プラハ

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プラハチェコ語スロヴァキア語: Praha テンプレート:IPA-cs)は、チェコ共和国首都であり、同国最大の都市である。中央ヨーロッパ有数の世界都市人口は、約120万人。北緯50度02分、東経14度45分に位置する。ドイツ語では Prag(プラーク)、マジャル(ハンガリー)語では Prága(プラーガ)、英語では Prague(プラーグ[1])と呼ばれる。

市内中心部をヴルタヴァ川(ドイツ語名モルダウ)が流れる。古い町並み・建物が数多く現存しており、毎年海外から多くの観光客が訪れる。カレル大学は中欧最古の大学である。尖塔が多くあることから「百塔のプラハ」とも呼ばれる[2][3]ティコ・ブラーエが天体観測を行った天文塔もそのひとつである。市内にはヤン・フスが説教を行ったベツレヘム教会などがある。ウィーンよりも遥かにドイツ寄りに位置し、ボヘミア王を兼ねたドイツ人が神聖ローマ帝国皇帝をつとめ、この地を首都にドイツ民族に戴かれていた時期もあることから、独自のスラブ文化と併せて一種の国際性も古くから備えた都市となっている。

歴史

6世紀後半にスラヴ民族によりヴルタヴァ川河畔に集落が形成された。9世紀後半にはプラハ城、10世紀頃にヴィシェフラト城が建てられ、両城に挟まれたこの地に街が発達した。973年キリスト教の司教座が置かれると、ユダヤ人の入植が始まった。しかし、プラハは度重なる戦渦に巻き込まれ、荒廃してしまう。

1346年にボヘミア王カレル1世神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれ、カレル4世(ドイツ語名カール4世)となると、神聖ローマ帝国の首都はプラハに移され、プラハ城の拡張や、中欧初の大学、カレル大学の創立、カレル橋の建設とヴルタヴァ川東岸市街地の整備などの都市開発が行われ、ローマコンスタンティノープルと並ぶ、ヨーロッパ最大の都市にまで急速に発展。「黄金のプラハ」と形容されるほどだった。

次代国王ヴァーツラフ4世(ドイツ語名ヴェンツェル)の治世、ヤン・フスによるローマ教皇庁への抗議が行われ、1415年にフスが火刑にされると、フス派によってフス戦争が勃発、ローマ教皇の十字軍を破るが、15世紀後半にハプスブルク家アルブレヒト2世がボヘミア王になると、フス派はその支配下に入った。16世紀後半、ルドルフ2世の治世になると、芸術や科学を愛する王の下、プラハに芸術家錬金術師占星術師などが集められ、プラハはヨーロッパの文化の中心都市として栄華を極めた。しかし、1618年プラハ城で起きたプラハ窓外投擲事件を皮切りにビーラー・ホラ(白山)の戦いが勃発し、三十年戦争に発展。1648年カトリックの最後の牙城だったプラハはスウェーデン軍に包囲されるが、ヴェストファーレン条約が締結され、戦争は終結した。しかし、王宮はウィーンへ移転され、プラハは人口が激減する。また、チェコ語の使用禁止や、宗教弾圧や文化弾圧などを受け、チェコは独自の文化を失い、2世紀以上にわたって「暗黒の時代」といわれるチェコ民族文化の空白時代を迎えることとなる。

一方で、1784年に4つの市議会に分かれていたプラハは、1つの市議会に統合された。その4区とは「フラッチャニ(城の丘)」(城塞・城塞の北部、および西部地区)、「マラー・ストラナ(小地区)」(下町、城塞の南部地区)、「スタレー・ムニェスト(旧市街)」(城塞の対岸・東側)、「ノヴェー・ムニェスト(新市街)」(その他の南方および東方地区)である。1848年に五区としてユダヤ人街(かつてのゲットー)が編入され、皇帝ヨーゼフ二世にちなんで「ヨゼフォフ」と名づけられた。20世紀初め、スラム化が一層進んだために大規模に再開発された。ユダヤ人墓地、シナゴーク、ユダヤ集会所などがある。 さらに町は1883年に「ヴィシェフラト(「高い城」地区)」を、1850年に有名なユダヤ教徒コミュニティーの「ヨゼフォフ」の併合をし、更なる拡大をする。

18世紀末、フランス革命ドイツロマン主義に影響を受けた知識人らによって再び民族独立の動きが強まる。1848年にはプラハ市民によるオーストリアに対する蜂起がおこるが失敗した。第一次世界大戦終結後の1918年オーストリア=ハンガリー帝国が解体し、チェコスロヴァキア共和国が成立すると、プラハ城に大統領府が置かれ、首都となった。1922年初頭に、37の自治体を合併し、人口は676,000人となった。しかし、1938年ナチス・ドイツによって占領され、チェコスロヴァキアは解体されてしまった。第二次世界大戦中はここに居住していたユダヤ人約5万人がナチスによって殺害された。しかし、プラハは他の東欧中欧の都市のような大規模な戦火に曝されることはなかった。ただし被害はやはり被っており、1945年2月14日にはアメリカ軍爆撃機60機による絨毯爆撃が行われて、1800人を越える死傷者が出、また、数百の家屋や歴史的建造物が損なわれた。ソビエト赤軍侵攻時には、旧市街広場にある「天文時計」で有名な「スタレー・ムニェスト旧市庁舎」の建物の一部が、1945年5月7日から8日にかけてのドイツ軍装甲車両や高射砲の砲撃の被害を受け、未だに一部が失われたままである。

第二次大戦後は、社会主義国チェコスロヴァキアの首都となった。1968年にはプラハの春と呼ばれる改革運動が起こるが、ワルシャワ条約機構軍の侵攻を受け、改革派は弾圧された。しかし、1989年ビロード革命により共産党政権は崩壊、1993年チェコスロヴァキアが分離するとチェコの首都となった。1995年には、アール・ヌーヴォー・タウンの一角に腰をくねらせたように鉄筋とガラスの超モダンビルが出現した。 2002年ドイツ東部からチェコを襲った水害では、ヴルタヴァ川が氾濫し、広範に床上浸水し、市の地下鉄が数ヶ月に渡って停止するなどの大きな被害を受けた。

プラハは、千年の歴史を持つ都市であり、第一次・第二次世界大戦の被害にも、また、その後の資本主義の高度経済成長にも巻き込まれなかったことで、ロマネスク建築から近代建築まで各時代の建築様式が並ぶ「ヨーロッパの建築博物館の街」になり、ユネスコ世界遺産にも登録されている。

地理

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プラハ市の行政区分

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聖ヴィート大聖堂(正面)
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聖ヴィート大聖堂(内部)

プラハ市の全地区名と地名対照表。なお、それぞれの地区に紋章がある。参照;Prague city districts | [1] [2]

チェコ語地名 ドイツ語地名 名前の意味
Staré Město Altstadt 旧市街
Nové Město Neustadt 新市街
Hradčany Hradschin (城山)
Josefov Josefstadt ヨゼフォフユダヤ教徒街
Malá Strana Kleinseite 小地区
Smíchov Smichow
Vinohrady (葡萄園)
Žižkov Veitsberg ドイツ語では聖ヴィートの山、チェコ語ではジシュカ区
Vyšehrad Wischehrad (高城。要塞)
Karlín Karolinenthal (カロリーネの谷)
Vršovice Werschowitz (小さい丘)
Libeň Lieben ドイツ語では「愛する」
Nusle Nusl (匂う土地)
Břevnov Breunau
Bubny Bubna

気候

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観光

1996年の外国人観光客は4,772万8000人を数え、国際的な観光地として発展している。

プラハのユネスコ世界遺産については、プラハ歴史地区を参照。

交通

航空

郊外にヴァーツラフ・ハヴェル・プラハ国際空港があり、フラッグキャリアのCSAチェコ航空ハブ空港として機能している。格安航空会社スマートウィングズなどもハブ空港の一つにしている。近年の観光客の急激な増加により、空港の利用客は非常に大きな伸びを見せており、空港まで地下鉄、鉄道が延伸される計画がある。

鉄道

プラハにはヨーロッパ各地を結ぶ多くの国際列車が発着し、市内にはトラムや3路線で構成されるプラハ地下鉄が走る。

バス

スポーツ

アイスホッケー

チェコは1908年創設の「国際氷上ホッケー連盟」(現・国際アイスホッケー連盟)創設時からの加盟国であり、アイスホッケーは国技とも言えるスポーツである。1969年、「プラハの春」の直後、世界選手権でチェコスロヴァキアがソ連を破って優勝した時や、1998年長野オリンピックでロシアを破って金メダルを獲得した時には、プラハの中心部、ヴァーツラフ広場は勝利を喜ぶ人の群れに埋め尽くされた。 プラハには100年以上の歴史を持つSKスラヴィア・プラハとそれに次ぐ古豪のスパルタ・プラハという2つのトップチームがあり、両チームが対戦するプラハ・ダービーは大変な盛り上がりを見せる。

サッカー

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名門SKスラヴィア・プラハの本拠地、エデン・スタディオン

1880年代、プラハにFAルールのサッカーが伝わった。1893年にスポーツクラブのスラビア・プラハがサッカー部門を創設。翌年にはスパルタ・プラハの前身であるクラル・アスレチック・クラブが誕生した。その後も、1903年ボヘミアンズ・プラハが、1948年には社会主義国特有の陸軍を母体としたクラブチーム、デュクラ・プラハが生まれた。

スパルタ・プラハスラビア・プラハの2チームは現在でもチェコのサッカーリーグ、ガンブリヌス・リーガの優勝を毎年のように争う名門チームであり、両チームが対戦する試合はプラハ・ダービーとして盛り上がる。

その他

住宅

プラハは大戦中の戦火を免れたことから、多様な建築様式が混在しており、住宅に関しても例外ではない。マラー・ストラナ、スタレー・ムニェスト、ノヴェー・ムニェストなどでは4階建て程度の欧州に一般に見られる共同住宅が多い。ヨゼフォフでは、地下室のある住宅が多いが、これはヴルタヴァ川の氾濫に対抗するために土地を盛り上げてスーパー堤防としたため、それまでの1階が地下室になったものである。

郊外では、共産党時代の共同住宅が多くみられる。

姉妹都市

プラハ出身者、関連人物

チェコ人の一覧も参照。

プラハが舞台となった芸術作品

音楽

小説

映画

ゲーム

関連項目

参考文献

  • 「週刊ユネスコ世界遺産 No.19 プラハの歴史地区」(講談社

脚注

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外部リンク

テンプレート:Commons&cat

テンプレート:チェコの州 テンプレート:欧州連合加盟国の首都


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  1. [ˈprɑːɡ]
  2. 百塔のプラハ
  3. プラハは千年の歴史ある古都で、その美しさを表現して「北のローマ」「百塔の街」「黄金のプラハ」「建築の宝石箱」などと形容されている。(田中充子『プラハを歩く』岩波書店 〈岩波新書757〉2001年 3ページ)