ポーランド
- ポーランド共和国
- Rzeczpospolita Polska
-
ポーランドの国旗 ポーランドの国章 (国旗) (国章) - 国の標語:なし1
- 国歌:ドンブロフスキのマズルカ
- ポーランドの位置
公用語 ポーランド語 首都 ワルシャワ 最大の都市 ワルシャワ 通貨 ズウォティ(PLN) 時間帯 UTC +1(DST:+2) ISO 3166-1 PL / POL ccTLD .pl 国際電話番号 48 </dd>
- 注1: ポーランドには公式な標語は存在しないが、過去、国家のシンボルに、Bóg, Honor, Ojczyzna(神、名誉、祖国)などの標語が書かれたことがあった。
</dl> ポーランド共和国(ポーランドきょうわこく、テンプレート:Lang-pl)、通称ポーランドまたはレヒア(en:Lechia)は、中央ヨーロッパに位置する共和制国家。欧州連合(EU)そして北大西洋条約機構(NATO)の加盟国。通貨はズウォティ。首都はワルシャワ。北はバルト海に面し、北東はロシアの飛地カリーニングラード州とリトアニア、東はベラルーシとウクライナ、南はチェコとスロバキア、西はドイツと国境を接する。
10世紀に国家として認知され、14世紀から17世紀にかけ大王国を形成。18世紀、3度にわたり国土が隣国によって分割され消滅。第一次世界大戦後、1918年に独立したが、第二次世界大戦時、ナチス・ドイツとソ連に侵略され、再び国土が分割された。戦後、1952年、人民共和国として国家主権を復活、1989年、民主化により共和国となった。
冷戦時代はソ連の影響下に置かれ、共産主義政権が支配したため、政治的に東欧に含められたが、国内の民主化とソ連の崩壊を経て、中欧または中欧のうち過去に東欧であった地域の中東欧として再び分類されるようになっている。
目次
国名
正式名称はポーランド語で テンプレート:ルビ。通称 Polska。略称 RP。
日本語の表記はポーランド共和国、通称はポーランド、ポーランドの漢字表記は波蘭で波と略記される。
ポーランドの国名の「ポルスカ」[2]は野原を意味する「ポーレ[3]」 が語源と言われている。最初にポーランドを建国した部族は「レフ族」「レック族」[4]といい、また同時に「ポラン族」[5]とも称した。「レフ」「レック」[6]は古代ポラン族の伝説上の最初の族長の名前であるが、レックはポーレと同じく「野原」を原義とするともいわれる。日本語に直訳すれば「ポラン」族は「原」族となる。すなわちポルスカはこの「ポラン族の国」というのが元来の意味となる。
別名レヒア(en:Lechia)。「レフ人の国」という意味。 「共和国」に相当する「ジェチュポスポリタ」は、「公共のもの」を意味するラテン語の「レス・プブリカ」[7]の翻訳借用である。レスには「物」や「財産」という意味があり、ポーランド語ではジェチュがこれに当たる。プブリカは「公共の」という意味で、ポーランド語ではポスポリタに当たる。
歴史
ポーランド王国成立以前
ポーランドは西(ドイツ)と東南(ウクライナ)の2つの方向が平原となっている地形のため先史時代から陸上での人の往来が多く、東西の文化が出会い融合する文化的刺激の多い土地だったようである。たとえば、7500年前の「世界最古のチーズ」製造の痕跡がポーランドで発見されている[8][9]ことや、インド・ヨーロッパ語族の言語やその話し手のヨーロッパにおける発展の非常に重要な段階とみられる球状アンフォラ文化やそれを継承した縄目文土器文化、ルサチア文化(ラウジッツ文化とも)の中心地がポーランドである事実、などが挙げられる。
ポーランド人の基幹部族となったレフ族/ポラン族(Lechici/Polanie)については、古代ローマ時代の歴史家タキトゥスの本『ゲルマニア』の中で現在のポーランド南西部に住んでいたと書かれている「テンプレート:仮リンク」[10]との関連が指摘されている。彼らは「プシェヴォルスク文化」と呼ばれる、周辺のゲルマン諸部族とは異なる独特の文化を持つ集団で、ルギイ族はヴァンダル族の別名か、あるいはヴァンダル族は複合部族でルギイ族はそのひとつではないか、とされている。プシェヴォルスク文化は、当時ゴート族のものと推定されるヴィスワ川東岸付近一帯のヴィェルバルク文化を挟んではるか東方にあった原スラヴ人の「ザルビンツィ文化」と似通っていることが考古学調査で判明しているため、原スラヴ系の文化のひとつと言える。(詳しくは、プシェヴォルスク文化、ザルビンツィ文化、ヴィェルバルク文化、の記事を参照)。プシェヴォルスク文化とザルビンツィ文化は共通した文化圏で、もとは一つであり、ヴィスワ川河口付近からゴート族が入りこみ間に割って入って川を遡上しながら南下していったためこの文化圏が西方のプシェヴォルスク文化と東方のザルビンツィ文化に分裂したものと考えられる。
4世紀、プシェヴォルスク文化の担い手は、ゲルマン民族のブルグント族の隣、西のオドラ川(オーデル川)と東のヴィスワ川が大きく屈曲して作った平野の、当時は深い森や入り組んだ湿原(現在はかなり縮小したとはいえいまだ広大な湿原が残っている)だった場所に住んでいた。その地理的な理由からフン族の侵入を免れ、ゲルマン民族の大移動の後に東方からやってきて中欧に定住した「プラハ・コルチャク文化(Prague-Korchak culture)」を持つ他のスラヴ諸部族と混交して拡大していったものが中世にレフ族(Lechici)あるいはポラン族(Polanie)としてヨーロッパの歴史書に再登場したとされる。この説ではルギイはレフ、レックのラテン語における転訛となる。なお、他のスラヴ語、たとえばロシア語では今でも「ルーク」[11]と「ポーレ」[12]はどちらも「野原」を原義とする言葉である。ロシア人を含む東スラヴ人はもともとポーランド人をリャキ(Lyakhi)と呼んでいた(現在はパリャキPalyakhiと呼ぶ)。リトアニア人はポーランド人をレンカイ(Lenkai)、ハンガリー人はポーランド人をレンジェレク(Lengyelek)と呼ぶ。
6世紀までにはこの地に現在のスラヴ民族が定住し、一種の環濠集落を多数建設した。遅くとも8世紀までには現在のポーランド人の基となる北西スラヴ系諸部族が異教(非キリスト教)の諸国家を築いていた。
8世紀、それまでレフ族/ポラン族(Lech/Polanie)とゴプラン族(Goplanie)を治めていた、後に「ポピェリド朝」(Popielidzi)と呼ばれることになった族長家の最後の当主ポピェリド(Popielid)が没し、「車大工のピャスト(Piast Kołodziej)」と呼ばれた、おそらく荷車や馬車などを製造する原初的マニュファクチュアを経営していた人物(一説にはポピェリドの宮宰だったともされる)がレフ族/レック族の族長に選出され、「ピャスト朝」(Piastowie)を創始した。
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紀元前のポーランドとその周辺(Zarubinskyは正しくはZarubintsy)
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3世紀頃のポーランドとその周辺
チェルニャコヴォ文化(Chernyakhov)は原スラヴ人とサルマタイ人の混合文化 - Origins 700.png
8世紀頃のポーランドとその周辺
王国の黎明期
966年、ピャスト朝レフ族/レック族(ポラン族/ポラニェ族)の5代目の族長ミェシュコが近隣のヴィスワ諸部族(Wiślanie)、ポモージェ諸部族(Pomorzanie)、マゾフシェ諸部族(Mazowszanie)などをレフ族に統合させ、自らキリスト教に改宗してミェシュコ1世公となり、国家はポーランド公国として西欧キリスト教世界に認知された。
992年にミェシュコ1世の息子ボレスワフ1世が後を継ぐと、この新しいポーランド公は西欧キリスト教世界におけるポーランド公国の領土を画定し、中央政府の権力を強め、武力によって国家を統合した。彼が確定したポーランド公国領は現在のポーランド領とほぼ一致する。彼はオットー3世やハインリヒ2世の神聖ローマ帝国、クヌーズ1世のデンマークと積極的に外交した。1000年、オットー3世はポーランド公国の首都ポズナニ近郊のグニェズノへ自ら赴いてボレスワフ1世と会談し、そこに大司教座を置くことに合意した。ポーランド大司教座は以後現在に至るまでグニェズノにあり、グニェズノ大聖堂の扉はこの時代に製作されたものである。ボレスワフ1世は必ずしも神聖ローマ皇帝の権威を受け入れたわけではなかった。彼は神聖ローマ帝国領であった南のボヘミアへ軍を進めて1004年に自らボヘミア公となり、1018年に東へ軍を進めてキエフ・ルーシを攻略した同年、今度は西の神聖ローマ帝国領内に侵攻しバウツェン(ブジシン)の講和 (en) によりマイセン(ポーランド語でミシニャ)とラウジッツ(ポーランド語でウジツェ)を獲得、その結果中欧に広大な新領土を確保した。その間、1015年には、若い友であり、また同時に妹の息子すなわち甥でもあったデンマーク王クヌーズ1世のイングランド遠征の援助をするため、自らの軍の一部を貸し出し、北海帝国の建設を援助した。1020年にはクラクフのヴァヴェル大聖堂の着工が開始されたとされる。
1025年、ボレスワフ1世の死の直前に、ローマ教皇ヨハネス19世によってポーランド公国は王国として認知されてポーランド王国となり、国境を確定した。王国領は西ポモージェ地方を除く現在のポーランド、チェコのモラヴィア地方、スロヴァキアのほぼ全域、オーストリアの一部、ハンガリーの一部、ドイツのラウジッツ地方、ウクライナの「赤ルーシ」地方となる。ボレスワフ1世が治めた属領も含めて全てを合わせると西ポモージェ地方も含めた現在のポーランドのほぼ全域、チェコのほぼ全域、スロヴァキアのほぼ全域、オーストリアの一部、ハンガリーの一部、ウクライナ西部の赤ルーシ地方、ベラルーシ(白ルーシ)のブレスト地方、ドイツのラウジッツ地方とマイセン地方となる。
ポーランドが王国と認知されて間もなくボレスワフ1世が没したため、最初の戴冠式を受けたのは息子のミェシュコ2世である。しかし王国内の各地の諸侯は王権のこれ以上の拡大に危惧を抱いた。1034年、ミェシュコ2世は謎の死を遂げた。その後数年間は政治的な混乱の時代が続いた。
1038年、時のポーランド公カジミェシュ1世は政治が滞っていた首都ポズナニを離れ、クラクフへと事実上の遷都をした。正式な戴冠はしていなかったがポーランド王国の事実上の君主であった公は、混乱を収拾して王国を再び纏め上げた。また、公はヴァヴェル大聖堂を大改築し、クラクフとヴロツワフに司教座を置いた。その長男で1058年に公位を継いだボレスワフ2世は神聖ローマ皇帝とローマ教皇との間で起きていた叙任権闘争をうまく利用し、1076年にポーランド王位に就いた。
長い分裂時代
1138年、ボレスワフ3世は王国の領土を7つに分割してそのうち5つを后と4人の息子たちにそれぞれ相続させ、そのうちの長男ヴワディスワフ2世にはさらにクラクフ大公領を与えてクラクフ大公とし、以後はクラクフ大公に就いた者がポーランドの王権を継ぐこととした。残りのポモージェ地方はポーランド王国の直轄領とし、現地の諸侯に実質的支配を任せた。1079年に大公位についたヴワディスワフ2世は国家の統一を画策し、大公の権力強化に反対するグニェズノの大司教と対立して大公支持派と大司教支持派の間で内戦となった。戦争は長引き、王国はどんどん小さな領邦に分裂していった。
1146年、時の大公ヴワディスワフ3世はフリードリヒ・バルバロッサ(のちの神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世)からの援助を得る見返りに、当時の神聖ローマ皇帝ロタール3世に臣従し、これによってシロンスク公領の支配権を得た。「シロンスク・ピャスト朝」の始まりである。これによってシロンスク公領は当地のピャスト家が支配したままポーランド王国からは独立した状態となった。グニェズノ大司教をないがしろにした上シロンスク地方をポーランド王国から独立させたことがポーランド国内で大問題となり、ヴワディスワフ3世は大司教から破門され、神聖ローマ帝国へ亡命して後にフリードリヒ1世の居城で客死した。シロンスク公国は以後もシロンスク・ピャスト家の者が後を継いでいくことになり、そのうちの一族は17世紀まで続いた(庶子の系統は地方領主として18世紀まで続いた)。
以後もクラクフ大公の位は継続したが、その権威は地に墜ち、ポーランド王国は王位を継ぐものがいないまま、各地の領邦にどんどん分裂していった。
1226年、時のマゾフシェ公コンラートは北方のバルト海沿岸に住むプルシ(プルーセン)人の来襲に悩まされたあげく、ドイツ騎士団にプルシへの十字軍遠征を許可した。ドイツ騎士団は神聖ローマ皇帝の勅書を得て北方に向かい、以後50年の間バルト海沿岸地方で活動し、キリスト教の洗礼を受けないプルシ人は皆殺しにした。ドイツ騎士団はローマ教皇からの勅許を得たと主張してこの地に定住した。さらにドイツから入植者を呼び寄せてこの地を開拓させた。
モンゴル帝国のポーランド侵攻
1241年にはモンゴルのバトゥの軍の一部がポーランド南部に来襲し、テンプレート:仮リンクやクラクフなど南部の諸都市を襲ってシロンスクに侵攻した。時のシロンスク公でクラクフ公も兼ねていたヘンリク2世はポーランド人とドイツ人から編成された軍を率いてレグニツァでモンゴル軍を迎え撃った(レグニツァの戦い)。装備・物量で劣っていたヨーロッパの軍は果敢に戦ったが敗北し、ヘンリク2世も戦死した。
なおこの事件は元寇(1274年と1281年)に先立って1268年に中国のモンゴル人王朝である元から日本に送られた国書の中で触れられており、これは「ポーランド」の名前が遠くアジアの東端に住む日本人に知られた最初の出来事とされている。
まもなくモンゴル軍はアジアへ引き返したが、それまでにクラクフ公領とシロンスク公領の南部はモンゴル軍に略奪され、逃げ遅れた住民は殺され、これらの地方はほぼ無人となり荒廃してしまっていた。以後はモンゴル軍に襲われた地方の復興がこの地域の諸侯の最優先課題となった。モンゴル軍のいる間は疎開していたポーランド人住民もやっと戻ってきたが、それでは人手が全く足りなかった。侯たちはドイツや西欧から開拓民を呼び寄せた。この地域における本格的な東方殖民の始まりである。彼らは特にシロンスクとその周辺に定住し、多くの街を作った。これらの街では従来のポーランドの法律でなく、それまでドイツ人が故郷で慣れ親しんでいたマクデブルク法という都市法が適用された。これは当時の領主たちが西方からの植民者に与えたインセンティブであった。農村などその他の地域ではポーランド人の伝統法が使われた。以後は特にシロンスク地方を中心としたポーランド西南部にドイツ系住民が増え、原住民のポーランド人と混住していく。
ポーランド北部におけるドイツ騎士団の十字軍、そして南部におけるモンゴル襲来後のドイツ入植者の受け入れはこれらの地域の経済や文化の発展をもたらした反面、19世紀から20世紀にかけてのポーランド人とドイツ人との間の激しい民族紛争の遠因ともなった。
1295年、プシェミスウ2世が全ポーランドの君主としてポーランド国王に即位、ポーランド王国はほぼ2世紀ぶりに名目的統一を果たしたが、この王は翌年何者かに暗殺されてしまった。この後同じくピャスト家のヴワディスワフが王権を求めて運動した。彼は農民、騎士、聖職者から支持されたが、ピャスト家の人物が王になると君主の権力が強化されて自分たちの自由が失われると恐れたクラクフの貴族たちによってプシェミスル朝のボヘミア王ヴァーツラフ2世がポーランド王に推挙されてしまい、ローマ教皇ボニファティウス8世の勅許が降りてヴァツワフ2世として即位した。ヴワディスワフは王位を巡ってこの新しい国王と争うのを避け、かわりにこの雌伏の期間に農民や騎士を率いて自らの軍を作り、ポーランドのほかの地域を武力で支配下に置く活動をした。将来のポーランドの真の統一へ向けての準備であった。ヴァツワフ2世の息子で1305年にポーランド王位を継いだヴァツワフ3世(ボヘミア王ヴァーツラフ3世)が翌年の1306年に何者かによって暗殺されると、ヴワディスワフがクラクフ大公に即位し、ヴワディスワフ1世としてポーランド統一に向けてさらに軍事行動を進めた。彼は1318年までにポーランド全土を自らの支配下に置いた。強力なポーランド君主が現れることを脅威と感じていたローマ教皇ヨハネス22世はヴワディスワフ1世への戴冠を渋ったが、しかしついには折れて国王即位の勅許を出した。1320年、ヴワディスワフ1世はポーランド王位に即位した。この時点でマウォポルスカ、ヴィエルコポルスカの二州を所有していた彼は、ポーランドの再統一を夢見て、各地のピアスト家や諸外国に対しかつてのポーランド王国の領土を自分の所有すべき土地として主張するようになった。
黄金時代
14世紀には西欧のペスト大流行で、ペストを流行させた犯人だというデマで特にドイツで迫害されたユダヤ人が、ポーランド王国の宗教的・民族的寛容さから、多数、移住してきた。アラビア諸国と盛んに交易を行なっていた14世紀当時のポーランドでは既にウォッカが存在し、この蒸留酒は嗜好品としての飲料ではなく、食器や台所などを消毒したり、体臭や皮膚病の予防のため布をウォッカに浸して体を拭いたり、トイレや下水を清掃する際に用いて消臭したり、といった用途に用いられた。この独特な衛生習慣のためか、この時代のヨーロッパでポーランドはペストの流行が「全く」発生しなかったという驚くべき事実がある。これによって、他のヨーロッパ諸国と異なり、ポーランドではユダヤ人に対し「ペスト流行の陰謀」の冤罪が発生しなかった。以後、ポーランド王国は世界で最もユダヤ系住民の多い国家となった。その前の13世紀にはポーランドにおけるユダヤ人の人権と安全を保障し文化的独立性や政治的自治を大幅に与える法律である「カリシュの法令」が発布され、その評判はヨーロッパ全土のユダヤ人に伝わっていた。
14世紀当時は、ヴワディスワフ1世の子で、軍事、外交、内政に巧みな手腕を発揮したカジミェシュ3世「大王」がポーランド王国を治めており、彼の治世にポーランドは経済的な大発展をした。1339年、神聖ドイツ騎士団に対し、かつてポーランド王国の領土であったことを理由に一部の土地の返還することを求めるなど、外交的にもより積極的に出ている。ルーシ・ハリツカ(西部ウクライナ)のようにポーランド王国ではなかった土地も獲得した。また、後には反王権的性格を表す重要な意味合いを持つ「ポーランド王国の王冠」という言葉もこの頃に土地の主権を主張する時の言葉として出始めた。1355年にはマゾフシェ公ジェモヴィトが大王に対し臣従した。1364年、大王はクラクフ大学(ヤギェウォ大学)を創立し、これ以後ポーランドの学術文化が華麗に開花していく。
王朝が変わり、ルートヴィクの時代に入ると王の権威は衰えた。ルートヴィク死去後の二年間の空位や立場の弱い女王がこれを更に加速させる。1385年、ポーランド女王ヤドヴィガとリトアニア大公ヨガイラ(ポーランド語名ヤギェウォ)が聖職者とバロン、シュラフタなどの意志の元、結婚し、ポーランド王国とリトアニア大公国は人的同君連合と呼ばれる緩やかな国家連合であるポーランド=リトアニア連合を形成した(クレヴォの合同)。1399年にヤドヴィガ女王が没するとヤギェウォがポーランド王に即位し、以後ヤギェウォ朝がポーランドを統治することになった。1404年(あるいは20年)からポーランドは王から社会への権利の転換が行われたとされる。1410年、ポーランド=リトアニア連合はグルンヴァルトの戦いでドイツ騎士団を討った。
1414年から開催されたコンスタンツ公会議ではグルンヴァルトの戦いの戦後処理について話し合われた。会議では当時異教徒の国であったリトアニアとキリスト教徒の国であるポーランド王国が同盟して、キリスト教徒のドイツ騎士団と戦争をした点が大問題となり、これについてポーランドに対してドイツ騎士団側からの激しい非難があった。ドイツ騎士団は「異教徒と同盟してキリスト教徒のドイツ騎士団を討伐したポーランドの行動は罪であり、この罪によって、ポーランド人は地上から絶滅されるべきである。」と主張した。ポーランド全権でクラクフ大学校長であったパヴェウ・ヴウォトコヴィツ(ラテン語名パウルス・ウラディミリ)は画期的な主張をした。内容を簡単に要約すると、「リトアニア人のような異教徒であってもわれわれキリスト教徒と全く同じ人間である。したがって彼らは自らの政府を持つ権利(国家主権)、平和に暮らす権利(生存権)、自らの財産に対する権利(財産権)を生まれながらに保有する。よってリトアニア人がこの権利を行使し、自衛するの(自衛権)は全く正当である。」というもので、これはまさに現代思想の基本的人権および国際法の理念の世界で初めての提唱であった。ここにおいて教皇マルティヌス5世は異教徒の人権についての決定は棚上げにしたものの、ポーランドの立場を全面的に支持し、ドイツ騎士団の訴えを却下した。
1430年にリトアニア大公のヴィータウタス(ポーランド語名ヴィトルト)が没すると、ポーランド=リトアニア連合内はよりポーランド王の権威と権限を強め、事実上ポーランド王国の支配下に入り、全てのリトアニア貴族はポーランド語とポーランドの習慣を身につけてポーランド化していった。ただし宗教や宗派については、ある場所ではローマ・カトリック、ある場所ではプロテスタント、ある場所では正教会、ある場所(リプカ・タタール人の共同体)ではイスラム教、といった具合にそれぞれの地方共同体の伝統的な宗教や宗派を守っていることが多かった。ポーランドでは国教はローマ・カトリックであり国王はローマ・カトリック教徒であるべきだとされたものの、個人レベルの信教の自由は法律で保障されていたのである。ポーランド社会の信教の自由は14世紀のカリシュの法令以来、ユダヤ教徒にも完全に適用されていた。このように、この当時のポーランド社会は同時代の世界のほかのどの国にくらべても非常にユニークで、こと人権意識に関しては時代を超越した先進性を持ち、君主と臣民がそれぞれ自分と異なる思想を持つ他者に対する寛容な心(多元主義)を育て、愛国心にもとづいた自己犠牲の精神と多元主義が両立した自由主義を最大の社会的価値とした。この、高い知性にもとづいた成熟した自由主義の実現こそがポーランドの黄金時代を作る最も強力な原動力となったのである。イギリスの歴史学者ノーマン・デイヴィスはポーランドの黄金時代について、この点を強調している(後の時代にポーランドが衰退した原因のうち倫理的な側面についてディヴィスは、国家が領域的にも文化的にもあまりに巨大化したため17世紀以降それまでのポーランド社会とは全く異質の低俗で過激な思想が外部から社会に入り込んで根づいたせいでこの成熟した自由主義の精神が失われていったためで、黄金時代には有益だった任意拒否権も悪用されるようになっていったと考えている)。
1440年、以前からドイツ騎士団の傲慢な政治を嫌がっていたドイツ騎士団領内の諸都市は、ポーランド王の庇護を求めてプロイセン連合を結成した。これによりポーランド王国とプロイセン連合はドイツ騎士団との間で再び戦争となったが、ポーランドはまたもやドイツ騎士団に圧勝、1466年の第二次トルンの和約によりドイツ騎士団領をポーランド王の完全な支配下に置いた[1]。以後、ドイツ騎士団はポーランド王に忠誠を誓う封臣、ドイツ騎士団領はポーランド王国の封土となり、ドイツ騎士団はポーランド=リトアニア連合を宗主国とする属国となり、多くの政治的権限がポーランド王国に移された。ポーランドはこの第二次トルンの和約に基づき、ポーランド国会(セイム)への代議員を送ってポーランドを構成する全ての地域を扱う政治(いわゆる国政)に直接参加するようドイツ騎士団に命じたが、ポーランドの国政に参加すると騎士団領に対するポーランドの政治的権限が強まって、かえって騎士団領における自分たちの利権が縮小すると考えた騎士団は、この命令に反発して反乱を起こした。しかしこれも早々に鎮圧され、騎士団は自分たちの地区から代議員を選出してポーランド国会に送ることになった。その後ヴァルミア司教の叙任を巡って、これをポーランドのグニェズノの大司教が裁可するべきところを、これまたドイツ騎士団が反発して独自の候補を擁立して反乱を起こしたが、またもや早々に鎮圧され、とりあえず騎士団側の候補者をヴァルミア司教にする代わりに、次からはきちんとグニェズノ大司教が取り仕切ることで和解した。このときのヴァルミア司教こそが、コペルニクスの叔父で育ての親であるルーカス・ヴァッツェンローデである。のちにプロイセン連合はドイツ騎士団へ対抗する当初の目的がなくなったため、自ら解散してポーランド王国に正式に加盟した。
1543年、トルン出身でクラクフ大学卒業生のミコワイ・コペルニク(ラテン語名ニコラウス・コペルニクス)は著書『天球の回転について(De revoltionibus orbium coelestium)』を出版、地動説を提唱した。彼は父親がクラクフ公国出身のポーランド人で銅の取引業を営み、母親はドイツ人。母の実家のあるトルンで生まれ、父母を早く亡くした後は母方の叔父でヴァルミア司教のルーカス・ヴァッツェンローデ(前の段落参照)に育てられた。なお、クラクフ大学におけるコペルニクスの恩師である人気教授アルベルト・ブルゼフスキは月の軌道計算で世界的に名を挙げ、月が楕円軌道を描いていること、そして常に同じ面を地球に向けていることを指摘している。
1569年、国王ジグムント2世アウグストの幅広い尽力により、ポーランドはリトアニアを併合(ルブリン合同)してポーランド王を統一君主とする物的同君連合で制限つきながらも議会制民主主義を採る「ポーランド=リトアニア共和国」(第1共和国)となり、欧州最強最大の国家として君臨した。以後ポーランド=リトアニア国家は単に「ポーランド」とだけ呼ばれることも多くなった。この場合の「共和国」は王政でない国家を表すのではなく、数々の国家や民族が集まって構成される「連邦」あるいは「合衆国」という意味である。国家群をまとめた国家であるという形態としては「帝国」的ではある(現代においてもポーランド・リトアニア共和国は事実上の帝国であったという指摘がある[13])が、カトリックの秩序では元首が帝冠を受けないと帝国と名乗らないしきたりがあることに加えて、参政権を持つシュラフタたちの間に財産の多寡や地位の上下はあっても参政権における差別のないポーランドは「帝国」と名乗ることはなくあくまで「共和国」(「連邦」ないし「合衆国」)と名乗ったのである。
ジグムント2世アウグストは国際的にも非常に高い評価を得た聡明な君主であった。ピャスト朝最後の国王カジミェシュ3世「大王」、選挙王政に入ってからの2代目の君主であるステファン・バートリ王、17世紀の第二次ウィーン包囲においてオスマン・トルコの大軍を蹴散らしてヨーロッパを救ったヤン3世ソビエスキ王などと並んで、ジグムント2世アウグストはポーランドで最も尊敬されている君主の一人である。1572年、ヤギェウォ朝の本家筋の唯一の男子であったジグムント2世アウグストが男子を残さずに没し、ヤギェウォ家の「男系」の血筋は途絶えた。一つの王朝で最も聡明な人物がその最後の君主となり、男子を残すことなく王朝が途絶えてしまう傾向があるのはポーランドという国の大いなる悲劇ともいえる。
ジグムント2世アウグストの死後ポーランド=リトアニア連合王国は全てのシュラフタ(ポーランド貴族)が参加する選挙(国王自由選挙)によって国王を決定する「選挙王政」を採る貴族共和国になった。ポーランド貴族の人数は常に人口の1割を超えておりその全てに平等に選挙権が付与されていた。アメリカ合衆国が18世紀末に独立してからしばらくの間選挙権を持つ者が合衆国全人口の1割に満たなかったことを考慮すると、当時のポーランド=リトアニア連合王国では後のアメリカ合衆国に比べ選挙権を持つ国民の割合が大きかったことになる。
1573年、全てのシュラフタが一人一票を持つというかなり民主的な原則で行われることになったポーランドの国王自由選挙で選ばれた最初のポーランド国王はフランス王アンリ2世とイタリア人の王妃カトリーヌ・ド・メディシスの息子であるフランス人ヘンリク・ヴァレジ(アンリ、後のフランス王アンリ3世)であった。しかし国王戴冠の条件として署名を余儀なくされた「ヘンリク条項」によりポーランドで事実上の立憲君主制(シュラフタ層の大幅な権力拡大および王権の大幅な制限)が成立したため、バイセクシュアルであった自身の性癖がポーランドでは以前からずっと白い目で見られていたことや、ジグムント2世アウグストの妹ですでに年老いていたアンナを女王でなく国王とした政略結婚が求められたこともあり、ポーランドでの生活を窮屈と感じ嫌気がさしたヘンリクは1574年6月18日、突然フランスへと逐電してしまう。
ポーランドはその後1年はヘンリクの改心を待ったが、ヘンリクに戻ってくる気配がないためポーランドはヘンリクを強制的に廃位し、1575年、ヤギェウォ家の遠縁に当たるトランシルヴァニア公ステファン・バートリに白羽の矢を立て、国王アンナとの結婚および夫妻によるポーランド共同統治を受け入れた彼を国王に選出した。バートリも妻アンナの兄であるジグムント2世とならぶ非常に聡明な君主で、ジグムント2世アウグストの治世からずっと政権を担当する名宰相であった大法官(内閣総理大臣)ヤン・ザモイスキとしっかり連携を組んで国内外のさまざまな問題の解決に積極的に尽力しよく働いた。バートリもまた先に挙げたように現代のポーランドで最も尊敬されている君主の一人で、19世紀に活躍したユゼフ・ベム将軍と並んでポーランドで最も尊敬されているハンガリー系ポーランド人の一人である。
2人の名君ジグムント2世王とステファン・バートリ王の全面的な信頼を受けヘンリク・ヴァレジ王に疎まれたヤン・ザモイスキは1578年に大法官(内閣総理大臣)に就任し、1580年にはクラクフ城代を兼任、そして1581年にはポーランド・リトアニア共和国全軍の事実上の最高司令官(名目上の最高司令官はポーランド国王兼リトアニア大公)である王冠領大ヘトマン(大元帥)を兼任し、現在の立憲君主制の国家の首相に相当する強大な行政権を持ち、その優れた政治的見識と実務的能力で1605年6月3日に死去するまでポーランドを率いた。彼の穏健な自由主義(穏健主義)の政治はより多くの人の教育と政治参加を目指したもので、国政の場で多くの支持を集め、特にインテリ層や中小規模のシュラフタたちからは圧倒的支持を得ていた。彼の同調者は「ザモイスキたち(ザモイチュチ)」と呼ばれ、緩やかな政治グループを形成しており、彼を先生・師匠と思い慕っていた。また、ザモイスキは自分の領地においては農奴制を禁止し、全ての住民に基礎教育を施し、それぞれの住民の立場に応じて何らかの形で地方政治に参加させた非常に開明的な領主でもあった。人間の解放を唱えるルネッサンス思想にも同調し、イタリアから建築家を呼び寄せて当時の世界の最新デザインの都市「ザモシチ」を建設し、周辺の地方の経済や開明的文化の中心地としてこの都市を発展させた。ジグムント2世アウグスト王やステファン・バートリ王を支えたこの宰相ヤン・ザモイスキこそ、この時代のポーランドの政治・経済・軍事の全ての成功を実現した稀代の大政治家であると考えられている。「黄金の自由」に関するヤン・ザモイスキの開明的思想や政治態度はその後もザモイスキ家を始めとした多くの人々に受け継がれ、彼の時代から2世紀の後にポーランドが存亡の危機に面した際ヨーロッパ初の民主主義成文憲法(5月3日憲法)を制定した基礎となっていった。
対外戦争の時代
1592年、ポーランド=リトアニア共和国はスウェーデン王国と同君連合となった。時の国王ジグムント3世(スウェーデン国王としての名はジギスムント)はスウェーデン生まれであるが、母がヤギェウォ家のポーランド人だったこともあって若いときからポーランドに住み、ポーランドの教育を受けていた。彼は、軍隊のような高い規律意識を持つ組織行動によって全世界における対抗宗教改革の尖峰となっていたイエズス会によって教育され、歴代の王のうちで最も熱狂的なローマ・カトリックの闘士となった。戴冠した当初は当時の首都であったクラクフに居を構えていたが、1596年には将来のスカンジナヴィア諸国、バルト海沿岸地域、ルーシ諸国、といったヨーロッパ北方全域のカトリック化を念頭に置いた最前線基地としてワルシャワに遷都した。以後現在までワルシャワがポーランドの首都となる。彼は常にイエズス会の代表者的な立場にあった。彼が同時に王位に就いていたスウェーデンでは、彼の留守中に叔父で摂政を務めていたプロテスタント教徒のカールの反乱が起き、ジグムント3世は反乱鎮圧とスウェーデンのカトリック化を目指してスウェーデンに軍を進めたが鎮圧に失敗、1599年にスウェーデン王位をカールに簒奪され、ポーランド=スウェーデン同君連合は解消した。
1611年、ジグムント3世はモスクワ大公国の自由主義的な大公国貴族(ボヤーレ)たちの求めに応じて東方へと侵攻しモスクワ市を占領した(ロシア・ポーランド戦争)。当初はポーランド=リトアニア=ロシア同君連合国家の実現は成功したと見られたが、カトリック主義のジグムント3世、自由民主主義のポーランド議会、自由な社会を求めてポーランドを頼った自由主義のモスクワ大公国貴族(その前は偽ドミトリー1世を担いだ)、カトリックに敵対する保守的なロシア正教会主義者たち、のそれぞれでポーランド・ロシア連合への期待が異なっていた。ジグムント3世が占領中に「ロシア皇帝位にはカトリック教徒のポーランド国王あるいはその王太子のみが就く」という布告を出したことから正教徒であるロシア人との間で宗教的対立を生じた。これをきっかけにロシア保守主義者が一般市民を巻き込んで住民蜂起を起こしたため、モスクワ市内の占領軍は孤立し、籠城の末に玉砕した。モスクワ大公国にいた残りのポーランド軍は1612年までに撤退した。その後たび重なる戦争(ポーランド・スウェーデン戦争、大洪水時代)によりポーランド=リトアニア連合王国の政府財政は急速に悪化していった。
1683年にオスマン帝国による第二次ウィーン包囲を撃退し、全ヨーロッパの英雄となったヤン3世ソビエスキ王は以後、行き過ぎた地方分権による無政府状態化の阻止を目指し、中央政府の権力を強めるため世襲王政の実現と、王およびセイム(国会)のそれぞれの権限の明確化による立憲君主制の確立を画策するなど王国再興を目指して奔走したが、志半ばで没した。その後、王国の中央政府の権限は急速に弱まり、国庫は逼迫し、国力は衰退していった。
近代民主主義成文憲法の成立とポーランド分割
18世紀後半にはポーランド=リトアニア共和国の国土が他国に分割占領(ポーランド分割)された。1772年に第一次ポーランド分割が行われた後、スタニスワフ2世王と支持者は、ポーランド=リトアニア連合王国の衰退を止めようと国内の大改革を断行しようとした。1791年、王はヨーロッパ初の成文憲法案を提出し、議会(セイム)はこれを可決した(「5月3日憲法」)。この憲法によって王権の世襲制(ここでも選挙王政ではあるが、以前のように王となる個人を選出するのではなく、王家となる一家を選出する)とともに、世界初の立憲君主制が成立し、それまで名目的には緩やかな連邦制をとっていて行政が非効率だったポーランド=リトアニア共和国は名実ともに単一国家となった。1793年、議会によりワルシャワに国民教育委員会(Komisja Edukacji Narodowej, KEN)が設立された。これは貴族から平民まですべてのポーランド人を対象にしたものであり、人類史上初の教育省である。
立憲君主制、すなわち民主主義の王政に反対し貴族の既得権益を維持しようとする改革抵抗勢力はロシアのエカチェリーナ2世と結託した。ロシア軍はポーランドに干渉戦争を起こした(ポーランド=ロシア戦争)。ポーランド軍は王の甥ユゼフ・ポニャトフスキと元アメリカ軍将軍でアメリカ独立戦争の英雄タデウシュ・コシチュシュコ(アメリカ名タディーアス・コシューシコ)が指揮を取った。戦局は一見ロシア軍優位に見えたが、実はポニャトフスキとコシチュシコという二人の天才将軍の戦術どおりに進んでいた。しかし改革派全滅の恐れから「勝利の望みは薄いので早期講和を」との助言を受けたスタニスワフ2世は改革派が虐殺される事態を避けようと考え、ロシア側と妥協して戦争を中止してしまった。この直後の1793年、第二次ポーランド分割が行われた。1793-94年、コシチューシュコが蜂起を起こしたが鎮圧された(「コシチューシュコ蜂起」)。1795年、第三次ポーランド分割が行われ、ポーランド国家は消滅した。ポーランドの大貴族(「マグナート」と呼ばれる)の広大な領地はそのほとんどがポーランド東部に集中しており、この地域はロシア帝国に組み込まれた。マグナートの領地は、各領主がロシア皇帝に臣従を誓うことを条件に守られた。その後スタニスワフ2世はロシアの首都サンクトペテルブルクに連行され、妻と子とともに半ば軟禁されたような生活を送った。ポニャトフスキとコシチュシコはフランスへ亡命し、再起を図ることにした。
束の間の再興
フランスでユゼフ・ポニャトフスキとタデウシュ・コシチュシュコという二人の天才将軍の運命は分かれた。ポーランドの王位継承権を持つポニャトフスキはナポレオン戦争にフランス軍の将軍として参加、1807年にポーランドはワルシャワ公国として再び独立した。しかしその後ロシアに侵攻したフランス軍の戦況は悪化し、撤退するフランス軍がプロイセンのライプツィヒで敗れると、ポニャトフスキはフランス軍の殿軍の総大将として果敢に戦い、全身に5発の銃弾を受けて華々しく戦死した。一方、アメリカ独立戦争に参加してアメリカ社会を見ていたコシチュシコはナポレオンの帝国主義の政治的野心にはどうしてもなじめず、フランスを離れてスイスに移住し再起の機会を窺っていたが、ゾロトゥルン市で腸チフスに罹患して亡くなった。ナポレオンが失脚すると、1815年のウィーン会議によって、ポーランドはロシア皇帝を元首とするポーランド立憲王国(会議王国)となった。多くのポーランド人が国外、特にフランスに亡命した。アダム・ミツキェヴィチの叙事詩『パン・タデウシュ』(アンジェイ・ワイダが監督した映画『パン・タデウシュ物語』の原作)はこの時代の話である。また、日本の漫画家池田理代子の漫画『天の涯まで-ポーランド秘史』は憲法制定前からこの時代(主人公はプリンス・ユゼフ・ポニャトフスキ)までを扱っている。
独立運動の時代
十一月蜂起
ポーランド立憲王国における憲法はロシアによって無視された。フランスやベルギーの革命にポーランド軍を派遣して介入しようとしたことにポーランド全土で反対運動が起こり、1830年、ロシア帝国からの独立および旧ポーランド・リトアニア共和国の復活を目指して「十一月蜂起」が起こったが、翌年鎮圧された。
ポーランド出身の作曲家ショパンは国外にて蜂起発生の報を聞き、かの有名な「革命のエチュード」を書いた。
世界最高級とされる時計ブランド「パテック・フィリップ」の2人の創業者アントーニ・パテック(ワルシャワで育ったポーランド貴族、後にアントワーヌ・ノルベール・ド・パテックに改名)とフランティシェック・チャペック(ボヘミアからワルシャワへやってきた移民の時計職人、後にフランソワ・チャペックに改名)はこのときの戦いにそれぞれポーランド軍将校および兵士として参加している。
エミリア・プラテルはシュラフタ(士族、ポーランド貴族)の家に生まれた愛国少女で、十一月蜂起で最も活躍したポーランド女性将校の一人。幼くして父と母が離婚したが、エミリアはポーランドの歴史を夢中になって学びながら育ち、旧ポーランド・リトアニア共和国の最後の時代の天才将軍タデウシュ・コシチュシュコについての書物を読むようになって以来コシチュシュコとその生き方に強い憧れを持っていた。この十一月蜂起でエミリアはポーランド軍将校として自ら部隊を指揮して活躍した。当初はリトアニアの戦線で戦い、華々しい戦果を挙げた。エミリアは病に冒されていたが、ワルシャワがロシア軍に包囲されつつあるという情報を得ると、上官である将軍の反対を押し切り、すぐに自分の部隊を率いてロシア軍のポーランド包囲網を強襲しこれを突破することに成功、ポーランド・リトアニア共和国首都ワルシャワにおける対ロシア軍決戦のためリトアニアからワルシャワに向かおうとし、その途上で無念にもついに病に倒れ、25歳で亡くなった。しかしこの美しく強い女性将校はポーランドのほかリトアニアとベラルーシ(旧ポーランド・リトアニア共和国の構成地域)の永遠の国民的英雄となり、その後の時代を通じて自由を求めるポーランド人とリトアニア人の心の支えとなった。(ただしリトアニアやベラルーシの農民層の間では士族社会に反発する人々がかなりおり、旧ポーランド・リトアニア共和国を、士族すなわちポーランド人たちによるリトアニアとベラルーシの農民への強制的な支配体制であったと解釈する人々もかなりおり、そういったリトアニア人やベラルーシ人の民族主義者の間ではエミリアはあくまで「支配者ポーランド人にとっての英雄」であって、人気はない。士族すなわちシュラフタの家系は必ずしもポーランド出身とは限らないが、そういった非ポーランド系の家の人々もポーランドの言語や習慣を習得していくうちに徐々にポーランド人になっていった。ここにはリトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、ドイツ、チェコ、ハンガリーからやってきた家系が特に多く含まれるが、遠くはオランダやスコットランドからポーランドに移住してきた家系まで存在する。この現象を「ポーランド化」という。エミリアが憧れたタデウシュ・コシチュシュコもベラルーシ出身の家系である。エミリアはもともとはヴェストファーレンから移住して来たドイツ人貴族の家系で、19世紀までには家の文化がすっかりポーランド化してシュラフタとなっていた。前述のようにドイツ系のシュラフタの家柄の人々は歴史を通じて最も熱狂的なポーランド愛国者たちを輩出した)。エミリアは、数十年後の時代に物理学の分野で活躍したマリア・スクウォドフスカ=キュリー(キュリー夫人)と並んで、今でもポーランドの女の子たちの憧れのポーランド女性の一人である。
一月蜂起
1856年にロシア帝国がクリミア戦争に敗れて国力が弱体化すると、これを機にポーランド・リトアニア連合王国の復活を目指す人々が結集し、1863年、旧ポーランド王国領と、旧リトアニア大公国領で同時に「一月蜂起」を起こしたが、これもロシア帝国によって鎮圧された。数百人のポーランド貴族が絞首刑にされ、十数万人がシベリアのイルクーツクなどに流刑となった[14]。
ビスマルクによるポーランド人抑圧政策と幻のポーランド王国
プロイセン王国内の旧ポーランド王国領であるポーゼン州(旧ポズナン大公国)では、1871年からはビスマルクの文化闘争により、ポーランド人に対する抑圧政策が行われた。文化闘争はドイツ人も含めプロイセン王国内の全てのカトリック教徒を対象としていたが、ポーランド人は圧倒的多数がカトリック教徒であったため、特に抑圧の対象になった。カトリック教徒に対する文化闘争は1878年に頓挫したが、ビスマルクはその後もポーランド人抑圧政策を続けた。ポーランド人は抑圧に対してポーランド文化をもって徹底抵抗した。抑圧政策によってかえってポーランド人の「連帯」とカトリック信仰は確固たるものになった。ポーランド人抑圧政策はヴィルヘルム2世がビスマルクを解任した後も続けられ、ドイツ帝国が第一次世界大戦で敗北した1918年に終了した。
1916年、第一次世界大戦の最中にドイツ帝国によってその衛星国としてのポーランド王国が建国された。国王が決まるまでの間としてハンス・ハルトヴィヒ・フォン・ベセラーが総督となり、3人のポーランド人が摂政を務め、6人のポーランド人政治家が歴代首相となった。2人の娘がいずれもポーランドの名門大貴族に嫁いでおり、自らもポーランドのジヴィエツに住み流暢なポーランド語を話したオーストリア=ハンガリー帝国の皇族カール・シュテファン大公(ポーランド名:カロル・ステファン・ハプスブルク)がポーランド国王の最有力候補で、カール本人も積極的であった。しかしこの案にはオーストリア皇帝カール1世が乗り気でなく、結局最後までポーランド王国の国王となる人物はついに決まらなかった(カール・シュテファンは1918年にポーランドが独立した後もポーランドに帰化してジヴィエツに住み続け、1933年に当地で死去した。子孫はポーランド人として今もガリツィア地方に住んでいる[15]。
反ポーランド主義
1795年にロシア帝国、プロイセン王国、オーストリア帝国によって第三次ポーランド分割が行われてから1918年にポーランド共和国が復活するまで、ポーランドの人々は全くの外国人の国家に支配され、政治的に差別されていた。この間、ポーランドの人々は数々の蜂起や社会発展運動(「有機的労働運動」や「ポーランド実証主義運動」と呼ばれる一連の運動)など様々な方法で独立運動を行ってきた。また、多くのポーランド人は抑圧された祖国を離れて外国へ移民し、そこで懸命に働き勉強して社会進出を図った。この2つの要素は支配者たる外国人のポーランド人への政治的敵意(独立運動のため)と民族的嫉妬(ポーランド人たちが自分たちを追い越して社会に適応するため)を掻き立て、非常に陰湿な「反ポーランド主義の運動」を形成するに至った。
ポーランド人にとっての近代や現代は、見方を変えれば、外国人による反ポーランド主義運動と、その屈辱に耐え続けた歴史ともいえる。反ポーランド主義運動の流れは、つぎの4つに大別され、これらは互いに深く絡み合って、複雑な構造を呈している:
- ポーランド人への土地譲渡の禁止、政治的権利の剥奪、財産の収奪、強制移住、さらには支配国家によるポーランド人を狙った組織的な民族絶滅政策や大虐殺政策、などあからさまな「差別的政策」の運動(この運動はドイツ、オーストリア、ロシアで盛んだった)(詳細はポーランドの歴史を参照)
- ポーランド人のうちの極右思想(実際には他国よりはるかに稀で、ほとんどないのであるが、どんな民族にも全くないというわけでもない)を、客観的な統計上のデータではなく、主観的選択によって個々の事件をあげつらい詳述することで印象が強調される効果を狙い、ポーランド人がいかにも「野蛮で未開な人々」であるかのようなイメージを植え付ける陰湿な「理論的印象操作」の運動(こういう反ポーランド主義の「理論化」運動はドイツやフランスでは現代でも盛んに行われ、当地の一流メディアやインテリ層が中心となり、現在でも熱心に行っている。政治的運動としての特徴的な証拠として、先述のように、どの論文も客観な統計データが欠けているか、もしくは用いるデータの手法および解釈において客観性に欠けていることであり、これによって、彼らのあげつらう事例が、彼らの反ポーランド主義の正当化に用いられていることが分かる。たとえば、戦後のいわゆる「回復領」に関してポーランドを非難する際に必ず行われるのが、ポーランドの西側国境線が西方に移動しドイツ人が追放されるに至った経緯の説明の「除外」であり、このことによって一連のできごとに関して、そもそもの原因をつくったナチス・ドイツおよびドイツ人の道義的問題よりもポーランド側のそれが強調される政治的操作が行われている。さらに同件に関してよく引用されるデータが第二次世界大戦前までの民族的な構成であるが、ドイツ語を日常的に話し現地のドイツ文化に適応している現地のポーランド人やチェコ人である「シレジア人」、「ポメラニア人」、「マズーリ人」と呼ばれる人々がどの程度統計上の「ドイツ人」に含まれているのか明確にされていない。さらに、地域の帰属国家をめぐる希望について尋ねた住民投票でも、彼らはドイツへの帰属を望んだから彼らはもともとのドイツ人なのだ、という決めつけが見られ、個人的な生活の事情からどの程度の非ドイツ系の人々がドイツへの帰属を望んだのかが明らかにされておらず、このように、これらのデータ分析の際にはその基盤のあやふやな「民族」という「集団」の強調のみがあり、「個人」というものに対する尊重がないため、ドイツの民族主義者の側による主観的な正当化に利用されている。また、中世のポーランド王国でユダヤ人が温かく迎え入れられ、自由な定住を許され、かつ1264年の基本法によって1795年にポーランド王国が滅亡するまでユダヤ人の人権と安全が保護されたことは、彼らによると、当時のポーランドの支配者が私利私欲でユダヤ人とその財産をうまい具合に利用することが第一の動機だったのだ、という解釈になる[16][17]。
- いわゆるポーリッシュ・ジョークと呼ばれる一連のもので、ポーランド人を笑いものにするジョークを無数に作成し、ポーランド人が不潔でだらしなく無能で頭の悪い人々であるかのようなイメージを社会に植え付けようとする陰湿な「非理論的印象操作」の運動(この運動はアメリカにおいてドイツ系アメリカ人が広めたといわれる[18]。しかし現代のアメリカ人はこれらのジョークが一部の人間によりポーランド人に対する不純な動機から意図的に作られたものであることに、だいぶ前から気づいているので、こういうジョークにはアメリカでは教養ある人々は興味を示さない[19])。
反ポーランド主義はそれを熱心に行う人々自身の内に隠れている極右思想・排外思想と密接な関係がある。彼らが反ポーランド主義の運動を行う際に、作り上げ、利用しているのが、「ポーランド人の恩知らず」、「ポーランドの極右思想」、「ポーランド人の暴力性」、「ポーランドによる自国の侵略」、「ポーランド人の不潔さ」、「ポーランド人の性的なだらしなさ」、「ポーランド人の知能的欠陥」などといった、彼らが作り上げる、現実とかけ離れた恐ろしい「異種(エイリアン)」のイメージなのである。
独立と第二共和国
テンプレート:Main 1918年11月11日に第一次世界大戦が終結すると、ヴェルサイユ条約の民族自決の原則により、旧ドイツ帝国とソビエト連邦から領土が割譲され、ユゼフ・ピウスツキを国家元首として共和制のポーランド国家が再生した。
1920年にはソビエト連邦に対する干渉戦争の一環としてソビエトへ侵攻し、ポーランド・ソビエト戦争が発生した。緒戦には欧米、とりわけフランスからの援助を受け、ウクライナのキエフ近郊まで迫ったが、トゥハチェフスキー率いる赤軍が反撃。逆にワルシャワ近郊まで攻め込まれた。しかしユゼフ・ピウスツキ将軍の採った思い切った機動作戦が成功してポーランド軍がソ連軍の背後に回ると、ワルシャワ近郊のソ連の大軍は逆にポーランド軍に包囲殲滅されかねない状態となった。これにたじろいだトゥハチェフスキーのソ連軍は一斉退却を開始、ポーランド軍は赤軍を押し返すことに成功し、これは「ヴィスワ川の奇跡」と呼ばれた。この戦争は翌年に停戦した。
この戦いで、ソビエト各地にいたポーランド人が迫害の危機に陥り、子供達だけは母国へ戻したいとウラジオストクのポーランド人により「ポーランド救済委員会」が設立された。1919年にポーランドと国交を結んだばかりだった日本は、人道的な見地から救済に乗り出した[20]。
1922年に国家元首職を引退したピウスツキは、その後の政界の腐敗を憂い、1926年にクーデターを起こして政権を奪取した。ピウスツキはポーランド国民の圧倒的支持のもと、開発独裁を主導した。この時期にポーランドの経済は急速に発展し、国力が強化された。国民のカリスマであったピウスツキが1935年に死亡すると、ユゼフ・ベックを中心としたピウスツキの部下たちが集団指導体制で政権を運営したが、内政・外交で失敗を繰り返し、その点をナチス・ドイツとソビエト連邦につけ込まれるようになった。
第二次世界大戦
1939年8月、ナチス・ドイツとソビエト連邦が締結した独ソ不可侵条約の秘密条項によって、国土はドイツとソビエトの2か国に分割されることになる。1939年9月1日、グダニスク近郊のヴェステルプラッテのポーランド軍陣地への砲撃を手始めにドイツ軍とスロヴァキア軍が、9月17日にはソ連軍が東部国境を越えてポーランド侵攻を開始してポーランド軍を撃破し、ポーランド領土はナチスドイツ、スロヴァキア、ソビエト連邦、そしてソビエト占領域内からヴィリニュス地域を譲られたリトアニアの4か国で分割占領された。ポーランド亡命政府は当初パリ次いでロンドンに拠点を移し、戦中のポーランド人は国内外で様々な反独闘争を展開した。
ポーランド人民共和国
1945年5月8日から1989年9月7日まで、即ち第二次世界大戦の終結から民主共和政体への移行までの44年間は、ポーランド統一労働者党が寡頭政治を敷く「ポーランド人民共和国」、即ち共産党時代であった。
1945年5月8日、第二次世界大戦が終結するとポーランドは復活したが、その国の形は終戦前に行われた英・米・ソのヤルタ会談によって定められた。 テンプレート:See also
カティンの森事件などでソビエト連邦と敵対したポーランド亡命政府は帰国することができず、ルブリンに置かれたソ連主導のルブリン政権が新たなポーランド国家となった。また領土が戦前と比べて大きく西方向に平行移動した。ソビエト連邦はポーランド侵攻以来占拠していたポーランド東部を正式に自国へ併合した代わりに、ドイツ東部をポーランドに与えた。これはヨシフ・スターリンが、992年にボレスワフ1世が確定したポーランド公国国境の回復に固執した結果である。事実、新しい国境線はボレスワフ1世時代のポーランド公国の国境線の位置に非常に近いものとなった。さらに軍事的理由から、ドイツとの国境線はほぼ最短となるように調整された。これにより、敗戦国ドイツは戦前の領土の25%を失うこととなった。現在の領土の西側3分の1近くが戦前のドイツ領である一方、この地域の大半は14世紀までポーランド王国領であり、その後も最終的にプロイセン王国に併合されるまでポーランドの影響が及ぶ地域もあったため、ポーランドの視点では数百年ぶりの領土回復となった。このため旧ドイツ領の地域は、回復領と呼ばれた。
この地域には100万人のポーランド人(原住民)とともに300万人のドイツ人が住んでいたが、赤軍の侵攻を恐れて多くのドイツ人が西へ逃避してしまっていた。残ったドイツ人の多くも、強制移住によりポーランド国外へ退去させられた(ドイツ人追放)。共産主義政権により、民族を問わずポーランドに居住する住民全てを対象に財産の国有化が行われ、これらドイツ人が残した不動産も国有化された。ただしソビエト連邦、チェコスロバキア、東ドイツ、ハンガリーなどといったポーランドの周辺国にみられたような農業集団化は、ポーランド国内では行われなかった。これが小規模個人農と多品種少量生産を主とするポーランド農業の性格を決定づけ、オーガニック農業の広がりが定まった現在もこの構造は変わっていない。
一方、ソビエト連邦に併合された旧ポーランド東部地域では、国境変更にともないポーランド系住民120万人が退去してポーランドに移住してきた。
終戦後は、ソビエト連邦の支配下に置かれるとともに、ワルシャワ条約機構や、1949年1月ソビエト連邦によって、西側のマーシャル=プランに対抗するものとして設立されたコメコン(経済協力機構)に参加した。社会主義国となり、東側陣営に組み込まれ、東西冷戦に巻き込まれた。
しかしソビエト連邦の支配する体制による抑圧に抵抗する市民による民主化運動はこの期間に確固たるものとなり、運動は拡大していった。1979年6月にポーランド出身のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が故国ポーランドを訪れ、国民に熱狂的に迎えられた。これがポーランドの民主化運動、ひいては東欧全体の民主化運動に決定的な役割を果たすことになった。1980年9月17日には独立自主管理労働組合「連帯」が結成された。
第三共和国
1989年6月18日、円卓会議を経て実施された総選挙(下院の35%と上院で自由選挙実施)により、ポーランド統一労働者党はほぼ潰滅状態に陥り、1989年9月7日には非共産党政府の成立によって民主化が実現し、ポーランド人民共和国と統一労働者党は潰滅した。この1989年9月7日から現在までは、「第三共和国」と呼ばれる国家であり、民主共和政体を敷く民主国家時代である。
1990年11月14日には統一ドイツとの間で国境線を最終確認する条約が交わされ(旧西ドイツは、旧東ドイツとポーランド人民共和国が1950年7月6日に交わした国境線画定条約の効力を認めていなかった)、ドイツとの領土問題は終了した。
1993年、第二次世界大戦からポーランドに駐留していたロシア連邦軍(旧ソビエト連邦軍)が、ポーランドから全面撤退した。
1997年には憲法の大幅な改正が行われ、行政権が大統領から首相へ大幅に委譲され、首相が政治の実権を握ることとなった。
2005年、欧州連合(EU)の権限拡大に懐疑的で、経済における自国民の利益擁護と、共産主義時代から引き継がれたシステムや人事の完全撤廃を掲げた、高齢者、低学歴層、小規模農家、国営大企業の経営者や従業員からの支持の強いキリスト教民主主義のカトリック系保守主義政党「法と正義」が総選挙で勝利し、農村型の大衆主義政党「自衛」、カトリックのレデンプトール会系の国民保守主義の小政党「ポーランド家族同盟」とともに保守・大衆主義連立政権を発足させた。
同時に行われた大統領選挙では最大のライバルであるドナルド・トゥスク(「市民プラットフォーム」)との間で決選投票を行った、レフ・カチンスキ(「法と正義」)が当選した。
しかしヤロスワフ・カチンスキ率いる連立政権は政治路線を巡ってなかなか足並みがそろわず、政権運営が難航するとともに、国際社会においても欧州連合やロシアと軋轢を起こした。その後連立政党「自衛」の党首アンジェイ・レッペルの収賄疑惑がカチンスキ首相に伝えられると、首相は政権維持を惜しまず2007年9月7日に議会を解散する。この解散を受けて2007年10月21日に行われた総選挙では、欧州連合(EU)との関係強化、ユーロ導入に積極的で若者、高学歴層、商工民、新興企業の経営者や従業員からの支持が強い都市型中道右派政党「市民プラットフォーム」が勝利を収める。
一方で、大きく議席数が変化することが少ないと言われるドント方式の比例代表制の選挙にもかかわらず、それまでの政権運営に失望した有権者によって「法と正義」は大幅に議席を失ってしまう。また、連立政権に参加すると急速に有権者の支持を失っていった「自衛」と「ポーランド家族同盟」といった国民保守主義・大衆主義的な小政党は、この2007年選挙で議会における全ての議席を喪失した。
この選挙の結果、ポーランド議会(セイム)の会派は議席の多い順に、
- 都市型中道右派政党の「市民プラットフォーム」(209議席)
- キリスト教民主主義の保守主義政党の「法と正義」(166)
- 中道左派と中道の政党連合「左翼と民主」(53)
- 農村型中道右派政党の「ポーランド農民党」(31)
- ドイツ民族政党の「ドイツ少数民族」(1)
と、整理された。
最大政党の「市民プラットフォーム」の議席は過半数(231議席)に満たなかったため、中規模専業農家の支持する農村型中道右派政党「ポーランド農民党」と連立政権を発足。首相は「市民プラットフォーム」の若い党首ドナルド・トゥスクが就任。
2009年9月1日には、二次大戦勃発70周年式典が開かれ、ポーランドからはドナルド・トゥスク首相が出席した[21]。同じ2009年11月27日には、「法と正義」のヤロスワフ・カチンスキ党首が提案した、「鎌と槌」や「赤い星」など共産主義のマークを禁止する法律が可決された[22][23]。しかしこれは公的機関における使用禁止措置であり、民間では制限されておらず、自由に使える。たとえば観光都市クラクフでは共産主義的な雰囲気の残っているところを観光客が楽しむための旅行会社さえあり、共産主義のマークを問題なく使用している[24]。
2010年4月10日、カティンの森事件70周年の追悼式典に出席するため向かったレフ・カチンスキ大統領夫妻、それに94人の政府高官の代表団は、ロシア西部のスモレンスク郊外で発生した政府専用機墜落事故で死亡した。
この事故を受けて、ポーランド下院(セイム)議長で「市民プラットフォーム」所属のブロニスワフ・コモロフスキが憲法に従い大統領代行に就任。大統領選挙が6月に急遽行われることになった。
西欧への回帰-欧州連合とシェンゲン協定
2004年5月1日、ポーランドは欧州連合(EU)に加盟した。
2007年12月21日には国境審査が完全に撤廃されるシェンゲン協定に加盟し、他のシェンゲン協定加盟諸国とポーランドの間での陸路での国境審査が撤廃された。2008年3月30日には空路での国境審査が撤廃され、これで他のシェンゲン協定加盟諸国とポーランドの間での全ての国境審査が撤廃されたことになる。
現在では、ポーランド人ならばパスポートなしでシェンゲン協定加盟国同士の往来が可能であり、シェンゲン協定加盟国に一度入国した旅行客はどのシェンゲン協定加盟国からでも国境審査なしでポーランドに自由に出入国をすることができる。
政治
制度
政治体制は共和制。国家元首は大統領(任期5年)であり、直接投票によって選出される。かつては大きな政治権力を託されていたが、1997年の憲法改正により政治の実権は首相に移り、現在は外交の場で象徴的に出席する程度である。下院で可決した法案の拒否権があるが、下院が再度可決した場合にはその法案は成立する。軍の最高司令官でもあるが、これも象徴的な役職にすぎない。
行政は首相が統率する閣僚会議(内閣)が担う。議会の下院に当たるセイム (sejm) の大多数の連合から、首相の提案に基づき大統領が閣僚を指名する。首相は強大な政治的権力を有している。現在の首相はドナルド・トゥスク。
立法はセイム(議会)とセナト(元老院)の二院制議会(Zgromadzenie Narodowe)によって行われる。
- 下院(セイム、Sejm)
- 「議会」の意。定数460名。下院は立法の役割が主体であり、政党の資質や能力が大事であるとの考えからドント方式の比例代表制。議席獲得には全国投票の合計で政党が5%以上、選挙委員会(政党連合)は8%以上の得票が必要。シングルイシュー政党(全体の政策や理念でなく特定の政策のみで集まった人々の政党)の出現や少数政党の乱立、といった事態を未然に防止するため。少数民族の大半を占めるドイツ系住民の民族優先枠として、ドイツ民族政党は最高2議席まではこの最低得票率ルールから除外される(ドイツ民族政党は前回の総選挙で獲得票数が少なかったため、現在は1議席のみ確保している)。立法府として、セイムは日本の衆議院に相当し、上院より優先される。
- 上院(セナト、Senat)
- 「元老院」の意。定数100名。上院は立法や行政の監査の役割が主体であり、政党よりも議員個人の資質や能力が大事であるとの考えから、完全小選挙区制。
- 各党の議席数(定数100)
- 市民プラットフォーム(Platforma Obywatelska, PO) - 63
- 法と正義(Prawo i Sprawiedliwość, PiS) - 31
- ポーランド国民党(Polskie Stronnictwo Ludowe, PSL) - 2
- 無所属 - 4
- 各党の議席数(定数100)
カチンスキ大統領の飛行機事故死で大統領選挙の決選投票が2010年7月4日行われた。中道右派「市民プラットフォーム」のブロニスワフ・コモロフスキ下院議長が、故大統領の兄で保守政党「法と正義」のヤロスワフ・カチンスキ前首相を破り当選した。就任する8月11日までは後任の下院議長のグジェゴシュ・スヘティナが大統領代行を務めた。
ポーランド政治知識
- 「王は君臨すれども統治せず」という、16世紀-17世紀に宰相と大元帥を務めたヤン・ザモイスキの言葉があるが、イギリス発でなく、ポーランド発である。
- 1791年に、ポーランドは世界初の教育省を設置した。
- 同年5月3日にポーランドの議会(セイム)で採択されたことからこの名がある5月3日憲法は、近代的な成文国民憲法としてヨーロッパで最初のものであり、世界でも米国憲法に次ぐ2番目のものとして知られている。
- 1918年にポーランド人のイレーナ・コスモフスカは世界初となる女性大臣(社会相)に任命された。
国際関係
国際連合(UN)、欧州連合(EU)、シェンゲン協定、シェンゲン情報システム(SIS)、北大西洋条約機構(NATO)、経済協力開発機構(OECD)、世界貿易機関(WTO)、欧州安全保障協力機構(OSCE)、欧州電気標準化委員会(CENELEC)に加盟している。
中欧の大国であり、ヨーロッパの東西・南北双方の中央に位置し、バルト海の南岸という要衝にあることから、ヴァイマール三角連合(Weimar Triangle)、ヴィシェグラード・グループ(V4)、環バルト海諸国評議会(CBSS)、中欧イニシアティヴ(CEI)、といった地域国際機関にも加盟している。
近現代史における日本との関係
日本は戦間期、765人のポーランド人の孤児を助けたことがある[25]。第二次世界大戦中、日本とポーランドは対ドイツ・ソ連諜報において緊密な秘密協力関係にあった。また、ポーランド共和国陸軍はソ連の暗号を解読しており、大正時代より教官を派遣するなど、日本軍に最新の暗号解読技術を教授した[26]。
軍隊
ポーランド軍は
- ポーランド陸軍 (Wojska Lądowe)
- ポーランド海軍 (Marynarka Wojenna)
- ポーランド空軍 (Siły Powietrzne)
- ポーランド特別軍 (Wojska Specjalne)
- ポーランド憲兵隊(Żandarmeria Wojskowa)
の4軍種と憲兵隊の合計5グループから構成され、4軍種では常時約10万人が活動し、予備役は約24万人。国防省が統括し、憲法で規定された最高司令官はポーランド大統領である。
このうちポーランド特別軍は機動的活動を主要任務とする軍で、作戦機動部隊(GROM)、第1奇襲部隊(1 PSK)、海兵隊(Formoza)、特別兵站部隊の4つから構成される。徴兵制は廃止され、志願制が導入されている。これによってコンパクトながら高度な専門知識と技術を持つ国軍を作り上げることを目指している。
2009年の予算は118億ドルでこれは世界第19位、国内総生産(GDP)の2%弱を占める。1989年の民主化後もソ連から購入していた装備を引き継いだが、自国を含む北大西洋条約機構(NATO)同盟国で製造される最新装備への完全転換を急いでいる。
地方行政区分
テンプレート:Main 著名な経済学者イェジ・レグルスキの構想のもと1999年にイェジ・ブゼク政権が行った地方自治の大改革において県 (województwo) が整理され、ポーランドではそれまであった49県が16県にまで一気にまとめられて穏健な地方分権が成立した。県の下位自治体として郡 (powiat) が合計373、グミナと呼ばれる地方自治体基礎組織 (gmina) が合計2489ある。
(アルファベット順)
- ドルヌィ・シロンスク県
- クヤヴィ・ポモージェ県
- ルブリン県
- ルブシュ県
- ウッチ県
- マウォポルスカ県
- マゾフシェ県
- オポーレ県
- ポトカルパツキ県
- ポドラシェ県
- ポモージェ県
- シロンスク県
- シフィェンティクシシュ県
- ヴァルミア・マズールィ県
- ヴィエルコポルスカ県
- 西ポモージェ県
主要都市
都市 県 人口 1 ワルシャワ (Warszawa) マゾフシェ県 1 710 055 2 クラクフ (Kraków) マウォポルスカ県 754 624 3 ウッチ (Łódź) ウッチ県 747 152 4 ヴロツワフ (Wrocław) ドルヌィ・シロンスク県 633,000 5 ポズナン (Poznań) ヴィエルコポルスカ県 556 022 (アルファベット順)
- ビャウィストック (Białystok) - ポーランド北東部の町。ベラルーシに近い
- ビェルスコ=ビャワ (Bielsko-Biała)
- ブィドゴシュチュ (Bydgoszcz)
- チェンストホーヴァ (Częstochowa) - 「黒い聖母」のあるヤスナ・グラ修道院が有名。
- グダニスク (Gdańsk) - 北部の港町。独立自主管理労働組合「連帯」発祥の地。ドイツ語名のダンツィヒ (Danzig)でも知られる。第二次大戦勃発の地・ヴェステルプラッテが近い。
- グディニャ (Gdynia) - ポーランド最大の港湾施設のある港町。
- グニェズノ(Gniezno) - ポーランドの大司教座がある。
- ゴジュフ・ヴィエルコポルスキ (Gorzów Wielkopolski)
- カトヴィツェ (Katowice)
- キェルツェ (Kielce)
- ルブリン (Lublin)
- オルシュティン (Olsztyn)
- オポーレ (Opole)
- プウォツク(Płock)
- ヤヴォジュノ (Jaworzno)
- ソポト(Sopot)
- ジェシュフ (Rzeszów)
- シュチェチン (Szczecin)
- タルヌフ(Tarnów)
- トルン (Toruń)
- ザコパネ(Zakopane) - ポーランドで最も大きな山岳リゾート
- ザモシチ(Zamość)
- ジェロナ・グラ (Zielona Góra)
- ジェシュフ (Rzeszów) - ポーランドの航空産業の中心地
地理
西でドイツ、南でチェコとスロヴァキア、東でウクライナ、ベラルーシ、リトアニアと接していて、北東ではロシア(カリーニングラード)とも国境を接している。北はバルト海 (Morze Bałtyckie) に面している。
南部を除き国土のほとんどが北ヨーロッパ平野であり、全体が非常に緩やかな丘陵地帯となっていて独特の景観を有する。平均高度は173 mである。南部は山岳地帯で、タトラ山脈にはポーランドで最も高いリシ山(標高2499 m)がある。南部の国境近くにはカルパート山脈(タトラ山脈を含む)やスデート山地(ポーランド語およびチェコ語でスデーティ (Sudety)、ベスキド山地を含む)がある。深い森が多く国立公園や県立公園として維持管理されている。東北部からベラルーシにかけて広がる「ビャウォヴィエジャの森」は「ヨーロッパ最後の原生林」とされる、北部ヨーロッパには珍しく全体に広葉樹が生い繁る巨大な森で、ヨーロッパバイソン(ポーランド語で「ジュブル」)やヘラジカ(ポーランド語で「ウォシ」)をはじめとした多数の大型野生動物が生息する。ポーランドにある9300もの湖のうち大きなもののほとんどは北部と中西部に集中している。北東部、北西部、中東部、中西部、南西部には特に湖が集中する湖水地方があり、美しい景観を有する。また湿原が特に多く、そのうち最大のものは「ヴィェブジャ大湿原」で、釧路湿原の10倍以上の面積がある。これらの湿原は国立公園や県立公園として維持管理されている。多くの水鳥が生息する。
西南部にはヨーロッパ最大の砂漠がある。
河川は以下の通り。
- ヴィスワ川(Wisła)
- オドラ川(Odra)(オーデル川)
- ヴァルタ川(Warta)
- ブク川(Bug)
- ナレフ川(Narew)
- サン川(San)
- ノテチ川(Noteć)
- ピリツァ川(Pilica)
- ヴィェプシュ川(Wieprz)
- ブブル川(Bóbr)
- ウィナ川(Łyna)
- ヌィサ・ウジツカ川/ナイセ川(Nysa Łużycka)
- フクラ川(Wkra)
- ドゥナイェツ川(Dunajec)
- ブルダ川(Brda)
- プロスナ川(Prosna)
- ドゥルフェンツァ川(Drwęca)
- ヴィスウォク川(Wisłok)
- フタ/チャルナ・フタ川(Wda/Czarna Wda)
- ドラヴァ川(Drawa)
- ヌィサ・クウォヅカ川(Nysa Kłodzka)
- ポプラト川(Poprad)
- パスウェンカ川(Pasłęka)
- レガ川(Rega)
- ブズラ川(Bzura)
- ヴィスウォカ川(Wisłoka)
- オブラ川(Obra)
- ビェブジャ川(Biebrza)
- ニーダ川(Nida)
地質
ポーランドの地質構造は、6000万年前に起きたヨーロッパ大陸とアフリカ大陸の衝突と、北ヨーロッパの第四氷期によって形成された。このときスデート山地とカルパティア山脈が形作られている。北部ポーランドのモレーンの景観は主に砂とロームから成る土壌によるものである。氷河期に形成された南部の河川の谷は黄土を含んでいる。クラクフ=チェンストホヴァ高原、ピェニヌィ山地、西タトラ山地は石灰岩で構成される。高タトラ山地、ベスキド山地、カルコノシェ山地は花崗岩と玄武岩で構成される。南部のクラクフ=チェンストホヴァ高原はジュラ紀の石灰岩から成る。
気候
バルト海に面した北西部は温帯気候であるが、東部や南部の山岳地帯では、冬季の間は河川が凍結する亜寒帯気候となる。降水量は平均しており、季節による変動が少ない。
経済
概況
世界金融危機の余波
ポーランド経済は若年人口の多さに支えられて、近年は毎年4~6%前後の高成長を見せていたが、世界的な金融危機の余波を受けたため、2009年の成長率は、欧州委員会(EC)の予測では-1.4%、国際通貨基金(IMF)の予測では-0.7%、欧州復興開発銀行(EBRD)の予測では0%、ロイター通信調査のポーランド国内外の民間金融機関の平均的な予測では+0.8%、ポーランド財務省の予測では+1%前後とされていた。
ヨーロッパ域内各国については軒並み大幅なマイナス成長が見込まれているが、GDPに対する対外債務残高や短期対外債務残高、金融機関の不良債権、個人の外貨建てローン残高が少なく(家計向けローンに占める外貨建のシェアは約40%、家計向け外貨建てローンは名目GDPの15%未満[2])、国内人口が大きいため輸出依存度が比較的低く国内需要が大きいという特徴があるポーランドは、通貨ズウォティの急落によって輸出競争力も回復してこの景気後退をうまく切り抜けると予想されており、ヨーロッパの国々のうちでは最も高い数値の成長率予測をあらゆる調査で得ている国の一つであった。
なお、上記の機関のうち国際通貨基金(IMF)はポーランドをはじめとした中東欧諸国についての外貨準備高に対する対外債務残高の割合を2009年4月に調査発表した際に、対外債務残高を二重に数えて過大に見積もってしまうという信じられないほどの重大ミスをしており、現在は急遽これらの数値の改正作業に入っている[3]。この改正の数値が発表されることよってポーランドの信用はさらに大きく回復するものと予想され、2009年4月にIMFが-0.7%とした経済成長率予測も上方修正されることが確実となった。IMFがこの誤りについて責任者の謝罪や関係者の処分などの引責を行うかどうかは不明。
2009年の結果
その後ポーランドの2009年成長率については、経済協力開発機構(OECD)の発表によると、大方の予想をはるかに上回る1.7%と判明(のちに1.8%へ上方修正)し、この年の欧州連合(EU)加盟国でプラス成長率を達成した唯一の国であることが明らかになった。OECD加盟国においても、ポーランドの他にプラス成長率を達成したのは韓国(0.2%)とオーストラリア(1.3%)の2カ国のみであり、2009年のポーランドはOECD加盟国最高の成長率を叩き出したことになる。中央銀行であるポーランド国立銀行が世界金融危機の前の世界金融バブルの時代の非常に早い時期(2001年頃)には既にバブルの到来を察知し、それ以来市中銀行に対して様々な貸し出し規制策を導入していた[27]ことが評価されている。OECDではポーランドの今後の成長率を2010年は3.0%程度、2011年は3.6%程度と見積もっている[28]。国際通貨基金(IMF)の見積もりでは2010年は2.7%程度、2011年は3.2%程度。
2010年は世界中で行われている景気対策を目的とした大規模な金融緩和のため、ポーランドの第二四半期成長率はプラス3.5%を記録したため、ポーランド政府とポーランド国立銀行は景気の過熱と資産価格上昇の可能性やそれに伴うインフレの可能性を懸念し始め、公的部門の財政再建路線の強化、金融引き締め政策、貸出規制の強化、といった対応策を考慮している。
展望
2004年のEU加盟当初は、ポーランドはEU内でも西欧諸国より低い賃金水準を持つことから、EU内の「工場」としての投資を受けていた。さらに、現在ではその高い教育水準を生かして研究開発施設をポーランドに設けようとする企業も多い。
また、EU加盟時に、ポーランドから多数の労働者がEU諸国に出稼ぎに出かけた。初めは、単純労働者としての雇用が先行したが、その後はホワイトカラーとしての雇用も増え、財を成すものも現れた。これまで本国経済の堅調に支えられてポーランドへ帰国する者が徐々に増加していたが、昨今の世界的な金融危機の余波で国内外の経済情勢が激変しているため、ポーランド本国でも就職の機会が少ないのではないか、職を得ても収入が低いのではないか、あるいはポーランド国内であっても自分の出身地とは離れた地方でないと求人していないのではないか、と考えて帰国をためらう動きも出てきた[4]。しかし、ポーランド政府は国内産業の長期的な発展を確実にするため道路や通信などといったインフラの整備を急ピッチで進めているため[5]、外国へ出ている出稼ぎのうち未熟練労働者の祖国へのUターンを積極的に奨励している。ポーランドにおけるインフラ整備や教育など経済発展の基礎作り事業は、規模が巨大であるにもかかわらず資金リスクがないのが特徴である。これは政府や民間からの資金調達に加えて、EUからインフラ整備や教育などポーランド事業を支援するために膨大な補助金が下りているからである。政府は2010年度より緊縮財政を行っているが、これは主に国営企業の民営化による新規株式公開(IPO)で多くを賄うことになっており、歳出規模を削減するというわけではない。また、インフラ整備プロジェクトは主にEUなどから資金が確定して拠出されている。これまで国内で9万のプロジェクトに86億ユーロの支援が行われ、13000もの一般企業、数千キロの道路建設、鉄道路線や各地の主要駅の改修や建て替え、無数の歴史的建造物や遺跡の整備といった事業がEUから潤沢な資金援助を受けている。また、61万人のポーランド人学生、260万人の一般のポーランド人がEU資金の恩恵を受けている。2007年から2013年にかけての間でポーランドがEUから補助金を受け取る事業の総数は、ドイツに次いでヨーロッパ第2位である[6]。このほかにEUからは農業補助金や行政補助金などがポーランドへ渡されている。ポーランド政府が、「ポーランドへ帰ろう!」キャンペーンを張って国外にいるポーランド人の帰国を熱心に促しているのは、これらの大事業のために膨大な人手が要るためである[7]。
企業家育成
ECER-Banque Populaireが18カ国37都市の4500人のCEOを含む17万人の企業家を対象に調査したところ、欧州で最もビジネスに適した都市の第3位にワルシャワがランクインした(1位はフランクフルト、2位はマルメ、4位はロンドン、5位はブリュッセル)。この調査では各都市の企業家精神育成、起業支援、経営支援、私的な金融体制、公的な金融体制、助成金、不動産、生活の質、道路、通信インフラ、などの項目で調査された。ワルシャワは全般的に高得点を挙げたが、特に起業家への支援体制が優れていると評価され、企業家精神育成部門(経営相談、経営者組織、ウェブ、メディア)で6位、起業した経営者に対する支援部門(法律相談、税務相談、業務支援)で4位となった。ワルシャワについて評価が最も低かったのは環境部門で、評価の対象となった全37都市のうち16位であった。ポーランドでは現在のドナルド・トゥスク政権と与党「市民プラットフォーム」の方針として国を挙げて特に起業支援と中小企業の育成に力を注いでおり、その数は国内全企業の半分で、全就労者の3分の2を雇用し、GDPの80%を占めている[29][30]。
税制
法人税は19%である。所得税は非常に簡単な2段階の累進課税方式で、課税所得に応じて18%あるいは32%となっている。付加価値税は2011年1月1日より23%を基本税率とした複数税率で、ほかに食品、農産物、医薬品、建築資材、観光サービス、書籍等にかかる8%、7%、5%の3つの税率があり、対象の品目によって税率が異なる。
工業
先進国として、EU内の「工場」として、非常に多岐にわたる第二次産業が行われている。特にパーソナルコンピュータやテレビなどの情報家電の生産は盛んで、ヨーロッパのテレビ生産の3割をポーランドが占めている。乗用車、トラック、バス、路面電車、鉄道車両などの生産も盛んで、ソラリス、PESA、Newagなどといったポーランド地場企業が積極的に外国へ進出している。
小規模の手工業においては、琥珀製品やクリスマスツリーのガラスの飾り物[31]の生産は世界一で、日本もこれらの製品を多量に輸入している。
農業
付加価値の高い品目の生産
国土面積のうち、農地の占める面積は42.1%である。ポーランドの農業は伝統的に大規模化されておらず、約90%が個人農家であり、社会主義時代にも国有化・集団化の動きは無かった。このような小規模農家はコスト効率が悪い反面、近年のオーガニックブームなどで、付加価値の高い作物を作るのに適しており、高品質の有機栽培作物が他のヨーロッパ諸国に盛んに輸出されている。
特筆すべき農産品目
ヨーロッパのじつに90%を占めるヤマドリタケ(本ポルチーニ茸)、327万トン(2010年)で世界第1位の生産量を誇るライ麦[32]、それぞれ高いシェアを持つフランス向けエスカルゴや日本向け馬肉および羽毛、ポーランドが世界の収穫高の半分を占め同時に世界最大の輸出国となっているカシス(ブラックカラント、クロスグリ)や世界最大の輸出高を挙げるイチゴといったベリー類(他にラズベリーは世界4位、ビルベリーは欧州2位、その他セイヨウスグリ、クランベリー、ブラックベリー、ブルーベリーなどで世界トップクラスの生産高)、などがある。
鉱業
ポーランドは鉱物資源が豊富であり、石炭を中心として多種多様の非鉄金属に恵まれている。石炭の生産量は世界第8位である。ポーランドのバルト海沿岸は琥珀の世界最大の産地で、グダンスクには世界の琥珀製品製造業の85%が集中している。
ヨーロッパではロシアに次いで豊富な石炭や、自国の消費量の2/3をまかなう天然ガスなどを有する。他にも重要な鉱物資源において世界シェアを有している。また、国内に豊富に存在する石炭のガス化技術(石炭ガス)の研究開発にも熱心に取り組んでいる。
また、西南部ドルヌィ・シロンスク県のクレトノ鉱山などではウランを豊富に埋蔵しており国内の原子力利用を長期的に賄える。ポーランド国内ではこれまで原子力発電は行われていなかったが、近年は原子力発電計画が具体化しつつあり、2020年までに最初の原子力発電所が稼働する見込みとなっている。
また、近年ポーランドで巨大なシェールガス埋蔵量が確認されている。その量は少なく見積もってポーランドにおける天然ガス消費量の300年分に相当する5.3兆m³に上ると見られている。現在、国内外の複数のエネルギー企業が試掘を申請している。ポーランドのシェールガスは経済だけでなく国際政治における勢力地図を根底から塗り替える可能性がある。
日系企業の現地進出状況
2010年現在、ポーランドに進出している日系企業はトヨタ、ブリヂストン、味の素、シャープ、東芝、ロッテなど254社で、これは中東欧地域で最も多く、チェコ、ハンガリー、オーストリアの3か国に進出している日系企業の数の合計よりも多い[33]。
ポーランドへの移民労働者
ウクライナ人
公式な統計では2009年には12万人のウクライナ人がポーランドで就業登録している。しかしこれは氷山の一角に過ぎず、後述のように正規であっても未登録だという場合もあるので正確な規模は分からない。ワルシャワ大学の調査によるとポーランド国内最大の移民グループはウクライナ人女性で、彼女たちに家計の全てを頼る家庭がウクライナには多いという。彼女たちのほとんどは家政婦や清掃婦、農産物の収穫などの単純労働に就いている。2007年にはポーランドの家庭のじつに15%がウクライナ女性を正規のメイドとして雇ったという。ウクライナ、ロシア、ベラルーシ、モルドバの4カ国の国民は6か月を上限として、ポーランド政府からの労働許可がなくてもポーランド国内において無条件・無登録で就業することが許されている[34]。イギリスの右翼勢力は母国のイギリスがシェンゲン協定に加盟していないにもかかわらず、シェンゲン協定加盟国であるポーランドへの東方の国々からの移民に強い懸念を示しており、ポーランドが近々ロシアのカリーニングラード州からのロシア人の入国に対してビザなし渡航を許可することに反対している。イギリス側は入国審査廃止とビザなし渡航とを混同して、タバコなどの密輸が増えると考えている。いっぽうポーランドはすでに以前からウクライナに対して全面的なビザなし渡航を許可しているが、これによってウクライナからの密輸やその他のウクライナ人による犯罪行為や違法就労がポーランド国内で増加した事実はないことを挙げて、ビザなし渡航を許可しただけで犯罪が増えることはない、彼らが行う犯罪はせいぜいズボンにロシアンウォッカを隠し持って密輸するぐらいのことであり、ましてやこのビザなし渡航実施によるロンドンへの悪影響など微々たるものだと主張し、イギリスの右翼世論と対立している[35]。
観光
概要
1989年12月25日までポーランド全土は冷戦体制のもとで東側諸国の重要な軍事拠点となり外国人に門戸が閉ざされていた。冷戦が終わってポーランドに駐留していたソ連軍が全面撤退してから約20年経ち、現在では国内観光は完全に自由化され、「ヨーロッパのハートランド」[36]として、欧米諸国ではバカンス客からバックパッカー客まで幅広い層の観光客の間で人気を得ている。2007年12月21日にはシェンゲン協定に加盟し、シェンゲン協定加盟国全てとの往来がパスポートなしで可能となった。加盟国の間では国境のどこからでも出入りが自由となっている。ポーランドには歴史的価値の高い街、建物、施設、景観が数多くある。とりわけ古都クラクフの旧市街にある中央広場(Rynek Głowny)は「世界で最も美しい広場」と評価されている[37]。
ヨーロッパで最良の治安
ポーランドで特筆すべきは、治安の良さである。2013年における経済協力開発機構(OECD)加盟国の治安ランキングでは、ポーランドの治安の良さは日本に次いで2位[38]。
観光ガイドブックや外務省の海外渡航情報のウェブサイトではポーランドの治安が悪いような印象を読者に与えるような記述がなされていることが多いが、実際のところは上記のようにポーランドの犯罪被害は稀で、アイルランド、イギリス、アイスランド、エストニア、オランダ、デンマーク、スイス、ベルギー、スウェーデン、ノルウェーといった、一般に「治安が良い」と考えられている国々よりも犯罪被害率が低い[39]。
この低い犯罪被害率でさえ年々さらに減少しており(2004年から2010年にかけての7年間で25%の減少)、ポーランドの警察への国民の信頼度は非常に高い[40]。また、ポーランド人にはヨーロッパ人のうち犯罪被害に遭うのを最も恐れる用心深い気質があるとされる[41]。
ヨーロッパ人の間に定着した偏見やデマの類として、「ポーランドでは自動車の盗難が多い」と言われるが、実際のところポーランドの自動車の盗難率はイギリス、デンマーク、アイルランド、スペイン、ポルトガル、オランダ、アイスランド、イタリア、ノルウェーなどといった国々より低い[42]。
世界遺産と自然環境
前述のとおり世界遺産の数は全部で13件あり(中東欧地域で最多)、さらに4件が暫定リストに登録されている。また自然環境もよく保存され、国立公園や県立公園が多数あって保護されており、ユネスコ生物圏保護区が9か所ある。
宿泊
また、国内のあらゆる地方に無数に存在する貴族の宮殿や城は近年次々とリフォームされホテルとして営業しており、これら「宮殿ホテル」や「城館ホテル」に宿泊しても西欧諸国よりはるかに割安に贅沢な旅行ができる。また、農家に滞在して農業体験をしたりゆっくりと一日を過ごしたりする「アグロツーリズム」も近年は盛んである。大都市では安宿から超高級ホテルまでさまざまなバリエーションが増えてきた。
国民
2002年の国勢調査によると、人口は約3698万人で、そのうち約97%がポーランド人(カシュープ人やグラル人を含む)である。かつては多民族国家であったが、第二次世界大戦当時のポツダム会談の結果、領土全体が地理的に西側へ移動し、現在のようなほぼ単一民族国家となった。その他の少数派としては、主に東部に在住するウクライナ人、リトアニア人、ベラルーシ人、ルシン人、リプカ・タタール人、主に旧ドイツ領の西部に在住するドイツ人、そして国内に広く存在するユダヤ人がいる。
ユダヤ人の本格的なポーランド移住は第1回十字軍の行われた11世紀初頭に始まった。ヨーロッパ各国や中東で非キリスト教徒であるために激しく迫害されたユダヤ人が逃げ延びて、宗教に寛容な伝統をもつポーランドへとたどり着いたのである。13世紀に布告された「カリシュの法令」以来ポーランドではユダヤ人の権利と安全が制度で保障され、さらに多くのユダヤ人が移住してきた。その結果、中世から20世紀半ばの事件(ホロコースト)まではポーランドは世界最大のユダヤ系人口をかかえる国で、ポーランド分割によりポーランド王国が滅亡した18世紀末の時点で世界のユダヤ人の70%がポーランドに住んでいた。多くのポーランド人はその先祖にユダヤ系の人がおり、中世や現代にかけてポーランド人と、世俗化したりキリスト教に改宗したりしたユダヤ人が頻繁に結婚して文化的にも混じり合ったが、20世紀に入ってもユダヤ教の古来の教えを実践しながら生活していた伝統的なユダヤ人たちの多くはホロコーストでドイツ人に虐殺されたか、ホロコーストやその後のポーランドの共産主義化を避けてアメリカなどに移住してしまった。現在のポーランド人の95%はカトリック教徒であるが、全ポーランド人の90%はその先祖に少なくとも1人のユダヤ人がいると推測されている。少数民族のなかではドイツ人が圧倒的に多く、国会の下院(セイム)において最高2議席の民族優先枠が設けられている(ただし前回の総選挙では獲得投票が少なかったため、現在は1議席のみ確保)。同様にポーランド人の多くは先祖にドイツ人がいる[43]。
現在までに国民のほぼ全てが母語をポーランド語としている(ポーランド化)が、民族・人種・個人信条に非常に寛容で多くの移民や政治難民を受け入れていた過去のポーランド王国の政策を反映して、彼らの先祖は原ポーランド人(レフ人)、ドイツ人、ユダヤ人、リトアニア人、ウクライナ人、ベラルーシ人、ルシン人、ロシア人、ラトビア人、スウェーデン人、スコットランド人、オランダ人、チェコ人、スロバキア人、フランス人、ハンガリー人、イタリア人、タタール人、アルメニア人など非常に多民族にわたっている。家系的にもそれら多民族が通婚し、文化的にも多民族の伝統が融合し互いに同化して他国にはない独特の「ポーランド文化」とその国民心理を形成している。ポーランド人の9割の家庭ではそれぞれ先祖に少なくとも1人のユダヤ人がいると言われている。約40万種類あるといわれるポーランド人の姓はその語源に先祖となったこれら各民族の出自の名残りが見られる。そのため単一民族という言葉から受ける民族主義のイメージは、実際は民族のるつぼであるポーランドの実態にそぐわない。ポーランド人の多くは西スラヴ系であると「同時」に、ユダヤ系でありドイツ系であり東スラヴ系であり北欧系でありスコットランド系でありオランダ系でありフランス系でありイタリア系でありタタール系であり・・・ということが言える。本来の意味での「民族のるつぼ」が実現しているこの特殊な事情は他国の人々にはなかなか理解されていないようである。
言語
国語はポーランド語。ポーランド語は印欧語のスラヴ語派西スラヴ語群に属する言語で、チェコ語、スロヴァキア語、上ソルブ語、下ソルブ語などと共通のグループに属し、そのうち、カシューブ語などと共にレヒト諸語(レフ諸語)を構成する。表記はロシア語等で用いられるキリル文字ではなく、ラテン式アルファベットでなされる。
かつてのポーランドで広く話されていたイディッシュ語やルーシ語は第二次世界大戦やホロコーストとヴィスワ作戦を経て国内ではほぼ消滅した。
外国語のうち圧倒的に履修者が多いのは英語である。若い世代において英語は圧倒的な人気を獲得している。英語は小学校1年からの履修科目となっている。また、第二外国語としてドイツ語やフランス語を学ぶ学生も多い。
伝統的にドイツ語圏との貿易その他の経済関係が緊密だったため、標準ドイツ語の履修者は安定して多い。南部のオポーレ地方ではドイツ語が地方公用語として認められ、交通標識などはポーランド語と両語表記されているが、住民のドイツ語はドイツ本土の標準ドイツ語とはかなり異なる方言で、彼らは普段の社会生活でポーランド語を使う。
冷戦時代に東側ブロックに組み込まれたため、現在でも多くの40代以上のポーランド人はロシア語を解する。ロシア語の習得者数は1990年代に激減したが。近年はポーランドとロシアとの間で歴史的な和解の流れが本格化し、それにつれて社会主義時代の政府間貿易に代わって民間企業どうしの間での私的な貿易が盛んになるとともにロシア語の履修者数も最近徐々に回復してきた。ロシア語とポーランド語は両方ともスラヴ語であるが、ロシア語は東スラヴ語群、ポーランド語は西スラヴ語群で、すでに長い歴史を通じて別々の言語系統として分化しそれぞれ独自に発展してしまったため、そのままでは互いにほとんど通じない(使用する文字もロシア語はキリル文字なのに対し、ポーランド語は西欧と同じラテン文字である)。そのためポーランド人がロシア語を習得するのはそれなりの努力と根気が必要となる(いっぽう西スラヴ語同士の間ではほとんど方言程度にすぎない違いしかなく、ポーランド人はチェコ語やスロバキア語などの西スラヴ語群諸語については、チェコ人やスロバキア人などと話しているうちに全く勉強する必要なくすぐに使えるようになってしまう)。
リプカ・タタール人は、すでにタタール語を話さなくなっている。タタール人の家系でノーベル文学賞を受賞した愛国大河小説家かつ愛国叙事詩人のヘンリク・シェンキェヴィチはポーランド語で小説を書いた。
首都ワルシャワはエスペラント語発祥の地であり、ポーランドはエスペラント語を話す人の数は比較的多いが、実用的な場面で使われることはない。ただし趣味の一つとして長く定着しており、国外のエスペラント愛好者たちとエスペラント語による会話を楽しんでいる。
宗教
米国CIAの調査によると、国民の約95%がカトリック教徒であり、うち75%が敬虔な信者である。このように、ポーランド人の価値観や日常生活にカトリックの信仰が根付いている。史上初のポーランド出身の教皇ヨハネ・パウロ二世は絶大な尊敬を集めた。なお、ローマ・カトリック教会とは別にポーランド・カトリック教会という教派も存在する。そのほか、プロテスタント、正教会、ユダヤ教、イスラム教(中世からの伝統を持つリプカ・タタール人が緩やかな信仰に基づいた生活をしている)、浄土真宗やチベット仏教を始めとした仏教の信者もわずかながら存在する。
教育
テンプレート:Main 1999年9月1日より、従来の社会主義時代からの8・4制を改め、6・3・3制に移行した。
教育熱心な国民性
日本では全くと言ってよいほど知られていないことではあるが、ポーランドの子供たちの行儀の良さでは世界1位、教育レベルは世界2位、人口1千万人以上の国での大学進学率は世界1位、と隠れた教育大国である。
行儀のよい子供たち
2013年のOECD調査で、ポーランドの児童たちは世界で最も「行儀が良い」ことが判明している[44]。
高い教育水準
ポーランドの特徴のひとつはその教育水準にある。先進国ほどの所得水準でないにもかかわらず、2013年の教育レベルは経済協力開発機構(OECD)加盟国中、フィンランドに次いで2位[45]。
高い大学進学率
若者の50%が大学を卒業し学位を取得する(日本は39%)。この数字はOECD加盟国では4位(日本は12位)であるが、うち人口が1千万人を超える国のうちでは1位である(日本は2位)[46]。特に近年では若者の95%が大学を卒業し学位を取得するという調査結果もあり、教育熱が非常に高い[47]。
国立大学の授業料は無料。ただしポーランドでは国立大学や一流私立大学のカリキュラムは非常に厳しく、そのためこれらを卒業するのは非常に難しい。希望の学部学科に入学しても勉強について行けずに脱落し、別の学部学科や別の大学を受験しなおして入学・卒業する学生が多い。
英語圏の国、特にイギリスとアメリカに留学して苦学する熱心な学生が多く、彼らは自然科学、マクロ経済学、金融学に強い。
IT教育に熱心な国のひとつで、2014年に開催された第一回コーディング世界大会ではポーランドのチームが優勝した[48][49]。
若者の国
経済協力開発機構(OCED)加盟国に共通する問題としてポーランドにも少子化の傾向がある。その反面、若者が非常に多いのもまたポーランドの特徴で、人口の50%が35歳以下、35%が25歳以下、20%が15歳以下である。また学生全体の87%が外国語を習得している[8]。高等教育にも熱心な国民性で、大学進学率は約70%にも上り[9]、19歳から24歳までの人口全体の55%が学生である[10]。
ポーランド人の苗字
ポーランド人の苗字は非常に多く、総数40万以上に上り[50]、世界的にもユニークといわれる。ポーランドの人口は3800万人程度であるから、同じ苗字を持つ人の数は平均すると100人を下回ることになる。NowakやKowalski(女性はKowalska)といった苗字を持つ人が最も多いとされるが、それでも絶対数は非常に少なく、これらの苗字を持つ人に出会うことは稀である。
同じ姓でも男性形と女性形で活用語尾が異なることがある。 婚姻の際、男性は自己の姓を用い続けることが多いが、法律では男性女性どちらでも姓を変えることができる。婚姻後の姓はどちらかの姓に統一しても良いし(夫婦同姓)、変えなくても良い(夫婦別姓)し、婚姻前の自分の姓の後に結婚相手の姓をつなげても良い(別姓、複合姓)[51]。ただし複合姓にする場合、3つ以上の姓をつなげてはいけない[52](1964年)。
ポーランド語の姓には-ski(/~スキ、女性は-ska/~スカ)という語尾が多い。この-skiというのは名詞を形容詞のように「~の」という意味で使う場合に付く接尾辞である。英語の-ish(Polandに対するPolish)やドイツ語の-isch(Japanに対するJapanisch)などと同様、インド・ヨーロッパ語族の言語がもともと共有する用法。たとえばWiśnia(意味は「桜」)からWiśniowoあるいはWiśniow(意味は「桜村」)という村名が派生し、そこからWiśniewski(意味は「桜村の~」)という意味の姓が生まれる。Jan Wiśniewskiさんならば、意味は「桜村のジョンさん(Janは英語のJohn)」となる。-skiの使い方はドイツ語のvon~やフランス語のde~などの使い方と同じであるため、中世には外国人向けの人名紹介では、たとえばWiśniewskiの場合von Wiśniowoやde Wiśniowoなどのような表記も見られた(アルベルト・ブルゼフスキの記事を参照)。
また、アメリカ合衆国など英語圏の国家に移住すると、しばしば苗字をそのまま英語に翻訳したものを登録して使うようになる(NowakをNewman、KrawczykをTaylorに改名など)。その結果、現地の社会に同化していく。
苗字人口上位20(2002年)は以下の通り。
- Nowak (ノヴァク; 203,506人; 英語の"Newman")
- Kowalski (コヴァルスキ; 139,719人; 英語の"Smith")
- Wiśniewski (ヴィシニェフスキ; 109,855人; 英語の"Cherry")
- Wójcik (ヴイチク; 99,509人; 原義は「戦士」)
- Kowalczyk (コヴァルチュィク; 97,796人, 原義は「"Smith"の息子」)
- Kamiński (カミニスキ; 94,499人; 英語の"Stone")
- Lewandowski (レヴァンドフスキ; 92,449人; 原義は「ラベンダー」)
- Zieliński (ジェリニスキ; 91,043人; 英語の"Green")
- Szymański (シュィマニスキ; 89,091人; 英語の"Simon")
- Woźniak (ヴォシニャク; 88,039人; 英語の"Cart")
- Dąbrowski (ドンブロフスキ; 86,132人; 英語の"Oak ")
- Kozłowski (コズウォフスキ; 75,962人; 原義は「雄ヤギ」)
- Jankowski (ヤンコフスキ; 68,514人; 英語の"John")
- Mazur (マズル; 66,773人; 原義は「マズーリ地方」)
- Wojciechowski (ヴォイチェホフスキ; 66,361人; 原義は聖アダルベルトの本名Wojciech)
- Kwiatkowski (クフャトコフスキ; 66,017人; 英語の"Flower")
- Krawczyk (クラフチュィク; 64,048人; 原義は「"Taylor"の息子」)
- Kaczmarek (カチュマレク; 61,816人; 英語の"Inn")
- Piotrowski (ピョトロフスキ; 61,380人; 英語の"Peter")
- Bagiński (バギニスキ; 60,492人; 英語の"Master")
隣国に対する感情
世論調査会社Homo Hominiが2010年12月に行った調査によると、ポーランドと陸続きで国境を接する7か国(ドイツ、チェコ、スロバキア、ウクライナ、ベラルーシ、リトアニア、ロシア)全ての人々のうち、ポーランド人が最も親近感を持つのは、順に以下のようであることが分かった(複数回答)[53]:
文化
食文化
ポーランド料理は、基本的には家庭料理や庶民の宴会料理であるが、中にはポーランド文化を代表する上品な貴族の宴会料理や野趣あふれる貴族の狩猟料理(ビゴスなど)もいくつかはある。歴史的に非常に多くの民族、たとえば、一口にポーランド人といってもマゾヴィア人、クラクフ人、シレジア人、ポメラニア人、ポズナン人、クヤヴィア人、サンドミェシュ人、カシュープ人、グラル人など、そしてポーランド人のほかにはリトアニア人、古プロイセン人、ルーシ人(ウクライナ人)、ユダヤ人、ドイツ人、ボヘミア人、モラヴィア人、リプカ・タタール人、ロシア人、ルシン人、オランダ人、スコットランド人、ハンガリー人、アルメニア人など、の人々が集って住み、イタリア、フランス、イギリス、スウェーデン、ギリシャなどヨーロッパ各地から人々が公的あるいは私的な仕事をしにやってきたり、遠くアジアとの陸上交易によって馬やラクダとともにやってくるアルメニア人やアジア人の隊商たちが新しい文物を伝え、また民族間や部族間の結婚が頻繁に起こって文化が複雑に融合する、という地域であったため、周辺のさまざまな民族の食習慣がポーランド文化に同化しており、伝統料理のバラエティは非常に豊かである。派手な結婚披露宴を行う習慣があり、地方では特に3日2晩にわたって真夜中でも休みなく宴会が続くが、そういった機会に近所の人々が集まって手作りで供される、ボリュームのあるごちそう料理が発達している。ただし味は日本人の好みに近く、辛すぎる味、甘すぎる味、脂の多いこってりした味、といった刺激の強いものはほとんどなく、においの強すぎるものもない。ごちそうでもヨーロッパの他国と異なってローストした大量の肉塊ばかりを供するわけでもなく、キャベツや根野菜を多く使い、ハーブやスパイスなどさまざまな香りで工夫を凝らした料理にこだわり、女性的で繊細な味付けを好む。
- ディル(ポーランド語で「コペレック」、ピクルスやサラダなどの冷たい料理にたくさん使う)
- マジョラム(ポーランド語で「マイラネック」、スープなどの温かい料理にたくさん使う)
- クミンシード(ポーランド語で「クミネック」、肉料理、パン、ケーキ、ピクルスなどにたくさん使う)
- ケシの実(ポーランド語で「マック」、パンや、ケーキなどのお菓子にたくさん使う)
この4つの香りがポーランド料理の特徴と言え、ポーランド料理はハーブやスパイスの香りを楽しむ料理体系。これらを使うとどのような料理もポーランド風に感じられるようになる。
薫り高く「うまみ」成分の強いポーランドソーセージは、直接食べるだけでなく、スープなどのだしを取るためにも使う。
ヨーロッパで海上交易が発達する前の中世においては、ヨーロッパ人によるアジアとの交易はもっぱらポーランドを経由したものであり、ポーランド東部の都市のコショウの市場でアルメニア人の隊商やユダヤ人の仲買人が活躍したが、その時代のポーランドではヨーロッパで最もコショウが手に入りやすく、貴族やユダヤ人コミュニティーを中心にコショウをふんだんに使ったさまざまな料理が発達したが、大航海時代のスペイン人やイタリア人などによる海上交易が発達するにつれてポーランドの陸上貿易によるコショウ取引が廃れていくとともに、コショウを大量に使ったスパイシーな料理もあまり食べなくなっていった。
特に植物性の発酵食品を好む傾向があり、ザワークラウト(ポーランド語ではカプスタ・クファシナ)、きゅうりの古漬け、ライ麦を原料とした液体味噌(同 ジュール)の味噌汁(同 ジューレック)をよく食べる。
冬が長い気候ではぐくんだ習慣ではあるが、根野菜やキノコ(漬物にしたり干物にしたりして長期保存する)を好むのも日本人と似ている。森の果物やキノコを採取してたくさん保存しておく習慣がある。毎年50人近くが毒キノコの犠牲となる[54](日本は毎年5人程度)。ヨーロッパの国のうちでは人口が非常に多く、しかも一般の人がキノコ採りをする習慣のある国で、50人という数字は交通事故死などに比べ決して大きくはない。毒キノコの犠牲者が出るたびに新聞記事となるが、国民は、キノコ採りの経験の浅い人がやたらと知らないキノコを採るがゆえの自業自得だ、キノコを採るなら自分でちゃんと勉強するべきだ、と自己責任を強調する(症状が悪化しても、手遅れになる前に助かっているケースがほとんど)。もちろんレストランで供されるキノコは栽培キノコが安全なのはもちろんのこと、野生キノコでも厳しいチェックを経ており毒キノコ中毒事故はまず起きない。
ヨーロッパではめずらしく中世から伝統的にギョウザ(ポーランド語でピエルク、複数形でピエロギ)を食べる習慣がある。餃子はアジアとの交易により伝わった。もっちりとした厚めの皮の中に詰める具はさまざまで楽しい。
ポーランド人はゆで卵(ポーランド語でヤイカ、あるいはヤヤ)、ライ麦40%小麦60%程度の食事パン(同 フレプ・バルトノスキ)、たくさんの種類のフレッシュチーズ(同 セレック・ビャーウィ)、日本のものよりすこし甘めのマヨネーズ(同 マヨネーズ)、ほんのりと軽い酸味のある食べ物、ソフトクリーム(同 ロディー)、キノコやクリームや肉のソース、コールスローサラダに似た独特のポーランド式サラダ(同 サワータ)、ニシン(同 シレジ)のマリネ、といったものを非常に好む。
ハム(同 シュンカ)、ベーコン(脂身の少ないモモベーコン)、豚・牛・羊・山羊・馬などのソーセージ(同 キェウバーサ、カバーノス、など)、肉のパテ(朝食のパンに塗る)、ミートローフ、豚肉や鶏肉のゼリー寄せ(いわゆるジュレ、ポーランド語ではガラレトカ)、といった食肉加工品も好んで食べるが、それは後述の食習慣のためである。
過去には、ポーランドでは一日に4回の食事をとっていたが、近年は3回の家庭が多い。基本的には昼食を正餐とし、イギリスのティーの習慣と同様に朝食と夕食はパンとハムと(ポーランド式)コールスローサラダあるいはザワークラウトとお茶などで軽く済ますのが伝統だが、都市部では男女とも外に出て働くことが多いことから、昼食を軽くし夕食を正餐とする場合も多くなっている。ポーランドのスープの種類の多さは特異的(ポーランド料理の記事を参照)だが、これも夕食を簡単に済ます際にスープならば作りやすいことから。
ポーランド人は「ゆでたまご」を非常に好む習慣がある「ゆでたまご民族」である。ゆで卵は丸のままスープに入っていることも多く、特に前述のポーランド式味噌汁「ジューレック」にはたいてい入っている。半分に切って上にニシンのマリネとタルタルソースとハーブ(主にディル)を載せた「ゆでたまご寿司」のような料理は必ずと言ってよいほど宴会で供される。ゆでたまごで自家製タルタルソースを作ることも多い。イースターのときは必ずゆでたまごをかごに入れ教会に持って行って祝福してもらい、それを大事に家に持ち帰って皆で分け合って食べる、というキリスト教の古いしきたりを非常に大事にしている。ポーランドはたまごに「生命の活力の象徴」のような特別な意味を見出しており、一種の縁起物なのである。
アルコール飲料のうちではビールが最も人気がありビール製造の伝統も長く、次にワイン[55]。ポーランドの代表的なアルコール飲料として知られるウォッカ(ポーランド語でヴートゥカ)の消費量はビールとワインに次ぐ第3位で、国内消費量は激減している一方、国外ではかっこいい飲み物として世界中の若者のバー・クラブ文化に急速に浸透し、またカクテルのベースに使われたりもして、国内のウォッカ製造業者は輸出により順調に収益を伸ばしている。
コーヒーは伝統的にはギリシャ=トルコ式であったが、現在はイタリア式が主流。いずれにしても深煎りのコンチネンタルスタイルを好む。
ポーランド料理の易しい味に合わせて考えるためか、紅茶を好む人がかなり多い。紅茶にはレモンが添えられる。子供にはミルクティーが出されるが、大人は紅茶にミルクを入れる習慣が全くなく、英国式のミルクティーを子供っぽいと感じるポーランド人もいる。イギリスの紅茶メーカーであるトワイニング社はイギリス国内の紅茶製造工場を全て閉鎖したうえで、同じく紅茶文化が伝統的に盛んな上紅茶市場が急速に拡大中のポーランドに生産を完全移転する予定で、この移転で直接的にはあまり大した製造コスト低減が見込めないこともあって、なぜわざわざポーランドに移転するのかということでイギリスの極右勢力の間で激しく物議を醸している[56][57][58]。
嗜好品ないし薬として日常的にハーブティーを飲む習慣があり、国内に多数のメーカーがある。ポーランドでは紅茶もハーブティーも一般に「ヘルバータ(herbata)」と呼ばれるが、これは「ハーブ(herb)」が原義である。昔から茶はハーブのひとつとして認識されていたということである。
店で売られる清涼飲料水は一時かなり広まったが、現在は手作りコンポートを水、湯、炭酸水、牛乳(冷たくても温めても)、ドリンクケフィール、などで割った伝統的な飲み物も再び好まれるようになってきた。
ホットチョコレートは人気があり、ポーランド人はワルシャワのヴェーデル社直営のカフェで供されるホットチョコレートを、「良きポーランド人」であったヤン・ヴェーデルの記憶とともに誇りとしている。
さまざまなケーキを普段のお茶菓子として食べる習慣があり、スタンダードなケーキの種類が多い。店でも売られるが、家庭での手作りも頻繁に行われる。特に、「トゥファルク(twaróg)」と呼ばれるポーランド伝統のクアルクチーズ(温めたのちにほんの少しだけ発酵させた牛乳でつくるフレッシュチーズ)を使用するベイクドチーズケーキ「セルニック」や、ケシの実を大量に使用した「マコヴィエッツ」というケーキ、そしてイースターの前のとある木曜日に特に大量に食べるローズヒップのジャムがフィリングとなっているドーナツ「ポンチキ」などは特筆に値する。
ポーランドのケーキは見た目よりも香りや味を重視する傾向がある。見た目は豪快で一人前として供される量も多いが、ケーキにもポーランド人独特の繊細な味覚や嗅覚が反映されており、甘すぎず酸っぱすぎずしつこすぎず香りが良いため、ついつい後をひくやさしい味をしている。これらもコーヒーより紅茶が合う。
なお、チーズについては上記(歴史の項)にあるように、ポーランドではこれまで知られているうち世界で最も古いチーズ製造の痕跡(7500年前)が発見されている。
文学
「ポーランド文学」といえば一般にポーランド語文学を指すが、ポーランドの文学の伝統はかつてのポーランド=リトアニア共和国における多民族社会を反映して、ポーランド語だけでなく、ラテン語、イディッシュ語、リトアニア語、ウクライナ語、ベラルーシ語、ドイツ語、エスペラント語といった、多くの言語による多様性を特徴としている。ここでは主にポーランド語の文学について述べる。
中世ポーランドにおいては当初ラテン語による記述が主流であった。ポーランド人によってラテン語で書かれた本で、現存するもののうち最も古いものは13世紀の歴史家でクラクフ司教でもあったヴィンツェンティ・カドゥウベックによる年代記である。ポーランド語による記述で現存するもののうち最も古いものは13世紀半ばにドイツ人修道院長によって書かれたラテン語の年代記に表れる、12世紀のヴロツワフ公ボレスワフ1世が后に掛けたという「ぼくが粉を引くから、きみは休みなさい( "Day ut ia pobrusa, a ti poziwai" )。」といういたわりの言葉である。この頃から古いポーランド語による記述が多く現れるようになった。
15世紀に入るとカトリック司祭で年代記作者でもあるヤン・ドゥウゴシュの文筆活動がポーランドにおける文学の発展に大きく寄与した。1470年頃にはポーランドで最も初期の複数の印刷工場が業務を始めている。これに続いてルネサンス時代がポーランドでも始まり、以後は書き言葉としてもポーランド語がポーランドにおける主流となった。この時代にポーランド語文学の発展に最も貢献したのは詩人のヤン・コハノフスキで、彼の作った多くの詩がポーランド語の標準的な語法と認識されるようになった。コハノフスキは19世紀以前のスラヴ人世界における最も偉大なる詩人であると評価されている[59]。
つづくバロック時代や啓蒙時代を通じてポーランド語文学は発展したが、ポーランド分割によってポーランド=リトアニア共和国が消滅した後は他国支配に対するポーランド独立運動の意識と結びついて非常に独特なロマン派文学の発展を見ることになる。この「ポーランド・ロマン派」の代表とされるのがアダム・ミツキェヴィチである。ポーランドの国民的叙事詩「パン・タデウシュ」は近現代ポーランドの苦難の時代にも常に愛読され、1999年にアンジェイ・ワイダによって『パン・タデウシュ物語』(邦題)として映画化された。
ポーランド立憲王国と旧リトアニア大公国の各地域で行われた、旧ポーランド=リトアニア共和国復活運動である対ロシア帝国1月蜂起が1864年にロシア軍によって残酷に鎮圧されるとポーランドにおけるロマン派の流れは衰退し、実証主義の時代となる。ポーランド実証主義文学者のうちで最も広く知られているのは『クオ・ヴァディス』(のちにマーヴィン・ルロイ監督によってアメリカのハリウッドで同名映画化)の作者ヘンリク・シェンキェヴィチと『農民』の作者ヴワディスワフ・レイモントという、2人のノーベル文学賞受賞者である。またこの時代は、当時のポーランド社会にたくさん存在したユダヤ人コミュニティーを中心にイディッシュ語文学も多く発表されるようになり、ブルーノ・シュルツやイツホク・レイブシュ・ペレツなどは多くの人気作品を遺した。
一方、このポーランドの苦難の時代に多くのポーランド人が海外で生活するようになったが、没落シュラフタ(ポーランド貴族)のテオドル・ユゼフ=コンラート・コジェニョフスキは船乗りとしての生活のあとイギリスに定住して 英語で小説を書いて次々と発表し、現代英国文学の代表的文豪の一人として、ジョセフ・コンラッドの筆名によって世界中で愛されている。コンラッドの作品の多くはアメリカやイギリスで映画化されているが、たとえば『闇の奥』と『決闘者たち』は、それぞれフランシス・コッポラ監督の映画『地獄の黙示録』、リドリー・スコット監督の『デュエリスト/決闘者』の原作である。
第二次世界大戦を経て共産主義時代から民主化までの抑圧の時代は文学が反体制運動の主流となる。体制側の体裁をとった「若きポーランド」と呼ばれる文学運動も巧妙な反体制活動の側面があった。この時代の代表に詩人のチェスワフ・ミウォシュと、同じく詩人で日本の歌川広重の浮世絵に触発された詩作で世界的に有名となったヴィスワヴァ・シンボルスカという2人のノーベル文学賞受賞者、さらに小説『灰とダイヤモンド』(アンジェイ・ワイダによって同名で映画化)の作者として有名なイェジ・アンジェイェフスキ、『尼僧ヨアンナ』 (イェジー・カヴァレロヴィチ監督によって同名映画化)の作者として知られるヤロスワフ・イヴァシュキェヴィッチなどがいる。また空想科学文学(サイエンス・フィクション)の分野ではスタニスワフ・レムが新地平を開き、代表作『ソラリスの陽のもとに』は『惑星ソラリス』としてソ連でアンドレイ・タルコフスキーよって、さらに『ソラリス』としてアメリカでスティーブン・ソダーバーグによってそれぞれ映画化されたことで世界的に知られている。
この時代は共産主義体制を嫌い外国へ亡命する人が続出したが、こういった人々のなかには、アメリカ合衆国に移住しそこで英語で小説を多く書いて現代アメリカ文学の前衛的存在となり、『異境(原題:Steps)』や『庭師 ただそこにいるだけの人(原題:Being There)』(ハル・アシュビー監督、ピーター・セラーズ主演で『チャンス』として映画化)など、現在でもその作品が若者を中心にカルト的人気を獲得している、ジャージ・コジンスキーとして知られるイェジ・コシンスキなどがいる。
またこの時代よりポーランド現代文学の特色であるノンフィクション文学が勃興した。その代表としては、日本でも『サッカー戦争』や『帝国』などの著作で知られ、世界中で「20世紀の最も偉大なジャーナリスト」(英ガーディアン紙)[60][61]、「世界で最も偉大な報道記者」(独シュピーゲル紙)、「現代のヘロドトス」(独フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング紙)[62]などと評価される、リシャルト・カプシチンスキがいる。
音楽
ポーランド音楽の理論的発展の最も初期は13世紀でノートルダム楽派の影響を受けており、この時代の楽譜がポーランド南部の街で発見されている。宗教音楽としては『テンプレート:仮リンク(神の母)』という歌曲がこの時代に作られたものと推定されている。この曲はポーランド王国がリトアニア大公国やプロイセン連合と同盟してドイツ騎士団を討った1410年のグルンヴァルトの戦いでも合戦の際に歌われたと伝えられる。『テンプレート:仮リンク(神が生まれる)』は歴代のポーランド王が戴冠するときに演奏されたポロネーズの曲で、後の1792年にはテンプレート:仮リンクによってポーランドのクリスマス・キャロルとしての歌詞が作られた。
16世紀になるとポーランド音楽は急速に発展した。これにはクラクフの王宮であるヴァヴェル城の宮廷音楽たちが活躍した。これらのポーランド人作曲たちの中でも異色なのは、5歳で家族とともにイタリアからポーランド王国に移住してポーランドに帰化したテンプレート:仮リンクである。彼は親戚を通してイタリアの最新の音楽情報を得、これをポーランド音楽に応用していったのである。王国の首都がワルシャワに移された16世紀の終わり頃より多くのイタリア人音楽家がポーランド王国にやってきて、長期滞在するあいだ社交の場に参加し、演奏会を催したり講義を行ったりした。ここでポーランドの音楽家たちはバロック音楽のスタイル、最新の楽器、通奏低音といった技法などの情報に触れ大いに刺激された。17世紀初頭からはイタリアの影響を受けてオペラが盛んに製作されるようになり、ワルシャワは音楽文化や舞台文化の一大中心地として発展していった。しかしポーランド王国の国力が急速に衰退していった17世紀の終わり頃よりポーランド音楽の多くの部分が停滞した。独自のオペラを製作した人々もいたが、多くの作曲家は当時人気のハイドンやモーツァルトのスタイルを模倣することで満足していた。しかし一方、ポロネーズなどポーランド伝統音楽を題材にした音楽の発展に関しては目覚しいものがあり、ポーランドの芸術音楽として内外に広く認識されるほどの高みに達するようになった。その作曲家の代表格がフレデリック・ショパンである。
ポーランドの民俗音楽については19世紀より曲の収集と整理が行われた。テンプレート:仮リンクはポーランド文化の復興を目指して熱心に各地を周って曲を収集していった。20世紀半ばにポーランドが共産主義体制となると民俗音楽に関しても国営の音楽・舞踊団が数多く結成された。マゾフシェ音楽・舞踊団とシロンスク音楽・舞踊団は共産主義が過去のものとなった現在においても活動している。これらの団体は各地方の民俗音楽をまとめて扱うため、地方性が薄い側面があると言われるが、外国人にとってはコンサートホールでポーランドの伝統音楽に触れる良い機会を提供している。一方で現在のポーランドの各地には各コミュニティーの自発的な音楽・舞踊団が存在しており、国営音楽・舞踊団ほど大規模な演奏ではないものの、地方色豊かな音楽文化を見せてくれる。ポーランド国内の各地で民俗音楽祭が頻繁に開催され、そのような場で彼ら小規模の音楽・舞踊団が活躍している。
マズルカやポロネーズなどといったポーランドの伝統的なダンス音楽を、外国に広く紹介する役割を果たした功績はなんといってもフレデリック・ショパンに与えられるだろう。ショパンの音楽活動によってポーランド音楽はヨーロッパで大人気となった。3拍子のダンスは主に北東部で、2拍子のダンスは南部でよく見られる。ポロネーズはもともとポーランド貴族の舞踏会での演奏されるもので、ポーランド音楽を最初に知ったフランス人たちがフランス語で「ポーランド風(のダンス音楽)」ということで名づけたものであり、それはポーランドでは「ホゾーニ(Chodzony)」と呼ばれる非常にゆったりとしたリズムの絢爛豪華なダンス音楽で、これはポーランド貴族たちの舞踏会や宴会で参加者が入場する際に演奏され、このリズムに乗って貴族たちがそれぞれ男女ペアとなり腕を組んで、控え室から会場へとゆったり踊りながら入場し着席するのである。その後ポロネーズはポーランドにおいても庶民の間で人気となり、国民全体に広まっていった。
ポーランド南部の街ザコパネを中心とする山岳地方の一帯は「ポトハレ地方」と呼ばれ、ここでは19世紀よりポーランドの芸術の中心地のひとつとなった。民俗芸術だけでなく、現代音楽の先駆者として有名な作曲家のカロル・シマノフスキはザコパネに住んで、ここを拠点に音楽活動をしており、彼の家は現在でも保存されている。シマノフスキはこの地方の住民である「グラル人(「山の人」という意味)」の民俗音楽の収集や、それをモチーフとした作曲も行っている。グラル人は昔からチーズケーキをお茶菓子として盛んに作る習慣があり、いわゆる現代の形のベークドチーズケーキを生み出した人々だと言われているが、これは彼らの祖先の一部が古代よりチーズを使った焼き菓子を作る習慣があったギリシャなどのバルカン半島南部の文化を持ち込んで、ポトハレ地方で次第に現在のチーズケーキの形にしていったものである。彼らは弦楽器やバグパイプを用いて盛んに音楽を演奏する習慣があり、現代ではバイオリンやチェロを多用する。また彼らはリディアンモードの音階を用い、歌うときにはこれに良く合う独特の歌唱法であるリディゾヴァニェを使う。いくつかのダンス音楽の種類があるが、中でもクシェサニィ(krzesany)は非常に早い動きを必要とするもので、また「山賊踊り」という意味のズブイニツキ(zbójnicki)はこの地方独特のダンスとして非常に有名である。
A Maiden's Prayer.mid "乙女の祈り" </span>,
MIDI, 3:05 minutes, 13 KB19世紀初頭になるとポーランドのクラシック音楽のスタイルが確立された。ユゼフ・エルスネルはフレデリック・ショパンとテンプレート:仮リンクを育てた。テンプレート:仮リンクとスタニスワフ・モニューシュコはポーランドのオペラ音楽を発展させた。また、1833年2月には当時世界最大の音楽施設であるテンプレート:仮リンクが完成し、こけら落としとしてジョアキーノ・ロッシーニのオペラ『セビリアの理髪師』が演じられた。独奏の分野ではヘンリク・ヴィエニャフスキやユリウシュ・ザレンプスキが主な作曲家に挙げられる。テクラ・バダジェフスカはアマチュアながら、17歳のときにフランスの音楽雑誌に投稿した自作の曲『乙女の祈り』がフランスで大人気となり、27歳で他界するまでその後も数十曲を作曲して発表した。『乙女の祈り』はフランスのほか日本でもあまりに有名な曲であるが、不思議なことに現代のポーランドでは『乙女の祈り』はおろかバダジェフスカの名でさえもあまり知られておらず、近年やっと少しずつその名が広まるようになったところである。
19世紀末から20世紀初頭の時代にはヴワディスワフ・ジェレンスキ、ミェチスワフ・カルウォーヴィチ、カロル・シマノフスキは特に人気を博した。伝説のピアニストであるイグナツィ・パデレフスキは第一次大戦後に独立を回復したポーランド共和国の首相となった。ユゼフ・コフラーは十二音技法を開拓した。
第一次大戦後の時代は若い音楽家たちが芸術運動を開始し、グラジナ・バツェヴィチ、テンプレート:仮リンク、テンプレート:仮リンク、タデウシュ・シェリゴフスキなどが活躍した。イグナツィ・パデレフスキは政治家としての活動に身を投じた。映画『戦場のピアニスト』の主人公として有名なヴワディスワフ・シュピルマンは大衆音楽の作曲家としても人気があり、彼の作曲した明るいジャズ調の歌謡曲『ワルシャワの赤いバス(Czerwony Autobus)』は今ではスタンダード曲としてポーランド人に最も人気のある曲の一つであり、この明るい曲はポーランド人にとっては第二次大戦前の、欧州で「北のパリ」として知られた美しく快活なワルシャワの街の姿を思い起こさせるものである。
第二次大戦後の社会主義時代はタデウシュ・バイルト、ボグスワフ・シェッフェル、テンプレート:仮リンク、テンプレート:仮リンク、クシシュトフ・ペンデレツキ、ヴィトルト・ルトスワフスキ、ヴォイチェフ・キラール、カジミェシュ・セロツキ、ヘンリク=ミコワイ・グレツキ、クシシュトフ・メイエル、パヴェウ・シマンスキ、テンプレート:仮リンク、テンプレート:仮リンク、テンプレート:仮リンク、テンプレート:仮リンクなどが活躍した。
ポーランドは社会主義の時代においても他の社会主義国に比べて情報に関しては統制が緩やかで西側自由主義陣営の音楽情報が比較的楽に入手できた。そのため1989年の東欧革命以前にもジャズやロックといった西側的な音楽文化が自由に存在した。一方、貿易規制のため機材や最新のレコードの調達が困難だった。そのため、おもに彼らは西ヨーロッパ諸国や北アメリカ諸国に住む親戚を頼ってこれらを入手した。ロックの分野ではプログレッシブ・ロック、ヘヴィメタル、テクノポップ、ニュー・ウェイヴなどが人気となった。ヘヴィメタルではヴェイダー、ベヒーモス、ディキャピテイテッド、ヘイトなど多くのバンドがこの分野で世界的な人気バンドとなっているが、特にヴェイダーは東欧革命よりはるか前の1983年からプロとして活動しておりいまだに最も人気のあるデスメタルバンドの一つである。近年、ヴェイダー以外にも、ベヒーモスに代表されるように、非常にテクニカルで激しいデスメタルバンドの世界有数の宝庫ととして知られており、デスメタルはポーランドの重要な輸出産業となりつつある。ジャズではクシシュトフ・コメダは同国出身のロマン・ポランスキー監督の映画『ローズマリーの赤ちゃん』の映画音楽を担当したことであまりに有名である。
ポーランド人は音楽民族と呼べるほど音楽祭の好きな国民で、国や自治体、そして市民の草の根による音楽イベントが盛んに行われる。グダンスクなど主要都市では地元の交響楽団のための最新の音楽施設が次々と建設されている。5年に一度開かれるワルシャワのショパンコンクールはもちろん、毎年夏に開かれるソポト国際音楽祭はユーロヴィジョンと並んでヨーロッパで最も大きな国際音楽祭である。また、テンプレート:仮リンク(Przystanek Woodstock - 「ウッドストック・バスストップ」の意)はヨーロッパ最大の草の根主体の屋外音楽イベントで、毎年夏にヨーロッパ全土から音楽ファンが集い、その規模においてアメリカの元祖ウッドストック・フェスティバルを凌駕する勢いとなっている。2010年8月1日にはポーランドを含むヨーロッパやアメリカなどから集まった615人のミュージシャンたちがリサイクル品で作った楽器で同時に演奏し、これが記録としてギネスブックに載ることになった[63][64]。大きな草の根イベントではこのほか、ヴロツワフのジミ・フェスティバル(Jimi Festival)[65]では毎年世界中から数千人のジミー・ヘンドリックスのファンが集まり、ヴロツワフの旧市街広場で一斉に同じ曲「Hey Joe」を演奏する壮観を呈しする。2009年には6300人が参加し世界で最も多い人数によるギターの合奏としてギネスブックに登録された[66]が、その後も毎年この祭りはギネス記録を更新しつづけ、2014年5月の大会では7344人が「Hey Joe」を演奏して、自分たちが昨年打ち立てたギネス記録(7273人)を塗り替えている。テンプレート:仮リンクは主にポーランド国内各地から数多くの民俗音楽団がオポーレに集まるが、まだ共産主義であった1980年代のうちに既に民俗音楽部門のほかにロック部門とヒップホップ部門が加わって、国内アーティストの登竜門的な存在の音楽祭ともなっている[67]。2009年夏にはソポトでリヒャルト・ワーグナーの作曲した全ての曲を演奏するイベントが開かれた[68]。また国内各地の市町村レベルの自治体も毎年競うように音楽祭を催している。音楽のジャンルもクラシック、民俗音楽、大衆音楽など多岐に亘っている。また結婚披露宴では通常は生のバンドが招かれて演奏し、それに合わせて宴会の参加者が3日3晩踊り明かすのが古くからのしきたりになっており、大都市ではこれが1-2日間に短縮されたものの田舎では相変わらずこの習慣が広く行われている。美術
映画
住居
ポーランド国内の都市の中心部は中世の街並みが保存維持されているが、外縁部の風景に共通するのは旧共産圏によく見られる四角いアパート群が多いことである。これは旧体制時代に建設されたもの。戦後、人口増加の対策として間に合わせに作られたものである。こぢんまりしてはいるが、日本の団地と比べて、間取りはかなり広く、天井も高く、広めのバルコニーがあり、各戸の多くが前面と後面の両方に窓があって風通しが良く、窓が二重窓で、全ての部屋に温水式セントラルヒーティングシステムがついており、壁が厚くで隣室との間の防音性が高く、キッチンスペースが大きく、浴室が広々としていて洗濯物も干せ、階段が建物内部にあり、ほとんどの階段フロアにエレベーターが複数ついており、各棟の出口近くに雑貨店・一般食料品店・食肉店・パン店・酒屋・大衆食堂・結婚披露宴やダンスパーティーに使われる宴会スペース・バスやトラムの停留所・児童公園・カトリック教会があるように設計されている、などとかなり使い勝手はいい。しかし一方、そういった近代アパートの存在がポーランドのよき文化的伝統に対する脅威となっているとの社会学的非難がある。地区のカトリック教会がある程度人々を結びつけている。
ワルシャワなどの大都市に関しては高度成長を背景に、複数の不動産開発業者がビジネス街に超高級マンション・オフィス・ホテル複合施設を建設することになっており、今後数年の間に多数の超高層ビルが新たに出現することになっている[11]。
一方、郊外および地方では、伝統建築の、あるいは伝統建築をモチーフにした美しい一戸建てが多く建てられてきており、古い建物も順次リフォームされ、こちらでは地域のコミュニティがよく発達している。
世界遺産
テンプレート:Main ポーランド国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が12件ある(そのうちドイツとにまたがっているものが1件)。また、ベラルーシとにまたがって1件の自然遺産が登録されている。したがって世界遺産は合計13件となる。
そのほかに現在、世界遺産の暫定リストに4件が登録されている(そのうち1件は現在登録されている自然遺産の拡張である)。
祝祭日・年間行事
日付 日本語表記 現地語表記 備考 1月1日 元日 Nowy Rok 新年。ニューイヤーパーティーなどが盛大に行われる。(休) 1月6日 3人の博士の日 Trzech Króli 三人の博士がイエス・キリストに会いに来たのを記念する日。 1月21日・1月22日 おばあちゃんの日・おじいちゃんの日 Dzień Babci・Dzień Dziadka 21日がおばあちゃんの日で22日がおじいちゃんの日 移動祝祭日 脂の木曜日 Tłusty Czwartek 脂っこいものを食べる日。2月中旬、謝肉祭直前の木曜。 移動祝祭日 復活祭 Wielkanoc 春の満月後の最初の日曜日と翌日の月曜日。キリストの復活を祝う日。クリスマスと並ぶ大きな祭日。2007年は4月8日と9日。(休) 5月1日 メーデー Święto Pracy (休) 5月3日 「5月3日憲法」記念日 Rocznica Konstytucji 3 maja 1791年に制定された憲法を記念する日。 ※ヨーロッパで初めての憲法 (休) 5月26日 母の日 Dzień Matki 移動祝祭日 聖霊降臨の祝日 Zielone Świątki 復活祭後の7回目の日曜日。聖霊が使徒たちの上に下ったことを記念。2007年は5月27日 (休) 6月1日 子供の日 Dzień Dziecka 移動祝祭日 聖体の祝日 Boże Ciało 聖霊降臨節の10日後の木曜日。最後の晩餐を記念する。2009年は6月11日(休) 6月23日 父の日 Dzień Ojca 8月15日 聖母被昇天の祝日 Wniebowzięcie Najświętszej Marii Panny チェンストホーヴァ(Częstochowa)にあるヤスナ・グラ寺院(Jasna Góra)へ、ポーランド各地から大規模な巡礼が行われる。(休) 11月1日 諸聖人の日 Wszystkich Świętych 諸聖人を祭る日。墓地で家族や親類の墓にろうそくを置く。(日本で言うお盆) (休) 11月2日 死者の日 Zaduszki 祖先の霊を供養する日 11月11日 独立記念日 Narodowe Święto Niepodległości ロシアとドイツ,オーストリアからの独立を記念する日。(休) 12月6日 サンタクロースの日 Mikołajki Mikołaj(Nicolaus=サンタクロース)の日とされ、子供たちにプレゼントが与えられる。 12月24日 キリスト降誕祭前夜(クリスマス・イヴ) Wigilia Bożego Narodzenia 教会でミサを行う。基本的に日本のクリスマス・イヴとは違い家族で過ごす。(日本のお正月のような雰囲気)この日は肉を食べてはいけないというならわしがあり、伝統的に鯉を食べる。 12月25日~12月26日 キリスト降誕祭(クリスマス) Boże Narodzenie クリスマスの日。親戚や家族で集まる。 (休) 12月31日 シルヴェスターの夜 Sylwester 大晦日に当たるが、日本のものとは異なる。家族や親戚、友人でパーティーを催したり、夜中の12時に花火を飛ばしたりする。 ※(休)は休日
インターネット
Facebookとnk.plの激しい会員獲得合戦
ポーランドでは2006年11月に発足した独自のソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)「nk.pl」(旧Nasza Klasa、「ぼくたちのクラス」)が盛んで総人口3800万人の3分の1に当たる1350万人がこれに参加しており、これは卒業した学校の同窓生同士の交流を主体としている。しかし、これと並行して「Facebook(フェイスブック)」も登録者数を伸ばしている。
ポーランドはソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)の利用が全世代にわたって定着している。世界的に比較してみても、18-49歳にまでわたる世代でポーランドよりもSNS利用が定着している国はイギリスしかなく、ポーランドは世界第2位で、もちろんアメリカよりも高い。ポーランドのSNS利用率は全世代にわたって高く、世界的に見て高齢層の利用率が世界4位と高いが、若年層の利用率がそれ以上に高いため統計上は世代間の差が大きい結果になるという特異な現象が起きている[69]。
最近は国産の「nk.pl」(旧「ぼくたちのクラス」)とアメリカ製の「Facebook」の間で激しい会員獲得競争が起きている。ポーランドでは、現実世界でのコミュニティー活動と深いつながりのある「nk.pl」(旧「ぼくたちのクラス」)は農村住民や高学歴の人々の間で人気があり、ネット上での活動に限定される傾向が強い「Facebook」は都市住民や低学歴の人々に人気があるという、はっきりした傾向が見られる[70]。
ネット上のメディア
既存の新聞のインターネット版も充実している。特に新聞は投稿を歓迎しており、ほとんどの記事には投稿欄が付いている。投稿欄の文字数の制限は無いか、あるいは許容文字数が非常に多いため、読者による討論、あるいは記者を交えた討論が盛んに、かつかなり真剣に行われている。ポーランド語を除いては英語による記事や討論が多い。この読者たちが記者を巻き込んで、真剣かつ誠実に討論をする傾向はポーランドでは特に顕著に見られる。
インターネット上のメディアで英語版が最も充実しているのはポーランド国営ラジオ局のニュースサイト「Thenews.pl」である。
スポーツ
多くのヨーロッパ諸国同様サッカーの人気が高く、2012年にはウクライナと共催でUEFA欧州選手権2012が開催されたが、最も人気のある競技はバレーボールである。
その他、ボクシング、陸上競技、バスケットボール、フェンシング、ハンドボール、アイスホッケー、水泳、バレーボール、重量挙げ、総合格闘技などの競技が人気である。近年は、モータースポーツに対する人気も上がっている。
サッカーのロベルト・レヴァンドフスキ、ヤクプ・ブワシュチコフスキ、ウカシュ・ピシュチェク(3人共ドイツ・ブンデスリーガのドルトムントで香川真司のチームメイトだった)、F1のロバート・クビサ、女子バレーボールのアンナ・バランスカは日本でもよく知られている。
著名なポーランド人
テンプレート:Main 以下の人々はそれぞれの分野で世界的に知られている。
- ミコワイ・コペルニク(ラテン語名ニコラウス・コペルニクス) 【天文学者】
- ヤン・ヘヴェリウシュ(ラテン語名ヨハネス・ヘヴェリウス) 【天文学者】
- ステファン・バナッハ 【数学者】
- アルフレッド・タルスキ 【数学者】
- マリア・スクウォドフスカ=キュリー(マリ・キュリー・通称キュリー夫人) 【物理学者・化学者】
- カジミェシュ・フンク(英語名カシミール・フンク) 【生化学者・ビタミンの発見者】
- ヤン・マテイコ 【画家】
- ズジスワフ・ベクシンスキー 【画家】
- タデウシュ・コシチュシュコ(コシューシコ)【軍人】
- アダム・ミツキィェヴィッチ 【詩人】
- フレデリック=フランソワ・ショパン 【作曲家・ピアニスト】
- テクラ・バダジェフスカ 【作曲家・ピアニスト】
- イグナツィ・パデレフスキ 【ピアニスト・政治家】
- カロル・シマノフスキ 【作曲家】
- ルドヴィコ・ザメンホフ 【眼科医・言語学者-エスペラント創案者】
- ルジャ・ルクセンブルク(ローザ・ルクセンブルク)【社会主義者】
- イレーナ・センドラー(カトリック教徒の慈善活動家)
- ヤヌシュ・コルチャック(通称コルチャック先生) 【小児科医、孤児院院長、児童文学作家】
- マキシミリアノ・コルベ(コルベ神父) 【カトリック聖職者・アウシュビッツの聖者】
- ゼノン・ジェブロフスキ(日本語名ゼノ・ゼブロフスキー、通称「ゼノ修道士」または「ゼノ神父」)【修道士・慈善活動家】
- ヨハネ・パウロ2世(ポーランド名カロル・ユゼフ・ヴォイティワ) 【カトリック聖職者・第264代ローマ教皇】
- クシシュトフ・キェシロフスキ 【映画監督】
- ロマン・ポランスキ(ロマン・ポランスキー) 【映画監督】
- アンジェイ・ヴァイダ(アンジェイ・ワイダ) 【映画監督】
- ジョセフ・コンラッド(ポーランド名テオドル・ユゼフ・コンラト・コジェニョフスキ) 【作家(英国文学)】
- ヘンリク・シェンキェヴィチ 【小説家】
- スタニスワフ・レム 【SF小説家】
- レフ・ヴァウェンサ(レフ・ワレサ)【政治家・元大統領】
- ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ【軍人・共産党元第一書記・元大統領】
- バーシャ・チェチェレフスカ【シンガー】
- パウエル・ナツラ(パウエル・ナツラ) 【柔道家、総合格闘家。アトランタオリンピック男子柔道95kg級金メダリスト。】
- ズビグニェフ・ボニエク 【サッカー選手】
- ロベルト・クビツァ(ロバート・クビサ) 【F1ドライバー】
- アダム・マリシュ 【スキージャンプ選手】
- ジェシカ・ジャクボウスキ【医師】
- タデウシュ・カントール【劇作家・演出家】
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ヨハネ・パウロ2世
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コペルニクス
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マリア・スクワォドフスカ(キュリー夫人)
- Tadeusz Kościuszko.PNG
コシチューシュコ
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イレーナ・センドラー
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ショパン
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パデレフスキ
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ペンデレツキ
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シマノフスキ
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ザメンホフ
- Janusz Korczak.PNG
コルチャック先生
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ユゼフ・ピウスツキ
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ヴァイダ監督
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シェンキェヴィチ
- Stanislaw Lem by Kubik.JPG
スタニスワフ・レム
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レフ・ヴァウェンサ(ワレサ)
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アダム・マリシュ
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ロバート・クビサ
- Anna Maria Jopek, Empik Junior, Warszawa, 01.jpg
アナ=マリア・ヨペック
参考文献
出典
関連項目
- ポーランド関係記事の一覧
- ポーランド君主一覧
- ポーランドの大統領一覧
- ポーランドの都市の一覧
- ポーランドの観光地
- ポーランド・リトアニア共和国
- ワルシャワ公国
- フス戦争
- 黒い聖母
- ピウスツキ
- 独立自主管理労働組合「連帯」
- ポーランド統一労働者党 (PRL)
- カティンの森事件
- 梅田芳穂
- ポーランド記法
外部リンク
- 政府
- ポーランド共和国公式サイト テンプレート:Pl iconテンプレート:En icon
- ポーランド大統領府 テンプレート:Pl iconテンプレート:En icon
- ポーランド首相府 テンプレート:Pl iconテンプレート:En icon
- 在日ポーランド大使館 テンプレート:Ja icon
- 日本政府
- 観光その他
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