称に冠した「飯倉」はこの地の歴史的名称「飯倉町」に由来する。また幕末の開国以来の外交資料を保管し展示する外交史料館を併設している。近傍には旧事務次官公邸だった麻布台別館もある。
沿革
1871年(明治3年)に外務省は銀座から霞が関に移転し、江戸時代に建てられた大名屋敷の福岡藩黒田邸をそのまま使用していたが、1877年(明治10年)2月1日に焼失した。1881年(明治14年)、フランス人建築家ボアンヴィル(Charles Alfred Chastel de Boinville)の設計による新庁舎が竣工した。
1993年(平成5年)に、総合外交政策局と国際情報局が新設された。
1997年には国立国会図書館調査立法考査局に出向中の松井啓専門調査員を通じ、野党国会議員が国会図書館に依頼した、外交・安保問題に関する調査資料を収集調査していたことが明らかになっている[7][8][9]。外交文書の公開により、2011年(平成23年)2月に発覚した。
2001年(平成13年)4月に第1次小泉内閣が発足したとき田中真紀子議員が外相に就任した。田中外相は人事凍結方針を打ち出し、外務省がそれに反発、外務省は機密費流用問題、公金流用疑惑、裏金などの不祥事が続出し、田中外相は外務省を伏魔殿と呼び、外務省改革を唱えた。以降、ことあるごとに田中外相と外務官僚の対立が続くようになった。田中外相は事務次官の任免を繰り返し改革を断行しようとするが、アメリカ同時多発テロ以降、外交政策は官邸主導、外務省主導になり、肝心の外相は1人取り残されるようになった。その後、アフガニスタン復興支援に関して、NGOを復興会議から排除した問題が浮上。NGO排除に鈴木宗男議員の大きな影響があったと大西健丞NGO「ピースウィンズ・ジャパン」代表が発言、小泉首相も鈴木議員の圧力を認めたが、野上義二外務事務次官はそれを否定。田中外相、鈴木議員、外務省の3者をめぐって全面的な争いが起こった。2002年(平成14年)1月、小泉首相は田中外相と野上事務次官を更迭した。 同時に、儀典長(次官級)が大臣官房儀典長(局長級)に格下げされた。その後、外務省への過度な圧力などを指摘され、2002年(平成14年)3月11日に鈴木宗男議員が証人喚問を受けることになった[10]。
川口順子大臣時代の2004年(平成16年)8月1日に、領事移住部を領事局に格上げし、国際情報局が統括官組織に改組され、条約局が国際法局に改編された。
2006年(平成18年)8月1日に、部局の統廃合が行われた。この統廃合では、躍進著しいインドや東南アジア諸国連合などとの関係強化を図るため、アジア大洋州局内に「南部アジア部」が新設された。一方、局単位の改編として、経済協力局及び大臣官房国際社会協力部(ODA関係部局)を統合して「国際協力局」を新設した。よって全体の局部数に変更はない。
2012年(平成24年)1月18日に、大臣の定例記者会見に初めて英語の同時通訳を導入した。大臣発言と日本人や外国人記者の質問は日本語と英語に相互に訳され、会見では貸し出すイヤホンを介して聞くことが出来る[11]。
組織
外務省の内部組織は一般的に、法律の外務省設置法、政令の外務省組織令および省令の外務省組織規則が重層的に規定している。
幹部
- 外務大臣(国家行政組織法第5条、法律第2条第2項)
- 外務副大臣(国家行政組織法第16条)(2人)
- 外務大臣政務官(国家行政組織法第17条)(3人)
- 外務事務次官(国家行政組織法第18条)
- 外務審議官(法律第5条)(2人)
内部部局
- 大臣官房(政令第2条) - 総務課(政令第18条)、人事課、情報通信課、会計課、在外公館課、広報文化外交戦略課、報道課、文化交流・海外広報課
- 総合外交政策局 - 総務課(政令第30条)、安全保障政策課、国連企画調整課、国連政策課、人権人道課、軍縮不拡散・科学部
- 軍縮不拡散・科学部 - 軍備管理軍縮課(政令第30条第2項)、不拡散・科学原子力課
- アジア大洋州局 - 地域政策課(政令第38条)、北東アジア課、中国・モンゴル第一課、中国・モンゴル第二課、大洋州課、南部アジア部
- 南部アジア部 - 南東アジア第一課(政令第38条第2項)、南東アジア第二課、南西アジア課
- 北米局 - 北米第一課(政令第46条)、北米第二課、日米安全保障条約課
- 中南米局 - 中米カリブ課(政令第50条)、南米課
- 欧州局 - 政策課(政令第53条)、西欧課、中・東欧課、ロシア課
- 中東アフリカ局 - 中東第一課(政令第58条)、中東第二課、アフリカ部
- アフリカ部 ‐ アフリカ第一課、アフリカ第二課
- 経済局 - 政策課(政令第63条)、国際経済課、国際貿易課、経済連携課、経済安全保障課
- 国際協力局 - 政策課(政令第69条)、開発協力総括課、地球規模課題総括課、地球環境課、気候変動課、緊急・人道支援課、国別開発協力第一課、国別開発協力第二課、国別開発協力第三課
- 国際法局 - 国際法課(政令第79条)、条約課、経済条約課、社会条約官
- 領事局 - 政策課(政令第84条)、海外邦人安全課、旅券課、外国人課
審議会等
- 独立行政法人評価委員会(独立行政法人通則法)
- 外務人事審議会(政令第90条)
- 海外交流審議会(政令第90条)
施設等機関
- 外務省研修所(政令第93条)
特別の機関
特別の機関として在外公館をおく(法律第6条)。在外公館は大使館、公使館、総領事館、領事館、政府代表部および日本政府在外事務所の5種類がある(法律第6条第2項・第3項)。実在する在外公館の名称および位置は「在外公館の名称及び位置並びに在外公館に勤務する外務公務員の給与に関する法律」に規定されている。一覧は日本国在外公館の一覧を参照。
職員
一般職の在職者数は2011年1月15日現在、外務省全体で5648人(うち、女性1408人)である[12]。行政機関職員定員令に定められた外務省の定員は特別職148人を含めて5757人である[13]。
外務省の一般職職員の給与に関する法制は、基本的に国家公務員法と一般職給与法から成るが、在外公館に勤務する職員(以下、在外職員)には、特別法として在外公館の名称及び位置並びに在外公館に勤務する外務公務員の給与に関する法律(外務公務員給与法)も適用される。
外務省の一般職職員は非現業の国家公務員なので、労働基本権のうち争議権と団体協約締結権は国家公務員法により認められていない。団結権は保障されており、職員は労働組合として国公法の規定する「職員団体」を結成し、若しくは結成せず、又はこれに加入し、若しくは加入しないことができる(国公法第108条の2第3項)。2011年3月31日現在、人事院に登録された職員団体は存在しない。[14]。2001年度はおよそ3割の組織率があったが、翌年度に0%となり、現在にいたる[15]。過去にあった労組は外務省職員組合で、連合・全労連いずれにも属さない中立系の組合であった。
常勤職員の採用試験には、国家公務員採用総合職試験および一般職大卒程度試験(技術系)、一般職高卒試験のほか、独自の専門職試験として外務省専門職員採用試験が設けられている(人事院規則8―18第3条)。また、任期付職員として専門調査員、在外公館派遣員(財団法人国際交流サービス協会が派遣するもの)、現地採用職員などがある。
かつては、旧国家公務員採用Ⅰ種試験に相当した外務省独自のキャリア採用試験である外務公務員採用Ⅰ種試験(通称「外交官試験」)があったが、2001年(平成12年)度試験を最後に廃止された。以降は2011年度の採用試験体系の見直しまで、国家公務員採用Ⅰ種試験の合格者からキャリア職員を採用した。
省内の派閥関係としては、テンプレート:要出典範囲、創価学会員や創価大出身者による派閥「大凰会(凰会)」 [16]などが知られている。
外務省出身の著名人
政治家は除く。例外として民間登用大臣など。
- 珍田捨巳 - 外務次官、侍従長、伯爵。日本の関税自主権獲得に尽力。
- 本多熊太郎 - 太平洋戦争時の中国大使、東條内閣の外交顧問。戦後A級戦犯となり病没。
- 諸井六郎 - 小村寿太郎の下、日英通商航海条約(陸奥条約)改正による関税自主権の完全回復の原案作成。
- 来栖三郎 - ナチス時代の駐独大使として日独伊三国軍事同盟を締結。その後駐米大使として太平洋戦争直前の日米交渉にあたる。
- 天羽英二 - 外務次官、内閣情報局総裁。日本単独での東アジア支配を主張した「天羽声明」が列強の反発を受ける。戦後A級戦犯となり公職追放。
- 沢田廉三 - 国連大使。日本の国連加盟に尽力。
- 蜂谷輝夫 - 自由インド仮政府初代公使、第2次吉田内閣内閣総理大臣秘書官。
- 阪本瑞男 - 中立国スイスの公使として第二次世界大戦終戦の工作にあたったがドイツ大使の大島浩の妨害を受け失敗。そのままスイスで病没。
- 井口貞夫 - 外務事務次官、駐米大使。真珠湾攻撃での宣戦布告遅延問題発生時に在米大使館参事官を務めた。
- 杉原千畝 - 在ルーマニア公使館三等書記官。外務省の命令に反し領事として大量のビザを発給しナチスにより迫害から逃れたユダヤ人の亡命を助けた。
- 加瀬俊一 - 日本の国連加盟に尽力し、加盟後の初代国連大使を務めた。退官後内閣総理大臣顧問を務め、佐藤栄作のノーベル平和賞受賞を実現。
- 奥村勝蔵 - 外務事務次官、駐スイス大使。真珠湾攻撃での宣戦布告遅延問題発生時に一等書記官を務めた。戦後マッカーサーと昭和天皇の通訳など。
- 下田武三 - 外務事務次官、駐米大使、最高裁判所判事。外交官初の日本野球機構コミッショナーとしてプロ野球の近代化に尽力。
- 牛場信彦 - 外務事務次官、駐米大使。対外経済担当大臣。
- 岡崎久彦 - 情報調査局長、駐タイ大使。退官後評論家。
- 波多野敬雄 - 国連大使。日本の国際連合安全保障理事会入りを目指す方針を作った。
- 三宅和助 - 中近東アフリカ局長、駐シンガポール大使。退官後詐欺被害に遭い自宅等を失う。
- 小和田恆 - 外務事務次官、国連大使。子に経済局国際機関第二課員だった皇太子徳仁親王妃雅子。
- 松浦晃一郎 - アジア人初のユネスコ事務局長。
- 加藤良三 - 外務審議官、駐米大使。退官後日本野球機構コミッショナー。
- 野上義二 - 外務事務次官、駐英大使。次官時に田中真紀子外務大臣と対立し、大臣、次官双方が退任した。
- 竹内行夫 - 外務事務次官、最高裁判事。
- 岡本行夫 - 北米第一課長を最後に退官後外交評論家として活動し、内閣総理大臣補佐官などを歴任し普天間基地移設問題などにあたった。
- 田中均 - 外務審議官。日朝首脳会談をめぐる水面下の交渉にあたった。
- 天木直人 - 駐レバノン大使。退官後、外務省批判の本がベストセラーとなった。
- 佐藤優 - 主任分析官。鈴木宗男事件で逮捕後、評論家となる。
脚注
関連項目
外部リンク
- 外務省ホームページ
- テンプレート:YouTube channel
- テンプレート:Facebook
- テンプレート:Twitter
- 外務省所管独立行政法人・省庁共通公開情報
- 外務省所管特例民法法人一覧・省庁共通公開情報
- 国立国会図書館 憲政資料室 外務省文書(Archives in the Japanese Ministry of Foreign Affairs, 1868-1945)
- ↑ 「独立行政法人一覧(平成24年4月1日現在)」 総務省。
- ↑ 単位:100万円。2012年度(平成24年度)当初予算 - 一般会計(内閣 「平成24年度予算書関連」 財務省)。
- ↑ 外交専門誌「外交」 外務省
- ↑ 「外交のページ」 都市出版、2012年8月7日閲覧。
- ↑ 村田良平 『村田良平回想録 下巻』 ミネルヴァ書房、2008年、204頁
- ↑ 「http://www.mlit.go.jp/gobuild/kasumi_map_04_tyousya_gaimu.htm 官庁営繕 : 外務省庁舎」 国土交通省、2012年8月7日閲覧。
- ↑ 「議員の依頼資料を極秘報告 国立図書館出向の外務官僚」 共同通信、2011年2月19日。
- ↑ 国会図書館スパイ問題 真相の徹底糾明を 市田書記局長 証人喚問を要求 しんぶん赤旗 2011年2月22日
- ↑ 国会図書館への出向者 20年余で7人送る 外務省 幹部職員切れ目なく しんぶん赤旗 2011年2月22日
- ↑ 第154回国会 予算委員会 第22号 2002年(平成14年)3月11日
- ↑ 読売新聞2012年1月19日13S版4面、外相の定例記者会見に英語同時通訳
- ↑ 人事院 「参考資料;6 - 一般職国家公務員府省別在職者数」『公務員白書 - 平成24年版』 日経印刷、2011年6月、p.244。2011年1月15日現在。
- ↑ 「行政機関職員定員令(昭和44年5月16日政令第121号)」(最終改正:平成24年4月6日政令第120号)
- ↑ 人事院 「第1編第3部第6章:職員団体 - 資料6-2;職員団体の登録状況」『公務員白書 - 平成24年版』 日経印刷、2011年6月、p.185。2012年3月31日現在。
- ↑ 原田久 「公務員労働組合の機能」『最新 : 公務員制度改革』 学陽書房、2012年1月。
- ↑ 外務省出身の元公明党議員の遠藤乙彦が信仰を共通にする人たちのいわば懇親の場として作ったことを認めている。 第129回国会 予算委員会 第2号 平成6年(1994年)2月21日