覇権主義
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テンプレート:半保護 テンプレート:出典の明記 覇権主義(はけんしゅぎ)とは、国家またはそれに準ずるものの、外交・軍事における傾向の一種。当該国の実利的利害関係にのみ基づいて他国に対する対応を決定し、敵対国に対する侵略戦争や先制攻撃によって(若しくは挑発を行なって相手に攻撃させ開戦の正当性や大義を主張し)領土の拡大や自国の安全保障を行い、同盟国や敵対国の反対勢力に対する軍事・経済協力を進める。それを実行し、成功した国を覇権国家と言う。陸軍国家(大陸国家)であることが多い。
目次
概要
自国の利益を優先するマキャベリズムは、軍事・外交の世界においてはほぼすべての場合において見られるが、覇権主義は以下の点が特徴的である。
- マキャベリズムを糊塗するために、理想の世界秩序を掲げその実現のために自国が努力しているという建前を持たない、または甚だしく軽視する。
- 王道主義、理想主義的な態度からは遠い。
- 自国と同程度以上の国際勢力と協調して覇権を敷くという発想(国際協調主義)を持たない。
- 常に一国主義的。つまり、自国の主張のみが正義であり、世界は我が国に従っておればよい、この秩序を保つためであれば我が国はいかなる行為に出る事も許されるとする。戦争もその選択肢から除外されない。
- 東西冷戦時の陣営・同盟国的発想とは異り、たとえ自国の利益と一致する場合においても、他の勢力と協調することが自国の国際的権威や権力を弱体化させる虞がある場合には単独行動を選ぶ。
中世や古代ではこの覇権主義が主流で、第二次世界大戦期までこの傾向は見られた。一般に覇権主義を展開する大国は周囲の敵対する小国などを滅亡させる傾向が強く、その際のジェノサイドも凄まじい。国が大きくなりすぎるゆえ、内部分裂の発生、経済力の疲弊、市民革命の勃発、軍事力の後方支援体制の不備などが元で崩壊に至る。
かつて大規模な覇権主義を展開した国
- アッシリア帝国
- ローマ帝国の旗 ローマ帝国
- イスラム帝国(正統カリフ、ウマイヤ朝、アッバース朝)
- モンゴル帝国
- オスマン帝国の旗 オスマン帝国
- スペイン帝国(ハプスブルク家)
- テンプレート:Flagicon フランス帝国
- テンプレート:Flagicon ロシア帝国(ロマノフ朝)
- テンプレート:Flagicon イギリス帝国
- テンプレート:Flagicon ソビエト連邦
- など。
かつて地域規模の覇権主義を展開した国
- 古代エジプト
- インカ帝国の旗 インカ帝国
- アステカ帝国
- ペルシア帝国(アケメネス朝、サーサーン朝)
- パルティア王国
- ティムール帝国
- ムガル帝国
- オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国
- 東ローマ帝国
- フランク王国(西ローマ帝国)
- ポーランド王国の旗 ポーランド王国(ポーランド・リトアニア共和国)
- カルマル同盟の旗 デンマーク(北海帝国、カルマル同盟)
- バルト帝国の国旗 スウェーデン(バルト帝国)
- テンプレート:Flagicon ドイツ帝国(ホーエンツォレルン朝)
- テンプレート:Flagicon ドイツ第三帝国(ナチス政権)
- 大清帝国の旗 歴代中華帝国(漢、唐、明、大清帝国)
- テンプレート:Flagicon 大日本帝国[1][2][3][4][5][6][7]
- など。
覇権主義的と指摘されることがある現在の国家
- 冷戦以来、資本主義陣営のリーダー国としての地位をもっていた経緯で現在でも反米派によって覇権主義的と指摘されることがある。テンプレート:Seealso
覇権主義を展開した、もしくは展開している著名な人物
- アレクサンドロス大王
- チンギス・ハン
- ティムール
- メフメト2世
- スレイマン大帝
- グスタフ・アドルフ
- ルイ14世
- ナーディル・シャー
- ナポレオン・ボナパルト
- テンプレート:Flagicon アドルフ・ヒトラー
- テンプレート:Flagicon ヨシフ・スターリン
- テンプレート:Flagicon 毛沢東
- テンプレート:Flagicon 鄧小平
- テンプレート:Flagicon 江沢民
- テンプレート:Flagicon 胡錦濤
- テンプレート:Flagicon 習近平
- テンプレート:Flagicon 近衛文麿
- テンプレート:Flagicon 東條英機
- テンプレート:Flagicon ロナルド・レーガン
- テンプレート:Flagicon ジョージ・ウォーカー・ブッシュ
- テンプレート:Flagicon ウラジーミル・プーチン
脚注
- ↑ 「大東亜共栄圏」を参照
- ↑ 大東亜共同宣言(1943年、大東亜会議)
- ↑ 大東亜省設置ニ関スル件
- ↑ 基本国策要綱(1940年7月26日、第2次近衛内閣)
- ↑ 石原莞爾『世界最終戦論』中公文庫BIBLIO20世紀、2001年 ISBN 4122038987
- ↑ 第72回帝国議会開院式勅語(1937年9月4日、昭和天皇)「帝國と中華民國との提攜協力に依り東亞の安定を確保し以て共榮の實を擧くるは是れ朕か夙夜軫念措かさる所なり中華民國深く帝國の眞意を解せす濫に事を構へ遂に今次の事變を見るに至る朕之を憾とす今や朕か軍人は百艱を排して其の忠勇を致しつつあり是れ一に中華民國の反省を促し速に東亞の平和を確立せむとするに外ならす」
- ↑ 第74回帝国議会開院式勅語(1938年12月26日、昭和天皇)「帝國と締盟各國との交際は益益親厚を加ふ朕深く之を欣ふ」「朕か將兵は克く艱難を排して已に支那の要域を戡定したり然れとも東亞の新秩序を建設して東亞永遠の安定を確保せんか爲には實に國民精神の昂揚と國家總力の發揮とに俟たさるへからす」「朕は擧國臣民の忠誠に倚信し所期の目的を達成せむことを期す」
- ↑ 例えば、日高義樹「日米は中国の覇権主義とどう戦うか」徳間書店