唐
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唐(とう、拼音:Táng、618年 - 690年,705年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見で停止されるまで、積極的に交流を続けた。首都は長安に置かれた。
690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。
日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。
国号
国号の「唐」は晋の古名であり、もとは山西省を中心とする地域を指した。古代には堯が建てたといわれる伝説上の王朝「陶唐」があった。また、周の時代には魯の周公旦(武王の弟)が討伐して、滅ぼした唐や武王の子・唐叔虞が立てた晋の別称としての唐とは別に、春秋時代に今の湖北省の一部に唐(zh)を国号とする小国があったことが知られ、呉・蔡と盟約を結ぶも、紀元前505年に楚と秦によって滅ぼされた(『春秋左氏伝』)。
本項の唐の滅亡後、五代十国時代には李存勗の後唐、十国のひとつ南唐などが唐の後継者を自認して唐を国号としたこともあったが、いずれの皇帝も唐室の血は引いていない。
李氏
唐王朝の李淵が出た李氏は、隋の帝室と同じ武川鎮軍閥の出身で、北魏・北周以来の八柱国・十二将軍と称される鮮卑系貴族のうち、八柱国の一家として隋によって唐国公の爵位を与えられていた。のちに、隋から禅譲を受けて新朝を立てるという易姓革命の手続きを踏んだ際に、この爵位にちなんで唐を国号とする。
『旧唐書』・『新唐書』によれば、李氏は李耳(老子)の子孫と称し、西涼の初代王・李暠をその遠祖としている。北周において鮮卑への復古政策が行われた時に、李氏は北周より大野(だいや)という姓を与えられ、一時的にこの姓を名乗ることになる。ただし、唐李氏の系譜についてはこの西涼の李氏とは繋がっておらず、唐李氏は鮮卑系であるとの見解が戦時中に日本の宮崎市定[1]によって出され、以後日本学界ではこの考え方がほぼ定説となっている。一方、中国学界では、陳寅恪が『唐代政治史述論稿』において、鮮卑系の関隴集団(=武川鎮軍閥)に属する趙郡の李氏が、(鮮卑化した漢族とする)唐朝の出自であることを論証し、やはり定説となった。近年の中国では、宮崎説を「日本軍の中国支配のために持ち出された論説である」と見る向きもある[2]が、主流をなす見解ではない。また、中華民国の学者姚薇元は唐をテュルク系高車を出自に持つ代郡李氏とする見解を示している。
歴史
テンプレート:脚注の不足 唐の歴史は300年にわたり、非常に長く、また唐代の間の社会変動も大きい。そこで、ここでは唐の歴史をさらに初唐、盛唐、中唐、晩唐の4期に細分して通観する。
初唐(武周期を含む)(7世紀初頭 - )
7世紀初頭の中国は隋が統一国家を実現していたが、第2代煬帝の内政上の失政と外征の失敗のために各地に反乱がおき、大混乱に陥った。このとき太原留守(総督)であった李淵は617年(義寧元年)に挙兵、煬帝の留守中の都、大興城(長安)を陥落させると、煬帝を太上皇帝(前皇帝)に祭り上げて、その孫恭帝侑を傀儡の皇帝に立て、隋の中央を掌握した。翌618年(隋義寧2年、唐武徳元年)に江南にいた煬帝が殺害され、李淵は恭帝から禅譲を受けて即位(高祖)、唐を建国した。
建国の時点では、依然として中国の各地に隋末に挙兵した群雄が多く残っていたが、それを高祖の次子李世民が討ち滅ぼしていった。勲功を立てた李世民は、626年にクーデターを起こすと高祖の長男で皇太子の李建成を殺害し実権を握った(玄武門の変)。高祖はその後退位して、李世民が第2代の皇帝(太宗)となる。
太宗は北方の強国突厥を降してモンゴル高原を羈縻支配下に置き、北族から天可汗(テングリ・カガン)、すなわち天帝の号を贈られた。また内治においては三省六部、宰相の制度が確立され、その政治は貞観の治として名高い。その治世について書かれたものが『貞観政要』であり、日本や朝鮮にまで帝王学の教科書として多く読まれた。
唐の基礎を据えた太宗の治世の後、第3代高宗の時代に隋以来の懸案であった高句麗征伐(唐の高句麗出兵)が成功し、国勢は最初の絶頂期を迎える。しかし、高宗個人は政治への意欲が薄く、やがて武后(武則天)とその一族の武氏による専横が始まった。夫に代わって専権を握った武則天は高宗の死後、実子を傀儡天子として相次いで改廃した後、690年の簒奪により(載初元年)国号を周と改めた(武周)。
中国史上最初で最後の女帝であった武則天は、酷吏を使って恐怖政治を行う一方、新興富裕階層を取り込むため土地の併呑に許可を与え版籍の調査を緩めたが、農民の逃散や隠田の増加が進行して社会不安と税収減及び均田制の綻びを招いた。武則天が老境に入って床にあることが多くなると権威は衰え、705年(神龍元年)、宰相張柬之に退位を迫られた。こうして武則天が退位させた息子の中宗が再び帝位に就き、周は1代15年で滅亡した。
しかし今度は、中宗の皇后韋氏が中宗を毒殺した。韋后はその後即位した殤帝を傀儡とした後簒奪を画策したが、中宗の甥李隆基と武則天の娘太平公主の蜂起により敗れた韋后は族殺され、武則天が廃位させた李隆基の父・睿宗が再び帝位につき、李隆基はこの功により地位を皇太子に進められた。その後、今度は李隆基と太平公主による争いが起こる。
7世紀後半から8世紀前半にかけて後宮から発生した政乱を2人の皇后の姓を取って「武韋の禍」と呼ぶ。
盛唐(8世紀初頭 - )
712年(先天元年)、李隆基は睿宗から譲位され即位した(玄宗)。翌年、太平公主を処刑した。玄宗の治世の前半は開元の治と謳われ、唐の絶頂期となる。この時期、唐の羈縻支配と冊封政策は中央アジアにまで及んだが、751年にトゥーラーンの支配権を巡ってアッバース朝との間に起こったタラス河畔の戦いに敗れた。
玄宗は、長い治世の後半には楊貴妃を溺愛して政治への意欲を失い、宰相の李林甫ついで貴妃の一族楊国忠の専横を許した。楊国忠は、玄宗と楊貴妃に寵愛されていた節度使の安禄山と対立し、危険を感じた安禄山は755年に反乱を起こした。節度使は玄宗の時代に増加した官職で、辺境に駐留する藩師に軍事指揮権と一部の行政権を与える制度である。北方3州の節度使を兼ね大軍を握っていた安禄山はたちまち華北を席巻し、洛陽を陥落させ大燕皇帝と称した。
都の長安を占領され玄宗は蜀に逃亡、その途中で反乱の原因を作ったとして楊貴妃と楊国忠は誅殺された。失意の玄宗は譲位し、皇太子が粛宗として即位した。唐は名将郭子儀らの活躍や回鶻(ウイグル)の援軍(皇太子葉護ら)によって、763年に乱を平定した。9年に及んだ反乱は、安禄山とその死後乱を主導した配下の史思明の名をとって安史の乱と呼ばれる。安史の乱によって、唐の国威は大きく傷付いた。以降、唐は次第に傾いていく。
軍事力増強のために藩鎮を増やした結果、内地の節度使も増加した。各地に節度使が置かれた状態は、後の五代十国時代まで続いた。
中唐(8世紀半ば - )
安史の乱により疲弊した唐は、中央アジアのみならず西域も保持することが難しくなり、国境は次第に縮小して世界帝国たる力を失っていった。
これに対し、中興の祖と謳われた憲宗は、中央の禁軍を強化することで中央の命令に服さない節度使を討伐し、朝威を回復させた。しかしその後不老長寿の薬といわれた丹砂(水銀)をはじめ怪しげな仙薬を常用するようになると、精神に不安定をきたして宦官をしばしば殺害したため、恐れた宦官により殺された。孫の文宗は権力を握った宦官を誅殺しようと「甘露の変」と呼ばれる策略を練ったが失敗し、かえって宦官の専横を招いた。
晩唐(9世紀半ば - 10世紀初頭)
文宗の弟の武宗は廃仏運動を進めた。当時、脱税目的で僧籍を取る者が多かったため、実態の無い僧を還俗させ財政改善を図った。この時期、牛僧孺党派と李徳裕党派の政争が激しくなり、これは牛李の党争と呼ばれる。
この頃から、859年の裘甫の乱、868年の龐勛の乱に代表される、行政の改善を要求する武装闘争が各地で起きた。874年頃から黄巣の乱が起きる。この乱は全国に波及、黄巣は長安を陥落させると、斉を建て皇帝就位を宣言した。しかし黄巣軍の構成員は多くが貧民出で政務を執行できず、略奪を繰り返して憎悪を買った挙句に長安を去った。この時、黄巣の部下だった朱温は黄巣を見限り唐に帰参した。朱温は唐から全忠の名前を賜り、以後朱全忠と名乗る。この頃になると唐朝の支配地域は主に首都・長安から比較的近い関東地域一帯にまで縮小し、藩鎮からの税収も多くが滞っていった。
河南地方の藩師となった朱全忠は、唐の朝廷を本拠の開封に移して、唐の権威を借りて勢力を拡大した。907年(天祐4年)、朱全忠は哀帝より禅譲を受けて後梁を開き、唐は滅亡する。しかし、唐の亡んだ時点で朱全忠の勢力は河南を中心に華北の半分を占めるに過ぎず、各地には節度使から自立した群国が立っていた。後梁はこれらを制圧して中国を再統一する力を持たず、中国は五代十国の分裂時代に入る。
政治
テンプレート:脚注の不足 兵制については「税制・兵制の節を参照。
律令体制とその崩壊
律令は、西晋で作られた泰始律令以来、何度か改変が重ねられ、隋の文帝により「開皇律令」が編纂されていた。唐はそれを受け継いで、何度か修正を加えつつ運用していた。
律は刑法、令は行政法であり、これを補足するものとして格式がある。律令に該当しない事例を処理する為の詔勅のうち、法として新たに加わるものが格で、式は律令を運用する上での細則である。
後述する三省六部、九品制、均田制、府兵制などは令によって規定され、このような律令を中心の柱として成り立つ国家体制を律令制と呼ぶ。
唐の律令は何度か変更され、玄宗の737年(開元25年)にほぼ完成を見る。この律令を開元二十五年律令と呼んでおり、後世に律令のお手本とされた。
律令が現実の社会状況と合致しない場合、それに代わって詔勅と格が主要な役割を果たしたとされる。安史の乱以後は、唐全体の社会状態が大きく変わり、より格式が多用されるに至る。
科挙と貴族政治
唐代は南北朝時代からの風潮を引き継いで、権門貴族が強い影響力を保持していた。皇室の李氏を含め唐の支配者層を形成したこれらの集団は、いずれも多くが関隴の地域を基盤とした貴族集団であり、この集団のことを関隴集団と呼ぶ。関は関中(陝西省)、隴は現在の甘粛省東部のことである。
関隴貴族は鮮卑系北朝貴族であり、この他には主に漢族の流れを汲む山東貴族、南朝の流れを汲む南朝貴族がある。家門の家格という考え方は魏晋南北朝時代を通して維持され、唐が建国された後でも長い歴史を持ち最高の名門とされる山東貴族は、影響力には乏しいが家格は依然として高かった。
家格が高い家と婚姻関係を結び自らの家格を上げることが広く行われたが、この場合は下の家格の者が上の家格の者に莫大な結納金を積むのが常であった。太宗は皇室と外戚の権威を高めるべく、貴族を格付けした『氏族志』の編纂を命じたが、山東貴族の家門が第一等、皇室の李氏が第三等だったため、唐の官制に基づき皇室の李氏や親族を第一等・第二等とするよう命じた。同じく武則天も自らの武氏を李氏に次ぐ第二等とした。これは、家格が当時の人にとって大きな意味を持っていたことを示している。
貴族は政治への影響力の源泉として、詔勅の審議を司る門下省と官僚の任免賞罰などを司る尚書吏部を握っていた。
高位の官僚には課役の免除、刑罰を金銭で贖えるなどの特権が与えられ、また資蔭と呼ばれる親の官品に応じて子が任官できる制度があった。唐の政治は概ね貴族により運営されていた。
一方、隋から受け継いだ科挙も実施されていたものの、資蔭によって与えられる地位よりも低い位置で任官するのが常であった。例えば最高位である一品官の子は正七品上に任官できるが、科挙では最高でも正八品上である。さらに前述の通り、尚書吏部は貴族の意向が働いており、科挙出身者は冷遇された。
武則天は関隴貴族の出身ではあったが主流には遠く、女性の身で権力を握るという事への反発もあり、関隴貴族の反感を買っていた。そこで武則天は科挙を通過する新興富裕層を積極的に引き上げ、権力の安泰を計った。
しかし武則天の時代は新興富裕層を厚遇するあまり、大地主による土地の併呑が横行し、農民が田地を失って小作となる事例や逃亡して奴婢となる事例が蔓延、また同じく唐初以来厳格に行われてきた版籍の調査を甘くして、官位の低い新興富裕階級による土地の併呑や奴婢を囲い込みに便宜を計った為に隠田や脱税が横行、玄宗時代に税制改正が行われる原因となった。
中期以降の唐では、基本的には上位の官職に就けない状態ではあったが、科挙出身者が徐々に官界に進出する。また貴族出身にも科挙を受験する者が増える。
官制
律令制下の官制は三省六部を頂点とする。中書省が詔勅(皇帝の命令)の起草、門下省がその審議を行ない、尚書省が配下の六部(礼部・吏部・戸部・兵部・刑部・工部)を通して詔勅を実行する。門下省の長官は侍中(2名)、中書省の長官は中書令(2名)、尚書省の長官は尚書令と呼ばれるが、尚書令は皇子時代の太宗が務めていた時期があったため、唐を通じて欠員とされ、副長官の僕射(ぼくや、左右1名ずつ)が実質上の長官であった。
六名の長官が宰相職とされ、重要政策は宰相の合議によって決定され、宰相の会議上は政事堂と呼ばれた。しかし次第に皇帝の代理人である中書令の権力が強くなり実権を振るうことになる。
官制の最高位である宰相には、侍中・中書令・尚書左僕射・尚書右僕射が任じられ、他の官職にあるものに同中書門下三品という仮官を与えて宰相に任じることがあった。同中書門下三品は、後に同中書門下平章事と名称を変え、宰相を意味するようになった。
尚書六部の下には漢代以来の実務機関である九寺、五監があり、庶務を担当した。
また三省とは別に宮中の文書を扱う秘書省・皇帝の衣食などを取り扱う殿中省・後宮の管理を行う内侍省があり、合わせて六省と呼ばれる。他に監察機関として御史台があり、官僚たちの監察を行なった。
これらの部署に配置される官僚達は正一品から従九品下までの、一品から四品は正・従に分けられ、五品から九品までは正・従・上・下に分けられた計30階位に分けられている。この九品以上までが、「流内官」と呼ばれ、それ以外は「流外官」と呼ばれた。流内官の文武の各品階ごとに実務が伴わない官名が定まっており、文散官・武散官と呼ばれた。また、五品以上は宰相の推薦による勅任官で、六品以下が吏部に任じられた認証官であった。また、中央にいる京官と地方の外官にも分けられた。実務を伴う官名は職事官と呼ばれた。
特権として、九品以上の流内官は本人の公課が免除され、五品以上は同居親族の公課が免除の上、官人永業田の給付、散官に応じて、「蔭」や「任子」という子孫が官人になる資格を与えられた。
官人になるためには、皇帝・皇后の親族であることや蔭の対象とあること、または科挙合格した上で、吏部で行われる銓選という身言書判の試験に合格する必要があった。流外官から銓選だけで官人になることもあった。流内官になることは、入流と呼ばれた。しかし、流内官には清・濁の区別があり、皇帝・皇后の親族や蔭の対象者、科挙合格者は清官であったが、流外官から選ばれたものは濁官にしかなれなかった。
8世紀中葉以降、旧来の官制に綻びが見られる状態に対応するため新たな官制が布かれた。主なものに州の監察を行う観察使、戸部の事務処理量が膨大となったため戸部から独立させた国家財政を司る度支使、物資の運送を司る転運使、塩鉄専売を司る塩鉄使などがあり、それまでの令によって定められた役職を上回る職権を持つ職もある。このうち翰林学士などの令外官を使職と言う。
度支使は元来財政を担当した戸部尚書を上回る権限を持ち、塩鉄使はその財政上の重要さから宰相に準ずる職となる。宝応年間以降は、常に塩鉄使が転運使を兼ね、後唐に至ると度支使・塩鉄使・戸部尚書が一本化されて三司となった。
またそれまで中書省の中書舎人が行なっていた詔勅の起草の内、朝廷ではなく皇室の発するものは玄宗が設置した翰林学士が行う事となった、翰林学士は宦官と並んで大きな権限を持つことになる。
身分制度
律令において、良賤制度がとられ、人は良人と賤人に分けられていた。賤人(賤民)は、独立した戸籍を持たず、官賤人と私賤人に分けられ、それぞれ細かく身分を分けられていた。良人と賤人、もしくは賤人の異種身分同士で刑罰が異なり、身分が上が下に犯した場合は通常より罪が軽くなり、下が上を犯した場合は重くなった。
官賤人は、重罪人とその親族が籍没されたものや戦争捕虜とその子孫が中心であった。私賤人は、没落者とその親族、人身売買された者、強奪された者、官賤人が引き渡された者、親が私賤人だった者が中心だった。良人と賤人の間の結婚は禁じられ、良人と、私賤人の女性との間に生まれた子はその良人が認めなければ、私賤人のままであった。
ただし、私賤人でも、主人が勝手に殺すことは禁じられ、税や兵役の負担は免れることができ、金銭で私賤人の間における身分を上昇することができた。主人が私賤人を良人にすることは許されていた。また、官賤人は、赦免を受けることで、次第に身分が上げられ、良人となることができた。この時代では、賤人を良人として解放するのは大きな善行とされていた。身分についても、生来の出自により、完全に固定されたものとしては認識されているものではなかった。
戸の中では尊卑長幼制がとられており、戸における世代の上下と年齢の上下を勘案した上で、上が下を犯した場合は軽く、下が上を犯した場合は重くなるように、刑罰が定められていた。
地方制度
唐は、全国を10の道に分け、後の玄宗期に15に分けた。
道は監察など広域行政のための単位であり、実際の施政を担うのは刺史を長とする州郡と、その下の県令を長とする県である。州は全国で約350あり、県は全国でおよそ1550であった。
県の下に、4家を以て隣、5隣を以て保とする隣保制と、100戸をまとめて1里とし、5里を1郷とする郷里制がある。一つの里にはその里の諸事に責任を持つ里正という郷役が里の中から選ばれ、徴税・犯罪の取り締まりなどに当たった。
安史の乱後は、多くの藩鎮が地方に置かれた。また国内には領土の統治のために連絡用の駅伝が30里ごとに置かれ有事に備えた。
宦官
唐代は歴代王朝の中でも後漢・明ほどではないが、宦官悪の顕著な時代とされている。唐において最初に権勢を揮った宦官は玄宗時代の高力士である。高力士は玄宗の絶大な信頼を受け、李林甫などは高力士と結んで高位に上ったといわれる。高力士自身は全身が玄宗への忠誠心のような人物であったが、あまり表に出ることはなく陰で権勢を振るう傾向が強く、唐末の宦官権力の一典型となった。
安史の乱後、粛宗擁立に功績を挙げ宦官初の宰相となった李輔国、代宗の下で驃騎将軍となった程元振などを経て、神策軍を擁した魚朝恩の台頭の以後、宦官の存在は唐皇室の中で大きな位置を占める。
神策軍は唐の地方軍のひとつだったが、魚朝恩の行動により皇帝親衛軍とされ、以後代々の長官には宦官が任命され宦官の権力の拠り所となった。
宦官の専横に対して皇帝の側にも宦官を排除する動きが出てくる。憲宗の孫の文宗は宦官に不快感を抱いており、それを察した官僚李訓・鄭注は宦官殺害の策を練り、835年に「甘露が降るという瑞兆があった」という偽りを報告し、これを口実として宦官を集めて一気に殺害する計画を立てた。しかし内部の不一致から計画は失敗し李訓らは殺される。これを甘露の変と呼ぶ。
こうして皇帝と宦官勢力の対立が表面化したこともあったが、宦官は基本的に皇帝と不可分の存在であった。宦官の権力の源泉は皇帝であり、皇帝なくして宦官はあり得なかった。仇子良が残した言葉はこのことを如実に示している。また前述の皇帝側からの宦官に対する行動はあくまで宦官の専横の抑制を目的としており、宦官制度自体は唐代を通じて存された。宦官側・皇帝側、双方からの必要性故に宦官という存在がありえた。
権勢を振るった宦官も唐末に朱全忠・李克用らが争い合い、皇帝が名目的な存在になって以降は当然に勢力を失った。最終的に宦官は902年、朱全忠の力を借りた昭宗により全滅させられるが、その2年後に昭宗は朱全忠により殺され、さらにその3年後に唐は朱全忠へ禅譲し完全に滅亡する。
経済・軍事
テンプレート:脚注の不足 ※唐代の単位については以下の通り。1畝=約522.15平米。10斗=1石=59.4リットル。10尺=1丈=3.11m。1両=42.5 - 40g。
税制・兵制
唐の税制は北周以来の均田制・租庸調制であり、兵制は府兵制である。この両制度は相互不可分な制度である。
均田制は全国の丁男(労働に耐えうる青年男性)一人につき、永業田(相続可能な土地)が20畝まで認められ、口分田(死亡や定年60歳になると国家に返却する)が割当可能な範囲で80畝まで支給される。また官職にある者は職分田が与えられる(これは辞職した時に返却する)。その他にも丁男がいない戸、商工業者、僧侶・道士などの特別な戸に対してもそれぞれ支給量が決められている。
田地に対して、租庸調と呼ばれる税を納める義務を負う。租は粟(穀物)2石、調は絹2丈と綿3両を収める。年間20日の労役の義務があり、免除して貰う税は庸と呼ばれ、労役一日に対し絹3尺あるいは布3.75尺を収める。
府兵制はこれらの戸籍に基づいて3年に1度、丁男に対して徴兵の義務を負わせた。
均田制・府兵制の両制度の実施には戸籍が必要不可欠であるが、武則天期になると解禁された大地主による兼併や高利貸によって窮迫した農民が土地を捨てて逃亡する(逃戸と呼ばれる)事例が急増し、また事前通告なしでの土地の売買を解禁したため戸籍の正確な把握が困難になった。また、華北地域では秋耕の定着による2年3作方式が確立され、農作業の通年化・集約化及びそれらを基盤とした生産力の増大が進展したことによって、期間中は農作業が困難となる兵役に対する農民の負担感が増大していった[3]。かくして均田・租庸調制と府兵制は破綻をきたし、代わる税制・兵制が必要となる。
辺境において実施された藩鎮・募兵制は、府兵制は徴兵により兵役に就かせたのに対して、徴収した土地の租税の一部を基に兵士を雇い入れる制度である。710年に安西四鎮(天山山脈南路の防衛)を置いたのを初めとして719年までに10の藩鎮を設置している。当初は辺境地域にしか置かれていない。
しかし安史の乱後は内地にも藩鎮が置かれた。地方の藩鎮は唐に対する税の貢納は行っていたものの徐々に自立色を深めていき、最終的には藩鎮により唐は滅ぼされることになる。
780年に施行された新しい税制は、それまで資産に関らずに定額を課税していたものを、財産に応じた額に改めたものである。夏(6月)と秋(11月)の年2回徴収するので、両税法と呼ばれる。夏に納めるのは麦であり、秋に納めるのは粟と稲である。税額は一定せず、その年に使われる年間予算を基に税額を各地に割り当てた。
かつて安禄山軍から投降した3人の武将に授けた節度使職を元とする、成徳軍・盧竜軍・天雄軍の3つの藩鎮は特に反中央の傾向が強く、節度使の地位を世襲化し中央に納税しなかった。この3つを河朔三鎮と呼んでいる。憲宗は藩鎮を抑制する為、反抗的な藩鎮に対して討伐を加えた。
藩鎮では多くの騒乱が発生したが朝廷へ反旗を翻した例は僅かで、大部分は不満を持った驕兵悍将と呼ばれる兵士・下士官が上司たる節度使を追放する目的で行われた。このような兵乱の代表が康全泰の乱(858年)である。兵乱はあくまで自分達の利権を守るのために背いただけで、ほとんどは唐政府に妥協し、大規模なものになる前に鎮圧された。
しかし、羨余などの税収以上の民衆からの収奪を行う節度使と、羨余のさらなる献上を奨励する唐政府のため、民衆の生活は困窮するばかりであった。そのため、裘甫の乱(859~860年)という民乱(民衆が中心の反乱)が起きたが、地主・大商人層が唐政府についたために、鎮圧された。また、龐勛の乱(868~869年)は初めは兵乱として始まったが、後に多数の農民が参加して民乱と化した。最終的には、龐勛の乱は地主・大商人層が離反したため、敗北する。龐勛の乱は、黄巣の乱(874~884年)の前段階と言え、黄巣の乱は初めから民乱として出発する。
専売制
安史の乱以後の唐の財政は苦しくなり、その打破のために758年に塩と鉄の専売制を実施した。
専売の統括をする役職が塩鉄使である。塩の産地には製造業者を集める巡院という機関が置かれ、ここで登録を受け、できた塩は登録された塩商人に売り、外部へ塩が流出しないように監視された。
専売制によってかけられる税は莫大で、塩にかかる税額の大きさは専売制実施前が1斗が10銭であったのが実施後には110銭になるというほどであった[4]。しかもこれ以後財政が悪化するとその都度値上げされている。また、生産者の自由も制約されるようになると製塩従事者の勤労意欲も減退して、品質の低下に繋がった。
生活に不可欠な塩に対してこのような価格をつけることに不満を持った人々により塩の密売が当然行われ、政府は取締りを行って摘発者には死刑などの厳しい処分を下したが、密売人側も次第に武力を持った組織だったものになっていった。黄巣はこの集団の中から登場して晩唐を揺るがし、唐に致命傷を与えることになる。
貴族の没落と市民経済の勃興
科挙は試験によって人材を選抜する制度であるが、合格には長期間勉強に集中できる環境が必要であり、また書物の購入費用などもかなりの額になることから合格にはそれなりの財産が必要であった。
貴族が科挙を軽視していた時代に科挙を受けたのは、財産を積み上げてきた新興地主層で、これらの科挙合格者達は武周期を境に官界へ進出し始め、官僚としての特権を利用して財産を積み上げ、豪商・富農と呼べる存在が現れる。また、商業全体も活発化した。
煬帝によって作られた大運河も流通の柱として大きな活躍をし、その重要さから政治都市・長安より、大運河沿いの商業都市・開封が中国の中心都市の地位を奪うことになる。
社会の変化に対応できない貴族層や新興富裕層は没落し、唐代の勢家は平均3 - 6代程度と短い。貴族の影響力の牙城であった門下省はその実質を失い、中書省に吸収されて中書門下と呼ばれるようになる。次第に貴族層も科挙を受けるようになるが、五代十国時代の戦乱の中で中国史に於ける貴族は消滅する。
新興地主層は北宋代の形勢戸に繋がり、この層が科挙官僚を生み出すことで士大夫層の形成へと繋がる。
坊制
唐の都である長安と副都である洛陽などの大都市は、街を街路で碁盤目状に区切る条坊制がとられていた。街路で四方を区切られた場所を「坊」とし、約3mほどの高さの土塀で街路沿い四方を区切り、土塀には大きな坊で路が東西1路、南北1路で四門、小さな坊で東西1路で二門がつけられ、門から街路に出ることで他の坊に行くことができる。坊門は、坊の責任者である坊正が鍵を管理し、日の出前に開けられ、日没とともに門を閉めた。有力者や寺院などは直接、街路へ向けて門をつけることを許されていた。これは「坊制」と呼ばれる。
坊の責任者は、坊正と里正がいた。坊正は坊全体の責任者として、坊門を管理し、治安を維持する役目があった。また、坊の中にある100戸ごとに里正が任命され、戸数の把握や賦役の催促、犯罪の調査を行った。治安より財政が重視されたため、坊正より里正が重んじられた。
坊門以外に門をつける特権を持つものが余りに増え、中唐には街路の門戸が問題になったが門が減少することはなく、街路の一部を占有する「侵街」と呼ばれる事態が増加した。商工業の発展とともに、坊制はその機能を弱めていった。
経済
市制
各都市に政府が管理する商店や行商が集まる市があり、長安に東西二つの市、洛陽に南北西、三市が存在していた。この市は政府から決められた市制により管理された。市制では、市は早朝から日没まで開けられ、商取引は正午の鼓の合図から、日没より前に終わる制度となっていた。
長安に存在していた東西の市は、周囲を約1km四方の土壁に囲まれた「坊」と呼ばれる区画を一つずつ占拠していた。市のある坊は、道路が十字の形をしていた他の坊と違い、市では路が東西、南北に2路ずつあり、路が井の字の形をしていた(これが「市井」の語源となった説がある)。市の中心部には、政府の太府寺に属する市署と平準署があった。市署では商取引や市の門の鍵を管理し、平準署は政府の物資を売買し物価を調整する役割があった。
地方都市にある市も市署がなければ商取引はできず、毎年8月に商品の検査がなされた。市署は市籍に登録された商人と職人も管理し、この戸籍をもとに戸税や庸役がかけられた。市には他の土地から行商も来て、市籍に載る土地の坐商を通じて、商売を行った。肆や舗と呼ばれる商店も区画が行ごとに定められた。市で売買される商品は価格表示も義務づけられていた。また、貿易を行っている都市では、市令、市丞が貿易を管理した。政府の商工政策はかなり管理的なものであった。政府の目的は、市場価格を一定させ、特定の商人が商取引を独占し、売買を強制することを取り締まり、一般商人を保護し、商取引が円滑に行うことを意図していたとされる。
市ではない坊でも店舗は存在し、商取引は行われ、行に属しない特殊な商品を扱う商人や零細な行商や飲食店が多かった。そこでは、夜店も運営できた。安史の乱後、時代が進むにつれ、店が城内に広がり、市の営業時間は守られなくなり、市制は次第に有名無実化した。
唐代中期以降は、都市以外にも、水陸の交通の要衝である城外や港の近くなど行商の往来が激しい地域に、自然発生的に草市(墟市)という市が生まれた。草市は、水運が発達した江南地方を中心に広がった。両税法が制定され、農家も銭納が義務づけられたことや、茶などの商品作物の存在によって、商品経済は農村にまで広がり、農村交易も一般化していったため、草市は定着していった。政府は鎮を設けて管理した。草市は発展し、州県の所在地までになることもあった。
唐代末期には、坊の壁は破られ、行の管理もゆるんでいき、市制は機能しなくなっていった。
行
唐代の市では、肆や舗と呼ばれる商店は、扱う商品の種類ごとに商売を行う区画を決められ、『行』という同業組合の組織に組み込まれた。行は、長安だけで220行(120行の説もある)存在していた。行に属する商人は行人と呼ばれ、責任者である行頭を通じて、市署の管理を受けた。行頭は行人の検察を行い、隠した場合は重罰を受けた。
行は、肉行、鉄行、太衣行、秤行、絹行、金銀行、銀行、薬行、鞦轡行などが存在し、米や絹の行は幾種類も存在し、商業の専門化は進んでいた。行は社邑の構成をなしていることもあり、宗教活動も行った。行は国家の管理を受け、平準署の官物売買や物価調整に協力をしながらも、自治的な同業組合としての共同的な行為も同時に行った。
唐代中期には、市制が廃れ、行に対する政府管理はゆるくなり、行の機能は、同業商店街から、同業商人組合というギルドに似た意味に変化した。そのため、行もまた、戸税の徴税対象となった。行の独占も商業の競争が進むなかで次第にくずれていった。
交通制度と旅
交通については、すでに整備されていた馳道を利用し、さらなる補修拡張を行った。そのため、長安を中心とした各地方につながる道路、水路が整備されていった。道路には、30里(約17km)ごとに駅站(駅館、公営の宿)が置かれ、公文書を運ぶ政府の使者や地方へ赴任し、帰ってくる官僚が利用した。駅站の近くには、往々において民間の宿が存在した。宿の名称の最後には、『駅』、『館』、『店』とつくことが多かった。唐全土には1,639もの駅站が存在し、水駅が260、水陸駅が86か所設置されていた。駅站を利用できる政府関係者は、食糧、運送、宿泊が無料であった。また、道路の五里ごとに『里隔柱』という標識が置かれ、十里ごとに別の標識を立てられた。幹線道路沿いには多数の店舗が建ち並び、交通は大いに発達した。
当時の貴族や官僚は外出には車を使わず、馬に乗り、牛車に乗るのは女性が多かった。牛車はまた、運送に利用された。
隋代からの駅伝制度を発達させ、駅站は整備され、役人の宿泊や馬の確保に使われた。一等の駅は馬75頭が置かれていた。関津制度によって、水陸の要所に関所が置かれ、旅人や荷を検分して、商人から税を徴収した。また、商業のための往来するために、商人は「過所」という通行証明書を、中央では尚書省、地方では州で発行してもらい、所持する必要があった。紛失した場合、審査の上で再発行となった。過所に許された経路を通れば、遠距離でも行くことができたが、不正に通関しようとしたものは罰を受けた。また、安史の乱以降は、人の動きが活発化して、藩鎮の州や県で「公験」という通行証明書も発行された。唐代の関津制度は、賦役逃れや誘拐、外敵の潜入を防ぐために厳格であった。唐代後半には、軍事伝達が余りに頻繁となり、駅站が増大して、駅伝制度は崩れていった。
大運河の開通後、水路の重要性が大いに増した。水運や造船の発達により、大規模な輸送が可能になり、運河の度重なる改善もあわさって、大量の食料が運搬され、長安の食料不足が解消した。海運もまた、造船技術の向上により発達していった。
幹線道路沿いは、民家や商店が多く、民間の旅人でも食糧に不足はしなかった。民営の旅舎や逆旅と呼ばれる旅館も多数存在した。9世紀の唐代を旅行した円仁の『入唐求法巡礼行記』によると、円仁は長期間の旅行をほとんど危険もなく行っている。
宿屋は寝具持参で自炊が原則であった。相部屋が多く、その時は、寝床だけを借りることになる。寝床は大きいのを牀、小さいのを榻といった。使用しない時は寝床は壁に立てていたが、宿では常時、設置していたところもあった。食店という食堂を兼ねた宿も存在したが、安宿は自炊が一般的で、飯だけはつける宿もあった。旅行は遠距離なものが多く、長期間に渡るため、馬車や馬、ロバ、ラクダで荷を運ぶことが多かった。相部屋には炉があり、部屋で煮炊きを行い、外から食糧や酒も持参できた。宿屋の中に馬小屋があることもあった。宿は貸し切りもあり、小房という個室もある宿も存在した。
農業
唐政府は郷里制を敷いて村落の自治に委ねた。郷は500戸、里は100戸までの単位で、運営のために里正がおかれ、隋代に存在した郷正は廃止した。里の下に隣保が置かれ、五戸ごとに保長が一人置かれた。散村は村、都市の区画は坊と呼ばれ、村正、坊正が置かれ、里正と同格とした。
里正は里内の代表者で、正式な役人ではなく、官僚に使役された胥吏と、農民の間をつなぐ役割であった。里正は租庸調が免除され、農業奨励、徴税、治安の維持、戸籍のもととなる手実の作製などに従事した。政府は逃戸がでた場合、里正にその分の連帯責任を負わせることが多かった。
唐初では、粟栽培の技術は高く、粟の生産が主流であった。唐初が過ぎる頃、長安など都市住民に、粉食が流行したことを背景に、次第に粉食に適した麦の生産が増加していった。早熟性の粟と麦が組み合わされ、二年三毛作が行われ、生産力を増加した。麦は需要の増加に伴い、南方でも生産されるようになった。また、唐代中期以降は、直播き式であった稲作は苗代式に変わっていった。南方にはいまだ広大な未開発の土地が残っていたため、次第に開発されていった。
農業は初期における均田制の実施や水利技術・灌漑技術の向上などにより発展していった。
手工業
手工業は、工部および少府監、将作監の三つが所管していた。唐政府は、府兵に似た組織を適用して、大量の職人を管理した。官営手工業に従事する職人は三種類あり、官奴婢らの無期服務者、輪番職人(番戸は1年3番、雑戸は2年5番。1番は1か月)、1年に20日の賦役の義務を負う一般職人がいた。無期服務者は絹で代納することができた。職人は徴税等により賦役を免除を許されたが、技巧であると認めたものは許されなかった。職人は世襲であり、転業も許されなかった。
また、「雇」となる手芸職人は、日当絹3尺が相場であり、雇には政府が正式に認めた職人や輪番終了後の職人がなることがあった。これは和雇と呼ばれ、比較的自由であったが、輪番の非番のものが、和雇を名目に束縛されることがあった。職人は日当として代物が支払われるが、政府による不払いが時代が進むほど増えていった。
役所における職人の訓練には一定の期間を設けており、年末に試験を行い、合格したものは職人となれた。特に優れたものは「巧」、一般的には「匠」と呼ばれた。役所は技術相伝であり、民間にも徒弟制度があった。武器の私製は禁止し、奴婢に対しては、死刑や流刑で対し、統制を行った。政府に官手芸職人、民間手芸職人は管理されたが、彼らの働きが、手工業を発展させる原動力となった。
手工業は、民営のものも発達し、家庭で製造するものと、工房で人を雇いつつ自ら生産を行い販売を行うものがあった。行組織も発達するとともに、官営の大規模な工房が増加し、専門に雇工として従事するものも現れている。
手工業では紡績業の絹の生産が最も発達していた。租庸調の税制により、農民にとって、絹を政府におさめねばならないことから、大事な副業であった。絹は、絹織物、錦織物として朝廷の衣に用いられ、八等に分けて評価された。極めて軽く、透明に近い薄紗に、蝋纈染により精緻な絵が描けるほど彩色技術が進んでいた。錦は彩色の飾り模様を持った織物で、織る前に糸に染色を施したものであった。漢代から縦糸を使って模様を表した経錦を引き継ぎ、横糸を使った緯錦を加え、より細密で多彩となった。絹織物は前半は北方で栄え、中唐以降は南方で発展した。また、玄宗期から都市部に大規模な個人紡績工場も出現し、綿織業も発達した。
絹は唐代前半は貨幣の役割を果たして国内で流通し、外国にも主要な貿易品としてシルクロードを通って大量に輸出された。
磁器は、陶器から分離して独立した分野として生産されるようになった。磁器のうち、白磁は、河北邢州の「邢窯」の代表とし、北方でつくられ、堅牢かつ純白であった。また、青磁は、越州を代表とし、南方で作られ、精緻で、うわぐすりが潤沢で茶器として好まれた。唐三彩も作られ、陶磁器は外国に大量に輸出された。製磁業は拡大し、顕著な進歩をして、金銀器、漆器に代わり、日用不可欠なものになった。唐代の陶磁器は高い水準に達しており、高い評価を現代にまで受けている。
製紙は、原料として麻・藤・樹皮・竹・繭・絹などが使われ、種類の拡大に伴い、生産コストが減少した。また、原料の違いによる紙の品種も増えた。紙は大いに普及し、四川や江南で名紙と知られたものが作られた。蜀の地では加工紙も作られ、書画の発達とともに精巧となった。また、大規模な製紙工場も造られている。
鉱業は少府監下の掌治署令が管掌し、後に塩鉄使の管掌となった。銅鉄には税を課し、白蝋は官で販売していた。西北辺境では、採鉱や冶金をすることを禁じ、冶金所では、生産に官に報告する必要があった。他の地域では、私人が自由に採ることができた。銀、銅、鉄,錫、鉛、丹砂があり、銅鉄の生産が多かった。石炭や石油の探鉱も存在した。
金属器も発達した。鋳造器物の技術も精巧であり、揚州の銅鏡は世に知られ、巨大な鏡など多様な銅鏡がつくられた。また、主に宮廷で使用された金銀器物の技術も向上し、金銀器は中央アジアや西アジアの装飾を参考にして作られ、装飾は緻密なものになった。鋳造器物の製造には、水力利用した溶解作業も行われ、全体的な生産や質は向上し、金属製品の供給は増大した。
造船業は工部配下の水部郎中と都水監配下が管掌していた。政府が大規模な造船を行ったことも多かった。造船技術は発達を続け、江南各地で造船業が発達し、官営の工場も増え、民間の造船も増えていた。民間の船には積載量一万石に達すものもあり、船員には船中で一生を過ごすものもあった。豪商が大船を所持し、商品輸送に使われた。
製塩業は、唐政府により統制、独占され、海塩、地塩、井塩は全て管理された。唐代中期以降は、塩鉄使が設置される。井塩は、四川の東側に集中していた。海水塩については、江南に偏在していた。各地の塩について、食用にする地域が厳しく規定された。私塩の売買は厳罰で臨まれたため、塩は相当に高額となった。中期以降の唐王朝は塩税に支えられ、製塩職人は過酷な労働を強いられて、自由を有しなかった。次第に、塩の密売が起き、茶密売とあわせて農民暴動につながっていった。
商業
農業や手工業が発展もあり、商品市場に運ばれる豊富な物資が存在し、商業も発達した。また、交通全体の発達したことで、政府により貨幣や度量衡の統一も急速に推進され、商業全体のさらなる発展をうながした。また、海外貿易の進展もあり、高宗期には多くの大商人が生まれて、活発な活動を行った。経済発展とともに、邸店が増加し、櫃坊、飛銭が出現した。
邸店は行商のための倉庫業と宿を兼ね、交易の場を提供するものである。唐代には行商とともに邸店が増加し、長安では市のある坊の内壁に沿って邸店が建っていた。大商人は邸店を経営し、巨利を得た。時代が進むにつれ、全土に邸店は普及していった。
櫃坊は唐代中期に、交易が増加し、現金が不足したことを背景に邸店から転じる形で出現した。行商に対して、銭貨の保管を行い、また、商品を担保として支払いを代行することで、現金決済の不便を解消した。櫃坊では主に農民相手に高利貸しも行い、その金利は4割以上に達した。
飛銭もまた櫃坊より少し遅れて出現した。商人が長安の進奏院や富家などに現金を払って受け取った、預かり券を目的地で現金に換え、その上で商品を購入して長安へと運ぶという、為替の一種である。飛銭は朝廷の管理のもとで行われたが、後に商人の信用を失い、機能しなくなった。
主要な交易品としては、絹、磁器と紙、茶があった。絹は、衣などの本来の用途ばかりでなく、国内では貨幣として使用され、国外においても、シルクロードなどで交易品として用いられた。紙は製紙技術が発展し、竹紙が大いに用いられるようになった。磁器は大いに国内に流通し、私営の作業所からつくられ、国外にまで広まった。茶も北方で喫茶の習慣が一般化して、全国で茶店が建てられるようになり、主要な交易品となった。また、茶は回鶻人の馬に対する交易品となり、騎馬民族にまで伝わっていった。茶業は大いに発達し、多くの行商が茶を採り、ほうじて商品とした上で、各地を巡った。このため、商人の往来は激しくなり、各地の草市の創設に影響した。
唐初の太宗時代に、『工商の類は力量が優れていても、財物を厚給したり、朝賢の君子(政府の高官)と同列にしてはならない』と定められ、唐政府は商業の急速な発達に対応するため、管理を厳格にし、税の徴収を行った。商人は、通過する関・津で、通るために公文を見せねばならなかった。商人が奴婢、牛馬等を売買する時は必ず契約を行うことが、唐律で定められていた。
だが、豪商富豪は、長安や洛陽に大勢居住し、次第に資産や荘園を多数所有するようになった。豪商は官僚と結託し、官僚になる秀才を養育していくようになった。また、地主が土地を農民から奪う兼併や、賦役の増加により、土地を失った農民は小商人となるものが増加し、次第に小商人層も増えていった。一方で、政府の官僚も次第に商業を行い、科挙と土地兼併により、官僚・豪商・地主は一体化しはじめる。彼らは、課税や賦役を免れ、利益を独占した。これは「影庇」や「影占」と呼ばれた。大商人は官位を金銭で買って官僚となり、官僚の商業経営も一般化した。
安史の乱以降、北方は戦乱と藩鎮により疲弊し、経済発展は阻害され、南方が発展していった。貿易も吐蕃の興隆によって、河西の地を奪われ、西北の陸路(シルクロード)交易は次第に衰退し、東南の海外貿易が盛んとなった。その一方で、都市における商業はより発展し、回鶻やソグド人の商人が長安を訪れ、交易の場が市のみに限定されなくなり、夜間の市も発生する。また、長安には統治階級である富裕層が多数居住していたため、膨大な商品の需要が生まれ、経済発展の要因となった。戦乱や藩鎮との抗争、均田制の崩壊のため、財政困難に面した政府は両税法の制定後、商人に新たに課税を行うことになった。小商人は、政府および影庇の特権を持った大商人、双方からの圧迫を受けることとなり、失業するものが多く、塩や茶の密売や密貿易、盗賊行為を行うものが増加することになった。
貨幣
唐政府は、隋末の混乱した貨幣経済を立て直すために、641年に新たに統一貨幣である銅銭「開元通宝」を発行した。666年に「乾封泉宝」を発行したが、翌年には廃止となり、「開元通宝」も戻された。初唐は、銅銭不足もあり、開元通宝などの銅銭と絹が貨幣の機能を果たした。また、唐前半は銅銭の私鋳が横行した。商品経済の発展などにより、次第に、絹は貨幣としての機能を失い、銅銭が貨幣の主流を占めた。
さらに、両税法の制定以降は、税の銭による納付が義務づけられ、銅銭不足により、「銭(銅銭)貴貨(商品)賤」という一種のデフレ状態に陥った。そのため、両税法制定後数十年で、穀物や絹は銅銭に対して、数分の一の価値にまで落ちる。そのため、悪銭の私鋳はより激しくなった。唐政府は銅不足のため、絹による貨幣を一部で正式貨幣として認めた。
また、官僚や大商人の間では、金銀や銀銭が使用されることもあり、その地域は拡大していった。
大都市
唐代に発展した大都市は都である長安の外に、北部の洛陽、南部の揚州、成都、広州などが存在した。
長安は、唐代のほとんどの期間、唐の都であり続けた。人口は約100万人が従来からの通説であり、現在は諸説あるが、各説100万人の前後であることが多く、世界最大の人口を持つ都市である説が有力である。宮城が東に存在したため、長安の東には貴族や官僚が住み、西側に庶民が住んでいた。東西に存在した二つの市である東市と西市を中心に、商業地区が生み出された。東市の周りの坊には、北里と呼ばれた多数の妓楼のある歓楽街や旅館街、飛銭を発行をする進奏院、胡姫(外国人の少女)が給仕を行う酒場が存在した。また、庶民が多数居住した西市の周りには、西域から来たソグド商人が経営する金融業者、宝石商が店を構えていた。また、多数の地方から来た流寓者が西市付近に住み、スラム街となり、「客戸坊」と呼ばれていた。時代に進むにつれ、皇族、高官、宦官が街の東北部の宮城の近くを占めていった。市には、数百の行があり、邸店が立ち並んでいた。東市では高級品を主に扱ったが、商人は西市に集まり、西市の方がにぎやかであった。街中に飲食店が店を開いていた。盛唐から、運河の改良により、船で各地の食糧や特産品が運ばれるようになった。胡人は、突厥やソグド、回鶻人だけではなく、アラビア、ペルシャ、インド人なども多く、そのため、長安は世界でもっとも繁栄した国際都市となった。また、長安は関中という盆地にあり、要害に囲まれ、監牧地が近くに存在し軍馬が容易に供給されたため、防衛上の機能は高かったが、輸送上の問題があった。そのため、しばしば食糧難に陥り、盛唐までは皇帝は洛陽に移動することが多かった。また、シルクロードをつたって、西域国家経営を行い、西域とつながるために適した地勢でもあった。
洛陽は、華北平原の西に存在し、江南から長安から続く経路にあたり、大運河へ黄河に乗り換える中継点であった。人口100万人を超えたと称していた時期もある。洛陽には「北市」、「南市」、「西市」と三つの市場が存在し、それぞれが運河沿いに立地していた。ただし、西市の存続期間はわずか2~30年であった。北市には各地の船が一万艘ほど停泊し、水路を埋め尽くし、ソグド商人たちが逗留し、金融業や香料、珠玉、象牙などの外国商品を扱い、大変なにぎわいを見せていた。北市の周りには、貧困な流寓者が集まる「糠市」が存在した。南市は二つの坊にまたがり、120種類の行があり、店舗や邸店が立ち並んでいた。ゾロアスター教の寺も3つ存在した。華北や江南から、長安へ送られた来る穀物はいったん、洛陽で集積されて、運ばれていった。洛陽は長安からの東方へ結ぶための都市であり、長安と相互補完の関係にあった。武則天が執政を行う時代に都が移ったこともある。
揚州は、揚州は海岸と長江、大運河の交差点にあたり、大運河がまちを通過する水運の要衝であった。また、造船業も発達とともに、全国の商品の集散地となり、江南経済の発展とともに、重要性は増していった。揚州は海外への貿易港も存在したため、貿易都市として発展し、人口も5,60万人にまで大幅に増加し、国内外の商人が集まる都市となった。揚州に集まる外国船は、ペルシャ、アラビア、朝鮮、日本のものが存在し、多数のアラビア人やペルシャ人が在住した。盛唐以後は市制は崩されて、坊壁はとりはらわれ、通りに面して店舗を建て、さらに後には夜市も開かれた。また、揚州は江南の海塩の集散地でもあり、塩商人が集まり繁栄した。商品として、米、塩、金銀器、絹、木材、茶などが取引され、揚州で積み替えられて華北へ運ばれた。金や銀の両替も行われた。宋代初期まで繁栄した。
成都は、蜀地方が温暖な地方で水運が開け、隋末の戦乱もなかったため、発展した。特産品としては、養蚕、絹と紙が存在した。絹は上等なものは蜀錦として知られた。また、成都では毎年春に『蚕市』と呼ばれる市が城内各地に立てられ、人々は群がったと伝えられる。紙は品目も多く、質も優良で名産地として知られていた。特に、『薛濤箋』という唐代の妓女の名を冠した紙は有名であった。成都も人口が約50万人いた。
揚州と成都は特に発展した商業都市であり、『楊一益二』と言われ、文人たちの楽園として知られていた。
広州は、玄宗時代に、東南貿易を統括する市船司が広州に設けられたため、海上貿易の中心地となり栄えた。唐代初期は疫病が多い地帯であったが、次第に漢化されていった。東南アジア各国やインド、スリランカ、ペルシャ、アラビアなどの西アジア国家の外国商船が訪れ、貿易を行った。広州には蕃坊という外国人の居住区が設けられ、居住する外国人の指導者が自治を任されていた。外国人も市制に従い商売を行ったが、広州には夜市も存在した。広州の貿易は、大きな富をもたらしたため、市船司の長官に利得を目的として、宦官が頻繁に就任し、また、広州の長官も財を貪るものが多く、684年に長官が外国人に殺され、758年に外国船に襲撃されたりする事件が起きている。広州には多数の外国人が滞在していた。唐末の黄巣の乱において、広州が陥落し、かつての繁栄を取り戻すことはなかった。この時、虐殺された外国人の死者は12万人以上であったという記録もある。
陸上交易
外国との交易はなされ、陸路をつたって外国との交易が行われていた。
東方からは、渤海や新羅と交易がもたれ、渤海湾沿岸から廬龍の関税を通り、交易がなされた。渤海や新羅からは、高級毛皮・朝鮮人参などが運ばれた。
北方とは、突厥、回鶻との交易において、唐の絹が、馬と交易された。後に唐の茶も交易品に加わった。
西北との国家とはシルクロード交易がなされた。640年に、唐は高昌国を滅ぼして安西都護府を置き、直轄とし、西域経営を行った。西域に住む商業民であるソグド人は広範囲に商業活動を行い、安西都護府の軍に送られる絹や布は、唐初は人夫が行っていたのが、8世紀前半には、輸送量が増えたため、ソグド人を含む商人に輸送を委託されたことによって、交易は盛んとなった。
シルクロード交易では、金銀と絹が通貨として使用され、唐初では銀が重んじられたが、唐の影響力が強くなるにつれ、絹や銅銭が重んじられるようになった。交易路は険しい上に、家畜が運ぶ長距離輸送に頼るため、重量が軽く価値が高い奢侈品や嗜好品が主な交易品であった。唐からは、絹・紙・茶が輸出され、金銀器、真鍮、ガラス製品、玉、ラピスラズリ、絨毯、薬材、香料、胡椒、葡萄酒などが輸入された。輸送には、奴隷、馬やラクダ、驢馬などが使用され、それ自身も交易品となることもあった。
西域の商人は唐各地を回り、多くのソグド人が定住して、陸上交易は隆盛する。しかし、安史の乱以降は、西域における唐の勢力が衰え、吐蕃と回鶻の進出により、シルクロード交易は衰退し、唐の外国交易の主流は東南海岸からの海上貿易に移っていった。
海上交易
海岸沿いには多くの港と都市が存在し、新羅、日本、東南アジア、インドなどへの海上航路が通じていた。海上貿易を統括する市船司が713年には広州に設置された。唐代の造船技術と航海技術は進歩し、遠洋船舶の製造が可能となった。広州を中心として、南方国家との交易が盛んとなり、海上貿易はさらに発展した。
市船司は市船使を責任者とし、胡人の商人は関税を払い、荷物の検査を市船司に受け、国家が必需品を買い上げて、残りが広州の市で取引された。国家の買い上げは政府や市船使に大きな利益をもたらした。
広州は最大の貿易港であり、絹や唐三彩、白磁、青磁などの陶磁器、鏡が交易に用いられ、香料や薬の材料、沈香や象牙、真珠、犀角、玳瑁、龍脳、宝石などが買い取られた。また、当時の広州からの航路は、秋か冬にモンスーンを利用して、東南に出向き、西航して林邑、スマトラ島、アフダマン島、スリランカを経て、インド海岸に沿い、イランのペルシャ湾沿岸に至るというもので、順風により90余日で達することができたとされる。
安史の乱以降は、陸上交易が吐蕃によって塞がれて衰退し、海上での外国との交易がさらに盛んとなった。広州だけではなく、揚州、登州、明州、泉州、抗州も海上交易で栄えた。その交易の船舶はペルシャやアフリカにまで達したと伝えられる。多くのアラビア商人が訪れ、広州には居住地域が設置された。この海上交易は「海のシルクロード」とも呼ばれ、陶磁器を中心に、絹、茶が交易品であった。海上交易の発展により、より大量輸送が可能となり、陸上交易の意義を奪っていった。
荘園の形成
唐の均田制は不徹底であり、初唐から荘園が存在していた。初唐の荘園は皇族と貴族層によって経営されていた。荘園のうち、また、公田として官僚に与えられた職分田と閑人営業田があった。また、封爵によって与えられ、国家に納める税をその家に給付する食封田も存在した。
荘園の大きさは大体10頃から100頃(58 - 580アール)の大きさで、雇い入れた客戸(本籍地を離れた民)あるいは奴婢に田地の耕作や農産物の加工などに当たらせる。また土地の転借小作を合法としていたため、その土地を小作農に貸し出す場合もあり、その際に種籾や耕牛などを貸し出すが、その借賃で小作が破産しそのまま奴婢となる例も多かった。転借小作によって、荘園をもつ地方豪族の土地合併は盛んとなった。
盛唐以降は新興地主層が荘園の主な経営者となり、転借小作による農民からの土地合併はさらに盛んとなった。唐代中期には、大土地私有制が進行し、均田制は崩壊する。両税制の制定以降、政府は農民の慢性的な土地不足の解消を断念し、政府は口分田を捨てて耕作していた逃戸の土地を全て没収し、公田とし、その公田を官直属の荘園とし、国家所有のものを官荘、皇帝所有のものを皇荘として、管理する役人を設置し、民を徴発して土地を開発する。
また、藩鎮も積極的に貧農を雇い官田の経営を行った。宗教には各種の保護と特権が与えられ、寺院は多くの土地を所有した。寺院は耕作するにおいて、賦役を免ぜられ、均田制の影響を受けることはなかった。寺院の荘園は唐代に発展し、しばしば皇帝や信者から耕地が寄進され、累積された荘園は広大であった。
官僚荘園は、碾磑や牧場、質藏を有していたこともあったが、産業を集合した経済主体となることはなかった。
軍事
中央軍
隋代では、兵力が一元化していたのに対して、唐政府の中央軍である禁軍として、「南衙」と呼ばれる国の正規軍と「北衙」と呼ばれる皇帝親軍の二元化した軍隊が存在した。 南衙禁軍は、長安城内に駐屯し、中央十六衛(左右衛、左右驍衛、左右武衛、左右威衛、左右領軍衛、左右金吾衛、左右監門衛、左右千牛衛)で構成され、十六衛のうち、左右監門衛、左右千牛衛をのぞく十二衛が全国の折衝府を統括し、兵力は長安近隣の関内にある折衝府から送られた府兵から構成されていた。
北衙禁軍は、唐創業時、皇帝親軍として残った「元戎禁軍」を基礎としている。長安の北、苑内に駐屯した。その選抜部隊が「百騎」と呼ばれ次第に拡大し、玄宗の時代に「左右龍武軍」として確立した。 また、元戎禁軍の本流からは 「左右羽林軍」が設立された。玄宗の時代に、「左右龍武軍」、 「左右羽林軍」は衰退した府兵の代わりに皇帝警護の中心となった。
南衙禁軍は、府兵制度の衰退とともに兵力の確保が困難になり、一部負担を軽減して下等戸から優先して徴兵する彍騎を確保しようとしたが、府兵制度事態が崩壊したため、玄宗の時代に名目的な存在となった。そのため、北衙禁軍がただ「禁軍」と呼ばれることになる。
安史の乱の際に、長安は陥落し、中央軍は壊滅していた。そのため、安史の乱の鎮圧にあたった粛宗が新たに北衙に「左右神武軍」を定めた。代宗の時代に「左右神策軍」が、徳宗は「左右神威軍」を新設し、 北衙は十軍となった。左右神策軍が、吐蕃の侵攻や朱泚の乱で功績を建てたため、左右神武軍・左右神威軍を吸収し、禁軍の中核を担うようになった。憲宗の代には、 左右神策軍の力を背景に藩鎮勢力を抑え込み、皇帝権の確立に貢献した。晩唐には、左右神策軍は横暴となり、民間は大変苦しんだ。
地方軍・辺境軍
初唐では、外国と接する辺境には、都護府が統括する「鎮」や「戍」という拠点が置かれた。鎮に配置された兵は500人以下、戍には50人以下であり、鎮戍は太宗時代は千ほど置かれ、総兵力は10万人程度であった。また、「兵募」と呼ばれた臨時の徴兵が行われ、高句麗・新羅・百済との戦いに駆り出されていた。羈縻政策が破綻するにつれ、鎮戍制では対応が不可能となり、異民族の攻撃によって境界線は後退した。そのため、高宗時代頃から、軍鎮という大規模な部隊が置かれるようになり、玄宗時代には、鎮戍は半分程度に減ったが、兵募は国境に常駐し、辺境軍は一時期には60万人以上存在した。これは全て徴兵から成り、「背軍」という逃亡兵が増加した。
唐政府は軍鎮を統括するために、都護府制から藩鎮制に710年から切り替え、737年には、軍鎮兵は募兵に変えることとなった。唐政府の軍では、騎馬民族など少数民族の胡人が身につけた騎射技術は威力を発揮し、少数民族出身の「蕃将」たちが太宗時代から武功を立てることが多かった。
団錬兵は、団結兵とも呼ばれ、徴兵によるもので、武則天の時代にはじまり、地方の治安維持にあたった。元は騎馬民族から農村を防衛する役目であったが、在地の治安維持のために置かれ、団錬使という武官や州刺史によって率いられた。また、都市には城謗という徴兵による治安維持の兵が置かれた。
安史の乱後の節度使の率いる藩鎮の軍は、家兵、官健、団錬兵に分かれていた。家兵は節度使個人の子飼いの兵力である。家兵は私兵や節度使の家内奴隷であるとともに、衙兵に対して節度使が対抗するための兵力となった。官健は税によって養われた職業兵士で、傭兵であり、最も数が多く、国家財政を圧迫する最大の要因となった。また、官健のうち選抜された親軍を衙兵などと呼ぶこともあった。衙兵は、節度使から厚遇を受け、節度使を排斥や脅迫するものも現れ、彼らは驕兵と呼ばれた。団錬兵は、徴兵により、唐政府と同じく地方の治安維持にあたった。家兵や衙兵は、節度使と仮父子といった血縁を擬制する関係になることもあった。
軍組織
唐の軍は、府兵制の時代に、10人から成る「火」を最小単位とし、「火」が5つから成る50人を「隊」、「隊」が2つから成る100人を「旅」、「旅」が2つから成る200人を「団」とし、全国に600以上ある折衝府(800人~1,200人、初唐には600人~1,000人)が統括した。
それぞれの折衝府は、折衝都尉が責任者となり、以下、果毅都尉、別将・長吏、校尉、旅帥、隊正、副隊正、火長、衛士という官位になっていた。校尉は団を率い、旅帥は旅を率い、隊正は隊を率い、火長は火を率いた。副隊正から上位は、官品が与えられていた。功績が認められれば、勲官を受けることができ、府兵も校尉までは昇進することが制度上可能であった。折衝府は、十二衛は、(左右衛、左右驍衛、左右武衛、左右威衛、左右領軍衛、左右金吾衛)及び太子六宮六率(左右衛率、左右司御率、左右清道率)によって統括された。
十二衛はそれぞれ1名の大将軍と2名の将軍が置かれ、各衛は折衝府を40府から60府を統括し、各衛にも奉車都尉、司階、長史、録事参軍事、司戈・諸曹参軍事、執戟の順で官品を持つ軍人が置かれた。
杜佑の『通典』に引用する「衛公李靖兵法」によると、戦争の時には、将軍は兵2万人を与えられ、7軍に分けた。7軍は中・前・後・左・右軍、左・右虞候軍であり、2万の編成は騎兵4,000、弩兵2,000、弓兵2,200、跳蕩兵2,900、奇兵2,900、輜重兵6,000であった。戦いが終わると、将軍は朝廷に帰還し、府兵は折衝府に戻った。
騎兵と装備
唐軍は、隋末の戦乱において、馬に甲冑をつけない機動力にすぐれた軽騎兵を活用した。軽騎兵は唐の統一戦や突厥との戦いにおける勝利に多大な貢献を果たした。そのため、馬に鎧をつけ、防御力や突進力にすぐれるが、馬の持久力や機動力で劣る重騎兵を中心とした隋代に代わり、唐代を通して軽騎兵が騎兵戦力の主力となった。
初唐では重騎兵は皇帝の儀仗隊に使われるようになり、唐の太宗や唐軍を指揮して騎馬民族に騎兵を用いて勝利を重ねた李靖は軽騎兵を重んじた。唐の軽騎兵は基本的に騎手は鎧をつけ、奇襲や追撃に戦果をあげた。機動力を生かすため、軽騎兵は戦闘の正面に立たず、歩兵の両脇に配置された。唐代には、両方の足にかける鐙が用いられ、騎兵の技術は向上した。
馬は、騎馬民族の交易によって購入され、回鶻とは特に大量の絹や茶と引き替えに、馬を交易で手にいれた。唐政府は馬政に力をいれ、辺境の牧場で馬を養育し、そのための機関がつくられていた。
軍の装備として、騎兵は武器として馬刀や矛、戟、槍などを用い、円形の盾を使い、鎧として主に「護心」と呼ばれる楕円形の磨かれたプレートを使った明光鎧を装備した。歩兵は木槍や陌刀、刀、斧を武器とし、長方形か楕円の盾を持った。歩兵も明光鎧が装備として用いられ、軽装な歩兵は、氈装という毛織物の衣を身につけていた。盾は木製が中心で、騎兵、歩兵ともに弓や弩は多く用いられ、歩兵の装備は軽装なものが多かった。武器は槍が用いられるようになった。
戦法と陣法
唐の軍隊は、歩兵を主体として、軽騎兵に補助を行わせる形で戦闘を行った。歩兵は50人の「隊」は「隊正」を先頭にする緩やかな「くさび形」に陣形をつくる。
七軍の一軍ごとに、弓兵・弩兵を前方に、3陣に分かれた歩兵を中央に置き、両脇に騎兵が配置され、後方に奇兵が置かれた。まず、弩兵が矢を撃ち、さらに弓兵が撃った後で後方に下がった後で、歩兵の2列目の部隊は下がってきた弓兵を擁したまま動かず、1列目の歩兵と騎兵・奇兵が交互に戦う戦法をとった。
陣法は、広い戦場では七軍を一直線に並べる横陣をとった。また、平地での防御の時は「六花陣」と呼ばれる中軍を他の六軍で囲む円陣が組まれた。険阻な地形の時には、一軍にいる兵を分けて戦う堅陣が採用された。
文化
テンプレート:脚注の不足 首都の長安は世界各国から人々が訪れ、国際色豊かな都市であった。日本や新羅、吐蕃など周辺諸国からやってきた使節・留学生はもちろん、西方からはるばるやってきた僧侶や商人たちがいた。後の時代の首都である開封や杭州が東の海の道を向いていたのに対し、長安は西のオアシスルートを向いた首都であった。
思想・宗教
科挙制度において儒教の経典が必須科目となり、太宗は孔穎達に命じてそれまで注釈により解釈の違いが大きかった『五経』を一つの解釈にまとめる『五経正義』を編纂させたことで不便が改められ、知識階級の中での教養を共通のものとした。
後漢代に伝来した仏教は魏晋南北朝時代の混乱の中で流行した。玄奘・義浄などはインドへ赴いて大量の経典を持ち帰り、貴族・皇族の庇護を受けて大いに栄えた。特に武則天は仏教を厚く保護したことで有名である。この時代の宗派には禅宗・浄土教・密教・華厳宗などがあり、それぞれ栄えたが、三階教は徹底的に弾圧された。
皇室の李氏は李耳(老子)を祖とすると称していたので、道教は唐代を通じて厚い保護を受け、道先仏後という原則が定められていた。特に玄宗はその廟号も道教風であり、道教に傾倒している。
その他にも長安には明教(マニ教)・祆教(けんきょう:祆は示偏に天。ゾロアスター教)・景教(ネストリウス派キリスト教)・イスラム教などの寺院が立ち並び、国際都市としての景観を持っていた。このうちイスラム教を除く三者は、特にこの時期に盛んに(公的に)流布したことから「唐代三夷教」と総称される。
第15代武宗は道教を信奉し、仏教を始めとする外来宗教を取り締まった(会昌の廃仏・三武一宗の法難の第三)。ただ、この措置に宗教的な色は薄く、出家により脱税を謀る私度僧を還俗させ財政の改善を目的とした。これ以降の仏教は往時の繁栄を取り戻すことはなかった。復興した仏教は禅宗や再興した天台宗が中心となるが、各宗が混在した仏教センター的な大伽藍中心の仏教ではなくなった。そのことは、禅宗教団中の新たな規則である百丈清規中の「一日作さざれば一日食らわず」という有名な言葉に表れている。
また、停滞していた儒教の方でも、変化の兆しが見られ始める。それは、韓愈の著した『原道』『原性』などの中に見られる思想で、堯・舜や孔子以来脈々と続く「道統」論を提唱し、宋学の先駆となった。
文学
唐は歴代でも漢詩の最高峰とされる時代である。古文辞学派を率いた明の文人李攀竜は「文は秦漢、詩は盛唐」といい、唐詩、特に盛唐の詩を中国史上最高の漢詩だとしている。古文辞学派に反対する文人も、唐詩が最高峰だという見解には余り異を唱えてはいない(例えば陽明学の李卓吾は杜甫を非常に重んじている)。日本でも、平安時代から白居易などの唐詩が親しまれており、江戸時代になると、李の主張を敷衍した荻生徂徠らが『唐詩選』などを通じて多く紹介したため、日本で漢詩と言えばこの時代のものを思い浮かべる人が多い。
初唐
前代の六朝時代の余風を受け、繊細で華麗な詩風を身上とする修辞主義的な詩風が主流である。宮廷の詩壇における皇帝との唱和詩がこの時期の中心的作品となっている。代表的詩人には「初唐の四傑」と呼ばれる、王勃・楊炯・盧照鄰・駱賓王のほか、近体詩の型式を完成させた武則天期の沈佺期・宋之問などがいる。さらにこうした六朝の遺風を批判し、詩歌の復古を提唱して次代の盛唐の先駆的存在となった陳子昂が現れた。
盛唐
唐代の最盛期を反映し、多くの優れた詩人を輩出した時期である。修辞と内容が調和した詩風は、それまでの中国詩歌の到達点を示している。代表的詩人には、中国詩歌史上でも最高の存在とされる李白と杜甫を頂点として、王維・孟浩然・岑参・高適・王昌齢などがいる。
中唐
中唐期では、平易な表現を重んじた白居易・元稹(稹は禾偏に眞)らの「元白体」が現れた一方、個性的で難解な表現を愛用する韓愈・李賀などの一派も存在するなど、詩風は前代よりも多様化する傾向を見せ、多彩な性格を持つ詩壇を形成した。また韓愈・柳宗元らにより、六朝以来主流となっていた「四六駢儷体」と呼ばれる修辞主義的な文体を改め、漢代以前の達意を重んじる文体を範とする、新たな文体の創出が提唱された(「古文復興運動」)。韓愈らの試みは次の宋代の文学者に引き継がれ、後世、彼ら古文運動の主導者を「唐宋八大家」と総称する。
晩唐
晩唐は繊細で感傷的な詩風が主流となる。代表的な詩人として杜牧・李商隠・温庭筠・韋荘・韓偓がいる。さらには王朝の衰退に伴う社会の動乱を憂え、詩歌による社会改革を訴えた皮日休・陸亀蒙などの詩人も現れている。
歴史
歴史の分野では、太宗がそれまでに編まれていなかった時代の歴史書を編むよう命じたのを受けて、『晋書』『梁書』『陳書』『周書』『隋書』が房玄齢らにより編纂された。『史記』や『漢書』などは、私製の書物が後に国定の歴史書に昇格したものだが、この太宗の事業の後、正史は国家事業となった。滅びた前代の王朝の正史を編むことが、それを継いだ王朝の正当性の証となったのである。それでも私纂の歴史書の地位が低下することはなく、劉知幾が著した『史通』などは中国における史学の草分けとして受け止められ、後代の史家にとって必携の書となった。
伝奇小説
安史の乱以降の中唐から、六六朝時代に誕生した志怪小説を発展させた「伝奇小説」が書かれた。作者は官僚の中で地位が高くない、科挙を受験した経験のあるものがほとんどを占め、読者も彼らと同じ広い文人相手を想定しており、次第に市井に流通するようになった。作品の出来は、作者の名声がかかっていたため、書き手には強い興味や情熱を必要とした。唐代に書かれた小説は通常、「伝奇」と総称され、『古鏡記』『遊仙窟』『杜子春伝』『李娃伝』といった数々の作品が生み出された。
伝奇小説には、作者の文才を示そうという意図がほぼ全ての作品に伺える。そのため、科挙受験者が高官に投巻して、文才・詩才を認めてもらうために作られた説。また、韓愈たちの古文復興運動に伴い、散文文学の範囲が拡大される中で伝奇小説が生まれた説などがある。
また、唐代においても、伝奇を寓話と考え、それなりに文学価値を評価されることもあった。
音楽と歌舞
古来から儀礼として重視されていた音楽と舞踊であったが、外来音楽と楽器の流入により、相当な発展をとげた。唐代には娯楽性も向上し、楽器の種類も大幅に増加した。合奏も行われ、宮廷では大規模な楽団による演奏が度々行われた。
初唐では九寺の一つである太常寺が舞楽を司る中心となり、宮廷舞楽のうちの雅楽を取り扱った。714年に「梨園」が設置され、300人の楽工が梨園弟子になり、後に宮女も加えられた。教坊は内教坊か初唐から置かれていた。この上、玄宗期に雅楽と区分された俗楽や胡楽、散楽を扱うことを目的とした左右教坊が増設された。胡楽は西域を中心とした外来音楽で、唐代の宮廷舞楽の中心であった十部楽のうちの大半を占めた。
宮廷音楽で歌われる歌の歌詞は唐詩が採用された。民間にも唐詩を歌詞にし、音楽にあわせて歌うものが現れ、晩唐には音楽にあわせるために書かれた詞を作られた。また、「闘歌」という歌の上手を競わせる遊びも存在していた。
舞踊は宮廷や貴族の酒宴ばかりでなく、民間の酒場や行事でも頻繁に行われた。外国から様々な舞踊が伝えられ、その種類も大きく増加した。様々な階層のものが舞踊を好み、楊貴妃や安禄山は胡旋舞の名手であったと伝えられる。
舞踊は、ゆったりした動きの踊りを「軟舞」、テンポが速い激しい踊りを「健舞」と分けられた。「胡旋舞」や「胡騰舞」は健舞に含まれた。伝統舞踊に外国からの舞踏が加わっていき発展していった。
唐代の宮廷では、楽団の演奏にあわせて大勢が舞踊を行うことで多かった。また、「字舞」と呼ばれる音楽とともに踊り、身体を翻す瞬間に衣の色を換え、その後に地に伏して全員で字の形を描くという集団舞踏も存在し、多い時は百人単位で行われた。
唐代の皇帝の中でも、玄宗が特に音楽がすぐれており、外国の音楽を取り入れた「霓裳羽衣の曲」を作曲したとされる。この曲とともに、楊貴妃が得意とした「霓裳羽衣の舞」が行われ、宮人が数百人で舞うこともあった。
安史の乱以後は、戦乱や、梨園の廃止、教坊の縮小とともに、楽工や妓女は地方に流れ、音楽や舞踊の普及は進んでいくことになった
美術
唐代の美術品については現存するものが少ない。そこで唐代美術を伝えるものは莫高窟や龍門石窟などの石窟寺院や墳墓の中に残るものが主となる。初唐から盛唐にかけての絵画・塑像共に写実的であること、彩色が華麗であること、さらに仏教美術が圧倒的に多いことが特徴である。
絵画においては閻立本・呉道玄・李思訓・王維と言った名前が挙がる。閻立本は太宗に仕え『秦府十八学士賀真図』などを描いた人で肖像画を得意とした。[5]呉道玄は玄宗に寵愛された画家であり、人物・仏像・鬼神・鳥獣画など幅広いジャンルでそれまでの繊細な画風を改め、躍動的な絵を描いたという。[6]しかし作品は現存していない。李思訓は武則天期の人で、色鮮やかな山水画を得意とした。これに対して王維は水墨を用いた山水画を得意とし、後世からそれぞれ北宗画・南宗画の祖として扱われるようになる。唐後期は水墨画の発展が著しくなり、次代の宋以降に繋がる流れが見られる。この代表として同時代の絵画評論文集『唐朝名画録』は王墨・李霊省・張志和の3人を挙げている。
書は王羲之を尊崇する太宗とその周囲に集まった人物たちによって隆盛を迎える。書に於ける唐初三大家と呼ばれる存在が虞世南・褚遂良・欧陽詢である。これら初唐の書は王羲之以来の均整を重んじるものであるが、これに対して張旭は狂草と呼ばれる奔放な書体を創り、さらに張旭に師事した顔真卿は自らの意思を前面に押し立てた書体を打ち立てた。上述の呉道玄と同じく蘇軾曰く「書は顔魯公に至りて終われり。」と[7]。
陶磁器の分野では、唐三彩と呼ばれる逸品が作られ、名の通り色鮮やかな点が特徴である。人物像や動物像(俑)などが多く、器も実用性の低い物が多い。一方、高温度で焼成する磁器も作られ始め、次代の宋代に於ける磁器の最盛期の基礎となっている。
木造建築
この時代の木造建築は、「三武一宗の法難」を逃れた仏教寺院などが残されている。
ギャラリー
コモンズの唐代の美術のカテゴリも参照。
- Westerner on a camel.jpg
唐三彩
- Tang horse.jpg
唐三彩
- CMOC Treasures of Ancient China exhibit - pottery horse, detail 1.jpg
唐三彩
- Plat à offrandes Chine Musée Guimet 2418 1.jpg
唐三彩
- CMOC Treasures of Ancient China exhibit - tri-coloured figure of a civil official.jpg
文官の唐三彩
- Gilt silver eared cup.jpg
花をモチーフにした金箔の銀茶わん
- Gilt silver jar with pattern of dancing horses.jpg
馬をモチーフにした金箔の銀つぼ
- Spring Outing of the Tang Court.jpg
唐宮廷の絵画
- A palace concert.jpg
唐宮廷の絵画
- Palefrenier menant deux chevaux par Han Gan.jpg
韓幹による鞍馬画
- Emperor Taizongs horses by Yan Liben.jpg
兵士と馬のレリーフ
- Wild goose pagoda xian china.jpg
長安の大雁塔
- Leshan Buddha Statue View.JPG
四川省楽山市の楽山大仏
社会・生活・風習
唐時代の気風
唐代の気風は、安史の乱を境として、初唐と盛唐の前期、中唐と晩唐の後期に大きく分かれる。全体的に律令制度は確立していったが、貴族制の特徴は濃厚であり、制度としては緩やかで柔軟なものであり、それが気風にも影響していた。
前期における唐は、中国の中世において、最も盛んな時代である。唐政府は、唐王朝の皇帝である李氏が北方民族であった鮮卑の系統でいることもあって、北方民族の文化影響が強い北朝の継承しており、人々は道徳を厳しく遵守せず、唐の太宗は周辺民族を含めて「天下は一家」として、全体的に開明的で開放的な政策を行った。
また、周辺国家や民族の交流が非常に盛んであり、異民族の文化や風習、宗教を受け入れ、習慣として盛んになった。そのため、全体として漢族が異民族の影響を受け、融合した時代となった。唐政府の政策は、異民族にも相当に平等なもので、異民族でも高官になることができ、自己の民族文化を保ったまま生活することもできた。周辺諸国も漢字を共有のものとする東アジアに文化圏が生まれるほど、多大な影響を受けた。都市の一般住民も異国からの文物が浸透していった。
また、律令体制も完成し、全国で通用するようになった。そのため、中国の時代のなかで比較的公平な社会であった。科挙制度を継続したため、いまだ貴族制の影響は強かったが、社会階層の流動化は進展していた。科挙では詩作が重視されたので、多数の文人が生まれた。また、音楽や書道、各種の遊戯も盛んであった。
この時代は儒教道徳は弱わり、自由に振る舞うことや勇気があることも重視された。文人にも辺境に赴き、軍事に関わることを求めることも多く、多くの「辺塞詩」が生まれた。官僚や女性を含め、人々は、様々な異民族から影響を受けた格好をすることができた。
経済については、資源の開発が進み、唐政府が周辺国を制圧したため、通商圏が拡大し、周辺から物資が流入するようになり、全体的に好景気であった。陸上だけでなく、海外貿易も増加し、中国南方も発展した。
後期については、安史の乱により、皇帝権力を支える基盤は衰え、地方に藩鎮勢力が割拠し、世界帝国的な性格を後退した。しかし、商業の発展を背景に、武力国家から、両税法の施行により財政国家に生まれ変わり、唐政府は困難を財政の力を背景に乗り切った。また、文学は発展し、印刷技術は向上していった。他面、物価が高騰したため、自作農が崩壊し、流民があふれ、「客戸」として各地の荘園や新興地主の小作となっていき、社会不安の要素となった。
貴族制は衰退し、新興地主層の興隆とともに、官が規制できない民の力が増大してきた。武宗の「廃仏令」など唐国内における排外主義は強まり、周辺国も独立の傾向が強くなった。社会も余裕がなくなり、個人が自由に振る舞うことも少なくなった。
生活実態
唐代も他時代と同様、階層により、生活実態に多くの差があった。
五品より上の官僚である勅任官の特権が大きく、彼らの生活は豊かなもので、長安の里坊の4分の1を占める邸宅も存在した。また、彼らの母や正妻は外命婦制度により、封号を与えられた。彼らの生活は豊かなもので、妻女も家事を行う必要がなく、歌舞音曲や化粧、豪華な飾り物を買う余裕があった。彼らのほとんどが多くの妻妾を持った。また、貴族出身である場合、ほとんどが、先祖伝来の荘園を所有していた。
九品から六品までの認証官は、周りを塀に囲まれた四合院の邸宅に住んでいることが多かった。彼らの生活は余裕はなく、貧困におちいるものもいて、多くは昇進を望んでいた。彼らの妻女は、機織りなどを行い、家事をすることもあった。
九品に入らない流外官と呼ばれる官吏は、胥吏とも呼ばれる存在であった。土着の人が選ばれ、地方政治の実情を把握し、現地のものとの関係も深かった。地方に赴任する官僚より、実務は胥吏が握っていることも多かった。彼らの多くは豪族や新興地主の血縁者であり、公課などの免除がないにも関わらず、負担を拒否することもあった。豪族である場合、住居は庭が広い四合院であることが多かった。彼らの妻女は家事の負担も軽かった。
農民については、敦煌文書や唐詩などで確認できる。敦煌では、社という地縁を中心とした共同体を組み、各自社人として、仏事と葬儀の援助、宴会などの相互補助を行った。社は、社長・社官・録事を長とし、事業の度に労力や酒・粟・油などを提供するため、負担が重かった。遅れた場合や退会した場合は、杖で打ったり、宴席を設けるなどの罰則が行われた。そのため、貧困なものは社人になることはできず、罰則にも関わらず退会を願い出るものもいた。社には、官吏が入ってくる場合もあった。敦煌での生活は厳しく、徴兵や多くの負担が存在し、逃戸や子供の人身売買などが行われていた。貧民が税の催促に、里正や村頭から暴力を受けた記録もある。
全国的にいえば、農民の家では男性は耕作を行い、女性は織り物を行うのが一般的であった。妻女たちは家事と養蚕、紡績の仕事に明け暮れた。租税を納めた上で、貧困層は落ち穂を拾って飢えをしのいだ。休耕の時も男女ともに日雇いに出て、老人になるまで働いた。南方の農民は比較的、負担が軽かった。農民は兵役もあり、女性が耕作を行うこともあった。
職人については、世襲であり、転業も許されなかった。手工業にも行は多数存在し、行頭は行の人に政府の用役を供し、役所との間をつないだ。一般の手工業者と、農業兼業の手工業者は国家服役をなさればならず、小商人より地位が低かった。紡績と専業とする女性には生涯、嫁にいくことができないものもいた。
商人については、富裕なものを王侯貴族を超えて、住居も豪邸であることが多かった。商人は交易のために移動し、数年は家を空け、事故にあい消息を絶つものが相当数いた。また、交易先に移住するものもいた。商業は店舗を構えたところで、女性が主人となり、行うこともあった。貧しい商人は行商人が多く、移動の危険が大きかった。
家族の規模は5~7人程度が平均的で、庶民階層は子供を複数養う余裕がある家が少なかった。また、三世代同居は、庶民階級に多かった。
庶民の家でも、私賤人である僕や奴・婢を使うことは一般的であった。私賤人たちは主に生産労働に従事し、女性の私賤人には家事労働を行うものもいた。私賤人たちの結婚は主人によって決められた。
食事と料理
平和が続き、生活が安定すると物資は豊富なものとなり、外国各地から食材がもたらされ、外国の料理も通常にふるまわれる料理の一種となっていた。
この時代、シルクロードを通って、もたらされたものに香辛料があげられる。胡椒、ヒハツ、ニンニクなどが料理に使われた。西域から伝えられたキュウリやほうれん草も一般に普及した。
中国北部では粟や豆、麦がつくられ、盛唐に小麦粉食が流行したため、麦の生産量が増大した。南部では米がつくられ、大運河を使って北方に運ばれたため、米食が北部で増加し、米を使った料理も増えた。
西域から渡ってきた小麦粉で作る麺類と、小麦粉を練り、焼いてつくられたパン類の餅がすでに主食の一部となっていた。他に饅頭、ワンタン、餃子が流行した。また、西域から新たに、ヒツラ(ピラフ)が伝わった。
肉食は、牛、羊、豚、鶏、ラクダなどの家畜や、狩った鹿や猪、兎、熊などが食された。遊牧民族の肉料理の方法も伝わっていた。
また、海洋技術の発達により、蟹、イカ、ナマコや海藻が採られるようになった。
果物は、葡萄、石榴、蜜柑、瓜、梨、すもも、桃が食べられた。特に南方で捕られたライチは貴重で、楊貴妃に好まれたことで知られた。甘藷、棗は当時は甘み類の一つであった。
富裕層はすでに多用な食事を食べることが可能になり、珍奇な食材を好むグルメ嗜好も生まれてきた。庶民は穀物やウマゴヤシなどの菜食が中心だった。医食同源という考え方も生まれ、食餌療法も広まっていた。
服飾と化粧
長い戦乱のため、乱れていた冠服制度は初唐になって整えられた。黄色は皇帝専用の色となり、皇帝は黄袍を着て、皇族と百官は紫・緋・緑・青色の袍服を位階により決められ、着ることを定められた。民の衣は、白や黒が基本であった。貴族や官僚の衣は絹が使われ、民は褐と呼ばれるズボン形式の麻の衣を着た。百官はまた位階により定められた冠や魚袋、笏をつけて朝廷に出仕した。
男性の服飾は、従来のゆったりとした服飾に代えて、胡服と呼ばれた北朝で流行していた北方民族の衣を源流とする衣が中心となった。頭には、襆頭という頭巾が流行し、身分に関わらずつけていた。胡服は狭い袖の上着、ズボンで、革帯で締め、長靴で乗馬しやすいものであった。また、丸襟の袍衫が好まれ、布製に代わり、革の履が使用された。また、西域から来た胡服を着ていたという説もある。
女性の服飾は、胡服の流行や外国の服飾が導入され、国家に関係なく自由であり、色とりどりに染色したものが使われ、絶え間なく、移り変わっていった。大多数は、短い襦か長い衫をつけ、下半身に胸や腹まで引き上げる長裙をつける襦裙を着ていた。他に、襦裙の上半身の上に着る半臂という半袖の衣が好まれた。また、披帛という薄く軽い絹の布を肩にかける装飾品も使われ、先の尖った履をはいた。胸元まで露出することがあり、開放的なものであった。襦裙は時代がすすむとともに、ゆるやかなものに変わっていった。
宮廷の女性の間で女性が男装を行い、盛唐以降に民間で流行し、男性用であった服飾を女性が着ることが多くなった。別に流行ったものとして、胡服がある。これは男性のものとは違い、主に西域から入ってきたもので、狭い袖の上着、長ズボン、長靴が特徴的であった。
頭には、顔を見られぬために、冪リ(べきり、『リ』は「よんまがえ」と下部が「離」)と呼ばれる全身を覆う布がついた頭巾をつけた。次第に、帷帽というつばが広い、つばにつけた紗(うすぎぬ)を顔から首まで垂らした帽子をつけるようになった。胡服が流行してからは、西域から入ってきた胡帽が流行り、顔をうすぎぬで遮らなくなった。その後、渾脱帽という頭の先が尖った顔を出す帽子をつけるようになった。
女性の髪型は、多様なものになった。髻は、高髻をはじめとして、100種近くも存在した。まず、宮中の女性で流行り、民間に伝わった。髻には、様々な材質に細工が施された簪を頭につけ、10本以上もつけることもあった。
化粧は胭脂が流行し、額や頬に塗られた。また、顔を飾るための額黄、黛眉、花鈿、斜紅などの工夫がなされ、額黄は額に黄色のパウダーを塗るもので黛眉で眉を描き、多様な眉の描き方が存在した。花鈿は、金箔、紙などを様々な模様に切り、額や頬を飾るもので、粧靨は両頬にえくぼを描くもの、斜紅は顔の両側で紅を斜めに描くものであった。装飾品は、耳飾り、頭飾り、ネックレス、腕輪、香袋などがつけられた。
女性と結婚
唐代は、儒教礼節による束縛が弱かったことと、北方民族の習慣による影響により、中国の歴史上で比較しても、女性の地位が例外的なほどに高かった。そのため、女性の精神面、肉体面における活動は開放的で活発であった。
盛唐時代には、女性は顔を露わにして馬に座るのではなく、またがった上で外出を行い、そのときに、積極的な様々な異国の服飾や男装を着ることが多かった。また、ポロなどの運動や狩りなども積極的に行っていた。また、男性と酒の席で同席して会話を交わし、単独で男性と交流し、友人となることもあった。
官僚の夫人たちは、家に閉じこもらずに、お互いに社交活動を行い、夫の公務を助けることもあった。また、官僚の家の女性たちは男性の客を避けるような傾向は強くはなかった。
政治においては、唐代前期に、武則天のように皇帝となるものもあらわれ、韋皇后、安楽公主、太平公主など政治に関わりを持つ女性が多数、輩出した。しかし、「女禍」と呼ばれ、中唐以降は政治に参画する女性はほとんどいなくなった。軍事においても、高宗の娘である平陽公主や皇帝を自称して鎮圧された陳碩真のような事例も存在し、行動的であった。
また、文化活動でも活躍し、多数の女性による唐詩が作られ、上官婉児・李季蘭・薛濤・魚玄機など著名な女流詩人も輩出した。歌舞や音楽において、宮廷や民間ともに女性が大きな役割を果たし、楊貴妃も名人であることで知られる。散楽における女芸人や書法において優れた技量をもった女性がいた。
また、当時の伝奇小説や唐詩によれば、多くの女性が自発的な愛情を持ち、それを世間に肯定的に受け止められ、時には親に許され、夫ですら強く責めないことがあったことが分かる。恋愛において、男性は才能を重んじられ、女性は容貌を重んじられた。
唐代は道徳からいえば推奨されていたとはいえ、婦徳に基づいた行動をした「列女伝」に名を連ねる女性の数は少なく、絶賛されるほどではなかった。庶民層には家事を行わず、礼節を守らない女性もあり、官僚にも恐妻家といわれる夫も多かった。姑と嫁の関係も、一方的に姑が強いものではなく、家庭内礼節は守られないことが多かった。未婚の女性が男性と交際し、処女ではなくなったり、富裕層の既婚女性が愛人を交わることもよく見られ、貞操観念は強くなかった。中唐以降は、儒教による礼節が厳しくなり、このような女性による行動の事例はあまり見られなくなった。また、徳宗時代に、宋氏の五姉妹によって、「女論語」が著される。「女論語」は読みやすく、夫に対する服従とともに、女性の家庭において果たす積極的な役割を説くという面も存在した。
女性の教育は、詩歌や書法、礼法、管弦などの音楽、裁縫と機織りなどに行われ、階層によって、重点が異なっていた。士族では7歳前後から書を勉強し、経典を読んだ。商人や武官、庶民の家でも書を知る女性は少なくはなかった。書を読むことにより、礼法を学ぶことに重きを置かれ、詩歌については士族の女性が身につけることは肯定されなかったため、礼法に緩い士族の家や、庶民や妓女の女性が勉学された。識字できる女性の層は全体的に広がっていた。音楽は、官僚や士族、一部の庶民の家では、広く学ばれ、楽器や歌を修得する女性が多かった。裁縫は多くの階層で学ばれ、庶民階級では裁縫と機織りが家庭教育の中心であった。女性の教育は、その母親が行った。
女性には、様々な家事労働があり、その主要な役割を果たしていた。一般官吏や庶民の家では、女性が家事や育児、料理を行ったが、最も主要な家事が、針仕事であった。針仕事によって、作られた布によって、衣服を自給し、兵役の男性に軍服を与え、税である布類を納め、生計を助けた。夫の仕事を手伝うこともあった。男子の幼少期や女子の教育も行い、父母舅姑や夫の世話もした。
結婚について、律では一夫一妻制をとっていたが、多妾は認められていた。良人と賤人の結婚は許されず、士族と庶民の差も厳格なものではなかったが、厳然として存在した。女性の婚期は13歳から18歳まで、大体15歳前後であった。結婚は親の命令で行われたが、親が娘に夫を選ぶことを許すこともあった。結婚において、男性は家柄・財産・文才が重視され、女性は容貌・家の財産が重んじられた。結婚は六礼を経る過程で、結納や持参金が必要であった。貧家の女性が婚姻できず、高齢の男性と若年の女性の婚姻がなされるという問題も生まれた。夫が妻の実家で婚礼を行い、妻が夫の実家に赴かず、夫が入り婿となることも多く、妻は家庭の中で比較的、高い位置にいた。結婚後も妻の実家である妻族が、妻の強い力となり、夫に圧力を与えることもあった。婚姻を行っているにもかかわらず、女性が夫以外の男性と自由な性愛関係が行われ、道徳的に強い批判がなされないこともあった。
上層階級の妻は、出産と育児、家政、裁縫・機織・料理などの家事、夫の業務や社交の補佐などが社会機能として求められ、妾には家政の代わりに、夫への快楽の提供などが要求された。上層階級の妻には、家全体を整え、夫の官界への評判と評価を高めることが期待された。夫の業務や社交の補佐については、多大な貢献が行われたことが多くの記録で分かる。
離婚や再婚の事例は多く、律によって、夫が妻と離婚してよい場合として、七出を犯した場合が定められている。七出には、男子を産まないことや、舅姑によく仕えないこと、嫉妬深いことなどがあげられており、男性は栄達して、妻を換えることがしばしば見られた。ただし、唐代の特徴として、夫婦における協議離婚や妻から積極的に離婚を要求することも、認められていた。また、女性の再婚もむしろ推奨されていた。皇帝の娘である公主は夫が死去した後、多くが再婚しており、特別なものではなかった。
唐代では、南北朝時代から続く、上層階級の妻が夫の女性関係への激しい嫉妬を示す妬婦の事例が多いのも特徴である。背景には、北方民族における母系制度の影響、礼節道徳が弱かったことと、多妾制度と正妻の立場が曖昧であったことがあると考えられる。嫉妬深いことは、夫が離縁する「七出」の一つにあげられているが、妬婦たちは夫へ激しい嫉妬を示し、夫に激しい怒りを露わにし、夫の寵愛する妾や婢を傷つけ、殺すなどの行為を行った。次第に、多妾制度が定着していったため、妬婦の勢いは弱まっていった。
律上では、女性の権利は男性に比べればかなりの制限があった。女性は財産の相続権を有さず、戸絶(家の後継ぎがいないこと)の時のみ、相続権が与えられた。妻が夫のもとを勝手に去った場合は罰せられ、夫婦の暴力は妻がおこした場合の方が重かった。また、戦乱の時には多くの女性が殺戮や略奪の対象となった。その一方で、母親は子に従うことを推奨されることはなく、敬い、孝行するべき対象とみなされていた。
年中行事
年中行事は、唐代では史料も増え、政府の儀礼だけでなく、都市における行事の詳細も分かるようになっている。行事の中でも、立春から冬至までの八節(二十四節気参照)と重日が重要視された。唐代の年中行事は、国家の安泰や農作物の豊穣や無病息災、神々や祖先との交流し、社会的共同性を更新する機会であり、宗教的呪術の場でもあった。
元会は、元旦に都である長安の太極宮もしくは大明宮で皇帝が行う朝賀である。元会には各国の使者や百官が集まり、式典を行った。百官は元旦と前後3日間合計7日間休み、元会の儀式が終わると、残る3日新春の訪れを家族と祝った。正月には竹を燃やし、爆竹が鳴らされ、悪霊を追い払った。また、屠蘇酒を飲み、健康を祝い、膠牙糖という水飴を舐めた。
人日節は正月7日に行われた行事である。祝宴が宮廷で行われ、百官に魔よけの人形の切り絵である「人勝」が配られる。この日、7種の野草を使う羮が作られた。
上元節は正月15日の前後3日間続く灯籠祭りであり、元宵節とも呼ばれ、仏教の影響もあって、最も盛んとなった祭りである。上元節の期間中は、夜行の禁が解かれ、都市、田舎を問わず、家ごとに灯籠を掛け連ね、着飾った大勢の見物人が夜通し活動する。大都市では、灯籠を無数に連ねた灯樹、灯輪、山棚などというものが飾られ、都市内各地で見物することができた。上元節の灯籠は、玄宗期に隆盛を迎え、その盛大さは多くの唐詩に唱われている。長安では、皇帝も元宵節を楽しみ、雑踏は非常に激しいもので、落とし物も朝には市中にあちこちに転がったと伝えられる。また、昼間は抜河(綱引き)が行われた。長安以外では、洛陽、揚州、涼州でも大規模な祭りが開かれた。玄宗期の一時期は2月に開かれていた。
探春の宴は早春の野に春の風景を探す行事である。送窮日は、1月最終日で、貧乏神を送り出す行事である。
寒食節は、2月末に、一日中冷たいものを食べる。前後3日間、火を焚くこと、夜間に灯りをつけることを禁じられた。清明節は、3月1日に寒食節が終わると、一続きで行われる、家で新火をおこし始める行事である。
上巳節は、3月3日に行われる河や池の水で身体を洗う行事である「祓禊」が行われる。長安付近では、曲江池や渭水で行った。全体的に行楽のような意味合いを持った行事で、景色を楽しんだり、宴会が開かれたりした。
端午節は、5月5日に、悪鬼を防ぐため、艾(よもぎ)人形を戸口にかけ、艾の虎を頭にかぶる行事である。粽子(ちまき)を食べ、竜船競渡(ボートレース)を行うこともあった。宮廷でも、衣服やチマキが下賜された。部屋に飾る鍾馗の絵は唐代からはじまっている。
夏至節には、百官は3日間の休みが与えられる。
七夕は、7月7日に、年に一度、織女星と牽牛星が会う日である。爆衣・爆書という衣類や書籍の虫干しが行われ、夜に粥や瓜を食べ、竹を立てて二つの星を祭る。針穴に色糸を通して織物の上達を祈る「乞巧節」でもある。
「天長節」は、8月5日の玄宗の誕生日を国慶節としたことによる。宮廷では宴席を行い、興慶宮の広場で、玄宗のもとで宮廷楽団の音楽や大規模な舞踊、出し物や曲芸、軽業、手品などの百戯が行われた。全国の寺観でも盛大な儀式が行われ、農民も天神を祭るという行事に組み入れられた。
「中秋節は、8月15日に、中秋の名月を眺める日であり、この日の満月が最も美しい月とされた。果物などを食べながら、月見を行った。唐代の半ばにはじまり、晩唐には定着した。
重陽節は、9月9日に、人々が高い丘や高楼の高所に登高し、茱萸(かわはじかみ)の枝や菊の花を髪に挿し、その実を入れた袋を肘に下げ、菊酒を飲み邪気を祓う行事である。翌日の9月10日が小重陽で酒宴が開かれた。
冬至節は、11月15日に、皇帝が朝賀を行う前に天に祭り、天下太平・五穀豊穣を祈り、式典が催される。元旦とともに重視され、官僚は7日間の休日を与えられた。民間でも「拝冬」として祝い、ご馳走をする。この前夜は、「至除夜」と言われ、徹夜して夜明けを迎える。
臘日は成道日の12月8日に、酒宴などを行って祝う行事。宮中でも宴会が開かれる。
徐夕は、12月29日か30日の1年の最終日。夜の「除夜」に、新しい年を迎えるため、酒を飲んで、徹夜する。宮廷では「大儺」の儀式が行われた。
運動・競技
狩猟が盛んで、遊牧民族の文化の影響も強く、唐の皇帝は狩猟を好むものが多かった。そのため、皇族や貴族は大勢を率いて狩猟に出かけた。皇帝の狩猟には宮女も同行し、女性のみの集団で狩猟を行うこともあった。鷹狩りのための鷹を捕り、飼育する技術は大いに向上していた。
ポロは、「打毬戯」と呼ばれ、中国では唐代から行われた。皇帝、貴族、文官、武官、女性までが行い、楽しんでいた。皇帝では、玄宗は親王時代から長じ、宣宗、僖宗は皇帝の時に楽しんでいる。唐と吐蕃とでチームが組まれ勝負することもあった。宮中の庭では毬場が作られ、貴族や官僚は邸宅の庭にポロの毬場をもつ者もいて、地方都市にも地方官が管理のもとに毬場が作られた。女性はロバに乗ったり、徒歩で行うことが多かった。ポロは春によく行われ、軍人にも好まれ、すぐれた技芸を誇るものあった。
蹴鞠は「打毬」とも呼ばれ、古来から行われ、地面を浅く掘らずに、塀で囲まれた専用の毬場がつくられた。春にしばしば遊ばれ、二人で遊ぶものを「白打」、会として行うものを「員社」と呼んだ。妓女にも優れた技量を持つものがいた。
綱引きは抜河と呼ばれ、古来から伝わり、主に正月15日の上元節に行事として行われたが、後に期日を定めず競技として行われるようになった。綱に直接手をかけるのでなく、小さい綱を大きな綱に結んで引き、勝敗を決めた。宮廷で高官や宮女が加わって行うこともあった。玄宗時代にしばしば行われ、長安では千人以上が集まって競うこともあった。
ブランコ(蕩鞦韆)は、女性や子供に好まれ、髪飾りが落ちるほどの高さを競って遊んだ。宮中にはブランコが作られ、宮女が遊ぶ風景を見て、玄宗は空を飛ぶ仙人になぞらえて「半仙戯」と名付けた。これは民間にも伝わり「半仙戯」と呼ばれるようになった。
角觝は、「角力」、「相撲」とも呼ばれる格闘技である。古来から伝わり、唐代でも軍人の間などで見物客の前で行われ、宮中にも皇帝に仕える名手がいて、何百人の弟子を持つものもいた。角觝は、散楽に含まれ、見せ物の娯楽にもなった。
屋外遊戯
郊遊は、「踏青」とも呼ばれ、現在のピクニックに似た、男女を問わず主に春の季節に行う屋外における運動である。長安の周りが盛んで、景勝地や郊外にでて、遊園を開いた。
闘百草は、主に少女たちによって、草や花を採り、珍しさものの種類の優越を競う遊びである。唐代に盛んとなった。
捕蝉戯は夏に蝉をとる遊びである。唐代では、蝉を売る人が現れ、女性や子供は買い、戸口や窓に吊り、鳴き声を競った。
闘鶏は、古来より行われ、唐代で盛んであった。玄宗は酉年生まれであり、闘鶏を好み、皇族や貴族には財産をつぶすほど力をいれるものも存在し、庶民はおもちゃの鶏で我慢した。
闘蟋は、秋に宮中の女性たちがコオロギを飼い、枕元に置いて鳴き声を聞くもので、後に庶民に伝わった。長安で流行し「闘蟋」として賭け事にまで発展するに至った。
闘歌は、歌を歌い、その優劣を比べるものである。長安にある東市と西市の代表で優劣を比べることがあった。
登高は、周辺の山や丘の高所に登り、天を仰ぎ、地を眺めるものである。天に近づくことで天の精気を受け取り、心身の清新をはかることを目的としていたが、次第にただ感慨にふけるために行われるようになった。
屋内娯楽
囲碁は、隋代から19路盤が用いられ、現代に似た打ち方であった。唐代、囲碁は特に盛んであり、囲碁は文人たちに好まれ、女性にも打つものがいた。713年の玄宗期に、棋待詔制度が創設され、皇帝に召し出される囲碁の名人が指定され、新羅や日本の名人と打つこともあった。玄宗自身も碁を好み、日本人の弁正と打ったという話や棋譜も残っている。囲碁は、民間や辺境でも広く遊ばれ、碁盤や碁石には貴重な素材を用いられることもあった。
象棋も唐代には打たれ、駒には「将」、「馬」、「車」、「象」「卒」、「砲」などがあった。すでに、現在のシャンチー(象棋)に近いルールになっていた。
弾棋は、貴族や文人の間で遊ばれた。中央と四隅が高くなった盤を用い、交互に石を弾き、相手の石に当てた数を競うもので詳細な内容は分からなくなっている。唐末まで遊ばれた。
博や双陸はサイコロや盤、駒を用いて遊ばれ、賭け事などに用いられた。詳細な内容は分からなくなっている。
酒と酒宴
唐代は、酒の禁令がなかったため、酒造業が急速に発展した。酒の種類は増加し、紅麹の酒など甘い酒が中心であり、また、好まれた。多くの詩人が飲酒をテーマに漢詩で唱った。
酒の中でも葡萄酒は、高昌国を制圧したことで、葡萄と醸造技術が伝えられ、葡萄酒の味が向上し、広まっていった。葡萄酒は紅のものと、白のものがすでに存在していた。葡萄酒は西涼州産が最高級のものとして知られていた。また、果実酒も存在した。杯は木製、陶磁器は主流であったが、高級なものに白玉製やガラス製があった。
当時の酒宴は、食事が終わって酒を飲んだ。酒宴は午後にはじまり、日暮れに終わり、夜に酒宴を行うと照明に多額の費用がかかった。相手に酒を奨める時は、杯に酒を酌んで奨めた。順次に一人ずつ杯から酒を飲み、一斉に飲むことはなかった。また、酒宴の時に音楽が奏でられ、歌が歌われることがあった。歌舞は楽人や妓女たちだけでなく、主人や客から行われることもあった。
冬の季節には、遊牧民族が行うゲル(氈帳)を邸宅の庭に設置し、中に炉を置いて、酒宴を行う風習も存在した。
酒宴の時に行われる様々な遊戯は、酒令と呼ばれた。酒令の遊戯は文学的なもの多かった。参加者は20名程度を標準とし、主人の他に酒を管理する「明府」、酒宴を運営する二名の「録事」が定められた。遊戯には、壺に矢をいれて数を競う「投壺」、二組に分かれて相手の組のうち背にものを持った人物をあてる「蔵鈎」、盆でものを隠して、なにが入っているかを当てる「射覆」があった。いずれも負けた場合には、罰杯が課された。唐代には、「指巡胡」という片手をあげた胡人の人形を回し、倒れた人形の指が示した人物が罰杯を飲むという遊戯が生まれた。また、「骰子令」というサイコロを使った遊戯もあった。複雑なものとして、「律令」という古典を利用した遊戯があり、その中には、筒の中にいれた籤をひき、そこにある古典を模した言葉により、罰杯の相手を決める「酒籤」や古典の知識を競い合うものがあった。また、「著辞令」というで即興で詩をつくり、曲をつけるものがあった。
喫茶と茶道
茶の普及は唐代になって行われた。南北朝時代までは南方における習慣であったが、統一王朝である唐が安定したため、物流が確立し、北方にも流通した。また、後趙時代から禅宗の寺において、禅修行のため、眠気覚ましに覚醒作用のある茶を飲むことを許されいたため、在家の仏弟子たちの間で飲まれており、北方にも次第に普及した。
盛唐になり、茶の普及が広がっていくなかで、陸羽が、上層階層向けに、史上はじめての茶の専門書である「茶経」を書き、喫茶を規範化する動きが行われた。それ以前は、茶には、生姜や蜜柑の皮、葱、紫蘇などをいれ、飲んでいたが、「茶経」では茶が持つ真の味を損なうとして、新たな喫茶や茶の煎り方を薦めている。そのため、文人や官僚の間で喫茶の形式化が進むことになり、「茶道」という言葉も生まれた。茶は皇族や貴族、官僚に浸透し、風習にまでなった。9世紀になり、茶は、「荼」という字で表されていたが、「荼」は「苦菜」の意味も含むことから、独立して「茶」という字で表されることになった。茶は南方で採り、北方では固められ、「餅茶」として運ばれた。飲むときは、粉にして抹茶の形にして飲んだ。次第に北方でも茶を生産するようになる。北方の随所に茶を売る店や茶店が生まれ、飲まれるようになった。
茶には塩や生姜をいれる風習は続いた。「餅茶」だけでなく、「散茶」も存在した。晩唐には、「点茶」が生まれた。
また、唐代には禅宗の寺だけでなく、寺全般に茶を普及し、禅宗では喫茶は宗教儀礼の中に、茶礼として組み入れられていった。寺院では需要に応じて、茶園がつくられていた。
「餅茶」は、茶の主流もあり、保存・運搬ともにすぐれ、回紇に好まれ、「茶馬交易」が行われ、日本にも伝来した。茶の生産・消費の増大とともに、780年には茶税がはじまり、課税され、唐政府の重要な財源となった。835年に、全て官営茶園で独占しようとする動きがあったが、猛烈な反対に遭い、中止となっている。
散楽と劇
散楽は、「百戯」とも呼ばれる民間で行われる様々な娯楽のための技芸の総称である。次第に西域の技芸が取り入れられるようになり、盛唐では、宮廷でも左右教坊によって管轄された。散楽は、民間の音楽や角觝など武術、芝居も含まれるが、主流は曲芸や幻術(手品)、であった。内容は、竿木、縄伎(戯縄ともいう)、舞馬(象で行うこともある)、跳丸、弄剣、筋斗(とんぼ)、球伎、馬伎、呑刀、吐火、舞剣、植瓜、種棗、盤舞、杯盤舞などがあった。
竿木は、唐代には特に盛んであった。高い竿を頭に乗せて動く、あるいは、他の者が、頭に乗った状態の竿に登る技芸であった。登る人の軽業も筋斗(とんぼ)や逆立ちを組み合わせた。竿の上に物を載せることもあった。
縄伎は綱渡りのことであり、音楽に合わせて高下駄をはいた女性が縄の上でお互いに交差するもの、長竿を足に結んで渡るもの、渡るものの肩の上に二人が乗るものなど変化の多かった。
馬伎は、教坊にいる内人の女性によって行われ、鎧を着て、馬に乗り、弓を射て、刀剣を扱うもので、馬上で様々な技芸を行い、多数で様々な陣を形作った。
滑稽劇は、従来からの舞踏劇に加え、唐代には「参軍戯」という滑稽な演劇が流行した。参軍戯は、動作や台詞に加えて、音楽や歌舞もあり、女優もいた。参軍戯を得意とするものは、宮廷のみならず、民間にもいた。また、「踏揺娘」という歩きながら歌う滑稽な歌舞劇も生まれた。舞踏劇では、「大面戯」という蘭陵王を題材にとったものがよく行われた。
人形劇は唐代には盛んであり、人形は「傀儡子」、人形劇は「傀儡戯」と呼ばれた。糸で間接が動く木彫りの人形を操って動かすもので、精巧な人形が巧みに動かされて、演劇が行われたと伝えられる。「郭公」という禿頭の滑稽劇が人気であった。
散楽は、宮廷だけではなく、皇族や貴族の邸宅で行われた。また、長安には、大慈恩寺、青竜寺、大薦福寺、永寿寺などの寺の境内や門前に「戯場」が置かれ、散楽が演じられた。
安史の乱以後は、散楽も、各地の節度使のもとや地方の州で行われるようになった。
牡丹の流行
牡丹は当時の世界で最も花卉園芸が盛んであった唐において代表となる花であった。
牡丹は、武則天によって、郷里の太原から長安に移植され、洛陽に遷都した時に移され、次第に全国に伝わったとされる(ただし、発見されている牡丹の野生種は中国西南の山地が中心である)。また、武則天が、古来からの名である「木芍薬」から「牡丹」に改名したとも伝えられる。牡丹はまた「富貴花」とも呼ばれ、「百花王」ともうたわれた。
玄宗時代に、牡丹は爆発的に流行し、唐代の終わりまで流行は耐えなかった。玄宗は興慶宮の沈香亭に植えられた牡丹を楊貴妃とともに観賞することを好み、華清宮にも植えていた。文宗も牡丹を好み、中唐以降では、漢詩の「花」は牡丹を指した。
長安では、牡丹の盛んな時期には、人々が牡丹を求めて、20日間ほど長安中の名所を車馬や徒歩で行き来した。また、毎年3月5日に牡丹を陳列し、街の人を招いて、見栄えの良さが競われた。長安の人々は牡丹のために狂奔して金を惜しまず、珍奇な牡丹は数万銭をすることもあった。牡丹の花で知られた官僚や武将の屋敷も存在し、破産するものもあったと伝えられる。そのために園芸業が繁盛した。
長安の牡丹の名所は、慈恩寺、西明寺、崇敬寺などが知られていた。慈恩寺の牡丹は場所によって、長安で一番初めに咲き、また、最後に咲いたと伝えられる。西明寺は、牡丹の時期には寺の一部が開放され、唐代を通じて最も良く知られていた。官庁でも牡丹が植えられ、名所になることもあった。総じて、紫色、紅色の牡丹が好まれ、後に黄牡丹が現れ、白い牡丹は人気が薄かったとされる。
異国趣味
唐代は、西域のものを中心とした異国の文物が好まれ、盛唐の長安、洛陽において、特に盛んであった。長安では貴族から庶民から、ペルシア、インド、ソグド、突厥の絵や飾りがつけられた工芸品が使われた。ペルシア語や突厥語の言語や文字が学ぶ者もいた。
西域や突厥の影響を受けた衣類、食事に加え、天幕などの住居も流行した。音楽や舞踊も西域のものが愛好された。画家による異国人や異国の神々を題材に描いたものが多数存在し、壁画に残っている。塑像でも異国人をモデルにしたものが作られ、仏像も異国の影響が強いものが作成された。百戯の一部となる曲芸や幻術も伝来した。
また、多くの唐詩で異国人や異国の動物が題材として唱われた。
中唐以降は、異国品は身近なものではなくなっていったが、異国を題材とした文学が、より盛んとなった。李賀、杜牧などが唐詩に用い、多くの伝奇小説が書かれた。
異国人
唐は比較的、胡人と呼ばれる異国人に寛容であったため、唐代では胡人が各地に居住していた。胡人は、長安、洛陽、広州、揚州などの商業取引が盛んな大都市や市場がある中都市に集まっていた。胡人は、西域から来たソグド人、北方の突厥人や回紇人が特に多かった。胡人は、唐代以前に、中国西北部に集落をつくり、唐の建国後移住するものが多かった。彼らは、商人だけでなく、宗教家、画家や楽士、工芸家、曲芸師などがいた。
胡人は、居住区を区別され、都市の胡人居住地においては、それぞれの長が選ばれ、紛争は自国の法律で裁くことが定められ、他国同士の紛争は唐の法律で裁かれた。胡人は、唐で死んだ場合、妻子がいなければ、財産は国の所有になった。また、唐の女性を妻妾にした場合は連れ帰ることは許されなかった。
胡人の商業に対する規制は強く、朝貢や関税の形をとって、商品を一部差し出す必要があることが多かった。さらに、交易を行う商品は制限された上で、大きな市で販売をしなくてはいけなかった。また、輸出品も大きく制限された。それであっても、胡人の商人は成功するものが大勢いた。彼らは、利益を得るため、各地に赴いて、商取引を行い、大金で交易するものも数多かった。また、長安には邸店を開いていたペルシャ人もいた。
長安を中心とした高級な酒場である旗亭や酒楼では、胡姫と呼ばれる若いソグド人の白色人種の女性が働いていた。彼女らの中では、唄や胡旋舞などの踊りに長じるものも多かった。
初唐や盛唐では節度使などの唐政府の要職に就くことが多かったが、中唐以降は、服装や結婚、不動産所有が規制されることが増え、唐全体として排外主義の思想が強くなった。
宗教としては、長安には、ゾロアスター教、マニ教、ネストリウス派キリスト教、密教の寺院が建立され、9世紀の武宗の宗教弾圧までは様々な宗教が混在していた。
無頼と刺青
安史の乱後の客戸とよばれる農業人口移動の増大や都市の発展とともに、唐代後半に大きな存在になったのが、無頼である。
遊民層にもっとも目立つ存在で、生業につかず、規範や道徳を嫌って衝突する人間たちが無頼と呼ばれた。無頼はまた、博打を好んだたため「博徒」と呼ばれ、暴力を誇り、都市の市場を主な活動範囲としていた。彼らは出身階層に関わらず、個人の資質によって存在した。若者が多かったため、悪少年、軽薄少年とも呼ばれた。無頼となり、家族や故郷と別離して都市に流れてくるものも多く、長安に客戸坊というスラム街をつくっていた。彼らが治安を乱すことが多く、盗賊になることもあった。大室幹雄は、彼らの行動動機は「生の過剰」によるものであると評している。[8]
唐政府は無頼を弾圧したが、府兵制崩壊後は、無頼が募兵の重要な供給源となり、罪を犯しても軍に逃げ込み、逃れるものが多く、無頼は次代の五代十国時代にはさらに増加した。また、無頼の組織化もはじまっていた。
盗賊となった無頼には、強盗の時に殺人を行い、食人するという習慣が生まれていた。宿屋に絵を描き、仲間に連絡を行うということもなされていた。
この時代、かつては犯罪者の証であった刺青が流行し、無頼の多くが刺青を行っていた。左右の腕には漢詩を彫ることが多く、全身に漢詩全てを描くこともあった。背中に毘沙門天や、全身くまなく、蛇などを彫る技術も存在し、刺青を彫ることを商売にしているものもいた。刺青は傷をつけて墨をいれるもの、針がついた印で押して墨を刷り込むものがあり、様々な技術と工夫があった。
遊侠と奢豪
遊侠について、中唐の李徳裕は「豪侠論」において、『さて、侠はおそらく非常の人である。己の身を人に委ねることを承諾するけれども、かならず節気(義に偏ること)を本とする。義は侠でなければ立たず、侠は義でなければならない』、『気に任せて義を知らない士は盗というべきである』と述べ、明確に遊侠を「義」によって盗賊を区分している。[9][10]
唐代では、生業につかず、規範や道徳を嫌う無頼と同一化されることも多いが、無頼の中で、「義」を自身の基礎倫理として活動したものが遊侠や侠客、富裕層でも遊侠と交わり、あるいは養う、遊侠と似た行動を行ったものが「豪侠」などと呼ばれた。
遊侠は、生業につかず、規範や道徳を縛られずに反抗して、自分を得ることに快感をおぼえた。唐代の遊侠は、古代の遊侠と異なり、目立った異風の風体をし、刺青を行い、それをみせびらかすことを好んだ。また、闘鶏、鷹や犬を使った狩猟、剣術、騎馬、射撃、博打、飲酒、宴会、妓女との交歓などの遊戯を積極的に楽しみ、優れた技能を見せつけ、自分たちが他者と異なることに喜びを感じた。彼らは疾走や軽業などすぐれた肉体的技能を持つものが多かった。盗賊の仲間になり、犯罪を犯して他人から財産を奪うものも多く、「五陵」などの土地に遊侠が集まることもあった。剣侠と呼ばれる剣を操る技能を誇り、刺客を兼ねるものもいた。刺客は、飛天夜叉の術と呼ばれ、遊侠の優れた跳躍や疾走、軽業、剣術を示す記録が残っている。また、敵討ちなどを行う女侠と呼ばれる女性の遊侠も存在したことが、当時の「豪侠小説」や李白の詩で散見される。
ただ、他の無頼と識別する点として、遊侠が義挙を行うことがあげられる。彼らは義侠心に基づき、弱者に味方し、強者に逆らった。具体的には、恩に報い仇を討ち、逃亡者を救い、役人に抵抗し、貧民や弱者を救うことなどを好んで行った。唐代は法律が整備され、役人を攻撃する事件は少なかったが、組織をつくり、都市の交通や経済に要衝になわばりを持つ「大侠」と呼ばれるものもいて、逃亡者を助けた記録が残っている。また、刺客としても標的に義があると判断した時は暗殺をとりやめることがあった。
遊侠は様々な手段で生計を立てていた。その勇猛さや武術により、高官に招かれ、その刺客や食客になるものが多かった。また、遊侠を好む豪族や豪商とつながって非合法な行為を含めた経済活動を行うものもいた。盗賊となり、民から略奪を行うものもいた。ただ、唐代では、政府からの豪族の独立指向が薄くなり、政府から見れば違法な行為を含めた自立のために遊侠を招くことが減少した。しかし、安史の乱後、地方の藩鎮は独自の軍事力を欲し、遊侠や刺客などを大勢招き、政敵の暗殺などを行わせた。
遊侠は、任侠が流行していた隋代を受け継ぎ、唐建国の軍事における功臣たちは遊侠出身のものが多く、太宗も若年時代は、好んで遊侠の人と交流したことが伝えられる。盛唐時代になると、土地を捨て客戸や盗賊となるものに、遊侠が少なからず存在した。また、豪族や富豪、文人に遊侠に似た行いをするものが多かった。長安には、遊侠が多数存在し、恩義に報いる刺客も多かったとされる。この時代に、李白は作品において、遊侠の生き方を絶賛している。安史の乱後は、社会不安となり、遊侠の活動は増し、不法行為を行うものが増えた。その後は、平時が続いたが、藩鎮勢力が遊侠を集め、刺客により唐政府の要人が暗殺されるなど、刺客が各地にあらわれるなど、遊侠の存在は大きいものであり続けた。唐末の反乱や戦乱において、再度、遊侠の活動は活発となった。
唐代は特に遊侠を称える詩が多く、詩人たちが、遊侠たちに多大なる好意と尊敬をよせていたことが分かる。辺境の軍事に志願して従軍する勇気が、多数の詩人たちに称えられ、中唐時代の遊侠については、多くの「豪侠小説」で記述されている。当時の遊侠の筆記の記録者や伝奇小説の作者の姿勢は、盗賊に関する記述と違い、明らかにある種の賛嘆や共感が伺える。
なお、「豪侠小説」における遊侠たちの身体的能力のイメージは、当時の散楽(百戯)の技芸が影響しているという説もある。
奢豪とは、富裕層のうち、贅を尽くして財力を顕示するものを指した。彼らの多くは皇帝の側近であった。また、財力が豊かであり、贅を尽くした上で、四方から客を招くものが巨豪と呼ばれていた。彼らのうち、役人や科挙受験生らを援助するものがあり、彼らは朝廷へ影響力を持っていた。
虎と狐への信仰
虎は、農村部では身近にいる人間を食べる危険な猛獣として怖れられ、旅人や農民が襲われ、人々と敵対する事例が多数あった。
酉陽雑俎によると、『虎が交尾すると月に暈がかかる。虎が人間を殺すと、死体を立ち上がらせ衣を解かせてから食べる、夜、見る時、一つの目から光を放ち、もう一つの目でものを見る』とされる。
また、別説では四つ指を「天虎」、五つ指を「人虎」と呼ぶという。
唐代の説話では、李徴などにように、人が突如、変身して、心身ともに虎に化すもの。虎の皮を着て虎に変身してしまうもの。「倀鬼」という食した人間の霊を家来として虎が操るもの。人が虎の皮を着て虎として使命を果たしているというもの、さらに虎に襲われた話や、虎狩りの話など多様の説話が残されている。
総じて、虎と人との精神の違いの表現、虎の皮に大きな意味を持たせていることが多く、虎は、神秘的で霊的な生き物として畏敬を払われていた。
狐は、古来より強い力のある霊獣とされ、人に変化し、千里の外を知り、蠱魅で人の知覚を失わせ、千年生きれば「天狐」となるとされてきた。初唐では、農村では狐の信仰が盛んで、家屋で祭って祈り、飲食物を人間と同じものを与え、『狐魅がなくては村は成り立たぬ』という諺があり、民間信仰では天狐が特に重視されていた。
酉陽雑俎によると、狐は紫狐と呼ばれ、夜、尾をたたくと火を出す。髑髏を頭に乗せて北斗に礼をして、髑髏が頭から落ちなければ、人間に変身する。天狐は、九尾、金色で陰陽に透徹するとされる。
唐代の説話では、天狐は大きな力を持ち、人を狐媚で操り、並の道士や神よりはるかに強いが、力の強い道士や仙人、神には劣るとされることが多い。また、人間に積極的に害をなすよりも、人に化け、人間に婚姻を求めたり、婚姻を結んだ人間を援助を行う傾向にある。天狐は民間信仰の神と妖怪の境界にいた存在とされる。
国際関係
テンプレート:脚注の不足 唐の最大領域は高宗期の7世紀半ばで、直接統治地域は東西が朝鮮北部から天山山脈のオアシス地帯まで、南北は外モンゴルからベトナム中部までの領域である。しかし周辺区域でも異民族を支配する間接支配を執っている。
唐の異民族支配は羈縻支配(きびしはい)と呼ばれる。この政策は冊封とは異なり、その異民族の支配地に唐の地方制度の一単位である都督府・羈縻州を設置し、唐の官制に組み込まれた長官に異民族の長を任命して自治権を認めるものである。完全な直接支配と冊封の間にあるが直接支配に近い。
都督府・羈縻州の上に立って管轄するのが都護府であり、辺境に6の都護府が置かれた。
- 安西都護府 - 640年設置。シルクロードの天山南路の守備。
- 安北都護府 - 647年設置。外モンゴル支配。
- 単于都護府 - 650年設置。内モンゴル支配。
- 安東都護府 - 668年設置。朝鮮・満州支配。
- 安南都護府 - 679年設置。ベトナム・その他の南海諸国支配。
- 北庭都護府 - 701年設置。天山北路の守備。
盛唐までの唐は外国の文化に対して寛容であり、高句麗の高仙芝、百済の黒歯常之、日本人の阿倍仲麻呂や雑胡(異民族の混血)の安禄山のように外国人が政府の官職を受けて活躍していた。まったく外国人に対する差別が無かった訳ではないが、唐代は歴代でも極めてその傾向が低いと言える。
安史の乱以降は都護府による辺境経営が縮小し、唐の異民族政策は一気に緩んだ。このため唐は辺境へ藩鎮の配置を進め、羈縻支配を改めていったが、吐蕃により唐の西北国境は不安定となる。9世紀にはウイグルや吐蕃も衰退に向かうが、唐にはもはや周辺諸国に干渉する力は残っていなかった。また、唐の衰退は東方の諸国においても動揺を与え、唐の滅亡から30年経たないうちに渤海・新羅が相次いで滅亡することになる[11]。
北方
6世紀に巨大帝国を築いた突厥は隋の時代に東西に分裂していたが、それでもなお巨大な力を有しており、唐建国時に突厥から兵を借りているようにこの時期には明らかに突厥の力のほうが上であった。太宗即位の626年には長安のすぐ傍まで迫られて和約を結んでいる。
しかしその後の貞観の治により唐は急速に国力を拡大し、630年には突厥から独立した鉄勒と挟撃して東突厥を滅ぼして羈縻支配に組み込み、安北都護府(設置当初の名称は燕然都護府)・単于都護府を設置した。
太宗は鉄勒を初めとする諸部族から天可汗の称号を受けている。可汗(カガン)はハーン、すなわち遊牧民世界の最高君主を意味する称号であり、唐は中華帝国の王者であると共に草原の可汗でもあった。これは当時の唐帝国が帯びていた遊牧民的世界性を如実に示している。
しかしその後も、突厥の残部はその後も度々唐に対して反抗し、682年に再び独立して突厥第二帝国と呼ばれる国を建て、モンゴル高原において再び自立した。しかし突厥は745年にウイグル(回鶻)を中心とした部族連合(「九姓鉄勒」「九姓回鶻」)に攻められて滅び、ウイグルが突厥にかわって中央アジアから北アジアにかけて広がる遊牧国家を建設する。
ウイグルは唐に請われて安史の乱に援軍を送って以来唐に圧力をかけ続け、また高原経由の東西交易を中継して武力を背景に有利な取引を行い、中国の富を吸い上げて盛況をきわめた。しかし8世紀にキルギスの攻撃によりウイグル国家が倒壊してから後は高原を統一する勢力は消滅する。
西方
唐は640年に高昌国(現トルファン)を滅ぼしたのを初めとして、シルクロード沿いのオアシス国家を服属させて安西都護府(クチャ)を設置し、西域経営を行った。
また635年に青海の吐谷渾を支配下に置き、チベット高原の吐蕃も服属させた。しかし吐蕃に対する支配は強力なものではなく、吐蕃は度々唐の領内に侵攻し、それに対して唐から皇帝の娘と称する女性を吐蕃公主として嫁がせるなどして懐柔に努めた。
唐の西域経営は8世紀前半には天山山脈・パミール高原以西のトランスオクシアナにまで及ぶが、751年のタラス河畔の敗戦によって頓挫、中央アジアの支配権はイスラム帝国に譲ることになる。
さらに安史の乱が起こると、吐蕃は安史の乱の混乱に乗じて一時期長安を占拠した。長安からはすぐに撤退したものの甘粛は吐蕃の領域に入り、シルクロードは吐蕃の手に入った。その後の787年には安西・北庭の両都護府が吐蕃に陥落させられ、唐の西域経営は終わる。吐蕃は唐の西方防備を大いに悩ませたが、ウイグルら周辺諸国が次々に唐との共存策に移ったことから唐との紛争を続けられなくなり、822年に唐と和睦した。
さらに9世紀には吐蕃も国内の争いから衰退し、天山ウイグル王国や甘州ウイグル、タングート(後の西夏)などの新勢力の勃興を許した。唐の西域経営後退後もこれらによる中継貿易による内陸の東西交易路は維持され、依然として盛況を示した。さらに8世紀以降はインド洋・南シナ海を通じて西アジアの商人と唐の商人が直接取引きする南海交易が次第に盛んになり、数多くのアラブ人やペルシア人のムスリム商人が広州に来航した。
東方
隋以来、中国の王朝と敵対関係にあった東の高句麗に対しては、太宗・高宗期に計5回の遠征軍を送るも決定的な打撃は与えられなかったが、新羅と連合(唐・新羅の同盟)して660年にまず南の百済を滅ぼし、668年には最終的に高句麗を滅ぼすことに成功、平壌に安東都護府を設置する。
その後、属国の新羅が半島にあった唐の熊津都護府ほか各地の行政機関を襲撃(唐・新羅戦争)した結果、安東都護府は遼東半島にまで後退せざるを得なくなり、朝鮮半島では統一新羅が誕生する。新羅はその後、唐から赦されて冊封を受け朝貢国となった。
同じ頃、東北地方(満州)ではこの地方に移住させられていた契丹が反乱を起こした混乱に乗じて、高句麗の遺民と粟末靺鞨が中心となり震国(のち渤海)を立て、唐から独立した。やがて渤海王・大武芸は黒水靺鞨の支配を巡って唐と対立し、唐は733年には水軍を送って山東半島の登州を一時占領したが、間もなく講和して渤海郡王に冊封し羈縻支配下へ組み込んだ。
渤海と新羅はお互いを仮想敵国とみなし、日本を巻き込んで外交戦を繰り広げたが、唐の時代を通じてそれぞれが唐への朝貢を続け、東方は唐にとって比較的安定した領域であった。
南方
南越の滅亡以来、長い間支配下にあったベトナムには安南都護府を置いていたが、安史の乱で唐が衰えて以降は、吐蕃の盟下にいた雲南の南詔が勢力を拡大、四川の成都付近まで進出し、829年に成都を略奪した。また南詔は、唐と安南都護府の争奪戦を繰り広げた。
日本との関係
日本からは太宗の時代から散発的な遣使があったが、唐が660年に日本の同盟国である朝鮮半島の百済を新羅と結んで滅ぼすと敵対関係となった。さらに663年、唐・新羅の連合軍は百済の残党と日本の援軍を白村江の戦いで打ち破る。
しかしこの戦いは結局日本へこれ以上の大陸への政治的接触を断念させることになり、やがて遣唐使による平和的通交が再開された。遣唐使は合計16度にわたって日本から唐へ派遣され、先進の唐文化を吸収した。唐の国号は日本において中国の代名詞のように使われるようになり、大陸を意味する日本語の「から」「もろこし」などの言葉に「唐」の字があてられて使われた。
9世紀になると唐政府の衰えと民間交易の発展から日本が国家事業として遣唐使を送る意義を失っていった。894年、菅原道真の建議により遣唐使は停止された。その後、明の時代まで、長らく中国の王朝と日本の間に国家レベルの正式の通交はなかった。
唐の皇帝と元号
脚注
参考文献
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関連項目
外部リンク
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- ↑ 『東洋に於ける素朴主義の民族と文明主義の社会』(1940年)
- ↑ 劉及辰『京都学派哲学』(光明日報出版社 1993年)または『日本対中国的文化侵略』叢書 (昆侖出版社)
- ↑ 渡邊信一郎「唐代後半期の中央財政―戸部曹財政を中心に―」(初出:『京都府立大学学術報告』人文・第40号(1988年)/所収:『中國古代の財政と國家』(汲古書院、2010年)第14章)
- ↑ 『中国史2』、p460
- ↑ ボストン美術館にある『歴代帝王図』は閻立本の手によると伝えられるが、北宋代の模写であると推察されている。
- ↑ 蘇軾曰く「画は呉道士(道玄の元の名)に至りて終われり。」
- ↑ 『絢爛たる世界帝国 : 隋唐時代』、331p
- ↑ 大室『パノラマの帝国』1頁
- ↑ 汪「中国遊侠史」443~444頁
- ↑ 「義」の定義については、相田洋は、『非血縁的な仲間結合を支える原理』としている。「義」は通常の道徳と異なるため、義を立てる遊侠でありながら、盗賊であることもありえる。相田「橋と異人」28頁
- ↑ 日本において10世紀前半に相次いで発生した承平天慶の乱などの一連の地方反乱もこれに該当するという説もあるが、10世紀前半の中国大陸・朝鮮半島と日本列島の地理条件や政治・経済・社会などの環境の違いから、承平天慶の乱の発生は唐滅亡後の混乱や変革とは直接的な関係はなく、むしろ200年以上遅れる形で平氏政権の成立に影響を与えたとする理解もある(榎本淳一「唐代の朝貢と貿易」(初出:平川南 他編『文字と古代日本2 文字による交流』(吉川弘文館、2005年)/所収:榎本『唐王朝と古代日本』、吉川弘文館、2008年))。
- ↑ 宦官勢力によって父・昭宗が失脚させられた際に皇帝として擁立されたが、2ヶ月足らずで昭宗が返り咲いたため李裕の即位の事実は否定された。通例として歴代皇帝には数えられていない。