堯
堯(尭、ぎょう)は中国神話に登場する君主。姓は伊祁(いき)、名は放勲(ほうくん)。陶、次いで唐に封建されたので陶唐氏ともいう。儒家により神聖視され、聖人と崇められた。
『史記』「五帝本紀」によれば、嚳の次子として生まれ、嚳の後を継いだ兄から禅譲を受けて帝となった。羲仲、羲叔、和仲らに命じ、天文を観察して暦を作らせたという。
治世中に大洪水が発生したので、この治水工事に誰を送るかを決める時に臣下は鯀を推薦した。堯は鯀を採用するのは良くないと思ったが、臣下が試しに使ってみれば良いと言ったので試して見たが、堯の予想通り失敗し、堯は鯀を殺した。治水工事は鯀の息子の禹が後に実行する事になる。
堯には丹朱と言う息子がいたがこれを後継者とはせずに、後継者を定めるために臣下から推薦者を挙げさせた。その中の舜を選んで人格を見る事にした。まず自分の二人の娘を舜に降嫁し人格者である事を見極めた後に、舜に人民を治めさせ、その手腕を見極めた所で舜を自身の後継者と定めた。その後、8年が経ってから崩御した。
また、『十八史略』によれば平陽に都したとし、質素な生活を送っていたとしている。
別の書物での堯の伝説として、羿(羿の字は羽の下に廾、姓は后)を挙げる。その頃の太陽は全部で十個あり、交代で地上を照らしていたのだが、ある時に十個が一度に地上を照らすようになったために地上は灼熱地獄となった。堯は弓の名人である羿に何とかして来いと命令すると、羿は九個の太陽を打ち落として帰ってきて、救われた民衆は堯を褒め称え帝に迎えたという。
後世には舜と共に聖天子として崇められ、堯舜と並び称される。
堯舜伝説は春秋時代末には既に形作られていたようで、起源となったような人物がいるのかは解らないが、中国人民日報は2000年に山西省で堯舜時代の遺跡が見つかったと発表している。
また1993年に郭店一号楚墓から発見された竹簡には堯や舜の事跡が記録されており、注目される。
堯舜伝説の異説
唐代の歴史家・劉知幾は、その著書・『史通』で、堯舜伝説を否定する以下の内容のことを書き残している。
- 『山海経』等の歴史・地理書には、「囚堯城」や「帝丹朱」という記述があり、このことから想定するに、堯は実力者の舜に強制的に退位させられ、「囚堯城」に幽閉された。それから間もなく、舜は丹朱(帝丹朱)を即位させたが、しばらくして、人々の支持はことごとく自分に集まっているとして、丹朱を廃して自身が即位したのではないか。第一、そんなに徳の高い大人物が次から次と出て来るものだろうか。
鼓腹撃壌
堯の御世も数十年、平和に治まっていた。堯はあまりの平和さに、天下が本当に治まっているか、自分が天子で民は満足しているか、かえって不安になった。そこで、目立たぬように変装して家を出て自分の耳目で確かめようとした。ふと気がつくと子供たちが、堯を賛美する歌を歌っていた。これを聴いた堯は、子供たちは大人に歌わされているのではないかと疑って真に受けず、立ち去った。ふと傍らに目をやると、老百姓が腹を叩き、地を踏み鳴らしながら(=鼓腹撃壌)楽しげに歌っている。
原文 | 書き下し文 | 現代語訳 |
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日出而作 |
日出でて作し、 |
日の出と共に働きに出て、 |
この歌を聴いて堯は世の中が平和に治まっていることを悟った、とされる(『十八史略』)。