満州

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テンプレート:Chinese 満州満洲、まんしゅう、拼音:Mǎnzhōu)は、現在中華人民共和国において「中国東北部」と呼ばれる地域およびロシア連邦において「極東」と呼ばれる地域の一部を含めた北東アジアの特定地域を指す地域名。渤海金朝後金清朝を建国した満洲民族や、夫余高句麗を建国した濊貊族、鮮卑烏桓契丹などモンゴル民族の故地である。

「満洲」という言葉は、もともとは12世紀にはおもに民族名を指していた。しかし19世紀の日本では満洲、満洲国とは地域をさし、民族は「満洲族」と呼ぶようになった。

満洲の範囲

日本で満洲と呼ばれる地域は、満洲国の建てられた地域全体を意識することが多く、おおよそ、中華人民共和国の「東北部」と呼ばれる、現在の遼寧省吉林省黒竜江省の3省と、内モンゴル自治区の東部を範囲とする。

この地域は、北と東はアムール川(黒竜江)、ウスリー川を隔ててロシアの東シベリア地方に接し、南は鴨緑江を隔てて朝鮮半島と接し、西は大興安嶺山脈を隔ててモンゴル高原内モンゴル自治区)と接している。南西では万里の長城の東端にあたる山海関が、華北との間を隔てている。

広義の満洲としては、モンゴル民族の居住地域であるが満洲国に属していた内モンゴル自治区の東部、「東四盟」と呼ばれる赤峰市(旧ジョーウダ)、通遼市(旧ジェリム盟)、ホロンバイル市(旧ホロンバイル盟)、興安盟が含まれることが多い。

また、外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南、黒竜江以北、ウスリー川以東のロシア領の地域を外満洲と呼び、場合によってはこの地域をも含むことがある。外満洲は満洲と同様に、ネルチンスク条約1689年)で清朝領とされたが、その後のアイグン条約1858年),北京条約1860年)によりロシアに割譲された。外満洲を含めた面積は、約1,550,000km²に及ぶ。

満洲の呼称

テンプレート:満州の歴史 満州の本来の表記は滿洲である(満州という表記が行われるのは、日本の第二次世界大戦後の漢字制限により「洲」の字が当用漢字表から外れたため。なお、「洲」と「州」はいわゆる旧字・新字の関係ではなく、同音類字である)。また満洲は本来、地名ではなく民族名である。したがって、満州の「州」は世界各国に見られる地域行政区分としての「」ではないことに注意を要する。漢字表記では五行説の「水」徳を意識して、民族名および王朝名である「満」「洲」「清」いずれもさんずいの字が選ばれた。

民族名の「マンジュ」(Manchu、満洲民族)は、のちに清朝の太祖と諡されるヌルハチの支配領域をマンジュ・グルン(満洲国)と呼び、清の創始者であるホンタイジが、1634年に元の玉璽を入手した際にそれまでの呼称ジュシェン族(女真,女直)が「属民」を意味したため、これを禁止し、この呼称に統一したという。

由来については諸説あり、一般には民族信仰であった仏教のマンジュシリ(文殊菩薩。曼殊、満殊などとも書く)によるといわれることが多い。しかし近年この通説に対し、ヌルハチの勢力圏がすでに「マンジュ・グルン」と呼称されていたことや、史料ではどれも「マンジュ」と「マンジュシリ」を明確に区別していること等の理由をもって、チベット仏教由来説を否定する説も提出されている。

「満洲」が地名の意味を持ったきっかけは、この地域が清の支配民族の満洲民族の居住地域であったことから、西欧語で「マンチュリア」(Manchuria)と呼ばれるようになったからである。これに対応して漢字文化圏でもこの地域を「満洲」と呼ぶようになった。なお、「満洲」の語を地名としても使用するようになったのは、江戸期の日本であるという説もある。その説では高橋景保の「日本辺疆略図」(1809年)、「新訂万国全図」(1810年)が初出とされる。この地図ではネルチンスク条約で定められた国境線の清朝側を「満洲」と表記している。それがヨーロッパに伝わったという。

現在の中華人民共和国では地域名称として「満洲」を使うことは避けられ、かわりに「中国東北部」が使われる。これは中国における歴史に対する公式見解で、満洲国の存在を認めず、また満洲の地を太古から不可分の中国人固有の地としているためである。今日の中国では、20世紀の満洲国を清朝の前身である満洲を詐称しているとして、「偽満洲国」の呼び方以外は認めていない。ただし現在でも、満洲里のように一部の地域名で使われている。民族名としては清朝以来変わらず「満族」と呼称している。また、かつては中国共産党は、中国共産党満洲省委員会をハルビンに設置するなど、「偽」という言葉を用いないで満洲という言葉を使用した例はあった。

満洲語

満洲語(まんしゅうご)は類型論的に膠着語に分類される満洲族が話す言語。清朝では公用語。満洲語の話者は中国政府の同化政策により満洲族の間でも現在では極めて少なくなり、消滅の危機に瀕する言語の一つである。詳しくは満洲語を参照。

満洲をめぐる略史

歴史的にこの地域は主にツングース系諸民族や濊貊族などの北方諸民族の興亡の場であった。北方民族のみならず、西部からはモンゴル系、東部からは朝鮮系の民族が勢力を張る事もあり、南部からは記録上代に周に属するが勢力を伸ばし、後に遼東郡、遼西郡などが置かれるなど漢民族の支配が及び、民族の混在地であった。

周王朝の時代から粛慎が居住しており、時代と共に挹婁勿吉靺鞨へと古代中国側から見た名称は変遷した。

土着とされる民族の立てた国家としては濊貊族が建てた夫余(前1世紀から5世紀)、夫余の王族が建てたとされる高句麗(前1世紀から7世紀)、靺鞨族の建てた渤海(698年から926年)などが存在する。 モンゴル系とされる鮮卑前燕後燕などや契丹(916年から1125年)なども存在した。 チベット系の族の立てた前秦(351年から394)年の支配が及んだ事もある。

12世紀には靺鞨の子孫とされる女真族を建国、遼と北宋を滅ぼして中国北半分をも支配するに至る。

金はモンゴル民族のモンゴル帝国)に滅ぼされ、この地は元の支配下に入る。次いで元は漢民族の明に倒され、一時は明の支配下となり、代に山海関と名付けられることになった長城最東端のよりも外の土地という意味で「関外の地」、あるいは、関よりも東の土地という意味で「関東」とも呼ばれた。後に女真族への冊封による間接統治に改められた。

満洲族(17世紀に女真族から名称変更)が後金を起こして同地を統一支配した後、国号を改めた清朝が明に代わり、満洲地域及び中国内地全体が満洲民族の支配下に入る。清朝は建国の故地で後金時代の皇居(瀋陽故宮)がある満洲地域を特別扱いし、奉天府を置いて治めた。後には奉天府を改めて東三省総督を置き、東省または東三省奉天吉林及び黒竜江の3省)と呼んだ。 当初は「遼東招民開墾例」(1644年)をはじめとする勧民招墾の諸法令を公布し,漢族の満洲植民を奨励していたが、1740年以降は封禁政策を取り漢民族が移入することを禁じた。 近代の17世紀になると、ロシア帝国の南下の動きが激しくなり、ロシアと清朝との間でこの地域をめぐる紛争が数度起きた。ヴァシーリー・ポヤルコフエロフェイ・ハバロフなど、ロシア人の探検隊が黒竜江流域に南下・侵入し、村落を焼いたり捕虜をとったり毛皮を取り立てたりして植民地化の動きを見せたため、これを追い出し国境を定める必要が生じた。1689年にネルチンスク条約が締結され、国際的にも満州全域が正式に清朝の国土と定められた。その後、清朝はロシアの脅威に対抗するため、兵士を駐屯させる。しかし王朝末期に弱体化した清朝はロシアの進出を抑えきれず、1858年5月28日のアイグン条約、1860年11月14日の北京条約の2つの不平等条約によって、満洲地域の黒竜江以北及びウスリー川以東のいわゆる外満洲地域はロシアに割譲されることとなった。そして1860年には政策を転換して、漢族の移住を認め、農地開発を進めて、次第に荒野を農地に変化させた。この民族移動のことを「闖関東」という。1900年にはロシア軍によってブラゴヴェシチェンスク清国人数千人が虐殺されるアムール川事件が起きる。

1904年から勃発した日露戦争は日本の勝利に終わり、上記の条約によって確保されていたロマノフ王朝の満州における鉄道・鉱山開発を始めとする権益は日本へ引き渡された。弱体化した清朝は1911年辛亥革命で倒された。翌年成立した中華民国は清朝領土の継承を宣言するが、実態は各地域の軍閥による群雄割拠の状態であり、満洲は張作霖軍閥の支配下となる。清朝崩壊後、満洲へは社会不安から流民となった漢民族の移入が急増する。

1920年には赤軍によってニコラエフスク破壊と住民虐殺が行われ6,000人余りが処刑され、日本人も700人余りが殺戮された。

1929年ソビエト連邦は満洲に侵攻し(中東路事件)、中華民国軍を破り中東鉄道の権益を確保した。1931年に日本(大日本帝国)は満洲事変を契機に満洲全域を占領して、翌1932年に満洲国を建国した。満洲国は清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀を元首(執政、のち皇帝)とした。満洲国は日本の傀儡政権といわれ、この時期の満洲は事実上日本の支配下となった。日本は南満洲鉄道満洲重工業開発を通じて多額の産業投資を行い、農地や荒野に工場を建設した。結果、満洲はこの時期に急速に近代化が進んだ。一方では満蒙開拓移民が入植する農地を確保するため、既存の農地から地元農民を移住させる等、元々住んでいた住民の反日感情を煽るような政策も実施した。

1945年8月、第二次世界大戦終結直前にソ連軍が満洲に侵攻、満洲国は崩壊した。1946年、ソ連は今に至るまで外満洲を占拠している。その後中国共産党が国共内戦に勝利し、満洲は中華人民共和国の領土となった。日本が満洲に残した産業インフラは、経済基盤が脆弱であった建国初期の中華人民共和国を大きく支える力となった。

1990年代以降の改革開放政策により、上海深圳市など華東華南経済特区の経済成長が著しくなる一方、満洲は古いインフラ設備により、逆に経済的には立ち遅れた地域となっていった。現在中国政府はインフラ設備の更新や古い工場の立替、外資の導入、遼東半島を含む環渤海経済圏を設定するなどして積極的に経済振興を行っており、大都市では経済の活性化がみられる。

満洲に存在した日本の国策会社

関連項目

参考文献

  • 貴志俊彦・松重充浩・松村史紀編『二〇世紀満洲歴史事典』吉川弘文館、2012年12月、総840頁
  • 『世界各国史』山川出版社
  • 『民族の世界史』山川出版社
  • 『満洲の誕生』丸善ライブラリー