竹簡
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竹簡(ちくかん)は、東洋において紙の発明・普及以前に書写の材料として使われた、竹で出来た札(簡)。木で作られたものを木簡という。ごく特殊な例として、封禅の為に玉で作成した「玉簡」も用いられた。公式文書では通常長さは一尺。紙普及後も、紙の代用として、あるいは荷札などの標識として長く用いられた。
簡をバラバラにならないよう紐で纏め、編むことを「書を編む、編集」といい、編まれた簡を「一編の書」といい、編まれた書を巻いたものを「一巻の書」という。また簡を紐で束ねたものを「一冊」とする。冊(册)は板(簡)を紐で束ねた象形文字である。ちなみに板を束ねた(並べた)構造物を「柵」という。
竹簡が利用されたのは古代のことではあるが、故事・成語などの中では書写素材としての竹簡は健在である。孔子が本を繰り返し読んで、綴じた革ひもが3回切れた故事から、本を熟読する事を「韋編三絶」というが、これは簡を編んだ紐が切れたのであって、簡を綴じた革ひもが切れたわけではない。歴史に名を留めることを「名を竹帛に垂れる」というが、名が竹簡や絹に記され、残ることを表現した物である。小役人を刀筆の吏、というがこの「刀」は簡を作ったり、削って文字を訂正する為の小刀である。
紙の普及に伴い、中国では東晋の桓玄の命によって公の場から竹簡が排除されたと言われている。だが、代わって竹で作られた紙である竹紙が作られて現在も一部分野で用いられている。
発掘・発見された竹簡とその価値
木簡に記載された文字は歴史的な価値だけでなく、書家に取って古代書体を見るための貴重な資料となっている。
- 汲冢竹書 - 西晋の咸寧5年(279年)、また太康2年(281年)、魏襄王の墓を盗掘した際に出土した竹簡。その中に、『竹書紀年』・『穆天子伝』等が含まれる。
- 曾侯乙墓楚簡
- 信陽楚簡
- 新蔡葛陵楚簡
- 長沙五里牌楚簡 - 1951年、長沙市五里牌の406号墓から出土した38枚の楚竹簡。
- 仰天湖楚墓竹簡 - 1953年、湖南省長沙市郊の仰天湖25号墓から出土した42枚の竹簡。
- 楊家湾楚墓竹簡 - 1954年、湖南省長沙市郊の楊家湾6号墓から出土した72枚の竹簡。
- 江陵望山楚簡
- 九店楚簡
- 銀雀山漢簡 - 1972年、山東省臨沂県の銀雀山1号墓から出土した竹簡。総数は約5000枚。その中に、『竹簡孫子』が含まれる。
- 睡虎地秦墓竹簡 - 1975年、湖北省雲夢の睡虎地に在る秦墓より、約1000枚の竹簡が出土した。法律関係の竹簡で、墓主の棺中に遺骸と一緒に収められていた。そこから、解明されていなかった秦律の内容が明らかになった。
- 江陵張家山漢墓竹簡 - 1983年から88年に掛けて、湖北省江陵県の張家山の漢墓群で出土した約700枚の竹簡。そこには、漢の『二年律令』・『奏讞書』・『算数書』等が含まれていた。
- 包山楚簡 - 1986年から1987年に掛けて、湖北省荊門市十里鋪鎮の包山2号墓で出土した448枚の竹簡。その中の278枚は字がある。
- 龍崗秦簡 - 1989年、湖北省雲夢の龍崗6号墓より、秦律を記した竹簡150枚が出土し、睡虎地秦簡の内容を補う役割を果たした。
- 郭店楚簡 - 1993年10月、湖北省荊門市四方郷の郭店村の郭店1号墓から出土した804枚の楚竹簡。その中の730枚に字がある。
- 上海博物館蔵戦国楚竹書
- 走馬楼呉簡 - 1996年、長沙市の走馬楼の古井戸から出土した簡牘。木簡が2000枚、竹簡は10万片以上に及ぶ。
- 龍山里耶秦漢古城秦竹簡 - 2002年、湖南省龍山県里耶鎮の古城の古井戸から発掘された、20000枚に及ぶ秦代の竹簡。
- 周家台秦簡
- 放馬灘秦簡
- 虎渓山漢簡
- 水泉子漢簡
- 馬王堆漢簡
- 敦煌漢簡
- 武威漢簡
- 額済納漢簡
- 岳麓書院蔵秦簡
- 清華大学蔵戦国竹簡
参考文献
- 胡平生、李天虹『長江流域出土簡牘与研究』湖北教育出版社、2004年、ISBN 7-5351-3970-1/G・3272
- 冨谷至『木簡・竹簡の語る中国古代 書記の文化史』岩波書店(世界歴史選書)、2003年、ISBN 4-00-026846-5