ドイツの歌
『ドイツの歌』(テンプレート:Lang-de)または『ドイツ人の歌』(Das Lied der Deutschen)は、ドイツ連邦共和国の国歌。
この歌は、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンが1797年に神聖ローマ皇帝フランツ2世に捧げた「神よ、皇帝フランツを守り給え」(後に弦楽四重奏曲『皇帝』第2楽章の主題に用いられる)のメロディーに、1841年にアウグスト・ハインリヒ・ホフマン・フォン・ファラースレーベン(August Heinrich Hoffmann von Fallersleben)がヘルゴラント島で詠んだ詩を付けたものである。なお、同じメロディーはオーストリア=ハンガリー帝国でも国歌として使用されていた(こちらの方が皇帝ともども元の「神よ、皇帝フランツを守り給え」を引き継いでいる)。
この歌詞は、黒・赤・金の旗(現在のドイツの国旗)とともに、権威主義的な諸邦を倒して君主制下での自由主義的な統一ドイツをもたらそうとした1848年のドイツ3月革命のシンボルとなった。ドイツ帝国崩壊後のヴァイマル共和国時代に正式に国歌として採用されたが、第二次世界大戦敗戦による連合軍のドイツ占領を経て1949年に西ドイツに西側諸国の承認を得て設立されたドイツ連邦共和国では3番のみを公式なものとしており、1990年にドイツ民主共和国を統合した後も3番のみを公式なものとしている。
歌詞
Deutschlandlied(ドイツの歌) | |
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ドイツ語 | 日本語訳 |
1番 | |
Deutschland, Deutschland über alles, |
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2番 | |
Deutsche Frauen, deutsche Treue, |
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3番 (第二次世界大戦後に設立されたドイツ連邦共和国では3番のみが公式なものとなっている) | |
Einigkeit und Recht und Freiheit |
統一と正義と自由を |
歴史
経緯
当時、作詞者ファラースレーベンは反体制的な詩集を発行したということで、教鞭をとっていた大学から追放されて各地を放浪していた。その頃まだ英国領だったヘルゴラント島へ向かう船に、偶然フランスと英国の軍楽隊が同乗し、『女王陛下万歳』(God Save the Queen)と『ラ・マルセイエーズ』(La Marseillaise)を演奏していた。当時ドイツという国はなく、「ドイツ連邦」というものがあるだけで、国歌も統一国家もなかったため、彼は大きなショックを受けたという。
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ホフマン・フォン・ファラースレーベン(左)とハイドン(右) |
変遷
ドイツ帝国においても非公式ながら「皇帝陛下万歳」が国歌として使用されていたため、ヴァイマル共和政になって初めて「ドイツの歌」が正式の国歌となった。
その後、ナチス・ドイツ時代には1番のみを国歌としていた。そのため、この歌詞は覇権を正当化するもので、ナチス・ドイツの覇権主義の野望が盛り込まれており、また戦後ドイツの領土ではなくなった地名が含まれている、ということで、第二次世界大戦後は批判を受けた。
戦後、全く新しい国歌を制定しようとする試みもあったが、どれもこれといったものが出来ず、西ドイツがオリンピックに復帰するに当たり、偶然にも3番の歌詞が東西に分断された祖国の統一を願う詩として最適と言うことになり、1952年に3番を歌詞として、再び正式に国歌と決められた。また1990年の東西統一後も引き継がれ、1991年にそのままドイツの正式な国歌と決められている。
歌詞への評価
1番
神聖ローマ帝国の形骸化と解体以降、ドイツ語圏の諸邦が一部を除き小国に分裂していた状況に対して、ドイツ人たちが「同じ言葉を話す人々が集まり統一国家を築こう」と立ち上がりドイツ語圏を統一すべきとの悲願が込められている。当時のドイツ連邦はドイツ語を話さない民族の住む地方を多く抱える一方で、例えば東プロイセンのようにドイツ語が優勢な地域が除外されていた。1番は、ドイツ語話者の多い地域をドイツという国民国家へまとめあげることを目指しており、言語と国民国家の範囲を一致させようという19世紀のナショナリズムを反映した歌詞である。
マース川は現在はオランダ領であるリンブルフを貫いて流れる川で、ドイツ語の最西部の方言リンブルフ語を話す人々が住んでいた。メーメル川(ネマン川)は東プロイセン北部を流れる川で、ドイツ語圏の最東北端といえる地域であった。エチュ川(アディゲ川)は現在はイタリア領だが、19世紀当時はすべてオーストリア帝国の領域であり、特に上流の南チロルはドイツ語が優勢な地域でいまでもドイツ語圏の最南部である。ベルト海峡はドイツ語圏の最北部でありデンマークの属領でもあるシュレースヴィヒ公国の東海岸にあるが、公国南部のホルシュタインに住む民族ドイツ人はデンマーク支配への反感を強めており、帰属をめぐるシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題が起こっていた。
ナチス・ドイツ時代には1番のみを国歌としていた。しかし戦後、上記のような批判を受け、また歌詞にある「マース川からメーメル川までエチュ川からベルト海峡まで」は、ドイツ統一時にはドイツ領であったが、戦後に失われた領土であることもあって、不適当とされている。
現在のドイツでは、この1番を高らかに人前で歌ったり、ラジカセ等で流していたりするだけでネオナチ疑惑がかけられる。テンプレート:要出典
ただし1986年の世論調査によると、1番から3番まで国歌として学校で教えるべきだとする意見に対し、賛成、反対、わからないとする声は四、三、三の比率にわかれている。
2番
当時またはそれまでのドイツの文化、歴史について書かれている。歌詞の内容がもっぱら言葉遊びに終始していることや、女性差別と解されることから、正式に採用されていない。
3番
ドイツ民族の統一に対しての展望が書かれている。歌詞中にあるフレーズ「Einigkeit und Recht und Freiheit; 統一(団結)と正義(権利、法)と自由」は、ドイツ連邦共和国(西ドイツおよび統一ドイツ)の標語となっている。
4番
第一次世界大戦後、敗戦国である当時のドイツでは、フランス占領軍に対する国民の不満から、ドイツの国家としての正当性の主張が求められた。そんな中、アルベルト・マッタライという人物によってこの歌詞が作られた。
内容は「苦難の時も常にドイツは正義であること」を歌うもの。この4番はナチス時代には歌われており、比較的知られていた歌詞だった。しかし総統であるアドルフ・ヒトラーの自殺と共に第三帝国は完全に滅亡した。
それから年月は経過し、ドイツ国民から次第に忘れ去られていったために「幻の歌詞」となってしまった。4番は決して法的に禁止された歌詞ではないものの、やはり現在のドイツでは一般に知る人間は少ない。
Deutschlandlied(ドイツの歌) | |
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ドイツ語 | 日本語訳 |
幻の4番 | |
Deutschland, Deutschland über alles, |
ドイツよ、ドイツよ、すべてのものの上にあれ |
論争
テンプレート:出典の明記 オーストリア人ハイドンがハプスブルク家の皇帝を賛美するために作り、ハプスブルク家統治下のオーストリア帝国国歌でもあった曲がドイツ国歌となっていることに釈然としないオーストリア人は多い。これに対してドイツ側の見解はおおむねね次の通りである。
- 1806年以前にはオーストリアという国は存在しなかった。法的には「ドイツ人の神聖ローマ帝国」の皇帝でありドイツ王であるハプスブルク家が大公を兼ねるオーストリア大公領でしかなかった。したがって、作曲当時は「オーストリア皇帝」ではなく「ドイツ皇帝(神聖ローマ皇帝)」に捧げられたものである。
- 1806年以降もオーストリア帝国は1866年までドイツ連邦の議長国として、分裂ドイツ国家のリーダー役と見なされていた。
最近では同じ論法で、モーツァルトを「史上偉大なドイツ人」として顕彰しようとしたドイツのマスコミ(ZDF)が論議を巻き起こしており、議論は収まりそうにない(これに対しオーストリア人は「当時「ドイツ国」という国家もなかったのだから、ゲーテは「ドイツ人」ではない」と反論した)。一方、オーストリア国内でもドイツ民族主義が急進しており、「祖国ドイツよ」と歌詞で強調されるこの歌を高唱する右翼学生も、ウィーンでは目につく。オーストリアが名実ともにドイツの中心的存在であった時期に作られたこの曲が、オーストリアを除外したドイツの国歌として現在も使用されていることは、かつての大ドイツ主義、ドイツ民族主義を微妙に揺さぶる要素をはらんでいる。
賛美歌との関係
テンプレート:出典の明記 メロディーは、1802年頃には英米で賛美歌(チューン・ネーム:Austria)として採用されており、これはファラースレーベンによる愛国歌の作詞より前のことである。
メロディーの使用例として、日本基督教団讃美歌 (1954年版)194番「さかえにみちたる」が挙げられる。原歌詞は「アメイジング・グレイス」で有名なジョン・ニュートンによる(1779年、歌詞初行: Glorious things of thee are spoken)。神が治める天のエルサレムを称える内容であり、皇帝賛歌とは関係がない。日本基督教団の最新の賛美歌集 (讃美歌21) には採用されなかったが、日本福音連盟新聖歌(2001年版)145番、救世軍歌(1997年版)362番・367番などでは引き続きこのメロディーが使用されている。
国歌と賛美歌が同じメロディーを用いているために生じた問題もある。
エホバの証人も、1905年から1938年頃までこの賛美歌を歌っていた(歌詞はジョン・ニュートンの詞のアレンジ版)。ナチスによる弾圧が強まった1933年の 6月、ドイツの信者らはベルリンで抗議集会を開催したが、開会の歌がこの賛美歌であった。これは後に、「ナチス懐柔のために国歌の曲を歌った」と批評家から指摘されることになった。エホバの証人側は 「1905年以来賛美歌として歌ってきた曲が 後からドイツ国歌とされた」と反論している。さらに、批評家からは「教団のドイツ語版歌集に初掲載されたのは 1928年で、ドイツ国歌となった 1922年より後」と指摘されたが参照(ドイツ語サイト)、しかし、ドイツ国歌はナチス台頭前から存在すること、当時エホバの証人の活動が政府の監視下にあったこと、当時翻訳はタイプライターなどを使って手作業でなされたことなどを考え、エホバの証人側はこうした非難は事実無根であると反論している。
関連項目
- 旗を高く掲げよ(ホルスト・ヴェッセルの歌) - ナチスの党歌。ナチス・ドイツ時代には実質的に第二国歌として扱われていた。
- 廃墟からの復活 - ドイツ民主共和国(東ドイツ)の国歌。
- 山岳の国、大河の国 - 現在のオーストリア共和国における国歌。
外部リンク
- Das Lied der Deutschen. All three stanzas. Sung by a women choir. Source: Ingeb.org
- ドイツ連邦共和国連邦政府サイト内ドイツ国歌のページ(ドイツ語) オーディオファイル付
- テンプレート:YouTubeテンプレート:De icon
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