ソ連崩壊
ソ連崩壊(ソれんほうかい、テンプレート:Lang-ru-short)とは、1991年12月25日にソビエト連邦(ソ連)大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、これを受けて各連邦構成共和国が主権国家として独立したことに伴い、ソビエト連邦が解体された出来事である。
目次
概要
1917年11月7日のロシア革命(十月革命)からロシア内戦を経て1922年12月30日に成立したソビエト連邦は、第二次世界大戦後にはアメリカ合衆国に伍する超大国として君臨したが、69年後の1991年12月25日に崩壊した。同日、ソビエト連邦に比して規模が小さいロシア連邦が成立した。
- ソビエト連邦がCISに取って代わられ、その国家格を失った。
- ロシアの歴史を見ても、ソビエト連邦共産党による寡頭政治国家であるソビエト連邦が崩壊し、大統領制国家であるロシア連邦が成立した。
- 冷戦時代に東側諸国の総本山として君臨したソビエト連邦が崩壊したことにより、アメリカ合衆国が名実共に唯一の超大国となった。またそれに伴い、アメリカ合衆国による単独覇権の時代が本格的に始まった。
- 核兵器という究極兵器を持つ国家が、軍事的に衰弱しないまま崩壊した。それまで世界最強の軍事国家が崩壊するなど考えられなかった出来事であり、これは国際政治学でのパワーポリティクス(現実主義)への批判を招いた。(ハード・パワーからソフト・パワーへの移行)
ソビエト連邦の崩壊は、これら4つの意味を持つ大事件である。
前史
ロシア革命後のロシア内戦や諸外国の干渉戦争を勝ち抜いて1922年12月30日に正式発足したソビエト連邦は、1920年代後半からヨシフ・スターリンによる独裁体制が成立し、急速な工業化が進んだ。第二次世界大戦では独ソ戦(大祖国戦争)に勝利してバルト三国などの併合や東ヨーロッパ諸国の衛星国化を実現させ、東側陣営の中心としてアメリカと世界を二分する超大国となった。しかし、大粛清に象徴される一般国民の大量処刑・追放、領土併合や集団強制移住による強圧的な民族政策など、後にスターリニズムと呼ばれる強権統治に対して、ソ連国民の不満や恐怖は根深く浸透していた。
1953年にソビエト連邦共産党の党第一書記に就任し、1956年2月、共産党第20回党大会にてスターリン批判を行ったニキータ・フルシチョフは、社会主義の範囲での自由化・民主化を進めようとした。しかし党官僚の抵抗に遭い、1964年に失脚。後を継いだ党官僚出身のレオニード・ブレジネフの時代は、退歩がない代わりに進歩もない停滞の時代と呼ばれ、党官僚の特権化や物資不足が進み、対米関係でも1970年代前半の緊張緩和が1979年のアフガニスタン軍事介入により終焉し、新冷戦へと逆行した。さらにこの時代、コンピュータに象徴される西側諸国での技術革新の進展にソ連は対抗できず、東西間の経済格差は大きく広がった。
ペレストロイカと東欧民主化革命
1982年にブレジネフが死去した後のソ連は、ユーリ・アンドロポフ、コンスタンティン・チェルネンコと高齢で病身の指導者による短命政権が続く。アンドロポフは綱紀粛正によるソ連社会の立て直しを構想していたが着手できず、ソ連の混迷は更に深まった。
1985年3月、ソ連共産党書記長に選出されたミハイル・ゴルバチョフは、フルシチョフの失脚以来封印されていたソ連型社会主義の範囲での自由化・民主化に再着手した(ペレストロイカ)。それまで秘密のベールに包まれていたソ連共産党中央委員会にテレビジョンカメラを入れ、会議の模様を全国中継するなど、情報公開(グラスノスチ)も推進した。しかし、1986年4月に起きたチェルノブイリ原子力発電所事故を、西側に指摘されるまで官僚が隠蔽するなど、改革の不充分さも露呈した。この後、ペレストロイカは速度を上げることとなった。
ゴルバチョフによるペレストロイカは外交面でも2つの新機軸を打ち出した。一つが冷戦による緊張を緩和する新思考外交、そしてもう一つが東ヨーロッパの衛星国に対してのソビエト連邦及びソ連共産党の指導性の否定(シナトラ・ドクトリン)である。緊張の緩和については、1986年ソビエト連邦軍のアフガニスタンからの撤退を表明。翌年1987年には当時のアメリカ大統領ロナルド・レーガンとの直接会談(レイキャヴィーク会談)を実現させた。この会談では当時アメリカが進めていたSDI計画を巡ってレーガンと対立したが、当時の超大国同士が話し合いによって歩み寄りの姿勢を示すことが世界に対して示された意義は大きい。
シナトラ・ドクトリンに関してはゴルバチョフ就任当初から各国共産党に対して内々に示されていたが、1988年の新ベオグラード宣言の中でこれを明文化し、世界中に対してソビエト連邦が東欧諸国に対する指導制を放棄したことを表明した。こうしたソビエト連邦の変化に対していち早く対応したのがハンガリー人民共和国とポーランド人民共和国であり、この2ヶ国はいち早く民主化運動に乗り出し、1989年6月18日にはポーランドで自由選挙が開かれて統一労働者党が敗れて複数政党制が布かれ、ポーランド人民共和国は崩壊した。そして、1989年8月19日にハンガリーで行われた汎ヨーロッパ・ピクニックは、同年11月10日にベルリンの壁を破壊した。
ポーランド人民共和国の崩壊を皮切りに、東欧各国の共産党国家は次々と崩壊し、自由選挙と多党制を布く民主国家が次々と成立した。これら一連の東欧民主化革命に対しても、ゴルバチョフは早急な東西ドイツ統一と、それに伴う北大西洋条約機構(NATO)の拡大を警戒したのみで、ハンガリー動乱やチェコ事件の時のように、武力による民主化運動の鎮圧という立場を取らなかった。これは、中華人民共和国で1989年6月4日に発生した天安門事件が国際的な非難を浴びたことから、西側諸国からの非難と外圧を恐れて、強硬な措置を取れなかったと考えられる。また、ドイツ民主共和国(東ドイツ)の指導者だったエーリッヒ・ホーネッカーに対する警告のように、既にゴルバチョフ自身が旧態依然とした東欧の指導者達に対し見切りを付けていたという事情もあった[1]。
バルト三国の独立と8・19クーデター
テンプレート:Seealso 東欧民主化革命は、ソビエト連邦に対しても連邦制の動揺という形で跳ね返って来た。第二次世界大戦中にナチスドイツとの密約によってソビエト連邦に併合されたエストニア、ラトビア、リトアニア(バルト三国)の独立要求である。こうした連邦内の動揺に対して、ゴルバチョフはソビエト連邦の国内改革によって事態を収拾しようと試み、1990年に連邦に対しての強大な権力を与えた大統領ポストを創設し、自らソビエト連邦初代大統領(結果的に最初で最後の大統領)に就任した。
バルト三国の独立については、東欧諸国とは違いソビエト連邦軍を投入し武力で鎮圧する立場を取った。同時にゴルバチョフがこれらの国に入って市民と対話しようと試みるも、ソビエト連邦軍の介入によって逆に独立感情が高揚。結局リトアニアが1991年3月に、エストニアとラトビアは8・19クーデターの翌日8月20日に独立を宣言し、従来の15共和国による連邦体制は崩壊した。なお、エストニアでは実際には独立宣言ではなく「独立確認」という形式がとられた。これに関して、「エストニア議会の理解では、50年に及ぶソビエト連邦による占領にも関わらずエストニア国家は法的に『存続』したのであり、改めて『独立』宣言することの矛盾が容認できなかった」ためとする説がある[2]。そして、1991年7月1日には、ソビエト連邦が主導して設立されたワルシャワ条約機構が廃止された。
1991年8月19日、守旧派の党官僚によるソ連8月クーデターの失敗は、ソビエト連邦とソビエト連邦共産党の崩壊を決定的にした。8・19クーデターでは、モスクワ市民は、チェーカー(KGBの前身)の設立者であるフェリックス・ジェルジンスキーの銅像を引き倒した[3]。クリミアでの軟禁を解かれたゴルバチョフは、直ちにソ連共産党の活動停止を指示した。こうして、1898年に「ロシア社会民主労働党」という名称で設立され、世界最初の共産主義政権を打ち立て、全世界の共産主義政党をリードしたソ連共産党は、ついに廃止された。ゴルバチョフの求心力は決定的に失墜し、代わって反クーデター運動をリードしたボリス・エリツィンが、新生ロシアのリーダーとしてその存在感を大きなものにしつつあった。
独立国家共同体の設立
8・19クーデター終結後、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国もソビエト連邦からの離脱を国民投票で決定し、12月8日に急遽行われたロシア共和国、白ロシア、ウクライナの代表者による秘密会議においてベロヴェーシ合意が宣言され、3ヶ国のソビエト連邦からの離脱とEUと同レベルの国家の共同体の創設が確認された。その後の12月21日、ロシアを初めとした12共和国によって、ソビエト連邦に代わる新しい枠組みとして独立国家共同体(CIS)が設立されたことで、ソビエト連邦はその存在意義を完全に喪失した。
こうした中で、12月25日19時の会見で、ゴルバチョフはソビエト連邦大統領の辞任を表明し、辞任と同時にクレムリンに掲げられていたソビエト連邦の「鎌と鎚の赤旗」も降ろされ、これに代わってロシア連邦の「白・青・赤の三色旗」が揚げられた[4]。
世界への影響
西側諸国の容共政党の混乱
かつてソビエト連邦は「労働者の祖国」と呼ばれたが、実態は正反対であり、労働者はもとより国民の自由が暴力で抑圧された全体主義国家であった。
ソビエト連邦が崩壊すると、それまでクレムリンやソビエト連邦共産党から資金援助されて来た世界各国の共産党は、大混乱に陥った。日本国内おいては1950年代からソビエト連邦の干渉を徹底して拒否してきた日本共産党は独立国家共同体が成立した1991年12月21日に、「歴史的巨悪だったソ連共産党の解体を両手を挙げて歓迎する」という声明を出した。一方東側諸国の立場を代弁していた日本社会党左派は大きな痛手を蒙り、その後の大幅な衰退の一因となった。
西ヨーロッパ諸国の共産党にも大きな影響が及び、フランス共産党はその影響力を減少させ、元からソ連と距離をおいていたイタリア共産党は社会民主主義政党に転換した。また、西側の社会民主主義政党は、「第三の道」と呼ばれる中道・リベラリズムに近い方向へ路線転換を図っていった。
東欧革命を反スターリン主義革命に転化できなかった日本の新左翼は敗北したと言われた。
アメリカ合衆国による一極支配
アメリカ合衆国と唯一互角に戦えると思われていたソビエト連邦の崩壊によって、アメリカ合衆国は名実共に唯一の超大国となった。それに伴い、アメリカ合衆国による「一極支配」と呼ばれる時代が本格的に始まった。
ヨーロッパ
ソビエト連邦が崩壊すると、ソビエト連邦と共産党一党支配に抑圧されて来た東ヨーロッパ諸国は、西ヨーロッパへの親近感を深め、EU(欧州連合)への加盟運動が起こった。この結果、EUは民主化革命以来脱共産化を推進した東ヨーロッパにも加盟国が拡大し、政治面では自由を獲得し、経済面では連帯が進み、ヨーロッパからは戦争と圧制の気配すら感じさせない雰囲気が醸成されている。
又、脱共産化を推進した東ヨーロッパ諸国は、ソビエト連邦による圧制を記憶し、共産党時代と決別することを目的として、ソビエト連邦の国旗と国章である「鎌と鎚」の禁止に乗り出している。
アジア
ソビエト連邦の崩壊によりロシアの力が弱まると、中華人民共和国はロシアとの国境問題解決に乗り出し、2004年にこれを解決すると近海の領海をめぐる紛争により強硬姿勢で望むようになっている。すると、ベトナムとアメリカ合衆国が接近し、1995年8月5日に和解を達成した。台湾(中華民国)では、1980年代後半のペレストロイカと東欧革命に刺激された民主化政策が進展し、1996年3月23日には国民党による一党支配が撤廃され、大統領制が施行された。
そして、核による平和は崩壊し、東北アジアでは北朝鮮核問題が緊張要素の一つになり、南アジアではインドとパキスタンが核実験を実施するに至っている。
中東
ソビエト連邦の崩壊により、連邦国内の多くのユダヤ人労働者がイスラエルに移民した。彼らの支持により左派労働党が政権を獲得し、イツハク・ラビンが首相に就任した。当時中東ではアメリカの仲介でイスラエル-パレスチナ解放機構(PLO)間の和平交渉が進められていたが、前政権の強硬姿勢により難航していた。しかしラビンは国際社会の経済援助を目当てに交渉を前向きに進め、1993年にオスロ合意が調印され、パレスチナ自治政府が設立された。これによりラビン首相、シモン・ペレス外相、PLOヤーセル・アラファート議長は翌年のノーベル平和賞を受賞した。
一方、中東戦争でイスラエルと戦ったアラブ諸国はソ連から援助を受けていたが、その多くはソ連崩壊後もロシアとの関係を継続している。2012年のシリア騒乱でも国際世論のアサド政権非難の中でロシアは政権支持の立場を崩さず、事態収拾の大きな足枷となっている。
ソ連崩壊のその後
ソビエト連邦は全体主義国家とも呼ばれたが、崩壊後しばらくは、一部の国民からソ連時代を懐かしむ声も上がったと言われている。最終的には破綻したものの、宇宙開発や軍事面においてアメリカと肩を並べる超大国に成長していた「偉大で強い祖国」だったソ連時代は、確かに国民は監視社会で窮屈だったが、一方で社会保障制度もある程度整備され、日常品も質は悪いが安い値段に抑えられるなど、収容所(ラーゲリ)で強制労働に従事させられていた政治犯や思想犯を除いた一般の人間にとっては、最低限の生活も保障されていた。
ソ連崩壊後のロシアでは、資本主義の急速な進行により、新興財閥など一部の富裕層以外は厳しい生活を強いられており、半ば外国資本にソ連時代の富を強奪されていると不満を感じる国民の間では、急速に愛国主義・民族主義が高まりつつある。
1990年代には、初期には民族主義政党のロシア自由民主党が大きく議席を伸ばし、その後自由民主党が凋落するとロシア連邦共産党が議席を伸ばし議会第一党になり、ボリス・エリツィン政権を脅かした。しかし、共産党が政権を奪取することはできなかった。
2000年にエリツィンからの禅譲によりウラジーミル・プーチン政権が登場すると、新興財閥解体や愛国主義的政策が国民に広く支持され、全体主義ならびにプーチン政権の与党である統一ロシアによる一党独裁(あるいはプーチン個人による独裁)への回帰が強まっている。2011年現在、国会に議席を持つ4党のうち、野党と呼べる存在はロシア連邦共産党のみである。ロシア自由民主党は政府に買収されており、公正ロシアは「第二与党」と言われている。この状況に対し、プーチンの後継者として大統領になったドミートリー・メドヴェージェフや、その下の首相として大統領との二頭体制を主導するプーチンをゴルバチョフは批判するが、ロシア国民の多くは二頭体制による生活の安定を支持している。
また、2000年代後半になると、豊富な天然資源により経済が好転し、再び超大国としての地位を取り戻しつつある。しかし一方で南オセチア紛争、シリア動乱などロシアの影響力低下が西側諸国の攻勢に繋がっている。
ソ連崩壊後に出現した政権は、いずれも市場経済化を標榜した。ただし市場経済への移行は一朝一夕には進まず、東欧では1990年代を通して経済状況が進展しなかったことから、モルドバなどにおいて、東欧革命によっていったんは退席した旧共産党系政権が政権の座に復帰する事態もしばしば現れた。
ただし2000年代中頃までの中期的な視野に立って見た場合、ソ連の衛星国だった東欧諸国の市場経済化はおおむね達成され、2004年にはスロベニア、ハンガリー、チェコ、スロバキア、ポーランドとソビエト連邦構成諸国家のうちバルト三国のリトアニア、ラトビア、エストニア、合わせて東欧7ヶ国がEU加盟を果たした。2007年には、ルーマニア、ブルガリアもEUに加盟し、かつてのソ連の衛星国はすべてEUの一員となっている。特にスロベニアは既に国民一人当たりのGDPがポルトガル、ギリシャを上回っており、スロベニア系企業の東欧諸国への進出も活発である。
またCIS諸国の中では、ウクライナではソ連型社会主義への回帰をはっきり謳うウクライナ共産党が一定の勢力を維持している一方で、2004年大統領に就任したヴィクトル・ユシチェンコは将来的なEU入りを掲げている。しかし、その後の選挙で親ロシア派政党が政権をとるなど、再びロシアが影響力を強めている。
宗教の復活
ソビエト連邦崩壊による最も顕著な変化の一つとして、宗教の復活も挙げられる。
ソビエト連邦政府は、無神論を掲げて全宗教を弾圧していた。特にロシアで最大の宗教組織であるロシア正教会をはじめとした正教会と、それに次ぐ規模を持つイスラームの被害は大きかった。またウクライナ東方カトリック教会も大きな弾圧に遭っている。ロシア正教会においては、救世主ハリストス大聖堂、カザン・クレムリンの生神女福音大聖堂など、大規模な記念碑的大聖堂が爆破・破壊されていき、各地の小さな聖堂も破壊されるか世俗的な目的のホールに転用されるかした。ソロヴェツキー諸島のソロヴェツキー修道院は強制収容所に転用されていた。
人的弾圧・被害も甚大なものであり、1921年から1923年にかけて、主教28人、妻帯司祭2691人、修道士1962人、修道女3447人、其の他信徒多数が処刑されたとする文献もある[5]。日本正教会の京都主教を務めていたことのあるペルミの聖アンドロニクは、生き埋めにされたうえで射殺されるという特異な最期を遂げたことで知られている。
こうした弾圧は長きにわたって続いたが、ペレストロイカによってかなり緩和された。ソ連崩壊前の1988年に、ウラジーミル1世の988年の洗礼を記念する「ロシア正教千年祭」をロシア正教会が大々的なイベントを伴って祝うことが許可されたのはその一環だった。
ソ連崩壊後は弾圧によって衰えた教勢が一気に回復し、ロシア正教会は復興を遂げた。復興したのはロシア正教会・グルジア正教会といった各地の正教会のみならず、イスラームや東方典礼カトリック教会も同様である。救世主ハリストス大聖堂は再建され、またカザン・クレムリンでも正教会の大聖堂とイスラームのモスクも両方再建され、こうした宗教復興を印象付ける光景を現出することとなった。
世界的な影響
ソ連崩壊後、経済面ではグローバリゼーションが進み、ロシアも含めた世界総資本主義化とも言うべき現象が起きた。ヒト・モノ・カネは国境を越え、自由に活動するようになった。
文化面でも、ヒップホップなどのアメリカのポピュラー音楽が冷戦時代以上に世界中で普通に聴かれるようになり、日本のマンガやアニメも21世紀に入って世界で広く受容されるようになった(日本化)。コンピューターゲームのソフトも日本、アメリカなどソフトがつくられた国を問わず世界中の人々に遊ばれている。食文化もファーストフードの普及で、また、服飾文化もファーストファッションの普及で大きく世界的に変わった。
しかしそれは経済的な格差の世界的な拡大と、文化の均一化を意味し、それまで持っていたそれぞれの国の独自性を徐々に淘汰し始めている。
脚注
- ↑ ゴルバチョフは10月の建国40周年記念行事で東ドイツを訪問した際、「遅れてくる者は、人生が罰する」と述べ、当時続いていた自国民の西側脱出の阻止や民主化運動の鎮圧に武力行使も辞さなかった東ドイツ指導部を強く牽制した。 ドイツ大使館東京(在日)ホームページ 「ベルリンの壁崩壊20周年記念講演」フォルカー・シュタンツェルより[1]
- ↑ 参考文献:小森宏美・橋本伸也『バルト諸国の歴史と現在』(ユーラシア・ブックレット37)p.46。東洋書店、2002年。
- ↑ 読売報道写真集1992 107頁
- ↑ 朝日新聞 1991年12月26日付夕刊15頁
- ↑ 参考図書:高橋保行『迫害下のロシア正教会 無神論国家における正教の70年』教文館、1996年
参考文献
- Revolution 1989, The fall of the Soviet Empire, Victor Sebestyen, Phenix, London, 2009, ISBN 978-0-7538-2709-3
- 東欧革命 1989 ソ連帝国の崩壊 ヴィクター・セベスチェン著 三浦元博 山崎博康訳 白水社 ISBN 978-4-560-08035-1