中国国民党
中国国民党(ちゅうごくこくみんとう、正体字:中國國民黨、英語:Kuomintang of China、KMT、Chinese Nationalist Party)は、中華民国(台湾)における政党である。
略称について、冷戦 時代には「国府」と呼ばれたこともあったが、現在では国民党が一般的。英語名の略称は「Kuomintang」(クォミンタン。「国民党」の中国語発音)を略した「KMT」である。
概要
1919年10月10日、孫文が中華革命党を改組して結党した。
ポツダム宣言(第二次世界大戦終結)に基づいて1945年10月25日に中華民国が台湾を編入し、中国共産党との内戦を開いた中台両地域統治時代を経て、1949年10月1日に内戦で敗れた中華民国政府が台北に遷都した1949年12月7日以後は、台湾を地盤とした政党として存続し、台湾への土着化(台湾化・本土化)を経て今日に至っている。
2000年に民進党の陳水扁総統が就任し、史上初めて野党となった。2001年には立法院(国会)第1党の座も奪われた。しかし、2008年に国民党の馬英九総統が就任し、立法院第1党も奪回、政権与党に復帰した。
台湾及び福建省のごく一部のみを基盤とした政党となって久しく、党の精神的支柱として今なお孫文を党総理とし[1]、また蒋介石を崇めており、「中国」の政党としての建前は捨てていない。李登輝時代に党の台湾化いわゆる「本土化」が一定程度進んだが、李登輝が総統を退任した2000年頃からは党内「本土派」が退潮し、連戦が党主席に就任してからは「中華民族アイデンティティ」を強調する傾向に回帰している。
孫文と蒋介石が日中戦争の前から日本と関わりが深かったこと(敵としても友としても)や、冷戦時代に反共主義を名目とする一党独裁与党の時期が長かったこともあって、日本の政界とりわけ自民党とのパイプは民進党より太く、親日[2]であり知日派を多く擁している。国民党の公式ウェブサイトには、開設初期から中国語版、英語版と並んで日本語版がある。
歴史
黎明時代
1894年11月、清朝を打倒し共和制国家樹立を目的とした興中会が孫文を中心としてハワイで結成された。興中会はたびたび武装蜂起を試みたが失敗した。
1905年8月には清朝を打倒することを目指して結成されていた結社が大同団結することで合意し、興中会、華興会、光復会が合併して日本の東京で中国同盟会が結成された。中国同盟会は機関紙の『民報』を発行し、孫文は三民主義の思想を発表した。
1911年10月には武昌起義が起こり、翌1912年1月には南京で中華民国が成立、孫文を臨時大総統に選出した。2月には宣統帝(溥儀)が退位し、辛亥革命が成り、清朝は滅亡した。同年8月には中国同盟会を中心として統一共和党、国民公党、国民共進会、共和実進会等が合併して国民党が結成された(この1912年に設立された国民党は本記事の中国国民党とは別の組織であると認識されている)。
1912年12月から翌1913年2月にかけて実施された国会選挙では国民党が第1党となったが臨時大総統に就任していた袁世凱に警戒され、国民党の主要人物であった宋教仁は上海で暗殺された。反発した国民党員は袁世凱打倒のため武装蜂起を試みるが失敗に終わり、主要党員の多くは海外に逃亡、残った党員も弾圧されて国民党は破滅状態になり、11月には国民党に解散命令が出された。日本に亡命した孫文は1914年7月、東京で中華革命党を結成した。この中華革命党において孫文は党員に対して絶対服従を要求した。
中国大陸時代
1919年10月10日に活動が停止していた中華革命党を改組する形で中国国民党が結成された。本部は上海に置かれ[3]、党総理には孫文が就任した。
第一次世界大戦後のパリ講和会議によってドイツから山東省権益が日本に譲渡されたのを受けて、中国全土で「反日愛国運動」が盛り上がった。この運動以降、中国の青年達に共産主義思想への共感が拡大していく[4]。陳独秀や毛沢東もこのときにマルクス主義に急接近する。この反日愛国運動は、孫文にも影響を与え、「連ソ容共・労農扶助」と方針を転換した[5]。旧来のエリートによる野合政党から近代的な革命政党へと脱皮することを決断し、ボルシェビキをモデルとした[6]。実際に、ロシアからコミンテルン代表のボロディンを国民党最高顧問に迎え、赤軍にあたる国民革命軍と軍官学校を設立した。それゆえ、中国共産党と中国国民党とを「異母兄弟」とする見方もある[7]。他にもソビエト連邦共産党のシステムを学び、ソビエト連邦と同様の党国体制を布いた。
1921年に中国共産党が樹立されると、中国国民党は民族主義の立場から反共主義をとった。
1922年のコミンテルン極東民族大会において「植民地・半植民地における反帝国主義統一戦線の形成」という方針採択を受けて、1923年1月にはソ連との連帯を鮮明にした「孫文・ヨッフェ共同宣言」が発表される[8]。1923年6月の中国共産党第3回全国代表大会においてコミンテルン代表マーリン指導で、国共合作が方針となった[9]。1924年1月20日には、中国共産党との第一次国共合作が成立し、軍閥に対抗するための素地が形成された。
孫文の死後、1925年に上海で発生した五・三〇事件を背景にして、汪兆銘を主席とする広東国民政府を樹立、1926年には、北伐を開始した。1927年に、蒋介石の上海クーデターにより国共合作は崩壊したものの、北伐は継続され、1928年6月9日には北京に入城し、北京政府を倒すことに成功した。
北伐の完了を受けて、1928年、南京に蒋介石を主席とする国民政府が成立した。しかし、その内実は、北伐の過程で、各地の軍閥を取り込んだ、雑居政党となっており、それらを整理しようとする蒋介石の動きを1つの契機として、中原大戦(1930年5月1日~10月10日)を頂点とする、党内対立の激化が起こり、最大の危機を迎えることになる。
1932年には、強大な軍事力とブルジョアジーの支持を背景に、蒋介石はなんとかその危機を乗り越えるが、他方で、その間の中国共産党の勢力回復や満州事変以降勢力拡大する日本軍に脅かされることになる。
蒋介石は、抗日戦より反共主義を優先し、1930年から1934年にかけて、5次にわたる反共囲剿戦(掃共戦)を繰り広げるも、共産党は井崗山の革命根拠地を撤収・放棄して長征を行ったことから共産党を亡ぼすには至らなかった。この頃の国民党軍はドイツ国防軍からファルケンハウゼンを軍事顧問として招き精鋭化されていた。1936年には、なおも抗日戦における中国共産党との共闘に徹底的に反対していた蒋介石が軟禁され (西安事件)、これが、国共両党の接近をもたらした。1937年に日中戦争が開始され、同年 9月22日、第二次国共合作が成立。同年末に南京が陥落すると、国民党政府は重慶に移転し、日本軍による攻撃をしのいだ。
太平洋戦争期には遠征軍がビルマの戦いに参加し、10万名の戦死者を出した(抗日老兵)。
国共内戦
1945年8月18日に満州国が崩壊、1945年9月2日にはポツダム宣言受諾の調印があり、10月25日に台湾は国民党政府に明け渡され、旧満州国は国民党政府に返還され、日本軍は中国本土から撤退し、国民党政府は中国大陸と台湾の両地域を領土とした。しかし、1945年11月から国共内戦が再開されるが、国共内戦中に法幣を濫発した事が災いして、ソビエト連邦政府が支援する共産党に対して劣勢に陥り、1949年10月1日 には国民党政府は内戦に敗れ、台湾島に逃れた。このため、中国国民党の実質統治範囲は、建国以来の福建省(馬祖・金門)と、1945年の日本降伏後に連合国として統治していた 台湾島一帯だけとなった。
国共内戦で敗北すると大多数の人物が台湾に逃れたが、四川・雲南方面の部隊は タイ、ミャンマー、ラオスなど東南アジアに逃れ、東南アジアの政治的混乱に乗じる形で抵抗拠点を築いた。
特に内戦の激しいミャンマーでは、同政府の支配が事実上なされていないシャン州に逃れた。有力なワ族など少数民族と連携し、同州を大陸反攻の拠点として占拠した。麻薬生産等にも関わって勢力を拡張した時期もあり、アメリカはCIAを用いて公然と国民党軍(KMT)への支援した。支援は大規模なものであり、同州内に飛行場や軍事基地が構築された他、輸送機による物資・人員の補給も活発に行なわれていた。
当時、1950年代のビルマ政府は少数民族の武装蜂起やビルマ共産党の政権からの離脱などが相次いでいた。KMTのシャン州での占領はビルマの動揺を増幅するものであった。当時のウー・ヌ首相は、国際連合において、KMTのシャン州占領を不法行為とみなし、KMT将兵の国外退去を要求している。また、後に政権を獲得する事になるネ・ウィン国防大臣は、少数民族の反乱を鎮圧にこぎつけたのを機に、シャン州のKMTの掃討作戦も開始。時には中国人民解放軍と連携して共同作戦を取って、KMT の追放に取り掛かった。
こうしたビルマ政府の反発によって、シャン州にいたKMT将兵の大半は台湾やタイなどに出国するか、地元に土着化していった。
台湾時代
台湾に本拠地を移して以降は長期的な視野では大陸との統一を主張しているが、共産党主導の統一には反発を示しており、短期的な視野では現状維持を志向している。
台湾移転後は一党独裁で政権を担ってきたが、1987年に蒋経国総統が政党結成を解禁したことにより(党禁)、一党体制は終結した。そして、1996年 には中華民国の国民による総統選挙に移行し、2000年の総統選挙で民進党の陳水扁に敗れて野党になり、2001年には立法院(議会)でも第2党になった。
2005年に国民党主席の連戦らが北京を訪問。中国共産党総書記・中華人民共和国主席の胡錦濤と会談した。両党トップの会談は1945年以来60年ぶりで、台湾独立反対という姿勢で一致した。
2008年に立法院第1党に返り咲くとともに、中国国民党の馬英九が総統選挙に勝利し、8年ぶりに政権与党の座に復帰した。
2012年の立法院選挙では第1党を守り、総統選挙でも再選を果たした。
組織
歴代の党首
代 | 姓名 | 肖像 | 在任期間 | 在任中の出来事 | 備考 | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|
就任 | 退任 | ||||||
1 | 孫文 (國民党理事長) |
80px | 1912年8月25日 | 1914年7月8日 | |||
1 | 孫文 (中華革命党総理) |
80px | 1914年7月8日 | 1919年10月10日 | |||
1 | 孫文 (永久総理) |
80px | 1919年10月10日 | 1925年3月12日(逝去) | |||
2 | 張静江 (中執委常委會主席) |
80px | 1926年5月19日 | 1926年7月6日 | |||
3 | 蒋介石 | 80px | 1926年7月6日 | 1927年3月11日 | |||
4 | 胡漢民 | 80px | 1935年12月7日 | 1936年5月12日(逝去) | |||
5 | 蒋介石 (永久総裁) |
80px | 1938年4月1日 | 1975年4月5日(逝去) | |||
6 | 蒋経国 (中央委員會主席) |
80px | 1975年4月28日 | 1988年1月13日(逝去) | 十大建設 を推進。1987年7月14日、戒厳令を解除し、政党結成を自由化。 | 浙江省 生まれ。国防部長、行政院長(首相)を経て、1978年総統。 | |
7 | 李登輝 | 80px | 1988年1月27日 | 2000年3月24日 | 1991年、動員戡乱時期臨時条款を廃止、国家統一綱領策定。1996年、初の総統直接選挙を実施。同年、台湾海峡危機。1999年、二国論(両国論)を提唱。 | 1971年入党。台北市長、台湾省主席、副総統を経て、1988年総統。2000年総統選敗北の責任をとって辞任後、台湾団結連盟結成。2001年、党籍剥奪。 | |
8 | 連戦 | 80px | 2000年3月24日 | 2005年8月19日 | 2001年3月の党主席選挙で初の党員直接選挙を実施。同年12月に訪日(党主席の訪日は初)。2005年4月、北京で胡錦涛共産党総書記と60年ぶりの国共トップ会談。 | 蒋経国政権で 交通部長、行政院副院長(副首相)、李登輝政権で外交部長、行政院長(首相)。1996年副総統。2000年総統選、2004年総統選にいずれも惨敗。2005年から党名誉主席。 | |
9 | 馬英九 | 80px | 2005年8月19日 | 2007年2月13日 | 党政治綱領を改訂し、「九二共識」の受入れ、「一国二制度」の反対を盛込む。2006年3月、党本部ビルを売却。同年4月、両岸経済貿易文化フォーラム発足。同年8月、党資産の情報公開。 | 蒋経国総統の英語通訳、李登輝政権では台北市長、法務部長。2008年から総統(現職)。 | |
10 | 呉伯雄 | 80px | 2007年4月11日 | 2009年10月17日 | 2008年5月、台湾の与党党首として初めて中国を訪問し、胡錦濤 中国共産党総書記と初会談。2008年12月に訪日。 | 李登輝政権で内政部長、台北市長、総統府秘書長など歴任。2009年から党名誉主席。 | |
11 | 馬英九 | 80px | 2009年10月17日 | 現職 | 2010年6月、中国との間で両岸経済協力枠組協議(ECFA)を締結。 | (相同) |
党役員
※2013年時点
現在の党首(党主席)は、馬英九総統が兼任している[10]。 副主席は詹春柏、林豊正、蒋孝厳、曽永権、洪秀柱、黄敏恵。秘書長(党幹事長に相当)は、曽永権。
連戦と呉伯雄の両元主席は「名誉主席」の称号を与えられている。
脚注
- ↑ 国民党で「総理」と呼ばれるのは孫文のみ。党首は「主席」。
- ↑ 親日派は売国奴であると認識している党員もおり、李登輝が日本の主張を容認するような発言をたびたび行っていることが物議を醸している
- ↑ 深町英夫 テンプレート:PDFlink 88頁。
- ↑ 天児慧『巨龍の胎動 毛沢東VS鄧小平』<中国の歴史 11>(講談社、2004 年)61 頁
- ↑ 天児慧同書 63頁
- ↑ 天児慧同書 63頁
- ↑ 天児慧 同書 63 頁
- ↑ 天児慧 同書 64頁
- ↑ 天児慧 同書 64頁
- ↑ 党主席の選出方法は 2001年3月に初めて党員直接選挙で実施された。