禹
テンプレート:独自研究 テンプレート:出典の明記 テンプレート:基礎情報 中国君主
禹(う、紀元前2070年頃)は中国古代の伝説的な帝で、夏朝の創始者。名は、文命(ぶんめい)、大禹、夏禹、戎禹ともいい、姓は姒(じ)、夏王朝創始後、氏を夏后とした。
概要
父は鯀(こん)であり、鯀の父は五帝の一人である帝顓頊である。従って、禹は帝顓頊の孫にあたる。また、帝顓頊は同じく五帝の一人の黄帝の孫であるので、禹は黄帝の玄孫にあたる。
禹は人徳を持ち、人々に尊敬される人物であった。また、卓越した政治能力を持っていたが、それでいて自らを誇ることはなかったという。
禹の治水事業
帝堯の時代に、禹は治水事業に失敗した父の後を継ぎ、舜に推挙される形で、黄河の治水にあたった。『列子』楊朱第七によれば、このとき仕事に打ち込みすぎ、子供も育てず、家庭も顧みなかったので、身体が半身不随になり、手足はひび・あかぎれだらけになったという。しかしこの伝説は、どうも元来存在した「禹は偏枯なり」という描写を後世に合理的に解釈した結果うまれた物語のようである。『荘子』盗跖篇巻第二十九には「尭は不慈、舜は不孝、禹は偏枯」とあり『荀子』巻第三非相篇第五には「禹は跳び、湯は偏し」とある。白川静は『山海経』にみえる魚に「偏枯」という表現が使われていることから、禹は当初は魚の姿をした神格だったという仮説を立てた。実際「禹」という文字は本来蜥蜴や鰐、竜の姿を描いた象形文字であり、禹の起源は黄河に棲む水神だったといわれている。
そしてこの「偏枯」という特徴を真似たとされる歩行方法が禹歩であり、半身不随でよろめくように、または片脚で跳ぶように歩く身体技法のことを言う。禹歩は道教や中国の民間信仰の儀式において巫者が実践したやり方であり、これによって雨を降らすことができるとか岩を動かすことができるとか伝えられている。日本の呪術的な身体技法である反閇(へんばい)も『下学集』などの中世の辞書では禹歩と同一視されているが、必ずしも同じであったわけではないらしい。
夏王朝創始
禹は即位後しばらくの間、武器の生産を取り止め、田畑では収穫量に目を光らせ農民を苦しませず、宮殿の大増築は当面先送りし、関所や市場にかかる諸税を免除し、地方に都市を造り、煩雑な制度を廃止して行政を簡略化した。その結果、中国の内はもとより、外までも朝貢を求めてくるようになった。さらに禹は河を意図的に導くなどしてさまざまな河川を整備し、周辺の土地を耕して草木を育成し、中央と東西南北の違いを旗によって人々に示し、古のやり方も踏襲し全国を分けて九州を置いた。禹は倹約政策を取り、自ら率先して行動した。
竹書紀年によれば、45年間帝であったという。
禹が登場する作品
- 『童貞』(酒見賢一)
「禹」の字源
「禹」の字は、古代文字の「九」と「虫」とを合わせた文字である。「九」は、身を折り曲げた竜の象形。「虫」は、もともと蛇や竜などの爬虫類の意味で、雄の竜の象形。即ち、「九」と「虫」とを合わせた「禹」は、雌雄の竜を合わせた文字で、洪水と治水の神話の神と伝えられる「伏羲と女媧」を意味する。[1]
日本に遺る「禹」の紋の法被
大きな「禹」の紋が背に縫い付けられた法被が、慶長宗論、慶長法難で知られる法華宗不受不施派の僧・日経の故郷(現在の茂原市)に遺っている。その法被を着る祭には、黒戸の獅子舞がある。