A級戦犯
A級戦犯(エーきゅうせんぱん)は、 ポツダム宣言六條[1]に基づき、極東国際軍事裁判所条例第五条(イ)項[2]により定義された戦争犯罪に関し、極東国際軍事裁判(東京裁判)により有罪判決を受けた者である[3]。日本が主権を回復した1952年4月28日のサンフランシスコ平和条約発効直後の5月1日、木村篤太郎法務総裁から戦犯の国内法上の解釈についての変更が通達され、戦犯拘禁中の死者はすべて「公務死」として、戦犯逮捕者は「抑留又は逮捕された者」として取り扱われる事となり、戦犯とされた人々のために数度にわたる国会決議もなされた。
目次
逮捕までの経緯
1945年(昭和20年)7月26日、ポツダム会談での合意に基づいて連合国を構成する国のうちイギリス、アメリカ、中華民国の3国により、大日本帝国に対して13か条から成る降伏勧告「ポツダム宣言」が発せられた。第10項の中に「我らの俘虜(捕虜)を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重な処罰が加えられるであろう」とある。
同年8月8日には、イギリス、アメリカ、フランス、ソビエト連邦の4国が「欧州枢軸諸国の重要戦争犯罪人の訴追及び処罰に関する協定」(ロンドン協定・戦犯協定)を締結。ここで「平和に対する罪」という新しい戦争犯罪の概念が登場[4]。
同年8月10日に日本がポツダム宣言を受諾。15日に終戦となった。
同年8月29日、日本の占領を行う連合国の中でも中心的な役割を持つことになるアメリカ政府は、連合国軍最高司令官となるダグラス・マッカーサー(アメリカ陸軍元元帥)に暫定的な「日本降伏後初期の対日政策」を無線で指令。その指令書の一項に「連合国の捕虜その他の国民を虐待したことにより告発された者を含めて、戦争犯罪人として最高司令官または適当な連合国機関によって告発されたものは逮捕され、裁判され、もし有罪の判決があったときは処罰される」とあった。
翌30日、マッカーサーは厚木飛行場に降り立ち、その夜、マッカーサーはCIC(対敵諜報部)部長エリオット・ソープ准将に、東條英機陸軍大将の逮捕と戦争犯罪人容疑者のリスト作成を命じた。アメリカ政府は占領政策を円滑に進めるために天皇の存在は欠かせないと判断していたため、昭和天皇の訴追はなされなかった。
同年9月2日、東京湾に碇泊したアメリカ海軍の戦艦ミズーリで、イギリスやアメリカ、中華民国、フランス、オランダ、ソビエト連邦などの連合国と日本の降伏文書調印式が行われた。同月9日、ソープは東條内閣の閣僚を中心に「戦犯容疑者」のリストをマッカーサーに提出。直ちに国務省に報告し、翌10日、国務省から了解の返電を受けた。
逮捕
連合国軍最高司令官から終戦連絡中央事務局を通じて日本政府に通達され、本人には連合国軍の中でも最初に東京に駐留を開始したアメリカ軍の第8憲兵司令部への出頭命令という形で伝達され、100名をゆうに超える逮捕者を出した。なお、出頭命令を受ける前に杉山元は9月12日に自殺している(第二次戦犯指名リストには掲載されていた)。下記のA級戦犯容疑での逮捕者は計126名(5名は逮捕・出頭前に自殺)。
また、アメリカの植民地であるフィリピンでの行為は、アメリカ軍が管理するマニラ軍事法廷で裁かれたため、フィリピンで捕虜にならず帰国していた者は日本で逮捕後、マニラへ送還された。ドイツ大使館付警察武官のヨーゼフ・マイジンガーは、前任地のポーランドでの行為が罪に問われたため、逮捕後ワルシャワに送還された。
第一次戦犯指名
- 1945年9月11日に逮捕命令(計40名[5])。逮捕されたのは主に東條内閣閣僚だが、本来はA級戦犯とは関係のない、フィリピン方面の軍関係者や人体実験関係者、捕虜収容所関係者などのBC級戦犯もリストに混ぜられて、逮捕された。
- 1945年10月22日に逮捕命令(1名)。
外国人戦犯
- 1945年9月11日に逮捕命令(15名)[17]。
- テイモン(日本占領中の駐日ビルマ国大使)、アウンサン(ビルマ大使館付陸軍武官、ビルマ独立軍組織者)
- ホセ・ラウレル(日本占領下で独立したフィリピン大統領)、ベニグノ・アキノ・シニア(フィリピン国民会議議長)、ホルヘ・バルガス(駐日フィリピン大使)
- ワカタン・ウィチット(駐日タイ大使)
- マーヘンドラ・プラタップ(インド独立運動家、アリアン義勇軍指導者)
- ハインリヒ・スターマー(駐日ドイツ国大使)、アルフレート・クレッチマー(ドイツ大使館付武官・陸軍中将)、ヨーゼフ・マイジンガー(ドイツ大使館付警察武官、逮捕後ポーランドに移送)
- ジョシアス・パンディユンスト(ラジオ東京・オランダ語放送員)、リリー・アベック(ラジオ東京・ドイツ人放送員)、チャールズ・カスンズ(ラジオ東京・オーストラリア人放送員・オーストラリア軍少佐時に日本軍の捕虜となる)、ストリーター(東京ラジオ放送原稿係・アメリカ人)
- ジョン・ポーランド(上海ラジオ・オーストラリア人放送員)
第二次戦犯指名
- 1945年11月19日に逮捕命令(11名)。主要な大臣や軍上層部など。
第三次戦犯指名
- 1945年12月2日に逮捕命令(59名)。軍の高官だけでなく、政財界に広く逮捕者。
- 畑俊六、平沼騏一郎、広田弘毅、星野直樹、大川周明、佐藤賢了
- 鮎川義介、天羽英二、安藤紀三郎、青木一男、テンプレート:Wrap有馬頼寧、テンプレート:Wrap藤原銀次郎、テンプレート:Wrap古野伊之助、テンプレート:Wrap郷古潔、テンプレート:Wrap後藤文夫、テンプレート:Wrap秦彦三郎、テンプレート:Wrap本多熊太郎、テンプレート:Wrap井田磐楠、テンプレート:Wrap池田成彬、テンプレート:Wrap池崎忠孝(赤木桁平)、テンプレート:Wrap石田乙五郎、テンプレート:Wrap石原広一郎、テンプレート:Wrap上砂勝七、テンプレート:Wrap河辺正三、テンプレート:Wrap菊池武夫、テンプレート:Wrap木下栄市、テンプレート:Wrap小林順一郎、テンプレート:Wrap小林躋造、テンプレート:Wrap児玉誉士夫、テンプレート:Wrap松阪広政、テンプレート:Wrap水野錬太郎、テンプレート:Wrap牟田口廉也、テンプレート:Wrap長友次男、テンプレート:Wrap中島知久平、テンプレート:Wrap中村明人、梨本宮守正王、テンプレート:Wrap西尾寿造、テンプレート:Wrap納見敏郎(12月13日に自決)、テンプレート:Wrap岡部長景、テンプレート:Wrap大倉邦彦、テンプレート:Wrap大野広一、テンプレート:Wrap太田耕造、テンプレート:Wrap太田正孝、テンプレート:Wrap桜井兵五郎、テンプレート:Wrap笹川良一、テンプレート:Wrap下村宏、テンプレート:Wrap進藤一馬、テンプレート:Wrap塩野季彦、テンプレート:Wrap四王天延孝、テンプレート:Wrap正力松太郎、テンプレート:Wrap多田駿、テンプレート:Wrap高橋三吉、テンプレート:Wrap高地茂都、テンプレート:Wrap谷正之、テンプレート:Wrap徳富猪一郎(徳富蘇峰)、テンプレート:Wrap豊田副武、テンプレート:Wrap津田信吾、テンプレート:Wrap後宮淳、テンプレート:Wrap横山雄偉
第四次戦犯指名
- 1945年12月6日に逮捕命令(9名)。国際検察局(IPS)が追加逮捕。
- 1946年3月16日に逮捕命令(1名)
- 1946年4月7日に逮捕命令(1名)
- 1946年4月29日に逮捕命令(2名)
- 1946年11月5日に逮捕命令(1名)
その他
板垣征四郎、木村兵太郎、武藤章は外地で逮捕。橋本欣五郎は国内で単独で逮捕。(都合4名)
定義と問題点
A級戦犯はロンドン協定により開設された極東国際軍事裁判所条例の第五条(イ)項の定義により決定された。
極東国際軍事裁判所条例第5条 人並ニ犯罪ニ関スル管轄 本裁判所ハ、平和ニ対スル罪ヲ包含セル犯罪ニ付個人トシテ又ハ団体員トシテ訴追セラレタル極東戦争犯罪人ヲ審理シ処罰スルノ権限ヲ有ス。
- (イ)平和ニ対スル罪
- 即チ、宣戦ヲ布告セル又ハ布告セザル侵略戦争、若ハ国際法、条約、協定又ハ誓約ニ違反セル戦争ノ計画、準備、開始、又ハ遂行、若ハ右諸行為ノ何レカヲ達成スル為メノ共通ノ計画又ハ共同謀議ヘノ参加。
- (ロ)通例ノ戦争犯罪
- 即チ、戦争ノ法規又ハ慣例ノ違反。
- (ハ)人道ニ対スル罪
- 即チ、戦前又ハ戦時中為サレタル殺人、殲滅、奴隷的虐使、追放、其ノ他ノ非人道的行為、若ハ犯行地ノ国内法違反タルト否トヲ問ハズ、本裁判所ノ管轄ニ属スル犯罪ノ遂行トシテ又ハ之ニ関連シテ為サレタル政治的又ハ人種的理由ニ基ク迫害行為。
上記犯罪ノ何レカヲ犯サントスル共通ノ計画又ハ共同謀議ノ立案又ハ実行ニ参加セル指導者、組織者、教唆者及ビ共犯者ハ、斯カル計画ノ遂行上為サレタル一切ノ行為ニ付、其ノ何人ニ依リテ為サレタルトヲ問ハズ、責任ヲ有ス。
これに基づいて極東国際軍事裁判によって有罪判決を受け、戦争犯罪人とされた人々を指すことが一般的である[18]。
代表検事アラン・ジェームス・マンスフィールドは昭和天皇の訴追を強硬に主張。しかし首席検察官ジョセフ・B・キーナンが局長を務める国際検察局は天皇の訴追には断固反対し、免責が決定された。東京裁判の途中まで中華民国は天皇の訴追を強く要求していたが、中国国内で中国共産党軍の勢力が拡大するにつれて、アメリカの支持を取り付けるためその要求を取り下げた。
平和に対する罪・人道に対する罪の適用は事後法であり、法の不遡及原則に反していることから、ラダ・ビノード・パール判事はこの条例の定義を適用せず、被告人全員の無罪を主張した。
ウィリアム・ウェブ裁判長は被告全員を死刑にすることに反対した。その理由として最大の責任者である天皇が訴追されなかったため量刑が著しく不当であるというものである。デルフィン・ジャラニラ判事は刑の宣告は寛大に過ぎ、これでは犯罪防止にも見せしめにもならないと強く非難し、被告人全員の死刑を主張した。BC級戦犯は約1,000名が死刑判決を受けている。
石井四郎(関東軍防疫給水部731部隊隊長)は、関係資料をアメリカに引き渡すという交換条件により免責されている。
サンフランシスコ平和条約で、日本は東京裁判などの軍事裁判の結果を受け入れることが規定されており、法的には日本は国家として判決を受け入れているが、国内においてはそれを不服として異論を持つ者もいる。
靖国神社のA級戦犯合祀問題の是非やそれに対し首相ら閣僚が参拝することに関しては非難する意見と個人の思想信条の自由という意見がある。1985年に内閣総理大臣・中曽根康弘(元海軍主計中尉)が靖国神社を公式と称して参拝(法律が定める首相の職務ではなく政府の行事でもないので法的・政治的には公式参拝ではない)した後、「靖国神社の国家護持」を唱える千鳥ケ淵戦没者墓苑奉仕会会長の瀬島龍三(元関東軍参謀陸軍中佐)と合祀取り下げ論を話し始めた。
極東国際軍事裁判に起訴された被告人
- 関東軍関係
- 板垣征四郎 - 南次郎 - 梅津美治郎
- 特務機関
- 土肥原賢二
- 陸軍中央
- 荒木貞夫 - 松井石根 - 畑俊六 - 木村兵太郎 - 武藤章 - 佐藤賢了 - 橋本欣五郎
- 海軍中央
- 永野修身 - 嶋田繁太郎 - 岡敬純
- 総理大臣
- 広田弘毅(外交官) - 平沼騏一郎(司法官僚) - 東條英機(陸軍) - 小磯国昭(陸軍)
- 大蔵大臣
- 賀屋興宣
- 内大臣
- 木戸幸一
- 外務大臣
- 松岡洋右 - 重光葵 - 東郷茂徳
- 外交官
- 大島浩(駐ドイツ大使) - 白鳥敏夫(駐イタリア大使)
- 企画院総裁
- 鈴木貞一 - 星野直樹
- 民間人
- 大川周明(思想家)
上記の28名が1946年(昭和21年)4月29日(昭和天皇の誕生日)に起訴された。このうち、大川周明は梅毒による精神障害が認められて訴追免除となり、永野修身と松岡洋右は判決前に病死したため、1948年11月12日に被告として判決をうけた者は25名となっている。死刑は1948年(昭和23年)12月23日に執行された。
12月23日に死刑が執行されたことについては、水島総・渡部昇一ら自由主義史観の思想派が、「皇太子明仁親王の誕生日に合わせた事で、後の今上天皇の天皇誕生日と同じ日にA級戦犯が処刑されたという記憶を未来永劫国民に残し、天皇や皇族に対する国民感情を悪化させるGHQの巧みな意図(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)があった」と主張しているが、その事を意図したアメリカ側の公式文書は発見されておらず、推測の域を出ない。
各被告の日米弁護人・補佐弁護人
被告 | 日本人弁護人 | アメリカ人弁護人 | 補佐弁護人 |
---|---|---|---|
荒木貞夫 | 菅原裕 | ローレンス・マクマナス | 蓮岡高明、徳岡二郎 |
土肥原賢二 | 塚崎直義→太田金次郎 | フランクリン・ウォーレン | 加藤隆久、木村重治 |
橋本欣五郎 | 林逸郎 | E・R・ハリス | 金瀬薫二、岩間幸平、菅井俊子 |
畑俊六 | 神崎正義 | A・G・ラザラス中尉 | 国分友治、今成泰太郎 |
平沼騏一郎 | 宇佐美六郎 | サムエル・J・クライマン大尉 | 澤邦夫、毛利与一 |
広田弘毅 | 花井忠 | デイビッド・F・スミス→ジョージ山岡 | 安東義良、守島伍郎 |
星野直樹 | 藤井五一郎 | ジョージ・C・ウィリアムス | 右田政夫、松田令輔 |
板垣征四郎 | 山田半蔵 | フロイド・J・マタイス | 佐々川知治、阪埜淳吉 |
賀屋興宣 | 高野弦雄 | マイケル・レヴィン | 田中康道、藤原謙治、山際正道 |
木戸幸一 | 穂積重威 | ウィリアム・ローガン | 木戸孝彦 |
木村兵太郎 | 塩原時三郎 | ジョセフ・C・ハワード | 是恒達見、安部明 |
小磯国昭 | 三文字正平 | アルフレッド・W・ブルックス | 高木一也、三町恒久、小林恭一、松坂時彦 |
松井石根 | 鵜沢総明→伊藤清 | フロイド・J・マタイス | 上代琢禅、大室亮一 |
松岡洋右 | 小林俊三 | フランクリン・ウォーレン | (不明) |
南次郎 | 竹内金太郎→岡本敏男 | ウィリアム・J・マコーマック→アルフレッド・W・ブルックス | 松沢龍雄、近藤儀一 |
武藤章 | 岡本尚一 | ロージャー・F・コール | 佐伯千仭、原清治、松崎蘶 |
永野修身 | 奥山八郎 | ジョン・G・ブラナン | 安田重雄 |
岡敬純 | 宗宮信次 | フランクリン・ウォーレン | 小野清一郎、稲川龍雄 |
大川周明 | 大原信一 | アルフレッド・W・ブルックス | 金内良輔、福岡文子 |
佐藤賢了 | 清瀬一郎→草野豹一郎 | ジェームズ・N・フリーマン | 藪馬伊三郎、藤沢親雄 |
重光葵 | 高柳賢三 | ジョージ・A・ファーネス大尉 | 金谷静雄、三浦和一 |
嶋田繁太郎 | 高橋義次 | エドワード・P・マクダモット | 瀧川政次郎、祝島男、鈴木勇 |
大島浩 | 塚崎直義→島内龍起 | オウエン・カニンガム | 内田藤雄、牛場信彦 |
白鳥敏夫 | 鵜沢総明→成富信夫 | チャールズ・B・コードル | 佐久間信、広田洋二 |
鈴木貞一 | 長谷川元吉→高柳賢三 | マイケル・レヴィン | 戒能通孝、加藤一平 |
東郷茂徳 | 穂積重威→西春彦 | チャールズ・T・ヤング→ジョージ山岡 | 加藤伝次郎、新納克己 |
東條英機 | 清瀬一郎、塩原時三郎 | ビーバレー・M・コールマン大佐→ジョージ・F・ブルーエット | 松下正寿 |
梅津美治郎 | 三宅正一郎→宮田光雄 | ベン・ブルース・ブレイクニー少佐 | 小野喜作、池田純久、梅津美一 |
判決
絞首刑(死刑)
- 板垣征四郎 - 軍人、陸相(第1次近衛内閣・平沼内閣)、満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長。(中国侵略・米国に対する平和の罪)
- 木村兵太郎 - 軍人、ビルマ方面軍司令官、陸軍次官(東條内閣)(英国に対する戦争開始の罪)
- 土肥原賢二 - 軍人、奉天特務機関長、第12方面軍司令官(中国侵略の罪)
- 東條英機 - 軍人、第40代内閣総理大臣(ハワイの軍港・真珠湾を不法攻撃、米国軍隊と一般人を殺害した罪)
- 武藤章 - 軍人、第14方面軍参謀長(フィリピン)(一部捕虜虐待の罪)
- 松井石根 - 軍人、中支那方面軍司令官(南京攻略時)(B級戦犯、捕虜及び一般人に対する国際法違反(南京事件))
- 広田弘毅 - 文民、第32代内閣総理大臣(近衛内閣外相として南京事件での残虐行為を止めなかった不作為の責任)
なお、ウェッブ裁判長は死刑制度が廃止されていたオーストラリア出身で、23年にもわたる裁判官生活で死刑を言い渡すのはこれが初めてだったために、「極東国際軍事裁判所は、被告を絞首刑に処する」の部分の口調はある意味の興奮があったという[19]。
終身刑
有期禁錮
- 重光葵 (7年)
判決前に病死
訴追免除
処刑後について
処刑された7人の遺体は横浜市西区の久保山斎場で火葬され、遺骨は米軍により東京湾に捨てられた。しかし、12月25日に小磯国昭の弁護人だった三文字正平が共同骨捨て場から遺灰(7人分が混ざった)を密かに回収し、近くの興禅寺に預けた。1949年5月に伊豆山中の興亜観音[1]に密かに葬られた。
その後、1960年(昭和35年)8月16日に愛知県幡豆郡幡豆町三ヶ根山の山頂付近に移された。三ヶ根山には「殉国七士廟」が設けられ、その中の殉国七士の墓に遺骨が分骨されて安置されて今に至る。
昭和殉難者
1978年(昭和53年)、靖国神社が死刑及び獄中死(平沼騏一郎は、病気仮釈放後の死去)の14名を「昭和時代の殉難者」として合祀した。靖国に戦死者以外が合祀されることは例外的であった。また、広田弘毅など非軍人を合祀したことでも例外的な措置であった。死亡の理由は「法務死」となっている。
裁判を免れたA級戦犯被指定者
不起訴により釈放
彼らの中には岸信介や正力松太郎のように第二次世界大戦後の日本社会の有力者になったり、それぞれの分野で相応に一定の社会的地位を築いたりした者もいたが、その活動には常にアメリカからの監視や東京裁判の影があったのではないかとの疑いがあったが、アメリカ合衆国政府が機密指定を解除して公開たCIAの文書を調査したティム・ワイナーの著書「CIA秘録」、有馬哲夫の著書「原発・正力・CIA」、「日本テレビとCIA」、「CIAと戦後日本」、吉田則昭 の著書「緒方竹虎とCIA」において 岸信介や正力松太郎や緒方竹虎はアメリカ合衆国政府の協力者として位置づけられていたことが確認された。岸や笹川のように、不起訴でありながら「A級戦犯」というレッテルを貼られ続けた者もおり、安保騒動の背景にも岸に対する「戦犯でありながら」という左派の反感があった(起訴されて有罪になった重光や賀屋には同様の現象はみられなかった)。
不起訴により別の軍事法廷に送致
シベリア抑留中で不起訴
病気により釈放(不起訴)
不起訴により自宅拘禁解除
自殺
A級戦犯容疑に該当しなかった被指定者
- A級戦犯として逮捕されたBC級戦犯(11名)
ただしこのうち3名は死刑で、1名は死刑判決だったものの執行停止。2名が終身刑(のち減刑)。5名が有期重労働刑。
- 外国人戦犯(15名)
「名誉の回復」
日本の主権回復後の戦争犯罪人の取扱いについては、1952年4月28日発効の日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の第11条に規定されている。
- 第11条(戦争犯罪)
- 日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の判決を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した1又は2以上の政府の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。
1950年代には、これに基づき国内外で収監されている戦犯の赦免(罪をゆるすこと)や減刑に関する、以下の国会決議が採決されている。
- 1952年6月9日参議院本会議にて「戦犯在所者の釈放等に関する決議」
- 1952年12月9日衆議院本会議にて「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」
- 1953年8月3日衆議院本会議にて「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」
- 1955年7月19日衆議院本会議にて「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」
ただし、A級戦犯については、赦免された者はおらず、減刑された者がいるのみである(終身禁錮の判決を受けた10名)。[21]
いっぽう、戦犯の国内での扱いに関しては、それまで極東国際軍事裁判などで戦犯とされた者は国内法上の受刑者と同等に扱われており、遺族年金や恩給の対象とされていなかったが、1952年(昭和27年)5月1日、木村篤太郎法務総裁から戦犯の国内法上の解釈についての変更が通達され、戦犯拘禁中の死者はすべて「公務死」として、戦犯逮捕者は「抑留又は逮捕された者」として取り扱われる変化が生じている。
また、1952年(昭和27年)4月施行された「戦傷病者戦没者遺族等援護法」についても一部改正され、戦犯としての拘留逮捕者について「被拘禁者」として扱い、当該拘禁中に死亡した場合はその遺族に扶助料を支給する事になった。
これらは前年の1952年に、国内外で戦犯として収監されている者を即時に釈放すべしという国民運動が発生し、4千万人の日本国民の署名が集まった事に起因する[22]。そして「恩給改正法」では受刑者本人の恩給支給期間に拘禁期間を通算すると規定され、サンフランシスコ講和条約第11条の手続きにもとづき関係11か国の同意を得たうえで、減刑された者については、テンプレート:要出典範囲
その後、A級戦犯の「名誉の回復」については、しばしば議論になるが、減刑により釈放された者に叙勲受章者・叙勲打診がおり、日本では有罪が確定した者には叙勲資格がなくなる点から政府は上記の5人が犯罪歴があると認識していないという解釈がある。
これにより「日本政府は公式に戦犯の名誉回復がされたとは表明していないが、以上の事実により実質上は名誉回復されている」という意見、また、「戦犯は国際法によって裁かれたもので、国内法上の犯罪者には該当しないため、名誉回復の必要性自体が存在しない(名誉が損なわれていないので、回復する必要がない)」という意見(所謂「勝者の裁き」主張)もある。
前述の通り、日本政府はサンフランシスコ講和条約第11条で東京裁判の判決を受諾しているが、これについて「裁判自体と判決は分離して考えるべきで、日本政府が受諾したのは判決の結果(刑の執行)だけであるから、裁判全体、すなわち、法廷における事実認定や判決理由についてまで受諾した訳ではない」という意見もあり、また「赦免を以って名誉回復とするか否かは議論の別れるところだが、他方で、法治国家に於ては法の定める刑の執行が完了した時点で罪人から前科者へと立場が変わるので、刑の執行が既に済んだ者をその後も罪人扱いすること自体が法治国家にそぐわない野蛮な行為である」とする意見がある一方、「東京裁判(極東国際軍事裁判)の判決をくつがえす新たな国際法廷は開かれていない。国際社会において「A級戦犯」は今も戦争犯罪人として認識されているが、刑の執行を終了しているので、重光葵や賀屋興宣の事例が実証しているように、すでに非難や糾弾の対象ではなく、法律が定めている全ての権利を回復していると認識され、日本政府も同様の認識である。故に、戦争犯罪者であるか否かだけを問題とするのなら、彼らの名誉回復は為されていないことになる」とする意見もある。 テンプレート:See
第3次小泉内閣下において民主党の野田佳彦国会対策委員長は「『A級戦犯』と呼ばれた人たちは戦争犯罪人ではないのであって、戦争犯罪人が合祀されていることを理由に内閣総理大臣の靖国神社参拝に反対する論理はすでに破綻していると解釈できる」とし、「戦犯」の名誉回復および極東国際軍事裁判に対する政府の見解と内閣総理大臣の靖国神社参拝について質問を行った[23]。これに対して2005年10月25日に提出した答弁書において、政府は第二次大戦後極東国際軍事裁判所やその他の連合国戦争犯罪法廷が科した各級の罪により戦争犯罪人とされた(A級戦犯を含む)軍人、軍属らが死刑や禁固刑などを受けたことについて、「我が国の国内法に基づいて言い渡された刑ではない」とした一方で、戦犯の名誉回復については「名誉」及び「回復」の内容が必ずしも明らかではないとして、判断を避けた[24]。首相の靖国神社参拝に関しては公式参拝であっても、「宗教上の目的によるものでないことが外観上も明らかである場合には、日本国憲法第20条第3項(国の宗教的活動禁止)に抵触しない」との見解を示している。
その後
A級戦犯として起訴されて死刑・終身刑・有期刑などの有罪判決を受けた者、裁判が途中で終了した者、不起訴になった者の大部分は、第二次世界大戦終了前にその当時の公職を務めたことに対して勲一等旭日大綬章を叙勲され、その叙勲は取り消されてはいない。
重光葵は東条内閣と小磯内閣で外務大臣を務め、A級戦犯として有罪判決を受け禁固七年の刑を受けて、講和条約の発効と恩赦後に、衆議院議員に3回当選し、1954年に鳩山内閣の副総理・外務大臣となり、日ソ国交回復交渉や国連加盟交渉に取り組み、1956年の国際連合総会で日本の国連加盟が全加盟国の賛成で承認され、重光の受諾演説に対して加盟国代表団から拍手で迎えられ[25]、その功績に対して公職引退後(死後)に勲一等旭日桐花大綬章を授与された。
岸信介は東條内閣で商工大臣を務め、A級戦犯被疑者としてGHQに逮捕され巣鴨拘置所に収監されたが、不起訴になった。釈放後はCIAから資金提供を受けて、連合国との講和条約の発効後、衆議院議員に9回選出され、石橋内閣で外務大臣を務め、石橋内閣の後継として1957年2月25日~1960年7月19日まで内閣総理大臣を務め、国民皆保険・国民皆年金制度の制定や、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約の改定を実施し、その功績に対して勲一等旭日桐花大綬章、大勲位菊花大綬章を授与された。
正力松太郎は読売新聞社長、東条内閣で参与、小磯内閣で顧問を務め、A級戦犯被疑者としてGHQに逮捕され巣鴨拘置所に収監されるも不起訴になった。釈放後はCIAから資金提供を受けて、日本をアメリカ合衆国の国益のための有力な同盟国・友好国にするために、読売新聞や日本テレビを宣伝報道事業者にした。正力松太郎は衆議院議員に5回選出され、鳩山一郎内閣並びに岸内閣に於いて科学技術庁長官を歴任、更に国家公安委員長を務め、その功績に対して勲一等旭日大綬章と勲一等旭日桐花大綬章を授与された。
緒方竹虎は朝日新聞副社長・主筆、小磯内閣で国務大臣と情報局総裁を務め、鈴木貫太郎内閣で顧問を務め、A級戦犯被疑者としてGHQに逮捕され巣鴨拘置所に収監されるも不起訴になった。釈放後はCIAから資金提供を受け、CIAに対する情報提供を行いつつ日本版CIAの創設を構想、米国の国益に奉仕するための首相候補として支援を受けた。緒方竹虎は衆議院議員に3回選出され、吉田内閣では、副首相と官房長官と国務大臣を務め、その功績に対して勲一等旭日大綬章を授与された。
賀屋興宣は東条内閣で大蔵大臣を務め、極東国際軍事裁判でA級戦犯として終身刑を受けた。賀屋興宣は連合国との講和条約の発効と恩赦による刑の執行終了後、衆議院議員に5回選出され、池田内閣で法務大臣を務め、その功績に対して、公職から引退後に叙勲を打診されたが辞退した。
検閲と言論統制
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)はプレスコードなどを発して検閲を実行し、戦犯擁護や極東国際軍事裁判批判などとの理由を付け削除や発行禁止などを行い言論を統制したとの江藤淳らの主張がある(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)。
比喩表現
前述のとおり、A級戦犯の"A級"とは、罪の種別が「平和に対する罪」であることを表しており、犯罪のランクや罪の重さを示すものではない。 国家や社会の統治、企業や組織の運営、スポーツ、芸術などで、目的を実現できなかった、目標を達成できなかった、損害や弊害をもたらしたことの決定的な・主要な原因となる言動をしたと見なされる人が「A級戦犯」と表現されることがあるが、元々の使用のされ方とは違うものである。
A級戦犯を描いた作品
- 『大東亜戦争と国際裁判』(小森白監督、新東宝、1958年)
- 『プライド・運命の瞬間』(伊藤俊也監督、東映、1998年)
- 『南京の真実』第一部「七人の死刑囚」(水島総、チャンネル桜エンタテインメント 、2008年)
脚注
関連項目
外部リンク
- ↑ ポツダム宣言六條、「日本を世界征服へと導いた勢力の除去」 ウィキソース上「ポツダム宣言」該当部分日本語訳
- ↑ 極東国際軍事裁判所条例第五条(イ)項 極東国際軍事裁判所条例第五条
- ↑ 死亡・病気・司法取引などの理由により不起訴または裁判中止になり、有罪判決を受けなかった者も含めて「A級戦犯」と表現する新聞等もあるが、裁判という性質から考えて、容疑者と受刑者を同じに扱うのは推定無罪の原則に反する。仮に判決の決まった政治裁判であったから両者に違いはないとするならば、裁判の正当性そのものに疑問が生じ、矛盾する。
- ↑ 「人道に対する罪」については新しい概念とまでは言えず、1915年のアルメニア人虐殺に対する英仏露共同宣言にまで遡ることができるが、第二次世界大戦当時、人道に対する罪は慣習国際法として確立してはなかった。テンプレート:Cite book
- ↑ 40名という数は、下記の外国人15名と、杉山元を含むもの。
- ↑ 海軍中将。海軍航空隊の功労者。
- ↑ マニラ軍事法廷で死刑判決を受けて、1946年4月3日に銃殺刑執行。「バターン死の行進」関連。
- ↑ マニラ軍事法廷で終身刑判決。後に減刑されて1951年に釈放され翌年帰国した。
- ↑ マニラ軍事法廷で終身刑判決。銃殺刑。
- ↑ 中佐。マニラ軍事法廷で死刑判決。絞首刑。「マニラ大虐殺」関連。
- ↑ 11.0 11.1 東京捕虜収容所での「人体実験」関連。
- ↑ 東京捕虜収容所付属病院の監視官を勤めた軍曹。
- ↑ 仙台捕虜収容所勤務の軍属。
- ↑ 仙台捕虜収容所勤務の軍曹。
- ↑ 東京捕虜収容所の大尉。
- ↑ 海軍捕虜収容所通訳官。
- ↑ ラジオ放送での対日協力者も、A級戦犯とは関係がなく、利敵行為として各国の軍法や国内法での反逆罪等に当たった。駐日大使等は戦犯ではなく証人であった。故にこれらからは1人も極東裁判の被告席に据わることはなかった。
- ↑ 極東国際軍事裁判の被告人のうち、松井石根は同裁判の判決においてA級に該当する被疑事実は全て「無罪」とされており、A級戦犯ではないとする説もある。
- ↑ テンプレート:Cite book
- ↑ 20.0 20.1 20.2 20.3 20.4 20.5 獄中死
- ↑ 参議院議員吉岡吉典君提出日本の戦争犯罪についての軍事裁判に関する質問に対する答弁書 1991年10月29日
- ↑ 「“A級戦犯”はなぜ合祀されたか」『靖国論集』)
- ↑ 野田佳彦「「戦犯」に対する認識と内閣総理大臣の靖国神社参拝に関する質問主意書」(質問第二一号)、2005年10月17日
- ↑ 小泉純一郎「衆議院議員野田佳彦君提出「戦犯」に対する認識と内閣総理大臣の靖国神社参拝に関する質問に対する答弁書」(内閣衆質一六三第二一号)、2005年10月25日
- ↑ 外務省>報道・広報>演説>国際連合第十一総会における重光外務大臣の演説