マニ教
マニ教( -きょう、 摩尼教、テンプレート:Lang-en-short)は、サーサーン朝ペルシャのマニ(216年 - 276年または277年)を開祖とする二元論的な宗教である[3]。
ユダヤ教・ゾロアスター教・キリスト教・グノーシス主義[注釈 1]などの流れを汲んでおり、経典宗教の特徴をもつ。かつては北アフリカ・イベリア半島から中国にかけてユーラシア大陸で広く信仰された世界宗教であった。マニ教は、過去に興隆したものの現在ではほとんど信者のいない、消滅した宗教と見なされてきたが、今日でも、中華人民共和国の福建省においてマニ教寺院の現存が確かめられている。
目次
教義
マニ教の教義は、ヘレニズム世界において流行した神秘主義的哲学として知られるグノーシス主義、パレスティナを発祥の地とするユダヤ教およびキリスト教、イランに生まれたゾロアスター教、また、ローマ帝国で隆盛した太陽崇拝のミトラ教、伝統的なイラン土着の信仰、さらに東方の仏教・道教からも影響を受け、これらを摂取・融合している[3][4]。
マニ教では、ザラスシュトラが唱導したといわれる古代ペルシアの宗教(ゾロアスター教)を教義の母体として、ユダヤ教の預言者の系譜を継承し、ザラスシュトラ(ゾロアスター、ツァラトストラ)、釈迦、イエスはいずれも預言者の後継と解釈し、マニ自身も自らを天使から啓示を受けた預言者と位置づけ、「預言者の印璽」たることを主張している(後述)。また、パウロの福音主義から強い影響を受けて戒律主義をしりぞける一方で、グノーシス主義の影響から智慧(グノーシス)と認識を重視した。さらにはゾロアスター教の影響から、善悪二元論の立場をとった。同時に、享楽的なイランのオアシス文化とは一線を画し、禁欲主義的要素が濃厚な点ではゾロアスター教的というよりはむしろ仏教的である[4][5]。
グノーシス主義の特徴として、一神教的伝統における天地創造とギリシア的な二元論(霊魂と物質の対立)とを統合しようとしたことがあげられる[6]。ユダヤ教的な唯一絶対の創造神を設定した場合、それだけでは、善なる唯一神が存在していながら、その一方で人びとを不幸に陥れ、あるいは破壊する悪が絶えないのはどうしてかという解決不能な問題がもちあげる[6]。グノーシス主義は、この問題にさまざまな解答を試みたが、そのなかには、物質的な宇宙の創造は全能の神によるものではなく、サタン(悪)もしくは「神の不完全な代理人」が、神の意図を誤解しておこなったものであるというものがあった[6]。すなわち、善なるものは霊的なものに限られ、物質は悪に属するという考え方である[6]。この発想は、マニ教の教義に大きな影響をあたえた[注釈 2]。
二元論
ゾロアスター教の影響を受けたマニ教は、徹底した二元論的教義を有しており、宇宙は光と闇、善と悪、精神と物質のそれぞれ2つの原理の対立にもとづいており、光・善・精神と闇・悪・肉体の2項がそれぞれ明確に分けられていた始原の宇宙への回帰と、マニ教独自の救済とを教義の核心としている[3][7]。
この点について、善悪・生死の対立を根本とするゾロアスター教の二元論よりも、むしろギリシア哲学的な二元論の影響が濃いという見方も示されている[5]。マニ教においては物質や肉体に対する嫌悪感がひじょうに強く、禁欲的かつ現世否定的な要素がきわめて濃厚だからである[5]。
神話
マニ教の神話では、
- 原初の世界では、「光明の父」もしくは「偉大なる父(ズルワーン)」と呼ばれる存在が「光の王国」に所在し、「闇の王子(アフリマン)」と称される存在が「闇の王国」に存し、共存していた。「光の王国」は光、風、火、水、エーテルをその実体とし、また、「光明の父」は理性、心、知識、思考、理解とでも翻訳される5つの精神作用をもっており、それを手足とし、また住まいとしていた。しかし、「闇の王子」はそれを手に入れたいと考え、闇が光を侵したため、闇に囚われた光を回復する戦いが開始された[5]。「光明の父」は「光明の母」を呼び出した[5]。
- 「光明の母」によって最初の人「原人オフルミズド」が生み出された。原人は、光の5つの元素を武器として「闇の王国」へと向かい闇の勢力と戦うが、これに敗北して闇によって吸収されてしまう(「第一の創造」)。オフルミズドは闇の底より助けを求めた[5]。
- 「光明の父」は「光の友」ついで「偉大な建設者(バームヤズド)」「生ける霊(ミスラ、ミフルヤズド)」を呼び出す。偉大な建設者は「新しい天国」をつくり、「生ける霊」は闇に囚われていた横たわるオフルミズドを引き上げて「新しい天国」へ連れていったく(「第二の創造」)[5][注釈 3]。
- オフルミズドとともに闇に囚われた光の元素は闇に飲み込まれたままであったが、これは闇の勢力にとっては毒となるものであった。いっぽう「生ける霊」とその5人の息子たちは、闇に囚われた光の元素を救い出すため、闇の勢力とのあいだに大きな戦争を繰り広げた。そして、このとき倒された闇の悪魔たちの死体から現実の世界がつくられた[5]。悪魔から剝ぎ取られた皮によって十天がつくられ、骨は山となり、排泄物や身体は大地となった[5]。
- 「光明の父」は「第三の使者」を呼び出し、さらに「光の乙女」「輝くイエス」「偉大な心」「公正な正義」を呼び出す[8]。闇の執政官アルコーンには男女の別があるが、男のアルコーンに対しては「光の乙女」、女のアルコーンに対しては肢体輝く美しい青年の姿で顕現し、彼らが呑みこんだ光の元素を放出させようとする。男のアルコーンは情欲をもよおして射精し、精液の一部は海洋に落ちて巨大な海の怪獣となったが、海獣は光の戦士によって倒され、のこりは大地に落ちて植物となった[5][8]。女のアルコーンは地獄で流産し、大地に二本足のもの、四本足のもの、飛ぶもの、泳ぐもの、這うものという5種の動物を産みだした[8]。
- 闇の側では、虜にした光の元素を取り戻されないよう、手元に残された光を閉じ込めるため「物質」が「肉体」のかたちをとって、すべての男の悪魔を呑み込んで一つの大悪魔をつくり、女も同様に大女魔をつくった。大悪魔と大女魔は憧憬の対象である「第三の使者」を模して人祖アダムとエバ(イヴ)を創造した[8]。
とされる。
そのため、アダムは闇の創造物でありながら、大量の光の要素をもっており、その末裔たる人間は闇によって汚れているものの智慧によって内部の光を認識することができる、と説く。対してエバは、光の要素をもちがらも智慧をあたえられなかったので、アルコーンと交接してカインとアベルを産む。嫉妬にかられたアダムはエバと交わり、セトが生まれて人の営みが始まる。
このように、マニ教の神話にはキリスト教の原罪の思想やグノーシス主義の影響がみられる。そして、人間の肉体は闇に汚されていると考えた一方で、光は地上に飛び散ったために、植物は光を有しているとみなした。そのため、後述のように斎戒や菜食主義の実践を重視する。また、結婚ないし性交は子孫を宿すことであり、悪である肉体の創造につながるので忌避されるべき行為と考えられた。
このように、マニ教はグノーシス主義にもとづいた禁欲主義を主張しており、肉体を悪とみなす一方で、霊魂を善の住処とみなしていることに一つの特徴がある。
三際
『敦煌文献』をフランスにもたらしたことで知られる東洋学者のポール・ペリオは中国でマニ教断簡(現ビブリオテーク・ナショナル所蔵)を発見しているが、それによれば、宇宙は「三際」と称される3時期に区分される[7]。
初際(第1期)においては、まだ天地が存在しておらず、そこには明暗の違いがあるのみである。明の性質は智慧で、暗の性質は愚昧である。そこではまだ矛盾や対立は生じていない[7]。
中際(第2期)では、暗(闇)が明(光)を侵しはじめる。そして、明が訪れては暗に入り込んで両者は混合していく。人は、ここにおける大いなる苦しみのために、目に映ずる形体の世界から逃れようと希望する。そして人は、この世(「火宅」)を逃れるためには、真(光)と偽(闇)とを判別し、みずから救われるための機縁をつかまえなくてはいけない[7]。
後際(第3期)においては、ようやく教育と回心とを終える。これにより、真(光)と偽(闇)はそれぞれの来由の地である「根の国」に帰る。光は大いなる光に回帰するいっぽうで闇は闇のかたまりへと回帰していく[7]。
以上の内容は、シリア語による8世紀の叙述『テオドレ・バル・コーニー』の内容とも合致する[7]。
禁欲主義
上述のように、マニは悪からのがれることを説き、そのためには人間の繁殖までをも否定した[4]。ゾロアスター教の教義は、善神アフラ・マズダーと悪神アンラ・マンユの2神を対立させるが、この善悪2神はそれぞれ精神と物質との両面を含んでいる。しかし、マニ教では、光と闇の結合が宇宙を生んだと考えるので、宇宙の創成は究極的には悪の力の作用であるととらえ、やがて全宇宙は崩壊すると考える[4]。しかし、そのときはじめて光による救済が起こり、闇からの解放がなされると説くのである[4]。
マニ教のイエス観
テンプレート:See also マニ教では、ザラスシュトラ、イエス・キリスト、釈迦(ガウタマ・シッダールタ)はいずれも神の使いと見なされるが、イエスに関しては、肉体をもたない「真のキリスト」と、それとは対立する十字架にかけられた人の子イエス(ナザレのイエス)とを峻別する[4]。
「神の子」を否定するこのようなイエス観は、イスラームを創唱したムハンマドにもそのまま継承され、キリスト教に対するイスラームの理解に大きな影響をあたえた[4]。
マニ教にあっては、マニが自らに先立つ預言者として規定した人の子イエスもあれば、アダムに智慧をさずけた救世主としてのイエス、宇宙の終末にあらわれて正邪を裁いて輝くイエス、さらに、十字架にかけられて苦しむイエスが物質に囚われた「光の元素」の比喩として述べられている箇所も確認されており、マニ教におけるイエスはさまざまな像を結んでいる[8]。
諸教の混交
上述のようにマニ教は、寛容な諸教混交の立場を表明しており、その宗教形式(ユダヤ・キリスト教の継承、「預言者の印璽」、断食月)は、ローマ帝国やアジア各地への伝道により広範囲に広まった[9]。マニ教の教団は伝道先でキリスト教や仏教を名のることで巧みに教線を伸ばした[7]。
これについては、マニの生まれ育ったバビロニアにおけるヘレニズム的な環境も大きく影響している。ヘレニズム的な環境とは多様な民族・言語・慣習・文化が共存し、他者の思想信条や慣習には極力立ち入らないという寛容な環境であり、そうしたなかでは折衷主義は格別めずらしいことではなかった[6]。そして、古代オリエントの住民にあっては、自らのアイデンティティを保つため特定の宗教・伝統・文化に執着するという現代人的意識も稀薄であったと考えられる[6]。
教典
マニは世界宗教の教祖としては珍しく自ら経典を書き残したが、その多くは散逸している[3]。マニ自身は当時の中東で広く用いられていたアラム語の一方言で叙述をおこなったが、サーサーン朝第2代の王シャープール1世に捧げた『シャープーラカン』については、中世ペルシア語(パフラヴィー語)によるものが遺存している。『シャープーラカン』以外では、『大福音書』『生命の宝(いのちの書)』『プラグマテエイア』『秘儀の書』『巨人の書』『書簡』などの聖典が確認されるが、いずれも断片である[3][10]。これらのうち、『生命の宝』が『シャープーラカン』に次いで古いと推定されている[10]。マニの著作としては、ほかに『讃美歌と祈祷集』、マニ自身の手による『宇宙図およびその註釈』(後述)があり、また、マニの没後に、その弟子たちによってまとめられたマニと弟子たちとの対話集『ケファライア(講話集)』があった[10]。
宇宙図
マニ教では、十層の天と八層の大地からなるという宇宙観を有しており、布教にあたっては経典のほか、これを図示した『宇宙図(アールダハング)およびその註釈』も使用していた。
『宇宙図』は従来散逸したと考えられていたが、2010年になって元代前後に描かれたとみられる『宇宙図』が日本で発見された[11]。これは、文献言語学の吉田豊(京都大学)らの調査によるもので、マニ教の宇宙図がほぼ完全な形で確認されたのは世界初のことであり、きわめて貴重な発見として国際的にも高い評価を受けた[11]。
教典のことば
マニが主として経典にアラム語を用いたのには、当時の中東世界の共通語として広く意思疎通に用いられていたからだと考えられている[10]。マニは自身の教義が広く万人を対象としていることを意識しており、それゆえ誰にでも理解できることばで経典を書き記したものと思われる[10]。また、彼は速やかに経典を各地の言語に翻訳させたが、その際、彼は自身の教義の厳密な訳出よりはむしろ各地に伝わる在来の信仰や用語を利用して自由に翻訳することを勧めた。場合によっては馴染みやすい信仰への翻案すら認め、このことは異民族や遠隔地の布教にあたって功を奏した[10]。
教団と祭祀
教団と戒律
上述のように、人間は一方においては物質でありながら、アダムとエバの子孫としては大量の光の本質を有するという矛盾した存在である[12]。マニは、そうしたなかにあって、人間は「真理の道」にしたがって智慧を得て現世の救済にあたらなければならない、そして自分自身における救済されるべき本質を理解して自らを救済しなければならないと説いた[12]。このような考えに立って、マニは生存中にみずから教団を組織した[3]。
マニ教の教団組織は仏教のそれにならったと考えられる[3]。マニは、12人の教師、72人の司教、360人の長老からなる後継者を、2群の信者に分け、それぞれ、守るべき戒律も異なるものとした[3][13]。
仏教における出家信者ないし僧侶に相当するのが義者(エレクトゥス electus, 「選ばれた者」)であり、聖職者として「真実」「非殺生・非暴力」「貞潔」「菜食」「清貧」の五戒を守り、厳しい修道に励むことを期待された[3][7][13]。肉食は心と言葉の清浄さを保つために禁止され、飲酒も禁じられた[12]。また、殺生に関しては、動物を殺すことばかりではなく、植物の根を抜くことも禁じられた[12]。そして、メロン、キュウリなどの透き通った野菜やブドウなどの果物は光の要素を多く含んでおり、聖職者はこれらを出来るだけ多く食べ、光の要素を開放しなければならないとされた[12]。最終的に、これらはマニ教で行われる唯一の秘蹟と定められた[2]。
俗人よりなる聴問者(聴聞者、アウディトゥス auditus )は、比較的緩やかな生活を許され、十戒を守ることを期待された[3][7]。十戒はユダヤ教の「十戒」(モーセの十戒)に似ており、俗人の場合はそれほど強く戒律を守ることは求められていなかった[12]。聴問者は結婚して子をもうけることが許され、生産活動に従事して聖職者たちをささえることが期待された[12]。聴問者たちも、いずれは「選ばれた者」になることが期待されていたものと考えられる[12]。
以上のように、マニ教の教団は、清浄で道徳的な生活を送り、また、そのことによって壮大な宇宙の戦いに参画しているという意識にささえられていた[12]。
儀式・祭祀
マニ教においては、白い衣服を身につけ、五感を抑制することが求められており、通常は一日一食の菜食主義で週に1度は断食をおこなった[12]。洗礼の儀式もおこなわれたが、そこでは水は用いられなかった[12]。また、1日に4回から7回の祈祷をささげ、信者相互では告白の儀式がなされた[12]。
後述するマニの殉教はテンプレート:仮リンクの祭祀となったが、これはマニ教最大の祝祭で、ベーマ(ベマ)とはギリシア語で「座」を意味している[13]。ベーマの祭礼においては、誰も座ることのできない椅子が用意される[13]。この祭礼は年末(春分のころ)に執り行われ、祭りの最中にマニが「座」(椅子)の上に降臨すると信じられていた[12]。
ベーマの祝祭に先立つ1ヶ月間には断食が要求され、これがイスラームにおけるラマダーン月の先駆となったと考えられている[3]。
歴史
新宗教の成立
預言者マニ(216年-277年頃)の両親はユダヤ教新興教団に属しており、バビロニアのユーフラテス川沿いのマルディーヌー村に生まれた[2]。マニも幼少の頃からユダヤ教の影響を受けた。父はパルティア貴族のパテーグ、母はパルティア王族カムサラガーン家出身の母マルヤムであった[2]。マニが4歳のとき、パテーグは酒、肉、女を絶てという声を聴き、家族ともどもグノーシス主義の一派になるユダヤ教洗礼派(エルカサイ派)の教団に入ったため、マニはゾロアスター教徒的伝統をもつ父母のもと、ユダヤ教的・グノーシス主義的教養の横溢する環境で成長した[10]。マニが12歳のとき、自らの使命を明らかにする神の「啓示」に初めて接したといわれる[14]。その後、ゾロアスター教やキリスト教・グノーシス主義の影響を受けて、ユダヤ教から独立した宗教を形成していった。西暦240年頃、マニが24歳の時に再び聖天使パラクレートス(アル・タウム)からの啓示をうけ、開教したとされる[14]。
マニは自分の家族を改宗させ、ペルシャ・バビロニア・インド・中央アジア地方で伝道の旅を続けたものの、当初は信者を獲得するに至らなかったともいわれている。しかし、仏教やヒンドゥー教に関する知識は、インド伝道の際に得られたものと考えられる[10]。マニはそこで仏教徒であったバルチスタンのトゥラーン王を改宗させたともいわれる[10]。こののちマニはバビロニアに戻り、サーサーン朝のシャープール1世と弟ペーローズを改宗させ、ペーローズによってシャープールの宮廷に招かれ、そこで重用された[10][14][注釈 4]。マニはまた、シャープールのもう一人の弟メセネ(メソポタミア南部)地方のミフルシャーをも改宗させた[10]。これらにより、マニはサーサーン朝ペルシア王国の全域とその周囲に伝道して信者を増やし、教会を組織し、弟子の教育に努め、また、244年には当時サーサーン朝と対峙していたローマ帝国領内にも宣教師を送った[9][注釈 5]。この布教は大成功を収め、以後、マニ教はエジプトのアレクサンドリアはじめ北アフリカ各地にも伝播した[10]。
マニは、世界宗教の教祖としては珍しく、自ら経典を書き残したが、その多くは散逸してしまった。シャープール1世に捧げた宗教書『シャープーラカン』では、王とマニ自身とのあいだの宗教上の相互理解について記述されている[9]。マニはまた、芸術の才能にも恵まれ、彩色画集の教典をもみずから著しており、つねにその画集をたずさえて布教したといわれる[13]。そのため、マニは青年時代、絵師としての訓練を受けたという伝承も生まれている[13]。
弾圧とマニの死
272年にシャープール1世が死去し、その子であるホルミズド1世およびバハラーム1世の時代になると、マニとその教えは、ゾロアスター教の僧侶(マグ)たちからの憎悪にさらされることになった。バハラーム1世のもとでサーサーン朝がゾロアスター教以外のユダヤ教やキリスト教を迫害すると、マニ教もまた迫害にさらされるようになった[9]。276年、大マグのカルティール(キルディール)に陥れられたマニは、王命により召喚を受けたため迫害を辞めるよう求めたが、かえって投獄され、死刑に処せられた[7]。
マニの最期については、磔刑に処せられたという説と、生きたまま皮をはがれ、その後、首を斬られたという説がある[9]。後世のマニ教徒たちが残した文書などによると、皮をはがされたマニが生きているという噂が残り、アラビア語の逸話集の中にはワラが詰め込まれたマニの皮が、しばしばサーサーン朝統治下の市街の城門に吊るされていた、というものがある。その一方で、近年あらわれたパルティア語の文献資料からは牢にあっても自由に信者と面会するなどの状況が知られるので、比較的穏やかな状況下で獄死したのではないかとも推測されている[13][10]。なお、マニの死にかかわったカルティールは、王と同じように各地に碑文を残しており、その絶大な権力がうかがい知れる。
広がりと後世への影響
マニの死後、バビロニアに避難した弟子のシシン(スィスィン)は教団の指揮をとり、以後、マニ教団はシリアやパレスティナ、エジプト、ローマ帝国などへの伝道に力を入れ、多くの信者を獲得した[注釈 6]。上述のように、マニ教の典礼ではマニの受難を「ベーマ」(ベマ)と呼び、祭礼の日となっている[9]。
マニ教は、その成立においてパルティアからサーサーン朝にかけてのギリシア・ローマ、イラン、およびインドの諸文化の接触と交流の一産物とみなすことができる[4]。そして、その教えは、西はメソポタミアやシリア、パレスティナ、小アジア半島、エジプト、北アフリカ、さらにイベリア半島、イタリア半島にまで、東は中央アジア、インド、中国の各地に広がった[4]。マニ教は4世紀には西方で隆盛したが、6世紀以降は東方へも広がって、漢字では「摩尼教」と書写された[7]。唐の時代には漢字による経典もあらわれ、武則天(則天武后)は官寺として「大雲寺」という摩尼教寺院を建立している。唐においてマニ教はウイグル(回鶻)との関係を良好に保ちたいという観点からも保護された[7]。
西方においてマニの教えに関心を寄せた人物としては、一時マニ教徒であった4世紀から5世紀にかけてのキリスト者で教父哲学の祖といわれるアウグスティヌスがいる[9]。
上でもふれたように、宗祖マニは「教えの神髄」の福音伝道を重視し、みずから著述した教典を各国語に翻訳させ、入信者が理解しやすいように、ゾロアスター教の優勢な地域への伝道には、ゾロアスター教の神々や神話を用い、西方伝道においてはイエス・キリストの福音を前面にすえて、ユダヤ教やキリスト教における神話や教義に仮託して自らの教義を説くことを許容し、また、東方への布教には仏陀の悟りを前面にすえて宣教するなど、各地ごとに布教目的で柔軟に用語や教義を変相させていったため、普遍的な世界宗教へと発展した反面、教義の一貫性は必ずしも保持されなかった[13]。マニ教は、近世にいたるまで命脈を保ったものの、各地で既存宗教の異端として迫害されたり、他の宗教に吸収されるなどして、マニ教としての独自性を保てなかったといえる。
西方宣教とその影響
イランや中東においては、ゾロアスター教の国教化などにともなう迫害や攻撃もあったが、信者はペルシア国外にも拡大・増加し、特に西方では、ローマがキリスト教を国教とする以前にローマ帝国全域にマニ教信者が増加し、原始キリスト教と並ぶ大勢力となった[13]。ローマ皇帝のディオクレティアヌスは、領内におけるマニ教の広がりに不安を覚え、297年にペルシア人からのスパイであるとしてマニ教徒迫害の勅令を発布している[9]。中世初期の教父として知られることとなるアウグスティヌスもカルタゴ遊学の一時期マニ教を信奉し、聴問者となったが、その後回心してキリスト教徒となった人物である[13]。
また、中世ヨーロッパにおける代表的な異端として知られる、現世否定的な善悪二元論にたつカタリ派(アルビジョワ派)について、マニ教の影響が指摘される[注釈 7]。
中東への影響
マニ教は、7世紀代のイスラームの成立にも影響を与えた。マニは、アラム語のマニ教教典『大福音書』のなかで、 テンプレート:Quotation と述べているが[15]、イスラームの預言者ムハンマドもまた「預言者の印璽」を自ら名乗った一人であった[13]。
マニ教の一般信者(聴問者)の5つの義務は「戒律」「祈祷」「布施」「断食」「懺悔」であり、ムスリムの義務とされる「五行」(五柱)に似ていることが指摘されている[13][注釈 8]。
イスラーム教徒のペルシア征服によってサーサーン朝が滅亡したのち、イスラームの諸権力もまたマニ教を異端的宗教として迫害したため、マニ教はその本拠をしだいに東方へと移していった[13]。
東方宣教とその影響
マニ教は西アジアからユーラシア大陸の東西に拡大し、トルコ族の国ウイグルでも多くの信者を獲得した。
唐においては694年に伝来して「摩尼教」ないし「末尼教」と音写され、また教義からは「明教」「二宗教」との訳語もあった。「白衣白冠の徒」といわれた東方のマニ教(明教)は、景教(ネストリウス派キリスト教)・祆教(ゾロアスター教)とともに、三夷教ないし三夷寺と呼ばれて西方起源の諸宗教のなかで代表的なもののひとつと見なされた[16]。則天武后は官寺として首都長安に大雲寺を建立した[7][16]。これには、ウイグルとの関係を良好に保つ意図があったともいわれている[7]。768年、大雲光明寺が建てられ、こののち8世紀後葉から9世紀初頭にかけて長江流域の大都市や洛陽、太原などの都邑にもマニ教寺院が建てられた[16]。
しかし、「会昌の廃仏」に先だつ843年に唐の武宗によって禁教されるに至った[16]。「会昌の廃仏」は845年に始まり、仏教のみならず三夷教の宗教も禁止され、多くの聖職者・宣教者は還俗させられたが、そうしたなかにあってマニ教僧は多くの殉教者を出したことが、当時、唐にあった日本の円仁の『入唐求法巡礼行記』に記されている[16]。
ウイグルにおいては、8世紀後半の3代牟羽可汗の統治時代にマニ教が国教とされるほどの隆盛と国家的保護を得た。やがて反マニ教勢力の巻き返しによって、弾圧を受けたが、8世紀末から9世紀初頭にかけての7代懐信可汗によって再び国教化された。イラン・アフガニスタンのイスラーム化ののち、ウイグルでもイスラームへの改宗が進み、14世紀後半のティムールによるティムール朝建国以降は中央アジアのイスラーム化はさらに進行していった。
三武一宗の法難(会昌の廃仏)の弾圧ののち、中国本土では、マニ教は五代十国時代から宋において仏教や道教の一派として流布し続けた。歴史小説『水滸伝』の舞台となった北宋の「方臘の乱」の首謀者方臘はマニ教徒であったともいわれている[注釈 9]。マニ教は、弾圧のなかで呪術的要素を強めていったために、取り締まりに手を焼く権力者からは「魔教」とまで称された。官憲によるマニ教取り締まりはしばしば江南地方や四川でなされており、そのなかでマニ教信者は「喫菜事魔の輩」(「菜食で魔に仕える輩」の意)とも呼ばれている。
宗教に寛容な元朝においては、明教すなわちマニ教が復興し、福建省の泉州と浙江省の温州を中心に信者を広げていった。明教と弥勒信仰が習合した白蓮教は、元末に紅巾の乱を起こし、その指導者の一人であった朱元璋の建てた明の国号は「明教」に由来したものだといわれている。しかし明王朝による中国支配が安定期に入ると、マニ教は危険視されて厳しく弾圧された。15世紀においてすでに教勢の衰退著しく、ほとんど消滅したとされてきたが、秘密結社を通じて19世紀末まで受け継がれた。1900年の北清事変(義和団の乱)の契機となった排外主義的な拳闘集団である義和団なども、そうした秘密結社のひとつといわれる。
なお、藤原道長『御堂関白記』など、日本の古代・中世における日記の具注暦に日曜日を「密」と記すのは、マニ教信者が日曜日を聖なる日として断食日にあてた暦法が日本にまで至ったことの証左であるといわれる[16]。
- 史跡
福建省の晋江市には元代(1339年)に建立された草庵摩尼教寺が現存し、中国政府により国家重要文化財(「全国重点文物」)に指定されている。同寺では、「家内安全」「商売繁盛」の札が売られ、旧暦4月16日には摩尼光仏(マニ)の聖誕祭が行われている。マニ教本来の信仰から逸脱した面もあるが、マニへの供え物に肉を用意しない、原人が変形した「明使」の存在など、かろうじてマニ教の原形を留めているといわれる。
研究史
20世紀にいたるまで、マニおよびマニ教に関する信頼できる情報は少なかった。中世においては、伝承のかたちで、あるいはテンプレート:仮リンクないしアブー・ライハーン・アル・ビールーニーによる"Fihrist" の説明にあるような、マニのテンプレート:仮リンクが知られているにすぎなかった。そのほかには、反マニ教の立場に立つ4世紀のテンプレート:仮リンクの"Acta Archelai" にみられるマニ批判がある程度であった。
20世紀に入り、1904年から1905年にかけて中国北西部のトルファン(現新疆ウイグル自治区)でアルベルト・グリュンヴェーデル率いるドイツの探検隊によりマニ教寺院及び写本や壁画などの関連資料が多数発見され、研究が進んだ。トルファンではイラン方言により編集されたマニ教文献が発見され、高昌ではフレスコ画によるマニの肖像壁画ものこっている[9]。1906年以降は上述のポール・ペリオがトルキスタンを訪れ、マニ教文献含む数多くの文献をフランスにもたらした。
1931年にはエジプトのリコポリスでコプト語で書かれたマニ教の蔵書がパピルスの状態で見つかった[9]。この蔵書のなかには、とくにマニ教理解に不可欠な『ケファライア』の一部が含まれている[9]。これはマニの生涯について説明し、その教義の要約を記したものである[9]。
1969年、上エジプトにおいて、西暦400年頃に属する羊皮紙に古代ギリシア語で書かれた写本が発見された。それは現在、ドイツのケルン大学(ノルトライン=ヴェストファーレン州ケルン市)に保管されているため「テンプレート:仮リンク」と呼ばれている。この写本は、マニの経歴およびその思想の発展とをともに叙述する聖人伝となっており、マニの宗教の教義に関する情報と彼自身の書いた著作の断片とを含んでいる。
現在では、各国の研究者が国際マニ教学会を結成し、共同研究や情報交換がおこなわれている。 テンプレート:Wide image
脚注
注釈
参照
参考文献
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関連項目
外部リンク
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