ベルリンの壁崩壊

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ブランデンブルク門近くのベルリンの壁に登る東西ベルリン市民(1989年11月10日

ベルリンの壁崩壊(ベルリンのかべほうかい)とは、ベルリンの壁1989年11月10日西ベルリン市民によって破壊開始された事件である。略称として壁崩壊テンプレート:Lang-de)という。東欧革命を象徴する事件として有名である。

1989年11月9日東ドイツ政府が東ドイツ市民に対して、旅行許可書発行の大幅な規制緩和を「事実上の旅行自由化」と受け取れる表現で誤発表した事によって生じた。実際に壁の人為的・物理的破壊が始まったのは11月10日であるが、崩壊の日付は、その起源であるゲート開放(後述)が行われた11月9日とされる場合がある。

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前史

東ドイツの停滞

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ベルリンの壁の前で演説するロナルド・レーガン(1987年)

東ドイツは社会主義国の中では最も経済発展を遂げ「社会主義の優等生」と呼ばれたが、1970年代後半の第二次石油危機以降西側諸国が経済構造の転換を進めたのに対して、計画経済党官僚の支配の下で硬直化した東側陣営では経済の構造改革が出来なかった。1980年代には東ドイツ経済も世界屈指の経済大国となった西ドイツには大きく水を開けられ、抑圧的な政治体制もあって東ドイツ国民は不満を募らせるようになっていった[1]

一方、ドイツ社会主義統一党(SED)のエーリッヒ・ホーネッカー書記長国家評議会議長兼務)は、ハンガリー人民共和国ポーランド人民共和国で社会変革の動きが強まってからも、秘密警察である国家保安省を動員して国民の束縛と統制を強めていた。他の東欧の社会主義国と違って、分断国家である東ドイツでは「社会主義のイデオロギー」だけが国家の拠って立つアイデンティティであり、政治の民主化や市場経済の導入といった改革によって西ドイツとの差異を無くすことは、国家の存在理由の消滅、ひいては国家の消滅を意味することを東ドイツ首脳部は知っており、東欧に押し寄せる改革の波に抗い続けていたのである[2]

1985年ミハイル・ゴルバチョフソ連共産党書記長に就任して「ペレストロイカ」政策を推進して以来、ソビエト連邦内のみならずその影響圏である東欧諸国でも民主化を求める声が高まり、他の東欧諸国や東ドイツ国内でも民主化推進の声が高まっていた。しかし、ホーネッカーら東ドイツ首脳部は強硬姿勢を崩さず、1988年にはペレストロイカを伝えるソ連の雑誌『スプートニク』を発禁処分とした。これは知識人の不満を一気に高めることになった[3]

1987年にアメリカ大統領ロナルド・レーガンがベルリンを訪問した際、ベルリンの壁の前で演説し、「Mr. Gorbachev, tear down this wall.(ゴルバチョフさん、この壁を壊しなさい)」と演説で訴え、2年後の壁崩壊に影響を与えた要因の一つとされている。

東ドイツ国民の大量脱出

1989年5月2日、既に改革派が民主化を進めていたハンガリーでネーメト・ミクローシュ内閣がオーストリアとの国境線の鉄条網撤去に着手し、鉄のカーテンが綻び始めた。6月18日にはポーランド人民共和国で複数政党制による自由選挙が実施され、他の東欧諸国に先んじて民主化を果たした。夏になると多くの東ドイツ市民はハンガリー、オーストリア経由で西ドイツへの亡命が出来ると考え、夏の休暇を利用してハンガリーに出国した。

この時、東ドイツ首脳部は最高指導者のホーネッカーが急性胆のう炎で療養生活に入っていたために指導者不在の状態になっており、何も手を打つことが出来ない状態であった[4]。治安問題担当の書記で政権ナンバー2と目されていたエゴン・クレンツ(党政治局員・国家評議会副議長兼務)は8月11日に一時復帰したホーネッカーに対し、出国者数を報告し、国民の大量出国問題を党の政治局で討議するよう進言したがホーネッカーは、 テンプレート:Quotation

と言ってクレンツの進言を意に介さなかった。クレンツは長期休暇を命じられて10月1日まで政権中枢から遠ざけられた。ホーネッカーは療養生活に戻ると、保守派のギュンター・ミッターク書記以外は政治局員でさえも近付けなかった。

8月19日ハンガリーで「汎ヨーロッパ・ピクニック」が成功すると、ベルリンの壁が持つ意義は相対的に低くなり、東ドイツ国民はハンガリーやチェコスロバキアに殺到し、プラハブダペストの西ドイツ大使館にも溢れかえるようになった。ハンガリーのホルン・ジュラ外相は東ドイツ政府に対してハンガリー国内にいる東独国民を処罰しないことと、西ドイツへの移住許可に前向きに対応するよう迫ったが、東ドイツ政府は何の反応も示さなかった[5]

9月になっても東ドイツ国民の出国は止まらなかった。11日にはハンガリー政府は東ドイツとの協定(当時の欧州の東側諸国は査証免除協定を結ぶと同時に、相手国の国民が自国経由で西側に逃亡するのを防ぐ相互義務を負う協定を結んでいた)を破棄し、国内にいる東ドイツ国民をオーストリア経由で西ドイツへ出国させた[6]

こうした中、イギリス首相マーガレット・サッチャーミハイル・ゴルバチョフ書記長に、ソビエトのリーダーとしてベルリンの壁崩壊を阻止するために出来得る限りのことをするよう要請し、次のように語った[7][8]テンプレート:Quotation

9月26日、療養生活から復帰したホーネッカーは政治局会議を開催したが、10月7日に予定される建国40周年記念式典の準備を指示しただけで、出国者問題には触れなかった。9月30日にはプラハの西ドイツ大使館に残っていた東ドイツ国民の西ドイツへの出国が許可されたが、これも式典前に目障りな問題を処理してしまおうというだけのことであった[9]。プラハから東ドイツ市民を乗せた列車がドレスデン中央駅に到着した際には、それに乗ろうとするドレスデン市民とドイツ人民警察の間で衝突が発生した[10]

10月3日、東ドイツ政府はチェコスロバキアとの国境を閉鎖した。これによって、東ドイツ国民がチェコスロバキア、ハンガリー、オーストリア経由で出国することは不可能になった。逃げることが出来なくなった東ドイツ国民は不満を体制批判に転化させるようになり[11]ライプツィヒを拠点にデモ月曜デモ)が激化していくことになった。

ホーネッカーの失脚

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東ドイツ建国40周年式典に出席したホーネッカーやゴルバチョフら東側諸国の首脳陣(1989年10月7日

ホーネッカーにとって最後の頼みの綱は、ソビエト連邦政府からの支持を得ることであったが、10月7日の東ドイツ建国40周年式典を訪問したソ連共産党のゴルバチョフ書記長は、 軍事パレードの後にテンプレート:仮リンク(東ドイツ政府の迎賓館として使用されていた)で行われたソ連・東ドイツ両国の党幹部の会合で演説し、自国のペレストロイカの現状を報告した後、「遅れて来る者は人生に罰せられる」とホーネッカーに対する批判とも取れる言葉を述べた[12]

これに対して演説を行ったホーネッカーは、自国の社会主義の発展をまくしたてるのみであった。ホーネッカーの演説を聞いたゴルバチョフは軽蔑と失笑が入り混じったような薄笑いを浮かべて一堂を見渡すと、舌打ちをした[13]。ゴルバチョフがホーネッカーを支持していないのは東ドイツの他の党幹部達の目にも明らかだった。

ゴルバチョフは人民議会での演説でも先に発表した新ベオグラード宣言の内容を繰り返し、各国の自主路線を容認する発言をしたのみで東ドイツ政府の支持には言及しなかった。

また当の建国式典では、動員されたドイツ社会主義統一党の下部組織・自由ドイツ青年団(FDJ)の団員らが突如として、ホーネッカーら東側指導者の閲覧席に向かって「ゴルビー! 私たちを助けて」とシュプレヒコールを挙げるハプニングがあった[14]。これを見たポーランド統一労働者党テンプレート:仮リンク第一書記はゴルバチョフに若者たちの話している内容が理解できるか尋ねたところ、ゴルバチョフはドイツ語は良くは知らないが、分かるような気がすると答えた。ラコフスキは「『ゴルバチョフ、我々を助けて』と懇願しているのですよ」と答えた後、次のようにゴルバチョフに教えた。 テンプレート:Quotation

夜に共和国宮殿で行われた晩餐会の席でもゴルバチョフは、東ドイツを賛美し、自画自賛するホーネッカーの乾杯の挨拶を聴きながらそのすぐ脇で手厳しく批判の言葉を述べていたという。ホーネッカーが自画自賛しているその時、共和国宮殿の周りではデモ隊が抗議集会を行っていた[15]。ゴルバチョフは晩餐会が終わるとそのまま空港へ直行し、そそくさと帰国してしまった。クレンツによれば、この時ゴルバチョフは周囲に居たSEDの党幹部達に「行動したまえ」と、暗にホーネッカーを退陣させるよう囁いたという[16]

こうしてゴルバチョフに見捨てられ、忠実なはずの党の青年組織からも公の場で反目されたホーネッカーは、ドイツ社会主義統一党内での求心力も急速に失われ、党内のホーネッカー下ろしに弾みが付けられた形となった。

10月9日にはライプツィヒの月曜デモは7万人に膨れ上がり、市民が「我々が人民だ」と政治改革を求める大規模なものとなった。ホーネッカーは警察力を使って鎮圧しようとしたがライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団指揮者のクルト・マズアらの反対に遭い、また在独ソ連軍が動かないことが判明して失敗に終わった[17][18]

こうして東ドイツ国内外での混乱が拡大すると、危機感を募らせたクレンツやギュンター・シャボウスキー(政治局員、党ベルリン地区委員会第一書記)らは、まず10月10日から11日にかけて行われた政治局会議でホーネッカーに迫って、今までの政治体制の誤りを事実上認める政治局声明を出させた(社会主義統一党の機関紙『ノイエス・ドイチュラント』には12日に掲載された)[19]。今までの自分の政治を否定される格好になったホーネッカーは、12日に中央委員会書記、全国の党地区委員会第一書記を集めた会議を招集し、自身への支持を取り付けて巻き返そうとした。しかし、ドレスデンでの混乱に直面したハンス・モドロウ(ドレスデン地区委第一書記)ら各地区の第一書記からホーネッカー批判の声が上がり、全くの逆効果に終わった[20]

勢いづいたクレンツ、シャボウスキーらは首相のヴィリー・シュトフやソ連の指導部らとも連絡を取り、密かにホーネッカーの追い落としを画策した。10月16日、ホーネッカーは再び月曜デモに対して武力鎮圧を主張したが、国家人民軍(東ドイツ軍)参謀総長フリッツ・シュトレーレッツ大将(SED政治局員)は「軍は何もできません。すべて平和的に進行させましょう」と言ってホーネッカーの命令を拒否した[21]。もはや軍も、ホーネッカーには従わなくなっていた。

10月17日、政治局会議でいつものように議事を進行し始めたホーネッカーに対し、突如シュトフがホーネッカーの解任を提案した。ホーネッカーの書記長解任にはホーネッカー以外の政治局員全員が賛成を表明し、ホーネッカーは自らの解任動議を可決せざるを得なかった[22]10月18日にホーネッカーは正式に退陣し、クレンツが後任となった。

しかし、元々クレンツはホーネッカーの子飼いの部下であり、国民はおろか社会主義統一党の党員達からでさえ信頼されていなかった[23]。クレンツは一党独裁制の枠の中で緩やかな改革を行おうとしたが、国民の反発は強く、11月4日には首都の東ベルリンでも百万人以上が言論・集会の自由を求める大規模なデモが起こり[24]、東ドイツ政府は根底から揺さぶられる事になった。もはや混乱は収拾が付かない状態に陥っており、クレンツも十分に状況を把握出来なくなっていた。

事件の経緯

「旅行許可に関する出国規制緩和」の発表

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「旅行許可に関する出国規制緩和」を発表するシャボウスキー(1989年11月9日

1989年11月6日、東ドイツ政府は新しい旅行法案を発表した。しかし、この法案では出国の際には相変らず国の許可を要する等様々な留保条件が付けられていたため、既にそれまでのように党の決定に対して従順では無くなっていた人民議会によって否決された。議会の否決を受けてクレンツらは新たに暫定規則(政令)で対処することにした[25]

11月8日から開かれた党の中央委員会で政治局員はいったん全員が辞任した。その上で、首相のヴィリー・シュトフらの引退と改革派のハンス・モドロウらの政治局入りが決定し、モドロウを後継の首相に任命することが決まった。この後ようやくクレンツは世論に押される形で党と政府の分離、政治の民主化、集会・結社の自由化、市場原理の導入などの改革を表明した[26]

この日から行われた中央委員会は混乱していた。出席者からは工場で怒った労働者が党に反抗し始めていることが報告され、さらに経済学者テンプレート:仮リンク国家計画委員長によって東ドイツの財政が莫大な対外債務を抱えて破綻寸前になっていることが報告された。これまで東ドイツが社会主義国では一番の工業力・経済力を持っていると信じていた党員達は当惑と失望、ホーネッカーらに対する怒りの感情を抱いた。これらの問題や、各地で起きているデモへの対応などを巡って中央委員会の出席者たちはお互いを非難し、罵り合うような状態であった[27]

1989年11月9日の午後3時過ぎに、クレンツは中央委員会で前日から続く非難の応酬戦を中断し[28]、「旅行許可に関する出国規制緩和」の政令案を読み上げた。それは以下のようなものであった。

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この提案は「暫定的」の文言を削除したうえで、中央委員会の承認を受けた。

当時、社会主義統一党のスポークスマン的な役割を担っていたシャボウスキー[29]は、18時からの記者会見のために会議の途中で退席した。その際シャボウスキーはクレンツからA4版2枚の書類を渡され、「こいつを発表しろよ。こいつは大当たりするぞ」と言われたという[30]

シャボウスキーは記者会見が始まって1時間ほどたった頃、内容をよく把握しないまま国民の大量出国問題に対し「我々はもう少々手を打った。ご承知のことと思う。なに、ご存じない?これは失礼。では申し上げよう」[31]と言うとクレンツから渡された報道発表用の書類を取り出し、「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と発表した。この案は中央委員会の承認は受けていたが、未だ閣僚評議会(内閣)の閣議では決定されておらず正式な政令にはなっていなかったのだが、シャボウスキーは閣議決定されているものと錯覚していた[32]

この記者会見場で記者が「(この政令は)いつから発効されるのか」と質問したところ、上記の通り翌日の11月10日の朝に発表することが決められていたにも拘らずそれを伝えられていなかった(シャボウスキーに渡された文書は10日に報道発表するための文書だったため、上記の政令案と違って発効期日は書かれていなかった[33])ため、シャボウスキーは「私の情報が正しければ『直ちに、遅滞なく』ということです(Das tritt nach meiner Kenntnis… ist das sofort, unverzüglich.)」と答えてしまった[34][35][36][37]。この発言を受けほどなく国境ゲートで、通過しようとする市民と指令を受け取っていない国境警備隊との間で当該指令の実施をめぐるトラブルが起きる。マスコミによって「旅行が自由化される」の部分だけが強調されたことも混乱に拍車を掛ける(なお、シャボウスキーの発言の後、政令は正式に閣議決定され、東ドイツ国営通信が政府報道官の発表として伝えている[38])。

壁に殺到する市民

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東西ベルリンの検問所に詰めかけた東ベルリン市民(1989年11月10日)
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東西ベルリンの検問所を越えるトラバントと歓迎する西ベルリン市民(1989年11月14日

この記者会見の模様は、夕方のニュース番組において生放送されていたが、これを見ていた東西両ベルリン市民は(東西ベルリンでは放送が相互にスピルオーバーするため、東西市民は互いのテレビ番組を視聴することが可能であった)半信半疑で壁周辺に集まりだした。

一方、国境警備隊は指令を受け取っておらず、報道も見ていなかったため対応できず、市内数カ所のゲート付近ではいざこざが起き始めた。ベルリン北部のボルンホルマー通りにある検問所の司令官イエーガー中佐は「シャボウスキーが言ったのだから」と詰め寄る群衆[39]に規則ではビザとパスポートが要るのだから出直すよう言ったが、群衆は「ゲートを開けろ、ゲートを開けろ、壁を撤去しろ」と叫びだした[40]

ボルンホルマー通りの検問所には、「より攻撃的な」連中を捜し、その姓名を控えた上でパスポートの写真の上に特別なスタンプを押して通過させろという命令が下された。このスタンプを押すことは東ドイツの市民権を剥奪し、帰国不可にすることを意味していた[41]。21時20分頃イエーガー中佐は、この方法で250-300人を通過させたが、さらにその背後には数千人の殺気立った群衆がゲートを圧迫していた[42]

国境ゲートの開放

一方、ベルリン市の中央部にあるチャーリー検問所地下鉄の駅に近いため群衆が続々と集まっていた[43]。膨れ上がった群衆に、さして多くはない国境警備隊は太刀打ちできなかった。チャーリー検問所の司令官メル大佐は何度も司令部に電話したが、現場にいない上官は「待て」と言うばかり[44]で責任逃れに終始したため責任を押しつけられた現場の警備隊は対応に困り果てた。また、同じ1989年6月4日天安門事件の影響もあり、武力弾圧という手段はまず不可能で、事態を収拾する策は尽きていた。

党本部の書記長執務室にいたクレンツは、市内に6か所ある検問所すべてが群衆に囲まれているという報告を受けた。クレンツはこの群衆を押しとどめるのはもはや無理であると感じていた[45]

11月9日22時30分頃、ボルンホルマー通りの検問所には2万を超える群衆が詰めかけていた。イエーガー中佐は何度も上官に指令を仰いだが「待て」と言われるばかりであった。流血の事態を恐れたイエーガー中佐は上官に「これ以上検問所を維持することは出来ない」と伝え、独断で部下にゲートを上げさせると、群衆に手を振って通過を促した[46]。こうして、ついに東西ベルリンの国境は開放されることになった。一時間後にはチャーリー検問所でも、メル大佐が同じ決断を下し、独断でゲートを開かせた[47]。夜半までに全検問所が開放され、国境警備隊には撤収命令が下された[48]

本来の政令はあくまでも「旅行許可の規制緩和」がその内容であって東ベルリンから西ベルリンに行くには正規の許可証が必要であった。東ドイツ国営テレビは繰り返し「旅行には申請が必要です」と放送していたが、それを顧みる者はいなかった[49]

混乱の中で許可証の所持は確認されることがなかったため許可証を持たない東ドイツ市民は歓喜の中、大量に西ベルリンに雪崩れ込んだ。西ベルリンの市民も騒ぎを聞いて歴史的瞬間を見ようとゲート付近に集まっており、抱き合ったり一緒に踊ったりあり合わせの紙吹雪をまき散らすなど東ベルリン群衆を西ベルリン群衆が歓迎する様子が各所でみられた。この大騒ぎはそれから三日三晩続いた。

その頃、党幹部達の住宅地区にいたシャボウスキーの妻イリーナは、大半の党幹部達の家に灯りが無く、既に寝付いていたことに気付いた[50]。イリーナは、夫の発言が引き起こしたことが体制の崩壊につながると予感し、テレビでの騒ぎは何かと尋ねる年老いた母親と以下のような会話を交わしていた。

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壁と国境の撤去

数時間後の11月10日未明になると、どこからともなくハンマーつるはし建設機械が持ち出され、「ベルリン市民」はそれらで壁の破壊作業を始めた。壁は東側によって建設された東側の所有物であるが、東側から壁を壊していい旨の許可は一切出されていない。しかし数日後からは東側によって正式に壁の撤去が始まり、東西通行の自由の便宜が計られるようになった。

こうして1961年8月13日に建設が始まった「ベルリンの壁」は、建設開始から28年後の1989年11月10日、ついに破壊された。ベルリンの壁は、「冷戦」「越えられない物」「変えられない物」の象徴だった。これは西ドイツ国民も誰も予想しておらず、事件当時、西ドイツ首相のヘルムート・コールは外遊先のポーランドに滞在中であったが、このベルリンの壁開放のニュースに接し、急遽ワルシャワからベルリンへ向かった。

東西ベルリンの境界だけでなく、東ドイツと西ドイツの国境も開放された。ポルシェBMWメルセデス・ベンツを自国に擁する西ドイツ市民から見ると、酷く時代遅れな東ドイツ製の小型車「トラバント」に乗った東ドイツ市民が相次いで国境を越え西ドイツに入ってきた。西ドイツ国民は国境のゲート付近で彼らを拍手と歓声で迎え、中には彼ら一人一人に花束をプレゼントする者まで現れた。こうした国境線にも越境を阻止する有刺鉄線などが張られていたが、これらも壁と同じく撤去された。東ドイツ国民が乗っていたトラバントは、それから暫く東西ドイツ融合の象徴として扱われた。

事件の影響

東ドイツの崩壊

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1990年1月8日のライプツィヒ月曜デモ。「我々は一つの新しいドイツを求める」「我々は一つの民族だ」といったプラカードや、西ドイツの国章が入った旗が掲げられている。

ベルリンの壁崩壊に対して、ソビエト連邦アメリカ合衆国東ヨーロッパなどから祝辞を送られ、次の政治目標には、1945年5月8日ドイツ分断以降、ドイツ人にとっては悲願である東西ドイツ統一が設定されその気運が高まった。

フランス大統領フランソワ・ミッテランは、ベルリンの壁崩壊に反対していたイギリス首相マーガレット・サッチャーに、統一ドイツはアドルフ・ヒトラーよりも広大な領土を手に入れるであろう、そしてその結果にヨーロッパは耐えなければならないことになると語った[51]

ソビエト連邦の最高指導者であったゴルバチョフは、東西ドイツ統一には時間がかかると想定していた上に、東ドイツが北大西洋条約機構(NATO)に参加することを恐れていた。アメリカ合衆国大統領であったジョージ・H・W・ブッシュ(父ブッシュ)も、統一がそれほど早い時期に実現するとは考えていなかった。西ドイツ首相のコールですら、早急な統一には無理が生じると考えていた。

11月13日、ハンス・モドロウ内閣が発足した。モドロウは政治・経済の改革を表明し、23日には社会主義統一党がホーネッカーの不正調査の開始、在野勢力への円卓会議開催の呼びかけ、憲法第1条に定められている「党による国家の指導」条項の削除を表明し、一党独裁制を放棄した(12月1日に憲法改正) [52]

12月3日、社会主義統一党は緊急中央委員会総会を開催し、クレンツ以下政治局員・中央委員は自己批判の声明を採択して全員辞任し、ホーネッカー、シュトフ、エーリッヒ・ミールケ(前国家保安相)らは党を除名された。クレンツは6日に国家評議会議長も辞任し、わずか2か月足らずでクレンツ政権は終わった。12月8-9日に開かれた社会主義統一党の党大会は、党名を社会主義統一・民主社会党(SED-PDS)に改名し、1990年1月にはクレンツやシャボウスキーも党から追放された[53]

こうして社会主義統一党の一党独裁制は崩壊し、モドロウは政治・経済の改革を表明すると同時に早急な東西ドイツ統一を否定し、条約共同体による国家連合を提唱した[54]。しかし、壁の崩壊後1日約2,000人の東ドイツ国民が西へ流出し、東ドイツマルクの価値は10分の1に暴落し、元々疲弊していた東ドイツ経済は崩壊していった[55]。12月、モドロウはコールに対し150億ドイツマルクの支援を要請したが、コールはこれを拒否した[56]。また、知識人たちは「民主的な社会主義国家」としての存続を模索していたが、民主化の過程で明るみになったホーネッカーら社会主義統一党の旧幹部達の不正や贅沢行為に一般労働者たちは怒り、社会主義そのものに対して否定的になっていった[57]。ライプツィヒの月曜デモでは「我々は一つの民族だ(Wir sind ein Volk.)」と言う声が挙がるようになった。

警察の機能は停止し[58]、国民を抑圧していた国家保安省の出先機関が群衆に襲撃されるようになっても、東ドイツ政府は何の手を打つことも出来なかった[59]。1990年初頭には市民の70%が東ドイツ国家の存続を望んでいた[60]が、2月になると東ドイツが自力ではもう長く存続出来ないと認識されるようになっていった[61]。結局、東ドイツの旧政権幹部たちが恐れていたように、「社会主義のイデオロギー」が崩壊した東ドイツは国家として存続できなくなり、崩壊していったのである。

東西ドイツ統一

東ドイツでは円卓会議を開き、自由選挙の実施、新国家のための新憲法草案の作成まで決定していた。しかしながら1990年3月、東ドイツにおいて最初で最後となる自由選挙が行われ、西ドイツのコール首相が肩入れした速やかに東西統一を求めるキリスト教民主同盟を中心とした勢力が勝利すると、それまでの社会主義統一党政権が主張していた東西の対等な合併ではなく、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)が東ドイツ(ドイツ民主共和国)を編入する方式(東ドイツの5州を復活し、それを自発的にドイツ連邦共和国に加入させる)で統一が果たされることに決定した。

こうして東西ドイツの統一は、アメリカ、ソ連、そして西ドイツ首脳が考えていたよりもはるかに速いスピードで進められた。この驚異的なスピードで進んだドイツ再統一の原動力は、ベルリンの壁が崩壊した事によって生み出された「歓喜」と「感動」、そして東ドイツの国家としての崩壊であった。

結局、ベルリンの壁崩壊から満1年も経たない1990年10月3日、悲願の東西ドイツの統一が実現した。10月3日の統一式典では、ベルリンの旧帝国議会議事堂に「黒・紅・金の三色旗」が揚げられ、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン交響曲第9番「合唱付き」が演奏された。

しかし、この「感動」と「歓喜」の情熱の渦はコールが想定したとおりの弊害をもたらした。東ドイツでは1989年11月10日以後、自分達は2つに分裂したうちの片方である「東ドイツ国民」ではなく統一された「ドイツ国民」であるという意識が大きくなっていった。これが早急なドイツ統一を支持する背景となった。統一後の経済的な不安が想定されて然るべきであるが、壁の崩壊直後に西ドイツ政府が西ドイツを訪問する東ドイツ市民に対して渡した一時金はこの不安をかき消す事を助長した。

ドイツの再統一は、東ドイツ市民を無条件で裕福にするかのような幻想を生み出した。結局「ドイツ再統一」のスピードが余りにも速すぎたことは、その後の経済的混乱によって実証される事になった。世界屈指の経済大国であった旧西ドイツと旧東ドイツの経済格差は一時的な幻想では覆い隠せないほど歴然たるものが存在した。現在でも東西の所得格差は残されたままである。また旧東ドイツでは資本主義に適応できなかった旧国営企業倒産によって失業者が増加し、旧西ドイツでは旧東ドイツへの投資コストなどが足かせとなって景気の低迷を招いた。このため東西双方で市民の間に不満が高まることになった。

東西ドイツの統一に関する法的な見方については「ドイツ再統一」を参照すること。

冷戦終結

ゴルバチョフは従来から冷戦の緊張関係を緩和させる新思考外交を展開していたが、ドイツの東西分裂とベルリンの壁の存在は、冷戦の代名詞でもあり、いくら緊張緩和といってもベルリン問題を解消しない限り「冷戦の終結」とはいえない状況であった。

ところが、ベルリンの壁が崩壊したことで、東西ドイツの統一に一応の目処が立った。壁崩壊から1か月後の1989年12月3日、アメリカの父ブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフの両首脳がマルタ島で会談し、冷戦の終結を宣言した。

東欧全域への民主化革命の波及

ベルリンの壁崩壊は、既に民主化を果たしていたポーランドハンガリーブルガリアのみならず、東ヨーロッパ全域に波及した。1989年11月17日には、チェコスロバキアビロード革命が発生し、ポーランドのワルシャワではチェーカーKGBの前身)の設立者フェリックス・ジェルジンスキーの銅像が三つ裂きにされて撤去された[62]。そして、マルタ会談の直後の12月16日にはルーマニア革命 (1989年)が発生した。

また、東欧同様、ソ連の衛星国であったモンゴルでも、壁崩壊後の一ヵ月後の12月10日サンジャースレンギーン・ゾリクを中心とする民主化デモが発生した。1990年にかけて民主化運動は進展し、モンゴル人民革命党の一党独裁体制が崩壊し新憲法制定、複数政党制の導入が実現した。

そして、ベルリンの壁崩壊から2年後の1991年8月20日にはバルト三国が独立し、1991年12月25日には共産主義の元祖であったソビエト連邦自身まで崩壊した

エピソード

  • ベルリンの壁が崩壊した当日、会期中だった西ドイツ国会にこのニュースがもたらされると、やがて議員たちの間から自然発生的にドイツ国歌の斉唱が始まった。
  • コール西ドイツ首相はこの時、ポーランドを訪問していた。ワルシャワでベルリンの壁崩壊を知り、コールは同行中の外相ハンス・ディートリッヒ・ゲンシャーをワルシャワに残して直ちにベルリンに向かい事態に対応した。
  • 東ドイツの政権与党であったドイツ社会主義統一党は民主社会党と改名し生き残りを図ったものの、その後衰退の道を辿り消滅寸前かと言われた時期もあった。しかし社会民主党の内紛によって同党を離脱した最左派とともに左翼党を結成した2005年の総選挙では社会民主党政権の新中道左派路線に不満を抱く左派支持者の票を集めて躍進を果たした。
  • ドイツ統一に貢献した当時のソ連外相エドゥアルド・シェワルナゼが、2003年グルジア大統領を追われると、かつての恩人を見捨てることなくドイツへの亡命受け入れを申し出て一時はドイツ入りしたというニュースも飛び交った。実際はシェワルナゼは感謝しつつもこれを固辞してグルジアに留まっている。
  • ベルリンの壁の材料には大量のアスベストが使用されているが、この事実が知られていなかったためか無数の観光業者により無断掘削・販売が行われ日本でも一部はデパート等で流通した。
  • 西ベルリンに到着した東ベルリン市民が大挙して真っ先に購入したのがバナナ。当時3倍の経済格差があり、ぜいたく品は無論買えるはずがないので東ベルリン市民全員が喜ぶ物で比較的値段が安く東ドイツではメーデークリスマスにしか市場に出回らない(輸入元は同じく共産圏のキューバ)ほど貴重であったバナナが購入の対象だった。バナナといえば東ドイツというのは、ドイツ国内で、いわゆる小咄の定番のネタとなっている。
  • 当日、ちょうどベルリンを訪れていたダライ・ラマ14世は、崩壊の現場に向かい、東ベルリンに足を踏み入れ、歴史的瞬間を写真におさめた。老婦人から渡された蝋燭に灯を灯し、人々と共に祈った[63]ノーベル平和賞受賞の1か月前のことである。
  • かまやつひろしはベルリンの壁が崩壊する間際に、壁の上に立ってアコースティックギターを手にゲリラライブを行なった。
  • デビッド・ハッセルホフはこの年、ブランデンブルク門の前で数百万人のファンを集めて「Looking For Freedom」という歌を歌い、東西統一への気運を煽っていたという。

壁崩壊20周年

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ベルリンの壁崩壊20周年記念式典でのドミノ倒し後の様子(2009年11月9日

ベルリンの壁崩壊から20周年に当たる2009年には、ドイツ国内でもイベントが開かれた。

式典ではドイツのアンゲラ・メルケル首相、フランスのニコラ・サルコジ大統領、ロシアのドミトリー・メドベージェフ大統領、イギリスのゴードン・ブラウン首相、 アメリカのヒラリー・クリントン国務長官らがブランデンブルク門を東から西にくぐって友好を演出した。ただしバラク・オバマ大統領は出席しなかった。冷戦終結の立役者となったポーランドのレフ・ヴァウェンサ元大統領、旧ソビエト連邦のミハイル・ゴルバチョフ両元大統領も姿を見せた。「ベルリンの壁崩壊記念日」の2009年11月9日には、ドイツ政府主催のイベントがベルリンで開かれ、このイベントでは、ベルリンの壁に見立てた発泡スチロール製のドミノ約1000個を倒すイベントも行われた。このイベントでは、ヴァウェンサがドミノ倒しの先頭を切った[64]

2009年10月31日には、ジョージ・H・W・ブッシュ(父ブッシュ)、ゴルバチョフ、コールの3人がベルリンで再会した。このイベントにおける3人の発言は、以下の通りである。

  • コール:「誰も信じていなかった統一を成し遂げたのは誇りだ。」
  • 父ブッシュ:「壁崩壊とドイツ統一は、冷戦を終わらせただけでなく、2回の世界大戦の傷跡を消し去った。」
  • ゴルバチョフ:「政治家ではなく、国民が英雄だった。」
関連リンク

関連作品

脚注

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関連項目

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11月9日の大事件
分断国家
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  1. 南塚信吾、宮島直機『’89・東欧改革―何がどう変わったか』 (講談社現代新書 1990年)P103-104
  2. 三浦元博・山崎博康『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』(岩波新書 1992年 ISBN4004302560)P3-4
  3. 南塚、宮島『’89・東欧改革―何がどう変わったか』P106
  4. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P4-5
  5. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P81
  6. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P82
  7. テンプレート:Cite web
  8. テンプレート:Cite news
  9. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P6
  10. 南塚、宮島『’89・東欧改革―何がどう変わったか』P111
  11. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P83
  12. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P8
  13. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P9
  14. ヴィクター・セベスチェン著 三浦元博・山崎博康訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』(白水社 2009年 ISBN9784560080351)P484
  15. マイケル・マイヤー 著、早良哲夫訳『1989 世界を変えた年』(作品社 2010年)P249-250
  16. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P11
  17. 永井清彦・南塚信吾・NHK取材班『社会主義の20世紀 第1巻』(日本放送出版協会 1990年)P100-101
  18. ゴルバチョフは駐東独大使コチュマソフを通じて、東ドイツ市民のデモ隊の制圧に駐独ソ連軍を使わないよう、駐独ソ連軍の司令官スネトコフに指示していた。(ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P485)
  19. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P11-14
  20. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P14-15
  21. ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P494 なお、参照元ではシュトレーレッツは「上級大将」と訳されているが国家人民軍の階級では旧ドイツ国防軍で上級大将を意味した"Generaloberst"は「大将」で、国家人民軍上級大将は""Armeegeneral"
  22. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P17-18
  23. 三浦・山崎『東欧命-権力の内側で何が起きたか-』P18-21、P26-29
  24. 永井・南塚・NHK取材班『社会主義の20世紀 第1巻』P101
  25. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P21-22
  26. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P20-21
  27. マイヤー 『1989 世界を変えた年』P272-273
  28. マイヤー『1989 世界を変えた年』P275
  29. シャボウスキーは元ジャーナリスト(党機関紙「ノイエス・ドイチュラント」編集長)で弁舌が巧みであったため、マスコミや在野団体に応対する役割をしていた(三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P24)。なお、当時の彼の役職は党中央委員、政治局員、ベルリン地区委員会第一書記(党のベルリン支部長)、人民議会議員。
  30. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P24 これはシャボウスキーの回想によるものだが、クレンツの回想によればシャボウスキーが発表しても良いかどうかを尋ねたことになっている。
  31. 永井・南塚・NHK取材班『社会主義の20世紀 第1巻』P102
  32. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P24-P25
  33. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P25
  34. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P24
  35. マイヤー『1989 世界を変えた年』P275-277
  36. Hans-Hermann Hertle: Chronik des Mauerfalls. 10. Auflage. Ch. Links, Berlin 2006, S. 145
  37. この質問をしたイタリア人記者リカルド・エルマン(Riccardo Ehrmann)が2009年4月16日に放送されたドイツARDテレビの番組で明らかにしたところによればこの会見の前にエルマンと面識があった社会主義統一党の大物から電話があり、取材する際に出国規制の緩和について必ず質問するよう念を押したというテンプレート:Cite web
  38. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P25
  39. クレンツと共にホーネッカー失脚を主導したシャボウスキーは単なるスポークスマン役では無く、クレンツ体制では党の政治局ナンバー2(マイヤー『1989 世界を変えた年』P274)であり、また東ベルリンにおけるSED地区委員会第一書記、つまり首都におけるSEDの責任者でもあった。
  40. ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P511
  41. ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P511
  42. ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P511-512
  43. ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P512
  44. ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P512
  45. ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P512-513
  46. ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P513
  47. ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P513-514
  48. ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P514
  49. ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P513
  50. なお、夫であるシャボウスキーは街中へ出払っていた(ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P515)。
  51. テンプレート:Cite news
  52. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P29-33
  53. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P33-34
  54. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P36
  55. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P36
  56. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P37
  57. 南塚・宮島『’89・東欧改革―何がどう変わったか』P115-166
  58. 南塚・宮島『’89・東欧改革―何がどう変わったか』P122
  59. 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P36
  60. 南塚・宮島『’89・東欧改革―何がどう変わったか』P122
  61. メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』(岩波書店 ヨーロッパ史入門 2009年)P120
  62. 朝日新聞 1989年11月19日付 7頁
  63. 『ダライ・ラマ自伝』(ISBN 4167651092)
  64. ソ連とポーランドは第二次世界大戦でスラブ人を劣等種族とみなすドイツによって大きな被害と犠牲を蒙った国であるものの、戦後共産主義による独裁を受けた被害国同士として首脳らはこのような式典に出席した。