西ドイツ

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テンプレート:基礎情報 過去の国 西ドイツ(にしドイツ、テンプレート:Lang-de-shortテンプレート:Lang-en-short)は、1949年5月23日から1990年10月3日までのドイツ連邦共和国の通称である。略称、西独

冷戦時代はドイツ民主共和国(東ドイツ)と対峙する分断国家だったが、1990年10月3日、ドイツ民主共和国を併合する東西ドイツ統一により、この通称は使われなくなった。東西ドイツ統一まで首都ボンに置かれたが、統一後はベルリンに移った。ドイツ人は、かつての西ドイツを「ボン共和国」(die Bonner Republik)と呼ぶこともある[1]。ドイツ統一は法的には「旧東ドイツの各州がドイツ連邦共和国に加入」という形式で行なわれたため、厳密にいうと現在のドイツは統一により再編成された新しい国家という訳ではなく、領域を旧東ドイツにも拡大した西ドイツである。

占領地から独立へ

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1945年5月8日第二次世界大戦に敗北したドイツは、7月のポツダム会談によっての4カ国による分割統治と非武装化・非ナチ化政策を受けることになった。しかし、イデオロギー対立による冷戦の開始と共に、米英仏とソ連は対立を深め、米軍占領地区と英軍占領地区は占領円滑化のため合同してバイゾーン(Bizone、後に仏軍占領地区とも連合しトライゾーン Trizone となる)を形成、ソ連軍占領地区との亀裂が深まった。

東西の亀裂が決定的となったのは、1948年6月21日、英米仏各占領地区で独自に発行されていた通貨ライヒスマルクレンテンマルク)を統合してトライゾーンでの統一通貨(ドイツマルク)を発行し、戦後のハイパーインフレーションを収拾する通貨改革を発表したときだった。これはソ連側が6月24日に発行を計画していた新通貨・東ドイツマルクに対抗する措置でもあった。排除されたソ連側は3日後、予定通り東ドイツマルクを発行し、これが東西分裂の象徴になった。ソ連はドイツマルクを使用する西ベルリンを経済封鎖し、西側は大空輸作戦で1949年5月12日までの11か月間西ベルリンを支えた(ベルリン封鎖)。

1949年5月23日、米英仏の西側統治諸州にボンを首府とする連邦共和国臨時政府が発足(ホイス大統領、アデナウアー首相)、10月7日にソ連統治諸州にドイツ民主共和国(ピーク大統領)が成立して、東西に二つの共和国が並び立つ事態となった。四カ国共同占領地だったベルリンも分断され、後には1961年ベルリンの壁建設が行われた。

西ドイツは1955年5月5日主権の完全な回復を宣言し、ドイツ連邦軍を編成して再軍備を行い、北大西洋条約機構(NATO)に加盟した。ただし大規模なソ連軍が駐留し続ける東ドイツを喉元に突きつけられたかたちの西ドイツは冷戦の最前線となったことから、西ドイツにも米英仏の軍がドイツ再統一の直後まで駐留し続けた。

1957年1月1日には住民投票でドイツ復帰を選んだフランス保護領ザールザールラント州として併合した。

経済の奇跡

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空襲で破壊されたケルン市街(1945年)
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世界各国へ輸出されたフォルクスワーゲン・タイプ1(ビートル)は西ドイツの経済の奇跡の象徴となった

西ドイツは欧州経済共同体(EEC)や欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)などへの加盟を通じ、かつて対立した近隣諸国との経済協力や政治協調を進め、欧州の一員かつ中核メンバーとして受け入れられるようになった。また、マーシャル・プラン朝鮮戦争特需によって急速に成長し、経済の奇跡Wirtschaftswunder、1950年にイギリスのタイムズ紙がドイツ復興をこう表現した)と呼ばれる劇的な復興を遂げた。西ドイツはヨーロッパのみならず世界有数の経済大国となり、ヨーロッパ各地やトルコなどから移民を受け入れた。この時期、農業集団化や物資不足により自営農や一般国民が大勢西ドイツへ流出した東ドイツとは徐々に経済格差が開いていった。

戦後の西ドイツの再出発には多数の障害があった。大戦による破壊もさることながら、モーゲンソー・プランに基づきドイツを脱工業化するため1950年まで続いた、連合国軍による石炭産業・鉄鋼業の解体も大きかった。また、ドイツが持っていた知的財産の没収、たとえば国内外にドイツ企業が持っていた高価値の特許を連合国が没収し自国産業強化に使わせたり、ドイツ人の研究者がソ連やアメリカに連行されたりといった苦難もあった。

一般にはマーシャル・プランが西ドイツを復興したように考えられているが、同様の援助は西欧諸国も受けており、西ドイツの経済の奇跡の完全な説明にはならない。西ドイツがマーシャル・プランで受けていた金銭的貸付は、西ドイツが連合国に行った戦争の補償や、連合国軍の駐留経費の支払いに比べると小さなものだった。さらに1953年から1971年まで、西ドイツは毎年マーシャル・プランの貸付資金の返済を行わねばならなかった。

「経済の奇跡」の原因は究極的には、1948年の通貨改革によりライヒスマルクがドイツマルクに置き換えられ、インフレーションが終わったことが大きい。また工業に対する連合国の束縛の廃止もある程度の影響を与えた。1950年に勃発した朝鮮戦争は世界的に物資の需要を高めたが、これによる物資不足で、ドイツ製品を忌避していた国々も西ドイツ製品を買うようになった。当時、西ドイツにはオーデル・ナイセ線以東の旧ドイツ東部領土や東ドイツからの避難民が溢れていたため、他国と比較して賃金の安い熟練労働者を多く抱えており諸外国の輸入需要にこたえることができ、結果ドイツの輸出は急激に伸びた。労働時間は長くなり仕事は次第にきつくなってきたため、1950年代末から1960年代にかけて、ガストアルバイター(Gastarbeiter)と呼ばれる移民トルコ韓国など諸外国から呼ばれ、人手不足や経済成長の加速を支えた。

占領下での通貨改革から西ドイツ成立後の市場経済主義経済政策に至るまで、経済大臣・首相を歴任したルートヴィヒ・エアハルトの果たした役割は大きい。

政治

西ドイツには、「東ドイツとの統一後に憲法を持つことにする」との意志から憲法(Verfassung) がなく、基本法(Grundgesetz)のみがあった(これは基本法146条に明記されていた)。

東西冷戦の最前線に立つ国だったことからアメリカへの政治的・軍事的依存が高く、多くの米軍基地が国内におかれていた。また東ドイツとの対立から、再軍備直後の1956年以来、18歳から45歳までの男子国民に徴兵制が敷かれていた。しかし第二次世界大戦への反省から、西ドイツ時代のドイツ連邦軍の役割は抑制されたものだった。環境保護運動同様に反戦運動も盛んであり、1983年には、1979年調印の第二次戦略兵器制限交渉(SALT II)にもかかわらず西ドイツに核ミサイルが持ち込まれたことを受けてヨーロッパ全土へ波及する大規模な反核運動が起こっている。

対東ドイツ政策

対東ドイツ政策では、1970年代以前はハルシュタイン原則に基づき、西ドイツがドイツ地域で唯一民主的に選出され、ドイツ人民を代表する正統性を持つ国家であると位置づけ、ソ連以外の国で東ドイツを承認して国交を持った国とは、国交を断絶する政策を採った。しかしこの原則は東ドイツが第三世界の多くと国交を結ぶ中で実効性を失った。

1970年代初頭、東側諸国との関係改善を図るヴィリー・ブラント連邦首相東方外交により、東西ドイツは相互承認へと進んだ。さらにモスクワ条約(1970年、ソビエト・西ドイツ武力不行使条約)、西ドイツ・ポーランド間のワルシャワ条約(1970年)、東西ベルリンの相互通行を促進する米ソ英仏の四カ国合意(1971年)、西ベルリンと西ドイツ間の通行を保障する通過合意1972年)、東西ドイツ基本条約(1972年)と続いた諸条約は東西ドイツの関係正常化につながり、両国が同時に国際連合へ加盟する道を開いた。

欧州の協調と対独抑止

第二次世界大戦直後、東西冷戦と並ぶ欧州の大きな問題は、ドイツが三度戦争を起こさないようにするにはどのように抑え込めばいいかというものだった。当初はアメリカなどの一部でドイツの徹底した脱工業化・非ナチ化が構想されていた(モーゲンソー・プランも参照)。また連合軍占領下ではドイツは武装解除され、小規模な国境警備隊や機雷掃海部隊以外の国軍を持つことは許されず、米ソ英仏の四カ国が治安に責任を持っていた。

こうした流れは冷戦の開始とともに変わることとなる。ソ連に対抗すべく西ドイツ経済の復興が求められると同時に、西ドイツの再軍備も検討されるようになった。主権回復後の1950年、西ドイツは再軍備の基本構想策定を解除され新たな「ドイツ連邦軍」の創設準備を始めた。

一方、周辺の西欧諸国はブリュッセル条約を締結して対独抑止を図ったほか、ヨーロッパが西ドイツを制御できなくなることを防ぐため、欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)によって軍需物資である石炭と鉄鋼の産出を西欧諸国で共同管理する仕組みが作られた。また西欧とアメリカは北大西洋条約機構(NATO)を結成することでソ連・東欧への対抗とドイツ抑え込みを行うことになる。しかしフランスはドイツ連邦軍の創設と西ドイツのNATO加盟に反対し、西ドイツも含む西欧諸国が超国家的な汎ヨーロッパ軍を構成する「欧州防衛共同体」(EDC)構想を打ち出した。この構想では西ドイツが作る部隊は西ドイツ政府ではなくEDCの指揮のもとに置かれ、西ドイツの防衛はEDCが責任を持つこととなっていた。この構想は1952年に西ドイツを含む西欧各国間で調印されたが、主権を侵されることをよしとしないド・ゴール主義者たちの反対により1954年に当のフランス議会で否決され、批准に至らなかった。結果、フランスも西ドイツの再軍備とNATO加盟を認め、ドイツ連邦軍は1955年11月12日に正式に誕生した。

国内政治

西ドイツの政治は、小政党が乱立し結果としてファシズムの台頭を招いたヴァイマル共和政期の反省から、一定の得票率(5%)を議席獲得の条件とする・議会制民主主義を否定する政党の結党を禁止する(「戦う民主主義」)などの措置を講じていたため非常に安定した。議会ではキリスト教民主主義の元に右派諸勢力が結集したキリスト教民主同盟(CDU)と19世紀以来の左派政党ドイツ社会民主党(SPD)の二大政党が左右に並んでいた。

建国後、西ドイツ再建と社会福祉の充実を指揮したアデナウアー政権(1949年 - 1963年)のあと、短いエアハルト政権(1963年 - 1966年)とキージンガー政権(1966年 - 1969年)が続いた。

1966年までの政権はキリスト教民主同盟(CDU)とキリスト教社会同盟(CSU)の二つの保守政党の連立であり、これに中道の小政党自由民主党(FDP)が加わっていた。1966年のキージンガー政権ではキリスト教民主同盟・キリスト教社会同盟とドイツ社会民主党の「大連立」が成立したが、この時期に社会民主党は現実主義路線に移り政権運営が可能な能力を得た。

大連立下の議会では、論議の的となってきた非常事態宣言法など憲法上の権利を制限する法律が成立した。この法律に対し学生運動労働組合は反対の声を上げた。1967年には学生デモに参加していた学生ベンノ・オーネゾルクの射殺により運動が過熱し、1968年には学生運動の指導者ルーディ・ドゥチケに対する暗殺未遂事件が発生した。

1960年代にはナチス時代に対する直面を促する学生らによる大規模行動も起こった。また経済成長とともに激しくなったドイツの環境破壊を背景に、ルーディ・ドゥチケら学生運動家、ペトラ・ケリーハインリヒ・ベルヨーゼフ・ボイスら社会運動家は環境保護運動に結集し緑の党が結成された。1979年ブレーメン州選挙で、緑の党はついに得票率5%を超えたため議席を確保している。こうした動きの中で環境保護主義反国家主義が西ドイツの基本的な価値観となった。

同じ1960年代の学生運動のうち、過激化した運動家らが1968年以降ドイツ赤軍(Rote Armee Fraktion、RAF)を結成し、1970年代の間、西ドイツの政治家財界人に対するテロ攻撃を加え続けた。特に1977年の「ドイツの秋」と呼ばれる一連の事態(ドイツ経営者連盟会長のハンス=マルティン・シュライヤーに対する誘拐殺人、およびルフトハンザ航空181便ハイジャック事件など)は西ドイツを震撼させた。

1969年の選挙でヴィリー・ブラントが党首を務める社会民主党は大きな議席を確保し、自由民主党との連立で政権を獲得することに成功し政権交代が起きた。ブラント政権は1974年まで続き東方外交など外交上の成果をあげたが、彼の秘書が東ドイツ国家保安省(シュタージ)のスパイだったというスキャンダルからブラントは首相を辞任した。財務大臣ヘルムート・シュミットが以後1982年まで、自由民主党の党首ハンス・ディートリッヒ・ゲンシャーの助けのもと政権をとった。石油ショック後の景気維持のほか、欧州共同体(EC)への支持、全欧安全保障協力会議の創設など、欧州統合と米欧間の協力強化に尽力した。

1982年には社会民主党と自由民主党の連立が崩壊し、シュミット政権に建設的内閣不信任案を出したキリスト教民主同盟が自由民主党を引き入れて政権を奪取し、ヘルムート・コールが第6代首相となった。翌年の選挙でコール政権は支持を得たが、緑の党の躍進と連邦議会議席獲得によりキリスト教民主同盟・キリスト教社会同盟は絶対過半数の獲得には失敗した。1989年のベルリンの壁崩壊にともない東西ドイツ統一の好機が訪れると、コール政権は統一ドイツもEU統合や米欧同盟維持を支持するとして各国の了解をとり、一気に東ドイツを吸収し、東ドイツに数か月前に成立したばかりの五つの州をドイツ連邦共和国の一部とした。

地域分散

戦前に欧州有数の大都市だったベルリンが実質的に飛び地となった西ドイツでは、政治の中心は暫定首都のボンに置かれたものの、多くの権限を各州が持ち、中央銀行・証券取引所など経済政策の中心がフランクフルト・アム・マインに置かれ、連邦憲法裁判所と連邦最高裁判所といった司法の中心がカールスルーエに置かれるなど政治・経済面での地域分散化が進んだ。この点では、東ベルリンへの一極集中を進め地方都市の弱体化が進んだ東ドイツとは対照的だった。ベルリンは名目上は西ドイツの首都でありながらドイツの中心としての地位を喪失したものの、西ベルリンは三カ国占領下で徴兵制もない政治的にあいまいな状態のため、西ドイツや世界各地からの若者が流入し、コスモポリタン的な文化が栄えた。

ドイツ再統一(東ドイツ併合)

1989年ベルリンの壁崩壊以後、東西ドイツは通貨関税同盟を1990年7月に結び、1990年10月3日の東ドイツが西ドイツ(ドイツ連邦共和国)に併合(法的に東ドイツ全土も西ドイツになること)されることをもって東西分断は終わりを迎えた。

欧州の中央に強大な統一ドイツが誕生することに対する警戒心も周辺諸国にはあったが、東西ドイツ政府と米英仏ソ連合国との「ドイツに関する最終規定条約」(別名「2プラス4条約」、第二次世界大戦後結ばれることのなかった講和条約の代替となる事実上の平和条約)により、統一後のドイツの地位と国境が確定、ここにドイツの主権が完全に回復した。1990年10月3日の再統一の後、1991年3月15日、米英仏ソ四カ国の軍はドイツから撤退した。

脚注

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関連項目

外部リンク

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  1. http://www.bpb.de/themen/XGTYH6,6,0,Probleme_der_inneren_Einigung.html